【関西】定例研究会報告 三条教則と芸道――茶道、華道、香道の一例

令和3年5月22日に開催された民族文化研究会関西地区第34回定例研究会における報告「三条教則と芸道――茶道、華道、香道の一例」の要旨を掲載します。

三条ノ教則ヲ定ム

  • 敬神愛国ノ旨ヲ体スヘキ事
  • 天理人道ヲ明ニスヘキ事
  • 皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムヘキ事

はじめに

 筆者は以前、俳諧師神道教会を設立した事例を紹介した。これはキリスト教防禦と国民教化のために明治政府が行った神仏合同布教に俳諧師が参加した後、宗教行政が変遷するにあたって俳諧師らは神道側であり続け、結果的に教会設立までに至ったというものである。そもそも俳諧師が参加する切っ掛けは彼等が「道学」に心を寄せているとされたからであった。神職や僧侶と共に道学を教諭することに慣れている者が参加すれば国民教化が促進するとの目論みがあったからである。そしてこの国民教化の根本規範となったのが「三条教則」だった。この三条教則は現在でも教派神道各派で大切にされているが、当時の俳諧神道教会もまた、三条教則を教導の中心に添えていたのである。

 その三条教則が、俳諧師以外の自らを「道学」と称する芸道に影響を与えた可能性を探ってみたい。

 従来この国民教化運動には人材不足を補うために俳諧師だけでなく、市川団十郎三遊亭円朝など歌舞伎役者や講談師といった芸道関係者が動員されたと言われてきた。これら芸道関係者が教導に参加、もしくはその意を汲んだ動きをしていたのは事実のようで、教導職の前座に講談師が説教を行ったり、教導に見合う演目が披露されたこともあったようである。文学においても仮名垣魯文教部省の意図に応じた『三則教の捷径』を刊行している。

 ただし、教部省と直接的な接点を持っていた仮名垣魯文はともかくとして、彼等が教導職に就任したのはその肩書がほぼ有名無実化した後だったように思われる。例えば市川団十郎神習教の信者となった上で同教からの資格授与だった。これは教導職廃止の一ヶ月ほど前のことである。

 このように教導職が公的に消滅に向かうような時代にあっても、その肩書はある程度の効力を発揮し、講談師などが教導職を名乗ることがあったという。それだけ「教導職」肩書の影響があったということであろうし、同じくその教導規範となった「三条教則」も道学界隈に一定の影響をもたらしたのではないかと考えられる。

 今回は芸道の中でも同時期に俳諧師と同じく自己を「遊芸」ではなく「道学」であると主張していた茶道、華道、香道を取り上げ、先行研究を参考にしつつ、その道学に三条教則を引用、または影響したと思われる例を見ていくことにする。

茶道

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   千利休が大成したとされる「茶の湯」は江戸時代を通して発展を遂げるが、幕末には遊芸化批判に晒されていた。その代表者としては、後に桜田門外の変で斃れる井伊直弼があげられる。井伊は茶の湯をあくまで厳格な道の追求だと主張して『茶湯一会集』でその茶の湯観を示した。こうした遊芸化批判に対して、裏千家の家元・玄々斎宗室も、茶の湯が本来人間の道徳を涵養する「道」であることを、茶の湯が生まれるきっかけでもある禅や、儒教五倫五常を取り入れて説明をしている。
 このように当時の「茶の湯」が世間に遊芸的な見方をされ、茶道側がその反論をしていた中で明治維新が起った。
 明治三年頃から京都府政府は遊芸稼人を把握し徴税する必要から、それぞれの家元に鑑札の取得を求めている。当然、遊芸ごとと見なされていた「茶の湯」の家元である三千家にも鑑札を取得するように通達が来た。これに対して裏千家の家元・玄々斎宗室は明治五年に『茶道ノ源意』を提出している。内容としては「茶道ノ源意」が「忠孝五常ヲ精励シ」、「朝恩ヲ奉戴」する教諭の道であるというもので、茶の湯が一種の道学であることを主張したものである。
 同年には三千家連名で京都府に口上書を提出している。茶道の源意者が忠孝五常を精励し、治世安穏之恩沢を忘却せず、一服の甜茶の規矩も仁義を旨としているとして、朝恩を頂き連綿と続くものだと主張、遊芸でないことを訴えた。
 これに対し当局もその主張を認めたのか「遊芸稼人」としての鑑札は免除している。
 以上の様に、幕末から維新初期にかけて茶の湯が道学であることが主張されていた。その流れの中で刊行されたのが『茶道為國弁』である。著者の千賀可蛟は東海地区出身の商人だったが国学を学び、後に明治帝が東海に巡幸された時には献茶役を任命されている。
 『茶道為國弁』は明治二十二年に発刊されたもので、内容的には茶道が国家にいかに有益かを説くものである。
 文中には「文明開化聖代の御世開け行まゝに、国中一般茶の礼道をまなはむとて、たふときもやしきもへたてなく、心さしのあなるハ政府より布令ありし三ケ条の事とも、津々浦々のものまでも体にんしたるゆゑとこそ覚えゆれ」とあり、ここで茶道が道学として説明する際に引用されたのが「三条教則」だった。
 千賀は「此三ヶ条の事ハ茶道をまなふものハ、かねてをしへきたりしに符号せり」と、三条教則の内容は茶道で元々教えられてきた事だと言う。
 例えば第一条については「皇国に生まれたるもの神を敬、国を愛せさるハなし」と言い、正月に御代を祝うのがその例だとする。ここでは鏡餅のイラストを使って説明されていて、橙は神璽、熨斗が宝剣、鏡餅は内侍所(神鏡)と、それぞれ三種の神器を模す説を唱えている。
 続いて第三条に対しては、茶席において勅筆を飾りて拝することが符号するとし、第二条の「天理人道ヲ明ニスベキ事」については、「天ハ天然理ハ条理人道明らかなるハ仁義禮智信是なり」と儒教五常を使い説明している。そして仁は客をもてなすこと、義は利休の自死、禮は茶道の源、智は己の分を弁えること、信は小堀遠州の教示を引用し来客対応が信実を元にすることが符号する云々と、それぞれの例を上げている。もはやこじつけにすら見える部分もあるが、ともかくも茶道が三条教則と合致した道学たることを主張しているのである。
 こうした道学志向は後に「大日本茶道学会」が設立された際の設立趣旨においても見られ、「抑も我国の茶道は珠光に始まり紹鴎に中興し利休に大成し、遂に以て一種の国粋的道学と成るに到れり」とあるが、どちらかと言えば儒教的道徳に即して茶道が説明されており、『茶道為國弁』が神道的敬神の部分に触れているのは特異的だったと研究者の熊倉功夫氏は見ている。ただし、神道的解釈を無理やり行ったというよりも、千賀の主題はあくまで「茶道はもともと道学であった」というものであり、三条教則は茶道より後から出されたものが茶道と符号していたという形での引用だった。
 いずれにせよ、明治前期の茶道界隈は停滞・衰退期にあり、中・小流派の家元の中には神職をやりながら糊口を凌いだ者もいたという。「大日本茶道学会」が設立されるとともに、女子教育の場などにも広まり、茶道の復興が進むのは明治中期頃からだった。
 そうした明治初期の模索期に、道学としての茶道の姿を表明した一つの形が『茶道為國弁』だったのだろう。

華道

 「いけばな」の直接的な由来は仏教伝来に見ることが一般的である。仏事の際の供花から、平安期には花を立てる文化がはじまり、花器の登場や「花合」「闘草」といった文化を経て定着していった。
 室町期には京都六角堂の僧侶・池坊専慶が立て花の名人として有名となった。この後多くの流派が誕生し競い合うようになるが、後に専慶の系譜を継ぐ池坊家が代表的な家元となる。江戸時代には大流行するも、維新直後には開化の流れも相まって旧習とされ「いけばな」は一時衰退した。しかし江戸末期までに作り上げた全国組織は強く残っていたようで、明治十年代からは各地に向陽社、養花社、弄香社、華進社…といった近代的な地方支部が立ち上げられていった。明治二十二年に池坊は東京出張所を設置し、徐々に「いけばな」が復興し始める。さらに明治中期頃からは良妻賢母の徳育に有用であるとして女性教育に奨励されるようになり、むしろ「近時の如く挿花の流行することは殆んど百年以来類例なき所である」とまで言われるようになった。
 こうした中で明治二十六年頃に池坊から刊行されたのが『花道哲学教会之趣旨』である。筆者の武藤松庵は元々僧侶であったが、維新後の廃仏毀釈や伝統的価値観の崩壊を目の当たりにして還俗、写真師になるため横浜に出るが、そこで出会ったのが「いけばな」だったという。こうして四十歳近くで花の世界に踏み込んだ松庵は後に池坊の代見にまで上り詰め、後には「華仙」と称されるようになる。
 松庵は池坊の近代的組織化とともに開明的な理論構築も目指したようで、その理論を整理したのが『花道哲学教会之趣旨』だった。
「抑這ノ花道ハ遊芸ニアラス。教育上必要ナルモノニテ。第一天理人道敬神愛国ノ法理ヲ説クノ要具ニシテ道徳ヲ完全ナラシムルノ最乗方便タリ。(中略)哲学悟道ノ原理タリ。依テ花道ハ修身斎家平天下ノ基礎タルナリ」と花道が遊芸では無く、教育上必要なものであり修身、ひいては天下国家の基礎になるものだと主張しているが、そこで引き合いに出されているのが三條教則の項目「天理人道」「敬神愛国」である。
 そして花道の発祥が釈迦にあるとしながらも、「日本帝国」において花道がいかに伝統的なものかを訴えており、「花道ノ真理ヲ覚了」した聖徳太子が、池坊家の先祖である小野妹子に伝授したことを日本花道の起源としている。両者ともに皇族であることを強調しているあたり、朝廷との親密さを訴えているのであろう。
 またこの『趣旨』に特徴的なのは化学的解釈も取り入れていることである。「花ハ人ニ害トナル炭素ヲ吸ヒ。人ニ養トナル酸素ヲ吐ク。故ニ席中ノ悪気ヲ去リ清浄ノ空気ヲ誘引シ来リテ」云々といい、花を席中に添えることは「人生上衛生最モ必要」とする。文明開化直後のいけばなは旧習の代表的なものと見られており、「活花といふものか当時流行するのは、至って不開化(不可解)千万のもの」と皮肉られる程でもあった。このような風評に対し、化学的、開明的な文脈でいけばなの有用性を語ったのである。
 こうした開明的かつ国家社会への有用性を説いた『花道哲学教会之趣旨』は、各地の宗匠らにとっても心強い理論に見えたようで、各地から送付依頼が来たという。

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香道

 香道は仏教と共に、香木を焚く文化が入ってきたことからはじまるとされる。平安時代頃からは仏教から独立して香りの鑑賞が単独で広まり、室町期の三条西実隆の時代には形が整えられ、江戸時代の米川常白の頃に体系化が完成されていたとする。江戸時代に隆盛を極め、家元制度が整備され、流派や門弟が多く登場した。それに伴い庶民にも香道は広まり、多くの指南書が登場している。しかしながら維新後には衰退し、明治期に残った名だたる流派は御家流と志野流の二つほどにまで縮小している。維新後の動きとしても、香木が展覧会などに展示されることがあっても「香道」としての大きな動きはあまり見当たらない。明治四十一年に水原翠香が『茶道と香道』を出版するが、文中で維新の後に伝書や門人が四散して衰退したことを嘆いている。
 ただし、まったく動きが無かった訳では無い。明治三十三年に御家流の細谷松男は『香道大意』なる稿本を残したという。これは香道を広めるためのものか、免許者に伝えるものとして書いたものかは詳細を欠く。原本は未確認ながら「凡香ハ供香空香翫香ノ三香を合わせて是を香道とは云ふなり」「凡供香とは天神地祇祖先の霊を祭るに焚きて供ふる所の香を云ふなり」と香道には神祇祭祀などが含まれていることを最初に記し、「香にハ徳あり」とし、若人が美香を焚くと禍災の神が去り幸福が得られるとしている。三条教則などとの関連もありそうな記述であるが詳細は不明である。
 いずれにしろ、管見の限り近代香道史はその衰微も相まって未開拓の部分も多いため、研究の発展が待たれる分野であろう。


おわりに

 茶道、華道、香道はいずれも仏教とともに発展してきた。しかし今回取り上げたように、それぞれが近代・明治初期において「道学」としての役割を主張する時、主に掲げられたのは儒教的徳目と神道的「敬神」だった。勿論、これらはあくまで一部の動きであるが、「道学」としてそれらが掲げられたのはまさに維新期という時代性が大きいだろう。そして、それぞれが参考・引用したものが「三条教則」だったように思われる。これは『茶道為國弁』では千賀可蛟が国学者であり、『花道哲学教会之趣旨』では武藤松庵が元僧侶だったことも影響しているだろう。
 三条教則は国民教化の根本として教導職に布達されたものだが、神職僧侶など幅広い人材への布達である以上、それぞれの教義の最大公約数とも言えるような抽象的なものとなった。しかしそれが国家によって明文化されたことにより、道徳規範の根本的なものとして引用されやすくなったのでは無いだろうか。
 俳諧師はその国民教化に対し積極的に参画し、結果的に神道教会設立まで行ったが、今回取り上げた芸道の動きの一部はそれぞれ帝国憲法施行後のことで時代的にも国民教化運動が終焉した後の話であり、もはや積極的に神道や国民教化そのものに加勢する必要もなかった。しかしそれでも三条教則やそれに含まれるワードが引用されたあたり、少なくとも道学の指導者層には、この時代の国民の一般的な道徳規範として受け入れられていた部分もあったように思われる。

主な参考文献

小川原正道『大教院の研究―明治初期宗教行政の展開と挫折』(慶應義塾大学出版会、平成十六年)
三宅守常『三条教則と教育勅語 宗教者の世俗倫理へのアプローチ』(弘文堂、平成二十七年)

熊倉功夫『近代茶道史の研究』(日本放送出版協会、昭和五十五年)
茶の湯文化学会編『講座 日本茶の湯全史 第三巻 近代』(思文閣、平成二十五年)
田吉崇、岡宏憲「【資料】千賀可蛟『正式茶道早まなひ』『茶道開化早道』および『茶道為国弁』」(『茶の湯文化学』第二十八号、平成二十九年)
森谷尅久『「花」が語る日本史』(河出書房新社、平成九年)
大井ミノブ『新装普及版いけばな辞典』(東京堂出版、平成二年)
工藤昌伸『日本いけばな文化史三 近代いけばなの確立』(同朋舎出版、平成五年)
武藤松庵『花道哲学教会之趣旨』(明治三十三年)

神保博行『香道の歴史事典』(柏書房、平成十五年)
神保博行『香道について』(知道出版、平成二十六年)
松原睦『香の文化史―日本における沈香需要の歴史―』(雄山閣、平成二十四年)