一 乃木神社参拝騒動とその余波
立憲民主党代表である泉健太が元旦に乃木神社を参拝し、それをSNS上で報告したところ、「軍国主義の象徴である乃木希典を祭祀する神社を参拝するとは、戦前への反省が不足しているのではないか」といった類いの批判が続出した。
そして、この事態を受け、ABEMA(サイバーエージェントが運営するインターネットTVプラットフォーム)が、一ノ瀬俊也(埼玉大学教授、日本近代史専攻)などをパネリストに招き、当該騒動を取り扱う番組を放映した。「【乃木神社】初詣ツイートは軍国主義を賛美? 立憲代表なぜ批判?」(令和5年1月6日に放送)[1]である。
正直なところ、この騒動にせよ、この騒動を取り扱ったABEMAの番組にせよ、とてつもなく下らないものである。だが、この騒動には、いわゆる歴史認識について考えるにあたって、留意しなくてはならない点が数多く含まれている。
たかだか、近所の神社に参拝した程度で、「軍国主義者」のレッテルを貼られ、一政治家が袋叩きに遭い、さらに批判された政治家が、こうした状況に対し、あたふたするほかなかなく、さらに左派的な歴史家が登場してきて、決まりきった常套句で批判を行い、不格好な終焉を迎えつつある今回の騒動は、いかに現代日本の歴史認識がいびつで、特定のイデオロギーに歪曲されているかを、如実に示している。
こうした騒動を俎上に載せることで、我々は現代日本における歴史認識につきまとう、様々な論点に対する明瞭な認識を獲得できるのではないだろうか。こうした意図から、この小論では今回の乃木神社参拝騒動を論じたいが、とりわけ先に触れたABEMAの番組を主たる素材とする。ここで、おおむね今回の騒動をめぐる論点が網羅的に提示されているように思うからである。
二 一ノ瀬俊也の乃木神社参拝批判
このように、この小論では、ABEMAの番組を中心として、今回の乃木神社参拝騒動を概観していくわけだが、複数いるパネリストの中で、とりわけ一ノ瀬俊也に着目したいと思う。この番組のパネリストの中で、一ノ瀬は唯一の専門家で、ここでの議論を牽引していたからである。また、一ノ瀬の言説は、今回の乃木神社参拝を批判する立場の、ある種の典型を示していることも、一ノ瀬を中心的に取り扱う理由である。
すなわち、先に触れた通り、本稿がとりわけ関心を示す、単なる一政治家の神社参拝にヒステリックに反応する、戦後日本の歴史認識のゆがみを、一ノ瀬は体現しているのであって、本稿の問題意識から言って、最も注目に値するからである。それでは、一ノ瀬の乃木神社参拝批判を中心的な素材として、今回の乃木神社参拝騒動を批判的に見ていきたい。なお、以下では、ABEMAの番組における、一ノ瀬と他のパネリストの会話を引用されるが、筆者による補足・整理が行われている部分がある。この点を、あらかじめ留意されたい。
(一)靖国神社問題との「意図的な混同」
ABEMAの番組や、一ノ瀬の発言において目立つ点として、まず次のような点が挙げられる。彼らは、今回の騒動を、靖国神社問題と意図的に混同しようと試みている点である。この番組では、序盤から小泉元首相の靖国参拝のシーンが放送され、「今回の乃木神社だけではなく、靖国神社も問題になってきた」というナレーションが流れる。そして、こうした場面を受け、一ノ瀬のコメントが流れる。
「靖国神社と問題の本質は一緒なんじゃないかなと思います。立憲民主党の代表という方がそこに参拝したのはどうかな、と思っています」(番組開始より6分30秒~)
果たして、そうだろうか。靖国神社問題では、憲法上の政教分離原則との関りもさることながら、同神社にA級戦犯が合祀されており、そのため国際問題に発展しかねないから、という点を批判者はさかんに強調していた。また、靖国参拝が問題化した時期も、A級戦犯の合祀された時期と重なっている。
こうした従来の靖国神社参拝批判から見れば、A級戦犯でもない乃木希典を祭祀した神社への参拝が、靖国参拝と同様の問題を孕んでいるとは、到底思えない。彼らは、A級戦犯が合祀されているため問題である、という従来の議論を投げ捨て、「軍国主義を想起させるから両方とも一緒だ」という信じがたい印象論で、両者を意図的に混同しようとしているのである。
意地の悪い見方をすれば、靖国神社参拝批判が一定程度成功し、靖国神社参拝がタブー化された状況に味をしめ、他の神社にも対象を広げたい、と考えているようにも映る。いずれにせよ、極めて粗雑で、イデオロギーありきの見解でしかないだろう。
(二)レッテル張りと驕り――「歴史に学べ」という言辞を巡って
次に指摘したい点は、ABEMAや一ノ瀬が、泉をはじめ、自身の意に沿わない行動を取った者や、イデオロギー的に対立する者の立場を尊重せず、自身の立場を絶対的で無謬なものだとする驕りの下で、居丈高に相手を「歴史に無知である」「歴史に学べ」と断じる点である。
番組内では、泉に対して、「ポンコツ」という罵倒語が頻繁に使われ、それに合わせる形で、一ノ瀬は次のようにコメントする。
「世界中で歴史問題というのが重要になってきている。歴史を学ぶって大事だし、泉さんにも靖国問題とかの経緯を学習して頂ければな、と思います」(番組開始より11分~)
「歴史を学習せよ」というセリフは、相手の行動は無知によるものだと決め付けるものであって、ここには自身と異なるイデオロギーの持ち主を尊重しようとする姿勢は微塵も無い。歴史を学習した結果として、戦前期日本の歴史的展開を肯定し、乃木希典を崇敬するようになる可能性もあるはずである。しかし、一ノ瀬はそれを全く想定しない。
自身の意に反する者は、すなわち戦前期日本の歴史的展開を肯定し、乃木を崇敬する者は、自身よりも知的に劣っており、学習が必要なのだ、というのが一ノ瀬の見解なのである。このように、自身の立場を絶対的な真理とする驕った立場から、自身の意に沿わない者にレッテルを貼り、居丈高に罵ることが、一ノ瀬の遣り口だと言えるだろう。
それから、一ノ瀬は「靖国問題とかの経緯を学習」せよと言っているが、先に触れた通り、靖国問題と今回の騒動は本質的に全く異なる。歴史に学ぶべきなのは、実は一ノ瀬ではないのか。
(三)「各人の心の問題」――自身の議論が心情的な反発に過ぎないことを自白
日本全国には、乃木神社以外にも、軍人や武人を祭祀した神社が多数ある。ここから、乃木神社への参拝が批判されるなら、他の神社はどうなのか、政治家が参拝して良い神社と、控えるべき神社の区別を如何に行うか、という問題が必然的に生じる。流石に、この偏向した番組でも、その点が論点として浮上する。
あるパネリストが、乃木神社が駄目なら、(明治天皇を祭祀した)明治神宮はどうなのか、政治家が参拝しても構わない神社とそうでない神社を見分ける基準はあるのか、という発言をし、それに対し、一ノ瀬は次のように答える。
「そのあたり考えが違いすぎますので、それを誰かがまとめるっていうのは現実的じゃないんじゃないかな」(番組開始より18分~)
「それはもう、個々人の心の問題みたいなものになりますね」(番組開始より20分~)
政治家の神社参拝への批判を、一ノ瀬は「個々人の心の問題」だから、そこに明確な基準やガイドラインを設定しようとする行為は無駄だ、と言っているわけである。しかし、今回の乃木神社参拝への批判が「個々人の心の問題」だとすれば、大変なことになる。批判者の議論に説得力がまるで無くなるからである。
今回の乃木神社参拝への批判は、明確な根拠を欠いた、単なる心情的な苛立ちや反発の所産に過ぎない、と認めているのである。明確に論拠や基準を提示できない、「個々人の心の問題」という物言いは、そうしたニュアンスとしか解釈できないだろう。そして、こうした心情的な苛立ちや反発に過ぎないから、全く関係の無い靖国問題と今回の騒動を混同したり、明治神宮は良いが乃木神社は駄目だ、といった不可解な議論がなされてきたのではないのか。
この発言は、番組の後半になされたが、一ノ瀬が自身の議論に根拠が無いことを、最後の最後で自白してしまったように映った。そして、そうした点を本人も自覚したのか、こうした発言の直後に、あたかも負け惜しみかのように、次の発言をする。
「強制は良くないと思います。個々の神社に、みんなで参ろうみたいな。戦前的なやり方は駄目なんじゃないんですかね」(番組開始より20分~)
誰も、「神社に国民を強制的に参拝させよう」などという発言はしていない。騒動の発端となった泉もしていない。誰もしてない話を、いきなり否定しているのである。完全に脈絡の無い、異様な発言だった。
だが、その意図を推し量るなら、自分で自分の議論が明確な根拠の無いものだと自白してしまい、それを糊塗しようと、とにかく今回の泉の参拝をはじめとして、政治家の神社参拝を「戦前回帰」だとレッテル張りをしようと悪あがきし、こうした「戦前のように国民を神社に強制的に参拝させるな」という脈絡の無い意味不明な発言をしたのではないか。
三 戦後日本における歴史認識問題をめぐる病弊
この他にも、一ノ瀬の発言には、異様なものが多い。例えば、今回の騒動に対する、立憲民主党支持者の様子を敏感過ぎると評したパネリストに対して、「支持者の方は真面目な方が多いですよね」(番組開始より13分~)などと、とんちんかんな返答をした部分などが、そうである。あのヒステリックな反応が、「真面目」だと映るのだろうか。もはや、イデオロギー云々ではなく、現実認識能力すら怪しくなってくる。
これまで、こうした一ノ瀬の反応を中心として、ABEMAの番組を検討し、乃木神社参拝騒動をめぐる議論状況を概観してきた。ここで、とりわけ一ノ瀬の発言によって、戦後日本の歴史認識問題をめぐる病弊が明らかになったと思われる。乃木神社問題を靖国神社問題と意図的に混同する姿勢、相手へのレッテル張りと驕り。
こうした点を見れば、明確な根拠なく、「戦前を想起させる」式の遣り口で、いい加減な印象論に基づいた「批判」もどきを繰り返し、さらに自身の歴史認識を絶対的真理と驕り、他者に対する卑劣なレッテル張りに励む、信用ならない論者たちが、議論を攪乱させていることが分かる。そして、こうした状況こそが、今回の問題に限らず、現代日本における歴史認識問題をとりまく病弊だった。こうした状況を打開しない限り、歴史認識を巡る非生産的な議論状況は変わらないだろう。
[1] 番組のURLは下記の通りである。筆者は1月10日に視聴し、本稿を執筆した。