民族文化研究会

わが国の伝統的な民族文化・民族生活ならびに世界の諸民族を取り巻く問題を研究

【関西】定例研究会のご案内

 

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 次回の民族文化研究会は、下記要領にて開催致します。万障繰り合わせの上、ご参会下さい。

 

関西地区第8回定例研究会
日時:平成30年12月16日(日)16時30分~19時30分
会場:貸会議室オフィスゴコマチ 3階 302号室
京都府京都市下京区御幸町通り四条下ル大寿町402番地 四条TMビル
http://office-gocomachi.main.jp/
会費:800円
​主催:民族文化研究会関西支部

【東京】定例研究会のご案内

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 次回の東京地区定例研究会は、下記要領にて開催致します。万障繰り合わせの上、ご参会下さい。

 

東京地区第19回定例研究会
日時:平成31年2月17日(日)14時~17時
会場:早稲田奉仕園 セミナーハウス1階 小会議室105号室
東京都新宿区西早稲田2‐3‐1
https://www.hoshien.or.jp/
会費:1000円
​主催:民族文化研究会東京支部
備考:この研究会は、事前予約制となっております。当会の公式アドレス(minzokubunka@gmail.com)までご連絡ください。また、会場の開室は14:00になります。それまではセミナーハウス内のラウンジにてお待ちください。

【東京】定例研究会報告23 弱肉強食批判と『昆虫記』・縄文文化は日本の伝統たりうるか

 平成30年11月25日(日)14:00-17:00、民族文化研究会東京地区第18回定例研究会が早稲田奉仕園にて開催されました。

 第一報告は小野耕資氏(本会副会長・大アジア研究会代表)による「弱肉強食批判と『昆虫記』」。ファーブル『昆虫記』翻訳に賀川豊彦大杉栄らが関わった歴史を紹介し、彼らのなかに弱肉強食・生存競争的世界観への批判と新たな秩序への模索という共通項があり、単純な〈右翼〉〈左翼〉といった思想軸ではくくれない近代批判があると指摘されました。

 第二報告は山本直人氏(本会顧問・東洋大学非常勤講師)による「縄文文化は日本の伝統たりうるか~民族のアイデンティティーをめぐるジレンマ~」。「縄文文化」の近代史上における位置づけを回顧したうえで、皇室や米作といった日本の伝統に対する「縄文文化」の位置付けの難しさを問題提起されました。

 一定以上学問的・専門的な関心を持ちつつ、報告とそれにもとづく質疑・談話などによって知識を共有していく試みを今後も継続して参りますので、関心のある方はお気軽にご参加下さい。

 次回は平成31年2月17日(日)14:00~早稲田奉仕園105号室にて開催予定。
(事務担当・渡貫)

【東京】定例研究会のご案内

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 次回の東京地区定例研究会が近日に迫っておりますので、改めてご案内致します。次回の東京地区定例研究会は、下記要領で開催します。万障繰り合わせの上、ご参会ください。

 

東京地区第18回定例研究会
日時:平成30年11月25日(日)14時~17時
会場:早稲田奉仕園 セミナーハウス1階 小会議室105号室
東京都新宿区西早稲田2‐3‐1
https://www.hoshien.or.jp/
内容:報告1 小野耕資(本会副会長・大アジア研究会代表)「弱肉強食批判と『昆虫記』」
   報告2 山本直人(本会顧問・東洋大学非常勤講師)「縄文文化は日本の伝統たりうるか~民族のアイデンティティをめぐるジレンマ~」
会費:1000円
​主催:民族文化研究会東京支部
備考:この研究会は、事前予約制となっております。当会の公式アドレス(minzokubunka@gmail.com)までご連絡ください。また、会場の開室は14:00になります。それまではセミナーハウス内のラウンジにてお待ちください。

【関西】定例研究会報告11 日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第四囘)――聲明

 去る平成30年11月3日に開催された民族文化研究会関西地区第7回定例研究会における報告「日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第四囘)――聲明」の要旨を掲載します。

 

 この企劃は現代音樂に滿たされた現代日本人に明治以前の日本の音樂を知つてもらふため、まづは私達自身が詳しくなり傳道していかうと云つた考へのもと始めました。
 今囘は日本音樂の大きなくくりである、雅樂・聲明・琵琶樂・能樂・箏曲・三味線音樂・尺八樂・近現代音樂・民謠のなかから聲明に就いて解説致します。下記は今囘解説する項目です。

一、聲明の成り立ち 二、 聲明の後世への影響  三、 聲明の理論と樂譜  四、魚山と聲明
五、 大原流聲明に就いて  六、西洋宗教音樂との對比

一、聲明の成り立ち

 法要などで僧侶が經文を唱へますが、それが聲明です。聲明とは古代インドのバラモン僧が學ぶべき五種類の學問領域五明のひとつで、文法學や言語學、音韻學に關する學問を意味するサンスクリット語の漢譯です。聲明が日本の佛教聲樂の意味として使はれるのは中世初頭以降で、それまでは梵唄・唄匿と呼稱し、現在でも中國・朝鮮・チベット・日本禪宗では梵唄と云ひます。梵とは本來バラモン教の最高原理のことで、轉じて古代インドを形容します。唄はインドで法言の歌詠、中國で經を詠ずることを指してゐます。佛教はインドから中國朝鮮を經由して傳來しますが、梵唄も同時に渡來したのでは、と言はれますが不明です。
 東大寺大佛開眼會で、内外合はせて數百人の僧が、唄・散華・梵音・錫杖の所謂四箇法要を大合唱したあたりから奈良聲明の原形がほぼ確立されました。平安初頭に最澄空海が唐留學から歸國して天臺宗と眞言宗を開き、最澄の三代後の坐主圓仁が天臺聲明を、空海を始祖とする寛朝が眞言聲明をと、平安二大聲明が大成しました。その後この兩宗は分派しながらも發展しました。鎌倉佛教が起り、これらが天臺眞言宗聲明を軸にして各宗の聲明を確立します。榮西・道元は宋に留學し鎌倉聲明を創始しました。江戸時代に傳來した黄檗宗は明代禪宗の梵唄を確立します。このやうに新たな宗派によつて、法會の形式や聲明の樣式、曲種が生まれ、それぞれが個別に進化したり、反對に古い形式が衰微したりしました。
 現代では法會に於る佛教音樂のすべてを聲明と云ひますが、狹義には梵語贊・漢語贊など外來系の聲明、それに準じた和製の讃歎などを本聲明と云ひます。つまり法會で音樂による供養を目的として樣式化された聲樂曲のことです。それに對し雜聲明とは教義の説明などの經釋・講式・教化や、教義に就いて議論したりする論議など具體的内容を持つ詞章に旋律がついた結果生じたものを言ひます。和讃など法會以外で用ゐられるものは佛教音樂であつても聲明からは除外され佛教歌謠と言はれてゐます。圖一は聲明の分類を圖式化したものです。實際には更に分類できます。

二、 聲明の後世への影響

 前項で聲明は佛教音樂の一部であると説明しました。佛教音樂は幅廣く、廣義の佛教關聯行事や信徒の間で詠唱されるものも含まれます。更に佛教的色彩を持つ音樂も佛教音樂に含まれます。佛教行事は佛や先祖の供養もあり、經典には供養として音樂や伎樂を奏するとあり、古くから聲樂・舞樂・器樂、場合によつてはその他の藝能まで用ゐられました。東大寺大佛開眼會では梵唄とともに林邑樂・度羅樂・伎樂など佛教的色彩の強い渡來音樂の大合奏が行はれました。かうして佛教音樂は幅廣い種目領域を持つことになりました。高度の音樂理論に裏附けられた聲明と、寺院の供養として用ゐられた法會雅樂は、それぞれに變容と融合を繰り返しながら新しい佛教音樂を創出しただけでなく、各種の日本傳統音樂や藝能の生成に深い影響力を與へました。聲明は日本化され、教化・表白・講式・論議など、和文の雜聲明を生み出し、語り物音樂の原形として平曲・義太夫節などに影響を與へます。
 僧侶だけでなく信徒が唱へる、和讃・御詠歌・念佛などの佛教歌謠の派生が後代の歌ひ物音樂の源流になりました。寺院に於る雅樂は聲明や佛教歌謠と結びついて、雅樂の旋律に今樣體の詞章をつけた越天樂謠物などの寺院歌謠を生み、更に筑紫箏を經由して箏曲や組歌から始まつた地歌の發生のきつかけとなつていきました。
 法會で盲僧が聲明の伴奏樂器として用ゐた琵琶は、囘檀法會などでの餘興が藝能化して物語琵琶を生み出し、平家琵琶として大成することになります。これら琵琶法師たちは、沖繩から渡來した三線を三味線に改良した立役者でしたし、三味線と平曲が淨瑠璃と云ふ語りもの音樂を生むことになりました。
 箏、琵琶と竝ぶ樂器として禪宗の修行や托鉢などの法器の尺八があり、普化尺八の本曲は佛教音樂としてだけでなく藝術音樂として現代に傳へられてゐます。
 法會の後に行ふ説教は旋律を持つやうになつて、節談説教から藝能化して、説經節、祭文もやがて門附藝になつて、歌祭文となり、最終的には、それらの語り口と題材が淨瑠璃に引き繼がれていきます。同じく法會の後の餘興として演じられた散樂や、その系統をくむ延年などでの呪師作法は呪師猿樂に影響を與へながら能の母體となります。伎樂の滑稽性諧謔性が興言に生かされ、講式の強い影響を受けた早歌も詞章から廣義で佛教音樂とする説もあります。
 かうしてみると、音樂理論、旋律型、唱法、調子、曲節、規制の旋律を配列や組み合はせる作曲法などから、日本の歌や語りもの音樂は聲明に始まるとする説は疑問の餘地のないところと言へます。(圖二)

三、 聲明の樂譜

 聲明の記譜法のことを博士と云ひます。本來はフシとよばれてゐたやうです。博士は目安博士と古博士に大別できます。圖三、四をご覽ください。目安博士とはみみずが貼つてゐるやうな形をした譜で、一見して旋律の樣子が想像できる構造になつてゐます。天臺系の聲明の記譜は現在でも目安博士によつてゐます。また只博士と云ふ呼ばれ方もしてをり、只は普通と云ふ意味で、他にもつと本式の記譜法があるからで、それが古博士です。
 古博士は本博士・五音博士ともいい、ひとつの漢字の四隅などにマッチ棒上の記號を配して、どの位置、どの形かによつて音律を表す記譜法です。眞言系は目安博士もありますが、古博士のものが基本です。古博士の起源は四聲點にあります。中國語は同じ音でも音韻によつて意味が變はり、その音韻を平聲・上聲・去聲・入聲の四種に割れて文字の四隅に點を打つことで表しました。この記號を四聲點と云ひます(圖五)。漢字を唐音や呉音でうたふ漢贊は、日本人にとつては聞いてもわからない外國語であり、フシは意味から離れて音になります。梵贊はサンスクリット語を漢譯佛典に記入したもので、中國人にとつてもわからない外國語であつて、おかげで言葉は聲へ、聲は音へと變化して音樂的に發展するきつかけになりました。
 講式や和讃など日本語を歌ふ日本製の聲明では、文字ではなく言葉の抑揚に從つて日本語に必然性のあるフシつけがゴマ點で寄附されてゐる(圖六)。言葉とフシの關係から言へば、このはうが聲明本來のあり方にかなつてゐると言へます。これらは言葉から音への變化はできず、平曲などへ展開していくことになります。

四、魚山と聲明

 魚山は、日本では良忍によつて聲明の道場とされた京都大原の來迎印や勝林院のある三千院一帶の事を指しますが、同時に聲明のことを魚山とも云ひます。西暦十三世紀には代名詞として定着してゐました。また、眞言宗でも魚山が聲明の意味で使はれてゐました。
 では魚山とは何でせうか。それは中國の地名であります。魚山は古くは三國志の註釋書を補つた文中に「 陳思王曹植がかつて東阿を臨む魚山に登つて經の聲を聞いた」とあります。また、唐の時代にも梵天の響きを聞いたなどの記述があります。魚山の名は何によつてゐるのでせうか。そのことに就いて宋代の法雲によつて書かれた飜譯名義集などの書籍を綜合すると、佛教の世界觀と關係してゐます。世界の中心には須彌山があり、その周りは九山八海に取り圍まれてゐます。その中の第六の山を尼民達羅または地持山と云ひます。そしてこの山の形が海の魚に似てゐる、と云ふのです。尼民達羅を魚山と譯し、東阿市の魚の形に似た丘陵を魚山と名附けたと推測されます。そして曹植の逸話と結びついて、梵唄發祥とされ、やがて梵唄の代名詞になつていつたものと考へられます。曹植が聲明の始祖として登場することは中國でも極めて稀です。曹植の墓は現在東阿市にあります。
 日本に於ては魚山の名には重い意味が込められてゐます。天臺宗のみならず大原の地と聲明曲集に冠せられてゐるからです。

五、 大原流聲明に就いて

 前項でも出てきた大原流聲明とはどのやうなものでせうか。融通念佛宗の祖良忍上人が、來迎院を建立して、山號を魚山としたのが始まりです。來迎院、勝林院の二寺が大原流魚山聲明の道場になつてゐます。
 西暦十二世紀後半に聲明の音樂理論に大きな影響を及ぼす出來事がありました。それは蓮入房湛智と蓮界房淨心の聲明の旋律を巡つての對立に端を發した爭ひです。聲明曲の調子を決める大切な音である宮と徴と云ふ音を正規の位置より半音下がるのか全音下げるのかに就いてと云ふ部分でした。結果から言へば湛智側が主流になりました。彼は聲明目録など聲明の全要領を備へた聲明發達史上重要な書籍を著し、更に雅樂の理論を聲明に導入し横笛で音階を定め口授傳承と對置する革新派でした。淨心のはうは口傳口授を尊び、當時の音樂を重くみず遊離したために湛智に遲れを取つたのでした。
 音樂理論の發達した世に於ては、いかなる古典にしても採譜され一般人に至るまでその樣相が理解されなければやがてその生命は音樂の線上から消えてゆくことになることになるのかもしれません。しかし口傳口授は理論を超えた一面があり、相傳の資格に於て唱へられ、しかも儀式もそれに重要なる條件となり、格別の研修を經なくてはならない大事でもあります。

六、西洋宗教音樂との對比

 西洋音樂は起源をたどると教會音樂に行き着きます。これは聲明が日本の聲樂の基礎になつたのと同じです。ローマカソリック教會の正式な典禮聖歌は西暦五九〇年からグレゴリウス一世がヨーロッパ全體に廣がつたキリスト教徒その教會の儀式を統一するために編纂した聖歌集に始まると傳へられてゐます。この典禮聖歌は西暦一三世紀ごろまで發展を續けました。これらの曲を總稱してグレゴリオ聖歌と呼びます。グレゴリオ聖歌は旋律もひとつで伴奏もなく、音樂としては素朴なものだつたので、西暦一三世紀以降どんどん改良されて今の教會音樂に發展していきました。
 彼ら僧侶の教會音樂に對する態度は、現代でも非常に重い責任感を持ち、その一曲に儀式の成否がかつてゐると心得、特に音に對して注意を拂つてゐます。その演奏は異教徒をも魅了する力を持つてをり、まさに天使の歌聲とはこのやうなものかと思はされるほどのものです。
 このやうな儀式音樂に對する態度はキリスト教徒の特異性なのでせうか。我國に於てもかつて聲明によつて聞くものの心を深く捉へ、信仰心を呼び起こす機縁となつた話は數多くあります。現代に於て聲明により改心したと云つた話は極稀であるのは、聲明が後代の歌舞伎を筆頭にした藝能音樂に躍動感を奪はれた儘とひう指摘があります。また、聲明をあくまで儀式に供したものとしてゐて、信徒に披露すると云つた感覺が薄いこともあるのかもしれません。實際聲明曲はインターネットで檢索しても、同時代の雅樂と比べて極少數しかないことからも伺へます。
 聲明は一人ひとりの聲質の違ひゆゑ、核となる音程を違ふ音程にする場合もあり、それにより合唱になると聲が不揃ひになつて、混沌とした響きになります。これはキリスト教會音樂とは大きな違ひであります。どちらが優れてゐると云ふものとも言へませんが、儀式音樂に對する姿勢の違ひとして際立つた相違であると云へませう。

參考文獻

ひと目でわかる日本音樂入門 田中健
聲明は音樂のふるさと 岩田宗一
聲明の研究 岩田宗一
聲明[一] 木戸敏郎
聲明[二] 木戸敏郎

 

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【関西】定例研究会のご案内

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次回の関西地区定例研究会を、下記要領で開催します。万障繰り合わせの上、ご参会ください。

 

関西地区第7回定例研究会
日時:平成30年11月3日(土)15時~18時
会場:貸会議室オフィスゴコマチ 4階 433号室
京都府京都市下京区御幸町通り四条下ル大寿町402番地 四条TMビル

https://main-office-gocomachi.ssl-lolipop.jp/index.html

会費:800円
​主催:民族文化研究会関西支部

 

【関西】定例研究会報告9 戦間期ドイツ青年運動における民族主義的傾向――ワンダーフォーゲル運動を中心として

 去る平成30年10月6日に開催された民族文化研究会関西地区第6回定例研究会における報告「戦間期ドイツ青年運動における民族主義的傾向――ワンダーフォーゲル運動を中心として」の要旨を掲載します。

 

序論 戦間期ドイツ青年運動とファシズム

 本稿の意図は、戦間期ドイツ青年運動における民族主義的傾向――こうした傾向は、戦間期ドイツ青年運動をのちにファシズム運動へと合流させるのだが――を、とりわけワンダーフォーゲル運動を中心として概観し、その思想的構造を明らかにすることである。ただ、戦間期ドイツにおける青年運動が、いかに多数の青少年を動員したにせよ、こうした運動は同時代の政治闘争の嵐のさなかでは、さほど重視すべきとは思えないかもしれない。ワンダーフォーゲル運動をはじめとして、この時期の青年運動の「右旋回」はある程度知られているものの、ナショナリズム研究においてメジャーであるわけでもない。では、なぜこうした限定的な影響力しか持たなかった戦間期ドイツの青年運動に着目するかというと、こうした戦間期ドイツ青年運動に従事した青年らの思想的履歴を参看したとき、そこに第一次大戦の敗戦というカタストロフィに動揺するなかで、「ロマン主義的心性の高まりから、急進右派運動へのアンガージュマンへ」という軌跡を辿る、同時代のドイツナショナリズムの「典型」が伺えるからである。すなわち、戦間期ドイツ青年運動の民族主義的傾向を検討することで、同時代のナショナリズムそのもののコアへと接近できるわけである。

 

一 教養市民とドイツ文化の危機

 第一次世界大戦を挟んだ数十年余に渡る時代の激動は、ドイツ社会にとって重大な転換点となった。市民層の融解と資本市場の抬頭によって、ドイツ社会の伝統的様相は一変したのである。このように、帝政末期/ワイマール期ドイツは、時代の変容によって、旧来の社会諸構造が自壊していく時代――「崩壊の経験」(蔭山宏) ――として規定できる。そして、このようにドイツ社会がその相貌を激変させるさなかで、学問的状況・精神的状況も構造転換を遂げつつあった。旧来の教養市民層 と伝統的なドイツ文化が衰勢の危機に立たされたのである。
 「文化」とその担い手である「教養市民層」は、ドイツでは格別の重みを有している概念だ。イギリスやフランスでは文化・学術の主体が経済的中間層だったのに対し、ドイツでは文化・学術の主体は大学人や高級官僚といったアビトゥア試験によって選抜されたエリート層だった。こうした文化的エリートこそ、教養市民層である。ドイツでは、文化・学術を文化的エリートである教養市民層が担い、上からの近代化の装置として機能させる構図が形成されていたのである 。そして、ドイツにおける「文化」には、イギリスにもフランスにもない固有の含意が内包されている。ノルベルト・エリアスは「文明」が先進国の自意識であるのに対し、「文化」は後発国の自意識であると唱えたが 、ドイツにおける「文化」はイギリスやフランスの「文明」との対抗図式において理解できる。「文明」が普遍性を前提とした物質的成果――産業の繁栄や経験科学の隆盛――を意味するのに対し、「文化」は固有性を前提とする精神的美質――民族精神の純粋性や伝統的文芸・美術の卓越性――を表現している。「文明」を体現するイギリスやフランスに対して、「文化」の誇示によってドイツは自意識を貫徹しようとしたのである。
 このように、イギリスやフランスの「文明」への対抗である教養市民層の強力な統御による「文化」の発揚こそ、ドイツにおける知の形式を根源的に規定していた。そして、こうした「文化」と「教養市民層」の関係こそ、「文化国家」を標榜するドイツの統一と正統性を支えていたのである。しかし、資本市場の抬頭による市民社会の構造そのもの変質と、決定的な追い打ちとしての第一次世界大戦の敗戦によって、教養市民層は没落し、価値観の多様化が生じた。特殊ドイツ的な文化――教養市民層を担い手とする文化の統合――は危機に瀕していたのである 。

 

二 青年運動の隆盛(一)――ワンダーフォーゲル運動

 近現代における教養市民層のドイツ青年たちは、こうして旧来の文化と学知の構造が破綻するさなかで、自身の地位と将来像の動揺に見舞われ、やりきれない閉塞感を覚えていた 。やがて、こうした状況下で、若き教養市民層は、旧来の教育機関や伝統的なドイツ文化に懐疑の目を向け、こうした権威の桎梏からの解放を望み始める。そして、家庭や学校に代わる自己教育の場を戸外に求めて野山を渡り歩いた。この自然散策は、既存の価値の瓦解を前に、新たな理念を探る試みでもあった。これこそ、ワンダーフォーゲル運動 であり、ドイツにおける青年運動の源流である。
 1896年春に、ベルリン大学に在籍していたホフマン・フェルカーザンプが、ギムナジウムの生徒とともに野山を散策した。これが、ワンダーフォーゲル運動の発端であった。ホフマンは、厳格な社会・学校・家庭・教会からの脱却志向と自由な生への憧憬を自然散策に仮託したが、この主張は鬱屈した教養市民層の青年たちに支持された。大学を卒業して外交官として中近東に赴任が決まったホフマンは、同志だったカール・フィッシャーに自然散策グループの指導を任せた。フィッシャーはこのグループの公的組織化まで漕ぎ着け、ワンダーフォーゲルはドイツ全国へと広がっていく。フィッシャーはこの自然散策グループの正式名称を「ワンダーフォーゲルWandervogel(渡り鳥)生徒旅行委員会」としたが、やがてこの自然散策そのものがワンダーフォーゲルと呼ばれるようになった。
 こうしたワンダーフォーゲル運動の思想的背景として、「青年の発見」と「ロマン主義的心性」に着目しなければならない。アメリカの社会史家J・R・ギリスは、ヨーロッパの1870~1900年における際立った社会現象として「青年の発見」を挙げた 。この時期に、中産階級の下で、通学期間の延長、子供の数の減少によって、若者が家庭や学校への従属と依存を強め、子供でもなく大人でもない生涯の一時期が浮上してきたのである。青年層の増大と世代間闘争の勃発は、「青年を制する者は世界を制する」というフレーズが登場するほど 、青年の存在を社会において巨大なものにしつつあった。そして、こうした時代状況において、青年運動が抬頭し始めたのである。
 そして、「ロマン主義的心性」だが、これは「ワンダーフォーゲル(渡り鳥)」という詩的な名称において象徴的に表れている。フィッシャーによる「ワンダーフォーゲル(渡り鳥)」との命名の背後には、ドイツ・ロマン派の詩人たちが流離う人生の哀歓を渡り鳥に仮託して歌いあげた心情への共感があった。ワンダーフォーゲルの提唱者たちは、ヴィルヘルム期に構築された学校システムへの反抗を、ロマン主義的心性によって充足していたのである 。彼らは、近代文明――そして、それが産出したところの近代的学校システム――に対しては自然や過去にありえた自由人としての生を、合理的知性――そして、それを育てるための教育カリキュラム――に対しては生々しい感情と体験を、近代民主主義――学級での空虚な討議を連想させる――に対しては共同体の絆と指導者の辣腕を、キリスト教――教会は国家や学校と共に青年を支配する機構だった――に対してはゲルマン信仰を対置させた。ワンダーフォーゲルに集った青年は、自らを中世の遍歴学生や吟遊詩人に見立てていたのだ。文化から逃れ、野原に解放を求めた青年は、大人に抗するための新たな理念を見出した。散策する森はもはや単なる森ではなく、回帰すべき「ゲルマンの森」として出現する。そこで、彼らは、近代文明に蝕まれる以前の、中世における遍歴学生や吟遊詩人の自由を享受するのである。ここに、のちに彼らがファシズムに旋回する遠因が潜在していた。

 

三 青年運動の隆盛(二)――自由ドイツ青年

 1910年代には、ワンダーフォーゲル運動をはじめとする諸青年運動は、連合体である「自由ドイツ青年」へと発展していく。この「自由ドイツ青年」運動の契機となったのは、青年運動家による1913年のナポレオンからの「解放戦争百周年」記念祝典だった。この対ナポレオン戦勝記念祝典は、政府・軍・教会・在郷軍人会の協力の下で、ベルリン・バイエルンザクセンなどで相次いで開催されていた。これらの国家による祭典に対抗して、青年運動家が開催したのが「自由ドイツ青年」大会だった。この大会を采配したのはギムナジウム時代にワンダーフォーゲルを経験した学生であり、祭典の会場はワンダーフォーゲルの聖地とされていたホーアー・マイスナー山だった。祭典は国家による青年の教化に反対し、「解放闘争における真の愛国心」「祖国への責務」「青年の自立」を掲げた。そして、ドイツ青年運動のワンダーフォーゲルからの脱却が唱えられ、積極的な政治行動が主張された。新時代における理想の青年像を「ドイツ的青年」と規定し、こうした「ドイツ的青年」が自由を守り抜くため闘うことこそ、来るべきドイツ青年運動の理念であるとされた。
 こうして、ドイツ青年運動は、感傷的・自足的なワンダーフォーゲル運動の段階から、思想的・闘争的な政治運動の段階へと足を踏み入れたのである。田中栄子の表現を借用すると、「いまや運動のシンボルマークは、ヴァンダ―フォーゲルの「渡り鳥」から「松明をかかげて突き進む馬上の騎手」になった」 のだ。自由ドイツ青年は、1900年代初頭にギムナジウムの生徒であった若者たちが大学生へと成長した際の受け皿となった。そして、そうした青年たちを、ギムナジウム時代におけるワンダーフォーゲルの眠りから覚まし、政治的局面へと目を見開かせた。やがて、自由ドイツ青年は、左派と右派の内紛から分裂する。しかし、以降の青年運動でも、自由ドイツ青年が提示した、ワンダーフォーゲル運動の段階におけるゲルマン回帰の夢想から政治運動の段階における現実政治上のフォルク再建への闘争の発展という路線は維持されていく。そして、ワイマール体制の危機に際会し、古ワンダーフォーゲル(のちにドイツ義勇団)・新ワンダーフォーゲルドイツ国家青年同盟といった右派の青年運動団体は、ナチへの傾倒を深めヒトラーユーゲントへと合流した。

 

結論 文化への憎悪と反転――戦間期のドイツ青年の精神性

 これまで、ドイツ青年運動の歴史的展開を概観し、その変遷を辿ってきた。伝統的な文化と学知の様式への異議申し立てとして出発したドイツ青年運動は、あらゆる桎梏からの解放を求めながら、ファシズムへと最終的に合流していくわけである。
 出口剛司は、こうしたドイツ青年における特異な時代体験を、ニーチェゲーテ・シュペングラーを援用しつつ、文化と自然の対抗というドイツ青年における思想的構図の破綻として描出している 。出口の議論を概観し、戦間期ドイツ青年運動における民族主義的傾向を理解するための示唆を獲得したい。
 まず、検討されるのは、1900年代のニーチェ旋風において同時代のドイツ青年へとニーチェの与えた絶大な影響である。ニーチェが『悲劇の誕生』で展開したアポロン原理とディオニュソス原理そして明朗なギリシャギリシャ悲劇の対抗を、ドイツ青年は「文化」と「自然」の対抗として読解した。ここで、ニーチェのこうした対抗図式に導かれ、文化を代表する都市を忌避し、自然の森林を遍歴するワンダーフォーゲルがドイツ青年によって提起された。しかし、「文化」と「自然」の対抗――正確に表現すると、「自然」による「文化」への対抗というドイツ青年の戦略――はある陥穽を孕んでいる。ドイツ青年が解放の拠り処とした「自然」は、純粋な「自然」ではありえず、ゲルマン古代神話やゲーテの文学によって文化的に再解釈された、謂わば「文化」化された「自然」であった。こうした「文化」化された「自然」に潜む罠に、やがてドイツ青年は嵌まり込む。その契機となるのが、シュペングラーの『西洋の没落』で展開された歴史哲学である。この著作の主題は、文化論にゲーテ形態学――自然の不断の生成と消滅を比較・観察し自然の普遍的歴史相を探究しようと試みる理論――を適用し、文化の普遍的展開図式を獲得しようとすることである。このような、シュペングラーにおける文化を徹底的にゲーテ的自然論のアナロジーにおいて理解する議論は、いわば「自然」化された「文化」を含意する。ドイツ青年における「文化」化された「自然」は、シュペングラーのこうした「自然」化された「文化」を容易に受容してしまう。文化と自然の混淆という現実的様態において、「文化」化された「自然」と「自然」化された「文化」は等値である。ここで、「文化」の終焉と再生を、能動的な悲劇として生き抜こうとするシュペングラーの姿勢は、かつて「文化」へと抵抗を試みたドイツ青年を「文化」――そして、ナチズムという民族文化を復権させる政治運動――へと回帰していくわけである。

 

参考・引用文献

蔭山宏『崩壊の経験』 慶應義塾大学出版会 2013年

野田亘雄『教養市民層からナチズムへ』 名古屋大学出版会 1988年

野田亘雄『ドイツ教養市民層の歴史』 講談社 1997年

F・K・リンガー『読書人の没落』 名古屋大学出版会 1991年

西村稔『文士と官僚』 木鐸社 1998年

N・エリアス『文明化の過程(上)』法政大学出版局 1977年

N・エリアス『文明化の過程(下)』法政大学出版局 1978年

秋元律郎『マンハイム 亡命知識人の思想』ミネルヴァ書房 1993年

T・マン『ブッテンブローク家の人びと(下)』岩波文庫 1969年

W・ラカー『ドイツ青年運動』人文書院 1985年

上山安敏『世紀末ドイツの若者』 講談社 1994年

田中栄子『若き教養市民層とナチズム』 名古屋大学出版会 1996年

J・R・ギリス『〈若者〉の社会史』 新曜社 1985年

D・J・K・ポイカート『ワイマル共和国』 名古屋大学出版会 1993年

出口剛司『エーリッヒ・フロム』 新曜社 2002年