【関西】定例研究会報告 石丸八郎の『三条宗』発言と越前一揆

 11月19日(土)午後、貸会議室オフィスゴコマチ(京都市)にて、民族文化研究会の関西地区第51回定例研究会が開催された。

 報告者は、竹見靖秋氏。「石丸八郎の『三条宗』発言と越前一揆」と題し、報告を行った。明治維新期には、様々な一揆が勃発したが、その中には「護法一揆」と呼ばれる一揆が存在した。これは、当時の「廃仏毀釈」の風潮に対し、仏教勢力が抗議を試みたものだった。

 そして、こうした「護法一揆」の中でも、有数の規模に膨れ上がったのが、現在の福井県で起こった「越前護法大一揆」だった。本報告では、こうした「越前護法大一揆」を検討することで、当時の「護法一揆」が如何なるものなのかを明らかにし、また背景にある当時の宗教的・政治的な状況も詳らかにした。

 この「越前護法大一揆」は、石丸八郎という人物の発言が端緒となっている。石丸は、宗教界の協力を仰ぎながら、国民教化を推進していた教部省の官吏であり、公務で福井県を訪れていた。石丸は、当地の有力者を集め、建設予定だった教部省出先機関である少教院に、諸寺院の仏祖を集めること、従来の宗派の名称を用いず、教部省の掲げる標語「三条教則」にちなみ、全員が「三条宗」と名乗るように命じた。

 こうした石丸の指示は、寺院の統廃合と、従来の宗派の廃止を求めているように映った。折しも、「廃仏毀釈」が吹き荒れていた時期であり、こうした誤解はやむを得なかった。この指示を知った民衆は、北陸地域が熱心な真宗門徒の多いことも手伝って、すぐに反「廃仏毀釈」を訴える「護法一揆」が勃発することになった。

 しかし、石丸の真意は、仏教弾圧などではなかった。一揆の端緒となった、石丸の指示を見ても、「諸寺院の仏祖を集めよ」は、単に諸寺院の仏祖を祀るだけであって、諸寺院の本尊を移動させるわけではない。「全員が『三条宗』と名乗れ」も、少教院で国民教化に当たる際には、宗派の別なく、同じ理念である「三条教則」に立脚しよう、という意味に過ぎなかった。

 このように、「越前護法大一揆」は、「廃仏毀釈」などによって、真宗門徒らの危惧が広まる中で、石丸による誤解を招く発言が伝わり、ありもしない流言飛語(諸寺院が統廃合される、宗派が廃止される)が飛び交うことで、生じてしまったのである。こうして、本報告は、「越前護法大一揆」について、政府当局や石丸の意図と、真宗門徒をはじめとした民衆の意図がすれ違った結果として、生じた事件だと結論付けた。