【関西】定例研究会報告 「西郷隆盛」はいかに受け止められたか――「思想家」葦津珍彦と「思想史家」先崎彰容の西郷像の比較

 令和元年9月22日に開催された民族文化研究会関西地区第17回定例研究会における報告「『西郷隆盛』はいかに受け止められたか――『思想家』葦津珍彦と『思想史家』先崎彰容の西郷像の比較」の概要を掲載します。

はしがき

 昨今、葦津珍彦の研究が急速に進んでいる。いわゆる右翼・民族派思想家としてだけではなく、戦後日本の思想史を考える上でその存在が重要であるとの認識がアカデミズムの世界に広まっているからであろう。中でも思想史家で、現在日本大学教授を勤める先崎彰容は著作で頻繁に葦津に言及している。顕著な例として先崎は産経新聞にて2014年から2016年にかけて「『戦後日本』を診る」「『近代日本』を診る」という記事を連載。それは福沢諭吉中江兆民丸山真男江藤淳といった23人の思想家を分析、解読し、それぞれ3冊ずつのブックガイドも付記するという内容なのだが、この23人の中に葦津を選びいれているのである。

 先崎は葦津を右翼・左翼が発生する時代に鋭いまなざしを向けた点を評価する。先崎は葦津の著作中でも『武士道―戦闘者の精神』所収の論文「明治思想史における右翼と左翼の源流」に特に注目している。この論文の要旨は、頭山満中江兆民は共に国権論者であり、民権論者であった。「国権伸張」と「民権擁護」は頭山・中江の時代には同一軌条のものであったが、それぞれの後継者である内田良平幸徳秋水の時代になり、初めて日露開戦の是非など、特に外交面において左右の鋭い対決が生じた、というものである。先崎は葦津が内田を「日本を余りにも信用しすぎた」面をその思想的欠点としてあげている事実を取り上げ、冷静な批評をしている点を評価しつつも、それでもなお、葦津が右翼になり、頭山を尊敬した理由を「右翼の心情を流れる儒教道徳心を好んだためである」としている。

 先崎は葦津を「明治の初めにさかのぼり、私たちに思想の源流を見せてくれる思想家なのである」と非常に高い評価を下している。実際に、先崎は23人の思想家の中に頭山満をも選びいれているが、その論はかなり葦津の頭山論に影響を受けているように見受けられる。おそらく先崎は葦津にひとつの理想的な右翼人の姿を見ているのであろう。

 さて、その葦津を紹介するブックガイドであるが、前述の『武士道―戦闘者の精神』のほかに『大アジア主義頭山満』。そして西郷隆盛の評伝である『永遠の維新者』を上げている。先崎は『永遠の維新者』を「右派の西郷隆盛の最も典型かつ最良の評伝」であるとしつつ、「拙著『未完の西郷隆盛』と比較読みしてほしい」と記している。先崎は近代日本思想史家として多くの人物を研究しているが、中でも西郷に非常な関心を持っている。その一つの研究成果として出されたのが『未完の西郷隆盛』であった。この書は膨大な参考文献が末尾に上げられているが、先述した葦津の著作三冊も挙げられている。この事実から見ても、先崎は葦津を意識しながら西郷を叙述したことは察せられる。

 前置きが長くなったが、本稿では葦津の『永遠の維新者』と先崎の『未完の西郷隆盛』を比較検討し、その共通点と差異点をそれぞれ見ていきたい。西郷の思想像は余りに巨大すぎ、論じた書籍も膨大な数に上るので、西郷を直接論ずることは余りにも著者の手に余る。原典としては西郷の言行をまとめた著名な『西郷南洲遺訓』にしぼり、むしろ「大きな思想的存在(この場合は西郷隆盛)」に接した人間がどのような反応を示すのか、という点に焦点を当てていきたい。それは「思想家・運動家」が持つ感性と「学者・批評家」が持つ感性の共通点と相違点を論じていくということになるであろう。無論、前者は葦津であり、後者は先崎である。

 

第一節 『永遠の維新者』の西郷像

 葦津は本書の冒頭にて「私は、正直に告白すれば、この「永遠の維新者」という一文を草しながら、生きて西郷ほどの人物を師として、その師とともに、決起の機に会して力戦奮闘、その生涯を燃やしつくした戦没者にたいして、羨望の情禁じがたいものがある」としるしている。ちょっと異様な言葉であるが、おそらく葦津の本音であろう。葦津はいわゆる進歩派言論人を沈黙させるほどの論理を有していたが、その本質は文人ではなく、武人であった。『昭和史を生きて』等の自叙伝では戦前に2・26事件に参加を打診されたことや、戦後にも何度か革命の夢想を抱き、本気で動こうとしたことがあったとのことである。まさに葦津は思想家であり、そしてその思想を行動に移さんとする維新者であらんとしていたのであろう。

 葦津は西郷の思想の論理を大きく征韓論西南の役の二つにしぼって考察している。まず葦津は西郷が朝鮮半島行きを志望した本心を、戦わずしてその反日姿勢を改めさせ、もしその志ならず殺されたときは、そのような暗愚な政権は、東洋文明の王道から見ても滅ぼすべきであり、その時に初めて板垣退助の主張するいわゆる「征韓」の儀を起こせばいいと考えていたのではないか、と推測している。そして葦津はこの征韓論を境にして日本の政治勢力は西洋近代主義を志向する大久保利通の派とあくまで東洋文明の王道を進むべきであるとする西郷派のふたつに分かたれたとする。そしてその西郷の潮流は玄洋社を始めとする民間の側に流れていったとする史観を提示するのである。

 葦津は西南の役を、そのような様々な在野の勢力が西郷に期待をかけ、合流していく過程で発生したものであると結論付けている。民権か国権か、近代か反近代か、多様な思想勢力が存ずるもそれらが反目せずに西郷の下に結集したのは、当時の日本人が「尊皇」という一点のみは共有していたこと、そしてそれらあらゆる勢力が頼みにした西郷と言う「人物」の大きさであると葦津は言うのである。

 また西郷が決起する際、明確な反政府の文章を提示せず、ただ「今般政府へ尋問の筋これあり」とある意味で曖昧ともとれる表現をしたことは当時から福沢諭吉徳富蘇峰等に批判されたものらしい(この表現は西郷が政府筋による暗殺計画の標的になっていたことに発している)。葦津はそれらの文章を吟味しつつも、あくまで反論する。まず一つ目は、西郷はあくまで政府を刑法犯罪者であるとし、それらに武力抵抗するのは義である(つまり政策論争の結果武力を発動するわけではない)と考えたのだとする。そしてもう一つは、もし政府の政策を批難し、これを革めるという大義名分で挙兵したならば、維新政府、そして明治天皇に累が及びかねないと考えた。だからこそ「政府への尋問」という表現にとどめたと言うのである。葦津は他の著書でも、日本と中国の革命思想を比較し、いわゆる放伐論は日本においては独自の発展を遂げ、日本での革命はあくまで天皇は悪政を行う政治的主体者とは見ず、其の存在を認めた上で、下部の実際上の政治機構や政治家(例えば幕府や将軍)を討伐するのだという理論を繰り返し述べている。葦津の思想上、絶対に譲れないコアの部分なのであろう。

 そして文章の末尾では西郷らの死を描いた上で、平家一門の入水や楠木正成湊川での戦死と比較し、このように述べる。

 

  西郷の死は、旧時代の最後なのではない。中道の俗流コースに決して定着することなく、永遠の維新を目指して闘う戦士の心中に猛進の精神をふるい起こさせる英雄詩である。永遠の維新には敗北もなければ挫折も無い。

 

 葦津は、若年期にロシア革命に接したこともあり、世界の革命史に通じていた。革命の帰結として、情熱に溢れた革命家が世俗に塗れ、堕落していく歴史をよく知っていたであろう。だからこそ、「永遠の維新」に身を捧げた西郷に無限の尊敬と愛情とを抱き、自身もそうなるべく努力したのであろう。

 

第二節 『未完の西郷隆盛』の西郷像

 一方で先崎は思想史家らしく、西郷そのものの事跡をたどるのではなく、福沢諭吉中江兆民頭山満、そして戦後では橋川文三江藤淳らが書き残した西郷論を参照し、西郷の像がどのように形成されてきたかを明らかにしようと試みている。先崎は西郷が政治家としては近代的・先進的な施策を行いつつ、一方で西南戦争に見られるような「反近代」の面にも注目する。そして「人々は西郷の中にそれぞれ思い描く近代と反近代を夢想していた」と記す。其の上で西郷と言う存在をたどることによって日本の「近代」的なるものと「反近代」なるものの相克の思想史を描き出そうとしているのである。 

 まず先崎は福沢に注目する。福沢の西郷を評した有名な『丁丑公論』中の「文明の利器」の力で西郷軍が敗北したとされる一節に注目し、西南戦争を「情報革命」によるマスメディアの急速な発達と混乱による時代の象徴であると捉えるのである。

 左派の元祖とも目される中江兆民には洋学知識よりもむしろその漢学の素養に着目し、兆民があくまで儒教的倫理を重視していた事実を強調する。其の上で、兆民は既に急激な発達を始めていた日本の資本主義に危機感を感じ、儒教的な徳目の重要性を説いた思想家であると位置づけ、兆民の西郷思慕の思想的淵源をそこに求めている。

 一方で、右派の元祖と目されている頭山満の西郷観を政府の「有司専制」に対する抵抗の象徴として西郷を祭り上げたとする。一方、頭山の下からは。来島恒喜のようなテロリストも生み出されたことも指摘し、危険性を喚起している。

 戦後の西郷論では、橋川文三江藤淳のそれに着目する。橋川は南東に島流しにされた際の西郷の行動に着目。そこから従来の天皇制から外れた新たな西郷像を創造しようとした、と結論している。江藤は戦後、アメリカに飲み込まれていく日本と明治日本を重ね合わせ、西郷と「近代」を新たに問い直そうとした、と評する。このように西郷の死後、西郷と言う存在がいかに受け止められ、時代によって様々な「西郷隆盛」が創造されていく様を思想史のうえに叙述しようと試みているのである。

 では、先崎の西郷像とはどのようなものなのか。先崎は言う「政治家としてみる限り、西郷隆盛という存在は、マルクス主義アナーキズムさらには近代主義国粋主義など、政治的イデオロギーの一つにすぎなくなるだろう。だが、マルクス主義のように人間を階級への所属意識で説明したとしても、あるいはアナーキズムのように人間を政治的拘束から自由であると主張しても、目の前で懸命に生き、死に、喜怒哀楽にむせぶ「人間」を丸ごととらえることはできない」そして続けてこのように言う。

 

 私たちが西郷に追い求めてきたのは「政治家・西郷」ではないのではないか。むしろ私たちは、西郷に日本人の死生観を丸ごと託し、あるいは問い質してきたのではなかったか

 

 先崎は西郷の本質をその死生観に求めた。先崎は著書の一つ『ナショナリズム復権』にて近代以降の思想史を再点検しつつ、結びにて「死者たちの声に耳をかたむけようではないか。戦後置き忘れたままのことばを、取りに帰ろうではないか」と「死者」の存在を下敷にした新しいナショナリズムを模索しようと提案している。先崎は東日本大震災にて実際に被災し仮設住宅に入っており、そこで日本に突如現れた「大量の死者」に初めて思いをはせたと言う。そして『維新と敗戦』の書籍化に際して追加された文章中に、自身の幼少期の祖母との思い出、その今は亡き祖母との対話を詳細に記している。先崎は言う「別れの日の夕暮れ、坂道の踏切から手を降る祖母の姿にしか、私は祖国を見出しえないのだ」と。

 「死者」のまなざしを前提とした新たな(もしくは伝統的な)日本のナショナリズムの創造が先崎の「思想史家」としての仕事なのであろう。

 

むすび

 葦津も先崎も、西郷の本質をその生命のあり方(いかに生き、そして死んだか)としているのは共通している。葦津は戦中、東条内閣を攻撃し、政府の苛烈な取り締まりに会うなど、まさに「思想家」として修羅場を潜り抜けた人物であった。また先崎も東日本大震災での被災経験による「死者」との遭遇により、「死と生の思想史学」の叙述とそれを前提としたナショナリズムの創造を使命としている。両者に共通するのはいかに「死者」と対峙するかという姿勢そのものである。

 では相違点は何か。先崎は著作の中でしきりに「処方箋」なる言葉を使っている。「この人物の思想は現代の処方箋になりえる」といった具合である。現実、そして歴史と常に苛烈な格闘を続けねばならない思想史家の言葉としては、少し軽い感がある。いつの時代も劇的に世の中を改善する処方箋など存在しない。地道に歩むしか道は無いのである。これは先崎の問題ではなく、やはり現場の実行者の立場からは少し遠いところに居る学者ならではの言葉使いである、と見るのは厳しすぎるであろうか。「維新者」たらんとし、常に思想戦の最前線にいた葦津との違いはこの辺りにあるように思われてならないのである。

 

原典 

山田済斎編集『西郷南洲遺訓―附・手抄言志録及遺文』岩波書店 1991年1月

 

参考文献

葦津珍彦『永遠の維新者』葦津事務所 2005年4月

葦津珍彦『昭和史を生きてー神国の民の心』葦津事務所 2007年1月

先崎彰容『未完の西郷隆盛―日本人はなぜ論じ続けるのか』新潮社 2017年12月

先崎彰容『維新と敗戦―学びなおし近代日本思想史』晶文社 2018年8月

先崎彰容『ナショナリズム復権筑摩書房 2013年6月

 

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葦津珍彦『永遠の維新者』