民族文化研究会

わが国の伝統的な民族文化・民族生活ならびに世界の諸民族を取り巻く問題を研究

【関西】定例研究会のご案内

来月の関西地区定例研究会を、下記要領で開催します。万障繰り合わせの上、ご参会ください。

 

民族文化研究会 関西地区第3回定例研究会
日時:平成30年7月8日(日)16時30分~19時30分
会場:貸会議室オフィスゴコマチ 4階 422号室
京都府京都市下京区御幸町通り四条下ル大寿町402番地 四条TMビル
​http://office-gocomachi.main.jp/​
会費:500円
​主催:民族文化研究会関西支部
備考:参加希望者は、事前に当会アドレス(minzokubunka@gmail.com)までご連絡ください。

 

【東京】定例研究会のご案内

来月の東京地区定例研究会を、下記要領で開催します。万障繰り合わせの上、ご参会ください。

 

民族文化研究会 東京地区第16回定例研究会
日時:平成30年7月22日(日)15時~18時
会場:早稲田奉仕園 セミナーハウス1階 102号室
東京都新宿区西早稲田2‐3‐1
https://www.hoshien.or.jp/
会費:1000円
​主催:民族文化研究会東京支部
備考:参加希望者は、事前に当会アドレス(minzokubunka@gmail.com)までご連絡ください。

【関西】定例研究会報告3 アントニー・D・スミス『ネイションのエスニックな諸起源』紹介

 去る平成30年6月3日の民族文化研究会関西地区第2回定例研究会における報告「アントニー・D・スミス『ネイションのエスニックな諸起源』紹介」の要旨を掲載します。


ナショナリズム論の最大の争点

 ネーションとナショナリズムの理論にとって、もっとも重要な理論的争点とは何か。ネーションとナショナリズムは近代の産物か否か、という問いこそが、それであろう。

 

○原初主義あるいは永続主義と近代主義

 ナショナリストの目から見ると、ネーションの起源は、たいてい古代にある。ネーションは、家族や村落と同じように、人類史を通じて、ほぼ恒久的に存続してきた、と考えられる。だがこの説は、歴史学者社会学者には、あまり評判はよくない。多くの学者は、いくつもの事象的な事実から推察して、ネーションやナショナリズムは近代社会の産物の一つであり、それ以前には存在していなかった、と結論した。前者は、原初主義あるいは永続主義と呼ばれ、後者は、近代主義と呼ばれている。

 原初主義……エドワード・シルズ

 近代主義……ベネディクト・アンダーソン、アーネスト・ゲルナー、あるいはホブズボーム

 アントニー・D・スミスの『ネイションのエスニックな諸起源』は、ナショナリズム論の最大の争点に、最終的な決着をつけようともくろむ。

 

○スミスの紹介

 Anthony David Stephen Smith(二五九九~二六七六)

 スミスは、ロンドン大学政治経済学部に付属する、ヨーロッパ研究所の「エスニシティナショナリズム研究部門」の主任研究員である〔当時。後にロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授〕。

 最初オックスフォード大学ワドハム・カレッジで古典と哲学を研究した。その後、研究の中心を、歴史学政治学、そして社会学へと移していく。ロンドン大学で博士論文を執筆したときのアドヴァイザーは、アーネスト・ゲルナーであった。近代主義の代表的論者ゲルナーは、その後、スミスにとっての最大の論敵となる。一九九〇年に、イギリスの「エスニシティナショナリズム研究学会」(民族学会)の設立に参加し、同学会の会長を務めた。ナショナリズムエスニシティを論じた多数の著書がある。八六年に出版された『ネーションのエスニックな諸起源』こそは、まぎれもなく彼の主著である。

 

○「日本」はいつ始まったか

 素朴な通念と学会の有力説とは、逆立している。すなわち、通念としては、原初主義が一般的だが──たとえばわれわれは「日本史」と言うとき、前近代の段階において、すでに「日本」という国民的共同体(の萌芽)がすでに存在していると考えるが──学界に広い影響力を与えた理論には、近代主義に立つものが多い。

 

○スミスの思想

 スミスは、原初主義と近代主義とを、一挙に総合しようとする。

 スミスの考えでは、近代主義者はある意味で正しい。ナショナリズムの運動は、一八世紀の後半に始まった現象であって、それ以前にはない。特殊にナショナルと見なしうる感情の萌芽は、西欧の場合には、一五─一六世紀に見いだされるが、それより古いわけではない。国民国家(民族国家)が、政治的な軌範と化すのはまちがいなく近代になってからである。だが──スミスは言う──近代主義にも難点がある。前近代にも──古代においてさえも──ナショナルな一体性やナショナルな性格に類似したものが、発見されるというのだ。

 ギリシャ人やローマ人が異文化を有する人々に向けたまなざし……ペルシアの領土拡張に対するイオニア人の抵抗……ガリア人によるシーザーへの抵抗 ナショナリズムの運動によく類似している


 そこでスミスは、近代主義に修正を加える。〔……〕原初主義を規定的な前提にして、そのうえに、近代主義を積み重ねるのだ。

 ネーションは無から生み出されたわけではない。ネーションは、エスニックな基礎や起源をもっており、そこから発展してきた、とする

 

■エトニからネーションへ

 

○エトニ

 スミスは、ネーションの素材とも言うべきエスニックな共同体を「エトニ ethnie」と呼ぶ
 次のような特長によって定義される。
 ①名前をもつこと。
 ②共通の血統神話。
 ③歴史の共有(とりわけ黄金時代の記憶の共有)。
 ④独自の文化(言語、慣習、宗教など)の共有。
 ⑤ある特定の領域(聖地や故郷など)との結びつき。
 ⑥連帯感。

 スミスによれば、〔……〕エトニは、人類の歴史のあらゆる段階において恒久的に存在してきた。

 

○二つの類型に区分 共時的

 第一に、水平的に、漠然と広範囲に広がるエトニ 水平的・貴族的
  貴族的なもの 都市の裕福な商人層や、聖職者、立法学者などを主たる担い手とする

 紀元前一〇〇〇年までに北インド平原に展開した、アーリア人

 第二に、社会の全階層に垂直的に浸透し、強い凝集力を発揮するエトニ 垂直的・平民的
  平民的なもの 都市を基盤として成立し、聖職者、商工業者を構成員としていた

 都市国家間の隣保同盟(古代シュメール、フェニキアギリシャなど)、「辺境」のエトニ(マジャール人クルド人など)、部族連合(オスマントルコ人ペルシア人、アラブ人など)、ディアスポラセクトユダヤ人、アルメニア人、ドルーズ、パールシーなど)の四つに下位区分される

 垂直的・平民的エトニの構成員を結びつける接着剤は、水平的・貴族的エトニのそれよりもはるかに強力で、しばしば宗教的であった 

 

○通時的な次元でのエトニの特徴

 エトニのなかには、性格を変化させながらも、何千年も存続するものと、歴史の中に消滅していってしまうものとがある。イギリス人、ギリシア人、エジプト人などが、性格を変化させつつ存続していた例にあたり、ヒッタイト人、フェニキア人、ペリシテ人などが、消滅したエトニの例に入るだろう。

 何がエトニの存続(\消滅)を規定する要素なのか〔……〕決定的な要素は、宗教的な条件

 

○いかにしてネーションが形成されたか

 ネーションへの移行の端緒は、はっきりしない
 西洋に於ける次の三つの革命が、ネーションへの熱望を不可避なものとした

 第一に、経済的革命、分業における革命 一般に「資本主義への移行」と呼ばれる
 高度な経済統合の形成を意味する。領域内に経済的な中心地帯が生み出され、その中心と周辺・準周辺との経済的交換が、中心地帯によってコントロールされる
 職業システムが、地域的に分離されていた状態から、領土全体に広がる単一の分業システムへと転換する

 第二に、政治革命、行政管理における革命
 工学と兵站学の進歩は、科学・技術の訓練を受け、専門知識を身につけた軍事専門家という階級を生みだした。さらに、この階級は訓練された官僚を要請する。官僚国家は、裕福なブルジョワ階級と知識階級とを育成することになった。そして、ブルジョワ階級は、みずからの利益や威信を極大化するために、伝統の国家主義的政策を引き継ぎ、強化することになった。

 第三は、文化・教育革命
 主権国家が、現世的で可視的な救済を約束することで、かつての神の位置を占め、教会の権威に取って代わることになる。国家による、教育の中央集権的な併合は、結果的に、標準化された愛国的文化を利用して、献身的で政治意識を有する市民を形成することにつながった。

 

○ネーションの二つの類型

 ハンス・コーンによって導入されたダイコトミーにしたがったもの

 領域の共通性の感覚に基礎を置くネーションは、法による結びつきを基幹とすること、市民権によってメンバーシップを規定すること、そして共通の文化を有することなどを特徴とし、主として西欧に生まれた。

 既存のエスニックな絆を基礎とするネーションは、想定された血の結びつきを重視すること、人民主義的であること、法よりも習慣や方言に重点があること、伝統的な土着主義の傾向などによって特徴づけられ、東欧や中東にしばしば見られる。

 

○ネーションをどのように形成するか

 ネーションとナショナリズムは、基本的には西欧の概念である。すなわち、それは、固有の領土のうえに成立する、諸権利を与えられた平等な市民による、法的な共同体である。だが、たとえば、アジアやアフリカの植民地に、こうした西洋モデルを直接に導入しても、ほとんど成功しない。ネーションを定着させるためには、血統神話、歴史的記憶、共通文化に訴求することによって、多様な諸階級を引き付け、動員できなくてはならない。要するに、西欧の領域的なモデルを定着させるためには、それに対抗するもう一つのモデルを、つまりエスニックなモデルを援用しなくてはならない。

 インドの例
 インドでは、一九世紀の前半に西欧モデルが導入されたときには、中流階級上層部に属するバラモンの集団などごく一部の階層を動員できただけであった。しかし、ティラクやオロビンドがインド・ネーションの概念を普及させるために用いたのは、西欧的な市民モデルではなく、ヒンドゥー教の伝統であった(このことは、結果的に、インドの血統的なネーションから、イスラーム教徒やシーク教徒を排除する事を意味した)。このように、市民的で領域的なネーションが成立するためには、ほとんどいつも、エトニの伝統が想起されなくてはならなかった、というのである。翻って考えてみれば、事情は、西欧の最初のネーションにおいても変わらない。

 

○エトニはどうネーションに昇華されているのか

 近代の三つの革命に直面して、エトニは、外部からの孤立、受動性、文化的順応の状態から、外部に対しても動的に働きかける活動主義者にならなくてはならない。また、かつての聖職者に代わる、「新しい聖職者」として、科学的知識を有する知識人が、指導的な地位に登場してこなくてはならない。さらに、エトニは、ある程度の自給自足によって、経済的に自立した単位へと編成される。そして、何よりも、エトニがネーションへと転換するには、その成員が「市民」にならなくてはならない。そのためには、選挙権が拡大される事が必要なことはもちろんだが、より一層重要なのは、エリートと大衆を結ぶ新しい情報伝達様式が確立され、全成員が動員される事、こうして生まれた新しい大規模な単位が、かつてのローカルな忠誠心を包摂してしまうこと、である。こうしたさまざまな処置を通じて、エトニはネーションへと、つまり三つの革命への対処を目的とする一種のゲゼルシャフトへと変容する。

 

○エトニへの訴求

 くり返し強調するならば、ネーションが完成するためには──スミスの考えでは──それは、エトニへの訴求によって補完されなくてはならない。ゲゼルシャフトとしてのネーションに、実質的な連帯を保証し、人々に明確なアイデンティティの感覚を与えるエスニックな要素とは、とりわけ、共有された「過去」についての記憶である。つまり、ネーションは歴史を必要とする。ネーションは知識人を動員して、過去を再構成しなくてはならなかったのだ。

 近代社会に見出される、顕著な逆説の一つは、次の点にある。近代的な市民社会は、人類史上、圧倒的に強い変革への渇望を持って現れるのだが、そうした未来志向的な渇望の強さにちょうど比例して、より深い過去へとまなざしを向けようとする郷愁もまた強化されるということ、これがその逆説である。こうした二重性を、スミスの議論は、ネーションがエトニを基盤とせざるをえなかった、という事実の一つの現われとして、理解しようとしているのである。

 「近代的なネーションは、近代主義者がわれわれに信じさせようとしているほどには、「近代的」でない」。その意味するところを、スミス自身にしたがって、もう一度整理しておこう。
 第一に、ネーションは、一挙に達成されるような静的な目標ではない
 第二に、ネーションが生き残るためには、エスニックな核が必要である。
 第三に、新興国家の使命感を持ったナショナリズムは、その情念を、とりわけ平民的な累計のエトニから引き出している。
 第四に、ネーションは祖国を必要とする。
 第五に、ネーションは黄金時代を必要とする。
 これら、諸項目が、近代的なネーションが「古い」という結論を支持している、というわけである。

 

参考文献

Anthony D. Smith, The Ethnic Origins of Nations, Basil Blaickwell, Oxford,1986.
『ネイションとエスニシティ──歴史社会学的考察』巣山靖司他訳、名古屋大学出版会、1999年

ナショナリズム論の名著50』大澤真幸篇、平凡社、2002年

【関西】定例研究会報告2 神道の現代的再生に向けて――『現代思想増刊 神道を考える』を中心に

 去る平成30年6月3日の民族文化研究会関西地区第2回定例研究会における報告「神道の現代的再生に向けて――『現代思想増刊 神道を考える』を中心に」の要旨を掲載します。

 

はしがき

 

 「神道」とは一体何なのか。この問いに対して、統一した答えは未だに存在しない。日本を戦争に引きずり込んだ悪しき前近代的イデオロギーなのか、はたまた環境保全につながる「エコな」思想であるのか、古代から連綿と続く日本人の土俗的信仰であるのか。百人いれば百通りの神道観が存在しうる。あらゆる宗教、もしくは思想は多様な解釈が存在するものであるが、神道の場合はその解釈の数も幅も膨大である。なぜそうなってしまったのか。

 一つには、神道がそもそも教義経典を持っていなかったことが挙げられる。記紀神話、あるいは風土記のようなテキストは存在するものの、キリスト教における聖書、イスラム教のコーラン、仏教の諸経典の存在とは明らかに異質である。「神道非宗教説」が唱えられる理由の一端がここにあるわけだが、それだけでは神道の抱え込む世界がなぜここまで大きくなったかの説明としては不十分である。

 日本の中世には神話の様々な解釈、読み替えが行われた。また偽書の類も大量に編まれ、荒唐無稽ともいえるような多様な日本神話、あるいは神道の姿が生み出された。これらは学術用語で「中世日本紀」と呼ばれているが、中世では古事記日本書紀は必ずしも絶対的なテキストではなかった。むしろ多様な神道、神話の中の一つであったと表現したほうが適切であったろう。神道はある意味カオスとも言える中世日本紀の世界を経由したからこそ、膨大な解釈が編み出される余地を有しているとも言いえるのである。

 さて、昨今この「中世日本紀」の研究が思想史学、民俗学歴史学等の分野で急速に進んでいる。その背景には、近世を経て近代に至り、国家の統制の下で単一的な読み方に再構成された記紀神話もしくは神道に対するアンチテーゼとして、中世の「豊かな」神話群を読み直していこうとする意志がある。当然ながら、その営みからは「国家」や「民族」なるものは排斥される。

 神道を現代に通用する宗教もしくは思想として近代以前のテキスト群を読み解く営為は不可欠であるのは確かである。しかし、ではどのような方向性を持ちつつ、それを行えばよいのか、本稿はそのための手がかりを多少なりとも示すために書かれたものである。

 そのために、本稿では平成二十九年二月臨時増刊号として発行された『現代思想 神道を考える』に所収された対談、「歴史としての神道神道の可能性を考える―」を適宜引用しつつ、「神道」がいかに現代に再生できるかを考えていきたい。

 

対談「歴史としての神道神道の可能性を考える」を中心に

 この対談は伊藤聡・昆野伸幸・斎藤英喜・永岡崇ら四人によって行われた。この四人はいずれも思想史学、歴史学民俗学あるいは神話学といった各方面のトップランナーといっていい顔ぶれである。また中世・近世・近代と、専門とする時代区分は違えども、近代以降の神道を相対化しようとしている点は共通していると思われる。

 対談では、神道が超歴史的に存在した日本人の伝統的心性ではなく、時代によって様々に変貌してきたことをまず指摘する。伊藤聡は近著『神道とは何かー神と仏の日本史』の反応が中世日本紀をも神道の持つ多様性の産物である、とする捉え方が多かったことに対し反感を示し、以下のように述べる
  
  伊藤:(略)神道というのは日本だけに閉ざされたものではなくて世界に開かれた宗教という文脈でとらえかえされてしまった。(中略)むしろ、さまざまな要素を取り込みながらも、最終的に日本固有ということに落ち込んでいってしまうということこそ、神道が孕んでいる問題なのだ、と思っています。

 

 ここには「神道」を日本固有のものとして捉える見方そのものに対する伊藤の拒否感がはっきりと表れている。つまり伊藤が考えている「神道」とは「日本」を前提としていないのである。

 その議論を引き継ぐ形で近代の国体・皇国史観の再検討を行っている昆野伸幸は

 

  昆野:(略)国家神道皇国史観と呼ばれるものの実態は実はもっと多様で色々なバリエーションがあったと私は考えています。ですから、近代の神道を旧来の一枚岩的な形で見るのではなくて、多様性のほうを重視して見ていく必要がある。(略)皇国史観と言われるような歴史観も極端な話をすれば『古事記』や『日本書紀』の神話を都合よく解釈した大きな意味での近代神話あるいは偽史のひとつと言ってもいいかと思います。

 

 昆野は近代以降の国体もしくは神道を単一のものとして見る見方そのものに疑義を呈している。この発言を受けて斎藤英喜は「皇国史観も「偽史」であるというのは非常に重要な指摘だと思います」と賛意を示している。
 斎藤はこれらの議論を踏まえつつ

 

 斎藤:(略)神話テキストを注釈・解釈していく行為を通じて、記紀神話を超えてしまう、新しい「神話」の可能性があるのだと。こうした神話解釈史の運動は、中世のみならず、近世の宣長や篤胤、重胤などの国学者などの注釈世界、さらにそれを近代の「学問」として展開させていった折口信夫のなかに見いだせるわけです。

 

 と中世日本紀のような多様な神話解釈に可能性を見出し、その延長上に折口信夫を位置づける。実際、斎藤はこの対談でも神社本庁を設立し、戦後唯一の神道思想家として活躍した葦津珍彦を折口と対比し、折口の側に積極的な価値を見出している。斎藤はこの対談集の他に「神道大嘗祭・折口 ―<神道>はいかに可能か―」にて折口の神道観を分析し、「敗戦後の折口信夫の「神道宗教化」の議論は、神道という「民族教」を基点としつつ、それを超克する「人類教」をめざした、大いなる思考実験でもあった。神道なるものに附着する天皇、宮廷、先祖崇拝、多神教的な習俗の一切を脱却した、宗教としての極北の地平へ」と結んでいる。斎藤は折口の神道観を中世日本紀の系譜を引き継ぐものとして捉え、「日本」を排除した神道を志向している。

 さらに対談で伊藤は「神道が自然崇拝を本質とするというのは看板に過ぎないと前から思っている(笑)。」と発言。この発言を受けて斎藤も「神道の側はグローバリゼーションを批判できないから原発も批判することができない。常に相互補完になっている」と現代の神道を批判している。対談者全員は神道の再生とグローバリゼーションとの対決という点では一致しており、現代の神道はその任に堪え得ないと見なしていると思われる。

 以上、本稿で神道を考える上で重要と思われる箇所を対談から抜き出して論じてきたが、この対談全体を通してみると近代以降の画一化した神道を中世日本紀や折口の神道観に依拠しつつ相対化、乃至は乗り越えようとする意思はおおむね共通している。神話の多様な読み替えによって「近代」なるものの宿唖を超える「何か」を志向しているのである。私も基本的に、その手法自体には賛成する。しかし、「中世日本紀」という解釈群が生まれた背景には中央の権威や権力が徹底的に零落もしくは破壊された「中世」という時代があったという事実を見逃すわけにはいかない。

 この中世という時代は洋の東西を問わず様々な思想や宗教、神々や仏が互いの正当性を賭けて苛烈にぶつかり合う混沌の世界であった。その世界に互いが互いを認め合う「多様性」なるものは一切存在しない。

 21世紀は過激派イスラム勢力のアメリカへのテロで幕を開けた。現在に至るまで、世界各地であらゆる宗教・宗派が生存のために、己の信ずるもののために激しい闘争を続けている。その意味でまさしく現代は「新たな中世」といえる(もしくは先進諸国では現代は「神無き中世」とも表現できるであろう)。日本の中世社会の混沌ぶりを象徴する「応仁の乱」を題材とした呉座勇一氏の『応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱』がベストセラーになったという事実はまさに世界の中世化を人々が肌身で感じていたからではなかったか。

 むしろ混沌とした中世という時代が生んだ中世日本紀と呼ばれる多様な神話の解釈群は現代のグローバリズムやそれが行き着いた先にある社会的ダーウィニズムと非常に親和性が高いのではないか。現代日本でも貧困による社会階層の分断が進み、深刻なディスコミュニケーションがそこここで引き起こされている。かつての日本にあった「阿吽の呼吸」「察し」などという概念はほとんど通用しなくなってしまった(なおADHDアスペルガー症候群なる症状が大きく喧伝され始めたのは日本社会の分断による相互のコミュニケーションの不可能性が表面化したからではないかと私は考えている)。

 欧州での移民問題ひとつ見ても、もはや「多様性」なるものが実は深刻な危険性を持っていることが了解される。もはや我々は「多様性」なるものに積極的な評価を持つことは出来ない。仮に「多様性」なるものが大いに担保された社会があればどうなるか。個々の人間、そして集団がそれぞれの独自の神話や思想、宗教を作り上げ、それらの正当性を巡ってひたすらに闘争を続けるであろう。「まさに万人の万人に対する闘争」である。我々はそのような社会が生み出す集団の先駆的な存在を既に知っている。言うまでも無く、それはオウム真理教である。オウムは教義経典を作成するに当たって、竹内文書東日流外三郡誌といった偽書に大きな影響を受けていたが、このような営みと中世日本紀のそれとは構造的にそれほど違わないのではないか。

 もちろん「多様性」は重要である。様々な価値観や思想、思考法を持った人間や集団が存在したほうが世界は豊かになるし、危機にも対処しやすくなる(例えば稲の品種改良はまさに「多様性」を担保するための試行錯誤の歴史であったと言っていいであろう)。しかし、その「多様性」には一定の「枠組み」をはめておかなければならない。その枠組みは例えば、国家であり、民族であり、ナショナリズムであり、言語であり、法律であり、行政であり、あるいは天皇である。葦津がなぜ戦後、神社本庁を設立する上で折口を排除したのか。その理由はこのあたりにあるのではないか。

 我々は「神道」を現代的に再生するために近代以前の多様なテキストや世界観を参照しなければならない。しかし、同時にそれらをある程度規定する枠組みのあり方も探索していかねばならない。真に険しい茨の道ではあるが、それをせずして神道の現代的再生、さらに言えば日本と日本人の再生は無い。

 

神道天皇

 現在、神道について言及する際によく引き合いに出されるのは「日本会議」「神道政治連盟」といった政治団体である。神道勢力が安倍政権のような極右政権の黒幕として日本の軍国主義化、ファシズム化を狙っているという言説は現在大量に流通している。著者はそのような政治団体との接触は無いので判断は付きかねるが、現代神道の現場にいる多くの宮司等の神官は、そこまでおどろおどろしい、陰謀をめぐらしている人々なのだろうか。

 著者はかつて下鴨神社の境内にマンションを建設する計画が持ち上がった際、その反対運動に参加したことがある。そもそもの発端は式年遷宮の費用が賄えず、境内の森林を伐採し、マンションを建設することにより、何とかその費用を捻出しようというものであった(最も神社側の説明ではマンション建設用の土地は鎮守の森ではなく緩衝地帯ということであったが)。

 結局マンションは建設されたが、ここで問題なのは神社側が神道の原点ともいえる鎮守の森よりも遷宮による建物の保全を優先した点である。建築物と森(あるいは土地そのもの)どちらが神道にとってより本質的なものなのか、という命題がここに表れてくる。しかし、下鴨神社側がそのような思想的命題にきちんと向き合ったという形跡は全く無かった。というよりも下鴨神社に限らず、ほとんどの神官は職業としてそれをしているに過ぎず、神道に対する当事者意識も信仰心もほとんど持ち合わせていないのが実態ではないか。愛国心や尊皇の精神などというような大層なものを有している神官などどれくらい存在しているのであろうか。

 また、世間に神道学者は存在するが、そのほとんどが神職ではない。アカデミズムの世界においても神官が思想を発信するケースがほとんど見られない事実も、考えなければならない。葦津は神社建築を本業としていたが自身は神職ではなかった。仏教学者が僧籍を持ち、寺院の住職を勤めているケースが多い仏教界とは対照的である。そもそも現場の神職がアカデミズムであれ、社会事業であれ、何かを社会に向けて発信するなり活動をしていくなりする事例の方が圧倒的に少ないのである。

 一方で皇室は戦後、社会事業に密接に関ってきたという歴史がある。東日本大震災の被災地巡幸と慰霊は記憶に新しい。皇后美智子は水俣病を世に知らしめた文学作品『苦界浄土』の著者である石牟礼道子と親しく、2013年には熊本を訪問し、水俣病患者と面会している。震災等の大規模災害があった際は今上天皇も皇后美智子も膝まずき、被災者の目線に立って「お言葉」をかける。

 天皇生前退位の「お言葉」に「天皇高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます」という文言があるが、ここでいう「象徴としての行為」には祭祀はもちろんのこと、国民のための巡幸や祈りが含まれていることは明白である。天皇の行う「お務め」の中における、人々のための巡幸や祈りが占めるウェイトは非常に大きくなっているのである。「現代思想増刊 神道を考える」に所収されている政治学者、小林正弥の論文「神道における公共性―改憲論対生前退位メッセージ」ではこれらの「天皇の務め」が非常に高く評価されている。小林は今上天皇が現行憲法と調和した存在であり、「「国民神道」は「市民宗教」ないし「市民神道」であり、これを成立させる思想的起爆力を天皇のメッセージは秘めているのだ」とする。そして神道的祭祀は法的には私的行為だが、「祈り」は政教分離の原則に反せず、実質的な「公的行為」として位置づけることが出来る、とした上で「近代憲法を前提にしつつ、地球的・国民的・地域的・家族的という四層のコミュニティにおける神道として発展していくところに、二一世紀以降における神道の未来が存在しているのではないだろうか」と結論付けている。

 小林に限らず今上天皇と皇后美智子が身を削り、あらゆる人々のために祈り、傷ついた人を慰め、霊を鎮めてきたとういう事実は誰もが認める所であろう。もはや天皇軍国主義ファシズムに関連させて論ずる言説はほぼ絶滅したといって良い。むしろ現代人の天皇に対するイメージは「平和」や「福祉」といった概念と深く結びついているといっても過言ではあるまい。

 対して神道に携わる人々はどうであろうか。ほとんど社会に向けたメッセージや活動といったものが見受けられない。昨日、日本の農作物の安全と品質を守り続けた種子法が廃止されたが、五穀豊穣をその祭祀の起源としているはずの神道側からは反対どころか、ほとんど何の反応も無かった。かつての米の輸入自由化に続き、神道は二度目の思想的敗北を喫したのではないだろうか。

 神道は、本来社会に対して思想を発信していくポテンシャルを有しているはずなのである。例をあげれば、五穀豊穣の祭祀を掌る立場から農業問題に対して発言する、鎮守の森を始めとする里山や山林の保全、そこから環境問題に接続する、あるいは目に見えず国土を汚し続ける放射性物質を「ケガレ」と見なし(もちろん福島県人に対する差別や風評被害には加担せずに)、除染や反東京電力闘争を行うなど、選択肢は様々にあるはずなのである。

 神道の現代的再生のためには思想を練ることももちろん重要だが、実際の行動をいかにして展開していくか、という観点も同様に大切である。そのためには現代の神道の現場にいる人々をいかに覚醒させるか、あるいは神職者の教育制度の抜本的改革も含めた神道界の変革も必要不可欠であるだろう。

 

結びにかえて―福島県飯館村宮司、多田宏氏の祝詞

 最期に「芸術新潮」2013年7月号に掲載された「福島県飯館村―神々に放射能が降った」という記事を紹介して本稿を締めくくりたい。この記事で紹介されている多田宏氏は旧郷社の綿津見神社の宮司を務めるだけでなく、飯館村の50社、氏子1200人の神事をつかさどっている。

 多田氏は避難命令を無視して当地に留まり、同じく命令を無視して留まる村民とともに神事と祭祀を行っている。震災と原発事故によって飯館村にあった貴重な神事や風習は途切れかかり、多くの社殿や祠も祭る人がおらず、朽ち果てようとしている。神々が放射能を浴び、今にも死に絶えようとしている風景を、当該記事は容赦なく書き記している。

 そして多田氏は帰着困難地域にある白鳥神社にて祭りを行う。除染により表土がはがれおちた田畑と黒い土嚢に囲まれた場所にて、村人達が見守る中、多田氏は祝詞を諷げる。

 「東京電力株式会社福島第一原子力発電所の損ないたるは最も憂たき極みにして此の長泥の里も放射能に穢され、五穀の作付は素より帰還困難の区域と定められぬ」
 「今より後は大神の陵威の御霊を蒙らせ」
 「里人の心を振い起さしめ給えと恐み恐み曰す」
 「童らの声聞こゆる元の村へと」

 福島には津波を浴び、放射能を浴びた神々が今でも鎮座ましましている。避難を余儀なくされた人々の故郷を取りもどすことはもちろん、朽ち果てようとしている福島の神々を慰め、再び祭ることは私たちすべての日本人に課せられた責務である。この責務を怠り、忘却したその時、神々は恐ろしき怨霊となり私たちに災いをもたらすであろう。福島の神々を鎮め、祀ることを抜きにして神道の再生も、日本の真の復興もありえない。村人たちと共に、放射能に塗れた土地と神々を祀り続ける多田氏の姿がこれからの私たちが神道の創造していく上での貴重な道標となるはずだ。

 

参考文献
 「現代思想 2017年2月臨時増刊号 神道を考える」青土社 2017年1月
 「芸術新潮 2013年7月号」新潮社 2013年7月

【関西】定例研究会のご案内

来月の関西地区定例研究会を、下記要領で開催します。万障繰り合わせの上、ご参会ください。

 

民族文化研究会 関西地区第2回定例研究会
日時:平成30年6月3日(日)13時~16時
会場:左京西部いきいき市民活動センター 会議室4
会費:500円
​主催:民族文化研究会関西支部
備考:参加希望者は、事前に当会アドレス(minzokubunka@gmail.com)までご連絡ください。

【東京】定例研究会報告21 最近の日本古代史研究を読む ――天皇号成立に関する研究動向紹介

 本稿は、平成30年5月20日に開催された民族文化研究会東京地区第15回定例研究会における会員の報告である。なお、同日に行われた輿石逸貴会長と小野耕資副会長の報告のうち、小野副会長のものは『月刊日本』平成30年5月号に執筆した「イギリスよ、お前が言うな!!問題の本質は植民地支配の残滓だ」をもとにしたものであり、関心のある方は同誌を閲覧されたい。

 

はじめに

 本会が追求する、民族文化のひとつの政治的な核が皇室・天皇という存在であることはいうまでもない。しかし、「天皇」という称号が当初から存在していたわけではないことは周知のとおりである。天皇号成立の時期については、従来多数の研究が出ており整理も容易ではないが、最近、関根淳氏が執筆された「天皇号成立の研究史」(『日本史研究』665号、平成30年1月)は至便であり、同論文の内容を簡単に紹介することで、各位の参考に供したい。

 

1.現在までの研究動向

 天皇号成立に関する古典的学説としては推古天皇朝説の津田左右吉天皇考」(大正9年)があり、以降膨大な研究が蓄積されている。通説としては推古天皇朝説があったが、西暦1960年代以降は天武天皇朝説が通説化し、この通説も近年修正を迫られているという。現在の研究状況では、推古朝説と天武朝説が有力とのことである。
同氏は研究史を整理するにあたって、「天皇」号の由来とその要因を軸にその成立を考察する形式を採用しており、初学者にも非常に分かりやすい内容となっている。

 

2.「天皇」号の由来
 天皇号の由来については、通説的には①道教思想起源説、②唐の皇帝・高宗の「天皇」号採用説、③日本起源説の3説がある。

 ①は著名な解釈であり、津田説をもとにしている。しかし、道教の「天皇」は最高神を示す言葉ではなく、そもそも同時代には道教が体系化されていない(道教の体系化の過程について同論文では記されていないが、さしあたり小林正美『中国の道教』〈創文社、平成10年〉が参考になろう)、日本の天皇制度における道教的要素の希薄さなどから、その論拠には批判も寄せられている。

 また、②も時々聞かれる説であるが、その「天皇」自称時には遣唐使がないため日本に情報が伝わったか不明瞭であり、またその「天皇」は皇位ではなく個人を指す尊称であったため、それにもとづいたというのは根拠薄弱だという。

 これらに対して、③には諸説あるが、いずれも王権発展の画期に合わせて成立したとするのは共通しており、「天つ神」思想が背景であるとされる。外来説に比較して、国内造語説の方が妥当ではないかというのが、氏の見解である。

 

3.天皇号成立の要因

 律令制の成立と天皇号のそれとは不可分という理解があるが、律令制成立からだと時期を特定することは難しいという。他の要因として、従来の研究では対外関係が重視されてきたといわれる。

 この観点から説かれるものの一つが、推古天皇朝成立説である。『日本書紀』においては、隋の煬帝への2度目の国書で「天皇」を用いたといい、これを根拠あるものとする理解がある。しかし、「天子」を「天皇」に変更して煬帝の不興を避け得たとは考えにくく、これは『書紀』の造作であろうと考えられるという。また、仮にこの段階で日本が天皇号を使用した場合、後に高宗が「天皇」を尊称として使用するはずはないので、同時期の成立は考えがたいという。

 また、朝鮮(新羅)の帝国化への対応として、天智天皇朝から持統天皇朝にかけて成立という説も出てきているというが、当時の日本は白村江の戦いで敗北しており、勃興する朝鮮に対して天皇号が有効だったか疑問があるという。氏は、対外関係という観点は明確な根拠として用いにくいという。

 そして、近年高まる天智天皇朝成立説であるが、天智天皇は長らく即位せず、さらに白村江の戦いで敗北するという政治状況であった。こういった状況の天智天皇が、神格化をともなう君主号を設定できたのか、はなはだ疑問であるという。国家的危機を乗り越えるために天皇号を制定したという理解は「あまりにも逆説的」であり、こういった政治史的、国家史的な観点からすれば、天武天皇朝説がやはり至当であるというのが、氏の結論である。

 

おわりに

 最新の研究史整理を参照・共有することは、民族文化探求にとって重要な手段となり得るものであり、今後も積極的に研究史・動向の紹介がなされることを希望する。なお、同論文の直接的結論ではないが、専門的研究において、一般的に流布している「天皇」号の海外起源説に対する批判がなされていることには、大いに注意する必要があろう。(了)

【関西】定例研究会報告1 徂徠学の近代性――丸山真男の徂徠解釈と日本近代

 去る5月6日の民族文化研究会関西地区第1回定例研究会における報告「徂徠学の近代性――丸山真男の徂徠解釈と日本近代」の要旨を掲載します。

 

議論の前提――徂徠と近代

 江戸期の儒学における、朱子学批判を中心とした特異な潮流に対し、近代性の萌芽を発見する姿勢が、日本思想史学の主要な思考枠組となってひさしい。言及するまでもなく、こうした姿勢の起点は、丸山真男である。そして、丸山真男が、こうした江戸期の儒学における近代性の萌芽の典型として定義したのが、ほかならぬ荻生徂徠である。丸山は、徂徠が朱子学の道徳的リゴリズムを打破する思想的営為のさなかで、近代社会の要件である「公私構造」と「主体の作為性」を日本思想に導入することに成功した、と説いている。本稿においては、こうした徂徠学の近代性を検討することで、江戸期の儒学における近代性の萌芽に対し考察を及ぼす。まず、先に述べたような徂徠学における「公私構造」と「主体の作為性」を検討し、こうした丸山の徂徠観に対する近年の批判も検討する。続いて、丸山がこうした近代的な徂徠観に至った源流である「西欧的近代との対照性のなかで把握された日本的近代」という近代像について、徂徠との連関のなかで是非を論じる。こうして、日本的近代の起点である徂徠学という丸山の提示した徂徠観について、考察を及ぼす。

 

一 徂徠学における近代

 土田健次郎が簡潔な整理を行っているが(『江戸の朱子学』)、朱子学の思考様式の要諦とは、「個人と社会の直結」と「自然的秩序」である。朱子学は、個人の人格的完成と社会に対する貢献が、いかなる摩擦・反発・対抗も経験せず、連続的に直結されることになる。また、社会秩序は自然法則と連動しているという認識が伏在し、こうした自然的秩序は人為的には改変できないと捉える。丸山真男は、朱子学を「道理」が同時に「物理」である、すなわち倫理(個人・社会)が、自然に連続している思考様式だと定義しているが(『日本政治思想史研究』)、こうした状況の妥当な表現だと評せる。そして、丸山は、こうした状況では、私的領域と公的領域の両者が、未分化の状態にあると評価する。内面の修養と国家の運営を同一の地平で説明することで、私的領域と公的領域が混然一体と化しているわけである。また、主体による作為が否定され、静態的な秩序が継続されると評価する。人為的な改変を忌避する自然的秩序では、主体的な社会変革が生じないわけである。このように、朱子学の内部には道徳的リゴリズムと自然主義が伏在し、それらが前近代的思惟を形成している、と丸山は判断している。

 では、こうした前近代的思惟である朱子学を、徂徠を起点とする江戸期の儒者は如何に批判・克服したのだろうか。丸山によると、こうした社会秩序を個人道徳の延長線上で把握する朱子学に対し、近世日本において道徳とは一線を画す社会秩序の固有法則性を発見する思想的系譜が出現した。こうした思想的系譜は、山鹿素行伊藤仁斎を経て、徂徠に至って頂点に達する。すなわち、人間の本性である「人性」の自然性によって道徳を基礎づける朱子学の道徳的リゴリズムと自然主義は、朱子学における道徳を「人性」の自然性から乖離した抽象的思弁として批判し、両者の分離を企図する仁斎学によって否定され、この「天道」と「人性」の分離の延長線上に、さらに徂徠における「天道」に対する不可知主義による徹底化が出現した(徂徠における「天道」の問題については、陳暁傑「荻生徂徠の『天』」も参照)。他方で、こうした「天道」や「人性」といった道徳的規準から外されることで「脱道徳化」された徂徠学における「道」は、それまでの聖人による超歴史的な道徳理念から、単なる聖人の施行した礼楽制度に過ぎないとして「歴史化」され、「治国平天下」という政治性を本質とし、公的・政治的・社会的世界として展開することになった。これに対し、残された私的・個人的・自律的世界は、前者とは領域を異にする世界として、その存在を承認された。そして、人情や人欲が肯定され、これらを根拠とする文芸・美術の独立した価値が認識されるようになった。こうした思想的系譜は、公的・政治的・社会的側面は太宰春台ら経学派へ、私的・個人的・自律的側面は服部南郭文人派を経由し宣長学へ継承される。こうして、徂徠を頂点とする思想的系譜は、近代的な「公私構造」を産出するに至るわけだ。そして、徂徠は、それまでの根本的に「天道」によって基礎づけられていた聖人を、それ自体が人格として歴史に登場し、一切の「道」に先行し、無秩序から秩序を構築する者として把握した。ここに聖人の設定した「道」は、各王朝の開国の君主による、その都度ごとの作為をへて、新たな主体化を経験する形で継承されていく。ここで初めて「一切の秩序の主体的創造」という近代的な「主体の作為性」が規定されたのである。

 このように、丸山は徂徠学を、「公私区分」と「主体の作為性」から構成される、「一切の秩序の主体的創造」だと認識し、ここに近代的な社会構造・政治構造の生誕が読解されるわけである。また、こうした徂徠学は、朱子学における道徳的リゴリズムや自然主義と対置され、こうした既存の朱子学の根本的な批判・克服を通した、近代的思惟の構想であると定義されるわけである。こうした丸山の徂徠解釈は、平石直昭によって継承された(「徂徠学の再構成」)。平石は、公的観念に内包される道義性・私的次元の自律性・主体存立の条件といった課題について精緻な検討を試み、徂徠学の近代性をいっそう強調した。しかし、こうした丸山の徂徠解釈に対しては、批判も提起されている。尾藤正英は、徂徠における人情や人欲がそれ自体として、いわば自然権として許容されたわけではなく、社会有機体(封建的支配体制)にとって有用な限りで肯定されたに過ぎないと主張する(『日本封建思想史研究』)。したがって、徂徠は一面で人間性の解放を唱えると共に、しかしその解放の方法や方向を、全く人間性にとって外在的なものにしているという点において、また依然として社会有機体の利害に順応しなければならないという点において、人間性の制限・抑圧の論理をも強く内在させている、というわけである。尾藤の主張を整理すると、徂徠における主体は朱子学の統一的な規範の羈束から解放されているとはいえ、依然として封建制的な職分社会の有機的単位としての処遇しか与えられていない、とするものである。

 

二 範型としての西欧的近代

 これまでの議論を整理すると、朱子学の道徳的リゴリズムや自然主義の解体を徂徠学から読解し、「公私構造」と「主体の作為性」による近代的社会構造・政治構造の創出を発見する丸山真男および平石直昭の徂徠解釈に対し、尾藤正英は(一)徂徠における人間の個性は、封建体制に有益である限りにおいて許容されたに過ぎず、いわばそれが自然権的に承認されたわけではない (二)(一)から、徂徠における主体は封建体制の枠内において設定されており、充分な自律性を発現しえなかったのではないか の二点を中心として批判を提起した。このように、丸山の徂徠解釈に対し、賛否の両論がそれぞれ主張されている議論状況が存在しているわけである。こうした議論状況を概説した第一章に続いて、本章では丸山がこうした近代的な徂徠観に至った背景である「西欧的近代との対照性のなかで把握された日本的近代」という近代像にまで遡行することで、こうした議論状況に対して考察を及ぼしたい。徂徠に仮託された丸山における「近代」のイメージを源流にまで辿ることで、徂徠の「近代主義的解釈」の是非を問うことができるわけである。

 下川玲子が指摘しているように、丸山にとって徂徠による朱子学的世界の解体は、ホッブズによるスコラ学的世界の解体との対照性のなかで解釈されている(「日本近世思想における近代の萌芽」)。まず、丸山は、朱子学の基本的な特質を、中世ヨーロッパにおけるスコラ学になぞらえる。スコラ学において、人間関係・社会関係は自然的関係であり、自然に立脚するがゆえに、人為的には改変できないとされていた。そして、朱子学も同様に、人間・社会の倫理と自然法則が連動すると解釈し、社会秩序を自然に根差した改変不可能な制度と看做した。こうした「封建体制を支える中世思想」という共通項をもつ朱子学やスコラ学を解体することによって、近代的思惟は生誕することとなる。そして、丸山が「朱子学の破壊者」として看做したのが徂徠であり、他方で「スコラ学の破壊者」として評価したのがホッブズだった。丸山は、自然的秩序思想ないし社会有機体説が解体し、個人が主体的に社会秩序を創造できるとする「作為」の思惟の成立を、すなわち個人の発見と、個人の秩序に対する主体性の自覚を近代性の要件として要求した。機械論的宇宙観の導入によって有機体的宇宙観を打破したホッブズと、絶対的な規範である「道」を聖人による人為的な秩序形成へと転換させた徂徠は、こうした秩序像・主体観を創造したと認識されたわけである。ここで、中世思想の解体と近代的思惟の生誕へ至る潮流が、西欧と日本において並行して展開されたとする丸山の近代像が成立するわけである。

 これまでの議論を整理すると、自然的秩序を根源とする「封建体制を支える中世思想」として朱子学・スコラ学が定義され、これらの解体を近代化過程の起点とする認識が提示され、したがって作為を基礎とする主体観・秩序像によってこうした中世思想を打破した徂徠とホッブズが近代的思惟の東西における生みの親と評価され、これにより日本と西欧の近代化過程は一定の並行を辿ったとされ、このため日本的近代は西欧的近代の対照性のなかで把握されることとなるわけである。こうして、丸山の近代像を素描することができたわけだが、これには重要な問題が伏在していた。そして、こうした丸山の近代像の問題に、徂徠解釈についての問題も存在しているわけである。その問題とは、(一)ホッブズを西欧における近代的思惟の代表者として評価してよいのか (二)ホッブズと対照させたために、徂徠解釈において問題が生じたのではないか という二点に集約できる。まず、(一)についてだが、ホッブズを西欧における近代的思惟の代表者として評価しては、問題が生じるのではないだろうか。坂本達哉が説明しているように、西欧近代思想は大陸合理主義とスコットランド啓蒙の潮流に分かれ、西欧的近代も大陸モデルとスコットランドモデルに二分されている(『ヒュームの文明社会』)。ホッブズは英国の思想家だが、デカルトからインスピレーションを受け、スピノザと共に唯物論の先駆的考察を行った点から見ても、通常は大陸圏の思想家として処遇される。すなわち、ホッブズを準拠枠として成立した丸山の近代像は、西欧的近代のうちでも大陸モデルを採用しているわけである。

 だが、スコットランドモデルを意識的にか無意識的にか無視する丸山の姿勢は、はたして妥当なのだろうか。西欧的近代の大陸モデルとスコットランドモデルを分岐させる最大の指標は、その合理性についての観念の相違である。大陸モデルは、全能的なまでの理性を主体に仮託し、その理性的主体による設計主義的な社会構築を容認するが、対してスコットランドモデルは理性への懐疑を基調とし、慣習の蓄積である自生的な秩序を社会形成の根幹に設定する。ヒュームやA・スミスを源流とするスコットランド啓蒙は、中世的な絶対的自然秩序思想の「である」で表される秩序意識でも、大陸合理主義における全能的な理性的主体による「つくる」で表される秩序意識でもなく、第三の市民社会における相互行為によって成立する自生的な秩序を尊重する「なる」で表される秩序意識を、近代を稼動させる原理に選択したわけである。過剰な合理性という危険性を孕んだ大陸モデルだけでなく、節度のある合理性を選択したスコットランドモデルも、日本的近代を判断するうえでの準拠枠として採用できなかったのだろうか。そして、丸山自身も、後期はこうした「なる」という秩序意識に関心を寄せ、日本思想史の系譜のなかに「なる」という秩序意識を発見するに至るわけである(「歴史意識の古層」)。すなわち、丸山における西欧的近代との対照性のなかで日本的近代を評価するという大枠の方法論は妥当だったが、複数ある西欧的な近代化モデルのなかでどのモデルを選択するかという段階において誤謬を犯したのではないか、と指摘できるわけである。そして、(二)についてだが、 ホッブズと対照させたために、徂徠解釈において問題が生じたのではないか 、という問題は(一)における課題とも密接に連関している。尾藤による丸山の徂徠解釈批判は、その要諦としては徂徠における主体性が丸山の主張するような完全なものなのか疑問だとするものだが、これはホッブズ‐大陸合理主義を準拠枠として徂徠を解釈したために、理性的主体という側面を、すなわち「作為」の契機を過剰に解釈したため、と指摘できるのではないだろうか。「自然」を打ち破る「作為」という発想は徂徠の思索における重要な要素とはいえ、それにホッブズ‐大陸合理主義ほど固執すべきなのだろうか。過剰な合理主義という契機が、丸山の徂徠解釈に与えた影響を慎重に検討すべきだろう。

 

参考文献

土田健次郎『江戸の朱子学』(筑摩書房、2014年)
丸山真男『日本政治思想史研究』(東京大学出版会、1952年)
丸山真男「歴史意識の古層」同『忠誠と反逆』(筑摩書房、1998年)
平石直昭「徂徠学の再構成」『思想』766号(1988年)
尾藤正英『日本封建思想史研究』(青木書店、1961年)
下川玲子「日本近世思想における近代の萌芽」『人間文化――愛知学院大学人間文化研究所紀要』28巻(2013年)
坂本達哉『ヒュームの文明社会』(創文社、1995年)