【関西】定例研究会報告 伊勢周辺の霊祭系教会

 令和2年3月21日に開催された民族文化研究会関西地区第23回定例研究会における報告「伊勢周辺の霊祭系教会」の要旨を掲載します。

 

はじめに

  明治維新によって、政府はそれまで幕府の庇護下で実質国教扱いとなっていた仏教から神道を重視する政策へと転換した。この神祇事務科設置や神祇官復活から内務省神社局設置までの紆余曲折のなかで廃仏毀釈や神仏合同布教、教派神道の特立などといった様々な宗教政策や宗教運動が発生した。

 教派神道では俗に「十三派」と呼称される教団群が独立し公認を得たが、この「十三派」と呼ばれる中には明治十五年に独立した神宮教は含まれていない。これは明治三十二年に財団法人神宮奉斎会に改組し、教派神道であることを脱したからである。神宮教教派神道から脱した背景には国家の宗祀の中心たる伊勢神宮大麻頒布を宗教団体が行うことを問題視する声が神宮教内部からもあったことによる。

 奉斎会の神殿が戦後に正式に神社として再出発したところも多く、東京大神宮や京都大神宮などがある。それら以外の奉斎会の支部はほとんどが消滅してしまった。

 しかしながら神宮のお膝元である伊勢地域には今も神宮教系列の神道教会が存在している。それらに共通して言えるのは祖霊を祀る「祖霊社」としての存在が大きいことである。一般的に祖霊社は氏子などの御霊を祀る社として神社に境内社として鎮座していることが多いが、伊勢地域には独立した神道系教会としての祖霊社がいくつか現存している。これらについて、櫻井治男氏の研究を主にしながら、令和元年時点で現存する教会を確認していきた。

 

伊勢・祖霊社

 明治十年、神宮少宮司の浦田長民が西南戦争戦没者を慰霊する招魂祭を行った。これをきっかけに明治十一年に宇治山田の神葬祭を行う祖霊舎神宮教説教所に建立された。「神風講社 祖霊舎」として祖霊とともに天照大御神と造化之大神も祀っている。このように当初は教会所に併設という形だったが、後には祖霊舎の祭りが主な祭儀となっていったようだ。

 明治十五年に神官と教導職が分離となると、それまで一体だった伊勢神宮神宮教会は分離され、祖霊舎神宮教の傘下となり「大神宮祠」と名称が変更された。この後、神宮教神宮奉斎会となるとその山田支部となったが、そもそも他の支部と違い、霊祭が主となっていた大神宮祠は奉斎会とは趣旨が合わず、当初から離脱が模索されていたようである。霊祭を主とすることからも、当初は教派神道のいずれかに属する形で奉斎会から離脱する話が進んでいたようだが、神宮直轄から出発した祖霊社が他教派の傘下になることには町民からも反対の声があったようで、結果的に内務省に事情を説明することで明治三十八年に「神都霊祭会」として財団法人の認可を得ることになった。

 こうして祖先祭祀を続けた祖霊社は、戦後になって「霊祭講社」として宗教法人格を取得、以降は神葬祭や祖先祭祀、霊園事業などを続けている。

 平成十六年には伊勢やすらぎ公園に鎮魂殿(しずたまでん)を建設するなど、霊祭系の神道教会では最も活動的だと思われる。

 

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祖霊社

宇治祖霊社

 宇治地域の氏子はこちらで葬祭を執行する。宗教法人名簿では「宇治祖霊殿講社」の名称となっている。

 境内には「平和之礎」の石碑があり、戦没者の供養も行っている。

 

志摩祖霊殿

 志摩市越賀地区も神葬祭が広まり、現在でも祖霊社の祖霊祭には参加しているという。越賀地域には神職の邸内に祖霊殿が鎮座しており、宗教法人名簿では「越賀霊祭講社」の名称となっている。

 

竹川神道集会所

 竹川地区周辺では廃仏毀釈が強く行われ明治以降多くの寺が廃絶した。竹川の菩提寺であった還愚院も明治二年に廃寺となり、その跡地に建設されたのが現在の神道集会所である。

 竹川地区では明治十三年に神葬祭化し、同時期に神宮講社が結成された。その後神宮教の竹川分教会所として教会が祖霊社と併設されたようである。還愚院の過去帳は教会所に引き継がれた。

 神宮教神宮奉斎会となった際には関係が途切れた。現在でも年中行事は続けられ、建物は天照大御神と祖霊を祭る神殿と集会所が併設された近代的なものとなっている。

 

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竹川神道集会所

 秋津教会

 かつて野後(のじり)と言われた瀧原地域には伊勢神宮の別宮・瀧原宮が鎮座しているため、維新を契機におのずと村民たちは神道への傾倒していったものと思われる。野後村では明治二年三月に曹洞宗から神葬祭へと改宗したようで、この際、切支丹では無いことを誓い「てう寿(デウス)」や「さんたまりあ」「諸之あん処(アンジョ=天使)」を崇敬しない旨を役所に届け出ている。

 こうして全村民が神葬祭へと改宗した野後村であったが、数年後、寺の檀家に「復宗」する者も多かったようである。例えば明治二年に無檀となっていた寶積寺は元の檀家がことごとく戻った。

 これは神葬祭が普及したものの「祖先ヲ追祭スルノ場所」などの施設が不足していたことも影響していたとみられ、野後村では明治十三年に神宮教会の施設建設に動き始めた。明治元年に廃絶した天台宗の神宮寺の跡地を入手し、神宮教会本部からの援助を受けつつ「神宮教教会所兼祖霊舎」が建立された。

 祭神は「野後村神葬祭人民祖先神霊但神宮教会所合併之儀ニ付該教会ノ規約ニ拠リ正中ニ天照皇大御神御分霊及造化三神を奉鎮ス」とした。

 こうして神宮教の教会として祖霊の奉斎を行っていた野後の祖霊社だったが、神宮教が財団法人神宮奉斎会に改組された際には神道本局に転属し、「神道秋津教会」という教派神道の教会として存続したようである。

 教会名の由来は『倭姫命記』で瀧原宮の祭神とされている速秋津比古神速秋津比売神からとられたものであろう。この時期に記された教会の結集趣旨には瀧原宮への崇敬を全面に押し出しており、明治後期は多くの信者を獲得し、勢力を三重県全体に拡張している。これは教会長に就任していた森尚親の影響が大きく、森の没後には教会としての活動が失速し、祖霊社としての側面が強くなった。

 戦後、宗教法人法のもとでは神道大教には属さず、また宗教法人格も取得していない。地元関係者の話によれば、終戦後に秋津教会から離脱し、仏教に復宗した家も何件かあったという。現在では地元の十数戸の祖霊社として存続している。

 教会建物となる「観徳殿」の中には村民の位牌や遺影などが並べられ、現在でも祭式が続けられている。

 

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秋津教会

野原祖霊社

 瀧原宮との関係が深い野原地区では明治八年に村長の山口音蔵の指導で全村人が離檀し、神葬祭へと改修した。これには瀧原を拠点とした神風講社の影響力がもともと強かったことや、村民と檀那寺との関係に齟齬が生じていたことが背景にある。

 村の檀那寺であった宝泉寺は廃絶され、境内や本堂は村の学校として転用、寺宝は他寺院に移管された。そして過去帳や供養料は村の管轄後に神宮教会所へと引き継がれている。

 村を率いた山口音蔵は強力なリーダーシップを発揮して村の整備や近代化を進めた人物であり、かつ神宮への篤い信仰を持っていた。この山口のもとで神葬祭神宮教)への改宗が行われたが、その教会の建立は明治二十五年になって始まっている。これには野後地区と違い寺の再興などは見られず村としての祖霊社が必要とされたこと、またこの時期天理教の教勢がこの地域まで至っていたことで神宮教の拠点が必要視されたことが影響している。教会所の建設にあたっては伊勢市山田の大神宮祠(現在の祖霊社)から移築している。この時点で教会と祖霊社は併設されていたようだ。

 こうして神宮教野原分教会所として設立されたが、当初は神宮教竹川分教会所から教師を招聘、常駐させていたようである。上部組織が神宮教から神宮奉斎会に変わって以降は神宮奉斎会野原支部として存続し、奉斎会の傘下としての奉斎と、村の祖霊社としての霊祭を行っていた。ただし葬儀や霊祭の比重の方が高かったようだ。大正二年に現在の建築物となり、戦後は宗教法人格を取らず野原祖霊社として存続している。

 

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野原祖霊社

おわりに

 以上、伊勢周辺における霊祭系神道教会の現状を確認してみたが、秋津教会のように宗教法人格を有していない教会もあり、これ以外にも存在している可能性がある。

 明治期、神社の境内に氏子や崇敬講員の御霊を祀る祖霊社を建立する神社がいくつか見られたが、神社が国家の宗祀として宗教と判然され、神社による祖霊社の新設が禁止されて以降は神道と葬祭の関係は教派神道側が担うことが多くなった。当然、大和神社の大和神道御霊之社や吉田神社の祖霊社のように明治期から存続しているものもあるが、神社に鎮座する祖霊社の多くは戦後に建立されたものである。

 また出雲大社教の祖霊社のように、教派神道の傘下教会としての祖霊社も多くみられるが、今回紹介した祖霊社のように単立教会のような形で多く存在するのは珍しいように思われる。今後は他地域についても機会があれば調査発表をしたい。

 しかし、一般的な神社仏閣が後継者不足や過疎化による氏子の減少などによって存続の危機が叫ばれる中で、こうした神道系教会もまた存続の危ぶまれている。神社本庁教派神道教団の傘下ではないため、祭儀を行う際に応援を呼ぶのも難しく、また祭儀についても後継者不足が問題になっている。

 こうした祖霊社についても、日本人と神道の関係性を考える上でひとつの材料になるのではなかろうか。

主な参考文献

三重県宗教法人名簿 令和元年』(三重県環境生活部文化振興課、令和元年)

櫻井治男『地域神社の宗教学』(平成二十二年、弘文堂)

『大宮町史 歴史編』(昭和六十二年、大宮町史編纂委員会)

森川孟彦『講社とその中の私』(昭和四十六年)

岡田米夫『東京大神宮沿革史』(昭和三十五年、東京大神宮)

篠田時化雄『篠田小笹乃屋大人物語』(昭和三十一年、京都大神宮)

神宮奉斎会京都本部沿革略史』(昭和四年、神宮奉斎会京都本部)

井上順孝教派神道の形成』(平成三年、弘文堂)

武田幸也『近代の神宮と教化活動』(平成三十年、弘文堂)