民族文化研究会

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【関西】定例研究会報告 神道芭蕉派の登場――明治初年の宗教界と「俳諧系神道結社」

 令和元年5月18日に開催された民族文化研究会関西地区第13回定例研究会における報告「神道芭蕉派の登場――明治初年の宗教界と『俳諧神道結社』」の要旨を掲載します。

はじめに

 ここに、多様性を指摘される神道の一様相として「神道芭蕉派」と称する、一見特異に見える教団について紹介したい。従来、神道史研究においてこの教団は明治期に誕生した教派神道の一傘下教会として名が上げられる。一方の俳諧史研究では、正岡子規ら「新派」の登場により駆逐された「旧派」における一つの動きとして先行研究がなされている。これら先行研究を参考にしつつ、教団の歩みを辿ってみたい。

俳諧師の教導職登用

 明治三年一月三日、大教宣布の詔が発布された。祭政一致を目指し「宜く治教を明らかにし、以て惟神の大道を宣揚すべき」とのこの詔により、前年に神祇官内に設置された宣教使による大教≒神道の布教活動が本格的に始動する。ところが宣教使による布教は人員不足と内部の派閥争いにより効果を上げられず、明治五年三月には神祇省が廃されることになった。代わりに教部省を設置し、全国の神官と僧侶を教導職に任命して宣教に当たらせる神仏合同布教が始まった。東京芝の大教院を教導職の総本山として各地に中教院、小教院を設置し、そこで神官や僧侶の教導職が説教を行う。敬神愛国、天理人道、皇上奉戴・朝旨遵守といった三条教憲を中心に国民を教化し、キリスト教防衛と国民の道徳心・愛国心向上を目指した。この運動は宣教使時代よりは目に見えた活動ができている。

 さて、教導職制度が始まって約一年後の明治六年三月三十一日、曹洞宗永平寺管長の大教正・久我環溪が、俳諧師を教導職に任命してはどうかとの建白書を大教院に提出した。『教義新聞 第廿五号(明治六年八月)』に掲載された内容によると、俳諧師、特に「芭蕉派ト唱フル者」は「専ラ道学ニ心ヲ寄セ人倫ヲ正フシ」ているとして、「宗匠ト唱フル者ヲ挙ゲテ教導職ヲ命シ」、教導に尽力せしめてはどうかと述べている。環溪は当時江戸三大家と称されていた俳人の関為山、鳥越等栽、橘田春湖を推薦していて、この三名は五月三日に「訓導」として教導職に就任している。

 この建白の一ヶ月程前の二月十日には、神官僧侶に限らず有志の者を教導職に任命しても良いとの教部省通達が示されており、環溪の建白はこの通達に関連するものと考えられる。この時期は教導職の人員確保のために様々な提案がされた時期でもあった。同年一月八日には「陰陽師易者観相墨色判断者」や「軍談師並落語家」などを教部省の管轄とすべきとの伺書が教部少輔黒田清綱と大輔宍戸璣の連名で正院に提出されている。陰陽師は明治三年閏十月十七日の「天社神道土御門家免許を禁ス」との太政官布告で廃止されていたにも関わらず「施教ノ一助ナルヘシ」と俎上に載せられており、土御門家では無く教部省が新たに免許状を交付した上で教導職にするといった内容である。次いで軍談師や落語家は「敬神ノ道ヲ主トシテ談説ヲ致セシメバ」これまた施教の一助となるとしている。この伺書にはその他にも戸長や盲目者も教導職として動員することを謳っており、教部省が国民教化拡大のための人材確保に動いていたことが分かる。結果的にこの伺書は左院で「不被及」と否決されたが先述の通り神官僧侶以外を教導職する通告は出されることとなった。

 また先述の推薦の三名とは別に大教院で俳諧師の教導職試験が行われている。明治七年、三日間に渡って口述・筆記の試験が行われた結果、三森幹雄、鈴木月彦の両名が合格した。推薦により無試験で教導職となった「三大家」に対して、実力で合格した若手の三森幹雄らはこの後、俳壇でも宗匠達と比肩されるようになる。

 こうして俳諧師から教導職を輩出したことは、俳壇にとって喜ばしいことであった。俳諧師は江戸時代を通してある種の遊民で他の文芸活動からは下に見られており、教導職として国家の認定を受けたことで、俳諧師達の立場は向上したと言える。

 ところで明治六年八月二十四日には「教会大意(教部省通達番外)」が定められている。これにより「黒住吐普加美富士御嶽不動観音念仏題目等」の講社や教会について、教部省の許可を得れば設立できることになった。教導職は無給であり教化活動を自弁で行っていたため、神官や僧侶の教導職は自ら所属する寺院や神社の崇敬講社を申請することで教化活動を行うための費用や人員を確保するようになる。また「教会大意」は後の教派神道や中小規模の宗教団体が教会として政府の公認を得るきっかけにもなった。

 俳諧師側も同様で、教化活動のための組織・講社を作りはじめる。

 明治七年四月に関為山、鳥越等栽、橘田春湖の三大家により「其流派ノ徒ヲ鼓舞シ布教」するため、「俳諧教林盟社」が設立された。それまで俳諧師宗匠の許に集まる門人らによってそれぞれ流派が形成されており、こうした組織として編成されたことは画期的だった。やや遅れて明治七年七月二十日、三森幹雄も「俳諧明倫講社」を創設する。八月十三日に権大講義・鳥居亮信により結社願が提出され、八月十五日に権大教正・鴻雪爪、稲葉正邦から「差支これ無く」との添え書きを得て進達、八月二十日「願之趣聞届候事」と許可を得た。同月には『明倫講社規約』を刊行しているが、内容は「御教憲三則ノ大旨」を謹守して国教を更張すること(第一条)や、教会大意に基づいて助け合うこと(第二条)、「毎朝四柱大神産土神ヲ始メ皇上ヲ拝シ次ニ我信スル所ノ神ヲ拝シ又祖先ヲ拝」して異端を信仰しないこと(第六条)、毎月三日は説教をすること(第九条)などが盛り込まれているが、同時期の他の講社の規約と比べても特別変わったことは無く、俳諧に関してはわずかに「遊学」という俳諧行脚を指す言葉が使われている程度である。

 しかし同じく明倫講社の『俳諧社中内規約』では第一条に「祖翁ノ言行ヲ旨トシ物理ヲ明カニシ俗談ヲ正シウシ和ヲ専務トス可事」とあるように俳諧の大家・松尾芭蕉への崇拝が鮮明となっている。また三森幹雄は俳諧の旧習・悪習とされていたものをこの機に刷新しようと考えていたようで、第六条で俳諧行脚をする際には証書を持つべきことと定めていたり、第七条で点取俳諧の景品に「高価ノ景品」を出すことを禁じている。このことから越後敬子氏の研究では「政府が国民教化に有用として俳諧師を利用しよとしたのと同様に、幹雄・明倫講社も俳諧改良のために政府の国民教化策を利用していた」としている。

 『明倫講社規約』はともかく、この『俳諧社中内規約』はやはりもの珍しかったようで、幹雄がこれを大教院に提出した際には受付の者と内容について多少の問答があった。規約中の俳諧云々の語はいらないのではないか、十七文字で三條教則を説けるものなのかといった質問に対し幹雄は明倫講社が俳諧によって団結する結社であることを説明し、芭蕉の句「春たちて まだ九日の 野山かな」から三條教則を絡めた講釈を行った。幹雄によると「この句は天理の怠りなきと人の油断とを掛合わせて天理を尊み人を憐れみたる発句なり」と解釈ができるという。まくしたてる幹雄に対し受付は返す言葉がなく、規約を受理した。

 この他にも、「大津絵の 筆のはじめハ 何仏」という句は「題書ニ三日口ヲ閉正月四日ニ題ストアリ是ハコレ三ヶ日ハ松竹ヲ立注連ヲ張神国タル行ヲ成ス大切ナ日ジャニ依テ何仏ト云言葉ヲ忌テ四日ニ題スト書レタル者デアル」、「父母の 頻りに恋し 雉子の声」の句は「人ハ死するまで父母の恩愛を忘れざるを孝とハいふ也」「此御山ハ亡き人の遺骨を収め戒名をとヽめて永く祖先の冥福を祈る霊場なるに雉子の声の悲しく人を驚かすに扨々父母の恋しき事よと追慕の情をおこしたる事でござる」というように明倫講社では祖翁=松尾芭蕉の発句を三條教憲を中心とした教導職の教義的に解釈していた。

 また自らが発句を詠む場合にもこうした傾向が導入され、鈴木月彦の「向日葵や 暮れハ明けて 東むき」の句が「道不可変」を俳句化したものとして推賞されている。

 こうして登場した俳諧の二大結社であったが、為山らの教林盟社は「三大家」をはじめ年齢層が高く、幹雄の明倫講社はそれに比べると比較的若く新進気鋭が集まっていたようである。

明倫講社と教林盟社の対立

 この頃は教導職全体にとっても波乱の時期であった。前年の明治六年十月から始まった島地黙雷浄土真宗を中心とする大教院離脱運動がますます盛んになり、十二月大晦日には大教院が炎上し灰燼と帰した。明治七年は大教院離脱運動に浄土真宗の内部紛争まで加わって混迷を極め、ついに明治八年五月三日、神仏合同布教が差し止めとなり大教院制度は崩壊した。ただし教導職制度自体は残っている。僧侶の教導職はそれぞれの宗派本山の所属として布教活動を行う従来のスタイルへと戻ったが、神道教導職側には総本山が無いため、大教院の後継組織として「神道事務局」を立ち上げることを合同布教差し止め前から画策し、三月二十八日に教部省から許可を得ている。以降、神道教導職はこの事務局を中心に布教活動を行うようになる。

 このような時代背景の中、林教盟社は教化活動にあまり熱心では無かったらしい。明倫講社が積極的に開化思想を取り入れ、俳諧を道義を説くものとして布教しようとしていたのに対し、教林盟社は江戸時代から続く風雅を詠む伝統が残っていたようだ。活動としては設立後に句集『真名意』を発刊しているが、この序文には桜井能監が寄稿している。能監は天保の三大家の一人で「花の本宗匠」と呼ばれた桜井梅室の長男であり、伝統を重んじる宗匠達の保守的な姿勢が見受けられる。また明治十三年十月十二日には「芭蕉祭」を執行した。この際に『時雨まつり』なる小冊子を配ったようで、この他に教林盟社の目立った活動は特に見受けられない。

 対して三森幹雄の明倫講社は活発だった。明治十二年一月には雑誌『俳諧新報』を創刊している。「祖翁今世に在さばこの道の大教正たらんこと何の疑かあらん」(祝詞)「論説喩言に亘るものハ専ら勧善を主とし風流浦灑に出る者も多くハ節義に倚らしめ江湖青年輩をして近く敷島の道をさくるの階梯となさんとす」(緒言)、「我俳諧ハさすがに和歌の一体にて人心協和の要道なり」(賀正風社起立文)とあるように、俳諧が勧善懲悪・人心協和を説く「敷島の道」であることを宣言しており、三森が俳諧を風教的なものにしようとしていることがここでも伺える。しかし「僅カニ十七字ノ中ニ人倫ノ大道アル事ヲ認知セズ只徒ニ風月を伸吟シテ塵事ヲ俗ナリト賤シメ異体ヲ風雅ト心得ルノ族今尚ホナキニ非ルハ挙テ嘆スヘキ事ニアラズヤ」(「祝詞俳諧新報、明治十二年三月)とあるように、当時の俳壇では花鳥風月を詠むことが俳諧の風流だとする者も多かった。

 また明治十三年の十一月十四日には「花の本大明神例祭」を三森が祭主となって開催している。二十一日には大信寺で「惺庵西馬二十年祭」を同じく三森が祭主となり開催しているがその際、三森を含め教導職は神職の格好をしていたという。

 こうして雑誌発刊や祭事を行うことで俳諧の旧習を一新しようとしていた三森幹雄だが、「古老」の多い教林盟社もまた三森の攻撃対象となった。

 明治十三年十二月には新たに『明倫雑誌』を刊行しているが、翌年四月にこの誌上で教林盟社の代表だった橘田春湖の『芭蕉翁古池眞伝』を「真伝にあらず」と批判、春湖が多忙を理由に答弁を渋るとすぐさま翌号で追撃している。

 対して教林盟社側では先の「花の本大明神例祭」で三森が神職の格好をしていたことを挙げ、俳諧を神式で行うことは偏見であり明倫講社は神道説教場であって新聞屋俳諧の徒であると批判していたらしい。この陰口に対して鈴木月彦は「俳諧者流の教職を仰ぎ結社するは、国のため道のためにして、神に君に真心を以て仕へ奉り、終身教導に従事するがもとよりなれば、何社と唱え、何派といふとも、俳諧者流はかの古池の流れを汲まざる者なく、神道の道を遵守せざるものなし」と反論し、芭蕉を祖神として祭る明倫講社の立場を訴えている。

 両社の対立の影響は大きく、勝峯晋風『明治俳諧史話』には明倫講社の鈴木月彦の弟子だった松本蔦斎の語った俳諧師が教導職に登用された頃についての話が残されている。

 「いざ、試験と聞いて教養のない宗匠はみんな狼狽したさうです。さうでせうとも不合格になれば金看板の箔がへぎ落されて了ふのですからね。春湖や爲山は遊歴に名を藉りて地方へ行脚に出掛けたと云ひます。庵中に引込んで居留守を使つた宗匠もあつたさうですよ。月彦と幹雄とが登用されて、教導職試験係をも命じられたのですが、これまでの顔に免じてそれは勘辨してもらへまいかといふので、表向は試験をした事として爲山、春湖も教導職になつた譯でした」

 しかし実際は三大家が推薦で教導職となったのは幹雄の教導職就任以前であり、幹雄が教導職の試験監を担当したとは考えられない。このような話が出る程度の対立が発生していたのである。ただ、両社の社員はお互いに句会でよく顔を合わせており、合同で演説会や説教をよく行っている。演説会は、教導職が民衆教化によく使う手段であった。

神道芭蕉派の登場

 教導職を管轄していた教部省は明治十年に廃止され、後継として内務省社寺局が設置された。そして神道界が祭神論争を経た明治十五年一月二十五日、政府はこれまでの方針から転換して神官と教導職の兼務を禁止し完全分離を行った。これにより、兼務していた者は公務員として神社に奉職する神官となるか、もしくは宗教家として教導職を続けるかが迫られるようになる。明治十四年の内務省伺に記載されたように教導職は「宗教者ニ付スルノ職名」程度の肩書となっていた。仏教側の教導職はそれぞれの宗派が管轄し、神道側の教導職はこの年までに公認を受けていた黒住派、修成派、神宮派、大社派、扶桑派、実行派、大成派、神習派の傘下に入るか、神道事務局の直轄を受けるようになる。いわゆる教派神道の成立段階であるが、僧侶では無かった俳諧教導職もまた、いずれかの神道教派の傘下に入らねばならなかったようである。

 当時、橘田春湖が社長となっていた教林盟社は、明治十六年四月頃に平山省斎の起こした大成教の傘下となったようだ。明治二十三年の『神道各教派職員録』の中には、神道大成派の少教正の欄に「小野又右衛門 東京府平民」とあり、これは明治十九年に社長を引き継いだ小野素水の本名であろう。大成教は様々な講社・教会を受け入れた教団だが、平山は明治十八年に『俳教真訣』を刊行して「古池や蛙飛古む水の音此一句ハ芭蕉翁佛氏の所謂正法眼蔵涅槃妙心を悟得て之を十七文字に発せり」と芭蕉を称賛しているあたり、神道側へ所属した俳諧系講社にも理解を示していたようだ。

 対して明倫講社は社内で協議を行った。その結果「祈祷呪詛等を成者と同視せられむこと本意なければ、今般一万人以上の社員を募集し、俳諧神道派と云一派官許を蒙らむと決議せり。」(「神道俳諧派開設之説」『明倫雑誌』第三十四号、明治十六年十月)との結論に至った。こうして一万人の社員獲得に向けた運動が始まったが、江戸時代には既に各地に俳諧文化が根付いていたこともあり、翌十七年には既に社員一万人を獲得していたようである。ところが明治十七年八月十一日の太政官布達により教導職制度自体が廃止された。三森は教導職制度が無くなったにもかかわらず、神道枠内での教会の設立を邁進した。

 そして明治十八年三月十日、三森幹雄は明倫講社を「神道芭蕉派明倫教会」とする願書を提出、翌十一日に神道(本局)管長の稲葉正邦より「神道芭蕉派明倫教会ヲ六等トナシ証章ヲ与フル者也」との認可を得たのである。

 こうして神道本局の直轄教会として「神道芭蕉派」が誕生した。

 明治十九年四月には蕉風明倫教会と名称を変更している。先に紹介した『職員録』にも神道本局直轄の蕉風明倫教会の教会長として三森幹雄(少教正)の名が見える。

 しかし三森の俳諧神道の融合路線には批判も多かった。これに対し「芭蕉は天下の万民を和さしめ」た一道の祖であると著書で反論している。

 神道芭蕉派の結成後も三森は神道本局管長の稲葉正邦と共に巡教に出掛けるなど積極的に活動した。中でも力を入れたのは明倫講社結成の理由でもある俳諧の旧習一新だった。

 明治二十二年には俳諧矯正会を設立し俳諧界全体の改良を目指したが、そのためには教林盟社との提携も必要だと考え、会の本部を盟社側に置いても良いと協力を持ち掛けた。しかし盟社側には未だ伝統を重んじる者の多いため手紙で丁寧に拒絶されている。

 また明治二十六年の芭蕉二百年忌の際には芭蕉を祀る祠宇の建設を思い立ち、東京深川の地に芭蕉神社を建立している。十月十九日に行われた祭典には大成教の磯部最信管長や教林盟社の小野素水社長などが参加している。この時点で既に三森は大成教に近づいていたようで、翌年には明倫雑誌などの業務を養子の三森松江に譲り、芭蕉神社維持のために大成教古池教会を創設した。ここから『文学心のたね』という雑誌を発刊し、その購読料で神社の維持を行うとのことだったが、この雑誌は後に『明倫雑誌』と合併した。なお芭蕉神社は関東大震災東京大空襲という二度の厄災を経て消滅している。

 そして、この芭蕉神社建立の時期から「芭蕉如何に大俳家たりしとも其俳句皆金科玉条ならんや」と宗教団体設立までいった芭蕉崇敬の姿勢を「(評価しているのは)俳諧宗の開祖としての芭蕉にして文学者としての芭蕉に非ず」と批判する「日本派」の正岡子規が登場して写実主義の時代が到来し、俳諧に教訓を見る「旧派」は徐々に俳壇で隅に追いやられていくのである。

 

俳諧神道結社のその後

 ここまで神道芭蕉派なる教団の登場までを追ってみた。神道側の国民教化という要請と、俳諧側の旧習一新の思惑が合致した結果生まれた神道芭蕉派だったが、その隆盛は明治二十年代までだったようである。明治初期には明倫講社や教林盟社に限らず、曙庵虚白の水音社(大成教)や雅風教会(神道本局)など各地に多くの俳諧系の教会・講社が作られた。三大家の一人、鳥越等栽は晩年に教林盟社及び大成教を離脱して大社教の傘下で「花之本講社」を設立している。これら俳諧系教会は教導職制度の崩壊や正岡子規らを中心とした文芸としての俳句が広まると、その活動は徐々に終息していったようだ。一時期は俳壇の中心となっていた『明倫雑誌』は子規が名声を得た明治三十年代になってから徐々に投稿俳句数が減っており、三森死後の明治四十五年に廃刊となった。明倫講社も昭和九年の時点で「大日本天照教会」という名称になっており、詳細は不明ながら俳諧講社から脱皮したような名称となっている。

 大正三年の『神道教祖伝 : 霊験奇瑞』には大成教について神道系の教会が結集した教団として紹介しているが、その中でも淘宮術と共に「俳諧の一派の如きをも」と名指ししているあたり、この時既に俳諧系の講社が珍しくなっていたことが推測される。

 三森幹雄は維新前より俳諧だけでなく国学や禅、漢学など幅広く学んでいた。そして、「俳道」は「神仏儒三道の本を知る道」という信念を持っていたという。そもそも「俳禅一致」の言葉や『芭蕉翁古池眞伝』に代表されるように、十七文字の中に教訓や大道があるという考えは芭門俳壇に存在していた。江戸後期には心学や仏教との接近があった。だからこそ曹洞宗の久我環溪は俳諧師、特に「芭蕉派ト唱フル者」を「専ラ道学ニ心ヲ寄セ人倫ヲ正フシ」ている者として教導職に推薦したのである。そして江戸期から明治期に、仏教から神道に権威が移るのと同時期に、俳壇もまた時代の要請に応じて神道へと傾斜していったように見える。

 神道芭蕉派に代表される神道俳諧結社は、その珍妙な名称と、俳諧神道の接合という一見奇妙な形態から不可解に思えるかもしれない。しかし俳諧が教えを含むべきものと見なされていた明治二十年代まではその形態を多くの俳諧師が受け入れ、俳壇の中心をなしていたのである。

主な参考文献

勝峯晋風『明治俳諧史話』(大誠堂、昭和九年)

関根林吉『三森幹雄評伝 三十余年幹雄研究の結晶』(遠沢繁、平成十四年)

川島正太郎編「三森幹雄氏畧傳」(『現今名家書画鑑』真誠堂、明治三十五年)

村山古郷『明治俳壇史』(角川書店、昭和五十三年)

松井利彦『近代俳論史』(桜楓社、昭和四十年)

越後敬子「明治前期俳壇の一様相―幹雄の動向を中心として―」(『連歌俳諧研究 第八七号』俳文学会、平成六年)

加藤定彦「教導職をめぐる諸俳人の手紙―庄司唫風『花鳥日記』から―」(『連歌俳諧研究 第八八号』俳文学会、平成七年)

秋尾敏「<研究ノート>教林盟社の成立」(『短詩文化研究 五』短詩文化学会、平成二十四年)

遠沢繁「俳人三森幹雄の生涯とその活動について」(『石川史談 十六号』石陽史学会、平成十五年)

冨田和子「名古屋『雅風教会規約』にみる教導職制度の影響」(『椙山国文学 三三号』椙山女学園大学国文学会、平成二十一年)

青木亮人「「祖翁」を称えよ、教導職ー明治の俳諧結社・明倫講社と『田中千弥日記』について」(『同志社国文学 七十一号』同志社大学国文学会、平成二十一年)

鹿島美千代「明治期における美濃派-芭蕉二百回忌を中心として」(『桜花学園大学人文学部研究紀要 一三号』桜花学園大学、平成二三年)

安丸良夫宮地正人 校注『日本近代思想大系 五 宗教と国家』岩波書店、昭和六十三年)

神崎一作『神道六十年史要』(宣揚社、昭和九年)

西川光次郎『神道教祖伝 : 霊験奇瑞』(永楽堂、大正三年)

高山大枝丸『神宮官国幣社・皇典講究本分所・神道各教派職員録』(明治二十三年)

林淳「明治五年修験宗廃止令をめぐる一考察」(『禅研究所紀要第三十号』愛知学院大学禅研究所 、平成十四年)

 

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(『読売新聞 明治十九年一月十五日号』に掲載された神道芭蕉派の広告)

【関西】定例研究会のご案内

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次回の民族文化研究会関西地区定例研究会は、下記の要領にて開催します。万障繰り合わせの上ご参会ください。

民族文化研究会 関西地区第13回定例研究会

日時:令和元年5月18日(土)17時30分~19時30分
会場:貸会議室オフィスゴコマチ 411号室
京都府京都市下京区御幸町通り四条下ル大寿町402番地 四条TMビル
http://office-gocomachi.main.jp/
会費:800円
​主催:民族文化研究会関西支部

【東京】定例研究会のご案内

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次回の民族文化研究会東京地区定例研究会は、下記の要領にて開催します。万障繰り合わせの上ご参会ください。

 

民族文化研究会 東京地区第21回定例研究会

日時:令和元年7月21日(日)15時30分~18時
会場:早稲田奉仕園 セミナーハウス1階 小会議室102号室
東京都新宿区西早稲田2‐3‐1
https://www.hoshien.or.jp/
予定報告者:小野耕資(本会副会長・大アジア研究会会長)「権藤成卿の君民共治論」
      田口仁(里見日本文化学研究所講学生)「失われた調整型政治家 竹下登
会費:1000円
​主催:民族文化研究会東京支部
備考:この研究会は、事前予約制となっております。当会の公式アドレス(minzokubunka@gmail.com)までご連絡ください。また、会場の開室は15:30になります。それまではセミナーハウス内のラウンジにてお待ちください(今回は、開始時刻、部屋が異なりますのでご注意ください)。

新たな御代を仰いで――「令和」時代への展望

 御代替わりと改元が行われ、われわれは新時代「令和」を迎えました。われわれは、この新時代「令和」に、いかなる展望を描けばよいのでしょうか。新たな御代を仰ぎ、いかに国民的自覚を涵養し、来るべき国家社会を建設していけばよいか、会として下記の声明を採択し、指針を示すこととしました。

 

新たな御代を仰いで――「令和」時代への展望

 新たな御代「令和」を迎えるにあたって、まず第一に、上皇陛下・上皇后陛下が歩まれた三十年以上にわたる困難なお足取りとご姿勢を衷心から敬慕し、こうした上皇陛下・上皇后陛下の在られ方を、われわれ日本人の生活上・道徳上の模範として仰ぎ奉りたい。これを踏まえ、今上天皇皇后陛下を仰ぎつつ、「令和」という新時代を建設していかなければならない。

 顧みるに、「平成」は、災禍や不幸が重なった時代であった。上皇陛下の「おことば」にもあったように災害が頻発したことに加え、かつてない経済恐慌と地球規模のグローバリズムの拡大、そして何より我々が依って立つ「日本」という存在そのものが危うくなりつつある、そうした時代であった。然るに、畏れ多くも、これから迎える「令和」の御代が、後世において闇黒の時代のはじまりであったと評されるのか、また希望と復活の時代であったと記されるのか、定かでない。不遜ながら、それはわれわれ日本人の行動にかかっていると言えよう。

 思うに、個人としてのわれわれは実に卑小な存在である。「主体的に」風土や環境から切り離された自己を生き、世界を創りかえるなどという考えは増上慢ともいうべき思想であり、まさしく「さかしら」であると考える。我々が生きる俗世は常にカミのまにまに、風のまにまに存在するものであり、ときにその狭間で苦しみ、或いはのた打ち回り、生きることだけが人間に許されている唯一の道である。

 だとしても、それはただ世界に対して受け身であれ、ということではない。自らの存在の矮小さを認めながらも、常に世界に対して闘いを挑んでいくことこそが、我々が目指すべき途であり、常に古くて新しい「日本」を産み育てていくことにほかならない。日本神話では、万物を生成する大いなる力の働きを「産霊(ムスビ)」と言い表す。我々は「日本」という糸をつなぎ、織り、時には切り離し、そして「むすんで」いく。それは根底に柔らかかつ強靭な思想が常に躍動しており、頑迷固陋なイデオロギーとは無縁である。

 言い換えるならば、われわれは「日本」という糸を織る機織工であり、道無き荒野を行き、道を踏み固める先覚者であり、カミを畏れ、かつ護り、また育てる祭人(まつりびと)であらねばならない。そして何よりこの日本の上で産まれ、生き、死んでいった数多の先人の御霊を鎮め、祀り、その意思を引き継いでいかねばならない。

 われわれ日本人は、両陛下を仰ぎつつ、歴史を踏まえながら、あるべき未来を紡いでいかなえければならない。それが行われるのは、まさしく「今この瞬間」である。膨大な「今」を積み重ねていくこと、これこそ、我々がカミの道を生きるただ一つのあり方ではないだろうか。そしてこれこそが「中今」ということの本質ではないかと愚考する。

 当会は、かかる理念の下、その活動を通して、来るべき令和時代の新たな日本建設へと貢献せんと企図する。われわれは、カミの道における「中今」思想を上記の如く理解し、かつ実践するものである。

 

天皇皇后両陛下万歳

 

いざ子ども狂業なせそ天地の

     堅めし国ぞ大和島根は  藤原仲麻呂  万葉集

 

令和元年五月一日 民族文化研究会

【東京】定例研究会報告24 フランスと日本の刑事司法制度の比較・平成の大嘗祭

 平成31年4月28日(日)14:00~18:00、民族文化研究会東京地区第20回定例研究会が早稲田奉仕園にて開催されました。

 第一報告は、輿石逸貴氏(本会会長・弁護士)による、「フランスと日本の刑事司法制度の比較」でした。ゴーン氏逮捕を受け、フランスの司法制度に比べて日本の司法制度が劣悪だと報じられる傾向があるなかで、そういった認識は実態に照らすと誤解が多い旨を指摘しました。

 第二報告は、古屋鶴之助氏による、「平成の大嘗祭」でした。大嘗祭について造詣の深い氏により、大嘗祭の来歴、明治期における法制化、折口信夫大嘗祭論に対する疑義、葦津珍彦、上田賢治両氏の大嘗祭に関する論争など、興味深く、また現代的意義の深い論点が多く提示されました。

 今回は新しい参加者も迎え、懇親会も盛り上がる賑やかな会となりました。今後も、一定以上学問的・専門的な関心を持ちつつ、参加者が面白いと思えるような会運営を心掛けたいと思います。関心のある方はお気軽にご参加下さい。(事務担当・渡貫)

 

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輿石氏の講話風景

 

【関西】定例研究会報告18 「元号」をめぐる戦後思想史の一断面――葦津珍彦・上山春平の対論から考える

 去る平成31年4月20日に開催された民族文化研究会関西地区第12回定例研究会における報告「『元号』をめぐる戦後思想史の一断面――葦津珍彦・上山春平の対論から考える」の要旨を掲載させて頂きます。

 

はしがき

 去る平成三十一年四月一日に菅官房長官によって新元号「令和」が発表された。典拠は『万葉集』の巻五、「梅花の歌 三十二首」の序文「于時初春令月氣淑風和梅披鏡前之粉蘭薫珮後之香(初春の令月にして、氣淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す)」である。管見の限り、ほとんどの日本人は「令和」という元号名には違和を感じても、「元号」という存在そのものに反対はしていない(今ワードで「れいわ」と打ってみたところ変換は出来なかったが、いずれ「昭和」「平成」のごとくIT機器に定着し、それと同じく日本人の生活の中にも定着していくであろう)。それはひとえに今上天皇・皇后美智子両陛下の血のにじむような三十年以上にわたる歩みの賜物である。

 一方で、「元号不要論」もまた広く流布していることも見逃せない。「元号不要論」の検討はひとまず後段に譲るとして、まずは日本の「元号」という存在が一体、文化的・思想的にどのようなものなのか。またあるべきなのか、について本稿では考えていきたい。

 そのためのアプローチのひとつとして、本稿では神道思想家、葦津珍彦と「新・京都学派」に属する哲学者であった上山春平との「中央公論」誌上での元号をめぐる応答を読み解き、両者が元号、ひいては天皇という存在をどのように捉えていたかを明らかにしたい。なお、両者の応答が行われたのはちょうど「元号法」が制定されるか否かという時期であった(昭和五十四年(一九七九年)に元号法が可決)。そのような時代背景も頭に入れておきたい。

 

葦津論文「一世一元制の意義」

 葦津は「一世一元制の意義―精神文化の視点に立って」という論文にて元号の意義を説いている。本論文で葦津は戦後、元号制の維持に尽力した「進歩的」歴史学者津田左右吉の「ヨーロッパでもヴィクトリヤ時代とかエリザベス時代とかいふのは、その時代相を表現する場合が少なくない。日本の元号にもその働きがある」という発言を引用し、あくまで元号には文化史的な価値があることを力説する。また元号制保存論者は元号・西暦の並存主義であるのに比して元号廃止論者=西暦主義者は西暦一本主義を主張している点を問題視し、「もしも西暦一本主義で、元号制を廃止したら、その後の日本社会では、国民感情のすこぶる好ましからざる思想不自由の現象が出てくる」と指摘する。

 そして、葦津は戦後の新憲法制定時における各論者の元号論を通覧、比較検討しつつ、天皇による「国民統合」の象徴という存在を真に力強い存在にしていかねば成らないということを繰り返し述べる。その上で、「今の時勢では、不文慣習法は、なにかの事があるときには必ず大きな混乱をまねく。このままに放任しておくと、なにかの時に混乱を生ずるおそれがある(略)将来国民の間で、改元を望む者が出てきた時に、ただ昭和の元号を不文の慣習法だとして改元を拒否して永久につづけていくのか、適切な手続きを経て改元するのか、いつの間にやら解消するのか、それを論議の余地の無い明確な成分法令で定めておくべきである」とし、「一世一元の元号制度を、明確な成文法令で詳しく確定すべきだと思ふ」と元号法を成分化すべきだと主張する。

 しかし、この論には続きがある。この「一世一元制の意義―精神文化の視点に立って」を読んだ地方の神社の人物が、「天皇自身に裁可権がなく、内閣が決める元号は、本質において天皇元号とは呼べないのではないか」という趣旨の質問を葦津の元に送った。葦津はその質問を紹介しつつ、追補の文章を執筆している(なお、この二種の論文は発表した雑誌や時期がそれぞれ別であるが、筆者が参照した『みやびと覇権』では一つなぎの文章として所収されている)。

 葦津はまず伊勢神宮遷宮の例を挙げる。戦後は伊勢神宮遷宮に関しては法典が定められていない。しかし、葦津は「天皇の法的な命令がないからといって、また法的な国家機関ができないからといって憲法を改正するまで御遷宮をやめておいた方がよいとでもいふのであろうか」と葦津らしからぬ強い調子で反問している(傍点は葦津)。

 さらに葦津は「現憲法はよろしくない」とはしながらも、「現憲法反対といふことの熱意はよろしいけれども、現憲法反対といふことの熱意が脱線して(中略)国体を傷つけるように傷つけるように解釈しようとする三百代言的な解釈に熱中するといふのは、まことに愚かである」と断ずるのである。その上で葦津は実質的に改元されれば形がどうであれ、さしたる差は無いとまで言い切っている。

 ここで葦津の論は奇妙な矛盾を孕むことになる。「元号法の成文化」を強く訴えながらも、憲法を含めた法の枝葉末節にこだわるな、と説いているのである。どちらが葦津の本心なのであろうか。

 

上山論文「元号天皇

 そしてこの葦津の論文に哲学者の上山春平が中央公論誌上で「元号天皇」という文章を発表した。上山はまず天皇の問題を「千数百年の歴史を持つ律令の遺訓を、西欧伝来の近代立憲制の体系の中に割り込ませ」た事そのものがそもそもの要因であるとする。その上で、日本の法思想史を概観し、「平安朝以来の京都の律令政府は細々ながら一貫して存続し(略)律令政府の頂点に位置する天皇の位は、連綿と伝承されつづけた」との史観を披瀝する。確かに天皇を頂点とした律令政治体制は早い時期に崩壊したものの、明治期まで名目上は存続していたことは事実である。

 その上で上山は皇室典範から皇位継承関連の条文が削除された現憲法下においても、「天皇の家計に伝承される皇位継承関係の儀式が、「事実たるの慣習」として踏襲されることを認めざるをえない事態が生じている」とし、元号制度は「不文の慣習としての旧態にもどされたのであった」とする。「もどされた」という表現を上山が使っていることに注目されたい。

 このようにして前提となる論を積み上げた上で、上山は現憲法下では元号制定の主体は内閣総理大臣と見なすほかは無い、との見解を示した上で、戦後の憲法制定時の識者の論や左右の論者の意見を通覧していく。そして上山は元号法賛成派も反対派も「元号制定の行為は国務的な行為であるから、現行憲法においては、天皇の権限に属さない、という見解を、どちら側も動かしがたい前提と見なしている」と疑問を呈する。そして前述の葦津論文に言及するのである。

 上山は「親しい友人を通じて葦津珍彦のすぐれた人柄についてはかねてうかがっており、この人の書かれるものは、数ある神道思想家たちのなかでもとくに説得力に富んでおり、論理的で筋の通っているという印象を受けていた」としながらも「この文章は、感情の激発のみが表面に出てしまって、はなはだ説得力を欠くものとなっている」と評する。そして上山は「いま政府の用意している元号法案が、そのまま通過するという形で元号の法制化が行われるのを善しとしておられるのか。元号制定の主体を内閣と解するほかない政府案に賛成なのか」と糾しているのである。上山はそもそも天皇の権限が戦前に比して極度に縮小させられた日本国憲法下で元号法が可決されたならば、長い歴史を持つ慣習である元号という文化そのものが天皇の下から離れ、変容してしまうのではないか、との疑念を呈しているわけである。

 ちなみに上山は元号に関しては「躊躇なく存続を望んでいる」としている。しかし様々な錯誤や混乱の下で行われる元号法制化」には反対する。「いっそ不文の慣習法もしくは「事実たるの慣習」としての姿のままにしておいた方が、へたに法制化するよりもましなのではないか」との意見を表明するのである。

 この論文から伺える上山の元号観は「法ではなく、積み上げてきた歴史そのものにその本質を見る」ということであろう。事実、上山は論文中にて「もともと法律論というのはタテマエ論である」とかなり大胆な発言をしている。では上山の本音は何か。上山は「新年号は使いたいものが使えばよい」としながらも、「少なくとも国民の半数以上は使うことになるのではあるまいか」とする。筆者が上山の本音を代弁するならば「近代以降の西洋流法律論の枠組みには天皇(とその存在に付随する元号などの様々な文化)は到底納まりきらない。無理にその枠組みに天皇を当てはめようとすれば、それこそ重大な歴史的損失である」とまとめられるであろうか。

 

葦津の応答「元号天皇―上山春平氏に答えるー」

 この上山の指摘を受けて、葦津は同年の中央公論7月号に「元号天皇―上山春平氏に答えるー」を発表した。葦津は上山の論を整理した上で、「思想的にまったく異存は無い」とする。しかし、異見もあり、葦津はまず戦後の憲法制定時の歴史を紐解き、新憲法では内閣が天皇の同意を得る行為(当然法的な裁可という意味ではない)の中でも最も重いものが「御聴許」であるという事実を引き、戦後すぐの憲法論議では政府代表の金森徳次郎憲法の改正は国体の変更を意味するものではない、という立場を堅持していたことや、憲法学者宮沢俊義が「実際政治のうえでも明治憲法と変わらない」との解釈を有していたことを挙げていく(ただし宮沢は後に変節する)。葦津はこれらの法解釈を「法的な解釈がなくとも、政治的または徳義的な聴許のことについて考えれば、「実際政治のうえでも変らない」とのロジックも理解できる」と評している。また、吉田茂もこの立場であったことを紹介している。ただし、葦津はこのロジックは信じてはいなかったとも付記している。

 葦津はこれらの論を下敷きにして「元号のような「皇位」と不可分のことは、御聴許を得ればいいと思った(略)不文慣習法としておくのがもっともいいと思っていた」と告白する。ではなぜ成文化を唱えたのか。その理由を「政府の解釈が時の推移とともに変なことになってきた」からであるという。詳細は書かれていないが、葦津は当時の政府や官僚に何らかの不信感を持っていたらしい。しかし葦津はあくまで「御聴許があればいいではないか、条件付賛成である」と結んでいる。つまりは上山とほぼ同意見であるわけである。

 しかし、葦津と上山には相違点もある。葦津は上山の「律令制が名目上も続いた」という論は基本的に同意しながらも、改元の発議権は幕府にもあり、天朝の意に反する元号が定められたこともあったことを指摘。葦津は天朝にあったのは「公布権のみだった」とする。それに比して内閣が昔の幕府のようにほしいままに政策的に改元を発議することは現在は許されていない。この状況は「幕府時代よりもはるかに「天皇元号」にふさわしいではないか」とする。

 では葦津の真の目的は何か。「改元時の円滑を期するためには、法案が成立したほうがいいと思って同意している」と上山に回答している。要するに政治的手段に過ぎないとしているわけである。

 むしろ葦津にとって大事なのは、元号、引いては天皇という存在がいかにして日本人に厳かなる「象徴」として共有されえるのか、という一点にあったのではないか。葦津は新元号公布の際に勅語あるいは「御言葉」を煥発されるのがいい、としている。そしてその上で「政府の元号法案がなくても、律令制以来の元号は必ず伝統的に社会的存続するとの確信」を持っている

 葦津と上山は細かな差異はあるものの、律令制以来の天皇およびそれに付随する様々な文化を守ろうとしている点は一致している。そして天皇という存在を近代以降の法に収まらない(さらに言えば上位の)存在であると認識していたということである。何よりも葦津も上山も日本人が「元号」という文化を法に関係なく使い続けるであろうという確信を持っていたのである。

 

むすび

 本論では葦津・上山の元号に関する論考を比較検討した。葦津と上山は元号に対する思想はそれほど隔たりがあるものではなく、むしろかなり近いものであった。

 さて、ここで最初の問題に戻りたい。現在の「元号否定派」についてである。現在の元号否定派はかつてのような左翼思想から反対しているのではない。要は「不便だから」なくしてしまえと主張しているわけである。事実、SEの業界などでは、元号変更の手間はかなり現場を圧迫しているようである。基本的に変更が無い西暦に比して、定期的に名称が変更される元号制では不便ややりにくさを感じるのも無理からぬことである。現代のような高度に発達した情報社会ではなおのことである(その意味で新元号発表を一ヶ月前としたのはまずい政治的選択であったように思われる)。

 この立場に立つ「元号否定派」の思想とは新自由主義、あるいは高度金融資本主義のそれである。世界を覆うこのようないわばグローバリズムの波に対してその地域の固有の文化や思想をいかに護っていくか。現代の元号問題はそのようなまさしく今日的な課題を内包しているのである。

 

 

参考文献

葦津珍彦『みやびと覇権―類纂天皇論―』神社新報社 昭和五十五年二月

上山春平「元号天皇」『中央公論 昭和五十四年五月特大号』中央公論社

 

【東京】定例研究会のご案内

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 次回の民族文化研究会東京地区定例研究会が近日に迫りましたので、改めてご案内致します。次回の民族文化研究会東京地区定例研究会は下記要領にて開催しますので、万障繰り合わせの上ご参会ください。

 

東京地区第20回定例研究会
日時:平成31年4月28日(日)14時~17時
会場:早稲田奉仕園 セミナーハウス1階 小会議室105号室
東京都新宿区西早稲田2‐3‐1

https://www.hoshien.or.jp/

予定報告者:輿石逸貴(本会会長・弁護士)「フランスと日本の刑事司法制度の比較」
      古屋鶴之助「平成の大嘗祭
会費:1000円
​主催:民族文化研究会東京支部
備考:この研究会は、事前予約制となっております。当会の公式アドレス(minzokubunka@gmail.com)までご連絡ください。また、会場の開室は14:00になります。それまではセミナーハウス内のラウンジにてお待ちください。