【東京】定例研究会報告 明治初期の神社と神道教会――多賀大社、大神神社、金刀比羅宮の例

令和4年3月25日に開催された民族文化研究会東京地区第31回定例研究会における報告「明治初期の神社と神道教会――多賀大社大神神社金刀比羅宮の例」の要旨を掲載します。

はじめに

 大教院をはじめとする国民教化運動が行われた際、各地の神社には中教院や少教院が設置された。これ以降、宗教行政の変遷に対応して教院は教会となり、また機運に乗じて新たに教会が作られるなど、こ各地に神社神道系の教会が設置されるようになった。こうした神社に関連する教会が設置される動きは明治初期に多く見られる光景ではあるが、その後昭和期終戦に至るまで続くものもあり、現存し教統を守っている教会も少なく無い。

 そもそも「教会」には講社結集の目的で作られたものも多く、その中でも伊勢神宮神宮教会を、出雲大社は大社教会を開設しその勢力故に教派神道の一派にまで至った。この両教会は独立した教団となったために先行研究の題材となってきたが、当然この他にも多くの神社系教会が設けられている。今回はその中で数件を例に取り、結成後にどのような道を辿ったのかを確認したい。神道における教義教学研究やいわゆる神道の宗教団体としての側面を考える際、こうした個別の事例もまた一つの材料になると思われる。

多賀大社における教会

 

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多賀教会長・宇津木久岑

 

 多賀大社滋賀県に鎮座する伊邪那岐命伊邪那美命を祀る古社である。その時々の権力者や民衆の篤い信仰・崇敬を受け、神仏習合などを経ながら歴史を紡いできた。また江戸時代には伊勢神宮出雲大社がそうであったように、神徳を説き崇敬者を集め、また神札を配る「御師」のような人々が登場している。

 多賀大社の彼等は「坊人」と呼ばれ、その名が示す通り僧侶に近い行者だった。多賀大社神仏習合の歴史的経緯の結果として境内には四つの寺院があり、ここの僧侶が修験者として各地の信徒を先導していた。ここから作られた信者グループとして江戸期には既に「多賀講」とも呼べるものが存在した。先述の通り、神社崇敬の講社というのは江戸期の有名な大社ではよく見られる現象である。多賀大社は特に延命長寿の霊験があらたかだとして信仰・崇敬されていたという。

 こうして坊人によって信仰を集めていた多賀大社だったが、明治維新直後には神仏判然政策の対象となった。当然、境内の寺は廃され、「坊人」達は失職した。

 維新後の神祇政策は当初の宣教使による大教宣布政策が難航し、明治五年には教部省を設置、大教院を中心とした神仏合同の教化政策へと移る。この時、多賀大社では境内の旧寺院(不動院)に少教院を設けることを教部省に伺い出ている。これが許可されて明治八年三月に開院、講義や説教が行われることになった。ところがその直後の五月三日に神仏合同布教が打ち切られて大教院も廃止が決定する。多賀大社の少教院も僅か数ヶ月で廃止となった。

 次いで神社界では神道事務局が設置され、全国の神社・神道教会、神道系教導職の中央機関が誕生している。多賀大社ではこれを機会に全国の信者を組織化した崇敬教会を設立しようとの声が上がったようで、明治九年五月三日に講社結成を願い出ている。同年六月十日には教部省の認可を得て、「多賀教会講社」が誕生した。これを祝して翌年十一月には三日間に渡る教会開筵式が行われている。

 この多賀教会講社は職員のほとんどが失職した「坊人」だったという。坊人達はかつてのネットワークを元に神札を配り、再び全国へ多賀大社の威光を広めた。それまでの各坊人がそれぞれ布教していた形式とは違い、初めて組織的な布教となった。

 また、この教会講社の規則では三條教憲の謹守や異教邪説を信仰しないといった当時の講社としては当然の項目がある一方で、社中の「同心共力」として資金を集めて凶災や貧困に備える積み立てることが記載されている。これについては講員の互助的精神による「生命保険」の先駆けとして『日本生命保険会社五十年史』にも取り上げられている。

 こうして立ち上げられた多賀教会講社だったが、明治十六年には大成教の傘下に入ることになった。この際、職員の資格や事務規程などについてお互いに条約を結んでいる。

 この時点で中央政府は神官教導職の禁止という祭教分離路線に舵を切っており、会長だった宇津木久岑は少教院を前身とする経緯を鑑みて教派神道傘下の道を選んだのだろう。ただし、おそらく実体は神社崇敬講社とあまり変わらなかったようである。同年十二月二十四日、正式に大成教多賀教会となった。

 こうした状態は明治二十一年の「社寺局通牒本局第五十五号」発令をはじめとする政府方針の明確化によって問題化した。政府は祭教分離を計る為に神社崇敬講社と教派神道教会講社の完全な区別を命じたのである。多賀講社ではこうした事態に対応し、新たに神社直属の「貴寿講社」を設立、明治二十四年四月十五日に認可されている。

 この「貴寿講社」の職員は全て「大成教多賀教会講社」の職員に兼任させ、同じく全講員も加入させた。こうした「教法」講社と「崇敬」講社の二重加盟の状態は様々な弊害をもたらしたようだが、結局戦後まで続くことになる。明治二十七年には「貴寿講社」の名も「多賀講社」と名を改めた。

 戦後には多賀講社と大成教の縁が切れてしまったそうである。ある時期、全国講社から四国を中心に大きな離脱があったようで、おそらく多賀教会として大成教に残った教会群では無かろうかと推察する。

 教派神道傘下の教会だった名残として「神恩会」というものがあり、教会に所属していた神職とその末裔が神葬祭を請け負っていたという。

大神神社における教会

 三輪明神とも称される奈良県の古社・大神神社大物主大神を祭る大社であるが、他の神社と同様に維新後には神仏分離政策の対象となった。神宮寺だった大御輪寺、平等寺が廃止されて本堂は摂末社の本殿として転用され、仏具の多くも法隆寺など他の寺院へ移管された。明治四年に行われた上知の際には境内および「神体山」の範囲を巡って混乱が起きたものの、最終的に教部省が「振古格別之由緒モ有之事ニ付、御諸山一山ヲ社地ト相定」云々と神山領域を認めている。この上知を巡る問題の際、正殿の無いことが原因の一つだと考えた少宮司・今園国映が明治五年に本殿建設を願い出ている。こちらは教部省が境界を決定したことによって計画は中止となった。

 国民教化運動が始まった際、大神神社では拝殿において説教を行う予定だったようで、明治六年にその旨を届け出ている。この「少教院」は大教院制度が崩壊した後も存続したようで、明治十三年五月十八日に「大神教会」へと名称を変更した。このように大神神社の教会として存在していたものの、明治十五年に神官教導職分離となり所謂「祭教分離」が明確になると、大講義だった小島盛可は大神神社禰宜を辞職して教会長となり教導に専念するようになる。こうして大神神社との組織的な繋がりを絶ち独立教会となった大神教会は、大神社の教会だったことから政府の信用も高かったようで、教会本部は三条実美の宿泊所や、昭憲皇太后の休憩所として利用されている。

 明治十八年三月には前身が少教院だったことを鑑み、神道本局の傘下教会となっている。

 本院施設の整備など大神教会発展に尽力した小島盛可だったが、明治十九年に三十八歳の若さで帰幽している。その後も教会は存続し、終戦時に独立した宗教法人「大神教」として再出発、現在に至っている。

 管見の限り、教会とそれ以前の信者集団・崇敬団体・講社との繋がりはあまり感じられない。実際、講社業務は神社から独立する際に神社側へと譲渡したようで、現在は「大三輪崇敬会」を組織している。

金刀比羅宮における教会

 四国の古社・金刀比羅宮は大物主命と崇徳天皇を祀る神社であるが、江戸期までは金毘羅大権現を奉斎する神仏習合の霊地であり、本堂も「象頭山松尾寺金光院」という名称だった。江戸期には大名や庶民だけでなく朝廷や幕府の勅願所として扱われ、その崇敬は日本全国に広がるようになる。伊勢参りにも見られるように、民衆にとって寺社の参拝は個人よりも集団単位での側面が多く、参拝のための金毘羅講が結成されるようになった。

 明治維新後、神仏分離政策により琴平神社と称するようになると、住職だった金光院宥常も還俗し神職・琴陵宥常として事比羅宮の改革を担うようになる。

 国民教化運動がはじまると事比羅宮でも明治六年六月に境内社・旭社に講檀を設置して教導をはじめ、同年九月には社務所を「少教院」とする沙汰が教部省から出されている。この翌年、維新以降の神仏分離等で放置ぎみだった全国の金毘羅講社への対応、統一整備に着手し、三月には「金刀比羅崇敬講社」の設立に至った。同時に教義を加味した宗教的組織として「金刀比羅崇敬教会」も立ち上げており、こちらが神葬祭など宗教的側面を対応したようである。ただし、両者は名義が違うだけで根幹や人員においてほぼ同じ組織だったという。明治十三年には講社員が二百万人を突破し、それまで神道事務分局の所属だったのが神道事務局直轄教会になっている。。

 明治十五年の祭教分離の際にはそのまま神道本局に直轄教会として所属し、事比羅宮から組織的に分離独立することになる。この際、神社側と教会側で条約を結び、分離したとはいえ両者の由緒を鑑みて「密接ヲ要スベキ性質」であるとし、連携していくことを確認している。教会と一体だった講社についても同じく神社からは離脱したが、その後に関係者が協議した結果、講社に関しては神社付属の形にすることが望ましいとの結論に至り、明治十九年には「金刀比羅崇敬教会付属講社ヲ、本宮付属講社ニ復旧」することが政府から認められている。

 この後、金刀比羅崇敬教会も金刀比羅宮と共に昭和期まで至るが、大東亜戦争後に講員らとの連絡が疎遠となり、昭和四十四年に琴陵光重が講員を再結集・整備し、宗教法人「金刀比羅本教」として立教した。教団を紹介する外部の書籍や現地の説明版においても明治からの繋がりを紹介しているため、「崇敬教会」の後継組織として捉えるのが妥当であろう。

おわりに

 今回は多賀大社大神神社金刀比羅宮における教会を確認してみた。三社ともに江戸時代から講社や崇敬者が多い神社であり、また少教院設置が教会開設の契機となっている。また、教会設立後に政府の「祭教分離」政策によって神社との組織的繋がりが絶たざるを得なくなり、教派神道の教会として独自の道を歩むことになった。しかし多賀大社金刀比羅宮では密接な関係を続けており、大神神社においても政府要人の参拝時に休憩所として利用されるなど関係性は続いていた。

 しかし戦後になると三社三様の道を辿っている。「祭教分離」原則が消滅すると、多賀教会は多賀大社の講社に吸収されるように消滅し、金刀比羅宮では神社が抱える信徒集団の組織として再整備された。一方の大神教会は崇敬者の御霊を祀る祖霊社としての機能を有し独立した教団として歩みを進めている。

 明治期の過度期とは言え、神社が宗教団体として創設した「教会」は、神道の宗教的側面である教義や神葬祭を担当しており、崇敬者も多く属していた。これらについて把握することも、神道を考える一つの材料になると思われる。今回は三例の紹介のみとなったが、取り上げた神社の他にも多く教会講社は設立されており、今後はその比較検討も行っていきたい。

 ただし、個々の神社における近代史は顧みられていない場合も多く、資料の発掘をはじめ今後の解明が期待される分野である。

主な参考文献

中西守「多賀講社について」(『神道史研究』十八巻)

『多賀神社史』(多賀神社、昭和八年)

多賀大社社務所『宇津木久岑小伝』(昭和六十年)

大神神社史資料編修委員会『大神神社史』(大神神社社務所、昭和五十年)

宮崎英峰『神道教師必携 下巻』(極東天祐社、大正11年

西牟田崇生『黎明期の金刀比羅宮と琴陵宥常』(国書刊行会、平成十六年)