【関西】定例研究会報告 木曽御嶽本教の設立と講社結集

令和5年9月24日に開催された民族文化研究会関西地区第61回定例研究会における報告「木曽御嶽本教の設立と講社結集」の要旨を掲載します。

はじめに

 近代における神道系教団の成立時、各教団は各地に存在する講社・教会の結集という作業に多かれ少なかれ直面している。神宮教においては伊勢講を、大社教においては出雲講や甲子講を、扶桑教では富士講を…、といったように特に教派神道の教団は設立において講社を結集・整理する作業に取り組んだ。江戸時代から伝統的に存在した講社を結集・整理することが教団形成にとって目的の一つでもあった。
 また、教祖の存在が大きい天理教金光教等ですら、教団公認前後において各地に散らばった講社を糾合する作業に追われた。特に、非公認時代に他教団の傘下に入っていた教会・講社を勧誘する作業においては、誘いを断り所属教団に残る教会講社などもあって、この作業の困難さを伺い知れる。
 こうした教会講社結集の作業は、主に明治期の教派神道教団に見られるものである。しかしこうした動きは明治という時代に限られた特有のものでは無く、各地に同様の信仰団体が散在している状態であればどの時代においても発生しうる現象と思われる。
 本稿で取り上げる木曾御嶽本教は、その名の通り木曾の御嶽山信仰を旨とする教団で、戦後の昭和二十一年に宗教法人令下で設立された。当該教団は設立以降、各地の御嶽講や教会の糾合作業に邁進することになるが、当然ながらその前途には、既に存在していた御嶽教、そして教派神道各派が立ちはだかることとなる。
 本稿では、木曾御嶽本教の設立から講社結集までの概略を俯瞰し、昭和期における講社結集の様相、そして戦後神道史の一側面として考えてみたい。

教派神道の成立と「御嶽講」  

 信州木曾御嶽山は日本有数の霊峰である。古来より信仰を集めた霊場だったが、御嶽信仰が爆発的に広がったのは江戸時代になってからである。江戸後期、覚明行者によって東側の黒沢口ルートが、普寛行者によって西側の王滝口ルートが開かれ、以降は先達と庶民による登拝が盛んに行われることになる。
 他の伊勢講などと同じように共に御嶽山を信仰するグループ「御嶽講」が各地に立ち上がり、信仰は爆発的に広がった。この御嶽講は各講の繋がりが薄く名称も様々で、各講が競い合うようにして発展したことも信者数が増えた要因と思われる。
 こうした御嶽講にも明治維新によって変革の時代が来た。明治新政府は神社・神道を重視する政策を執り、いわゆる「国家神道」体制の成立までに朝令暮改を繰り返し、明治初期においては神仏分離令や祈祷禁止などを打ち出して神道の線引きともいうべき作業に着手した。御嶽講は覚明行者、普寛行者らが修験者に分類されるように神仏習合の信仰を有しており、また禁厭祈祷などを重視することから邪教異端として弾圧・消滅する可能性があった。また、身分的に見ても、神職や僧侶では無い在俗先達が取り仕切る講社は認められない可能性があった。
 こうした危機的状況において御嶽講の中には当時成立期だった教派神道の傘下講社として公認を得ることで信仰を続けようとする動きが出る。新政府は明治最初期、キリスト教からの防衛を目的とした宣教使による国学者神道中心の国民教化を行ったものの挫折、次いで仏教も取り込んだ神仏合同布教・国民教導政策へと舵を切るが、そこには伊勢講や念仏講などの神職・僧侶以外のグループも動員されることになった。動員するにあたって公認する講社・教会の設立について手続きを示した「教会大意」が広布された際、神社仏閣を信仰する講社とは別に、黒住講や富士講などの新興信仰グループにも公認を得る機会が生まれ、これらの中には後に教派神道として教団化するグループも含まれている。これ以降、宗教団体が政府の公認を得るには独立教派として公認を得るか、既に存在する教派の傘下教会・講社となるかという二択を迫られることとなった。
 数多ある御嶽講ではこの対応が講ごとに分かれ、最も大きい動きとなるのは後に下山応助らを中心とした「御嶽教」を設立するグループである。
 江戸で「代々講」を率いていた下山応助は、「教会大意」が出ると代々講を「御嶽教会」へと改組し、各地の講社に結集を呼び掛けている。日本各地へ遊説し、既存の講社を引き入れると新たに講社を設立するなどして規模を拡大していった。なお、この御嶽教会は神道界で重鎮となっていた平山省斎が開いた「大成教会」の傘下教会として設立されており、大成教側としても傘下の御嶽講社が増えることで規模が大きくなっていく。こうして信者数が増加した大成教会は明治十五年に「神道大成派」として独立が認められ、続いて傘下だった御嶽教会も「神道御嶽派」として独立が認められるようになった。これが後に改名し現在に続く「御嶽教」である。教会の独立後、運動を率いていた下山応助は行方不明(諸説あるが教団の公式史上では行方不明扱いである)となり、大成教の平山省斎が管長を兼任することになった。その後、鴻雪爪や神宮暠寿などが管長となり御嶽教を率いることになる。
 一方、御嶽教には属さない御嶽講も数多くあった。下山が教団設立に動く前後、武蔵国では後に修成講社の新田邦光が御嶽講の結集を呼び掛けていた。新田は御嶽信仰の行者などではなく、幕末には勤皇志士として活躍する一方で国学系の私塾を開いており、この私塾を元に神道修成講社を開いた人物である。新田は関東各地を回って御嶽講を呼び込み、神道系の講社として整理していく。神仏習合色の強い御嶽講の中でも修成講社傘下に入ったのは巴講など神道色の強いグループだったようである。
 また、神習教の芳村正秉も各地の御嶽行者が公認を得られないために御嶽大神を公称できないことを嘆き、各地の講社を糾合して神習教御嶽教会と設立した。芳村は後に行者とともに御嶽山に登るなどしている。
 このように御嶽信仰の講社は、御嶽教の他にも神道修成派神習教大成教神道本局、扶桑教…といった教派神道各教団の傘下に所属していった。これはそもそも御嶽講がそれぞれ別行動を取っていたことをはじめ、教派神道側にも講社を取り込むことで自派の勢力を大きくできるというメリットがあったことにもよるであろう。各派は各地の御嶽講の「取り合い」をはじめ、しばしば紛争が起こっている。
 また、御嶽信仰における聖地として黒沢口と王滝口に立つ二つの御嶽神社がある。黒沢口の御嶽神社御嶽山の祭祀権を持ち尾張藩などからも崇敬を受けていた。対する王滝口側の御嶽神社は元々「岩戸権現社」という名称だったが、黒沢口の社家・武居家による御嶽山独占に対抗し「御嶽岩戸権現」の名称へと変更するなど対抗している。幕末まではこの黒沢口、王滝口の勢力争いについて代官が調整するなどしてきたが、明治維新によって均衡が崩れることになる。
 維新後、黒沢口側では各地の御嶽講社を神社直属として取り込むことで勢力拡大を目論んだ。そして他の講社結集運動への妨害や、王滝口側の社殿を破壊するなど動きを活発化させるものの、王滝口側からの批判などに合い、また主導していた今井弘祀官も免職となってしまう。
 一方の王滝口側では各地の講社を独占して取り込む戦略は採らず、むしろ各教派に協力することで参拝者を増やす手法を採った。中でも御嶽教の設立には積極的に協力したようだ。最終的には黒沢口も同様な状況となり、御嶽山と両御嶽神社はそれぞれ各講社からそれぞれ崇敬・参拝を受ける形となったのである。
 結局、御嶽講社や教会は統一組織を持つことなく、天理教金光教黒住教以外の教団に所属する状態が戦後まで続くことになる。また教派に属さず独自に活動する講社などもあり、こうした状況が後に木曾御嶽本教が設立される所以の一つとなった。

御嶽神社崇敬講社設立構想

 本稿で取り上げる木曾御嶽本教は黒沢口御嶽神社の武居誠社司を初代管長として創設された教団である。しかしその設立のキーマンとなったのは鈴木忠義だった。

 鈴木忠義の父・鈴木源太郎は愛知県岡崎の「御嶽山開基講社」の代表をしていた。この講社は元々、後を継ぐ者がおらず閉鎖されていたものを周囲の勧めもあって源太郎が代表者を引き受け再興したものである。源太郎は大正五年に代表者となると、この講社を教会にするべく扶桑教の傘下に入った。また、この頃まだ子供だった鈴木忠義にも教会の後継ぎとして御嶽山への登山に同行させたり、教会教務に同席させるなど経験を積ませていたらしい。こうして源太郎は自らの教会を「扶桑教太教庁岡崎出張所」とし、自らは担任教師という名義となって周辺地域における扶桑教の有力者となっていった。
 昭和八年に岡崎出張所の代表者が空席となった際、扶桑教本部と岡崎出張所で話し合った結果、後任として若冠二十一歳だった鈴木忠義が選出された。ここから鈴木忠義の宗教家としての実務が始まった。
 鈴木が代表者となると、名称は「扶桑教太教庁出張所」となり、教団直轄の三河一円における教務庁となっている。父・源太郎もこの後には扶桑教の太教庁顧問や教正総監といった肩書を受けており、この時期の鈴木親子が扶桑教内で重要な地位だったことが分かる。当時扶桑教管長だった宍野健弌も鈴木忠義とは歳が近く、「管長さんは三つ違いの私を弟のように指導してくれた」と鈴木は後に回想している。また、この時期の愛知県周辺の教派神道界では「神道一致会」の結成・崩壊といった事態が起こり、その後に結成された各派連合会には鈴木忠義も扶桑教代表者として出席していた。他の教派の代表者と交わる機会を得た鈴木だったが、周囲とは親子ほど歳の離れていたという。他教派の教師達は若かった鈴木に対し同情的で、親身になって指導した。次いで昭和十七年になると「宗教団体法」が施行されることになり、鈴木は扶桑教の代表者として文部省や愛知県の開く講習会などに参加、法制について学んでいる。
 このように鈴木忠義は、対米開戦前後に、所属する扶桑教内部での教務・運営経験、他教派との交流、宗教法制の知識など、多くのことを学ぶ機会に恵まれた。しかし、こうした経験の中で鈴木忠義には大きな問題意識が生じたという。
 それは、当時の教派神道体制において、御嶽大神を祀る教会が天理教金光教黒住教以外の教派神道十派に点在していることに対する大きな不満だった。鈴木としては本来、御嶽信仰は木曽総社たる御嶽神社に直結すべきであって、御嶽神社と各教会講社が親子関係を結ぶべきだと考えたのだった。
 この鈴木の問題意識が生まれたきっかけの一つに、御嶽山登拝でのとある出来事がある。二十三、四歳の頃の夏山登山の際、二の池の覚明行者の銅像のところまでたどり着いた。その時、目の前でその行者像の持つ金剛杖を抜き取っていく講社に出くわした。鈴木に同行していた強力が見かねて誰の許可を得て抜き取ったのかと問いただすと、先方の先達らしき老人が「この杖をその方にやるとの御神託があった」と断言したという。この金剛杖は最終的に戻されたものの、鈴木からしてみれば、各講社がバラバラで、直接「御嶽山」に結びついていない、組織化されていないことから起こった事件だと感じたらしい。
 こうして鈴木は昭和十八年の夏、当時の御嶽神社宮司・武居誠に面会し、自身の考えを訴えた。
 武居は各教派宗派に散らばる御嶽信仰御嶽神社に直結することについては賛同を示したものの、当時の神社行政から見て神社直轄講社の設立には煩雑な手続きが多く難しい事を相談している。鈴木は関係書類の作成について責任を持つことを約束し、最初の会見を終えた。この辺りの事務作業について、おそらく鈴木は自らの経験を活かせると考えたのだろう。
 鈴木の考えでは、宗教的な講社が各教派にまたがっているため、それらを包括できる「神社崇敬講社」として組織を立ち上げる予定だったらしい。当時の宗教行政上、神社とその崇敬講社は宗教組織では無い。鈴木は現存する各教派講社の講員が、教派に信者として在籍しながら神社講社の崇敬会員となる形で両団体に在籍できる方法を模索したのである。
 こうして講社設立のため〝極秘裏〟に動き始めた矢先、鈴木の元に召集令状が届き、組織設立は一時中断せざるを得なくなった。昭和二十年九月に復員するとすぐに武居宮司に連絡を取り、組織設立の意思に変わりが無いことを確認後、鈴木はすぐに組織設立へと動いた。なお、復員直後の九月二十六日に父・鈴木源太郎が帰幽している。
 戦後のGHQ占領政策により、「信教の自由」が到来したが、この政策転換により鈴木の用意していた申請書類は全て無駄となってしまった。こうして新規に行動を始めるにあたり、御嶽神社と鈴木は当初の崇敬講社案ではなく、独自の宗教団体として教団を設立することにしたのである。

木曾御嶽本教の成立と教派神道の反発

 鈴木は昭和二十一年五月十八日に本教設立の準備が整ったとして、各地に「本教設立大会招請状」を送付、各教会に結集を呼び掛けている。内容としては、終戦による社会の一大変革により神社・教会も変わらなければならなくなり、これまでは「神社ハ宗教ニ非ズト云フ法令の施行ニ依リ神社ト講社トハ切リ離サレテシマイ神社ハ国家神道トシテ又皆様方講社ハ宗教各教派ニ所属セラレ」ていた状況であるが極めて不合理なものであり、宗教神道の本質に立ち返って御嶽神社が「宗教トシテノ昔ニカエル事」になったとし、各教会が「教ヘノ根源デアル当神社直結シテイタダク時ガ遂ニ参ッタノデアリマス」と宣言するものである。そして各教派神道、および仏教宗派に所属していた教会講社に六月に開催される「木曽御嶽本教」設立大会に結集するよう呼びかけたのだった。
 この要請に対し、中部地方をはじめ多くの御嶽講社が賛同した。特に御嶽教傘下の教会講社は離脱して本教に動くものが多くあった。これについては、明治以降に御嶽教が内部紛争の頻発や本部庁舎の戦災焼失などで中央と末端教会との繋がりが薄くなっていたことが要因と思われる。また、本来の信仰の中心である御嶽神社による教団設立というのも影響が大きいであろう。
 しかし、本教への御嶽講社の結集により〝被害〟を受けるのは御嶽教だけでは無かった。先述の通り御嶽教以外の教派神道教団にも御嶽講があり、各教派がそれぞれ被害を受ける事態となったのである。
 鈴木自身も積極的に各講社へ働き掛けていたらしく、例えば東京の修成派傘下だった梅林講には代表の菊田増太郎氏の元へ鈴木忠義が自ら訪問し、「必死の形相」で本教への加入を促したという。結果的に梅林講は本教傘下となった。
 修成派以外にも、六月の設立大会には神道大教扶桑教真言宗傘下の教会が参加している。
 このように本教による勧誘は教派神道各派をはじめ修験系の天台・真言宗寺院にまで及び、特に御嶽教をはじめとする教派神道側では多くの教会や講社が引き抜かれる結果となった。

 こうした〝被害〟が拡大するなかで、教派神道側では昭和二十二年頃から御嶽神社への抗議を強めていった。
 教派神道側としては御嶽神社御嶽信仰を〝独占〟することを批判し、これまで通り超党派の神社であることを求めた。この当時、黒沢口御嶽神社はあくまで神社本庁傘下の神社であり、神社が独自に持つ教団が木曽御嶽本教という形である。教派連側はそれについても神社が独自に教団を持つ理由が無いと指摘し、また本教の結集にあたっては教派傘下教会に対し転属しなければ山に登拝させない等の「脅し」があった、本教先達とその他教派傘下講社の先達で差別待遇があったとして信教の自由に反するものである、と抗議している。
 そして昭和二十二年六月十七日(もしくは十八日)には木曽御嶽本教の本部に神習教の芳村忠明管長をはじめ八名の教派の代表団が訪れて武居宮司と鈴木に対し直談判を行った。
 芳村は天理金光黒住以外の各教派がこれまでいかに御嶽信仰御嶽神社に貢献してきたかを語り、木曽御嶽本教なるものの即時解散を求めている。これに対して鈴木は一方的な意見だと批判し、まずは本教立教の趣旨と成り行きを聞くのが順序だと訴えた。芳村が「御聞きしませう」と答えると、鈴木は自らの講社の由緒を語り、御嶽行者として本教立教が何故「正しい道」だと考えるようになったのかを説明した。
 鈴木が代表する開基講をはじめ、これまではどの教会にせよ講社にせよ、お祀りする御分霊は御嶽神社では無く、その所属する教派団体の本部から賜っている。つまり開基講の御分霊もまた〝信州木曾御嶽神社〟では無く〝東京の扶桑教本部〟から授与されたものである。信仰する対象が御嶽山であるにも関わらず、お祀りする御分霊は東京から賜るというこの矛盾を解決するためには、神社が直接教団を設立する他無い。
 また、父・源太郎が臨終の際、「俺は今から行かなくてはならないが、一体何処へいったらよいか」と忠義に問うた。忠義は、行き先は黒沢口の開基講霊神場で、そこには信徒が心を込めて建立した霊神碑があり、そこが鎮まるところですと伝えた。源太郎は「そうだった飯の仕度をしてくれ御山登山の装束を出してくれ」と言い、装束に着替えて草鞋を履いて亡くなったという。
 この、父が御嶽山に登る姿そのままに逝った光景を見て、御山と神社を総本山として講社に直結させることこそが一番正しい姿だとの信念を持ったと、鈴木は訴えた。本教の立教はただ時代の波に乗ったり根拠無く行っていることでは無いと強く主張したのである。

 ここで千家管長代理が、立教趣旨は理解できるが、それならば教団では無く神社講社としてやっていけばどうか、もしくは神社本庁を離脱し本教一本でやってはどうかとの意見を述べた。出雲大社としても今後神社本庁を離脱し、大社教のみでやっていくことも検討しているという。
 千家に対し鈴木は親切な意見に感謝しつつ、今後の参考にすると述べるに留めている。
 しかし、芳村は尚も木曽御嶽本教解体を強く迫り、「是非止めて貰いたいどうしても止めなければ各教派連合で御山の一角に神社を建立して対抗するが良いか」とまで語ったという。
 ここで鈴木がそこまで神社が大切なら、今迄一度でも大祭に管長代理を派遣するなど敬意を表されたことがあったかと質し、管長連中が返答に困ってるのを見ると続けて各教派の御嶽講が登山の際に御嶽神社へ必ず参拝するなど「教会―神社」が強い繋がりを持つことに比べて、それぞれの御嶽講が所属する各教派本部がどこにあるのか知らない、各教派本部の大祭に参加したことが無いなど、「教会―教派本部」の繋がりが希薄なことを指摘して、そもそもこの現状が国家神道下で生まれた特殊な状態であって、本来の姿は木曽御嶽本教のように神社を中心とした組織であるべきだと主張した。

 結局、この日は教派側の代表団は返答を得ることが出来ずに帰った。木曽御嶽本教側は要望について後日回答するとしていたが、芳村は下山の後も「この霊山がいわゆる宗教事業家のほしいままになることは残念です。教師、信者の引き抜きなどまったく宗教の名をけがすもので、われわれは断然御嶽本教の解体をゆずりませんが、もしそれを拒否するなら長年われわれの新興によって維持されてきた御嶽山、そしてそれから出た御嶽本教は自滅のほかないでしょう」と取材に答えている。
 本教側は七月三日から十月三十日にかけて教団内で協議を続け、結果的に教派側の解散請求を拒否することに決定したのであった。
 この後、教派神道側と木曾御嶽本教側で目立った対立騒動が起こることは少なく、現在でも御嶽山周辺には両教団の本部施設が鎮座している。

おわりに

 ここまで木曽御嶽本教の設立から講社結集までの流れを俯瞰してみた。木曽御嶽本教はこの後も御嶽神社と共にあり続けたが、他教派に対して排外的という訳でも無く、現在でも別殿などで修成派傘下講社が奉納した紋幕などが見られる。また、教派神道御嶽教も木曽御嶽本教立教に対抗するため戦災で消滅した本部施設を木曾へと移すこととし、大教殿の建設を急いだ。幸いにも隣の新開村に鎮座していた出雲大社教会から神殿建物を購入できることとなり、移築する形で昭和二十三年に完成させている。この木曾本部は平成に入って木曽ダム付近に移ったため、今は跡地として御嶽山木曽本宮元宮となっている。現在では両教団で全面的に争うようなことも無く、御嶽信仰の講社記念誌に両教団の代表の挨拶文が並ぶこともある。木曾御嶽本教も御嶽教も、令和現在に至っては他の神社寺院と同じく継承が難しくなっており傘下教会は減少傾向にあると言わざるを得ない。
 本稿で見て来たように昭和期に発生した講社を巡る争いは、教派神道の設立期から続く政府による宗教行政の影響と、御嶽教御嶽信仰が抱えていた問題が噴出した出来事だったように思われる。
 まず宗教行政については、政府が神社非宗教論を採り神社と教団が分離せざるを得なくなったことで、御嶽信仰の各講社は結集軸を失った影響が挙げられる。同じような問題を抱えた際、出雲大社教では出雲大社宮司家が結集軸となった。出雲大社宮司だった千家尊福は祭祀と宗教が分離される前から結集運動を行っており、祭教分離となると宮司職を千家尊紀へ譲って宗教活動を続けている。千家尊福指導力もさることながら、出雲大社出雲国造家という威光が教団がまとまる軸となった要因の一つであろう。信仰をほぼ同じくする教団として出雲教も存在するが、出雲教はそもそも祭教分離以前に政府によって出雲大社本体と離されてしまっており、北島国造家の正統性や威光はあれど、出雲大社を抱える出雲大社教ほどにはならなかった。
 対して御嶽信仰を見ると、神社というよりもそもそも「御嶽山」への信仰であり、軸となる聖地も黒沢口、王滝口の御嶽神社のように分散していた。また講社自体も江戸時代からそれぞれ独立した行動を取っており、御嶽教結成時も中心となったのは神社では無く、数ある講社の一つ(代々講)だった。明治初期の黒沢口の御嶽神社も当初は自らが主体となって講社整理に動いたものの、祭教分離となって神社本体が教団を設立することも難しくなり、また結集に動いた中心人物が免職となるなど、結集軸となるような動きが取れなかったのである。その結果、教派間にまたがるように講社が存在するようになった。
 戦後になって教団設立が容易となり神社による直轄教団が出来るとなれば、教派に留まる必要を感じない教会も出て来るのは、ある種当然の成り行きだったであろう。
 
 ただし、御嶽教をはじめとする各教派に残存した教会も多かったことも考慮する必要がある。本稿では各教派から移った教会と残った教会の比較にまでは言及できなかったが、講社について考える際には両者を比較する必要性があるだろう。
 また、先述の通り教派神道の中でも御嶽教出雲大社教などの神社系の教団における比較も詳細に見ていくことも重要である。神社に関連する教会として出雲大社教神宮教御嶽教扶桑教などが挙げられるが、これら教団の傘下講社がどのように結集されていったかの比較研究などはあまり見かけないように思う。今後はこうした部分が解明され、近代における神道が抱える問題点が明らかになればと考えている。

参考文献

『木曽御嶽本教五十年のあゆみ』(木曽御嶽本教、平成九年)
御嶽教の歴史 開教九十五年の歩み』(御嶽教大教庁、昭和五十四年)
中山郁『修験と神道のあいだ―木曽御嶽信仰の近世・近代―』(弘文堂、平成十九年)
西海賢二『東京葛城の木曽御嶽講―神道修成派梅林講を中心に―』(山村民族の会『あしなか(第二百五十二号)』(平成十一年七月))
神社神道の在り方に抗議」(『宗教公論』 昭和二十二年八月)
神道教派聯合會が御嶽本教に抗議」(『神社新報』 昭和二十二年七月十四日) 
「御岳さまで信者取り合い」(『中部日本新聞』 昭和二十二年七月九日) 
「神社と教派問題 神教連から御嶽本教へ抗議」(『中外日報』 昭和二十二年七月一日) 

 

初代管長・武居誠宮司