【関西】定例研究会報告 神道と一神教の狭間で――二教団を例として

令和2年11月28日に開催された民族文化研究会関西地区第30回定例研究会における報告「神道一神教の狭間で――二教団を例として」の要旨を掲載します。

はじめに

 一般的に多神教とされる神道と、一神教とされるキリスト教との接近、接合、習合等といった事象は平田篤胤以来多くあり、また研究対象にもなってきた。例を上げれば平田神学におけるキリスト教の影響や、いわゆる国家神道下でのキリスト教徒の動向が主なものであろう。平田神学では一般的に聖書に登場する「ゴッド」天之御中主神に相当すると見ており、キリスト教信者をはじめとした日本人の一神教徒もまた、神道側の天之御中主神を自らの信じる「主」に当てはめる場合が多かった。一方、キリスト教団の神道への対応では『祖国に対する信者のつとめ』等に見られるように、神社が非宗教であるという政府見解を引用しつつ神社参拝が十戒に反しないとするような、キリスト教徒としての許容範囲を定めての関係を持ったことがある。

 ただし戦前のいわゆる国家神道下におけるキリスト教徒の行動の多くは、時代状況や環境への適応とも言えてしまい、神道への接近という目で見ればキリスト者側の積極性に欠ける場合が多いことも否めない。

 また神道との類似性や聖書の「主」を神典に登場する「神」に相当させることは、多くの場合あくまで個人の内心的な捉え方の問題であったと言える。

 そしてそれを内心的な問題に留めず、新たな教団を創始し、その教義とした事例は比較的に少ないように思われる。

 そこで今回は一例として戦前戦中期において積極的に神道に接近し、かつ戦後、国家神道体制が終焉し「信教の自由」が氾濫した時代においても神道一神教の関係を模索して独自の教団を創設した二人の宗教家を取り合げて紹介したい。両人ともに戦後の神社本庁とも一定の関わりを持った人物である。

 

佐藤定吉と「皇国基督会」

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                   佐藤定吉

  佐藤定吉は明治二十年十一月に徳島県那賀郡の日蓮宗寺院僧侶の家に生まれた。幼少期から成績優秀で神童と呼ばれ、高等小学から高校までの間に二年程飛び級進学している。高校では後の社会党委員長片山哲と同期であり、片山に誘われて当時来日していた救世軍のブース大将の演説を聞きに行ったこともあるという。明治四十一年に東京帝国大学応用科学科に入学し、またも片山に誘われる形でYMCA寄宿舎に移る。大学では化学を研究しつつ、筧克彦の神道講義にかなり共鳴し、一方宿舎では吉野作造や海老名弾正らの指導を受けた。この時期はまだキリスト教の熱心な信者というわけでは無く、むしろ筧の説く古神道に大きな影響を受けて「宗教とナショナリズム」や「東洋にキリスト教を広める方法」といった問題に興味を抱いていたようである。ところが卒業間際の明治四十三年に腸チフスを患い危篤状況に陥った。奇跡的に回復した佐藤は、この経験からキリスト教信仰を強めていく。同年には海老名弾正から洗礼を受けて正式にクリスチャンとなった。また卒業式の際には首席卒業生として明治天皇に拝謁し銀時計を賜ったことが佐藤に愛国心を燃え上がらせたという。在学中には国防色・カーキ色染料の論文が住友染料の社長に認められており、卒業後も化学畑を進んで九州帝国大や東北帝国大学などで研究を続けた。多くの特許を生み出した優秀な科学者で、特にプラスチック研究においては日本における先駆け的存在であり、海外企業からも声がかかる程だったという。その一方で山室軍平救世軍に協力し、「自然科学と宗教」と題して講義するなど、大正中期頃までは主に科学と宗教の関係性を論じていた。

 ところが大正十三年に転機が訪れる。この年、五女の慈子がわずか二歳半で命を落とした。最期の瞬間、佐藤は胸中に「神よ。この幼児の死が我が一家族の救ひとなるのみならず、これが源泉となって日本国が救はれ、更に全東洋の救ひとなさせ給へ」との強い祈りが自然と生まれたという。これ以降佐藤は「全東洋を基督へ」が自らの使命だと自覚した。そして、日本にキリスト教を広めるためにキリスト教の日本化、東洋化を意識し始めるのである。これには筧の神道論を学んだことなどが影響しているかもしれない。この頃『科学と宗教』誌を発刊し昭和六年には産業宗教協会を設立して宗教の日常化を図っている。

 そして昭和二年五月に「イエスの僕会」を設立した。軽井沢の霊響山道場を本拠地に、主に学生などが中心となったこの教団は対米戦が始まるまで全国で精力的に伝導活動を行っている。この佐藤の伝道活動は全国的に好評だったらしく、これによってクリスチャンとなった一人に大平正芳もいた。昭和十六年にはイエスの僕会を解散、「皇国基督会」を結成し、軽井沢で執筆活動を行っている。

 「父の本意は何とかしてキリスト教を日本に土着させたいと念願していたものと思う」と息子の佐藤信が言うように、戦中の佐藤はその目標を達成するため専ら神道を中心に研究していたようである。

 佐藤はキリスト教徒が神社参拝や御真影へのお辞儀などを偶像崇拝だとすることは「欧米式の基督教義を直訳的に押し付け」だと批判していた。佐藤にとって神道などの東洋的思想はキリスト教と矛盾せず、むしろ基督教を真姿に戻すためには必要なものだと考えていた。『イエスの僕会宣言』では初代基督教の復興を念願するとし「我らは神道儒教・仏教・武士道を東洋的旧約と認め、キリストの福音による新約日本の建立を念願す」「我らは東洋的天分を以て基督教の真理の光をその完全なる姿に於て仰がんとす」とある。その中でも特に神道や日本精神を重視していた。

 記紀神話についても「天之御中主命」が聖書における「天父」だとし、新約聖書ヘブル書第一章二節「神は御子を立てヽ萬物の世嗣となし、御子によりて諸般の世界を造り給へり」を引用して、神(ゴッド=天之御中主命)は分霊(基督霊)を用いて天地創造を行っておりキリストと産霊神は同一である、と主張している。そして「欧米人には神と人、神と物とを分離して考ふる思考しか受け継ぐ素質がなかった」とし、日本神道の神人の間隔が曖昧であることを肯定しながら「日本人は建国当初以来、生まれながらイエスと同じ素質」を持っているゆえに「實に日本こそイエスに現はれた最高の神霊を受けつぎうるもの」としている。

 佐藤は軽井沢で終戦を迎えたが、なおも愛国心と尊皇の志は衰えず、むしろ昭和天皇マッカーサーに対して自らの命を顧みずに国民を守ろうとした姿に聖書における「愛」を感じ取り、日本こそが「聖書相応の国」だという確信を強めたようだ。

 皇国基督会は戦後も存続し、佐藤は宗教法人「活けるキリスト霊救山道場」の主管者にもなっている。そして神道研究の縁からか神社本庁とも懇意になったようで、神社新報神職の覚醒を促す言葉を送ったりもしている。昭和三十年には神社本庁生長の家などと共に「日本開顕同盟(民族文化研究会関西支部第10回定例研究会での発表参照)」を結成し、佐藤はその理事長に就任した。

 その後も熱心な「日本的キリスト教」の伝道を行っていた佐藤だったが、昭和三十三年に米国伝道の帰路で病に倒れて入院、昭和三十三年十二月二十三日に永眠した。享年七十三。佐藤の逝去は片山哲キリスト教関係者だけに留まらず各界に伝わり、神社新報でも報道されている。

 その後の皇国基督会やその系譜を受け継ぐ教会は現状管見の限り見当たらない。

 

小川勇と「生成教団」

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                   小川勇

  小川勇は明治十三年に愛媛県北宇和郡の農家に生まれた。地元の簡易小学校から宇和島、松山の中学、熊本の高校と進学と共に転々としている。中でも松山中学時代には人生問題で大いに悩んだ時期があり、この時に米国人宣教師シドニー・ギューリックから教を受けたことが本格的にキリスト教と出会うきっかけとなった。こうして高校時代には洗礼を受けてクリスチャンとなっている。ただしその思想は工学博士の田中龍夫の影響が大きいという。田中博士もクリスチャンであり、同じ科学者だった佐藤定吉と共に宗教研究会を立ち上げたこともあった。この後、小川は医学の道を進む。

 京都帝国大学福岡医科大学を卒業後は軍医となり、日本各地を転々とした。そして明治四十五年、旅順砲兵大隊の所属となり日本本土から離れることとなる。大正三年には軍医大尉として奉天守備隊所属となるが関東都督の福島安正たっての希望もあり、日本赤十字社奉天病院の院長にも就任している。奉天では十八年間に及び院長を務め、張作霖を初めとした現地要人や地元住人、日本人移民など多くの人々と交流した。

 大正十三年には陸軍を退職して病院院長専任となったが、この年に小川は神道と関係を持つこととなる。きっかけは奉天総領事・船津辰一郎が開いた晩餐会での出来事だった。一月二十八日に開催されたこの晩餐会で、当時問題となっていた思想善導が話題となった。この晩餐会には教育者や新聞記者、教育家など各界の人々が呼ばれており、小川も一人の科学者・医者としての意見を述べたのだが、これに奉天神社の山内祀夫が「日本には先祖伝来の神道がある。此古神道の復古こそ近時外国渡来の悪思想撲滅に貢献すべき、最良の対策である」と反論した。小川はそれまで神社や神道に興味が無く、むしろ祭典などを眺めるにつれ滑稽で無意義にしか思えなかった。そんなものが現代思想に対抗できるわけが無い、神事などは旧慣の墨守にすぎず文化の発展と共に自然消滅するものと考えていた。しかし山内宮司が頗る真剣に古神道を説く姿を見て興味を持ち、「宜しく研究調査を行い、果たして取るべき価値あらば之を取り価値無き場合には自滅を待たずして速に撲滅すべき」との考えに到る。こうして小川の神道研究が始まった。まずは直接、山内宮司に疑問点など忌憚の無い質問を投げかけた。また、この問答を新聞に載せて一般の参考とすることを提案し、山内宮司小川博士の問答は現地新聞を一ヶ月にわたり賑わせたという。山内宮司の回答に得るところのあった小川だが、「神社に神霊が存在するのか」「神霊の本質とは何か」と言った問題では山内宮司の回答も満足できなかったらしい。神道研究は継続となった。またこの頃の小川は西洋医学の欠点を認め、これを補うものは漢方などの非医者療法だと考えるようになる。この年の十二月、雑誌『中央公論』に「非医者論」を寄稿し、その必要性を訴えたところ、多くの療法家が奉天の小川を訪れるようになった。多くはとるに足らない連中だったが、中にはこれはと思う人物もおり、小川は将来的に「非医者療法」の研究や実践を行う特殊学校の建設を目指したという。

 そうしている内に内地へ引揚げることになり、伊勢山田の赤十字病院院長に就任することとなった。当初は例の特殊学校建設の準備の間だけという気持ちで院長を引き受けたそうだが、非医学的学校の設立が法的に不可能なことを知ると、神道研究に没頭し始める。

 伊勢神宮のお膝元ということもあり多くの資料や神職、皇学館の教授などに囲まれ恵まれた環境ではあったが、神職や教授らに面会する度に小川は失望することになる。神官の多くが規程遂行に従事する公務員と化しており、神道本義や神霊問題を研究する者は少なかった。皇学館の教授らも同様であり、むしろ「神宮や神社に神霊などは実在せぬが、国民が一般に無智で、伝統的に神霊在りと信じて居る者の生存して居る間は参拝者も絶えぬだろうが、人智の進歩に従つて参拝者は減少する」と公言する者までいたことに驚愕した。

 失望した小川は自ら研究するしか無いと奮起し独学で神道を追究した。そして古神道は立派な宗教であり、明治以降の日本政府は神道を宗教と認めなかったのは問題だと考えるようになる。昭和十七年には「神宮大麻問題の解決と神社宗教の提唱」なるパンフレットを自ら発行、当局の反省を促した。また神都皇道宣揚会を結成して当時の伊勢周辺で起こっていた政治問題の解決、神都改善運動に尽力すると共に、個人名義で「神社問題私見」を政府に送るなどもしている。太平洋戦争中には大阪病院に転勤となり、そこで終戦を迎えた。

 昭和二十一年三月に医者廃業を決意し、伊勢に戻った。その理由は「日本神道は立派な宗教であるから、神道も神社も宗教的存在であらねばならぬ」との主張が無視されてたのを今回の神道指令で宗教化せざるを得なくなり、神社本庁という宗教法人が急造されて看板の塗り替えだけは行われたが、その本宗たる神宮がどうなるのか見たかったからだという。一方で神都改善運動の頃から地元の信頼を受けた小川は神宮奉賛会の設立準備委員長に推薦されている。

 しかし小川にとって神社本庁の在り方はやはり満足しなかったらしい。小川は『神道我観』という冊子に自らの信念を著し、神社本庁を初め各地の神社関係者に送付して人々の覚醒を促した。昭和二十二年には松山に移るが、この頃届いた『神道我観』の感想に芳しいものは無く、むしろ進駐軍が去った後には元の国家神道が復活すると「愚かな夢」を抱く者もいたという。

 こうして小川はもはや無気力な神職神道を任せておくわけにはいかないとして、同年に神職資格を取得し、故郷北宇和郡氏神である白王神社の宮司に就任した。一年程神道界の様子を見たが「神社本庁当事者は一向に反省する処が無い」と白王神社諸共神社本庁を脱退を決意し、昭和二十三年に宗教法人「生成教団」を設立した。

 この「生成教団」が目指したものこそ「神道世界宗教化」である。そのために小川が訴えたのは「神道の宗教としての信仰対象は天之御中主神で無くてはならぬ」ということだった。そもそも神社本庁関係者に送り付けた『神道我観』は「古事記を味読し、天之御中主神の神格を理解し、教義を確立すれば、日本神道民族宗教より世界宗教に展開せしむる事は、耶蘇が民族教なるユダヤ教を世界教なるキリスト教に展開せしめ釈迦が民族教なるバラモン教を世界教なる仏教に展開せしめたると同様であると主張し、天之御中主神を信仰の根本対象たらしめねばならぬと警告」だったという。ところが神社本庁が本宗としたのは日本皇室の祖先としての天照皇大神を祀る伊勢神宮だった。こうした日本一国の神とも言える信仰を中心に添え「宗教法人をデッチ上げた神社本庁の在方では世界的宗教としての資格が無い」と言うのである。

 そのため生成教団の規則第一条では「本教団は天之御中主神を宇宙の大霊即ち創造的大生命神として奉斎し、其教義を究明宣布して神恩感謝の念を高め、人倫道義の昴揚。文化の向上及世界平和の確立を図り以て理想世界を実現せんことを目的とす」と掲げている。

 そして本部神殿となる平和神宮を建設して天之御中主神を祀る壮大な計画だったようだがおそらく完成しなかったであろう。平和神宮の建築様式も他の神社とは違う五階建てのもので、最上階に主神を、その下の階にまた他の神々を祭る予定だったと言う。これについても小川が作詞した数え歌に「八つとや 八百万なる神々は、親神ありての孫子神」とあるように、神々は主神の分霊としての位置づけがされた模様である。

 ところでこの平和神宮の一階部分はキリスト教会式にする予定だったようで、天之御中主神を指して「此神こそはゴッドと異名同質」と語るようにこの時点でも小川の聖書信仰は生き続けていた。そして讃美歌を参考にした神道歌を作りたいとも語っている。

 その一方で科学とも接合させていたようで、『神道我観』の時点で既に天之御中主神エーテル、産霊神を陰陽電子に当てはめた象徴主義的な解釈を行っていたようだ。

 この生成教団は白王神社周辺の氏子にはそれなりに信者が出来たようだが、結局運営はうまくいかず小規模なものに終わったようである。小川勇はこの後も医学と神道、非医者療法や神霊研究などに興味を持っていたようだが昭和四十三年に死去した。享年八十八歳。

 その後の生成教団や思想的系譜を受け継ぐ団体等は現状管見の限り見当たらない。

 

おわりに

 今回紹介した両者に共通していることは共に科学者であり元来がクリスチャンであることである。そして神道を宗教として見ていたことも上げられるであろう。政府の公式見解である神社非宗教論では、神社は祭祀を行う場所、つまり記紀神典に登場する「祖先」を顕彰する場所と言える存在であることが建前とされていた。キリスト教団体にはこれを引用して、非宗教である神社に参拝することは宗教行為で無く、偶像崇拝や異教への礼拝などキリスト教で禁止されている行為には当たらないとの見解を示した場合があった。神祇不拝を掲げる浄土真宗などもこれに含まれるだろう。ところが今回取り上げた両者はそうは見ていなかった。小川の場合は明確にそれを拒絶し、佐藤の場合は東洋的旧約でありむしろキリスト教を補うものとして規定している。そして聖書の内容と記紀神典に登場する神々を繋げ合わせて解釈しているのである。

 また、両者共にその中心となるのはゴッド=天之御中主神であった。これは明治以降の神道に近しい一神教徒のスタンダードな信仰形態でもあった。平田篤胤の影響を受けた海老名弾正もそうであり、今回取り上げた両者に関係するクリスチャン田中龍夫も「天之御中主神=天地之主我父御神」という考え方であった。またキリスト教と同じく一神教であるイスラム教となった日本人の中でも同様なケースがあり、日本人ムスリム田中逸平は「アルラホ(アッラーフ)」と「チェベレイル(ジブリール)」をはじめとした幾多の天使の存在を信じることや、アルラホが唯一絶対の神でありながら99の名を持つことを挙げて、「天御中主神」と「八百万神」の関係性に等しいとしている。また民間神道家の藤井啓道(宏曜)曰く、大東亜戦争中に日本軍が占領したボルネオ島イスラム系島民への宣撫工作の一環として、現地の住民と共に「神回習合」の教義テキスト製作が行われたという。この神回習合テキストの編纂は相当な部分まで進んでいたらしい。しかし完成間近で昭和二十年の敗戦を迎えおじゃんとなってしまったという。内容は今では不明だが、おそらく天之御中主神を中心に添えたものだったろうと推測される。国内においても儒教や禅を学んだ川合清丸が「真道同盟」を名乗り「天之御中主神=上帝」を根本信仰とする団体を明治十年代から組織している。また上田賢治が記すように、神社本庁においても中西旭ら一神教を目指した人々がいたが、時期的には小川と同じ頃であろう。

 また今回取り上げた両者ではその方向性は明確に違っていた。佐藤は「キリスト教を土着化」するために日本的キリスト教の創設を目指した。その一方で小川は「神道を国際化」するために世界的神道の創設を目指したのである。「世界的なものを土着させる(外から内へ)」と「土着していたもの国際化させる(内から外へ)」という方向性の違いが両者両教団の「キリスト教の土着化」「神道の世界化」という形に現れたのである。

 こうした方向性の違う両教団について考察することは、神道神学を今後考える上で一つの例となり得るだろう。しかしそもそも両教団ともに存続せずに短命に終わったため資料も乏しく、踏み込んだ研究は難しいように思う。

 

主な参考文献

『佐藤定吉先生追想録』(佐藤先生を偲ぶ会、昭和四十五年)

岩瀬誠「日本的キリスト教指導者佐藤定吉神道理解」(『国学院雑誌』第九三号、平成四年)

佐藤定吉『皇国日本の信仰』(イエスの僕会、昭和十二年)

神社新報』 昭和二十二年八月十八日号

神社新報』 昭和三十年六月二十日号

神社新報』 昭和三十六年一月十四日号

小川勇『人生五十年』(昭和六年)

小川勇『還暦』(昭和十六年)

小川勇『随筆 全国大社詣』(青年通信出版、昭和十九年)

小川勇『實中森 ―神道改革私案―』(桜美林学園出版、昭和二十五年)

中野文隆「原子論と神道哲学との交渉」(『神霊文化 第七巻  第八号』日本神学連盟、昭和三十年)

神社新報』 昭和二十二年年二月二十四日

小谷恵造『川合清丸伝』(富士書店、平成十年)

『田中逸平 その3 日本論/日本ムスリムから見た神道』(拓殖大学、平成十五年)

『日本神学 第二十五巻 第六号』(日本神学連盟、昭和四十八年)