【東京】定例研究会報告 神習教直轄宮比教会における芸能

令和5年2月18日に開催された民族文化研究会東京地区第33回定例研究会における報告「神習教直轄宮比教会における芸能」の要旨を掲載します。 

はじめに

 明治初期の国民教化運動は大教院を中心に神官・僧侶を教導職に任命することで全国的な広がりを見せた。後には石門心学者や淘宮術師、二宮尊徳門下の報徳思想家など神官僧侶以外にも教導職を任命し、俳諧師などの芸能活動家もまた国民教化を担うことになる。国民教化を管轄していた教部省は民衆に大きな影響を与える歌舞伎や講談、落語などの芸能についても統制、あるいは教化運動に動員しようとしていたが結果的には果たせず、神仏合同での国民教化もあっけなく終了した。教導職となっていた仏教側・僧侶以外の者たちの多くはその後神道側につき、例えば俳諧師などは教派神道教団の傘下として神道芭蕉派などの教会・講社を開設するに至っている。

 こうした芸能関係者が国民教化と関係を持ったのは、それぞれの芸能が「芸道」、道学であるという自負があったことも一因であろう。(これについては以前、民族文化研究会において「三条教則」が当時「道学」として自負していた茶道や華道等に影響を与えた可能性を考察した。)また、それと同時に伝統芸能が同じく伝統的な信仰と親和性が高かったことも理由の一つだと考えられる。芸能関係者の中には、教導職制度が終了して以降にも教派神道の教師として資格を取った者も少なくなかった。

 しかし、石門心学や淘宮術なども含め、そもそも宗教とは別だった物を宗教と結びつける時、両者の関係についてどのように関連付けて教義を整備するかという問題がある。例えば近年、神社において一般参拝者も参加できるような和歌・短歌・俳句の会のようなものが設けられることがあるが、これはあくまで一種のイベントであり、神社においてこうしたことを行うことがその神社の信仰や奉ずる教義と直接的に関わることは稀であろう。対して明治初期に誕生した神道教会では、例えば明倫講社や教林盟社等の様に、俳諧と教義が直接結びついていた。俳諧系に限らずこうした部分は、それぞれの教会によって多様な姿を見せており、個別に見ていくことも神道を考える一つの材料になるかと思われる。

 本稿で取り上げる「神習教宮比教会」は文学、音楽、俳優、講談などの「みやび」な芸能に身を置く人々の為に設置されたと言って良い神道教会である。誕生したのは既に教導職制度も終了した明治二十年代だった。この教会について俯瞰し、「みやび」な芸能との関連を見ることで、近代における神道史・芸能史の一側面を考えてみたい。

宮比教会の設立

 宮比教会において重要人物となるのが菟道春千代と宮崎玉緒である。両者は宮比教会の前に「雅学協会」というものを設立しており、そこから教会設立に至ったものと考えられる。

 菟道春千代は明治から昭和にかけて活躍した作家で、元々は医師の家に生まれた。しかし幼少期には商家に奉公し、そのうち芸術や国文学の方面に関心を示した。明治十年代からは多くの著作を残すことになる。その分野は食事療法や髪型の解説本など多岐に渡り、特に唱歌に関しては多くの「唱歌集」を残している。その菟道が国学の師と仰いだのが宮崎玉緒だった。

 宮崎玉緒は別名を桜戸玉緒と言い、研究者でもあった。宮崎玉緒は文政十一年(1828)五月七日に医師・榊光慶の家に生まれ、若くして宮崎家に養子に入り、宮崎大和介を名乗った。元治慶応の頃からは仁和寺宮となっていた後の小松宮彰仁親王に侍医として奉仕し、戊辰戦争の際には戦地にも同行している。この時に親王から「玉緒」の名を賜った。その一方で国文学や和歌、皇典などを研究した国学者としての一面もあり、特に言霊や音曲に詳しく、弘化二年に二弦の琴を発明し「祝琴」と名付けた。現在では「八雲琴」と呼ばれる二弦の琴は伊予の医師・中山琴主が発明したとの説が一般的であるが、宮崎玉緒がこの祝琴を中山に授けたことが八雲琴誕生に繋がったという。

 文化面で多くの活躍をした宮崎玉緒だが、その中でも「桜」に関する業績が大きい。江戸時代、「櫻は皇国の尤物にして異国にはなし。是をゑがくは國民の操ならむ」として桜を描き続けた三熊思孝(介堂)と、その妹・三熊露香、弟子の尼僧・織田瑟々らの画家を「三熊派」と言い、多くの桜画を残すとともに各地の桜について文化的な研究を続けていた。その中でも織田瑟々は榊光慶と昵懇で、光慶は瑟々から多くの桜画を譲り受けたという。この縁から宮崎玉緒は桜画を三熊派に影響を受け、小松宮に仕える一方で桜の研究に没頭した。明治五年には京都平野神社の神官となっている。現在では桜の名所となっているが、この平野神社の桜を整備したのは宮崎玉緒だったという。

 こうして文化人として名を馳せた宮崎玉緒には本庄宗武や寺島宗則、本居豊穎や芳村正秉など多くの著名人が桜画を求めたという。

 

 ところで菟道春千代は西洋文明が流入する明治において、和歌や短歌、漢詩をはじめとする伝統的な文化を興隆するため、これらを総じて「雅学」と称し、本庄宗武と共に「雅学協会」を設立している。ここには俳諧師から漢学者など、「雅学」に通ずる多くの者が参加しており、協会が発刊する雑誌「雅人」には多くの作品が掲載された。また、会長の本庄宗武をはじめ丸山作楽(後の御嶽教顧問)や大関克(元・開知新聞編集長)、磯部最信(神道大成教管長)など神道関係者も多く関わっており、ここから神道教会を設立するノウハウも容易に知る事ができたように思われる。

 

 この雅学協会の本部は東京(当初は本庄邸)にあったが、当時京都に居た宮崎玉緒は顧問員という形で席を置いていたようだ。明治二十三年、菟道はその宮崎を東京に招いている。宮崎には後を継ぐ者がなく、桜画の散逸などを防ぐこと、また当時発布された教育勅語に影響を受けて立ち上げた雅学協会興学部の講師として会員に国文学や画学を教授することを目的としたものだった。明治二十三年十一月三十日に東京に着いた宮崎はその後数年間東京に留まることになる。

 この宮崎上京の翌年、明治二十四年に「宮比教会」設立に向けて動き出したようで、創立事務所に発起人として菟道と宮崎が名前を連ねている。そして明治二十五年三月三日、菟道春千代は神習教の芳村正秉管長の添書と共に東京府へ「宮比教会」の開設願を正式に提出した。三月八日には神習教直轄宮比教会の開設が認められ、代表者は少教正・菟道春千代となっている。

宮比教会の教義・規則

 こうして設立された宮比教会だが、その名称の通り「宮比神」を神習教本祠大神と共に祀っていた。教会設立の前年、明治二十四年の『雅人』に掲載された『宮比教会規則』では三条教則を遵奉することともに「宮比神の起し始めたまひる「みやび」の道を以て其身の営業とする者の心神を善良ならしめ弊を矯め風を美ならしむるを以て本教の主眼とす」としている。

 宮比之大神とは天岩戸神話でもお馴染みの天宇受売命(大宮能売命)のことで、平田篤胤の『宮比神御伝記』においても言及されている。現在も芸能の神様として祀られている神社もあるが、宮比教会では先の『宮比神御伝記』を引用して岩戸神話での行為が琴や笛、太鼓等々の楽器や舞踊、神楽の起源としており、また、明治において演劇役者のことを俳優と言うが、これも岩戸神話における宮比大神の踊りが神々を楽しませ、暗き世において面を白く(おもしろく)させた「俳優(わざおぎ)」から来ているとしている。

 さらに、岩戸神話において宮比神が歌ったとされる「ひとふたみよ、いつむなな、やここのたり、ももちよろず」の六言四句が「歌という歌の始め」だとし、和歌、連歌をはじめとした俳諧や発句、地口を含めて吟じるもの、ひいては催馬楽などの謡物、浄瑠璃節に至るまで宮比神が起源だとしている。

 ともかくも文章、音楽、舞踊など、人々を楽しませる文化的な物は全てこの宮比神の御神徳を被っているとされた。

 なお宮比教会では、こうした「みやび」の道に身を寄せる者として仮に次の五門を設置している。

 

一、文雅門 此門は和歌。狂歌。俳句。狂句。冠句。俚歌等を始め其他総て文雅に属するもののために設く

一、歌謡門 此門は謡曲浄瑠璃を始め長唄。端歌。一中、河東、富本、薗八、常磐津。清元。岸澤。敦賀等を始め其他総て歌謡に属する者のために設く

一、俳優門 此門は能。狂言。演劇を始め舞。踊。野呂松狂言。身振狂言俄狂言。茶番狂言等其他総て俳優に属する者のために設く

一、楽曲門 此門は神楽。雅楽能楽を始め琴曲。絃曲。笛曲。鼓曲等其他総て楽曲に属する者のために設く

一、綺語門 此門は軍談。講釈。落語。軽口等其他総て綺語に属するもののために設く

 

 各門にはそれぞれ「総て」という語がつく通り、総ての芸能は宮比神の「御神業に似肖り」たるものなのである。

 明治二十五年に発刊された宮崎の『宮比之大神略御神徳記』においても、本教(宮比教会)の大理として宮比神が「大いに礼楽を起して之を調和親睦の基と為したまへる事は此岩屋戸の御伝にて明なり。漢土の聖人も礼楽を以て天下泰平の大典とせしが就中吾 皇国に於ては礼節の大いに行われたるも此岩屋戸の如く和楽の盛事を以て和したれば一も偏倚せざりしが故に国家も久しかりしなり」とし、この広大無辺な神徳を有する宮比神を「諸道の守護神」として祀ることで、家業繁栄、芸道上達などの福利が得られるとされている。

 ここで宮崎は宮比神の功績について「漢土の聖人」の例を出しているが、菟道もまた「雅人論」という寄稿の中で、雅学に身を置く者(雅人)が僧侶と同じく社会から無用の物として思われている現状を憂い、そもそも雅学が「抑も西洋は暫く措き、我が東洋中殊に日本及び支那の如きに於ては古来専ら此学を以て治道の具となし大いに風教を助け以て国民を薫陶せしや既に明らかなり。聖賢曾て詩の叙に云る言あり曰く、之を言ふものは罪なく、之を聞くものは以て自ら戒むるに足る。故に風は一国を以て一人に繋ぐ。天下の事を言ふて四方の風を形す。詩の治道の益あること以てしるべし、と」と言及している。宮崎も菟道も、漢土の聖賢の言葉を引用する形で礼楽・芸能が国民の風教に影響し、国家を治めることに関わるものとしているわけである。

 両者が起こした宮比教会ではそのことを教規にも記しており、先の宮崎の御神徳記に付属した教会規則では第一条で二十四年の「雅人」掲載の規則と同様の事を述べた上で「社会に生ずる所の悪弊を矯正し美風を醸成して「みやび」の本意に叶わしむるを以て本会の主眼とす」とある。

 このように宮比教会においては、芸能の祖神たる宮比神を祭ることで芸能関係者が御利益を得られるだけでなく、芸能それ自体が社会を善良にするために有益なものとされていたのである。

宮比教会の活動

 こまで宮比教会の規則などを中心に見て来た。では実際に宮比教会はどのような活動を行っていたのであろうか。

 明治二十五年四月三日、神田錦輝館において宮比教会主催の「八橋検校二百年祭」が開催されている。このイベントは宮比教会の設立発会式・春季大祭も兼ねて行われた。八橋検校は箏の大家として知られる江戸時代の人物であるが、この二百年祭の趣意書では「夫れ琴ハ霊幸ふ神の世にありて天之岩戸開のとき畏こくも 天之宇受女之命亦の御號 宮比之大神が其神樂の長と成給ひ八百萬の神と共に奏でたまふ樂器の本とて弓六帳を並べ菅を採て掻き鳴し玉ひしぞ始めなりける」と琴の起源が天の岩戸神話にまで遡るとし、その故事が後世には伝わらなかったものの、後には大和琴、筑紫琴というように発展し「純然たる日本樂器」となったが、特にその業を大成したとして八橋検校の偉功を讃えている。そしてこの度「彼の音樂及ひ俳優(わざおぎ)の御祖神たる 宮比之大神の神徳を発揚し且神恩に報ゆるため宮比教会設立の挙あるが故に右教会発会の式と相併せて」八橋検校二百年祭を大々的に行うと宣言している。

 この会の祭主は中教正・宮崎玉緒、会主は少教正・菟道春千代で、奉納演芸として「宮比之大神及び八橋検校の神霊へ奉納のため内外の差別なくあらゆる技芸音楽を集めて一大演芸会を催さんとす」と宣言している通り、多くの芸能者が参加する「神遊大演芸会」が開催された。

 

番組

「蕗の曲」「雲井の曲」(筑紫琴)  高野繁、吉住深山、松本操貞

「高倉院厳島還幸」(琵琶) 飯野幸巡

「榊の曲」(合奏) 吉住深山、松島糸寿、吉寅八代寿

「神国日本刀」(講談) 猫遊軒伯知

「明石の曲」(須磨琴) 新井立枝

「歌徳恵山吹 太田道灌高田の里」(常磐津節) 常磐津小文字太夫、同都大夫、同菊太夫、岸沢文字兵衛、仲藏

「演題未定」(落語) 三遊亭円朝

「三曲」(清楽合奏) 富田渓蓮 社中

「一の谷」(薩摩琵琶) 宮春巌治郎

「鞍馬獅子」(富本節) 大槻如電、高橋桜州、浪崎今輔、松本笠阿、永井素岳

「須賀の曲」(二絃琴) 富田渓蓮

「里の暁」(三曲合奏) 琴:高野繁、三絃:松島糸寿、松本貞操、胡弓:吉住深山、尺八:荒木古童

「佐倉の曙宗吾子別の段」(義太夫節) 豊竹駒太夫、鶴沢清六

「数十曲」(欧州吹奏楽) 東洋音楽隊

宮比神楽」(鎌田倉之助作新曲) 清元太兵衛、同栄寿太夫、同美家太夫、同梅吉、同菊助

「石橋」「松竹梅」(長唄) 杵屋六左衛門、喜三郎、栄造、吉住勝太郎

 

 出演者は当時の各界における名人・大物ばかりであり、かなり規模の大きい演芸会だったことが分かる。それだけ宮比教会に力を入れていたことが伺えるが、残念ながらこの八橋検校二百年祭以外で目立った活動は管見の限り見当たらない。

 宮崎玉緒は教会を開設した年に京都へ戻り、明治二十九年に死去した。最終的に階級は権大教正にまでなったという。菟道春千代はこの後も作家として活発な動きを見せているが元来体が弱かったらしく、教会設立の翌年、明治二十六年十二月頃には一週間続けて血を吐いたという。出版活動と健康問題のためか菟道の宮比教会としての目立った活動は見受けられない。

 神習教直轄宮比教会は、少なくとも昭和に入る頃までには消滅していたようである。

おわりに

 宮比教会は明治に一時期だけ活動した教会と言える。芸能を善良な社会に有用な「治道の具」であるとし、各種芸能を神道においてまとめようとしたものだったようにも見える。

 宮比教会は神習教の直轄教会であるが、これには以前の明治十七年、市川団十郎市川海老蔵が教導職試補の資格を得ているが関係していると思われる。これもまた神習教からの資格授与だった。また、多種多様な教会を包括した教派神道として神道本局や大成教がよく挙げられるが、神習教も御嶽講社や金光系教会、瑞烏園(烏伝神道)など幅広く教会を抱えており、宮比教会のような特殊な教会も受け入れる素地があったのだろう。

 

 明治期における神道界、特に初期の神仏合同布教の影響が響いていた教派神道界には他種多用な教会が設立されていた。こうした各教会の中には、現在から見れば奇異なものも多く含まれる。しかし維新開国によって目まぐるしく価値観や文化が変わる中において、神道の在り方を各人が模索していたのである。本稿の冒頭でも述べたが、この中で生まれた教義などは、神道を考える上での一つの材料になるかと思われる。

参考文献

『雅人』一~一六巻 (雅学協会)

宮崎玉緒『宮比之大神略御神徳記』(宮比教会本部、明治二十五年)

菟道春千代『平凡なる忠告』(東京右文館、明治四十四年)

菟道春千代「櫻戸玉緒翁」(『芳譚』第二年第四号 芳譚雑誌社、明治四十二年)

山田孝雄 「櫻史」(櫻書房、昭和十六年)

八橋検校二百年祭の趣意」(『朝日新聞』、明治二十五年三月十九日)

「神遊大演芸会」(『朝日新聞』、明治二十五年三月三十一日)

「桜花の名手桜戸玉緒翁」(『読売新聞』 明治二十九年十月三日)

市川団十郎海老蔵が教導職試補に任ぜられる」(『読売新聞』 明治十七年七月十五日)

八橋検校の二百年祭」(『日本音楽』日本音楽社、昭和三十二年)

神習教直轄宮比教会設立願』(東京都公文書館蔵)

神習教会直轄宮比教会』(東京都公文書館蔵)

 

神習教本祠・桜神宮