【会報内容紹介】「大八洲」第2号 内容紹介

 

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先日発行された『大八洲』第2号の内容を簡単に紹介させて頂きます。『大八洲』の購読をご検討の方は参考にして下さい。

論説

 まず、論説から見ていきましょう。竹見靖秋「神道一神教の狭間で――二教団を例として」(6頁)は、佐藤定吉の「皇国基督会」と小川勇の「生成教団」という二つの教団を考察対象とし、キリスト教を包摂した新たな神道像を打ち出そうとした、近代神道の特異な展開を活写しています。

 半木糺「『西郷隆盛』をいかに受け止めるか——『思想家』葦津珍彦と『思想史家』先崎彰容の西郷像の比較」(12頁)は、葦津珍彦と先崎彰容の西郷隆盛像を比較することで、近現代日本の知識人が西郷隆盛をいかに解釈してきたのかを考察します。

 宮田昌明「民族と民族主義への視点」(16頁)は、陸羯南加藤弘之を中心とした近代日本における国粋主義思想や、ゲルナーやアンダーソンを中心とした現代世界におけるナショナリズム論をもとに、民族主義を多面的に論じています。

連載

 続いて、連載記事をご紹介します。二回目を迎えた渡貫賢介「萩野貞樹『歪められた日本神話』を読む――日本神話への一視点」(25頁)は、従来の誤解や偏見を排した日本神話理解を得るため、萩野貞樹の日本神話研究を精緻に読み解いていきます。

 今回始まった新連載である竹見靖秋「祭神論争の過程」(28頁)は、明治期の神道界を揺るがした「祭神論争」と呼ばれる論争・内紛について、藤井貞文らの研究に依拠しながら概観を試みています。

書評

 書評欄では、民族の文化的アイデンティティに関連した近時の注目作である、西田彰一『躍動する「国体」 筧克彦の思想と活動』と野村幸一郎『二・二六事件の思想課題』を取り上げさせて頂きました(21・23頁)。

 

このように、本誌に所収された諸論考は、神話・神道元号国学など、わが国の民族文化の核心にある主題を考察しています。こうした分野に関心をお持ちの方は、弊誌の購読をご検討下さい。

 

▼本誌の概要については、こちらを参照してください。

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【会報発行情報】「大八洲」第2号発行

 

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弊会会報「大八洲」の第2号が発行されました。会員ならびに誌友には、八月上旬には頒布されます。この度は、諸般の事情から発行が遅延し、誠に申し訳ありませんでした。なお、目次は下記の通りになります。

大八洲」第2号/目次

❖本誌の信条/湯原静雄・輿石逸貴……4

❖広告……5

神道一神教の狭間で——二教団を例として/竹見靖秋……6

❖「西郷隆盛」をいかに受け止めるか——「思想家」葦津珍彦と「思想史家」先崎彰容の西郷像の比較/半木糺……12

❖民族と民族主義への視点/宮田昌明……16

❖書評 西田彰一『躍動する「国体」 筧克彦の思想と活動』/湯原静雄……21

❖書評 野村幸一郎『二・二六事件の思想課題——三島事件への道程』/半木糺……23

❖萩野貞樹『歪められた日本神話』を読む【2】——日本神話への一視点/渡貫賢介……25

❖祭神論争の過程【1】/竹見靖秋……28

❖民文研ニュース……36

❖編集後記……37

 

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【関西】定例会報告 憲法制定権力論の日本的展開――黒田覚の憲法思想

令和3年7月17日に開催された民族文化研究会関西地区第36回定例研究会における報告「憲法制定権力論の日本的展開――黒田覚の憲法思想」の要旨を掲載します。

はじめに

  戦後日本の憲法学説は、憲法を構成し、その正当性を基礎づける根本的な主体は何か、という問題関心が中心となってきた。いわゆる「憲法制定権力論」が、戦後日本の憲法学説を展開させる原動力となってきたわけである。

こうした問題関心にしたがって、戦後日本の憲法学説において、数々の理論的営為が蓄積されてきた。たとえば、樋口陽一芦部信喜といった有力な論者が、まとまった憲法制定権力論を展開してきた[1]。また、「1970年代主権論争」といった重要な論争でも、憲法制定権力論は争点となってきた[2]

しかし、このように戦後になって「憲法制定権力論」が百花繚乱なまでに展開されるようになる以前に、戦前の憲法学説において、戦後に匹敵する水準の憲法制定権力論を展開していた論者が存在した。京都帝国大学の国法学講座を担当していた黒田覚[3]である。

黒田は、ハンス・ケルゼンの実証主義公法学から多大な影響を受けつつ、のちにケルゼンの論敵であるカール・シュミットに着目し、シュミットの展開する憲法制定権力論のわが国への導入を図るようになり、独自の憲法制定権力論を展開した。

このように、黒田の議論によって、わが国に憲法制定権力論が展開される素地が形成されたわけだが、岡本寛が指摘するように、この事実は一部の研究者を除いて、人口に膾炙していない[4]。黒田に関する研究も、近年では須賀博志[5]や古賀敬太[6]によるものが出現しているが、依然として手薄と言える状況である。

本稿では、憲法制定権力論の導入・展開において多大な貢献がありつつ、これまで注目されてこなかった黒田覚の業績を、憲法制定権力論を中心として検討することで、わが国における憲法制定権力論の継受過程・初期における展開過程を明らかにしたい。こうすることで、わが国において、憲法制定権力論が、どのように受容され、展開されたかが明らかになる。

 

一 初期の黒田覚の憲法学説――憲法制定権力論の背後にある問題意識

  では、我が国における憲法制定権力論の継受過程・展開過程を明らかにするため、憲法制定権力論の代表的な紹介者だった黒田覚の議論を検討していきたい。

 まずは、初期の黒田の憲法学説の展開を辿ることで、黒田がいかなる問題意識から憲法制定権力論に注目するにいたったのかを明らかにしたい。

 

(一)ケルゼン学説への接近と離脱

  初期の黒田の憲法学説は、ハンス・ケルゼンからの圧倒的影響下において展開された。黒田は、京都帝国大学大学院在学中に、ケルゼン学説に傾倒し、それ以後は、ケルゼン学説の紹介と分析が、黒田の初期の業績の過半を占めるにいたった[7]

 黒田が研究生活を開始した大正時代には、穂積八束などの君権学派憲法学が影響力を失い、美濃部達吉らの立憲学派憲法学が優位にある状況下で、国家法人説が盤石な支持を集めていたものの、そこに新鋭であるケルゼンの学説が紹介され、新たな理論的動向が模索されるに至っていた。

 こうした状況において、黒田はわが国へのケルゼン学説の紹介を担う、まさに中心的存在だったわけである。そして、昭和2年から昭和5年にかけて、黒田は欧州へと在外研究に赴き、ケルゼンの講義を聴講するようになり、個人的な親交も結ぶに至った。ついに、ケルゼン本人の薫陶を受ける機会を得たわけである。

 こうして、ケルゼン本人からケルゼン学説を摂取した黒田だったが、在外研究から帰国したのち、ケルゼン学説の紹介・分析に傾斜していた研究生活は、大きく変化することになる。大正後期から昭和初期にかけて、代表的なケルゼニストと目されていた黒田だが、帰国後はケルゼンの影響下から急速に離脱したのである[8]

 実は、黒田は、在外研究中に、ケルゼンだけでなく、多元的国家論や現象学マルクス主義といった、当時欧州において最先端だった思想・学問に触れていた。黒田は、これらから多大な影響を受け、ケルゼン学説を相対化するに至ったわけである。こうして、在外研究を契機として、黒田の憲法学説には大きな変化が生じたわけである。

 

(二)「多元的国家論」からの影響

  黒田の憲法学説は、在外研究中に摂取した欧州における最先端の思想・学問の影響を受け、大きく変化した。中でも、黒田の議論の変容にあたって、決定的な役割を果たしたのが、ハロルド・ラスキらによって主唱されていた多元的国家論からの影響である。

 伝統的な国家学・国法学は、主要な政治的主体を国家に限定し、政治そのものを国家の作用に還元することで、政治を独立した現象だとは捉えてこなかった。こうした状況に対し、果敢な批判を提起していたのが、多元的国家論である。

 多元的国家論は、国家だけではなく、多様な政治的主体が存在すると指摘し、政治概念は国家概念から独立して存在すると主張した。これは、従来は国家概念の一部として軽視されていた政治概念への注目をもたらし、政治学が国家学・国法学から自立することを促した[9]

 黒田は、こうした多元的国家論の影響を受け、従来の憲法学において軽視されてきた政治概念への関心を深め、政治概念を組み込んだ憲法学説を構築することを試みた[10]。そして、従来の国家学・国法学と同じく、政治現象を軽視するケルゼン学説から距離を置くようになる。

 

(三)憲法制定権力論への問題関心

  このように、黒田覚は多元的国家論から影響を受け、ケルゼン学説から離脱し、政治概念への関心を深めるに至ったが、かといって黒田が多元的国家論の議論をそのまま受け入れたわけではない。黒田は、とりわけ多元的国家論における主権論に対し、批判的立場をとった。

 多元的国家論では、国家以外の政治的主体にも主権はあるとし(多元的国家論では、これを「団体主権」と呼称する)、国家を唯一かつ絶対の主権の所有者とする、従来の国家学・国法学の立場を否定する。これは、全面的な国家主権否認論である。しかし、黒田はこれを受け入れていない。

 黒田は、多元的国家論の提唱する政治概念への注目に関心を示しつつ、他方で国家主権の概念はあくまで維持しようとする。黒田の問題関心は、多様な政治的主体が活動する政治の場から、いかに憲法秩序が形成され、国家主権が成立するか、にあったのである[11]

 こうした問題意識から、黒田は憲法制定権力論の研究に取り組むようになるのである。憲法秩序を形成し、国家主権を成立せしめる、国家秩序・政治秩序を根本的に正当化する力こそ、ほかならない憲法制定権力だからである。

 そして、黒田の問題関心が、憲法制定権力論に移行するにつれて、主な理論的準拠枠となる思想家も、変化していく。ケルゼンや多元的国家論にかわって、憲法制定権力について有力な議論を展開していたカール・シュミットが、黒田の議論の理論的基礎となっていくのである[12]

 

二 黒田覚における憲法制定権力論の展開

  これまで、初期の黒田覚の憲法学説の展開を辿ることで、黒田がいかなる問題意識から憲法制定権力論に注目するにいたったのかを明らかにしてきた。続いて、いよいよ黒田覚の憲法制定権力論そのものを検討していきたい。

 

(一)シュミットの憲法制定権力論

  黒田覚は、当初はケルゼニストとして知られていたが、のちに多元的国家論から影響を受け、ケルゼンの影響下から離脱し、従来の国家学・国法学が軽視していた政治概念を取り込んだ憲法学を構築することを試みるようになる。

 ここから、憲法制定権力論への問題関心が生じ、憲法制定権力論を自身の憲法学説の中心に据えるようになった。なお、ここで、新たな理論的準拠枠となったのが、シュミットである。このように、黒田の憲法制定権力論は、シュミットの影響を強く受けているため、黒田自身の議論を検討する前に、まずシュミットの議論を見ておく必要がある。

 シュミットの憲法制定権力論は、シュミット以前の憲法制定権力論と対比させることで、意図が明瞭になる。憲法制定権力は、そもそもアベ・シエースにまで遡る。シエースの憲法制定権力概念は、実定法の外部にある、一切の法的統制に服さない、万能の力とされた。それは、制憲・改憲の際には、いかなる憲法秩序をも創出する。

 しかし、十九世紀ドイツの国家学・国法学は、こうした憲法制定権力論を峻拒した。当時の国家学・国法学は、法実証主義を基礎とし、政治をはじめとした法の外部にある社会現象を法解釈から排除し、法解釈の精度を向上させようと試みた。こうした憲法学説からすれば、法の外部にある政治的な力である憲法制定権力は、そもそも学術的議論の対象ではないとされる。

 こうした議論動向を踏まえつつ、シュミットは二十世紀において憲法制定権力論を復活させようと試みたわけである[13]。シュミットの憲法学説は、十九世紀ドイツの国家学・国法学を克服することを目指し、こうした従来の憲法学説が、政治を法解釈から捨象したことを批判し、政治現象を取り込んだ「政治的憲法学」であることを強調した。そして、そうした「政治的憲法学」を支える中心的理論こそ、シエース流の、政治の場で働き、思うがままに憲法秩序を創出する、憲法制定権力だったわけである。

 こうしたシュミットの憲法制定権力論は、次のような性格をもつ。第一に、すでに述べたとおり、この議論は政治現象を憲法学に取り込むことを目的としており、彼の「政治的憲法学」の中心理論たるべく設定されている。第二に、こうした議論は、憲法制定権力の概念規定にあたって、それを行使する政治的主体の実力を最も重視しており、憲法制定権力がいかなるものであるべきか、あるいは憲法制定権力をいかに統制するかといった、規範的配慮を欠いている。これは、シュミットの「決断主義」(政治的主体の実存を賭した意思決定を過度に重視する思惟)ともリンクしている。

 第三に、憲法制定権力(pouvoir constituant)と組織化された権力(pouvoir constitué)は明確に峻別されている。これは、憲法秩序を創り出す力(憲法制定権力)と、その結果として出来た憲法に立脚して統治を行う力(組織化された権力)を区別しようとしている、ということである。要するに、混同されがちな、憲法制定権力と主権を峻別しようとする議論であるということである[14]

 

(二)黒田覚の憲法制定権力論

  これまで、黒田覚に多大な影響を与えたシュミットの憲法制定権力論を概観してきた。黒田は、こうしたシュミットの憲法制定権力論に対し、いかなる応答を行ったのだろうか。以下では、シュミットの影響下で、黒田がいかなる憲法制定権力論を構築したかを見ていきたい。

 黒田は、これまで軽視されてきた政治現象を憲法学に組み込もうとする姿勢や、憲法学説の表舞台から姿を消していた憲法制定権力概念を蘇生させた業績について、シュミットを高く評価する。しかし、黒田はシュミットに対する批判も提起している。

 それは、憲法制定権力の概念規定にあたって、それを行使する政治的主体の実力が重視され、憲法制定権力はどのようにあるべきか、あるいはそれをどう統制するか、といった規範的配慮が欠落していた点だった。黒田は、この点を反省し、シュミットにおいて希薄だった規範的配慮(黒田は、これを「正当性的契機」と呼称する)を自覚的に自身の議論に導入しようとする。

 黒田は、昭和12年には、『日本憲法論』において、憲法制定権力論に立脚した独自の憲法学説を提示した。これは、国家法人説が通説化していた当時の我が国における憲法学説において、極めて斬新だった。さらに、黒田は、昭和13年には、「憲法制定権力論」において、学界からの批判を踏まえ、自身の憲法制定権力論を再展開している。これらの業績を踏まえ、黒田の憲法制定権力論を概観していきたい。

 黒田は、これらの業績において、シュミットの憲法制定権力論は、「何らの正當性の基礎」[15]をもたない、「存在的意思」[16]に過ぎないとする。黒田によれば、規範とは「當為と存在との二元的對立」[17]をいかに解決するかという問題を孕むが、シュミットはこれを、当為を存在に還元することで解決しているが、これは根本的な解決にならない。

 規範と現実のあいだの対立を、現実の政治的主体の意思(これこそ、黒田が「存在的意思」と呼称するものである)に帰結させるシュミットの決断主義は、畢竟は何らの正当性もなしに、政治的主体の実力だけを重視する議論に終わる。これを、黒田は批判する。

 そして、「規範の妥當性の窮極の基礎としての憲法制定權力を、単なる力とは考へない」[18]と断言する。黒田によれば、「憲法制定權力の觀念はそれ自體力的契機(Machtsmoment)と同時に正當性的契機(Legitimitätsmoment)を含んで」[19]いる。そして、こうした規範的配慮(正当性的契機)を基礎としてこそ、規範と現実のあいだの対立を止揚でき、現実を規範によって正当化できる。

 黒田の憲法制定権力論は、シュミット理論を大枠では受容しつつ、シュミット理論における短所であるところの、憲法制定権力の概念規定にあたって、それを行使する政治的主体の実力が重視され、憲法制定権力がいかにあるべきか、それをどう統制するかという規範的配慮を軽視する点を問題視し、それを修正しようとする。

 黒田は、憲法制定権力を行使する政治的主体の実力と共に、規範的な正当性も重要であるとし、この両者によって、憲法制定権力は構成されるとする。それが、憲法制定権力の「力的契機」と「正当性的契機」を併せ持っているという議論として展開されるわけである。こうして、黒田は、実力に傾斜し、決断主義に彩られた、シュミットの憲法制定権力論を克服することができたわけである。

 

三 黒田覚における憲法制定権力論と明治憲法解釈論

  これまで、黒田覚の憲法制定権力論を概観してきた。ところで、黒田の憲法制定権力論は、単なる憲法基礎理論としてだけでなく、明治憲法の実定的な解釈論にも取り込まれていた。以下では、黒田の憲法制定権力論が、黒田の明治憲法解釈論に対して、いかなる影響を与えたのかを明らかにしたい。

 

(一)国家型態論――政体・国体二元論

 それでは、黒田の憲法制定権力論が、黒田の明治憲法解釈論に対し、いかなる影響を与えているのか、検討していきたい。黒田の憲法制定権力論が、明治憲法解釈論に対して与えた影響は、主に国家型態論と、明治憲法第一条・第四条の解釈論の二つの論点において特に顕著である。まず、国家型態論における憲法制定権力論の影響を見ていきたい。

 戦前期のわが国の憲法学説において、国家型態論は重要な論点だった。これは、国家の基本的な政治体制がいかなるものか、という議論である。平たく言えば、政体や国体をめぐる議論である。この論点を巡っては、政体のみを扱うか(政体一元論)、政体と区別される国体を観念し、これも学問上の考察対象とするか(政体・国体二元論)のどちらの立場を採用するかが、重要な争点だった。

 美濃部達吉らの立憲学派憲法学は、国体はあくまで歴史的・倫理的な概念であり、法学的概念とはいえないとし、政体一元論の立場だった。これに対し、穂積八束らの君権学派憲法学は、政体と区別される国体の観念を肯定していた。このように、見解が分かれてきた国家型態論をめぐる議論だが、黒田は特異な政体・国体二元論を提示している。

 黒田は、従来の政体・国体二元論を批判し[20]、国体の区別を「憲法制定権力の所在による区別」を基準とし、政体の区別を「組織化された権力の所在による区別」を基準とする、独自の政体・国体二元論を主張する[21]

 これを分かりやすく表現すると、憲法を創り出す力(憲法制定権力)が君主にあるか民衆にあるかで、当該国家の国体が君主国か民主国かが決まり、憲法を基礎として統治を行う力(組織化された権力)が君主にあるか民衆にあるかで、当該国家の政体が君主国か民主国かが決まるわけである。こうして、国家型態論に憲法制定権力論が取り込まれるわけである。

 

(二)明治憲法第一条・第四条解釈論

 こうして、国家型態論に憲法制定権力論が取り込まれ、特異な政体・国体二元論が提唱された。黒田は、この議論を、明治憲法第一条・第四条の解釈論に接続する。こうして、憲法制定権力論は、明治憲法の解釈論にまで展開されるわけである。

 黒田によれば、明治憲法第一条について、国体(すなわち憲法制定権力の所在)を規定した条文だとし、第四条について、政体(すなわち組織化された権力の所在)を規定した条文だとする[22]

 この主張は、従来の学説が、第一条と第四条は同じことを規定していると解釈してきたことに対する批判である。黒田によれば、従来の学説は、「大日本帝国万世一系天皇之ヲ統治ス」と定めた第一条と、第四条前段の「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」とが同じ意味だと理解してきたが、これは妥当ではない。

 黒田によれば、第一条は一切の国家権力の正当性の根拠が、万世一系天皇にあることを宣言したものである。そして、憲法制定権力とは、その正当性的契機から明らかだが、国家権力の正当性の根拠を意味する。これらを合わせて考えると、第一条は憲法制定権力(=国家権力の正当性)が、天皇にあることを規定している[23]

 これに対し、第四条は、「統治権」という表現から明らかなように、憲法を基礎として統治を行う力の所在を、すなわち組織化された権力の所在を規定している[24]。こうして、黒田によれば、明治憲法下の大日本帝国は、天皇憲法制定権力と組織化された権力の双方をもっていることから、政体と国体のいずれの点からも、君主国と規定されるのである。

 

おわりに

 (一)総括

 本稿では、わが国における憲法制定権力論の継受過程・展開過程を明らかにするため、憲法制定権力論の代表的な紹介者だった黒田覚の議論を概観してきた。

 黒田は、多元的国家論の影響を受け、従来の国家学・国法学において軽視されてきた、政治現象を取り込んだ憲法学の構築を試みるに至った。こうした問題意識から、黒田は憲法制定権力論に注目するようになり、憲法制定権力論の有力な論者だったカール・シュミットを理論的な準拠枠とするようになる。

 ただ、黒田は、シュミットの議論をそのまま受容せず、修正を図った。シュミットの憲法制定権力論は、規範的側面を軽視し、実力に傾斜したものだった。これに対し、黒田は憲法制定権力の規範的側面を重視し、シュミットの憲法制定権力論の克服を図る。

 また、黒田は、こうした憲法制定権力論を、基礎理論として展開するだけではなく、明治憲法の解釈論としても展開した。ここから、独自の政体・国体二元論や、明治憲法第一条・第四条解釈論が展開されたわけである。

 

(二)残された課題

 本稿では、黒田覚の憲法制定権力論について、その概要を明らかにすることができた。ここから、わが国における憲法制定権力論の継受過程・展開過程の重要な一側面が明らかになったと思われる。だが、黒田覚を巡っては、議論できなかった論点は多い。

 まず、黒田覚の理論的活動としては、本稿で触れたケルゼンの紹介・分析や、独自の憲法制定権力論の展開、あるいは独自の国体論の展開の他に、いわゆる戦中期における新体制運動へのコミットが挙げられる。黒田は、戦局の展開によって非常時体制の構築が課題となり、これを受けた近衛文麿らの新体制運動を目の当たりにし、こうした運動に積極的にコミットし、独自の非常時体制論(国防国家論)を展開した[25]。しかし、本稿では、こうした黒田の非常時体制論(国防国家論)には触れられなかった。この論点は、源川真希が検討を行っているが[26]、いまだに研究が手薄であり、議論される必要があるだろう。

 また、戦前期の国体論における、黒田覚の位置も問題となるだろう。黒田の国体論に対しては、佐々木惣一や大石義雄が批判を行っており[27]、従来の黒田に関する研究においても言及されているが[28]、ごく断片的な取り扱いであり、当時の国体論における黒田の位置を、より俯瞰的に明らかにしようとする試みは、管見の限りであるが、存在しない。戦前期の国体論についての研究が盛り上がりつつある現状を踏まえ、この論点も議論されるべきだろう。この論点も機会があれば検討したい。

 

[1] 樋口陽一『近代立憲主義と現代国家』(勁草書房、昭和48年)233頁以下や、芦部信喜憲法制定権力』(東京大学出版会、昭和58年)を参照。

[2] 「1970年代主権論争」については、村田尚記「主権論争の意義と課題――1970年代主権論争を中心に」法律時報79巻8号(平成19年)などを参照。

[3] 明治33年に出生。旧制三高・京都帝国大学法学部・同大学院を経て、大正14年京都帝国大学助教授。昭和2年から昭和5年まで欧州にて在外研究。昭和8年に滝川事件に抗議し、京都帝大を辞職するも、昭和9年に復職。昭和10年京都帝国大学教授。戦後は公職追放に遭い、昭和21年には京都帝国大学を依願免官。その後は、弁護士や京都新聞論説委員を経て、東京都立大学神奈川大学で教鞭を取った。また、憲法調査会専門委員も務めた。平成2年に死去。

[4] 岡本寛「憲法制定権力論の系譜――黒田覚と戦後憲法理論」島大法学58巻4号(平成27年)111頁を参照。

[5] 古賀敬太「日本の憲法学におけるカール・シュミットの継受――黒田覚と大西芳雄(1)(2・完)」国際研究論叢33巻2号・33巻3号(令和2年)を参照。

[6] 須賀博志「憲法制定権力論の日本的変容――黒田覚に即して(1)(2・完)」法学論叢144巻3号、145巻4号(平成10年・平成11年)を参照。

[7] 黒田がケルゼンから受けた影響について、山下威士「黒田覚とケルゼン」同『憲法学と憲法』(南窓社、昭和62年)や、宮本盛太郎「黒田覚におけるケルゼン・マンハイム・シュミット(1)(2)」京都大学教養部『人文』第28号・第37号(昭和57年・平成3年)を参照。なお、黒田によるケルゼン研究として、黒田覚『ウイン学派の法律学と其の諸問題』(大鐙閣、昭和2年)が挙げられる。

[8] 山下威士が指摘するように、「ケルゼン流行の渦中で、ケルゼンの影響から急速に離脱して行く」わけである。山下・前掲注(7)145頁を参照。

[9] こうした動向は、欧米のみならず日本でも発生した。蝋山政道、恒藤恭、戸澤鉄彦らは、多元的国家論から影響を受けつつ、国家学・国法学から自立した政治学を模索した。

[10] 黒田が多元的国家論から受けた影響について、石川健治「国家・国民主権と多元的社会」樋口陽一編『講座・憲法学(2)主権と国際社会』(日本評論社、平成6年)を参照。なお、黒田による多元的国家論研究として、黒田覚「多元的国家論とウイン法学(一)~(三・完)」法学論叢25巻1・3・4号(昭和6年)や、同「多元的国家論と政治概念」法学論叢31巻6号(昭和9年)が挙げられる。

[11] こうして黒田は、多様な政治的主体が活動する場から、いかに秩序が成立するか、という問題意識を持っていたわけだが、ここから政治過程における国民統合に対する関心が生じ、同様の視座に立脚している、ルドルフ・スメントの「統合理論」にも接近した。黒田覚「Integrationの理論とファシズム」法学論叢27巻2号(昭和7年)を参照。

[12] 黒田がシュミットから受けた影響について、古賀・前掲注(5)や宮本・前掲注(7)を参照。なお、黒田によるシュミット研究として、黒田覚「政治的なるものの概念と調整概念」公法雑誌1巻7号(昭和10年)や、同「主権的独裁と主権」法学論叢32巻5号(昭和10年)が挙げられる。

[13] シュミットの憲法制定権力論は、主に『憲法理論(Verfassungslehre)』(1928年)において展開された。邦語訳である阿部照哉・村上義弘訳『憲法論』(みすず書房、昭和49年)を参照。とりわけ、第8章「憲法制定権力」ならびに第10章「憲法制定権力、特に人民の憲法制定権力に関する理論の帰結」を参照。

[14] このように、シュミットが憲法制定権力と主権を別の観念だとする一方で、戦後日本の憲法学説では逆に、憲法制定権力を主権と等しいと理解する傾向が主流となった。たとえば、芦部信喜は、「制憲権は『国の政治のあり方を最終的に決定する力または権威』が国民(人民)に存するという国民主権説の権力的契機に力点が置かれた概念である」と規定し、憲法制定権力を主権へと吸収している。芦部・前掲注(1)318頁を参照。

[15] 黒田覚「憲法制定権力論」田中徳治編『憲法及び行政法の諸問題』(有斐閣昭和13年)30頁以下。

[16] 同上。

[17] 同上。

[18] 同上。

[19] 同上。また、黒田は、こうした「国家権力の正当性」という問題を、黒田覚「主権概念と正当性」法学論叢35巻1号(昭和11年)や、同『日本憲法論 上』(弘文堂書房、昭和12年)155頁以下などで、さらに詳細に議論している。

[20] 当時の通説的見解は、国家形態を、「統治権の主体」と、「統治権行使の方法」という、二つの基準に基づいて判断していた。しかし、後述するように、黒田はこの議論を批判し、憲法制定権力論を導入し、国家形態を確定するための、新たな基準を設定しようと試みる。

[21] 黒田の国家形態論については、黒田覚「国家型態論」公法雑誌2巻11号(昭和11年)や、同『日本憲法論 上』前掲注(19)233頁~235頁を参照。

[22] 黒田覚『昭和十一年度帝国憲法講義案』(弘文堂、昭和12年)260頁を参照。

[23] 同上261~262頁を参照。

[24] 同上262頁以下を参照。

[25] 黒田が展開した非常時体制論(国防国家論)について、黒田覚『国防国家の理論』(弘文堂書房、昭和16年)を参照。

[26] 源川真希「天皇機関説後の立憲主義――黒田覚の国防国家論」ヒストリア138号(平成15年)を参照。

[27] こうした黒田覚への批判は、佐々木惣一「我国の憲法の独自性について(二〇)」公法雑誌第5巻第6号(昭和14年)や、大石義雄「帝国憲法の規範的性格」公法雑誌第7巻第4号(昭和16年)を参照。

[28] 源川・前掲注(27)237頁を参照。

【関西】次回の定例研究会のご案内

 

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次回の民族文化研究会関西地区定例研究会は、下記の要領にて開催します。万障繰り合わせの上ご参加ください。

民族文化研究会 関西地区第36回定例研究会

日時:令和3年7月17日(土)16時30分~19時30分
会場:貸会議室オフィスゴコマチ 304号室
京都府京都市下京区御幸町通り四条下ル大寿町402番地 四条TMビル
https://main-office-gocomachi.ssl-lolipop.jp
会費:800円
​主催:民族文化研究会関西支部

【関西】定例研究会報告 渥美勝ーその人と思想ー

令和3年6月19日に開催された民族文化研究会関西地区第35回定例研究会における報告「渥美勝ーその人と思想ー」の要旨を掲載します。

はしがき

 現代が思想的混迷の時代であることに異論を唱える人間はまずいないと思われる。前時代に存在していた常識や歴史観、あるいは型といったようなものが急速に崩壊しつつある現在、単なる回顧としてではなく、未来を創造していく際の道標の一つとして、歴史が見直されるのは自然の成り行きであろう。
 そして日本の歴史を通覧した際、崩壊と混迷の時代として、戦前のいわゆる昭和維新・国家革新運動が盛んに行われた昭和前期が見直されるのもこれまた自然の流れだと言える。それはいわゆる「右翼」と言われる諸勢力が最も盛んに活動した時代でもある。その思想史の全貌は広大且つ複雑であり、全体像を描くことは極めて困難である。
 本論では、その複雑極まりない思想史を描き出すことを試みようとした思想史家、橋川文三の未完の著作である『昭和維新試論』にて取り上げられた一人の人間、渥美勝について述べていくこととしたい。渥美は目立った著作を残したわけではなく、何かしらの直接的行動を起こしたわけでもない。橋川が取り上げるまでほとんど忘れられた存在であった。さらには橋川が取り上げた以外、学術的な場で取り上げられることも無く、言及されることが依然少ない人物である。
 しかし橋川は『昭和維新試論』では実に三章にもわたって渥美に対して筆を割いている。さらに言えば分量だけではなく、ちょっと異常な熱意をもって渥美を分析しているのである。例えば渥美について「この人物の数奇というか、狂愚というか、ある悲痛味をおびた人間性は、私などの心にも染みとおってくるところがある」と述べている箇所があるが、単なる学術的興味の対象以上の思い入れを感じさせるところがある。橋川だけではない、同時代の右翼人も渥美に敬意を抱き、頭山満は「桃太郎の渥美勝―あれはほんものだよ」と評したという。現在でも有志によって墓前祭が定期的に行われており、渥美に惹かれる人間は後を絶たないのである。
 橋川は日露戦争以後の日本人の目標喪失と前近代までの歴史との切断、そこから生まれ来る近代人特有の人生に対する煩悶と不安をいわゆる「昭和維新」運動を生み出したものであるとし、その原点に存在する者として渥美を位置付けている。橋川の分析が正しいならば、渥美はまさに普遍的な現代人の劇画のような存在ではないのか。とするならば、渥美を分析することは急速にアノミー化しつつある現代世界を生きる我々をも分析することにつながるのではないか。本論はそのような問題意識の下、書かれるものである。

第一節 渥美勝の経歴

 まずは、『昭和維新試論』や生前渥美の友人であった田尻隼人の手による『渥美勝伝』を参考に、簡単に渥美の生涯を記述してみたい。
 明治十年(一八七七)滋賀県彦根町にて、彦根藩士渥美平八郎の息子として生まれる。渥美家は代々武術師範を務めた家柄である。母は井伊家の分家の木俣家出身の女性であった。父とは早くに死別し、母の手によって育てられる。この母は渥美にとって巨大な存在であり、その人格形成に多大な影響を及ぼしていると考えられる。
 秀才であったらしく、第一高等学校卒業後、京都帝国大学法科に入学。しかし欧米模倣の学問に疑問を抱き、悩む。失恋もこの時に経験している。そして渥美にとって最大の衝撃は最愛の母の死であった。渥美はその際、母の遺骨の咽喉仏を飲み込んだという。
 煩悶の中、自宅にて隣の幼稚園から「桃太郎」の唱歌が聞こえてきた。それは以下のようなものであった。
 
 桃から生まれた桃太郎
 氣はやさしくて力持ち
 鬼が島をば討たんとて
 勇んで家をでかけたり
 日本一の吉備團子
 情けにつきくる犬と猿
 雉ももらうてお供する
 急げやものどもおくるなよ

 これをきっかけに「桃太郎主義」に目覚め、大学を中退。古事記をはじめとする日本古典の研究に没頭。中学校教師を半年ほど行うが退職。その後は鉄工所の工員となる。その後も人力車夫や花屋、活動写真館の仲買、下足番など様々な職を転々とする。大川周明とは、車夫をしている際に偶然出会い、付き合いが始まったという。
 その後譲上京し、神田須田町広瀬武夫中佐像の前で「桃太郎」「神政維新」と書かれた旗を翻し、街頭演説を始める。猶存社老荘会にも顔を出し、北一輝には「神さま」と呼ばれていたらしい。
 大正十九年(一九二一)には宮崎・大分にて禊の修練に努める。関東大震災を機に帰京し、活動を再開。その後は赤尾敏が中心となった「建国会」の運動に携わるなどした。昭和三年(一九二八)知人宅にて客死。享年五一歳。葬儀には大勢の人間がかけつけ、渥美の死を悼んだという。
 見てわかる通り、渥美は人生を一介の素浪人として過ごした。住居も無く、結婚もしていない。それでも生活が成り立っていたのは彼の人柄にほれ込んだ支援者の存在があったからである。葬儀に参列したものは千名にも及んだというから、よほどその人柄が畏敬されていたのであろう。
 では渥美はどのような思想でもって「神政維新」を唱えたのであろうか。時節ではそれを見ていきたい。

第二節 渥美勝の信仰と思想

 渥美の遺稿は『日本の宣言』という書物に収められている。本書は戦前何度か出版元を変え、度々世に出された。戦後長らく絶版だったが、平成十一年(一九九九)に再版されている。本書は「日本の宣言」「高天原を地上に」「日本民族本来の使命」「古事記とバイブルの比較―外国生命と比較したる日本生命の基調―」などの文章や講演録のほか、随想集や遺詠集なども収録されている。本論では重要と思われる箇所を適宜引用しつつ、橋川の批評も参考にしながら渥美の思想を解読していきたい。
 渥美は古事記に記された記述を元に自身の思想を練り上げていった。例えば以下のような記述から渥美の思想の核が見て取れる。

「原始の日本、それの内容を構成せりし当初の先人等が、人間として生命の目醒めのその暁に、最初に最先に強く且つ深く、その中核よりして動きと要めを取りたる所のものは、「我等この生命で何を為そうか」ということであつた。それは生命の苦観、罪観、弱観、よりして、生命考察の主力点を其処に置き或は置かざるかを得ざりし生命者が、不安の境を安全地に回復し得むが為めの詮議として「生命とはそも本来如何なるものなるか」或は「宥され又は免るゝには如何にすれば宜しきか」とのやうの題目に沿うての自覚とは、その自覚の採りように於て全く趣を異にした所のものであった。それは存在の怯えからでは無くて、適用の要めよりして呼起されたる純然たる自覚であった。」

 以上は「日本の宣言」中の文章である。橋川はこの文章にて表されている日本人の生命観をルース・ベネディクトの提唱した「罪の文化」「恥の文化」を引用し、「罪の文化」の対極に位置するものとして把握している。その理解が妥当かはともかくとして、渥美はその生命の誕生よりも「誕生した後」にその起点を置いていることが理解できよう。渥美にとって神の子たる日本人の生命はまず「何をなすべきか」さらに言えば「何かをなさねばならない」という宿命を備えているということである。
 次に「高天原を地上に」から引用する。

「在るところの生命が、生命であることの真の意義と価値は、為すことのうえに存ずると云ふ事を直感的に覚認せりし彼等は、「修理固成」を以て宇宙の最中心よりしての、及び宇宙の真作用たる産霊の則に正しく準じたる、生命展伸の大本流に正しく発露せる至真至純の欲求たることを認むることにより、即ち之れを天つ神の命として生命の中核に、至高のコト(言、思想)としてまつり、此のまつりをコト(事、現実)として実現す可くいざなと奮ひ勇みて立ち上る所に、その生命の基調を依立した。」

 橋川はこの文章に対しては「西欧的なひゆを用いるならば、日本人にとって生命の意義は、楽園→追放(堕罪)→審判という過程によって説明されるのではなく、そのありのままの本然に従って、ただ神の指図のままに行動するところに明かにされるということになる。いわば、日本人の歴史は、その神話の教えるように、いまだ「楽園」から追放されることのない原始態の中にあるともいえよう」と読解している。
 この思想(あるいは信仰というべきか)に従って渥美はこの世に高天原を建設せしめようと努力し、人々にも訴えていくのである。渥美の思想は日本神話のような純粋素朴で穢れのない、究極的に清らかな世界の実現を自らの使命としていたのである。

第三節 渥美の煩悶とその最期

 では渥美は当時の社会を揺るがせていた諸問題に対してはどのような反応をしたのであろうか。例えば労働問題に関してはどうか。講演録の「日本民族本来の使命」には次のような一節がある。

「先ごろ「財産奉還論」が主張されたが、日本の生き方は昔からこれだ。行詰つて困つた時は総て天子様に奉還する事だ。最近に於ては徳川幕府が行詰つて大政を奉還した。徳川氏はマツリ(祭)をマツリゴト(政事)にせず、武力によつてやつたので、遂に行詰つて天子様に奉還したのである。」

 美しい渥美の高天原論に依拠したものであるが、反面あまりにも楽観的にすぎるとの見方は免れえないであろう。渥美は古事記や桃太郎の唱歌に見た、美しい理想郷をひたすらに実現せんとした。しかし現実社会の様々な問題や思想の潮流に対する理論はまったくなかったといってもいいであろう。橋川は大正十年前後の社会の大変動を踏まえた上で「ただいえることは、ここでも渥美は、そうした激流の中で一個の有能な旗ふりになるには、己が余りに無力であることを痛切に感じたということであろう。第一次大戦ソビエト革命の影響下に日本に展開した新しい思想と感情の巨大な波を正しく認識することが自分には不可能だという感情ではなかったかということである。(中略)日本神話にもとづく「高天原」の地上建設という信条があまりにも詩的な空想であることを意識したのではないだろうか。」と記している。きつい表現だが、おそらく的を射ているであろう。だからこそ渥美は己を傷つけ、ボロボロになって倒れたのであろう。
 渥美の絶息直前の遺文は、次のようなものである。
 
 而立より知命まで二十年、皇と国とに業火を燃して、自らの存在に何等かの価値ありと思ひつゝ生の歩みを続け来り、どん底を這ひながらに、そは未だ代価にならぬ迄でにして無価値にあらざるなりと、己惚れながらに終に二十年の生を盗み来つた。
 而して此間、一子を生み得ず一食も生み得ず、将た一事をも為し得ざりし自己を省みる時、徹底して、自己の無代価は無価値と別事ならざりしを曉り得たり。
 石の上にも三年とある、二十年石の下に蚯蚓の如く生を盗みし事の申訳なさ。
 一食、一衣、一室を賜ひし故旧友人に、改めて申訳なかりし罪を謝す。
 自然死か不自然死か自ら知らず、唯だ神の召喚の命のまゝに逝くに際し。
 
 橋川は渥美という人間に対して以下のように結んでいる。
 「さきにあげた彼の同窓たちの中にも、日本主義者、国家主義者というべき人々が少なくなかったことはふれておいた。しかし、それらの人々の多くは、いずれも渥美のような生活上の落伍者となることもなく、堂々たる紳士・学者としての国家主義者・日本主義者であった。(中略)彼らもまた多かれ少なかれ二十世紀初頭の日本をまきこんだ帝国主義生活様式と思想の中に、矛盾と煩悶の一時期をくぐったにはちがいない。しかし、彼らがその矛盾をなんらかの形でのりこえていったのに対し、渥美はついに幼児のように同じ煩悶をいだきつづけ、それを解決する能力を身につけなかった。あれほど日本人の本性は、魂の救いにかかわるのではなく、為すべきことがらの追及にあると強調しながら、ついにその部署を求めえないで終ってしまった。残されたものは、ただ幼児のような無垢の魂のむごたらしく傷ついた姿の印象である。それが、あたかもある瞬間の嬰児の悲鳴の記憶のように、その後の人々の心にながくとどまったのであろう。渥美を知る人々の多くが証言しているように、昭和維新の願望をもっともナイーヴに、鮮烈に印象づけた人物が渥美であったとするならば、それは「昭和維新」が、まさに二十世紀初頭、世界的潮流となっていた帝国主義に対する日本人の初心の精神的反応の中にその起源をもっているからであり、そして、渥美のほとんど思想とも行動ともならなかった生き方の中に、人々が自らの維新願望の原型をたえず回顧せしめられたからであろう」
 渥美の生涯は悲痛としか言いようのないものであった。世俗の成功や栄達とは無縁であったばかりでなく、人並みの幸福をも得ることが出来なかった。橋川はだからこそ渥美は人々に死後もなお思慕されたのだという。さらに付け加えれば、あらゆる体系が崩壊し、あるいは無限に増殖して人々に迫りくる現代は渥美が生きた時代以上に「矛盾と煩悶」に充ち溢れていると言える。むしろ今こそ、渥美勝という純粋無比な魂を持っていた人間の存在は我々を強く惹きつけるのではないだろうか。

むすび

 橋川の死により『昭和維新試論』は未完に終わった。昭和維新運動・国家革新運動を歴史に位置付け、その全体像に迫ろうとする試みは果たされなかった。「昭和維新」の原点が渥美ならば、その終着点がきちんと吟味され、意味づけられないことには結局その「原点」の評価も定まらないであろう。
 一般に戦前の昭和維新・国家革新運動は無残な失敗に終わり、忌むべきものとされている。だが果たしてそうであろうか。昭和維新・国家革新運動は、実はその流れは途絶えることなく、戦中・敗戦と続き、戦後において「一億総中流」の日本社会でその一君万民の下の平等の理想は実現したのではないだろうか。以上は私の推論に過ぎず、ここで論証することもできない。ただ一つの例を挙げておきたい。
 戦前の官民挙げての国家総動員体制や農村の地主層解体政策、あるいは満州における経済実験など、それらがどの程度戦後に引き継がれ、復興と経済発展の礎となったのか。私は経済史や政治史には疎く、ここで論証はできないが、かなりの部分が戦後に引き継がれ活用されたのではないかと見ている。そしてその動きの中心にいたのは戦前に革新官僚と呼ばれた人々であった。これらの人々は戦後も政界・官界・実業界でその中心を担ったことを重要視すべきである(なお、橋川は『昭和維新試論』にて地方改良運動に参加した内務官僚の分析に二章ほどページを割いていることも付記しておく)。
 そしてその中心にはおそらく岸信介が存在していたのではないかと思われる。岸は北一輝の思想の影響を多大に受けていることは著名である。そして岸は戦時中においては商工大臣としてまさに計画経済のトップに立ち、戦後の首相在任中は国民皆保険制度・年金制度・最低賃金制度の創設を行った。戦後の自民党国家社会主義的な経済政策(これが一九九十年代以降急速に崩れて行くわけだが)の基礎を作り上げたのは岸である。そしてそれは世界的にも類例を見ない高度経済成長として結実した。戦前の天皇の下に万民が平等に幸福を享受する、という理想は無論完全ではないにせよ、一つの形として戦後日本に誕生したのでないか。
 昭和維新、国家革新運動の原点が渥美勝ならば、その終着点に立っているのは岸信介ではないか。これについてはこれから深く掘り下げていこうと考えている。
 最後に『昭和維新史論』講談社学術文庫版のあとがきにある鶴見俊輔の解説を引用したい。

 「そこには、明治の高等教育制度がなりたって以来正統とされてきた西欧輸入の抽象語による自己救済ではない道が求められている。日本人の今の生活の中に脈うっているこの生活感情から、自分たちの道を見出そうという、思いである。」
「その思想が、高級軍人の「権謀術数、企業家による大陸進出、右翼扇動家による財閥へのおどしと資金まきあげ、刺客による暗殺計画、「スパイ」、「国賊」などの呼名をつけての国家批判封じ、暴力による言論の圧迫と結びついてゆくはてに、昭和維新の思想は幾重もの暗い意味をになうものとなった。しかし、そのなりたちには、無垢な直感があった。日本人の今の生活感情を未来への手がかりとしようという思いには、日中戦争大東亜戦争がこの国内外の人びとにもたらした悲惨によって、ぬぐいさることのできない価値がのこされている。敗戦、占領、高度成長をへた今日にとっても、その意味はのこる。むしろ、その直感が、さまざまのにない手によって汚され、多くの悲惨をもたらした事実をまっすぐに見て、それらの悲惨とともに直感の意味を考えることがのぞましい。」
 「それぞれのくにの民衆が、それぞれの道を歩いてきた。その伝統を民魂と考えるならば、日本に独自の民魂があり、それを支えとして未来を考えることは、他のくにぐにに民魂があることを否定することにはならない。そう考える時、それは、日本国民であることをやめないままに、ちがうくにぐにの民魂と対話する道をもさがすことである」

 現在、グローバリズムというあらゆる生活を漂白し、すべての存在を記号に置き換え、かけがえのない人間一人一人の人生を極限まで空虚にさせる恐るべき怪物が世界を覆いつくそうとしている。そしてあらゆる思想が、あらゆる哲学が、あらゆる人生が徹底的に相対化され、無数に際限なく現前を通り過ぎていく。しかも我々は一瞬たりとも立ち止まることを許されない。このすさまじい「今」をまっすぐに見据え、それに対峙していくにはどうすればよいのか。それは自らが産まれた「くに」で受け継がれてきた、他には無い独自のモノを発見し、護り、育み、繋いでいく(それは当然、偏狭なイデオロギーに留まるものではない)という営み。その営みの中から立ち現れる存在に依拠しつつ、新たな時代を創り出していく。この道しかないように思われるのである。
 我々日本人はかつて「桃太郎」たらんとし、高天原を地上に現前せしめようとした渥美勝という存在を忘れてはいけない。そして現代でも、いや現代だからこそ、この日本の、世界のどこかに渥美勝は存在しているのである。その無垢なる魂と強烈な志を身に蔵し、必死に生き抜いている人間を決して見逃さない。そこで初めて、我々は日本を、世界を「修理固成」すことが可能になるのである。

参考文献

渥美勝『日本の宣言』「日本の宣言」刊行事務局 平成十一年十月
田尻隼人『渥美勝伝』大空社 平成九年五月
橋川文三昭和維新試論』講談社 平成二十五年九月

 

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渥美勝『日本の宣言』

 

【東京】定例研究会報告 ナチズムと日本文化

令和3年6月18日夕方、民族文化研究会東京地区第28回定例研究会がZOOMにて開催されました。ZOOMでの開催は2回目。
今回の報告は、奥野励氏(同会会員)の「ナチズムと日本文化」。前々回の続編にあたるものです。日独文化提携を模索した東京日独文化協会ドイツ側主事であったヴァルター・ドーナトの思想が紹介され、ドーナトがマルクス主義自由主義に立脚する「世界文化論」に対する文化の「民族性」を評価軸とし、ナチスドイツと日本がともに創造的文化の担い手としての資格を持ち、ナチズムの根本思想と「原日本的伝統」には共通性があると位置づけたことが取り上げられました。彼らナチス系日本学者は、人種至上主義ではなくロマン主義的傾向が強く、両国文化を並列的にとらえたために、両国文化についての建設的・発展的な研究が可能になったといいます。
質疑では、ドーナトによる「皇道」などの述語の意味や、ナチスドイツや反ユダヤ主義思想に関する質問が行われました。次回は、8月上旬にZOOMにて開催する予定です。(東京支部・事務担当補助)

【関西】次回の定例研究会のご案内

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次回の民族文化研究会関西地区定例研究会は、新型コロナウイルスの感染拡大を鑑み、Zoom(ウェブ会議アプリ)を使用し、オンライン上で開催することと致しました。
開催要領は下記の通りになります。万障繰り合わせの上でご参加ください。

民族文化研究会 関西地区第35回定例研究会

日時:令和3年6月19日(土)16時30分~19時30分
参加方法:参加希望者は、当会公式アドレス(minzokubunka@gmail.com)まで連絡し、氏名とEメールアドレスをお伝え下さい。Zoom上での会議に参加するための「招待URL」を送付致します。「招待URL」を開催日時に開き、研究会にご参加下さい。
参加費:無料
主催:民族文化研究会関西支部