【関西】定例研究会報告 教会設立における所属教派選択の事例

令和6年3月24日に開催された民族文化研究会関西地区第66回定例研究会における報告「教会設立における所属教派選択の事例」の要旨を掲載します。

はじめに

 一般的に宗教団体の教会は、その教団による布教活動によって新規に開設されることが多い。特に新宗教に分類される教団では、布教史を追うと同様の形式で教会が次々と増えていったことが確認できる。しかし教派神道においては、このパターンとは異なり、既に別の教団に属していたり独自の開教経緯を持つ者が、教会設立に際して教派神道の傘下に入る事例が散見される。

 このような事例については、これまでも教団の雑居的側面に着目する際に部分的に言及されてきた。例えば、明治初期の神道本局や神道大成教が多様な教会を傘下に抱えた経緯、あるいは神道修成派神習教による山岳信仰の取り込みなど、もともと別の信仰団体であったものが国家からの公認を得るため教派神道の傘下に入った過程がよく取り上げられる。しかしながら、問題関心は主に教団側にあり、個々の教会がなぜその特定の教派を選んだのかについては、言及されることが少ないように思われる。

 教会が教派神道の傘下に入るケースは明治初期に限らず、宗教界や世情が安定して以降にも自ら選択して教派の傘下となった教会は数多く存在する。

 本稿では、そうした大正期以降に開かれた三つの具体的事例を取り上げ、それぞれの教会設立までの経緯を俯瞰し、教派神道における傘下教会の多彩な様相を確認していきたい。

百田哲龍と御嶽教大杉講社

 百田哲龍は明治二十八年に奈良県の農家に生まれた。幼名は吉男と言い、幼少期から活発な性格だったらしく、小学校卒業後には一時、大阪に奉公に出ている。しかしすぐに奈良へと戻った。この頃、子供心に自らの置かれている環境に思うところがあったらしく「このまま家におっては将来成功できぬ」と遠国へ行くことを決意した。この一大決心を親に話したところ猛反対されたが、親族の説得もあって九州博多へ指物業の修行に出ることが出来たという。その後五年間の修行を積んだ後、大正四年に奈良へと戻り実家で開業した。この頃について大杉教会発刊の略史では「幼にして積極果敢、仁侠の性、頭領の才は二十歳にして欄間大工として既に近郊に其の名をうたわれるの人となられた」と記載されているように、腕の立つ職人だったようである。

 転機となったのは大正八年三月のことだった。その日、商売で大仏殿前まで出ていた吉男は、友人とともに当時あった競馬場に寄って観覧していた。午後三時頃、突然、体中が感電したかのように痺れだし、四時頃にはもはや自分でも訳の分からない「精神病患者」のような状況となった。警察にも注意されるような有様だったらしいが、どうにか三山亭まで来たところで偶然家族と鉢合わせた。父親は吉男を拘束して鷺池のあたりまで連れていったところ、突然「エイッ」と叫んだかと思うと高い塀を飛び越えて瑜伽山の中へと脱走した。父親の必至の静止も聞かずに木々を飛び越え御塚に登り、神社の裏門も飛び越えていったが、これを見た地域住民は盗人と勘違いして住民総出で捜索するような事態にもなったという。

 以降、吉男には感電するような感覚が度々訪れ、仕事中でも飛び出して走り回るというような状況が続いた。これを見た周囲の者は精神疾患狐憑きかと心配して祈祷師を呼ぶなどしていたが、当の吉男としては、その感覚中は無意識であるものの、それ以外ではいたって普通だった。しかしその内に無意識状態の吉男に対し、神懸り状態だとして祈祷をお願いする者があらわれた。

 五月に入ると、商用で外出していた際にまた霊感が発動し、無意識の内に春日山へと飛び込んだ。一目散に走り周り、気が付いた時には春日山の山中にある大杉の周りをぐるぐる廻っていたという。吉男がこの杉を見るのはこの時が初めてで、何とも言えぬ神気があったらしい。こうして何度か大杉に向うようになると、周囲から「春日の天狗さん」と言われるようになっていた。

 八月、にいつものように吉男が御祈祷していると、突然に外に飛び出し、気が付けば吉野大峯山に登っていた。この時、偶然行者に同行していた父親と出くわし、翌日に共に帰宅すると親族や近隣住民がお供え物を積み上げて待っていた。そして神前で再度祈祷した際、吉男は「目にこそは見えぬが確かに神様のみすがたを仰ぎ得た」という。こうして吉男は商売をやめ、信仰の道へと入った。

 春日山奥の大杉で祈祷や修行を行うようになった吉男は次々に神の言葉が聞こえるようになる。大杉大神の声を聞き霊能力を授かった。各地で修行している内に大峯山龍泉寺の羯磨真弘大和尚と知り合い、「哲龍」の号を授かっている。

 大正九年には神意に従って御嶽教に入教しているが、これは大峯山をはじめ山岳修行の影響している可能性がある。そして御嶽教・神宮暠寿管長の許可を得て「大杉講社」を設立した。それから六年の間に信者数が爆増し、後の大正十五年には大教会へと昇格している。

 その後も多くの崇敬者を集め、昭和五十七年十一月の百田哲龍逝去後も活動し、大杉大教会は現在でも御嶽教で有数の規模の大教会となっている。

古山眞正と出雲大社教此花教会

 古山眞正は明治十二年に福島県で生まれた。古山家は武士の家系だったというが、眞正が生まれた時点で維新によって廃業しており、また幼少期には二度の火災によって家財を失っている。一家離散の後、十六歳で呉服店に奉公し、二十一歳の頃には親戚を頼って上京して陸軍被服廠に勤めた。この頃キリスト教の集会に顔を出したのをきっかけにクリスチャンとなり、布教活動にも参加するようになったという。

 日露戦争が始まると大阪に新設された被服支廠に転勤することになり、以降は関西が生活の拠点となった。明治四十一年に退官すると、今度は大阪の反物問屋の番頭に就職するが、その一方で大阪刑務所の教誨師としても活動している。キリスト教宣教師としての眞正の活動は教会も評価していたようで、大正元年には併合後の朝鮮へ布教を命じられた。

 大正四年に帰国した後、今度は大阪のキリスト教会に宣教師として住み込むことになったが、西洋風の教会での暮らしは合わなかったらしく、結局半年ほどで宣教師を辞し、知り合いを通じて東洋紡績に就職、女子工員への教育に当たることになる。

 しかし眞正は刑務所における教誨師活動や免囚保護などの事業を継続したかったようで大正十三年には「古山式洗染研究所」を立ち上げて女子工員への家庭婦人教育をはじめた。少しの仕事ではあるが女子にも職を与え、かつ教育を行うこの施設は一時、二十数人を収容する規模になったが、収支はうまくいっておらず、眞正の蓄えは減る一方だった。こうしてもはや継続か廃業かの選択に悩んでいた頃、お手伝いさんとして古山家に出入りしていた老婆から「御嶽教大杉大教会」への相談を勧められた。

 眞正はこの時点で二十年近くキリスト教の熱心な信仰者であり、多神教神道は原始宗教として馬鹿にしていた。しかし老婆の誘いにより、話を聞くだけのつもりで大杉大教会に参拝した。

 老婆とともに参拝し百田哲龍の前に座った眞正は黙ったままだったが、哲龍から「止めなさい。今の迷っている仕事は恰も爆弾を抱いている様なもので、貴方も亦周囲も大怪我をします」と言われたという。その後も図星を衝かれた発言が続き眞正は何故分かるのかと聞いたところ、哲龍は「貴方の事を見守っていて下さった神様のお告げです」と語った。

 この発言を聞いて眞正はキリスト教時代には無かった神秘的不思議さを経験し、これこそが日本神道の根源だと思ったらしい。

 ここから古山眞正はクリスチャンから熱心な大杉大教会の信者へと転身、山奥の大杉に向かい修行したり滝行に打ち込むようになる。

 翌年には早くも御嶽教教師の資格を取得、御嶽教神職として活動するようになるが、大正十四年三月十四日早暁、大杉大教会の聖地・巨木で修行している際に「救いに必要な総てを与へん」との神からの御啓示を受けることになる。

 これ以降、眞正の霊感や霊能力は百田哲龍教会長の代行を担うまでに成長した。しかし眞正には一つ疑問が残った。

 大杉の前で眞正に啓示を与えたのは御嶽教の御祭神では無く、大国主神だったという。そこに違和感を感じた眞正は知人に相談、出雲大社教の信仰者を紹介されている。そこから眞正の信仰はますます深まったようで、結果的に大杉大教会を辞することとなった。

 大正十五年には東洋紡績を退社、自宅に神殿を作って「出雲大社教信友講社」を設立している。

 大阪の眞正の元には多くの信者が集まるようになったが、あまりの人気に官憲からは取り締まりを受けるようになった。そのようなこともあり、正式に教会を設立することにし、こうして昭和三年「出雲大社教此花教会」が設立されている。

 此花教会はこの後、天満への移転や神戸・京都への支部教会開設など規模を拡大させて行くが、眞正の道歌に反戦思想があるとして特高警察の取り調べを受け、昭和十六年には此花教会は解散させられた。この時は京都の教会に本部機能を遷し、終戦後には活動を再開している。

 戦後の混乱期には老骨に鞭打ち”清め”のために日本全国を飛び回ったが、疲労が蓄積していたようである。昭和二十六年八月、丹後からの帰宅直後に東北行きの切符を買うと家を出て、立ち寄った家で「少し眠くなったから十分程したら起こしてね」と言い残してそのまま息を引き取った。

 眞正没後の出雲大社教八雲教会は古山茂が引継ぎ、昭和三十三年に八雲大教会、昭和三十七年には京都分祠と昇格している。その後、琵琶湖近くに移転し、昭和五十三年に出雲大社近江分祠として現在も多くの参拝者から崇敬を受けている。

堀泰一朗と出雲教釜山教会

堀泰一朗

 堀泰一朗は明治三十年、新潟県の寺沢家に生まれた。幼名は作治郎といい、幼少期に親戚だった雑貨商の中島家へ養子に入っている。養子に入って数年後には実母が死去し、また中島家に実子が誕生してから作治郎と義親との関係が悪くなったようで、奉公人のような厳しい生活を強いられた。その中で商才が芽生えたらしく、青年期になると中島家と縁を切り、大正二年には上京している。

 義家との確執は上京後も続いたようだが、職を転々としつつも奉公人のような暮らしから早急に脱する為必至に働いた。この頃、過去の自分と決別のため名を泰一朗に改めている。

 一時は独立して店を持つまでになるが、今後成功するためには学問が必要だと考え店をたたみ、知人の店で働きながら夜学に通うようになった。この時の学友と「シンガポールで一旗上げよう」という話になり、大正六年の秋にまずは朝鮮に渡ることにした。なお、共に行く予定だった学友は約束の時間に来ず、泰一朗は単身で朝鮮に渡っている。

 釜山到着後、宿泊した宿屋の主人に自らの計画を打ち明けたところシンガポール行きを反対され、泰一朗は釜山で働くようになった。この宿屋の主人は裸一貫で渡航してきた泰一朗の身元保証人となって仕事を紹介するなど親身となって支え、ここから数度の転職の後、泰一朗は国鉄関釜連絡船釜山桟橋に勤めることができた。こうして釜山での生活は安定するようになると、この間に知り合った税関職員の紹介で堀家の次女と入籍、後に婿入りして「堀泰一朗」となっている。

 この結婚後、当時釜山で様々な事業に手を出し成功を収めていた大池家の知遇を得ることができた。泰一朗は当初、土地家屋部の主任にとして就職したが、その後はとんとん拍子に出世し、一気に総支配人にまでなっている。

 数年後、大池家の石炭部を引き取る形で商社を立ち上げ泰一朗は独立した。その会社を経営しながら今度は地下資源の開発事業を思い立った。

 実は泰一朗は幼少期から霊感のようなものがあった。中島家の養子だった頃は、帰宅後に家でどのような噂話があったのか感じ取ったり、親戚の料理屋で客の無銭飲食を言い当てたり、泥棒を見抜いたりといった経験があった。また、釜山で実業家になった後も、当時の流行観相家・石竜子と会う機会があった際に「鑑定しがたいものを感じる」と言われ、後日、二十枚に及ぶ観相結果を郵送されるなど、霊的なものが備わっていたようだ。

 地下資源開発ではこの「霊感」が強く機能して、地図を見ながら鉱脈の位置を言い当てて採掘を行った。この様子を見ていた仕事関係者の一人が「ここにも古山先生に劣らぬ霊感の持ち主がいた」と感動したという。この人物は大阪の「大社教此花教会」の信者だった。

 彼は堀泰一朗と古山眞正の双方にこの話をした。両者はお互いに関心を示したようで、昭和三年に大阪に於いて面会している。

 眞正はホリという人物が訪れることは四年前から御神示があったと言い、実際に会った泰一朗の霊感に感心していたという。一方の泰一朗も今までは自らの霊徳に自信があったが眞正の霊徳には及ばないと褒め称えている。こうして打ち解けたところで、眞正は霊媒を披露した。側近の婦人に祈念し息吹を吹きかけると神示を語り出した。婦人に降りた神は泰一朗を守護してきた不動だと名乗り、これからも引き続き守護するが、今後は大国主にお任せするというような内容を語ったという。こうして泰一朗は眞正の弟子となった。

 この経験から泰一朗はいずれ事業を清算して神道家になるつもりだったが、まずは大社教釜山教会の在家信者となっている。ここの教会長と泰一朗はもともと懇意にしており、眞正と同じ大社教の信者となることで大国主信仰を学ぶことにしたのだった。

 その後、鉱山事業がうまくいき無収入でも数年は信仰生活が送れる目途が立つと、釜山で開教する準備に入った。しかしここで問題が発生する。当初、泰一朗は師匠の眞正と同じ大社教の教会を立ち上げようと考えていたが、教区を管理する釜山教会は泰一朗の独立に強く反対した。大社教本部としては許可しても良いという反応だったらしいが、釜山教会としては同一地区内に教会が乱立する事態には反対だったようだ。

 こうして教会設立が不可能となり、これに憤りを感じながらも泰一朗は今後の活動について神にお伺いを立てるべく島根県出雲大社を訪れている。この時まで出雲大社周辺の状況など知らなかった泰一朗は、ここではじめて「出雲教」の存在を知ることとなった。

 早速、神道本局出雲教会本部を訪ねて第七七代出雲国造・北島貴孝大教主と面会し、これまでの事情を話した。北島は同情し、泰一朗の霊感について噂も聞いていたこともあって、出雲教への所属と釜山での教会設立を了承した。釜山に帰る前には大阪に寄り眞正に事情を説明したところ、「出雲教だの大社教などという形式上のことは関係ない。ただ真に大神の信仰の道を世に広く示せばよいのだ」と激励したという。

 こうして昭和十年、堀泰一朗は神道大教出雲教釜山教会を設立した。

 以降、実業家時代の親交のあった関係者をはじめ、泰一朗の霊感を求めて多くの人が教会を訪れ、信者も増えていった。しかし終戦になると神示に従い早々と日本へと引き上げている。この引揚で無一文となったが帰国後には「中国は笠の地に斎き祀れ」との神示に従い、岡山県の笠岡で再出発した。現地でも巡教を行って信者を増やし、また釜山時代の信者も集まったことから昭和二十四年に応神山に鎮座することになり、昭和二十七年には御神殿を造営、翌年には宗教法人「出雲教古乃美大教院」として活動を始めた。なお、戦後までの間に何度か古山眞正と会っていたが徐々に方向性の違いなどが浮き彫りになり、また出雲教とも信仰に相容れない部分が生じて来たことから昭和四十七年には独立して「出雲古乃美教本院」と名乗るようになった。

 こうして人助けを続けてきた堀泰一朗だったが自らの最期について病院の世話に成ったり周囲に世話を受けながら亡くなることを嫌っていたらしい。昭和五十六年十一月、側近に二、三人を指名して至急電話で呼ぶように言い、側近が戻ると既に亡くなっていたという。

 泰一朗の教会はその後、平成に入ってから「古乃美教本院」と名称を変え、令和元年からは本部神殿「白雲大社」の名で多くの参拝者を迎えている。

おわりに

 本稿では取り上げた教会はあくまで一例ではあるが、それぞれ特色を有している。

 奈良山奥の大杉で神示を受けた百田の例では、開教経緯において御嶽教と直接の関係は無かったが、その後の霊山修行を経て御嶽教への入教し教会設立となった。また御嶽教教師だった古山は自らに神示を降した神が御嶽大神ではなかったために大国主神を奉斎する大社教へ転属したという、信仰対象を理由とした所属である。一方の堀泰一朗は信仰自体は大社教の流れを組むものの、開教における手続き上の問題から出雲教に所属した。事務的問題を理由とした所属である。

 いずれも布教を受けて教会を開いたというわけでは無く、別系統の信奉者が他の教会へスライドして開かれた教会と言えよう。

 繰り返しとなるが、今回取り上げた例はあくまで一例であり、教会の所属教派の選択については多様な側面がある。天理教金光教のように信仰の統一性が比較的高い教祖開教系教派神道教団は当然ながら布教により教会が設立されるパターンが多いが、金光教では出口ナオが参加となって「金光教綾部布教所」のようなケースもある。

 また、今回取り上げた御嶽教においては元々講社の寄合所帯的風潮が強く、また神宮暠寿管長の「神道化」の推進によって御嶽山信仰に限らない教会が傘下となる土壌があった。例を上げれば徳光大教会や、天理教の分派とされる転輪王教会などが御嶽教に所属していた。大社教においても明治期に俳諧系の花之本講社といった例があるが、こちらは時代的背景による所属と言えるだろう。

 教会の独立が容易となった戦後においても、独自の開教由来を持ちながら教派神道の傘下に所属する例は少なく無い。出雲大社教においては火之迦倶槌神信仰から出発した大阪分祠、稲荷信仰から入った福井分院などがあり、比較的信仰の統一性のある黒住教においても教団によらず独自の霊能力者から出発して傘下教会となった例がある。

 本稿で俯瞰した教会をはじめ、各教派の傘下教会個別の事例を検討することは、教派神道の全体像を把握するうえで肝要であろう。また、今回取り上げた三教会の開祖はそれぞれ関わりがあり、こうした各教派における横の関係性を確認することも重要な視点となるように思われる。

参考文献

御嶽教の歴史 開教九十五年の歩み』(御嶽教大教庁、昭和五十四年)

『奈良大杉さんの畧史』(昭和二十七年、御嶽教大杉大教会本部)

『杉のかほり 覆刻版』(昭和五十八年、御嶽教大杉大教会教学部)

『杉のかほり 開教満百周年記念特別号』(令和元年、御嶽教大杉大教会本部)

『古の花の栞』(昭和五十三年、出雲大社近江分祠)

『みこゑと我が道』(昭和四十八年、出雲大社近江分祠)

出雲大社巌分祠二十五周年記念誌 幸栄の道』(昭和六十年、出雲大社巌分祠記念誌編纂委員会)

『白梅のように 古乃美教開祖 堀泰一朗の人生・行』(平成八年、古乃美教本院)