【関西】定例研究会報告 宗教世界会議と大本の教派連加盟

令和3年10月16日に開催された民族文化研究会関西地区第39回定例研究会における報告「宗教世界会議と大本の教派連加盟」の要旨を掲載します。

はじめに

 大本は日本宗教界をはじめ広範に影響を与えた教団である。出口ナオの開教以来、戦前においては政府からの公認を得ずとも大教団へと成長し、宗教界のみならず政界や財界、軍人など多くの信者・支持者・協力者を得て勢力を拡大していった。教団では聖師と呼ばれる出口王仁三郎による多様な活動がこうした勢力拡大に寄与したものであるが、その結果として政府との軋轢を生み、二度の弾圧事件を引き起こしている。

 その大本は戦後、教派神道連合会に所属することになるが、そのきっかけは「宗教世界会議」と呼ばれるイベントだったという。

 今回はその加盟までの経緯を俯瞰し、戦後日本における宗教間協力史、戦後神道史の一部として取り上げてみたい。

 

宗教世界会議と「世界宗教連盟」案

 戦後の大本は出口王仁三郎の死去前後から平和主義の教団として歩みを進めて各種平和運動に参加した。これについては教団による『大本七十年史』や永岡崇氏の『宗教文化は誰のものか 大本弾圧事件と戦後日本』に詳しい。

 特に大本が力を入れたのが世界連邦運動だった。この運動に参加するにあたり中心人物となったのが大本の総長・出口伊佐男である。出口は戦前に昭和神聖会の副統管を務め、第二次大本事件では検挙されて六年以上獄中で過ごしている。戦後には愛善苑の委員長として大本復興に尽力すると共に、人類愛善会の会長にも就任して平和運動に積極的に参画することになる。

 戦後まもなくは日本国内の世界連邦運動も盛んであり、この運動には左右の幅広い人々が参加していた。知識人や政治家など多くの著名人が名を連ね、運動自体は大きくなっていったものの、後世の社会運動史においてはキャンペーン的運動を超えないという高くない評価が成されている。実際、この運動は後の六十年安保を迎えるにつれ規模は縮小していった。

 こうした世界連邦運動に大本は最も力強く協力かした団体の一つである。それと同時に出口総長や愛善苑が強く主張していたのが「諸宗教の代表による会議」の開催だった。世界平和における物質的な障壁の前に、まず精神的な障壁を除外しなくてはならず、そのためには宗教家がお互いの親睦を深めなくてはならないという趣旨で目指されたもので、度々『霊界物語』の言葉を引用する形でその必要性を訴えている。

 こうした出口総長の悲願とも言える世界の宗教家による会議は、早くも戦後十年目に開催に至ることになる。

 昭和二十九年四月、海外の宗教家約三十名が来日した際に「世界宗教家歓迎国民大会」が開催され、その席上において下中弥三郎世界宗教会議の開催を提案、満場一致で支持されている。下中もまた世界連邦運動に尽力した一人でもあった。翌月の国連未加盟国会議の席上でも下中はビキニでの核実験を上げて、真っ先に平和を叫ぶべき宗教家がこの問題に対し積極的でないことを批判、この逼迫した状況で全人類を救う為には良心の発動以外にないと主張し、「世界大宗教会議」の日本での開催を呼びかけた。この会議の期間中に出口と下中は会談しており、大本が長年主張していたものと同様であるためか意気投合、トントン拍子で会議開催へと邁進することになった。

 それまでも国際的な宗教者の会議は幾度か開催されていたが、世界中のあらゆる宗教を網羅しているとは言えず不完全である、というのが大本ら「世界大宗教会議」主宰側の認識であり、まずは国内の教団から参加を呼び掛けていった。結果的に日本側から神社・神道、仏教、キリスト教新宗教など多くの参加者を得ることに成るが、その温度差はまちまちだったという。後のインタビューにおいて出口は各団体の協力について答えているが、相対的に勢力の小さなキリスト教教派神道はともかく、仏教が「事実において消極的」、逆に神社本庁が一本化して協力したのが目立ったという。おくれて協力をはじめた新宗連も積極的だったというが、やはり神社界の協力は力強かったらしく、当の『神社新報』でもこの会議については多く取り上げられている。

 第一回の準備大会は昭和二十九年十一月に東本願寺で開催され、その後も何度か準備会議が開かれる度に開催時期や提出議案などが修正されていき、世界各国の宗教にも招待状を送付していった。

 こうした準備期間を経て宗教世界会議は昭和三十年八月一日に東京麻布、国際文化会館で開催されている。米国代表者はウッダード氏など元々日本に滞在中の宗教関係者が参加、その他にもインド、ベトナムインドネシアイラク、台湾、朝鮮などの代表者が参集、最終的に十六ヵ国五十数名の出席があったという。

 東京での本会議では十五ヶ条の決議について話し合われており、その内三つは大本が提案したものだった。その中でも「世界宗教連盟」案は出口王仁三郎が大正十四年に提案していた世界宗教連盟の流れを汲むものである。

 この世界宗教連盟案については会議三日目に話し合われており、まず出口伊佐男総長による説明が行われた。要約すると…これまで宗教が国際性・社会性が無力だとの批判をされてきたのは宗教そのものが無力なのでは無く、教団内に排他・偏見を内蔵するものがあり対立してきたからであって、今後の相互理解と尊重・協力のためにも「世界宗教連盟(仮)」を組織することが望ましい。ただし実現には慎重な検討、十分な用意が必要となるので、次回の宗教世界会議までは準備委員会を設けたい…というのが出口総長の提案であるが、これに対し「今日すでに日本に新宗教連盟(新宗連では無く日宗連のことか)が結成されているから新たに結成するよりも、これを母体として各国にも呼び掛けて行くことが望ましい」や「全面的に賛成だが時期なお早し」との意見が出されている。結果的にはインド代表などの「提案説明通りに賛成」という案に満場一致、採択されることになった。

 この世界宗教連盟(仮)設立に対する準備については決議処理委員会が担うことになり、出口もその日本人委員八名の内に入っていた。以降、「世界宗教連盟」結成に向けて出口も協力することになるが、名称については参加各国の翻訳や表現などを加味した結果、後に「宗教世界協議会」となっている。

 会議ではこの他にも原水爆や軍備、人種差別撤廃や死刑制度など、多くの議題が話し合われた。中には宗教が政治に積極的に介入すべきか否かで議論が分かれる議題もあり、それなりに緊張感のある会議となったようである。東京の本会議の後には広島、綾部、亀岡、京都、大阪、伊勢、名古屋、箱根、日光などで地方大会が行われた。 

 こうして会議自体は盛大に行われたものの、各宗教の代表というより個人参加が多く、決議の実効性には疑問符がつくものが多かったという。出口らはこうした反省点を次の会議に活かしていく所存だったらしいが、結果から言えばこの宗教世界会議は第二回が開かれること無く一度きりで終わった。そのため次回を意識して決議した「世界宗教連盟」等についても尻切れトンボで終わるのだが、この宗教世界会議は、大本の立ち位置等に影響を与えることになる。

 

大本の教派神道連合会への加盟

 会議終了後の九月十日にはさっそく懇談会が開かれ、宗教世界協議会の日本事務局には日本宗教連盟に渉外部門を設立してこれに当たらせるとの意見がまとまった。この懇談会には神社本庁新宗連、全日仏の代表者と共に大本・出口伊佐男総長も出席している。

 日本宗教連盟(日宗連)とは、神社本庁教派神道連合会(教派連)、全日本仏教会(全仏)、日本キリスト教連合会新日本宗教団体連合会新宗連)が加盟する、日本における宗教のナショナルセンターとも言える機関である。宗教団体相互の連絡や宗教関連についての政府との折衝、要望書提出などを行っており、戦後まもなくに結成された。

 こうした日本における宗教の代表的な機関がある以上、ここに宗教世界協議会日本事務局を設置しようという動きは当然な成り行きに見える。

 ところがここで大本に一つの問題が生じた。いわゆる大教団として他教団との協力に積極的であるにも関わらず、この時点で大本はどの宗教連合体にも所属していない単独教団であり、そもそも日本宗教連盟に属してはいなかったのである。

 これについては以前から問題視する声が内外から上がっていたらしい。日宗連の加盟組織の一つである新宗連については、昭和二十六年の結成時から大本へ加盟するよう呼び掛けており、大本側も対応を協議していた。出口伊佐男総長としてはこれに前向きな姿勢を見せていたものの、幹部の中には大本から見て「分派」にあたる教団と肩を並べる形で加盟するのは如何なものかという意見を持つ者も少なくなかったらしく、結局は新宗連への加盟は見合わせることになったという。また一時、教派連に所属する動きもあったがこちらも昭和三十年までに大きな動きは見られなかった。

 こうした経緯の中で行われた宗教世界会議では準備段階から「単独教団」ゆえの弊害が多々あったらしい。会議当日においても大本・出口総裁が「世界宗教連盟」を提唱したにも拘らず、その大本が「単独教団」というのは矛盾するとの見方も一部でされていたという。勿論、日宗連は加盟していない団体や教団とも緊密に提携するものではあるが、決議処理委員として宗教世界協議会日本事務局にも関与することになる出口・大本が加盟していないというのは不格好だったのだろう。

 こうしたことから教団内部では「諸々の問題解決」と「宗教の国際化」という観点から、いずれかの宗教連合体に所属し、日宗連に合流すべきとの意見が大きくなったという。

 会議後、出口総長は日宗連理事長・佐々木泰翁(曹洞宗・宗務総長)に相談、どの組織に参加するべきか及びその組織へ参加するための斡旋を依頼している。佐々木は、大本は教派神道連合会へ加盟すべきとの結論を出し、また教派連へ働きかけたところ前向きな返答が帰って来た。こうして大本の加盟依頼書が教派連に提出された。

 こうした大本加盟について教派連側で尽力したのが当時教派連理事長だった佐藤幹二(金光教)と大須賀貞夫(天理教)だったという。また神習教の芳村忠明も戦後まもなくに「教派連は門戸を開いて神道系教団の受入れを計るべきだ」と主張していた。こうしたことから加盟自体はスムーズに行くと見られており、この時点では九月初旬に教派連理事会が開催されてすぐにでも加盟承諾となる見込みだったらしい。

 ところが今度は教派連側で問題が生じた。当時の規約のままでは大本を加盟させることが不可能だったらしい。そこで一時的に大本の加盟を見合わせ、翌年の理事会までに受け入れ態勢を整え、その上で加盟を承認することになった。教派連としてはこれを機に十三派から「十四派」となり、その後も「十五派、十六派となつて行く」と勢力の拡大を目指す予定だったと言うが、大本の受入れについては反対する教派もあった。「大本加入を反対していた神道既成派」はそもそも自らが教派連に所属していることもおかしい状態だと表明し、これを機会に脱退を宣言したという。この既成派とは「神道修成派」のことで、この直後に「独立の立場で活躍したい」と脱退を宣言した旨が当時の新聞に報道されている。

 大本については昭和三十一年二月十二日の教派連役員会で正式に加盟が決定した。三月十一日には神習教本部での教派神道連合会理事会に出口伊佐男が出席、加盟について感謝の挨拶を行っている。おそらく同時に修成派の脱退も認められたようで、「十三派」という教団数自体はそのままとなった。

 こうして教派連、ひいては日宗連は大本を正式に向かい入れ、四月一日からは世界宗教協力協議会が暫定スタートした。この協議会のメンバーには神社本庁の小野祖教らとともに、晴れて提唱者の大本・出口伊佐男も参加することになった。

 

おわりに

 以上、大本の教派連への加盟について俯瞰してみた。

 宗教世界会議は戦後の大本にとって積極的かつ主体的に動いた国際イベントの初期のものとなった。同時期には大本は他教団との関係・親交を積極的に行っている。世界宗教者平和会議へ参加を続け、また一方では同時期に神社本庁生長の家などと「日本開顕同盟」や「日本宗教政治連盟」などを結成している。こちらについては神社界側が積極的に動いており、『神社新報』でもよく取り上げられている。ただし『人類愛善新聞』ではほとんど取り上げられておらず、結成前の懇談会に参加した程度の記事しか載っていない。むしろこの年の愛善新聞は多くが宗教世界会議関連の記事になっており、大本の主力がこちらに向けられていたことがよく分かる。

 一方の神社界にとってもこの会議は国際交流の初期のものだった。開催前には海外代表団の一部が靖国神社を参拝し、彼等から独立のきっかけを作った日本への感謝の言葉をかけられたり、伊勢大会の際に神宮へ参拝したインドネシア代表からは「神道は侵略的思想との印象が強かったが、今日参拝して偉大なる平和の神であり神道の真精神であることを知った」という感想を述べられている。また他の代表からはそうした海外の”誤解”を解くための努力が足りないという風なこともコメントもされたらしい。

 この会議はあくまで個人参加の代表が多く、これらのコメントもその教団や国家の人々を代表したものとは言えないのであるが、神社関係者は会議を通して海外への意識を強くしたのでは無かろうか。

 またこの会議は大本の教派連加盟の切っ掛けにもなった。

 教派連にとって戦後初となる新規加盟であり、また脱退を経験することになった。この後、神習教天理教などの脱退や復帰などを経て現在に至るわけであるが、それまで十三派の枠を崩すことの無かった教派連にとっては一つのきっかけになった出来事だったのである。

 

主な参考文献

永岡崇『宗教文化は誰のものか 大本弾圧事件と戦後日本』(名古屋大学出版会、令和二年)

『大本七十年史 下巻』(大本、昭和四十二年)

『いのりとつどい 教派神道連合会結成百周年記念誌』(教派神道連合会、平成八年)

「開催細目を決定 宗教世界会議国内準備会」(『神社新報』 昭和三十年六月二十日号)

「宗教世界会議ひらく」(『神社新報』 昭和三十年八月一日号)

「宗教世界会議東京大会終る」(『神社新報』 昭和三十年八月十五日号)

「宗連内に設置 宗教世界協議会日本事務局」(『神社新報』 昭和三十年九月二十六日号)

「大本が教派神道に加盟」(『中外日報』 昭和三十年八月二十八日)

「昭和三十年度の回顧『教神道連』の巻」(『中外日報』 昭和三十年十二月二十七日)

世界宗教協力協議会 四月一日から暫定施行」(『中外日報』 昭和三十一年一月二十四日)

「大本がやつと連盟加入」(『中外日報』 昭和三十一年二月二十六日)

神道修成派神道連を脱退」(『中外日報』 昭和三十一年二月二十八日)

「宗教世界会議を顧みて」(『人類愛善新聞』 昭和三十年九月上旬号)

「会長 神道加盟感謝東上」(『人類愛善新聞』 昭和三十一年三月中旬号)

「出口会長東京動静」(『人類愛善新聞』 昭和三十一年四月上旬号) 

 

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出口伊佐男