【関西】定例研究会報告 神道本局抹殺論――芳村忠明と神崎一作

令和3年8月21日に開催された民族文化研究会関西地区第37回定例研究会における報告「神道本局抹殺論――芳村忠明と神崎一作」の要旨を掲載します。

はじめに

 戦前に公認を受けた神道系十三教団と、そこから分離したり影響を受けたもの等を含めた教団群を一般的に「教派神道」と呼ぶ。これは広義での呼称とも言えるもので、狭義の意味では数度の改名を経つつ明治から続く教派連(教派神道連合会)に所属する教団、もしくは文化庁が統計や宗教年鑑において教派神道と分類した教団を指すことが多い。
 戦前に公認を受けた十三教団とは、黒住教天理教金光教、修成派、御嶽教扶桑教、実行教、神習教神理教大成教、大社教、禊教、そして神道本局(正式名称は「神道」、現在の神道大教)のことで、特に神道本局はその歴史的経緯から教派神道の筆頭として扱われていた。
 ところが戦前のある時期、これに抗議の声が上がったことがある。その中心人物は神習教の芳村忠明だった。芳村はそもそも「神道本局」なる組織の存在を否定し、教派間でも度々議論を巻き起こしたのである。そして、こうした動きに対峙したのが神道本局の神崎一作だった。
 芳村の論は当時「神道本局抹殺論」とまで言われ、宗教を所轄していた文部省や宗教界を巻き込んだ論争となったのである。
 本論ではその論争の経緯を俯瞰し、戦前における政教関係の一例として考えてみたい。

神道本局と教派神道の成立史

 本文に入る前に、神道本局および教派神道の成立史を振り返っておきたい。
 明治五年、新政府は神官や僧侶を「教導職」として任命し国民教化に当たらせる政策を執った。政府が定めた「三條の教憲」を中心として愛国心や尊皇、敬神、または道徳などを説き、国民に根付かせ、それにより基督教の蔓延を防ぐためのものだった。各地の神社や寺院の一部も国民へ説教・教化を行う「小教院・中教院」として利用されることになる。更にこの国民教化運動では神社・寺院の信徒団体、講社なども動員されることになった。信徒団体等を動員することで、教化運動に必要な人員や資金を集め、運動を大きくすることが可能になる。そのために一定の基準を満たすことで教会・講社を結成し公認を与える「教会大意」が発布された。この教会大意発布は、黒住教富士講などのいわゆる民衆宗教の側にとっても公認を得るきっかけとなった。
 神道・仏教の教導職たちは芝増上寺に置かれた大教院を中枢機関として国民教化に邁進することになるが、この頃の神道教導職は所属区分を東西の二つに分割されて直後にそれが無くなるなど、この時期の宗教行政は朝令暮改の様相を呈し、以降も教導職は振り回されることになる。
 ともかく民衆宗教も動員される形となった国民教化運動だったが、島地黙雷らによる分離運動などもあり明治八年には神仏合同が差し止めとなり、大教院も廃止となる。この後、僧侶などの仏教系”教導職”はそれぞれ各宗派の総本山が管轄することになったが、神道側ではそうした総本山や本部機関のようなものが無かった。このままでは神道界隈がバラバラになるとの危機感を得た神道教導職達は、本部機関設置を各所に働きかけ、神仏合同が差し止められる直前の明治八年三月に「神道事務局」が創設されたのである。
 この「神道事務局」こそ、後の「神道本局」そして「神道大教」である。神道大教では具体的な立教の起源をこの神道事務局設置としており、現在に至るまで教導職に政府が与えた「三條の教憲」を教義の中心に置いている。
 神道事務局には各地の神社(教院)をはじめ、仏教宗派には属さなかった教導職や教会が所属することになった。しかし設立直後の明治九年に政府は神道教導職の管轄を三部に分け、その所属は自由との布達を出した。一部、二部、三部、そして後に加えられる四部のいづれかに所属せよとのことだったが、これにより神道教導職はいづれかの「部」に所属しながら「神道事務局」にも所属するというややこしい状態となった。当然ながら大混乱が生じ、多くの教導職が所属を決めかねて政府との問答を重ねることになる。
 この混乱の間隙を縫うように明治九年十月、一定の信徒数・祠宇数を有していた黒住講社と修成講社が「神道黒住派」「神道修正派」として「別派」を差し許されている。この特立によって黒住教や修成派は神道各部や神道事務局の指揮下ではなくなり、独自に国民教化を行うことが可能となった。教派神道教団としては最も早く、「独立した教団」となったのである。この時期辺りから「教導職」は「宗教家に与えられる肩書」程度のような認識をされるようになり、国民教化と布教も曖昧になっていったようである。
 結局、明治十一年には神道を四部に分ける話も廃止となり、政府(行政)は神道事務局とやり取りすることで神道教導職を管理するようになった。
 神道事務局ではこの後、出雲大社宮司であり出雲大社教会を率いる千家尊福と、伊勢神宮宮司で後の神宮教管長となる田中頼庸が本部神殿の祭神を巡って争い、神道界は内紛状態に陥った。いわゆる「祭神論争」だが、結局は自らで解決するには至らず、宮中三殿を遥拝するよう勅命が出たことで決着している。
 祭神論争は神道の教義に関わる論争であり、これについて混乱や内紛が生じることは神道と密接に関わる天皇にまで影響しかねず、また国民を分断しかねないため、政府はこれ以降神道の教義に関わることを避けて「国家の宗祀たる神社」と「宗教たる神道」の分離へと動くことになる。
 明治十五年、神官と教導職を兼務することが禁止され、遂に「祭教分離」となった。伝統・日本文化として存在する「神社」は公的な施設であり、関連行為は「祭祀」であって宗教では無いとの位置づけを明確にし、こちらは政府が運営・管理する。一方、神道の中でも葬儀や教義研究、布教などの「宗教」に近い部分に政府は関与しないとすることで、内紛や騒動に巻き込まれないよう距離を取ったのである。
 それまで神官と神道教導職を兼務していた者はどちらの道を取るのか決断を迫られ、千家尊福出雲大社宮司を辞めて出雲大社教会の運動に邁進している。こうした神道教導職や神道教会の中には規模の大きいものもあり、同年には神道事務局の管轄を離れる「特立」が許可されている。この時に特立したのは神宮派、大社派、扶桑派、実行派、大成派、神習派で、四ヵ月後には大成派の傘下にあった御嶽派も特立となった。なお、それぞれの教団は後に「〇〇派」を「〇〇教」という名称に変更している。
 こうして多くの教派が特立することで、神道界の中央組織だった神道事務局は相対的に規模が縮小し、政府からも教派神道の一派のような扱いをされるようになった。
 明治十七年には「教導職」制度自体が廃止され、政府がその肩書を与えることは無くなった。これ以降、政府の公認を得た仏教各宗・神道各派は内務省宗教局の管轄を受けながらそれぞれ独自に宗教活動を行うようになる。
 この時、各宗・各派には管長を定めるよう求められたため、神道事務局では草創期から関わってきた稲葉正邦を管長とした。稲葉は神道事務局を改めて教派神道の一派として運営するための整備をはじめ、「神道教規」を作成して内務省の認可を得ている。
 この教規によって神道事務局は教団名を「神道」とし、主祭神には宮中三殿だけでなく祭神論争で名前の挙がった神々を加えた。この教団「神道」は、一般的に使われる「神道」の語との混同を避けるために「神道本局」とか「神道教」などと呼ばれるようになる。
 神道本局からは以降も傘下教会で規模の大きいものが政府の許可を得て独立していく。明治二十七年には神理教禊教、明治三十三年には金光教、そして明治四十一年には天理教が独立した。
 こうして、明治三十二年に財団法人となった神宮教を除いた、黒住教、修成派、大社教、扶桑教、実行教、大成教神習教御嶽教神理教禊教金光教天理教、そして神道本局の「教派神道十三派」体制が確立され、昭和にまで至ることになる。
 この体制において、規模の小さな教会や新たに誕生した神道系宗教等が公認を得るためには十三派のうちいずれかの教派神道教団の傘下になる必要があったが、神道本局は元々が教院・教導職の中央組織から出発している為に多くの多種多様な神道系の宗教・教会を抱え又受け入れるという、他の教派とは違った特色を持つことになる。
 十三派の各管長は勅任官待遇として政府からも扱われ、黙認扱いだったキリスト教や非公認で活動した新興宗教(大本など)とは一線を画していた。
 このように教派神道十三派体制は出来上がったわけであるが、この中でも特殊な成立由来を持つ神道本局(神道教)を巡って、昭和初期に論争が発生することになる。

神道本局六十年祭と「教派神道史是正運動」

 大正五年に神習教二代管長に就任した芳村忠明は早稲田大学法学部出身であり、自らの教団を含めた教派神道全体の歴史について法律論的な見方をしていたようである。芳村は「教派神道史是正運動」を掲げて予てから神道本局への批判を続けていたが、これが表面化し騒動が特に大きくなったのは昭和九年春のことだった。
 この年、神道本局では教団創立六十年を記念した大祭を企画していた。ところがこれに芳村が猛反発、「神道教の猛省を促す」なるパンフレットを各所に送り付けるなどして問題が表面化したのである。

 ではその芳村の主張とは如何なるものだったかと言えば、その中心となったのは「神道教には教派神道教団として存立する法的根拠が存在せず、また神道事務局と一体もしくは継承団体とは言えない」というものだった。
 まず神道事務局神道本局は別物とする重要な証拠として明治期の「年金請求訴訟判決」を取り上げている。
 明治十五年、神道事務局から神宮派、大社派、扶桑派、実行派、神習派、大成派の六教団が特立した。その際に特立後の各教団は事務局に対して各々年金を納めるとの契約をしていたのだが、この後に神道事務局神道本局へと改称して以降は六教団からの年金納付が滞った。そこで明治二十六年に神道管長・稲葉正邦が原告となり各教団の管長を訴えたのである。この時、六教団側は未払いの理由を「神道事務局神道各派ノ事務ヲ統括スル所ニシテ、教派ニアラス」「教導職ヲ廃止サレタルガ為メ、(神道事務局は)消滅ニ帰シタルモノナリ」として、神道事務局神道本局は「同一ニアラス」と主張した。これを受けて判決では、神道事務局の成立史や法制的な成り行きを述べた上で被告側の主張をほぼ全面的に認め、「神道教ハ即チ神道事務局ト同一ナリト云事ヲ得ズ」との結論に至り「原告ノ請求ハ相立タズ」と神道本局側が敗訴している。
 ここから芳村は、神道事務局はあくまで神道教導職の事務組織であり、神道本局は教派神道教団なのであって両者は別物だと国家が宣言しているのだと主張し、これを根拠に本局が事務局から数えた「六十年祭」を挙行するのは欺瞞だと論じたのである。
 さらに芳村は左記の理論から神道本局が教派神道教団であると分かったものの、他の教派神道教団が国家から特立・独立を許可する布達を得ており存立の法令的根拠があるのに対し、本局が教派神道としての存立を許可・認可された法令が一つも無いことから、神道本局は非公認組織であると主張したのだった。
 このような論を掲げて、芳村は以前から文部省の宗教事務職員録の筆頭に神道本局が記載されていることを批判していた。これを受けて文部省や教派間でもこの問題は何度か取り上げられている。そのように問題が燻っていた時期に神道本局六十年祭の挙行計画が公表されたため芳村の攻撃は激化したのだった。
 芳村の主張に対し神道本局第五代管長の神崎一作は、あくまで神道本局と神道事務局は同一体であり、各教派が独立公認を得るようになったのは明治十五年からで、それ以前から存在していた神道事務局は既に認可を得ていたため特立等の法令を得る必要は無い、訴訟の件は判決当時より資料が揃っているため反論できると短いコメントを出している。

 以上のように対立が深まった二月以降、『中外日報』の一面を使って両者の応酬が繰り広げられた。
 まず芳村が『神崎管長に質す』というタイトルで問題点を並べ、更に神道事務局と同一体を称しておきながら祭神論争後に勅裁で否定された祭神を祀っているのはおかしいと神崎に公開質問状を叩きつけている。これに対し神崎は『神道本局の歴史事実に就いて』という文章を寄稿、本局側の立場を説明して、祭神の勅裁は時局を収拾するためのもので後世の祭神復活を否定したものでは無い、明治十九年の事務局規則改定によって”神道”に改称されたことから同一体だ、芳村君の言う通り本局は教派では無く教派の母体たる本源だ、ただし組織の特殊な性質上行政の扱いは教派と同列になる云々と反論した後、今日のような非常時に閑文字を弄ぶようなことは避けていたとして「これ以上の論争は煩わしいから」と一方的な打ち切りを宣言した。これを受けて芳村が『神崎管長へ最後の言葉』で反発、自分の閑文字によって神崎の論を引っ張り出し、むしろ自説への確信が深まったので「同君に鳴謝する」と挑発的に記し、事務局を教団だと誤認している、現祭神は勅命違反だ、そもそも改称の許可を得た記録は存在するのか云々と主張、「教派の歴史が同君に依って蹂躙せらるるか否かの問題」として徹底追撃の構えを見せた。これに対して今度は本局幹事長・林五助が『最終の是正』を公表し、神道事務局は単なる事務組織ではない、教義講究等の宗教行為を行っている、黒住・修成と同列扱いされているのを見ても教団だ云々と反論を行っている。
 こうして神道本局はあくまで六十年祭を断行する姿勢を見せたため、芳村側は他の教派とも連携し、声明文を発表した。

   聲明書
神道本局は旧神道事務局の継承なりとして従来該教関係者に於て発表せる両者の関係に関する主張及び事務局と各教派との関係に関する論述に基きて今般神道本局開教六十年祭を執行し以てその主張論述を實現せらるゝことは弊教等の教史沿革を無視せんとする行為なりと思惟し茲に該教に対し遺憾の意を表す
   昭和九年三月六日

 この声明文に賛同したのは神習教黒住教、修成派、扶桑教、実行教、神習教御嶽教神理教の八教派だった。代表して神習教の熊谷光義が同紙面において、大祭執行という神崎氏の「暴挙」と他教派をまるで「分派」扱いする本局側の態度を批判、神崎氏は「所轄の区分」と「教団の分派」を混同しており、もし「神崎イズム」を適用すれば、明治初期に真言宗に組み込まれていた法相宗が改めて分立した事態すらも「法相宗真言宗の分派だ」と言えてしまうと論難した。また祭神論争後の祭神の在り方についても批判し「凡そ祭神問題に関する記録は憚りながら神習教は天下唯一の保持者である」と自説を補強する資料の多さを断言している。さらに「修成派は修理固成光華明彩で立ち、神理教は一天四海皆神理に帰すで立ち、神習教は造化氣化體化の三化俱生で立ち、大成教が皇学・孔孟・心学・禊の四の大成醇化で立つ等それぞれ独壇上他と混同すべからざる教義を以て立ち茲を以て一教特立の許可を得た次第だ。宗旨なくして集團なく教義なくして教團なし。これを有せずして勅裁を経たる教派の體裁に模擬して立てるは何者だ。教憲御趣旨は尚ほ今日と雖も遵奉せねばならぬが國家の規則成文をそのまゝ教則に剥奪轉載してゐるのが神道本局教規第三条ではないか。(中略)帝國憲法第三條の「天皇は神聖にして犯すべからず」の明文を教規條文にそのまゝ記載してこれが我が教義であると済ましてゐると同じであつて此處に至つては沙汰の限りだ。」と三條教憲を教規に掲げる神道本局には教義が無く宗教団体でさえないこと強く批判している。
 対する本局側も在京教師団が声明文を発表、本局側の主張する神道史こそ事実であり、かつ、そのように主張して大祭執行を行うこと自体が「本局関係者に於ける信仰の自由意志に基くもの」だと訴え、あくまで神道本局の大祭であり他者に外悪を及ぼすことは無いと表明している。

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中外日報』昭和九年四月六日号


 結局、不穏な空気の中で神道本局六十年祭は予定通り四月二十日から三日間開催され、式典自体は何事も無く終わったようである。

 しかし教派神道の間には亀裂が走ったままだった。神道各教派連合会では既に規約に対する認識の齟齬を理由に神理教が脱退していたが、加えて神習教が「本局問題」を理由に脱退を表明、神習教に同情的な教派もあり、もはや連合会は有名無実のような状態となった。
 これを打開すべく従来の組織を解散し、より緩やかな社交的機関として五月十一日に「神道各派懇談会」を結成、神理教神習教も親睦目的ならばと参加して各派の融和を計っている。ところが今度は文部省がこれに待ったをかけて教派連の解散を拒否、あくまで「各教派連合会」の復旧を訴えて斡旋へと動いた。
 教派連を復旧するに当たり、一番の問題点は神道本局と神習教の対立である。その調停役として動いたのが実行教管長の柴田孫太郎だった。柴田は教派管長の中でも最長老格であり、調停役を自ら買って出たらしい。ところがこれが火に油を注ぐ結果となった。連合会では毎年持ち回りの当番幹事というものがあり、それに選ばれた教派の管長が会議その他で取り仕切る役割を担っていた。この年の当番は黒住教禊教であり、それを無視する形で柴田が動いたため、当番二教団は面子を潰された格好となり問題が複雑化した。
 結果的に神道本局、大社教、金光教天理教のグループ、神習教神理教、実行教、御嶽教扶桑教のグループに分かれて対抗、中間に禊教大成教、修成派、黒住教がいるという構図にまで陥ったという。
 それでも国家非常時ということもあって、関係修復への動きはあった。この後、一年近くかけて「従来の各派間の行掛りを順次解決せんとする傾向が助長されつゝあり」という状況まで回復するに至っている。しかしその矢先、問題が再燃することになった。

世界教育会議への参加と英文「教派神道」問題

 昭和十二年、八月に東京で「第七回世界教育会議」が開催されることが決定した。この会議は結果的に日中戦争の最中にも拘わらず世界四十三ヵ国から出席者が集うという大規模な国際的イベントとなるものだが、開催の数ヶ月前、教派神道の代表者五名がこれに出席することが決定する。
 この対応には神道奨学会が中心となって当たっている。神道奨学会は教派神道各派が協力して設立したもので、主に神道教師を育成するための機関である。
 会議への出席人選も奨学会が行い、さらには教派神道について外国に紹介するための英文パンフレット配布も決定した。このパンフレット配布を奨学会に提案したのは芳村忠明であり、五月十六日の奨学会理事会で満場一致、可決となっている。その際、内容については数年前の『ジャパンタイムズ』に掲載された教派神道の紹介文を編集して載せることに決定し、すぐに同出版社と協議、印刷を開始した。
 ところが、その内容について世界教育会議事務局が文部省宗教局に問い合わせたところ、宗教局は奨学会幹部を呼び出し内容の一部について削除を求めたのである。
 削除を求めたのは芳村忠明が執筆した部分で、神道本局非公認を説いたものだった。ここから問題が再燃した。
 芳村は「文部省は著書出版を検閲し又は一部削除を命ずる権限なし」と反発、非公認論は長年訴えてきた理論であり文部省が事実でないと言うのなら何故今迄反証せずに問題を放置してきたのかと批判している。また、教育会議事務局に対しても検閲権は存在しないと主張した。一方、奨学会に対しては問題解決のためパンフレット配布撤回を理事会に送付している。このため六月十八日に緊急理事会が開催されることになった。
 緊急理事会では既に開催間近まで迫っていること、権限の無い文部省の意向に屈する形になるのは不相応であること、この機会を逃せば海外への宣伝は遠くなること等から、文部省の意向とは関係無く奨学会独自の立場からパンフレット内容を再検討して完璧を期すとの決議を採択した。あくまで「文部省の意向を中心として計画を変更したのではありません」との姿勢だったが、事実上芳村論を排除するものであり、翌日には理事会の代表が芳村管長を訪問して諒解を求めている。
 このような情勢の中、文部省宗教局ではあくまで神道本局の肩を持ち、「かかる事實(公認)なくとも既に五十年余公認宗教としての取扱をうけて来たのであるから慣行上教派と見做す」との立場を取り続けた。その結果、批判の矛先は神道本局というよりも問題を放置し続けながら何ら策を講じない文部省へと向かっていったようである。
 芳村は従来の主張を改めて『中外日報』上で開陳している。長文であるが要約すると…、修成派、黒住派の特立こそ教派神道発生の紀元であり、天理教会独立に至るまで勅許を得た十二派こそ教派神道であるが、単に「神道」を称する神道本局はあくまで文部省の特別なる援護に依って教派扱いされているに過ぎない。教派としての設立出願がされておらず、上奏裁可や勅許、政府による設立公示も無く、それどころか教祖や教義信条も無い。国法的にも宗教学的にも本局は教派とは言えないのである。しかるに明治十七年の太政官布達第十九号(教導職廃止と各教団に管長を置く規程)はあくまで教派宗派に対してのものであるのに、当時の文部省は教派では無い神道本局にまで適用していて不法・越権行為である。しかも文部省は現在に至るまで不法行為を続けている。明治十八年、大正二年の教規改正を認可し、多年教派神道として扱い続け、”慣行上”を理由に現在でも教派神道として認めている。しかし「慣行」というのは民法上において人民の善良な風俗に対して適用されるべきものであり、神道事務局廃止後に教規を出願した「得體の知れぬ集團」に文部省が認可を与えたのは公の秩序に反する行為であって「慣行」としての効力は持ちえない。これについて英文『教派神道』および『教派神道成立公文解疏』を発行し海外列国の各大学・各学会に既に送付済であって、今更東京での会議での配布を妨げられる謂れは無い。本件について予対神崎先輩の争議という見方があるが、予の相手はあくまで神道本局に対し違法な扱いを続ける主務官庁である。…というもので、文部省に対しては出版妨害を当時話題となっていたスターリンの大粛清と並べて語るなど厳しく批判した。
 一方、神道本局側では大教院主事の岡重英が同紙において「一應神道本局の為に辯ず」を寄稿している。岡は本局の在り方として、各神社がそれぞれ奉斎神が違っているのと同様にそれぞれ独特の奉斎神・教義を有する教会・講社を統括しているのであって、他教派とはそもそも趣が違うと主張。傘下の各教会がそれぞれ個別の信仰に励み、それを本局が総合することで全体の大勢力が国体精神の根底となることに意義があるとした。さらには、そもそも神道本局は神習教などはなから相手にしておらず、芳村管長は法律的に宗教行政を辿っているだけで当時の事情などを見ずに批判し、四方八方に当たり散らして教派神道界を攪乱・和親協同の破壊していてその罪真に甚大だと、こちらも強く批判している。その上で「神道」が明治五年の東西両管長設置から一貫して教派扱いされていることを訴え、もし本局が教派として存在するために改めて認可が必要ならば、仏教諸宗も同様だと主張している。
 こうした教派神道界のイザコザには他宗教からも注目されていたらしい。
 日本組合基督教会では芳村の本局批判がまるで「非公認宗教=正しい宗教では無い」と主張しているように取れるとして批判的に言及している。そして公認・非公認によって教義に影響が出る訳では無いためどちらでも良いとした上で「文部省は神道本局を公認宗教とする模様であるが、さうなれば無論基督教も公認宗教となる」とのコメントを寄せた。キリスト教も公認宗教としての法的根拠が無いが、三教合同など公的なイベント等に呼ばれることがある。そのため神道本局に対して公認法令が無くとも「慣行的には公認宗教」とする文部省の立場を応用すれば、キリスト教も同様公認宗教となるはずだと主張しているのだろう。この論争は教派神道以外にも影響を与え始めていたようである。
 ともかく、宗教業界紙の使った神習教神道本局の応酬に対しては呆れたような投稿も多く見受けられるが、当時の雰囲気としては芳村論に一理あると考える者が少なくなかったようである。しかしこれはあくまで理論的な話であって「責め立てられる神道本局も無理からぬ處あり」と同情的な意見もあった。さらに言えば匿名ながら本局内部の人間からも問題解決に向けて神道本局を「一ト先づ清掃の為解体せよ」との声まで出ていた。

 このように教派の対立は推移していたが、問題は以前よりも激化していたようである。
 教育会議の直前の七月七日に盧溝橋事件が勃発した。この北支事変に対応した国威宣揚策を行うため文部省では十五日に宗教界・社会教育団体の代表者を招いて懇談会を開いている。ここには神道本局、修成派、大社教などの教派神道関係者も呼ばれていたものの、神習教神理教、実行教、御嶽教扶桑教の管長は招待されなかったらしい。神習教ら五教団はこの時点で既に「教派神道聯合會(報道では五教派神道連合会とも)」を結成しており、文部省の対応に強い不満を表して同日に実行教本庁で代表者会合を開いている。そして「文部省當局の眞意の存する所を知るの由なき」とし「神道五教派によつて組織する教派神道聯合會」では文部省の意図に関係なく「獨自の立場に於いて」銃後の支援に当たるとの申し合わせを行った。
 一方の神道本局をはじめ天理教金光教、大社教などでは「神道教派聯盟」を結成していて、こちらはこちらで十四日に緊急会合を行い、北支事変に対して他教団各方面とも連携しながら一層の奉教護国の本分を完うせんと期す、という申合を行っている。

教派神道聯合會」の結成

 国家非常時が叫ばれ、挙国一致・統制の風潮が強まっていく中でも教派神道の対立抗争は続いていた。ただし解決するための動きが無かったわけでは無く、八月初頭には御嶽教が各派管長を軍人会館に招待している。これは非常時に対応する協同戦線構築を促す、という名目で懇談会を開き団結連携を計ったものだったが、懇談会自体の「手続き上の問題」に不満を表する教派が多く失敗に終わっている。
 この時期は天理教の革新委員会による改革、黒住教の教義不敬問題、金光教の昭和九年十年事件、御嶽教の管長選挙問題、扶桑教のひとのみち事件、稲荷講による「第十四派」設立の噂など、教派神道界がそれぞれ問題を抱えた時期でもあった。神道本局についても例外では無かった。皇紀二千六百年を目前に控えて神社界・神社制度刷新の声が上がる中で、皇典講究所神宮奉斎会等だけでなく、神道本局なども合併させた一元的な神祇制度を作ろうという意見すら上がっていたのである。
 このように教団それぞれが問題を抱えたうえに、四分五裂状態となっていた教派神道を文部省も無視できなくなっていた。精神報国運動などが展開され各教団への統一統制を希望している中で、公認教団たる教派神道をこの状態のまま放置することはできなかったようである。
 こうして論争の結論はともかくとして、教派神道の団結のために文部省が動くことになった。
 松尾長造宗教局長は八月から各派管長や幹部と個別に会見し意見交換を行っている。これに対し御嶽教の渡辺銀次郎、大成教の前橋庄三郎、大社教の千家尊宣らも現状を憂慮していたようで、彼等が斡旋役となり九月六日に文部省で協議が開かれた。
 宗教局としては精神報国運動の便宜上からあくまで従前の「教派神道連合会」復活を目指していたようだが、現状の教派連合会、教派連盟、無所属を合併させて新団体を設立する意見もあり、さらには斡旋役が「社交団体」の看板による団結を主張して宗教局と対立するなど協議は難航した。組織結成を急務とするならば神道本局と神習教を除外した十一派で先に組織を結成し、両教団の問題解決に注力すべしとの意見もあったという。
 ともかく、こうした工作が功を奏したようで九月十一日、各教派の幹部が文部省に集結して直接協議を行うこととなった。
 この協議ではあくまで「大同団結」が議題になったようで、議論は白熱したものの「教派神道聯合會」を新設することで合意、会則などは当番として佐野、前橋、千家が起草し、その完成を待って正式発会すると決定された。

 こうして長年懸案となっていた教派神道間の対立は形式上解決されたのである。ただし教派連を改めて結成することは決定したものの、社交団体とするのか実践を伴った団体とするのかは継続協議となった。
 十三日には各派管長が揃って天機奉伺し、夜には各派幹部や宗教局員も出席した懇談会が開催され、お互いの関係はある程度氷解したものと思われる。

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中外日報』昭和十二年十月十六日号

おわりに

 ここまで芳村忠明の「神道本局抹殺論」及びそれを巡る論争と紛争処理の流れを俯瞰してみた。結局、文部省により教派間の対立は解決されたものの、公認論の結論は出ないままとなったようである。文部省の取扱名簿の中から「神道本局」が「抹殺」されることも無かった。「宗教団体法」施行後の昭和十六年四月十日、神道本局は「神道大教」として認められたが、芳村論からすればここで初めて明らかな公認宗教となったと言えるのだろう。戦後になっても芳村は自論を変えておらず、『宗教公論』等で主張している。
 一方の神道本局側では管長の神崎一作が『神道六十年史要』を著して神道事務局との同一性を訴えた。この『史要』は六十年祭を記念して記されたというが、その数年前から芳村は非公認論を主張し、『ジャパンタイムズ』や読売新聞社の『宗教大観』自論を掲載していたため、こうした動きに対応する目的で記された部分も多いと思われる。
 芳村、神崎両管長の論を比較すると、芳村があくまで法令的な問題を指摘しているのに対し、神崎ら本局側は歴史的経緯と所轄省庁がどう取り扱ってきたか等といった状況証拠で反論している。この部分に関して、井上順孝氏は『神道六十年史要』と『教派神道成立公文解疏』を元に両者の論を比較しており、芳村論については「法的な処置のプロセスの妥当性をきわめて厳格に解釈しようとしたもの」とし、「形式的すぎる主張であって、神道本局は教派としてみなすべき」と論じている。
 一方、芳村の主張も考える点は多い。問題の一因として挙げられるのは戦前日本の宗教行政であろう。明治以降、神社は勿論のこととしても、その神社と密接な関係にある「信仰としての神道」や神祇制度もまた政府にとって重要なものだったはずである。にも拘らず、明治初期の朝令暮改の中で誕生した神祇関連機関と公認制度について、それらに関する法令を施行することが出来ず、曖昧な部分を残したまま昭和にまで至ってしまった。これは諸々の事情によるものだが、法整備が遅れた結果、教派神道の管長は勅任官待遇であるにも関わらず公認非公認の論争となってしまい、黙認状態にあった基督教からも言及される事態になったように思う。
 筆者としては井上順孝氏の論と同じく、現在の神道大教神道本局と神道事務局を同一または継承関係にあると認める立場にあるが、明治初期の関連法令を見ると確かに両組織がまったく別の性格のものとして扱われていた形跡もあり、教派神道史や政教関係史を考える上でも芳村忠明の論は一考の余地があるようにも思われる。

主な参考文献

神崎一作『神道六十年史要』(宣揚社、昭和九年)
芳村忠明『教派神道成立公文解疏』(神習教大教庁出版部、昭和九年)
『明治百年と神道大教』(東京ライフ社、昭和四十三年)
『宗教大観 第一卷 』(読売新聞社、昭和七年)
井上順孝教派神道の形成』(平成三年、弘文堂)
井上順孝神道大教にみられる「神道」の教団化過程」(『神道宗教 第百九十九号、二百号』(神道宗教学会、平成十七年)
宇野正人「神道教派特立の過程―明治九年における展開―」(『維新前後に於ける国学の諸問題』國學院大學日本文化研究所、昭和五十八年)
岡田米夫『東京大神宮沿革史』(東京大神宮、昭和三十五年)
安丸良夫宮地正人 校注『日本近代思想大系 五 宗教と国家』岩波書店、昭和六十三年)
『いのりとつどい 教派神道連合会結成百周年記念誌』(教派神道連合会、平成八年)

「騒ぐ教派神道-遂に対立より分裂へ」(『朝日新聞』昭和九年八月二十三日、二十五日、二十七日、二十八日)
「寸評」(『朝日新聞』昭和十二年六月十七日)
教派神道の再出発」(『朝日新聞』昭和十二年九月二十六日)

「所謂神道本局非公認論」(『中外日報』昭和九年二月二十五日)
芳村忠明「神崎管長に質す」(『中外日報』 昭和九年二月二十五日)
神崎一作「神道本局の歴史事實に就いて」(『中外日報』 昭和九年二月二十三日、二十四日、二十五日)
芳村忠明「神崎管長へ最後の言葉」(『中外日報』 昭和九年三月七日、八日、九日)
林五助「最終の是正」(『中外日報』 昭和九年三月十六日、十七日、十八日)
熊谷光義「被害教派共同聲明に就いて」(『中外日報』 昭和九年三月三十日、三十一日、四月一日
「近く大々的に行はれる神道本局開教六十年祭」(『中外日報』 昭和九年四月六日)
神道本局の六十年祭 盛大裡に終る」(『中外日報』 昭和九年四月二十五日)
「政治的共同團體の神道聯合會解消」(『中外日報』 昭和九年五月十三日)
神道各派聯合會の解散に物言がつく」(『中外日報』 昭和九年五月二十九日)
浅岡信堂「融和性に乏しき神道各派管長に警告してその反省を求む」(『中外日報』 昭和九年六月八日)
神道聯合會解消して教派神道聯盟を創設」(『中外日報』 昭和九年六月二十六日)
教派神道聯合會各管長が追本敬始の思想を涵養する建言」(『中外日報』 昭和九年十月二十八日)

「世界教育會議に教派神道代表出席」(『中外日報』 昭和十二年六月四日)
教派神道における教師養成と素質向上問題」(『中外日報』 昭和十二年六月五日)
「世界教育會議に出席の教派神道代表決る」(『中外日報』 昭和十二年六月五日)
「世界教育會議に頒布の英文”教派神道”に文部省が注意」(『中外日報』 昭和十二年六月十六日)
教派神道團結への癌 神道本局問題解決に文部省が重大決意」(『中外日報』 昭和十二年六月十七日)
神道本局を公認せば基督教も公認宗教となる」(『中外日報』 昭和十二年六月十九日)
「宗派神道と行政庁」(『中外日報』 昭和十二年六月十九日)
「英文”教派神道”問題 遂に計劃變更さる」(『中外日報』 昭和十二年六月二十日)
教派神道は教化を本領に惟神大道を顕揚する宗教」(『中外日報』 昭和十二年六月二十日)
神道本局は一ト先づ清掃の為解體せよ」(『中外日報』 昭和十二年六月二十二日)
「神社界の統制強化の為 國體教派神道の解消合流は眞ツ平」(『中外日報』 昭和十二年六月二十三日)
赤堀又二郎「神道本局」(『中外日報』 昭和十二年六月二十四日、二十五日、二十六日)
「英文”教派神道”の新編纂 果してできるか」(『中外日報』 昭和十二年六月二十五日)
芳村忠明「英文”教派神道”中の概論に付て」(『中外日報』 昭和十二年六月二十六日、二十七日、二十九日)
岡重英「一應神道本局の為に辯ず―その成立と沿革とに就いて―」(『中外日報』 昭和十二年六月二十六日、二十七日)
神道界の自決」(『中外日報』 昭和十二年六月二十九日)
黒住教の教義に對し國體観から疑惑起る」(『中外日報』 昭和十二年七月四日)
教派神道奉祀の天照大神は神宮とは全然別個のもの」(『中外日報』 昭和十二年七月七日)
「五教派神道聯合會 緊急幹部会を開催」(『中外日報』 昭和十二年七月十六日)
「挙國、國民の熱情は燃る 眞に非常時を自覚しどつしりと本分を盡せ」(『中外日報』 昭和十二年七月十七日)
「高山翁の講究所辞任と共に稲荷講の独立予想 近く宗派神道十四派となるか」(『中外日報』 昭和十二年七月二十七日)
教派神道の團結工作」(『中外日報』 昭和十二年八月四日)
「信念に生きる千家尊建」(『中外日報』 昭和十二年八月五日)
教派神道の團結成るか 時局に鑑み松尾局長乗出す」(『中外日報』 昭和十二年九月一日)
神社神道教派神道の母體 神崎一作氏」(『中外日報』 昭和十二年九月五日)
教派神道の團結問題 文部省に代表者會議開く」(『中外日報』 昭和十二年九月八日)
「文部省宗教局員立會で教派神道大同團結成る」(『中外日報』 昭和十二年九月十一日)
教派神道十三派管長揃つて天機奉伺」(『中外日報』 昭和十二年十月六日)
教派神道管長會議」(『中外日報』 昭和十二年十月九日)
教派神道の各派管長打揃つて天機奉伺」(『中外日報』 昭和十二年十月十六日)
教派神道聯合會今後の活動方針協議」(『中外日報』 昭和十二年十一月十八日)
神道各派管長打揃つて伊勢神宮に参拝」(『中外日報』 昭和十二年十二月二日)

 

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芳村忠明

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神崎一作