【関西】定例研究会報告 渥美勝ーその人と思想ー

令和3年6月19日に開催された民族文化研究会関西地区第35回定例研究会における報告「渥美勝ーその人と思想ー」の要旨を掲載します。

はしがき

 現代が思想的混迷の時代であることに異論を唱える人間はまずいないと思われる。前時代に存在していた常識や歴史観、あるいは型といったようなものが急速に崩壊しつつある現在、単なる回顧としてではなく、未来を創造していく際の道標の一つとして、歴史が見直されるのは自然の成り行きであろう。
 そして日本の歴史を通覧した際、崩壊と混迷の時代として、戦前のいわゆる昭和維新・国家革新運動が盛んに行われた昭和前期が見直されるのもこれまた自然の流れだと言える。それはいわゆる「右翼」と言われる諸勢力が最も盛んに活動した時代でもある。その思想史の全貌は広大且つ複雑であり、全体像を描くことは極めて困難である。
 本論では、その複雑極まりない思想史を描き出すことを試みようとした思想史家、橋川文三の未完の著作である『昭和維新試論』にて取り上げられた一人の人間、渥美勝について述べていくこととしたい。渥美は目立った著作を残したわけではなく、何かしらの直接的行動を起こしたわけでもない。橋川が取り上げるまでほとんど忘れられた存在であった。さらには橋川が取り上げた以外、学術的な場で取り上げられることも無く、言及されることが依然少ない人物である。
 しかし橋川は『昭和維新試論』では実に三章にもわたって渥美に対して筆を割いている。さらに言えば分量だけではなく、ちょっと異常な熱意をもって渥美を分析しているのである。例えば渥美について「この人物の数奇というか、狂愚というか、ある悲痛味をおびた人間性は、私などの心にも染みとおってくるところがある」と述べている箇所があるが、単なる学術的興味の対象以上の思い入れを感じさせるところがある。橋川だけではない、同時代の右翼人も渥美に敬意を抱き、頭山満は「桃太郎の渥美勝―あれはほんものだよ」と評したという。現在でも有志によって墓前祭が定期的に行われており、渥美に惹かれる人間は後を絶たないのである。
 橋川は日露戦争以後の日本人の目標喪失と前近代までの歴史との切断、そこから生まれ来る近代人特有の人生に対する煩悶と不安をいわゆる「昭和維新」運動を生み出したものであるとし、その原点に存在する者として渥美を位置付けている。橋川の分析が正しいならば、渥美はまさに普遍的な現代人の劇画のような存在ではないのか。とするならば、渥美を分析することは急速にアノミー化しつつある現代世界を生きる我々をも分析することにつながるのではないか。本論はそのような問題意識の下、書かれるものである。

第一節 渥美勝の経歴

 まずは、『昭和維新試論』や生前渥美の友人であった田尻隼人の手による『渥美勝伝』を参考に、簡単に渥美の生涯を記述してみたい。
 明治十年(一八七七)滋賀県彦根町にて、彦根藩士渥美平八郎の息子として生まれる。渥美家は代々武術師範を務めた家柄である。母は井伊家の分家の木俣家出身の女性であった。父とは早くに死別し、母の手によって育てられる。この母は渥美にとって巨大な存在であり、その人格形成に多大な影響を及ぼしていると考えられる。
 秀才であったらしく、第一高等学校卒業後、京都帝国大学法科に入学。しかし欧米模倣の学問に疑問を抱き、悩む。失恋もこの時に経験している。そして渥美にとって最大の衝撃は最愛の母の死であった。渥美はその際、母の遺骨の咽喉仏を飲み込んだという。
 煩悶の中、自宅にて隣の幼稚園から「桃太郎」の唱歌が聞こえてきた。それは以下のようなものであった。
 
 桃から生まれた桃太郎
 氣はやさしくて力持ち
 鬼が島をば討たんとて
 勇んで家をでかけたり
 日本一の吉備團子
 情けにつきくる犬と猿
 雉ももらうてお供する
 急げやものどもおくるなよ

 これをきっかけに「桃太郎主義」に目覚め、大学を中退。古事記をはじめとする日本古典の研究に没頭。中学校教師を半年ほど行うが退職。その後は鉄工所の工員となる。その後も人力車夫や花屋、活動写真館の仲買、下足番など様々な職を転々とする。大川周明とは、車夫をしている際に偶然出会い、付き合いが始まったという。
 その後譲上京し、神田須田町広瀬武夫中佐像の前で「桃太郎」「神政維新」と書かれた旗を翻し、街頭演説を始める。猶存社老荘会にも顔を出し、北一輝には「神さま」と呼ばれていたらしい。
 大正十九年(一九二一)には宮崎・大分にて禊の修練に努める。関東大震災を機に帰京し、活動を再開。その後は赤尾敏が中心となった「建国会」の運動に携わるなどした。昭和三年(一九二八)知人宅にて客死。享年五一歳。葬儀には大勢の人間がかけつけ、渥美の死を悼んだという。
 見てわかる通り、渥美は人生を一介の素浪人として過ごした。住居も無く、結婚もしていない。それでも生活が成り立っていたのは彼の人柄にほれ込んだ支援者の存在があったからである。葬儀に参列したものは千名にも及んだというから、よほどその人柄が畏敬されていたのであろう。
 では渥美はどのような思想でもって「神政維新」を唱えたのであろうか。時節ではそれを見ていきたい。

第二節 渥美勝の信仰と思想

 渥美の遺稿は『日本の宣言』という書物に収められている。本書は戦前何度か出版元を変え、度々世に出された。戦後長らく絶版だったが、平成十一年(一九九九)に再版されている。本書は「日本の宣言」「高天原を地上に」「日本民族本来の使命」「古事記とバイブルの比較―外国生命と比較したる日本生命の基調―」などの文章や講演録のほか、随想集や遺詠集なども収録されている。本論では重要と思われる箇所を適宜引用しつつ、橋川の批評も参考にしながら渥美の思想を解読していきたい。
 渥美は古事記に記された記述を元に自身の思想を練り上げていった。例えば以下のような記述から渥美の思想の核が見て取れる。

「原始の日本、それの内容を構成せりし当初の先人等が、人間として生命の目醒めのその暁に、最初に最先に強く且つ深く、その中核よりして動きと要めを取りたる所のものは、「我等この生命で何を為そうか」ということであつた。それは生命の苦観、罪観、弱観、よりして、生命考察の主力点を其処に置き或は置かざるかを得ざりし生命者が、不安の境を安全地に回復し得むが為めの詮議として「生命とはそも本来如何なるものなるか」或は「宥され又は免るゝには如何にすれば宜しきか」とのやうの題目に沿うての自覚とは、その自覚の採りように於て全く趣を異にした所のものであった。それは存在の怯えからでは無くて、適用の要めよりして呼起されたる純然たる自覚であった。」

 以上は「日本の宣言」中の文章である。橋川はこの文章にて表されている日本人の生命観をルース・ベネディクトの提唱した「罪の文化」「恥の文化」を引用し、「罪の文化」の対極に位置するものとして把握している。その理解が妥当かはともかくとして、渥美はその生命の誕生よりも「誕生した後」にその起点を置いていることが理解できよう。渥美にとって神の子たる日本人の生命はまず「何をなすべきか」さらに言えば「何かをなさねばならない」という宿命を備えているということである。
 次に「高天原を地上に」から引用する。

「在るところの生命が、生命であることの真の意義と価値は、為すことのうえに存ずると云ふ事を直感的に覚認せりし彼等は、「修理固成」を以て宇宙の最中心よりしての、及び宇宙の真作用たる産霊の則に正しく準じたる、生命展伸の大本流に正しく発露せる至真至純の欲求たることを認むることにより、即ち之れを天つ神の命として生命の中核に、至高のコト(言、思想)としてまつり、此のまつりをコト(事、現実)として実現す可くいざなと奮ひ勇みて立ち上る所に、その生命の基調を依立した。」

 橋川はこの文章に対しては「西欧的なひゆを用いるならば、日本人にとって生命の意義は、楽園→追放(堕罪)→審判という過程によって説明されるのではなく、そのありのままの本然に従って、ただ神の指図のままに行動するところに明かにされるということになる。いわば、日本人の歴史は、その神話の教えるように、いまだ「楽園」から追放されることのない原始態の中にあるともいえよう」と読解している。
 この思想(あるいは信仰というべきか)に従って渥美はこの世に高天原を建設せしめようと努力し、人々にも訴えていくのである。渥美の思想は日本神話のような純粋素朴で穢れのない、究極的に清らかな世界の実現を自らの使命としていたのである。

第三節 渥美の煩悶とその最期

 では渥美は当時の社会を揺るがせていた諸問題に対してはどのような反応をしたのであろうか。例えば労働問題に関してはどうか。講演録の「日本民族本来の使命」には次のような一節がある。

「先ごろ「財産奉還論」が主張されたが、日本の生き方は昔からこれだ。行詰つて困つた時は総て天子様に奉還する事だ。最近に於ては徳川幕府が行詰つて大政を奉還した。徳川氏はマツリ(祭)をマツリゴト(政事)にせず、武力によつてやつたので、遂に行詰つて天子様に奉還したのである。」

 美しい渥美の高天原論に依拠したものであるが、反面あまりにも楽観的にすぎるとの見方は免れえないであろう。渥美は古事記や桃太郎の唱歌に見た、美しい理想郷をひたすらに実現せんとした。しかし現実社会の様々な問題や思想の潮流に対する理論はまったくなかったといってもいいであろう。橋川は大正十年前後の社会の大変動を踏まえた上で「ただいえることは、ここでも渥美は、そうした激流の中で一個の有能な旗ふりになるには、己が余りに無力であることを痛切に感じたということであろう。第一次大戦ソビエト革命の影響下に日本に展開した新しい思想と感情の巨大な波を正しく認識することが自分には不可能だという感情ではなかったかということである。(中略)日本神話にもとづく「高天原」の地上建設という信条があまりにも詩的な空想であることを意識したのではないだろうか。」と記している。きつい表現だが、おそらく的を射ているであろう。だからこそ渥美は己を傷つけ、ボロボロになって倒れたのであろう。
 渥美の絶息直前の遺文は、次のようなものである。
 
 而立より知命まで二十年、皇と国とに業火を燃して、自らの存在に何等かの価値ありと思ひつゝ生の歩みを続け来り、どん底を這ひながらに、そは未だ代価にならぬ迄でにして無価値にあらざるなりと、己惚れながらに終に二十年の生を盗み来つた。
 而して此間、一子を生み得ず一食も生み得ず、将た一事をも為し得ざりし自己を省みる時、徹底して、自己の無代価は無価値と別事ならざりしを曉り得たり。
 石の上にも三年とある、二十年石の下に蚯蚓の如く生を盗みし事の申訳なさ。
 一食、一衣、一室を賜ひし故旧友人に、改めて申訳なかりし罪を謝す。
 自然死か不自然死か自ら知らず、唯だ神の召喚の命のまゝに逝くに際し。
 
 橋川は渥美という人間に対して以下のように結んでいる。
 「さきにあげた彼の同窓たちの中にも、日本主義者、国家主義者というべき人々が少なくなかったことはふれておいた。しかし、それらの人々の多くは、いずれも渥美のような生活上の落伍者となることもなく、堂々たる紳士・学者としての国家主義者・日本主義者であった。(中略)彼らもまた多かれ少なかれ二十世紀初頭の日本をまきこんだ帝国主義生活様式と思想の中に、矛盾と煩悶の一時期をくぐったにはちがいない。しかし、彼らがその矛盾をなんらかの形でのりこえていったのに対し、渥美はついに幼児のように同じ煩悶をいだきつづけ、それを解決する能力を身につけなかった。あれほど日本人の本性は、魂の救いにかかわるのではなく、為すべきことがらの追及にあると強調しながら、ついにその部署を求めえないで終ってしまった。残されたものは、ただ幼児のような無垢の魂のむごたらしく傷ついた姿の印象である。それが、あたかもある瞬間の嬰児の悲鳴の記憶のように、その後の人々の心にながくとどまったのであろう。渥美を知る人々の多くが証言しているように、昭和維新の願望をもっともナイーヴに、鮮烈に印象づけた人物が渥美であったとするならば、それは「昭和維新」が、まさに二十世紀初頭、世界的潮流となっていた帝国主義に対する日本人の初心の精神的反応の中にその起源をもっているからであり、そして、渥美のほとんど思想とも行動ともならなかった生き方の中に、人々が自らの維新願望の原型をたえず回顧せしめられたからであろう」
 渥美の生涯は悲痛としか言いようのないものであった。世俗の成功や栄達とは無縁であったばかりでなく、人並みの幸福をも得ることが出来なかった。橋川はだからこそ渥美は人々に死後もなお思慕されたのだという。さらに付け加えれば、あらゆる体系が崩壊し、あるいは無限に増殖して人々に迫りくる現代は渥美が生きた時代以上に「矛盾と煩悶」に充ち溢れていると言える。むしろ今こそ、渥美勝という純粋無比な魂を持っていた人間の存在は我々を強く惹きつけるのではないだろうか。

むすび

 橋川の死により『昭和維新試論』は未完に終わった。昭和維新運動・国家革新運動を歴史に位置付け、その全体像に迫ろうとする試みは果たされなかった。「昭和維新」の原点が渥美ならば、その終着点がきちんと吟味され、意味づけられないことには結局その「原点」の評価も定まらないであろう。
 一般に戦前の昭和維新・国家革新運動は無残な失敗に終わり、忌むべきものとされている。だが果たしてそうであろうか。昭和維新・国家革新運動は、実はその流れは途絶えることなく、戦中・敗戦と続き、戦後において「一億総中流」の日本社会でその一君万民の下の平等の理想は実現したのではないだろうか。以上は私の推論に過ぎず、ここで論証することもできない。ただ一つの例を挙げておきたい。
 戦前の官民挙げての国家総動員体制や農村の地主層解体政策、あるいは満州における経済実験など、それらがどの程度戦後に引き継がれ、復興と経済発展の礎となったのか。私は経済史や政治史には疎く、ここで論証はできないが、かなりの部分が戦後に引き継がれ活用されたのではないかと見ている。そしてその動きの中心にいたのは戦前に革新官僚と呼ばれた人々であった。これらの人々は戦後も政界・官界・実業界でその中心を担ったことを重要視すべきである(なお、橋川は『昭和維新試論』にて地方改良運動に参加した内務官僚の分析に二章ほどページを割いていることも付記しておく)。
 そしてその中心にはおそらく岸信介が存在していたのではないかと思われる。岸は北一輝の思想の影響を多大に受けていることは著名である。そして岸は戦時中においては商工大臣としてまさに計画経済のトップに立ち、戦後の首相在任中は国民皆保険制度・年金制度・最低賃金制度の創設を行った。戦後の自民党国家社会主義的な経済政策(これが一九九十年代以降急速に崩れて行くわけだが)の基礎を作り上げたのは岸である。そしてそれは世界的にも類例を見ない高度経済成長として結実した。戦前の天皇の下に万民が平等に幸福を享受する、という理想は無論完全ではないにせよ、一つの形として戦後日本に誕生したのでないか。
 昭和維新、国家革新運動の原点が渥美勝ならば、その終着点に立っているのは岸信介ではないか。これについてはこれから深く掘り下げていこうと考えている。
 最後に『昭和維新史論』講談社学術文庫版のあとがきにある鶴見俊輔の解説を引用したい。

 「そこには、明治の高等教育制度がなりたって以来正統とされてきた西欧輸入の抽象語による自己救済ではない道が求められている。日本人の今の生活の中に脈うっているこの生活感情から、自分たちの道を見出そうという、思いである。」
「その思想が、高級軍人の「権謀術数、企業家による大陸進出、右翼扇動家による財閥へのおどしと資金まきあげ、刺客による暗殺計画、「スパイ」、「国賊」などの呼名をつけての国家批判封じ、暴力による言論の圧迫と結びついてゆくはてに、昭和維新の思想は幾重もの暗い意味をになうものとなった。しかし、そのなりたちには、無垢な直感があった。日本人の今の生活感情を未来への手がかりとしようという思いには、日中戦争大東亜戦争がこの国内外の人びとにもたらした悲惨によって、ぬぐいさることのできない価値がのこされている。敗戦、占領、高度成長をへた今日にとっても、その意味はのこる。むしろ、その直感が、さまざまのにない手によって汚され、多くの悲惨をもたらした事実をまっすぐに見て、それらの悲惨とともに直感の意味を考えることがのぞましい。」
 「それぞれのくにの民衆が、それぞれの道を歩いてきた。その伝統を民魂と考えるならば、日本に独自の民魂があり、それを支えとして未来を考えることは、他のくにぐにに民魂があることを否定することにはならない。そう考える時、それは、日本国民であることをやめないままに、ちがうくにぐにの民魂と対話する道をもさがすことである」

 現在、グローバリズムというあらゆる生活を漂白し、すべての存在を記号に置き換え、かけがえのない人間一人一人の人生を極限まで空虚にさせる恐るべき怪物が世界を覆いつくそうとしている。そしてあらゆる思想が、あらゆる哲学が、あらゆる人生が徹底的に相対化され、無数に際限なく現前を通り過ぎていく。しかも我々は一瞬たりとも立ち止まることを許されない。このすさまじい「今」をまっすぐに見据え、それに対峙していくにはどうすればよいのか。それは自らが産まれた「くに」で受け継がれてきた、他には無い独自のモノを発見し、護り、育み、繋いでいく(それは当然、偏狭なイデオロギーに留まるものではない)という営み。その営みの中から立ち現れる存在に依拠しつつ、新たな時代を創り出していく。この道しかないように思われるのである。
 我々日本人はかつて「桃太郎」たらんとし、高天原を地上に現前せしめようとした渥美勝という存在を忘れてはいけない。そして現代でも、いや現代だからこそ、この日本の、世界のどこかに渥美勝は存在しているのである。その無垢なる魂と強烈な志を身に蔵し、必死に生き抜いている人間を決して見逃さない。そこで初めて、我々は日本を、世界を「修理固成」すことが可能になるのである。

参考文献

渥美勝『日本の宣言』「日本の宣言」刊行事務局 平成十一年十月
田尻隼人『渥美勝伝』大空社 平成九年五月
橋川文三昭和維新試論』講談社 平成二十五年九月

 

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渥美勝『日本の宣言』