民族文化研究会

わが国の伝統的な民族文化・民族生活ならびに世界の諸民族を取り巻く問題を研究

【関西】定例研究会のご案内

f:id:ysumadera:20181003074956j:plain

 

次回の関西地区定例研究会を、下記要領で開催します。万障繰り合わせの上、ご参会ください。

 

関西地区第7回定例研究会
日時:平成30年11月3日(土)15時~18時
会場:貸会議室オフィスゴコマチ 4階 433号室
京都府京都市下京区御幸町通り四条下ル大寿町402番地 四条TMビル

https://main-office-gocomachi.ssl-lolipop.jp/index.html

会費:800円
​主催:民族文化研究会関西支部

 

【関西】定例研究会報告9 戦間期ドイツ青年運動における民族主義的傾向――ワンダーフォーゲル運動を中心として

 去る平成30年10月6日に開催された民族文化研究会関西地区第6回定例研究会における報告「戦間期ドイツ青年運動における民族主義的傾向――ワンダーフォーゲル運動を中心として」の要旨を掲載します。

 

序論 戦間期ドイツ青年運動とファシズム

 本稿の意図は、戦間期ドイツ青年運動における民族主義的傾向――こうした傾向は、戦間期ドイツ青年運動をのちにファシズム運動へと合流させるのだが――を、とりわけワンダーフォーゲル運動を中心として概観し、その思想的構造を明らかにすることである。ただ、戦間期ドイツにおける青年運動が、いかに多数の青少年を動員したにせよ、こうした運動は同時代の政治闘争の嵐のさなかでは、さほど重視すべきとは思えないかもしれない。ワンダーフォーゲル運動をはじめとして、この時期の青年運動の「右旋回」はある程度知られているものの、ナショナリズム研究においてメジャーであるわけでもない。では、なぜこうした限定的な影響力しか持たなかった戦間期ドイツの青年運動に着目するかというと、こうした戦間期ドイツ青年運動に従事した青年らの思想的履歴を参看したとき、そこに第一次大戦の敗戦というカタストロフィに動揺するなかで、「ロマン主義的心性の高まりから、急進右派運動へのアンガージュマンへ」という軌跡を辿る、同時代のドイツナショナリズムの「典型」が伺えるからである。すなわち、戦間期ドイツ青年運動の民族主義的傾向を検討することで、同時代のナショナリズムそのもののコアへと接近できるわけである。

 

一 教養市民とドイツ文化の危機

 第一次世界大戦を挟んだ数十年余に渡る時代の激動は、ドイツ社会にとって重大な転換点となった。市民層の融解と資本市場の抬頭によって、ドイツ社会の伝統的様相は一変したのである。このように、帝政末期/ワイマール期ドイツは、時代の変容によって、旧来の社会諸構造が自壊していく時代――「崩壊の経験」(蔭山宏) ――として規定できる。そして、このようにドイツ社会がその相貌を激変させるさなかで、学問的状況・精神的状況も構造転換を遂げつつあった。旧来の教養市民層 と伝統的なドイツ文化が衰勢の危機に立たされたのである。
 「文化」とその担い手である「教養市民層」は、ドイツでは格別の重みを有している概念だ。イギリスやフランスでは文化・学術の主体が経済的中間層だったのに対し、ドイツでは文化・学術の主体は大学人や高級官僚といったアビトゥア試験によって選抜されたエリート層だった。こうした文化的エリートこそ、教養市民層である。ドイツでは、文化・学術を文化的エリートである教養市民層が担い、上からの近代化の装置として機能させる構図が形成されていたのである 。そして、ドイツにおける「文化」には、イギリスにもフランスにもない固有の含意が内包されている。ノルベルト・エリアスは「文明」が先進国の自意識であるのに対し、「文化」は後発国の自意識であると唱えたが 、ドイツにおける「文化」はイギリスやフランスの「文明」との対抗図式において理解できる。「文明」が普遍性を前提とした物質的成果――産業の繁栄や経験科学の隆盛――を意味するのに対し、「文化」は固有性を前提とする精神的美質――民族精神の純粋性や伝統的文芸・美術の卓越性――を表現している。「文明」を体現するイギリスやフランスに対して、「文化」の誇示によってドイツは自意識を貫徹しようとしたのである。
 このように、イギリスやフランスの「文明」への対抗である教養市民層の強力な統御による「文化」の発揚こそ、ドイツにおける知の形式を根源的に規定していた。そして、こうした「文化」と「教養市民層」の関係こそ、「文化国家」を標榜するドイツの統一と正統性を支えていたのである。しかし、資本市場の抬頭による市民社会の構造そのもの変質と、決定的な追い打ちとしての第一次世界大戦の敗戦によって、教養市民層は没落し、価値観の多様化が生じた。特殊ドイツ的な文化――教養市民層を担い手とする文化の統合――は危機に瀕していたのである 。

 

二 青年運動の隆盛(一)――ワンダーフォーゲル運動

 近現代における教養市民層のドイツ青年たちは、こうして旧来の文化と学知の構造が破綻するさなかで、自身の地位と将来像の動揺に見舞われ、やりきれない閉塞感を覚えていた 。やがて、こうした状況下で、若き教養市民層は、旧来の教育機関や伝統的なドイツ文化に懐疑の目を向け、こうした権威の桎梏からの解放を望み始める。そして、家庭や学校に代わる自己教育の場を戸外に求めて野山を渡り歩いた。この自然散策は、既存の価値の瓦解を前に、新たな理念を探る試みでもあった。これこそ、ワンダーフォーゲル運動 であり、ドイツにおける青年運動の源流である。
 1896年春に、ベルリン大学に在籍していたホフマン・フェルカーザンプが、ギムナジウムの生徒とともに野山を散策した。これが、ワンダーフォーゲル運動の発端であった。ホフマンは、厳格な社会・学校・家庭・教会からの脱却志向と自由な生への憧憬を自然散策に仮託したが、この主張は鬱屈した教養市民層の青年たちに支持された。大学を卒業して外交官として中近東に赴任が決まったホフマンは、同志だったカール・フィッシャーに自然散策グループの指導を任せた。フィッシャーはこのグループの公的組織化まで漕ぎ着け、ワンダーフォーゲルはドイツ全国へと広がっていく。フィッシャーはこの自然散策グループの正式名称を「ワンダーフォーゲルWandervogel(渡り鳥)生徒旅行委員会」としたが、やがてこの自然散策そのものがワンダーフォーゲルと呼ばれるようになった。
 こうしたワンダーフォーゲル運動の思想的背景として、「青年の発見」と「ロマン主義的心性」に着目しなければならない。アメリカの社会史家J・R・ギリスは、ヨーロッパの1870~1900年における際立った社会現象として「青年の発見」を挙げた 。この時期に、中産階級の下で、通学期間の延長、子供の数の減少によって、若者が家庭や学校への従属と依存を強め、子供でもなく大人でもない生涯の一時期が浮上してきたのである。青年層の増大と世代間闘争の勃発は、「青年を制する者は世界を制する」というフレーズが登場するほど 、青年の存在を社会において巨大なものにしつつあった。そして、こうした時代状況において、青年運動が抬頭し始めたのである。
 そして、「ロマン主義的心性」だが、これは「ワンダーフォーゲル(渡り鳥)」という詩的な名称において象徴的に表れている。フィッシャーによる「ワンダーフォーゲル(渡り鳥)」との命名の背後には、ドイツ・ロマン派の詩人たちが流離う人生の哀歓を渡り鳥に仮託して歌いあげた心情への共感があった。ワンダーフォーゲルの提唱者たちは、ヴィルヘルム期に構築された学校システムへの反抗を、ロマン主義的心性によって充足していたのである 。彼らは、近代文明――そして、それが産出したところの近代的学校システム――に対しては自然や過去にありえた自由人としての生を、合理的知性――そして、それを育てるための教育カリキュラム――に対しては生々しい感情と体験を、近代民主主義――学級での空虚な討議を連想させる――に対しては共同体の絆と指導者の辣腕を、キリスト教――教会は国家や学校と共に青年を支配する機構だった――に対してはゲルマン信仰を対置させた。ワンダーフォーゲルに集った青年は、自らを中世の遍歴学生や吟遊詩人に見立てていたのだ。文化から逃れ、野原に解放を求めた青年は、大人に抗するための新たな理念を見出した。散策する森はもはや単なる森ではなく、回帰すべき「ゲルマンの森」として出現する。そこで、彼らは、近代文明に蝕まれる以前の、中世における遍歴学生や吟遊詩人の自由を享受するのである。ここに、のちに彼らがファシズムに旋回する遠因が潜在していた。

 

三 青年運動の隆盛(二)――自由ドイツ青年

 1910年代には、ワンダーフォーゲル運動をはじめとする諸青年運動は、連合体である「自由ドイツ青年」へと発展していく。この「自由ドイツ青年」運動の契機となったのは、青年運動家による1913年のナポレオンからの「解放戦争百周年」記念祝典だった。この対ナポレオン戦勝記念祝典は、政府・軍・教会・在郷軍人会の協力の下で、ベルリン・バイエルンザクセンなどで相次いで開催されていた。これらの国家による祭典に対抗して、青年運動家が開催したのが「自由ドイツ青年」大会だった。この大会を采配したのはギムナジウム時代にワンダーフォーゲルを経験した学生であり、祭典の会場はワンダーフォーゲルの聖地とされていたホーアー・マイスナー山だった。祭典は国家による青年の教化に反対し、「解放闘争における真の愛国心」「祖国への責務」「青年の自立」を掲げた。そして、ドイツ青年運動のワンダーフォーゲルからの脱却が唱えられ、積極的な政治行動が主張された。新時代における理想の青年像を「ドイツ的青年」と規定し、こうした「ドイツ的青年」が自由を守り抜くため闘うことこそ、来るべきドイツ青年運動の理念であるとされた。
 こうして、ドイツ青年運動は、感傷的・自足的なワンダーフォーゲル運動の段階から、思想的・闘争的な政治運動の段階へと足を踏み入れたのである。田中栄子の表現を借用すると、「いまや運動のシンボルマークは、ヴァンダ―フォーゲルの「渡り鳥」から「松明をかかげて突き進む馬上の騎手」になった」 のだ。自由ドイツ青年は、1900年代初頭にギムナジウムの生徒であった若者たちが大学生へと成長した際の受け皿となった。そして、そうした青年たちを、ギムナジウム時代におけるワンダーフォーゲルの眠りから覚まし、政治的局面へと目を見開かせた。やがて、自由ドイツ青年は、左派と右派の内紛から分裂する。しかし、以降の青年運動でも、自由ドイツ青年が提示した、ワンダーフォーゲル運動の段階におけるゲルマン回帰の夢想から政治運動の段階における現実政治上のフォルク再建への闘争の発展という路線は維持されていく。そして、ワイマール体制の危機に際会し、古ワンダーフォーゲル(のちにドイツ義勇団)・新ワンダーフォーゲルドイツ国家青年同盟といった右派の青年運動団体は、ナチへの傾倒を深めヒトラーユーゲントへと合流した。

 

結論 文化への憎悪と反転――戦間期のドイツ青年の精神性

 これまで、ドイツ青年運動の歴史的展開を概観し、その変遷を辿ってきた。伝統的な文化と学知の様式への異議申し立てとして出発したドイツ青年運動は、あらゆる桎梏からの解放を求めながら、ファシズムへと最終的に合流していくわけである。
 出口剛司は、こうしたドイツ青年における特異な時代体験を、ニーチェゲーテ・シュペングラーを援用しつつ、文化と自然の対抗というドイツ青年における思想的構図の破綻として描出している 。出口の議論を概観し、戦間期ドイツ青年運動における民族主義的傾向を理解するための示唆を獲得したい。
 まず、検討されるのは、1900年代のニーチェ旋風において同時代のドイツ青年へとニーチェの与えた絶大な影響である。ニーチェが『悲劇の誕生』で展開したアポロン原理とディオニュソス原理そして明朗なギリシャギリシャ悲劇の対抗を、ドイツ青年は「文化」と「自然」の対抗として読解した。ここで、ニーチェのこうした対抗図式に導かれ、文化を代表する都市を忌避し、自然の森林を遍歴するワンダーフォーゲルがドイツ青年によって提起された。しかし、「文化」と「自然」の対抗――正確に表現すると、「自然」による「文化」への対抗というドイツ青年の戦略――はある陥穽を孕んでいる。ドイツ青年が解放の拠り処とした「自然」は、純粋な「自然」ではありえず、ゲルマン古代神話やゲーテの文学によって文化的に再解釈された、謂わば「文化」化された「自然」であった。こうした「文化」化された「自然」に潜む罠に、やがてドイツ青年は嵌まり込む。その契機となるのが、シュペングラーの『西洋の没落』で展開された歴史哲学である。この著作の主題は、文化論にゲーテ形態学――自然の不断の生成と消滅を比較・観察し自然の普遍的歴史相を探究しようと試みる理論――を適用し、文化の普遍的展開図式を獲得しようとすることである。このような、シュペングラーにおける文化を徹底的にゲーテ的自然論のアナロジーにおいて理解する議論は、いわば「自然」化された「文化」を含意する。ドイツ青年における「文化」化された「自然」は、シュペングラーのこうした「自然」化された「文化」を容易に受容してしまう。文化と自然の混淆という現実的様態において、「文化」化された「自然」と「自然」化された「文化」は等値である。ここで、「文化」の終焉と再生を、能動的な悲劇として生き抜こうとするシュペングラーの姿勢は、かつて「文化」へと抵抗を試みたドイツ青年を「文化」――そして、ナチズムという民族文化を復権させる政治運動――へと回帰していくわけである。

 

参考・引用文献

蔭山宏『崩壊の経験』 慶應義塾大学出版会 2013年

野田亘雄『教養市民層からナチズムへ』 名古屋大学出版会 1988年

野田亘雄『ドイツ教養市民層の歴史』 講談社 1997年

F・K・リンガー『読書人の没落』 名古屋大学出版会 1991年

西村稔『文士と官僚』 木鐸社 1998年

N・エリアス『文明化の過程(上)』法政大学出版局 1977年

N・エリアス『文明化の過程(下)』法政大学出版局 1978年

秋元律郎『マンハイム 亡命知識人の思想』ミネルヴァ書房 1993年

T・マン『ブッテンブローク家の人びと(下)』岩波文庫 1969年

W・ラカー『ドイツ青年運動』人文書院 1985年

上山安敏『世紀末ドイツの若者』 講談社 1994年

田中栄子『若き教養市民層とナチズム』 名古屋大学出版会 1996年

J・R・ギリス『〈若者〉の社会史』 新曜社 1985年

D・J・K・ポイカート『ワイマル共和国』 名古屋大学出版会 1993年

出口剛司『エーリッヒ・フロム』 新曜社 2002年

【関西】定例研究会報告8 日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第三囘)――雅樂

 去る平成30年10月6日に開催された民族文化研究会関西地区第6回定例研究会における報告「日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第三囘)――雅樂」の要旨を掲載します。

 

 この企劃は現代音樂に滿たされた現代日本人に明治以前の日本の音樂を知つてもらふため、まづは私達自身が詳しくなり傳道していかうと云つた考へのもと始めました。
 今囘は日本音樂の大きなくくりである、雅樂・聲明・琵琶樂・能樂・箏曲・三味線音樂・尺八樂・近現代音樂・民謠のなかから雅樂に就いて解説致します。下記は今囘解説する項目です。

一、雅樂の成立 二、樂制改革(區分・樂器・理論) 三、雅樂の稽古法  四、 明治以前の雅樂
五、 明治以降の雅樂  六、雅樂に携はつた人々

一、 雅樂の成立

 日本雅樂とは、日本古來の儀式音樂や舞踊などと、佛教傳來の飛鳥時代から平安時代にかけての四百年あまりの間に、中國大陸や朝鮮半島から傳へられた音樂や舞、そして平安時代に日本獨自の樣式に整へられた音樂などです。雅樂の語源は孔子の説く禮樂思想に基づいて祖先を祀る祭祀音樂として雅聲が發生し、漢の時代になつて宮廷音樂としての雅樂が誕生しました。この雅樂の意味は支配階級で行はれる雅正の樂、つまり上品で正しい音樂と云ふ意味です。漢以降、雅樂は近隣の諸國家やシルクロードを通じても影響を受け、雅樂は一部俗樂化し、後に燕樂が誕生しました。雅樂は唐にも受け繼がれ、遣唐使が唐樂を學び、日本音樂は大きな影響を受けました。その頃の日本の宮廷音樂は、朝鮮の新羅樂・百濟樂・高句麗樂が全盛で、三國樂として朝鮮音樂が演奏されてゐました。また、聖徳太子が取り入れたと言はれる呉の伎樂も法會などの餘興に採用されてゐました。
 大寶律令が定められ、治部省に雅樂寮が設置され常時百人を超える外來樂人が所屬し祭祀で演奏をする取り決めができました。この流れの中、更に大陸音樂輸入が加速し、林邑樂・度羅樂・渤海樂などが皇室行事や大社大寺の儀式音樂となりました(圖一)。西暦七五二年、東大寺大佛開眼會にて外來音樂家や日本の樂人數百人が一堂に會して、各々の國の舞樂を競演すると云ふ國際的な最大の行事が開催されました。このとき使はれた樂器の多くが正倉院に保管され、現在では毎年秋に奈良國立博物館で當時の樂器を實際に鑑賞することができます。
 平安時代に入り、律令政治から攝關政治體制になり、藤原氏が擡頭して儀式音樂も貴族によつて日本的な雅なものへと改革しようと云ふ氣運が高まつてきました。唐の勢ひも衰へ、取り入れてきた厖大な大陸音樂を整理し國風化する時勢となりました。西暦九世紀半ばから約半世紀かけて行はれた改革を樂制改革と呼びます。おおまかには樂曲の系統區分の整理、樂器と樂器構成の整理、音樂理論構造の簡素化です。詳しくは項目二にて後述します。この時代から平安新作歌曲として、民謠や俗樂を唐風や高麗風な節囘しをつけて藝術歌曲とした「催馬樂」、漢詩文を日本語讀みして聲明風の節囘しをつけて詠ずる「朗詠」が生まれました。また、國風歌舞として日本古來の歌舞を再整備して大成した「御神樂」、東國地方の風俗歌舞を源流とする「東遊」なども生まれました。宮廷音樂以外にも今樣・雜藝・歌披講などの聲樂曲が誕生した平安中期以降に、現代に傳承されるのとほぼ同じ形式の日本の雅樂が完成されました。
 このやうに眺めると、雅樂とは古代日本音樂の集合體の總稱と云へます(圖二)。これらをすべて雅樂として扱ふのですが、狹義の雅樂は大陸系舞樂を指し、最狹義で言へば舞の無い器樂の管絃を除いた舞樂のみとされてゐます。しかし現代に於ての雅樂の一般的な定義は、宮内廳樂部が扱つてゐる音樂のうち、洋樂を除くものと考へていいでせう。


二、樂制改革(區分・樂器・理論)

 雅樂の形式や使用する樂器は樂制改革により定まりました。樂制改革の内容を圖三に示してゐます。第一は樂曲の系統區分の整理統合でした。複雜になつてゐた音樂系統を中國系と朝鮮系の左右二方に分離統合します。右方は三韓新羅・百濟・高句麗渤海樂を統合して高麗樂(狛樂)としました。左方は俗樂・宴饗樂がミックスされた唐樂に、中國系とは云へない林邑樂を統合して唐樂としました。それ以前の日本で普及してゐた散樂や伎樂、度羅樂などは異質なものとして除外されました。伎樂の假面劇、散樂はその後猿樂を生み出し、更に能樂に影響を與へましたが、度羅樂は傳承が杜絶えてしまひました。統合後それまで傳承された樂曲を本來の系統や原曲を尊重しながらも、日本的風土にあふやうにアレンジしたり、また多くの新曲も作られました。結果、音樂はきめ細かい日本趣味溢れるものになりましたが、大陸風のダイナミックな曲風は薄れました。現代でも有名な管絃曲の越天樂はこの當時に日本で作られた新曲です。
 第二に樂器群の整備です。平安初期、室内音樂が好まれるやうになつてをり、樂器編成は小規模で效果を擧げられるやうに工夫されました。重複されると思はれる樂器、低音樂器などが除外されていき、十四種の樂器編成に限定されました。
 第三に音樂理論と構造の整備です。長年に渡つて渡來した音樂は、樂種が多いだけではなく中國や朝鮮の音樂變遷ごとに理論も變化しながら傳へられたので厖大な音樂理論が存在してゐました。音名の和名化や音階などもいくつもの違ふものがあつたやうですが、これらを統合して長調に相當する「呂」と短調に相當する「律」に二分し、それぞれの主音の位置で六調子にまで簡素化しました。大體が五音音階になつてゐますが、奈良時代には七音音階も相當數あつたと考へられてゐます。音樂理論は陰陽道とも結び附き、ひとつの思想としても影響を與へました。呂を陽、律を陰ととらへ、ただの理論はさまざまに異なる意味が附與されるやうになりました。また、六調子を「時の聲」として四季に對応してゐると云ふ考へ方もできました。平安時代の人々は音樂を時間の流れに關聯附けて捉へてゐたやうです。
 平安時代の音樂家である源博雅が殘した「博雅三位横笛樂譜」は改革以前の姿を傳へるもので、これと現代に傳はるものとの比較から、日本化の足跡が明確になりました。

三、雅樂の稽古法

 雅樂は打物(打樂器)・彈物(絃樂器)・吹物(管樂器)の三種の樂器群によつて構成されてゐます。雅樂を演奏する人はまづ吹物の何れかひとつを學び、その後、 彈物のいづれかひとつとみつつの打物を學びます。吹物を習ふ時、最初にするのが唱歌です。唱歌とは演奏を擬音化したもので、手で拍を取りながら曲の旋律を歌ふことです。唱歌をすることで曲の流れや息のとり方を理解したり、更には暗譜にも役立ちます。雅樂の家系を樂家といい、樂家の雅樂傳承法もしられてゐます。樂家に生まれた男子は、幼少の頃から父に唱歌を教はります。譜面もなく父の歌をオウム返しに歌ひ、樂器は持たされません。何年も唱歌をし、諳じられるやうになつたときに初めて樂器を持たされます。例のひとつとして篳篥はチラロルと發音し唱歌します。
 
四、明治以前の雅樂

 項目四では大變革を迎へる明治までの歴史を解説します。とは云ふものの前述した雅樂の成立に於て、平安時代までの雅樂は既に解説してゐます。なので鎌倉~江戸時代をこの項目で解説しようと思ひます。
 鎌倉時代に入り、政治の實權が公家から武家に移るとともに、雅樂もそれまでの時代ほど生き生きした展開を見せなくなつてきます。少なくとも音樂と云へば雅樂と云ふやうな勢ひはなくなり、むしろ、雅樂は公家代表の音樂と云つた立場に置かれるやうになりました。しかし、源平の武將たちも、足利將軍達も、公家の雅やかさには一種の憧れを持つてゐたらしく、それを代表する藝能である雅樂には大いに關心を持つてゐたやうです。雅樂に關する催しのパトロンをしたり、寄進をしたり、中には樂や舞に造形の深い人物も現れました。
 しかし、京を中心に起こつた応仁の亂で京の藝術生活に著しい損害がでました。雅樂の場合は、樂人の離散や死亡などにより、宮中での諸行事にも支障をきたすやうになり、かなりの數の行事が取りやめとなりました。応仁の亂後、正親町天皇天正十四年(西暦一五八六)大阪の四天王寺附きの樂人のうち數名が京の宮廷に召し出され、公の行事の樂舞の缺員を補ふやうになりました。更に南都(奈良)の寺社の樂人の中の四家が京に移住し、宮中の左方の樂人と合體して、左方の樂を受け持ちました。そして天王寺方の樂人は宮中では右方の樂を專業とすることになりました。これにより、宮中の行事はこの三箇所(京都・奈良・天王寺)の三方樂所を據點とする家系の樂人達によつて江戸時代の終はりまで受け持たれることになりました。このやうに、今日に傳はる古典藝能は、桃山時代に雅樂の復興が圖られたことによる影響が大きくなつてゐます。
 江戸時代になると、後水尾天皇寛永三年(西暦一六四二)に、三代將軍家光が天皇を二條城へ招いて御遊を行ふにあたり、長らく演奏されなくなつてゐた催馬樂の中から「伊勢之海」が古譜を基に復元されました。この時代は、朝廷に關はりを持つ徳川將軍家やその周邊で雅樂が愛好され、樂器の收集や書物の編纂なども行はれてゐます。また、寛永一九年には、紅葉山にある徳川祖廟の祭祀のための專從の樂人を江戸に若干名常駐させることとなりました。これを紅葉山樂人と呼びます。
 江戸時代になると中世に失はれた數々の曲目が復興されました。朝議や祭祀に密接に關はつてきた國風歌舞(催馬樂・東遊・御神樂等)も相當數斷絶してゐましたが、江戸時代の樂人達の熱心な研究に基づき復興しました。このやうに、雅樂には江戸時代の色彩がかなり含まれてゐることにも注意が必要です。

五、 明治以降の雅樂

 明治政府となり、皇居が京都から東京へ移るに伴つて、樂人たちは大擧東京へ移ることとなり、これまで宮中の行事の樂舞に携はつてきた三方樂人ばかりでなく、奈良や天王寺の社寺のための樂舞を主として行つてきた樂人たちも逐次上京しました。明治三年には宮中の太政官内に雅樂局が設けられ、從來の學所や雅樂寮は消滅しました。參集した樂人たちは、太政官布告により、伶人・伶生などとよばれ、これまで公家の家系で相傳されてきた樂曲も含め、すべての樂家の相傳曲をいつたん雅樂局へ持ち歸り、改めて共通の選定譜としてすべての樂人たちが研修することとなりました。それまでお互ひに個別の流儀で傳承してきた音樂を公開し、一緒に合奏しようと云ふのであるから、節囘し、リズムなどあらゆる細かい點での突き合はせが必要となつてきます。家の藝を否定された伶人のうち幾らかは恥辱に耐へられず三方樂所へ歸つてしまひました。
 しかし、改革は續きます。幹部伶人たちにより正式な雅樂局の曲目「明治撰定譜」が制定されました。また、これまで公家樂家が傳承を專有してゐた雅樂歌謠、和琴、樂箏、樂琵琶などの公式演奏も、今後は專ら伶人の手に委ねられることになりました。更には、樂人の家柄でなかつた一般の人々も能力さへあれば自由に稽古が許されることになりました。過去千年にわたり家の藝として雅樂を守つてきた伶人のうち幾らかはこれにも耐へられず歸つてしまつたものもゐました。幾ら能力がない子でも孫はまた能力があるかもしれない、そのやうに長い目で物事を見てゐた元樂人たちはそのやり方を否定されたのです。しかし一般人が雅樂を稽古するやうになり、樂人の東京移住によりプロのいなくなつた三方樂所の社寺や各地の由緒ある社寺の周邊で、民間人の雅樂團體が立ち上がるきつかけにもなりました。
 雅樂局の伶人は洋樂も稽古するやう通達され、當時の西洋音樂移入の受け渡し役にもなりました。ここでも若い伶人は面白がつて練習するものが多かつたのに對して、中年以降の伶人は不滿から古巣へ歸つたものもゐました。とは云へ外國人教師に就いて吹奏樂の練習を始めると、伶人達はみるみるうちに上達して二年後には雅樂稽古所で歐州樂の演奏をするまでになりました。とは云へかなりの伶人は不滿を持つてをり、樂長以下四十數名が辭表を提出するストライキ状態になりましたが、當局側の反省もあり雅樂局はなんとか命脈を保ちました。
 樂部の成員は五〇名と定められてゐましたが、大東亞戰爭の敗戰を契機に半分の二六人に削減されました。今日では一般人で雅樂を學ぶ人の數は一層増える傾向にありますが、現在も本流の宮内廳式部職樂部の定員は半減された儘です。
 科學技術の進歩に伴ひ、録音・録畫技術が發達しました。雅樂は西暦二〇世紀初頭に早くも録音がなされてゐます。現在では市販のCDでもビデオでもインターネットでも雅樂を樂しむことができるやうになつてゐます。明治以後に始まる西洋音樂との出會ひも、雅樂に有形無形の影響を與へてきました。例として近衞秀麿編曲のオーケストラ版越天樂などです。雅樂の藝術性を追求する動きも重要な動向のひとつです。寺社や宮廷の儀式から離れて國立劇場やコンサートホールに於て雅樂の演奏を耳にすることができます。しかし、宮内廳樂部以外に公的な專用ホールや劇場が未だないことは附け加へておくべき事案です。

六、 雅樂に携はつた人々

 平安時代源博雅(西暦九一八~九八〇)。源博雅醍醐天皇第一皇子克明親王の子、母は藤原時平の娘です。横笛、琵琶、大篳篥、和琴、箏などに秀でた管絃者で、催馬樂も得意としました。博雅の催馬樂は、その四男の至光を經て、藤原頼宗、俊家、宗俊、宗忠と藤原家の人々に受け繼がれ、その流儀は藤家流とよばれるやうになりました。博雅の管絃の名聲は高く、逢坂山の蝉丸のもとに祕曲、流泉・啄木を學ぶために三年間通ひ八月十五日の夜にようやく傳授されました(今昔物語より)。また、朱雀門の前で、鬼と笛をとりかへ、その笛が後に葉二となづけられたこと(十訓抄より)など、數多くの説話が殘されてゐます。源博雅は康保三年(西暦九六六)に村上天皇の敕命を受けて、「新撰樂譜」と云ふ横笛の樂譜集を編纂しました。 新撰樂譜は、當時の日本で知られる曲目の殆どすべてを網羅したのではないかと思はれるほど大規模な樂譜集で、二百曲近い曲目が收めれてゐました。この樂譜は、「博雅笛譜」として古來名高く、樂譜の一部分は後世の書寫の形で現代にも傳へられてゐます。
 鎌倉時代の狛近眞(西暦一一七七~一二四二)。源平の合戰、源頼朝による鎌倉幕府の誕生、承久の亂の失敗を經て、政權が公家から武家へと大きく轉換しようとしてゐた時期に、南都興福寺の舞人である狛近眞は、息子が家を繼がうとしないことの家藝の斷絶や、舞樂の道の衰頽を憂へて「教訓抄」を著しました。全十卷からなり、曲の由來、故實などを狛家の傳へにとどまらず、幅廣く集めて詳しく書きとどめたもので、綜合的な樂書のさきがけ的な存在となつてゐます。狛近眞は左舞を傳へた狛氏の嫡流で、孫の朝葛も「續教訓抄」を殘してゐます。
 室町時代の豐原統秋(西暦一四五〇~一五二四)。応仁の亂の後、京の都は荒廢の極みに達してゐました。樂人の多くが都を去つていき、朝廷の舞樂や管絃も斷絶の危機にありました。そのやうな時期に京都方の笙の樂家の樂人である豐原統秋は、樂道を後世に傳へるべく、雅樂全般に就いて古書を廣く引用しながら全十三卷からなる「體源抄」を著述しました。豐原統秋は和歌を歌人として名高い三條西實隆に、連歌連歌師の宗良に學ぶなど、文藝・茶・書にも通じた風流人でした。當時、町中に山里風の趣を持つた家を作る「市中の山居」なるものが流行してゐましたが、豐原統秋の庵もさうした作りであつたらしく「山里庵」と呼ばれました。
 江戸時代の安倍季良(西暦一七七五~一八五七)。「樂家録」を著した安倍季尚から六代目の幕末の篳篥の名人です。諡號は樂音樹。季良は多くの弟子を持つ一方で失はれた雅樂曲の復興に生涯努めたことが知られてゐます。著書には「山鳥祕要抄」などがあります。
 明治時代の上眞行(西暦一八五一~一九三七)。「年のはぢめの~」で始まる正月歌の作曲をした人物で、明治時代に活躍しました。京都居住の奈良方の樂家出身者でも江戸時代の末に京都に生まれました。明治三年には新たに設置された雅樂局の伶人となり、明治七年に東京へ移ります。翌年、西洋音樂の傳習も命じられ、日本で最初のチェロ奏者にもなりました。以後、唱歌の作曲、正倉院樂器の調査、東京音樂學校教授の兼務など、多くの仕事を精力的にこなしました。明治の變革期にあつて、本業の雅樂以外にもその持てる才能をいかんなく發揮した人物です。


參考文獻

雅樂入門辭典 芝祐靖
雅樂逍遙 東儀俊美
新版雅樂入門 増本伎共子
よくわかる日本音樂基礎講坐 福井昭史
ひと目でわかる日本音樂入門 田中健

 

f:id:ysumadera:20181012174052j:plain





【東京】定例研究会のご案内

         f:id:ysumadera:20181003075022j:plain

 

次回の東京地区定例研究会を、下記要領で開催します。万障繰り合わせの上、ご参会ください。

 

東京地区第18回定例研究会
日時:平成30年11月25日(日)14時~17時
会場:早稲田奉仕園 セミナーハウス1階 小会議室105号室
東京都新宿区西早稲田2‐3‐1
https://www.hoshien.or.jp/
内容:報告1 小野耕資(本会副会長・大アジア研究会代表)「弱肉強食批判と『昆虫記』」
   報告2 山本直人(本会顧問・東洋大学非常勤講師)「縄文文化は日本の伝統たりうるか~民族のアイデンティティをめぐるジレンマ~」
会費:1000円
​主催:民族文化研究会東京支部
備考:この研究会は、事前予約制となっております。当会の公式アドレス(minzokubunka@gmail.com)までご連絡ください。また、会場の開室は14:00になります。それまではセミナーハウス内のラウンジにてお待ちください。

【東京】定例研究会報告23 皇室〈無姓〉論を巡る雑感・自民党改憲案の解説 『公共の福祉』とは

 平成30年10月7日(日)15:00-18:00、民族文化研究会東京地区第17回定例研究会が早稲田奉仕園にて開催されました。

 第一報告は、渡貫賢介(本会事務担当者)による「皇室〈無姓〉論を巡る雑感」でした。同報告は、「皇室には姓がなく、これが万世一系である」という、比較的よく知られた言説について、その淵源となる諸文献や、近代以降の歴史学者の見解を紹介するものでした。

 第二報告は、輿石逸貴(本会代表・弁護士)による「自民党改憲案の解説 『公共の福祉』とは?」でした。同報告は、平成24年に発表された自民党改憲案のなかで、批判されることが多い「公共の福祉」について、現在の学説の動向を踏まえてその妥当性を論じたものでした。

 少数の関係者のみで発足した東京支部も、少しずつ新しい参加者を迎えております。一定以上学問的・専門的な関心を持ちつつ、報告とそれにもとづく質疑・談話などによって知識を共有していく試みを今後も継続して参りますので、関心のある方はお気軽にご参加下さい。(事務担当・渡貫)

【東京】定例研究会のご案内

 

    f:id:ysumadera:20181003075022j:plain

 

次回の東京地区定例研究会が近日に迫りましたので、改めて告知させて頂きます。次回の東京地区定例研究会は、下記要領で開催します。万障繰り合わせの上、ご参会ください。

 

民族文化研究会 東京地区第17回定例研究会
日時:平成30年10月7日(日)15時~18時
会場:早稲田奉仕園 セミナーハウス1階 105号室
東京都新宿区西早稲田2‐3‐1
https://www.hoshien.or.jp/
会費:1000円
​主催:民族文化研究会東京支部
備考:参加希望者は、事前に当会アドレス(minzokubunka@gmail.com)までご連絡ください。また、会場の開室は開会の10分前になります。それまではセミナーハウス内のラウンジにてお待ちください。

【関西】定例研究会のご案内

次回の関西地区定例研究会を、下記要領で開催します。万障繰り合わせの上、ご参会ください。

 

関西地区第6回定例研究会
日時:平成30年10月6日(土)16時30分~19時30分
会場:貸会議室オフィスゴコマチ 4階 422号室
京都府京都市下京区御幸町通り四条下ル大寿町402番地 四条TMビル

https://main-office-gocomachi.ssl-lolipop.jp/
会費:800円
​主催:民族文化研究会関西支部