民族文化研究会

わが国の伝統的な民族文化・民族生活ならびに世界の諸民族を取り巻く問題を研究

【東京】定例研究会のご案内

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東京地区第20回定例研究会
日時:平成31年4月28日(日)14時~17時
会場:早稲田奉仕園 セミナーハウス1階 小会議室105号室
東京都新宿区西早稲田2‐3‐1
https://www.hoshien.or.jp/
会費:1000円
​主催:民族文化研究会東京支部
備考:この研究会は、事前予約制となっております。当会の公式アドレス(minzokubunka@gmail.com)までご連絡ください。また、会場の開室は14:00になります。それまではセミナーハウス内のラウンジにてお待ちください。

【東京】定例研究会報告24 「紀元節」と「建国記念の日」を巡る一つの議論・大嘗祭の検討

 2月17日(日)14:00~、民族文化研究会東京地区第19回定例研究会が早稲田奉仕園にて開催されました。

 第一報告は、渡貫賢介(会事務担当)による「『紀元節』と『建国記念の日』を巡る一つの議論」でした。戦後の歴史学者・平田俊春氏による「建国記念の日」肯定論、近代日本において時期・実態が明確な「建国」と、悠久の昔にさかのぼる「肇国」がしばしば区別されて理解されていた点を紹介しました。

 第二報告は、輿石逸貴(本会会長)による「大嘗祭の検討」でした。秋篠宮殿下による大嘗祭に関するご発言を起点としながら、大嘗祭に対する現在の法的な位置づけ、平成の大嘗祭に対する違憲訴訟の内容などを整理し、ご発言の持つ政治的・思想的意味について検討を行いました。

 一定以上学問的・専門的な関心を持ちつつ、報告とそれにもとづく質疑・談話などによって知識を共有していく試みを今後も継続して参りますので、関心のある方はお気軽にご参加下さい。

 次回は、4月28日(日)14:00から早稲田奉仕園105号室にて開催予定。

(事務担当・渡貫)

 

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輿石氏の講話風景

 

 

【東京】定例研究会のご案内

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次回の民族文化研究会東京地区定例研究会が近日に迫りましたので、改めてご案内致します。次回の民族文化研究会東京地区定例研究会は下記要領にて開催しますので、万障繰り合わせの上ご参会ください。

 

東京地区第19回定例研究会
日時:平成31年2月17日(日)14時~17時
会場:早稲田奉仕園 セミナーハウス1階 小会議室105号室
東京都新宿区西早稲田2‐3‐1

https://www.hoshien.or.jp/
内容:輿石逸貴(会長・弁護士)「大嘗祭憲法
   渡貫賢介(会事務担当者)「『紀元節』と『建国記念の日』を巡る一つの議論」
会費:1000円
​主催:民族文化研究会東京支部
備考:この研究会は、事前予約制となっております。当会の公式アドレス(minzokubunka@gmail.com)までご連絡ください。また、会場の開室は14:00になります。それまではセミナーハウス内のラウンジにてお待ちください。

【関西】定例研究会報告15 日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第七囘)――箏曲

 去る平成31年2月9日に開催された民族文化研究会関西地区第10回定例研究会における報告「日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第七囘)――箏曲」の要旨を掲載させて頂きます。

 

 この企劃は現代音樂に滿たされた現代日本人に明治以前の日本の音樂を知つてもらふため、まづは私達自身が詳しくなり傳道していかうと云つた考へのもと始めました。
 今囘は日本音樂の大きなくくりである、雅樂・聲明・琵琶樂・能樂・箏曲・三味線音樂・尺八樂・近現代音樂・民謠のなかから箏曲に就いて解説致します。下記は今囘解説する項目です。

一、箏と云ふ樂器 二、箏曲の歩み  三、八橋檢校 四、生田流と山田流
五、手事物の發達 六、近代以降の箏曲 

一、箏と云ふ樂器

 日本の雰圍氣を代表する歌曲として定着してゐる「 さくらさくら」。その旋律は平調子(五六七八九弦を「 ミ・ファ・ラ・シ・ド」にとる)と云ふ尤も標準的な箏の調弦で、隣り合つた弦を順に彈くと自然に生まれます。それが日本古謠と言はれて違和感がない理由は、半音を含む五音音階にあります。そしてこの音階こそ、江戸時代に發達した音樂の性格を尤も特徴づけるものでした。
  一般的に「 こと」と云へば箏(さう)のことを云ひます(圖一)。箏(さう)と琴(きん)は一緒のものと思はれがちですが、柱(可動式フレット)があるかないかの違ひがあり、別物の樂器です。日本に於て琴とは、三千年前の青森是川中居遺蹟から出土した現存する世界最古の絃樂器と目されるもの、奈良時代以前に三韓から傳はつたもの、箏と一緒に大陸から傳はつたものなどがあります。和琴は琴とありますが、箏の一種です。源氏物語でも、箏のコト(樂器)・琴のコト・琵琶のコトとして別物として扱はれてゐます。なぜ箏と琴が日本で一緒に思はれてゐるのかと云ふと、常用漢字に箏が無いから代はりに琴を當てはめたことが原因であり、本來使はれるべき漢字は箏です。
 箏の起源に就いてはよくわかつてゐませんが、唐の時代では秦箏と呼ばれてゐて、秦に由來する樂器と認識されてゐました。日本へは奈良時代に大陸から傳はり、古記録では西暦七〇〇年頃には箏で唐樂の演奏が行はれてゐた記述もあります。
 箏の定義は時代や音樂の種類によつて異なりますが、大抵は十三絃の箏をさします。約一八三cmの細長い共鳴胴に十三本の弦を張り、それぞれの弦には柱を立てて音高を決め、右手の三指にはめた箏爪で弦をはじいて音を出します。箏は柱を立てる位置によつて調律します。十三絃の箏では、單純には十三個の音しか出ません。しかし、柱は自由に動かすことができ、音高の微調整も簡單にできます。弦を押し下げて張力を變化させれば、一音半程度の範圍内の音は簡單に出せる柔軟な性質を持つてゐます。明治期に洋樂が入つてきたときに箏が尤もよく適応できたのは、さうした柔軟性が大きな要因でした。そのうゑ、一本の弦を普通に箏爪で彈くだけでなく、複數の弦を同時に彈いたり、あるいは箏爪の裏ですくつたり、弦をこすつたり、箏爪をはめない指ではじいたり、彈いた後の餘韻を搖らしたり等々、さまざまな纖細な手法が工夫されてゐます。その微妙なニュアンスに富んだ表現力は箏の大きな魅力です。

二、箏曲の歩み

 箏曲とは、そのまま箏(こと)の音樂のことです。現代に於て一般的には八橋檢校以降の「 俗箏」を指します。箏曲は時代によつてその性質が大きく異なります。雅樂に於ては樂箏として十三絃の箏が採用されてゐたけれども、箏曲としてはつきりとした實踐演奏の樣子がわかるのは、西暦八四五年に唐から渡來した孫賓が箏の樂曲を傳へてからです。平安時代に於ては箏の獨奏も行はれ、天皇や貴族たちが創作活動をしてゐた樣子が窺へます。その後、箏は管弦や催馬樂に使はれ、貴族の必須教養になつていきました。源氏物語では男女問はず日常生活の中で、箏や琵琶の演奏を樂しむ樣子が描かれてゐます。更に源氏物語の橋姫の卷には箏の教習に唱歌形式を採用してゐた、とあります。唱歌は言葉で旋律をなぞり、音高・リズム・強弱などを覺える方法です。やがて唱歌に替へて意味のある歌詞を當てはめるアイデアが生まれました。
 平安中期以降は淨土信仰が深まるとともに、宮中・佛教寺院に於て舞樂や管弦・催馬樂などを織り交ぜた法會が盛んになりました。これを「 寺院雅樂」と言ひます。この演奏に今樣歌體の詞章つけられたものが出現し、特に越天樂の曲に詞章をつけた「 越天樂謠物」が廣く行はれ、寺院歌謠が誕生しました。この越天樂謠物が箏伴奏歌曲に變容していき、次代に繋がつていきます。
 室町後期に賢順(西暦一五三四?~一六二三?)が、九州久留米の善導寺で越天樂謠物を箏の伴奏による歌曲として集大成して、「 築紫流箏曲」または「 築紫箏」として創始しました。賢順は大内家、大友家、龍造寺家と移り、音樂の才を高く買はれてゐました。築紫箏の特色は殆どが歌曲で、越天樂謠物に由來する四~九首を組み合はせたものです。調弦は雅樂の太食調の調弦をもとにして、第二弦を主音として半音を含まない五音音階から構成されるものを基本としてゐます。爪も雅樂のものより細長くなつてゐて、雅樂の箏よりも多彩な手法が用ゐられ、「 連」「 風連」「 滄海波」など個性的な名稱の手法が用ゐられてゐました。
 賢順の門人の法水と云ふものが、八橋檢校(西暦一六一四~一六八五)に箏を教へ、八橋は平調子と云ふ調弦法を編み出します。。そして箏組歌(箏伴奏の歌曲)十三曲、段物(箏獨奏曲)六段の調・八段の調などを作曲し、近世箏曲と云はれる箏の音樂の基礎形態を樹立しました。八橋は門弟北島檢校に箏を傳承し、北島檢校が弟子の生田檢校に傳へ、生田檢校(西暦一六五六~一七一五)が生田流を創始しました。生田流は上方で繁榮したのに對し、江戸では箏曲は流行らずでしたが、これを變へたのが山田檢校でした。山田檢校(西暦一七五七~一八一七)は江戸淨瑠璃を參考に新しい歌曲的な箏曲を創作し、江戸で大いにうけ、山田流箏曲が誕生しました。
 以降箏曲界では地歌を基盤にした器樂的な箏曲を傳承する關西の生田流、箏を伴奏に歌本位の箏曲を傳承する關東の山田流と云ふ二大會派が明治まで續きます。幕末には八橋檢校に立ち戻らうと云ふ復古的な「 幕末新箏曲」と云ふ純箏曲運動が起こりました。明治以降は皇室尊崇・高雅な歌詞の明るい明治新曲が登場し、大正時代に宮城道雄(西暦一八九四~一九五六)や中能島欣一(西暦一九〇四~一九八四)などが出現し、「 新日本音樂」と稱し洋樂を導入した新しい箏曲が登場しました。

三、八橋檢校

 八橋檢校の出生地は、福島縣岩城と福岡縣豐前小倉の二説があります。失明して當道に入つた時期は不明で、初名を城秀といい、寛永(西暦一六二四~一六四四)の中頃に初度の上衆引(坐頭の位階のひとつ)となり、二十三歳で勾當となつて山住勾當と名乘りました。二十六歳のとき檢校となり、上永檢校城談と改名し、後に八橋姓に改めました。七十一歳沒。沒地は京都で、黒谷淨光院に葬られました。
 八橋檢校は寛永のはぢめ頃は、大坂で後の柳川檢校とともに三味線で活躍し、三味線當代名人二人とまで云はれ、自ら八橋流と云つてゐたと云ひます。しかし、何らかの事情で江戸へ下り、賢順の弟子の法水に出會ひ、築紫箏を習得することになりました。時期は恐らく勾當に昇進する前の二十歳前後です。八橋三十四歳の頃、平(磐城)藩主内藤風虎の編詞に基づいて新しい箏組歌を十三曲作曲し、教習のための階梯を定めました。平調子を編み出したのはいつかは不明ですが、「 琴曲抄」にて八橋檢校が作つたと傳へられてします。また、胡弓の名人と云ふ説もあります。
 平調子は半音を含んだ調弦法で、柱を大膽に動かした初めての試みとして、コペルニクス的轉囘と賞す專門家もゐます。ちなみに最初に紹介したさくらさくらには半音♯♭が含まれてゐないことに就いては、ミをレにすればわかりやすくなります。つまり「 レ レ♯ ソ ラ ラ♯」となります。このレをミに移調したら「 ミ・ファ・ラ・シ・ド」となります。平調子は現代でも最初に習ふ箏曲の調子として受け繼がれてゐます。(圖二)
 八橋の他の業績は、當時民間で行はれてゐた器樂曲に大幅に手を加へ、段物の「 六段の調」「 亂」を成立させたことがあります。この二曲は後の箏・三味線音樂の器樂的發展に大きな影響を及ぼすことになりました。もうひとつは、八橋檢校自身がしたはけではないのですが、弟子たちにより教習カリキュラムの體系化の骨骼として八橋檢校の曲が組み込まれたことです。八橋檢校の作品群は江戸時代を通じて專門家達の指標として機能し、八橋の曲の解釋の相異が流派を分ける要因となりました。

四、生田流と山田流

 現在の箏曲の流派は圖三のやうになつてゐます。圖でわかるやうに山田流以外はほぼ生田流の派生になります。その最大の要因は現行の箏曲の殆どが生田檢校を經由した流れだからです。しかし、歴史的には地域や時代によつて數多くの流派が存在し、それぞれ異なる表現を尊重してきたことにも留意しておきたいところです。
 生田流とは、箏組歌とこれに附隨する段物などの傳承上の差による流派名のひとつです。つまり、八橋檢校から枝分かれしたうちのひとつです。八橋檢校が北島檢校に箏を傳へ、北島檢校が生田檢校に傳へたものを、生田檢校四〇歳の時(西暦一六九六)に創始したものです。この事情に就いては北島檢校が志半ばで倒れ生田檢校が受け繼いだからだとされてゐます。生田檢校に就いては京都で活躍したこと以外は、生涯も業績も殆ど不明で、いくつかの曲を作曲した傳説が或程度です。江戸時代後期に、生田流は關西で箏と三味線の合奏を加へ、地歌と融合していきました。斯樣式を生田流と呼ぶ場合もあります。
 生田流は角爪を用ゐ、この角を有效に使ふため、箏に對して左斜め約四五度に構へます。比較的段物が多く、形状は雅樂の樂箏に近いものとなつてゐます。
 山田流は江戸で流行つた流派です。山田檢校が江戸の箏曲塾で習つたものを改造し、革新的な箏曲を創始しました。山田檢校は寶暦七年(西暦一七五七)生まれで、尾張藩寶生流能樂師三田了人の子として生まれました。幼少期に失明し、一五歳の頃に長谷富檢校門下の山田松黒に入門し、數年後には箏曲の作曲も手がけるやうになりました。四十歳の時檢校になり、この前後から山田檢校の名聲が高くなり、山田流箏曲が江戸の人々の間に滲透するやうになり、以降一大勢力をなすに至りました。女性たちから山坐さんと呼ばれ、熱狂的な支持を得てゐた樣子が窺はれます。以降作品集を次々と刊行し、第六十八代江戸惣録となりましたが、その二箇月後に六十歳で死去しました。
 山田流は丸爪を用ゐ、箏に對して正面に構へて演奏します。俗箏として改良を加へられた音量が大きく豐かな音色の箏を使つてゐます。現在製作されてゐる箏は一部を除いて殆どが山田流式のものとなつてゐます。歌ものが多く、聲の表現を重視した箏伴奏歌曲であり、箏を主奏樂器としながら、三味線を加へることよつて、關西とは全く異なる表現を編み出しました。江戸で好まれてゐた河東節や一中節などの淨瑠璃を取り入れた點に特色があり、演奏者の性質を活かした歌ひ分けも大切な表現要素です。ただ、箏・三味線ともにほぼ同樣の旋律を齊奏するのが原則で、あくまでも歌を聞かせることに主眼があり、三味線音樂を箏に轉化した音樂と云つた性格が強くあります。
 山田檢校は樣々な音樂に通じ、關西系の地歌箏曲の旋律が引用されたり、高い教養を基礎にした文學性に富んだ歌詞を作り、江戸前の三味線音樂の良さをとりいれながら、箏がもつてゐる高雅な雰圍氣を損ねないやうな音樂創造を目指したと述べてゐます。儒學者・國學者・武家・歌舞伎役者とも親交を持ち、作風に大きく寄與したと目されてゐます。

五、手事物の發達

 上方では歌よりもむしろ器樂的表現の可能性を探求する傾向が強くなり、それに伴つて手事(或程度獨立した間奏)の部分に、別の旋律を重ねる演奏形態が發達していきました。「 手事物」の誕生です。このときの手事は主に地歌を歌ふときのもので、地歌とは彈きながら歌ふ聲樂曲のことです。
 初期は三味線の旋律を箏がなぞるベタ附けをする程度でした。しかし三味線の本手(主旋律)に對して、箏を替手(副旋律)とする工夫がうまれてきました。これを替手式箏曲といい、西暦一九世紀初頭の大阪で發達したと考へられてゐます。この替手式箏曲が京都に於て京風手事物と總稱される作品の創作を誘發します。三味線と箏の個性を活かしながら、技工の限りを盡くして緩急自在に掛け合ひを重ね、高音域の多樣、調弦を變へずに細かい變化音を交へて轉調を重ねる難技巧も隨所に現れます。京風手事物の特色はさうしたアンサンブル前提に曲が創られてゐることです。
京風手事物の作曲者たちは、盲人音樂家の常として、三味線・箏の兩方を專門としてゐましたが、難度の高い技を追求する過程で、それぞれの腕を發揮しやすい分業體制が自然に定着していつたと見られます。或種の職人的な趣を感じされるものもすくなくありません。專門性に對する社會的評價は、「 三絃(三味線) 松浦檢校」「 琴 浦嵜檢校」などの記述からも見て取れます。これらを總稱して地歌箏曲とも云ひます。(圖四)

六、近代以降の箏曲

 まだ近代にはなつてゐませんが、江戸末期に後世から「 幕末新箏曲」と云はれる純箏曲運動も含めて紹介します。地歌や手事物、三味線の影響から脱却し、箏曲復興にその束縛を受けない純箏曲や、單に復古的ではない新箏曲の創造運動です。陰陽折衷の調子や箏の高低二部合奏など新基軸を打ち出しました。同時期に國學を背景とする改革思想や復古思想が臺頭しはじめてをり、社會情勢に合致した運動だつたと云へます。
 明治四年に當道は廢止され、盲人達は各種特權を剥奪されました。高尚な檢校達も一部は寄席に登壇して奇拔な三味線彈きをしなければ食べていけなくなりました。しかし、箏曲の教授活動は男性盲人に限定されなくなり、箏曲市場擴大を促し、多樣な創作活動を誘發しました。
 この時代に箏曲界で臺頭したのが「 明治新曲」です。江戸期では男女の情愛を多く歌つてきた箏曲は、時代の變化から皇室尊崇や、和歌を基礎にした歴史的素材などが好まれるやうになりました。特徴としては陽音階を主とした調弦、高低二部の箏による合奏形式、左手で弦を彈く手法を交へた創作が盛んになりました。この陽音階は半音を含まない明るいもので、明清樂と云ふ中國の民間音樂を參考にしたもので、通稱カンカン調と云はれました。特にツルシャン物と云ふ、一拍目を右手でツルッと弦を普通に彈いた後すぐすくつて、二拍目は左手で弦をつまんでシャンと和音を彈く音型を地にした曲調が流行りました。しかし明治期のみに一過性のブームに終はる結果となつてしまひます。
 大正九年、宮城道雄と本居長世は合同作品を發表。尺八家の吉田晴風が「 新日本音樂大演奏會」と命名したことから、以後の宮城に代表される創作活動を「 新日本音樂」と云ひます。その特色は箏曲と尺八の演奏家が主體と成つた洋樂を意識した創作の試みに盡きます。宮城は西洋音樂の樂曲形式や和音・リズムを取り入れ、スタッカート、アルペジオトレモロ、ハーモニックスその他の新技法を工夫。十七弦などの新樂器も考案して、大規模な合奏や洋樂器との合奏も試み、四百二十餘曲を作りました。昭和三十一年に列車から轉落死し、その劇的な死は今なお稀有な才能とともに語り繼がれてゐます。
 現代邦樂は中能島欣一が先驅者とされてゐます。中能島は宮城より十歳年下で、生涯に百三十餘曲を作りました。彼が前衞的と評される背景には、箏獨奏曲「 三つの斷章」の存在が大きく、他に三味線に比重のある合奏曲に個性を發揮し、協奏曲も手がけました。宮城の抒情的・旋律的・大衆的な作風に對して、理性的・リズム的・抽象的と評され、どちらも傳統を尊重しながらも洋樂を意識し、新しい時代に即した音樂創造を志した點で共通する精神を宿してゐます。また、洋樂系の作曲家も進出し、邦樂器を積極的に活用し、多樣な活動が展開されて今日に至ります。
 箏は、近代以降に至つて獨奏樂器としての地位を獲得し、今日ではソロの樂器としても定着しつつあります。箏曲ほど時に応じて裝ひを新たにしてきた領域は他にあまり例がないのではないでせうか。


參考文獻

ひと目でわかる日本音樂入門 田中健次(音樂之友社 平成十五年)
よくわかる日本音樂基礎講坐 福井昭史(音樂之友社  平成十八年)
日本の傳統藝能講坐 音樂 小島美子(淡交社 平成二十年)
日本音樂がわかる本 千葉優子(誠幸堂 平成十七年)
箏曲の歴史入門 千葉優子(音樂之友社 平成十一年)
人物でたどる おもしろ日本音樂史 釣谷眞弓(東京堂出版 平成二五年)

 

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箏曲 解説図

 

【関西】定例研究会のご案内

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次回の関西地区定例研究会は、下記要領にて開催します。万障繰り合わせの上、ご参会ください。

 

関西地区第10回定例研究会
日時:平成31年2月9日(土)16時30分~19時30分
会場:貸会議室オフィスゴコマチ 3階 303号室
京都府京都市下京区御幸町通り四条下ル大寿町402番地 四条TMビル

http://​http://office-gocomachi.main.jp/​

会費:800円
​主催:民族文化研究会関西支部

【関西】定例研究会報告14 日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第六囘)――能樂

 去る平成31年1月13日に開催された民族文化研究会関西地区第9回定例研究会における報告「日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第六囘)――能樂」の要旨を掲載させて頂きます。

 

 この企劃は現代音樂に滿たされた現代日本人に明治以前の日本の音樂を知つてもらふため、まづは私達自身が詳しくなり傳道していかうと云つた考へのもと始めました。
 今囘は日本音樂の大きなくくりである、雅樂・聲明・琵琶樂・能樂・箏曲・三味線音樂・尺八樂・近現代音樂・民謠のなかから能樂に就いて解説致します。下記は今囘解説する項目です。

一、 能樂の成立  二、觀阿彌と世阿彌 三、能樂の樣式
四、能樂の音樂 五、今日の能樂 

一、 能樂の成立

 能とは日本で初めて成立した演劇のことです。能樂は能と狂言の總稱で、明治以前は猿樂(申樂)が一般的な名稱でした。猿樂能も能と同義です。能樂は奈良時代に唐から傳來した散樂が源流とされてゐます。散樂は殆どが雜技で、幅の廣い内容や種目で構成され、現代のサーカスに相當する見せ物的なものです。散樂は次第に日本古來の滑稽な寸劇と習合して平安中期には猿樂と呼ばれるやうになりました。
 猿樂は平安~鎌倉期邊りまでは曲藝・輕業・奇術・物まねが主體で、平安時代末の藤原明衡著『 新猿樂記』には、田樂、傀儡、品玉、舞、からくり人形、曲藝などと竝んで、後の能の源流となるやうな記述部分があります。すなはち獨身の尼さんに乳兒用のおむつが必要になる妙高尼の襁褓乞ひ、京童とおのぼりさんの東人との珍妙なやりとりをする東人の初京上と云つた工合の寸劇ものです。都の人が抱腹絶倒してゐたと記されてをり、當時の樣子も伺へます。
 鎌倉~室町期に猿樂は次第に各種の藝能に分化されて、曲藝・輕業は田樂に、奇術は傀儡師に、物まねは能・狂言(猿樂)に發展していきました。この頃になりやつと猿樂が現在の能樂の枠に收まることになつたのです。鎌倉~室町初期の猿樂は現在の能と云ふより狂言に近い言葉遊びを主體としたものでした。それがいつから物語性の強い演劇に變貌したかの經緯は不明ですが、具體的な内容がわかるのが貞和三年(西暦一三四九年)の春日若宮御祭に於てです。巫女や禰宜が演じ、遣唐使が琵琶の曲を日本に傳へ歸朝する時に龍王龍神が出でてこの曲を取る、などの三作品を大人數で演じ、龍王龍神には面も用ゐてゐました。
 かうした物語性の強い演劇のほかに、猿樂が表藝として行つてゐたのが式三番と呼ばれる祝?藝です。翁、父丿尉、三番叟と云ふ三人の老人がそれぞれ登場して、別個に天下泰平、五穀豐穣をことほぐ儀式性の強い演目ですが、どのやうな經緯で誕生したのかは不明です。しかし興福寺薪能で行はれる式三番を古くから呪師走りと呼ぶことから、呪師と關はりがあると云ふ説があります。鈴を持つ點、大地を踏みしめるやうに足拍子を踏む所作などが共通點として指摘されてゐます。猿樂は鎌倉時代には寺院や神社とのつながりを深め、法會や神事に附隨して式三番を演じるやうになり、式三番を演じるための集團、坐を組むやうになつたと言はれてゐます。室町初期の大和には圓滿井・外山・結嵜・坂戸の四坐が誕生してゐました。これらの活動を總稱して呪師猿樂と翁猿樂としてゐます。
 室町初期には坐が關西地區に散在してゐましたが、特にものまね藝を根幹とする大和猿樂、幽玄さを根幹とする近江猿樂、この二派に觸發されて發生したとされる田樂能が突出します。大和の結嵜坐に所屬する觀阿彌(西暦一三三三~八四)世阿彌(西暦一三六三?~一四四三?)父子は、庶民や寺社を對象にしてゐた猿樂を高度な演劇に變質させました。足利義滿に目をかけられ將軍を始めとする貴人がパトロンとなつたことを契機に神事性が強い式三番より娯樂性の高い演目に比重が移されるやうになりました。また金春・寶生・觀世・金剛と云ふ役者個人の名が、坐の名稱より表に現れ、流儀名となりました。他坐の卷き返しもありましたが、桃山時代に能樂は大和猿樂の四流に獨占される結果となりました。(圖一)

二、 觀阿彌と世阿彌

 能樂者の觀阿彌清次は大和猿樂の一坐、結嵜坐を創建して棟梁となりました。觀阿彌以前の大和猿樂はものまね藝を中心とし、鬼など強い役柄による問答などの面白さを基本としてゐました。一方の近江猿樂は、女など幽玄なものを得意としてをり、また同時代に活況を呈してゐた田樂能は歌舞音曲で人氣をとつてゐました。觀阿彌は近江猿樂の幽玄さ、田樂能の歌舞性、南北朝時代に流行してゐた小唄や早歌を學び、更に曲舞のリズム中心の構成法を攝取して大和猿樂に大膽な改革を加へ、從來の猿樂になかつた音曲や作劇の面白さで人氣となります。
 今熊野神社で父觀阿彌と十二歳の美貌と才能にあふれる息子世阿彌とが演じた猿樂能を見た足利義滿一七歳は、その魅力の虜となり生涯觀世親子のパトロンとなりました。その結果大和猿樂は地位向上と他流を壓倒する人氣を得ていきました。世阿彌二十一歳のときに觀阿彌が駿河で巡業中に死亡したため結嵜坐の二代目太夫となります。義滿の變はらぬ庇護もあつて名望も高く、坐も繁榮しましたが、義滿は近江の名優道阿彌の情緒あふれる藝風を評價するやうになり、これをきつかけに世阿彌は大和猿樂の傳統である物まね本意から幽玄能へと藝風を變化させます。義滿の次代の將軍義持は、猿樂能よりも喜阿彌の田樂能を愛好しました。世阿彌は大和猿樂の劣勢を挽囘すべく、田樂能の長所も取り入れました。現在能が主力であつた觀阿彌と異なり、世阿彌は夢幻能を確立、密度の高い名作を數多く創作します。現在能は現世に生きる人間を主役にし、夢幻能は靈が主役のものです。
 世阿彌の功績は、かうした新しい樣式や作能以外に、「 祕すれば花」の句で有名な『 風姿花傳』をはじめ、樣々な傳書を書き殘したことです。特に世阿彌の序破急論の展開は極めて深淵・複雜なもので、雅樂の舞樂用語で使はれたもとの意味とは大きく變化し、複雜な概念を持つ藝術論用語にまで擴大されました。その哲學的な思考は後代日本文化に大きな影響を殘しました。
 しかし最後に世阿彌は將軍義教の怒りに觸れて佐渡へ配流され、その後の消息は不明のまま生涯を終へました。觀世流は甥の音阿彌が繼ぐことで流派の斷絶はしませんでした。

三、 能樂の樣式

 能は屋根のある專用の舞臺で演じられます(圖二)。明治以前は屋外に能舞臺と別棟の觀客席とを作つた名殘です。足袋ですり足が能の動作の基本ですから、四本の柱に圍まれた三間四方の檜ばりの舞臺は見事に磨き上げられてゐます。この四本の柱で演者は位置を確認してゐます。正面奧には松の老木が描かれた鏡板と云ふ大羽目板があります。舞臺と鏡板の間が後坐とよばれる囃子方と後見が坐る場所で、その右奧に切戸口がありますが、これは地謠や後見などの出入り口です。舞臺右側が地謠坐と呼ばれ、地謠の面々が奧よりに坐る席です。舞臺から向かつて左斜め奧につながるてすりのついた長い廊下は橋懸りと言ひ、單なる出入りの道ではなく舞臺の延長です。橋懸りの奧、揚幕の先は鏡の間と言ひ、客席から見えませんが舞臺へ出る前の演者が裝束や面を附ける場所です。なほ、樂屋は別にあります。
 前に突き出た觀客席との間に幕もない舞臺は、能樂だけのもので背景もなければ大道具もなく、わづかに作りものと稱する最小限の舞臺裝置がおかれるだけです。主演者は、役に扮して舞臺に立つ立方と、器樂の囃子方、謠の地謠方、そして後見の四種類です。
 立方は主役のシテ、脇役のワキ、科白劇的な演技部分をうけもつアイで構成されます。シテが二人の場合はもう一人をシテヅレとよびます。ワキはワキヅレ、アイは重要な役をオモアイ、他をアドアイと呼びます。囃子方は笛方、小鼓方、大鼓方、太鼓方とあります。地謠方は齊唱で謠の地の部分をうたつてシテその他の演技を助けます。通常八人程度の人數で、舞臺に向つて右手の地謠坐に二列に竝びうたはれ、後列中央寄りの一人を地頭といい,地謠を統率します。後見は裝束を直したり作り物や小道具を扱ひます。しかしシテに事故などがあつた場合に直ちに代役を務める役目があります。また、立方と囃子方にはそれぞれ固有の流派が存在してゐます。
 能の登場人物を類型で區分すると靈體・準靈體・現在體になります。靈體は神や物の精・亡靈で、準靈體とは鬼や天狗など肉體を有しながら實在の人間ではないもの、現在體は現在に生きる人間のことです。能面はこれら區分によつて變はり、男體以外は面があります。能面は七十種類あり、それぞれの役側に応じて老若男女から靈體など、柔和なものから嚴しい表情のものまで準備されてゐます。素顏は直面と云はれ、これも面と同じやうに考へられてゐるので、無表情が原則です。能面に応じて裝束も變はりますが、種類は能面ほど多くありません。
 能樂は能と狂言が交互に上演されます。能と狂言は一體と云ふ現れです(圖三)。室町時代には十七番演じられたこともありますが、江戸時代以降は五番立てが標準です。五番立てでは初番目物から順に上演され、同時にそれぞれが演目の分類(曲籍)になつてゐます。初番目物は神靈の夢幻能、二番目物は武士の靈の修羅能、三番目物は女性や貴公子、老木の精などの鬘能、四番目物はその他の雜能、五番目物は貴公子や鬼畜の切能と呼ばれてゐます。曲籍ごとに更に○○物と云ふ區分があります。
 能の上演方式もいろいろあり、能面と裝束をつけて一曲全部演じる裝束能、能面裝束をつけずに紋服袴で演じるものを袴能、後半だけを演じるものを半能、興福寺のみで薪を照明に野外で行はれた薪能などです。シテの舞ひのうち見せ場だけを紋服袴で演ずるのを舞囃子、その舞囃子と同じ場面を舞ひをはづして、囃子・地謠のみでおこなふ居囃子、能の全曲を囃子方・地謠方だけで演奏するのを番囃子と云ひます。器樂部分だけを切り取つた演奏を素囃子、謠のみを素謠、能の一部分を囃子を入れずに地謠だけで紋服袴で舞ふのを仕舞と云ひます。このやうに能の特徴はその構成要素である舞、囃子、地謠などを組み合はせたり省略したり、またそのひとつだけをとりだして演じても成立します。

四、 能樂の音樂

 能樂は歌舞を中心とした音樂劇であるから、物語は歌によつて進行します。能樂の音樂は聲樂の謠と器樂の囃子で構成されてゐます。謠はシテ方の集團による齊唱で、囃子は能管・小鼓・大鼓・太鼓の構成で、四拍子とよばれます。能の音樂構造は時代とともに變容をして、きはめて複雜ですが、強引にまとめると圖四のやうに謠と打樂器と笛の三種に大別されます。
 謠はコトバ(科白)とフシ(旋律)に大別されます。コトバには定まつたイントネーションはありますが旋律的ではありません。フシの吟型(音階・發聲)には、ヨワ吟とツヨ吟の二種があり、音階領域、息遣ひ、ビブラートなどに違ひがあります。ツヨ吟は江戸中期以降に創られたものです。フシのリズムにも有拍の拍子合と無拍の拍子不合の二種があります。拍子合は平ノリ・中ノリ・大ノリの三種にわかれ各々適用される場面が決まつてゐますが、平ノリが基本型であるため尤も多用され、どのノリ型も一句八拍の八拍子を基本とします。
 打樂器の拍子は三種あります。平ノリ、中ノリの謠にあはせてうつ竝拍子は、そのうち型から合はせ打ちと言はれます。拍の感覺を不明確にするサシ拍子は、謠ひや笛と一緒の拍を刻まづ獨自の拍子で進むので、アシライ打ちとも云はれます。ノリ拍子は場面によつて合はせ・アシライ兩面を持つた打ち方のことです。
 笛は、謠ひに對しては拍子合・拍子不合はずのいづれでも常にアシライ吹きです。謠事では打樂器がノリ拍子で、笛はアシライ吹きになります。なほ、囃子方は常に四拍子すべてが出演するわけではなく、演目によつて決められてゐます。
 かうした能の音樂構造を定める上で特徴的なことは、「 小段」と云ふ概念です。小段は脚本や旋律の構造單位のことで、謠事・囃子事それぞれに約五十種の小段があります。小段をモザイク的に積み上げて能一曲を構成すると云ふ仕組みです。極端とも言へる省略と誇張で行ふ能の所作に比べ、能の音樂構造はきはめて複雜で精緻な樣式化されたものとなつてゐます。
 歌舞の能に對して科白と仕草の狂言と言はれますが、實は狂言の演目の六割には歌舞的要素が組みこまれてゐます。能と同じく謠と囃子がありますが、能と區別して狂言謠、狂言アシライとよばれます。

五、今日の能樂

 室町時代に大成した能ですが、応仁の亂以後、能のパトロンであつた將軍家や寺社が衰頽したので、客層を擴大する必要に迫られ作風は演出を工夫した派手なものへと變はつていきました。桃山時代には秀吉が能を保護し、江戸幕府も繼承し幕府の式樂として上演されるやうになりました。明治維新により幕府の後ろ盾を失つて、更に廣い聽衆を相手にするやうになりました。第二次大戰により能樂も打撃を受けますが、名人の活躍や觀客の廣がりにより今日まで興隆を保つてゐます。
 能樂は外國の詩人や劇作家にも大いに刺戟を與へ、昭和三十一年に來日したイギリスの作曲家ブリテンは「 隅田川」を見て觸發され、宗教劇「 カーリュー・リバー」を作曲しました。また、アイルランドの劇作家イエイツは能の影響を受け「 鷹の井戸」を書き、それを逆輸入して「 鷹姫」が創られました。
 現代でも新作活動や廢曲復古や演出の見直しは行はれ、世阿彌研究の進歩によつて昔の型附けを復元する動きもでてきてゐます。能役者や狂言役者が現代劇に出演することも、現代では珍しいことではなくなりました。三島由紀夫の「 現代能樂集」の舞臺に能役者が登場したり、演出家の渡邊 守章結成の冥の會に觀世壽夫が代表者になり、現代音樂に合はせて舞つたり、ギリシャ劇に主演したりしてゐました。しかし、能樂は身體技法、發聲方法ともに特殊な發達をしたため、それらを現代演劇に融合するには難もあります。
 觀客にとつては、長い演劇時間、謠のわかりづらさが大きな問題となつてゐます。江戸時代後期にも同じやうな問題が起こつてゐて、謠のわかりづらさの原因である古典智識の缺如は現代に於て更に深刻さを増してゐます。さうした現状に對応するために謠や囃子の一部を省略する演出が取られてゐますが、安易な迎合にならないやうにと願ふばかりです。
 平成十三年、能樂は世界無形遺産に宣言され、藝術的な價値の高さは改めて人々の周知するところとなりました。しかしこれに胡坐をかかず、能樂が過去の遺産ではなく現代に生きる藝術として常に樣々な試みを續けていつてもらひたいと思ひます。


參考文獻

ひと目でわかる日本音樂入門 田中健次(音樂之友社 平成十五年)
よくわかる日本音樂基礎講坐 福井昭史(音樂之友社  平成十八年)
日本の傳統藝能講坐 音樂 小島美子(淡交社 平成二十年)
日本音樂がわかる本 千葉優子(誠幸堂 平成十七年)

 

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能楽解説図(舞台・系譜)



 

【関西】定例研究会報告13 見沢文学の可能性 ――『天皇ごっこ』を読む

 去る平成31年1月13日に開催された民族文化研究会関西地区第9回定例研究会における報告「見沢文学の可能性――『天皇ごっこ』を読む」の要旨を掲載させて頂きます。

 

はじめに

  初めは新左翼、後に新右翼に転向し、1982年に組織内の仲間を「公安のスパイである」として集団リンチし殺した事件(いわゆるスパイ粛清事件)を引き起こし、獄中にて作家デビュー、2005年に自殺するというという異色の経歴をもつ見沢知廉(1959年~2005年 本名、高橋哲夫)は著作がほとんど絶版になっていることもあり、現在はほとんど忘れられてしまっている。「プレカリアート」を標榜し、労働運動を展開している雨宮処凛は元々見沢が見出した存在であり、1998年には著作『調律の帝国』で三島賞候補にもなっている等、活動界、あるいは文学界に一定の足跡は残しているにも関わらず、現在においても見沢知廉を文学者として捉え、批評・評論しようとする動きはまったく見られない。
2011年には大浦信行監督による見沢を題材とした映画『天皇ごっこ たった一人の革命』が公開されたが、これも「人間 見沢知廉」に焦点を当てたものであり、著作の内容に関してはほとんど触れられなかった。
 本稿では見沢が獄中に書いた小説を元に再構成され、出所後初めて見沢文学として世に出された『天皇ごっこ』を読み解き、現代における見沢文学の可能性を見出す端緒としたい。

 『天皇ごっこ』を読み解く
 『天皇ごっこ』は1994年度の新日本文学賞の佳作を受賞した同名の作品を、大幅に加筆訂正したものであり、出所後の見沢の作家デビュー作となった小説である。見沢は獄中で執筆を禁止されており、作中に監獄内の描写があることもあり、表立って文章を書けない環境にあった。そのため、獄中外にいる母親に暗号や「あぶり出し」で文字が浮き出る便箋を送り、清書して出版社に送ってもらっていたという。そのため、本作は見沢と母との共同作品とも言えるものである。
 本作は全5章により成り立っている。第一章は昭和天皇崩御により沸き立つ獄中の様子を、第二章は在日朝鮮人の右翼活動家のテロを、第三章は三里塚闘争、第四章は閉鎖された精神病院を、第五章は北朝鮮を、それぞれ描いている。またどの章も過去と未来が入れ替わり立ち代り転換し描かれる点も特徴である。
 作中で繰り替えし描かれるのは右翼・左翼、あるいは様々な立場の人間が、肯定するにせよ、否定するにせよ「天皇」という存在を意識し、生きる姿が描かれる。
 最も象徴的なシーンが、第三章の三里塚闘争の最終場面で、様々なセクトの活動家が、「天皇打倒」の旗の下に一致団結する場面である。それまで内ゲバばかりしていた新左翼諸派が、「天皇を殺せ」との掛け声の下、一致団結する。そして、見沢はこう記す。

  その瞬間、狡猾で理屈っぽく敵意の塊の反逆者達は、逆の意味で〈陛下の赤子〉になった。  
―おそらく、マルクスレーニンが生き返ってアジっても、もう決して一つになれぬ老大家達が。可愛い可愛い、陛下の赤子に。

 ここでは「天皇」が絶対的な「倒すべき悪」として新左翼を統合しているわけだが、これは右翼が「天皇陛下万歳」と叫び維新運動を行う様とまったく同じである。反発するにしろ、思慕の念を抱くにしろ、あくまで「天皇」の存在を前提としないと、社会運動の変革はできない、というよりも統一した組織体を起こすこともままならない。「天皇」の名を叫ぶときにこの日本列等に住む人々は初めて「日本人」となりえる。
第4章では閉鎖された精神病棟で患者たちの治療のために、天皇を題材とした演劇を行う場面が描かれる。ストーリーとしては「チルチルミチルの兄弟が青い鳥を探して偉くて強い人の所に鳥籠を持って歩き、最後は昭和天皇の所に行き、玉音放送の直を賜る」というものである。この演劇を俳優として行うことで、精神病棟の患者たちは劇的な回復を見せる。結局この演劇は圧力により中止されてしまう。最後に見沢はこう結ぶ。 

すべての人々がその瞬間、激しく凄絶と照る曙光の中で、感情失禁して、すべてを棄てた〈陛下の赤子〉と成り果てた。
 
 「天皇」は社会から疎外された存在をも、いや疎外されているからこそ、包摂する。世の中から疎外されたすべての人間はその聖性を、一般の人間よりもはるかに感ずる。現在でも外部からの調査をほとんど入れず、人権団体からも批難されている日本の「監獄の中の監獄」である医療刑務所での収監経験のある見沢にしか書けない文章であろう。
 では作者の見沢自身はどうであったろうか。本書は基本的に、全ての章は見沢自身が実体験した出来事に基づいて書かれている。いわば私小説に近く、見沢のモデルと思しき田村という登場人物も登場する。しかし、見沢はその田村を描く時には、あくまでカリカチュアし、その政治思想をきちんと突き放して描いている。見沢は革命家として生きつつも、文学者として自己を客観視し、時には冷酷なまでにその存在を「外部」から観察しようとする視点を失わなかった。「文学者」見沢知蓮の凄味はまさにここにこそある。

むすび
 見沢はついに文学者として大成することはなかった。1998年には三島賞候補になったものの、受賞はならず、相当に荒れたという(なお、選考委員の中で石原慎太郎のみが見沢を評価したという)。落選後はエッセイや公演を中心に活動したが、薬物の乱用による体調不良もあり、仕事のドタキャンを繰り返し、最後にはほとんど錯乱状態であったという(なお、小指をナイフで切り落としかけるなどの行為も行っている)。『天皇ごっこ』のあとがきにて「第六章、七章とこのテーマはライフワーク的に書き続けて行きたい」と記しているが、結局、その後が書かれることは無く、『天皇ごっこ』は未完成に終わった。そして見沢文学もその完結を見ることなく作者の自殺という結末を迎えた。
また、見沢は活動家としても疑問符がつく点が多い。スパイ粛清事件にしても殺された人物が本当に公安のスパイであったかはともかく、大勢の人間で寄ってたかって嬲り殺したという点では弁護の仕様が無い。基本的に、一人に標的を絞り、目的を達した後は自裁をする右翼・民族派のテロのやり方とは根本的に違っている。
また、『天皇ごっこ』第一章にて昭和天皇崩御による恩赦を目的として、様々な所に手紙を出す登場人物が描かれているが、これは作者の見沢もかつて獄中で行っていた。見沢は同じく獄中経験のある野村秋介に恩赦が出るように働きかけて欲しいと頼む手紙を出し、逆に厳しく叱責されている(野村は見沢を慮りつつも、「熱い風呂に入っている時はじっとしていろ」とアドバイスを送っている。この手紙は『友よ荒野を走れ』に所収されている)。
見沢は活動家としても、文学者としても半端なまま終わってしまった。自らの思想に殉じ、多大な衝撃を残した(そして現在も与え続けている)三島由紀夫や影山正治、あるいは蓮田善明や野村秋介といった人びとに比すればその思想も行動もはるかに卑小に見える。
しかし、我々は大多数が単なる卑小な凡人である。社会に衝撃を与える劇的な死も、精緻な思想も、誇るべき美学も持ちようが無い。だからといって、昨今の一部のリベラル・フェミニスト運動やLGBT運動に見られるように、自らを「弱者」と規定し、それを利権化しようとする動きにも加担は出来ない(念のため付言しておくが、私は本来の意味でのフェミニズム運動やLGBT運動には反対ではないし、弱者を圧迫しようとする思想の持ち主ではない)日々、地べたを這い蹲りながら何とか生きるちっぽけで不完全な存在である。
映画『天皇ごっこ―たった一人の革命』のパンフレットにて大浦信行は「(見沢は)未完成で成功しなかったからこそいい」と述べている。見沢は確かに未完成で、未熟なまま逝った。そのもがき苦しみは傍から見れば見苦しくもあったろう。しかし、私たちは三島や野村のような「超人」にはなれず、かといって「弱者」にもなれない。天にも昇れず、地下にも堕ちることはできない私たちは大地の上を時にのた打ち回り、苦しんで生きるしかない。監獄の中でのた打ち回って小説を書き、出所後も社会という見えない監獄の中で苦しみ、死んだ見沢の文章は、この大地の上を歩き、生きる私たちにとって、一つの道標になるのではないか。見沢文学が読み継がれる価値があるとするならば、まさにこの点にあると、私は考える。

参考文献
見沢知蓮『天皇ごっこ』 第三書簡 1995年11月
見沢知蓮『獄の息子は発狂寸前』 ザ・マサダ、1997年6月 
野村秋介『友よ荒野を走れ』1991年4月
天皇ごっこ―たった一人の革命』パンフレット