定例研究会報告 文明開化史観の再考――苅部直の維新史観をもとに

 10月15日の民族文化研究会定例会における報告「文明開化史観の再考――苅部直の維新史観をもとに」の要旨を掲載します。

 

 明治維新に代表される、日本が近代国家へと変貌してゆく歴史的ダイナミズムを、われわれは如何に理解すればよいのか。この巨大な設問に取り組むとき、歴史の実像へと接近するのを阻む、ある固定観念による思考の拘束が存在することを、われわれは思い知ることとなる。それは、明治維新を嚆矢とする一連の歴史的ダイナミズムを、永きに渡り表現してきた「文明開化」や「和魂洋才」といった常套句によって構成されている、通俗的な維新史観である。日本の近代化は、明治維新によって一挙に成し遂げられ(「文明開化」)、日本の精神を維持しつつ西欧の技術を摂取した(「和魂洋才」)。こうした紋切り型の維新史観は、未だにわれわれの思考に伏在し、日本の近代化の歴史的認識を規定している。だが、こうした通俗的な維新史観――「文明開化史観」は、はたして妥当なのだろうか。

 日本の近代化は、明治維新によって一挙に成し遂げられたとする「文明開化」は、輝かしい「近代」として明治より以降を評価しつつ、対照的に暗い「前近代」として江戸より以前を軽視する。そして、日本の近代化は、日本の精神を維持しつつ西欧の技術を摂取したとする「和魂洋才」は、日本の近代化を精神の転換を伴わない、技術の採用に限定された近代化だったと矮小化する。このように、「文明開化」と「和魂洋才」は、いずれも日本の近代化の歴史的認識にあたって、偏向・歪曲・矮小化といった愚を犯す危険を孕んでいる。こうした「文明開化史観」を再考し、これを克復することによって、日本の近代化の歴史的認識を正確に行う必要があるのだ。ここで、注目されるのが、拙稿で検討してゆく、苅部直『「維新革命」への道――「文明」を求めた十九世紀日本』(新潮社、平成29年)である。苅部は本書で、こうした「文明開化史観」を意識的に破砕し、近代日本の歴史的経験を直視しようと試みている。本稿では、こうした苅部による企図を素描し、そののち苅部のこうした企図に込められた真意を省察したい。

 

「断絶」から「連続」へ

 まず、苅部は、本書が「十九世紀日本」の通史であると定義する。ここで、十九世紀日本という本書の対象とする時代区分を括弧でくくって強調したのは、この「十九世紀日本」という問題設定そのものが、本書の最大の眼目だからだ。前述したように、われわれの歴史認識は「文明開化史観」によって、十九世紀日本という時空を、明治維新を境界として、輝かしい「近代」(明治より以降)と、暗い「前近代」(江戸より以前)という、対照的な時空の対抗として解釈しがちである。本書は、こうした歴史認識を、江戸後期と明治時代を架橋することによって、克復しようと試みるわけだ。すなわち、明治維新という劇的な歴史的事象に気を取られ、これまで見落としてきた江戸時代における社会構造や精神構造の変容に、光を当ててゆくのである。換言すれば、明治維新によって一挙に近代化が成し遂げられたとする「文明開化史観」に対し、江戸時代から日本は独自の近代化を経験してきたとする立場を対置するわけだ。このように、本書は「明治維新」という「断絶」ではなく、「十九世紀日本」という「連続」に、日本の近代化の実像を求める。

 

内在的近代

 こうした本書における「十九世紀日本」という「連続」に、日本の近代化の実像を求める論理は、まず「明治維新」という「断絶」に注目し、明治維新によって一挙に近代化が成し遂げられたとする「文明開化史観」の、批判的な吟味から開始される。苅部は、こうした明治維新によって一挙に近代化が成し遂げられたとする「文明開化史観」には、「和魂洋才」と「民衆不在」という二つの罠が伏在していると指摘している。「文明開化史観」では、西欧の技術(洋才)を摂取することによって、日本の精神(和魂)を維持しつつも、急速な近代化が可能になったと説明してきた。しかし、和魂において、洋才への理解や共感がなければ、洋才の受容があれだけ急速だったはずがない。つまり、日本の近代化は、「和魂洋才」が説明している、精神の転換を伴わない、技術の採用に限定された近代化ではなく、技術の採用に限定されない、精神の転換が伴った近代化だったのである。

 また、「文明開化史観」では、技術の摂取などが、維新政府を主体として展開された一方で、大部分の民衆は、こうした時代的変化から取り残されていたと断定した。戦後における遠山茂樹らの明治維新史研究において、こうした「民衆不在」という視点は根強いが、苅部は当時の民衆が、流入してきた汽車や電灯といった新技術を歓迎し、主体的に利用していたと指摘する。つまり、日本の近代化の過程は、「民衆不在」が説明している、民衆を置き去りに展開された近代化ではなく、むしろ「民衆主体」で展開された近代化だった。このように、苅部は日本の近代化の過程を、民衆を主体として展開し、精神的な次元に波及する「内在的近代」として理解している。

 

ロング・リヴォリューション

 こうして、苅部は日本の近代化の過程の、おおまかな性格を明らかにした。それは、民衆を主体として展開し、精神的な次元に波及する「内在的近代」なのである。では、こうした「内在的近代」は、具体的には如何なる歴史過程として展開されるのか。続いて生じるこの設問に取り組むため、苅部は明治維新に舞い戻る。ここで、明治維新の検討にあたって、中心的な素材となるのが、徳富蘇峰山路愛山らと自由民権運動を戦い、他方で文筆を振るった竹越與三郎の維新史観である。竹越の維新史観は、彼の『新日本史』という著作で展開されているが、ここで竹越は明治維新を「革命」だと断言する。竹越は、明治維新が、幕府から朝廷への「政権交代」だけに留まらず、身分制解体(版籍奉還・徴兵制施行による武士階級撤廃)や中央集権化(廃藩置県による中央集権体制)にまで突き進んだ歴史的事実を重視し、こうした歴史の転換を「社会革命」だと評価した。こうした、明治維新を単なる「政権交代」ではない、より重大な社会構造や精神構造の変容を含んだ「社会革命」として理解する「維新革命」としての維新史観は、福沢諭吉にも見られる。

 こうした「維新革命」としての維新史観に立脚しつつ、竹越は当時の維新史観を批判してゆく。竹越は、当時の維新史観を、明治維新が黒船来航をはじめとする諸外国からの外圧の結果だと理解する「外交の一挙」と、明治維新尊王攘夷の帰結だと解釈する「勤王論」の二つに大別し、「外交の一挙」では非西欧諸国で日本だけが近代化した歴史的展開を解釈できず、「勤王論」では明治維新が幕府から朝廷への政権交代だけでなく身分制解体や中央集権化にまで波及した経緯を説明できないと指摘する。ここで、竹越は、明治維新を長期間にわたる社会構造や精神構造の変容の帰結として解釈する、新たな維新史観を提示してみせた。これを苅部も継受し、明治維新を長期間にわたる社会構造や精神構造の変容による「ロング・リヴォリューション」として解釈する。

 

商業と理性

 このような、大規模な「社会革命」を引き起こす、長期間にわたる社会構造や精神構造の変容こそ、苅部が「内在的近代」として把握した、日本の近代化の過程の、具体的な歴史相であるわけだ。ここで、明治維新が準備された時期である、江戸時代の社会構造や精神構造に注目し、そこに独自の近代化の経験を発見しなければならないと、明らかになったわけである。ここで、苅部は、江戸時代の社会構造や精神構造の変容を理解するにあたって、鍵概念として「商業」と「理性」に注目した。まず、苅部は、朝鮮通信使が目撃した、大坂の市街の絢爛な姿から稿を起こす。豪華な商家の甍がどこまでも続き、往来には美麗な装束の人々が闊歩している。そして、こうした大坂に花開いた、商人たちの自由な学問探究の場である、私塾「懐徳堂」に焦点が当てられる。経済発展に沸く大都市と、そこで生まれた学知は、近代の縮図そのものなのだ。

 自律した商人が、競争や分業を通じて結び付く市場は、確固たる主体が、その自由な相互行為を通じて形成する市民社会の原基である。そして、こうした市民社会が成熟するのと並行して、世俗的な風潮が主流となり、形而上学批判を契機とする理性主義が台頭する。こうして、「商業」と「理性」こそ、近代を織りなす、横糸と縦糸となるわけだ。「大坂」と「懐徳堂」という近世日本における「商業」と「理性」の象徴を劈頭として、苅部は近世日本の思想史における「商業」と「理性」を辿っていく。経済市場の自律性を看破し、自由市場を肯定した山片蟠桃を筆頭に、実践的な経世論を展開し、経営コンサルタントの先駆とも評される海保青陵や、精緻なテクストクリティークをもとに、徹底した朱子学批判を展開した荻生徂徠、そして徂徠の古文辞学から影響を受けつつ、その文献学的方法を仏教や神道にも適用し、遠大な形而上学批判を企図した富永仲基などが、次々と活写される。こうして、明治維新という「維新革命」として結実する、江戸時代の社会構造や精神構造の変容が、独自の近代化の経験として把握されたわけだ。

 

 これまで、近代日本の歴史的経験を直視しようと試みる、苅部による企図を素描した。続いて、苅部のこうした企図に込められた真意を省察する。ある著作の真意は、その論敵を吟味すると、おのずと分かるものである。では、本書の真意を探るため、その論敵を吟味するとして、本書の論敵は何なのか。それは、日本の近代化の過程を理解するにあたっての、ある「倒錯」だと思われる。これまで、日本の近代化の過程は、つねに表層性・外在性によって規定されてきた。拙稿の冒頭でも言及しているが、日本の近代化の過程は、西欧の技術を摂取することにより、一挙に成し遂げられたと解釈されてきた経緯がある。こうした「文明開化」・「和魂洋才」によって規定された「文明開化史観」は、近代化が権力によって一挙に展開されたトップダウン方式だったと解釈する点で、民間に定着しなかった表層的近代化として、また近代化が西欧の技術の摂取だったと理解する点で、主体的ではない外在的近代化として、それぞれ日本の近代化の過程を描写していた。そして、こうした日本の近代化の過程の表層性・外在性という「通説」が、日本の近代化の過程を理解するにあたっての、都合の良い「道具」として利用されてきた現実がある。

 具体的に述べると、こうした日本の近代化の過程の表層性・外在性という「通説」は、近代を批判する右派にとっては、近代という病理に汚染されていない日本の純潔性として理解され、近代を擁護する左派にとっては、近代をいまだに受肉できていない日本の後進性として理解され、それぞれ左右両陣営の言説の内部で延命してきた。日本の近代化の過程の表層性・外在性という「通説」が、左右両陣営において、自陣営の論理を補完するため、我田引水的に利用される、という倒錯した状態なのである。だが、無論のこと、こうした「倒錯」は、日本独自の近代化の経験を無視している。こうした「文明開化史観」の「倒錯」を克復することで、日本独自の近代化の経験を直視しなければならない。こうした問題意識に、本書は応答しようとしているのではないか。左右両陣営が依存する「文明開化史観」を意識的に破砕しようとする叙述は、こうした「倒錯」を克復し、日本独自の近代化の経験を直視しようとする姿勢なのである。著者が「十九世紀日本」として提示した近代日本の歴史的経験を、われわれは直視しなければならないのだ。

 

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竹越與三郎