【関西】研究会報告 石丸八郎の「三条宗」発言と越前一揆

令和4年11月19日に開催された民族文化研究会関西地区第51回定例研究会における報告「石丸八郎の『三条宗』発言と越前一揆」の要旨を掲載します。 

はじめに

 地租改正反対一揆血税一揆など、明治維新後には様々な一揆が発生している。これらの一揆は新政府に抗議するものとしてよく一括りにされるが、各一揆は目的や原因、地域的要因などがそれぞれ違っており、こうした抵抗運動を鎮圧しつつ、新政府は政権の基礎を固めていくことになる。

 また一揆の中には、「護法一揆」と呼ばれる一群もあり、いわゆる「廃仏毀釈」によって被害を受けた仏教勢力と民衆による、政府への抗議運動としてよく取り上げられるのだが、これもまた地域的要因など個別に見ていく必要があるだろう。

 本稿は教部省による大教宣布運動が一因となった「越前真宗門徒の大決起」とも呼ばれる「越前護法大一揆」について、三上一夫氏の研究を元にその流れを概観しつつ、引き金となった石丸発言について若干の考察をしていきたい。

一揆勃発までの流れと「耶蘇宗」

 明治六年一月、教部省に出仕していた石丸八郎が敦賀へと帰省した。元々は真宗の僧侶(僧名は良厳)だった石丸は原口針水に師事し、本願寺の指令を受けて長崎などで外教の調査を行うスパイとして活動していた。その活動が政府の目に留まり、明治維新後には弾正台や太政官直属の「異宗捜索諜者」となっている。明治五年に今度は教部省の教導職十一等出仕となった。石丸は政府の諜者となった時点で僧籍を脱していたが、この時、あらためて教導職に補されたのは異宗知識が買われたためだと思われる。そして明治六年一月、石丸は三十日間の帰省願を提出し、敦賀県の今立郡定友村に帰った。

 一月十五日、帰郷した石丸は早速地元の十四か寺に集合を命じ、翌十六日に岩本村の時宗成願寺で次の四点を力説した。

①石丸の出身・唯宝寺を大滝村円成寺に預けて自身は家族と共に東京に引っ越すこと。

敦賀県に少教院を設立する予定であり、東京から官員も来る予定だが、取り急ぎ円成寺に仮教院を立てること。

③その際、第一重には村々町々の氏神を祭り、第二重には諸寺院の仏祖を安置すること。第三重には教導職を集めて家内眷属諸共長屋に合併すること。

④各宗名や「門徒同行」を廃止し三条教則を徹底させた「三条宗」と称すること

 また、これらを行うため一月二十一日から人材取調を行うことなどを訴えたのである。石丸は周辺地域の寺院にも三条教則を徹底させる腹積もりだったようだが、こうした発言を聞いた寺院側では早速、十八日に対応を協議している。

 石丸発言は当時各地で問題となっていた「廃合寺」の趣旨に近く、「三条宗」という名称の強制なども僧侶らにとっては受け入れ難いものだった。また当時は維新によって目まぐるしく社会が変わる時期であり、こうした新政府の諸政策が実は政府が耶蘇教を信奉していることから来ているという噂が広まっていた。僧侶らは自身がそうした噂を信じ、あるいは民衆の支持を取り付けるためにあえてこの噂に乗り、「彼(石丸)ハ耶蘇ヲ勧ムルナリ」と宣伝した。十九日にも集会が行われたが、この時点で警戒した当局が役人を差し向けている。当局側は「石丸八郎方ヘハ直様此方ヨリ取正シ候」と申し渡して集会を解散させており、この時点で情勢が相当不穏となっていたようである。

 石丸発言の中における教部省からの官員派遣についても「教部省ヨリ耶蘇宗拡充ノ為メ耶蘇僧ヲ派出セリ拒絶セザルベカラズ」という形で受け取られており、こうした危機感は熱心な門徒の多い周辺地域へ徐々に伝播していった。村々では自主的に、或いは周辺の強制を受けて「護法連判」が行われ、耶蘇宗侵入を防ぎ、真宗の「法談御免ノ義」を訴えるようになる。もし当局に訴えが斥けられた場合は竹槍と「南無阿弥陀仏」の旗を立てて押し出すと言い、徐々に「一揆」の様相を醸し出してきた。

 こうした緊迫した状況の中で二月二十七日に大野町に建てられた高札が油を注ぐことになる。

 「教導職中東西両部之名号ヲ廃シ一般ニ神道ト称セシム」(教部省達第五号府県 明治六年一月三十日)

 この高札は当時、「東部」「西部」に分けられていた神職国学者神道教導職に向けられたもので、前年の「神官教導職ヲ東西ニ部分ス(教部省無号)」によって設定された東西の区分を廃止し、「神道」の名称で扱っていくというものである。 

 ところがこの高札を見た民衆は、「東西両部」を東本願寺西本願寺、「名号」を六字名号(南無阿弥陀仏)と誤認し、ついに政府が本願寺と念仏の廃止を訴え出たものと解したのである。大野郡下は「東西本願寺モ耶蘇トナリ弥陀ノ名号廃セラルルト心得、驚騒惑乱物議沸騰セリ」となり騒乱勃発は時間の問題となった。

 ところで「朝廷耶蘇ヲ嗜好ス、新暦ハ耶蘇ノ暦ナリ用ユベカラズ、地券ハ耶蘇ノ税法ナリ信ズベカラズ、洋書ハ耶蘇ノ文ナリ学ブベカラズ」と新政府の施策全てに耶蘇疑惑を向けた当該地域の”噂”は、農民だけでなく、当の耶蘇教徒の耳にも届いていた。お雇い外国人教師として福井に滞在していた米国人マーティン・ワイコフ(米オランダ改革派教会)は一揆勃発に際して同僚とともに福井城内に避難するなど情勢の近くに居た人物であるが、東京の知人に充てた手紙の中で、県庁からの命令で僧侶の説教が禁止されたこと、そして中央政府からキリスト教が今後日本の国教となるだろうとの通知が県に届いていること等の噂を紹介し「ほとんど真実のようだ」と期待を込めて述べている。

 末端民衆だけでなく、開明的な都市部まで、こうした噂が地域を覆っていたことが伺える。

越前真宗門徒の大決起

 大野郡の不穏な情勢を察知した福井支庁は、三月四日に役人・中村高致と邏卒十名を派遣。そこで中村は友兼村専福寺に百五十名近くが駐屯し昼夜見張りを置いているのを確認した。危機感を得た中村側は翌日に「護法連判」の首魁五名を呼び出してそのまま拘留しようとしたが、無数の鐘が打ち鳴らされ、邏卒一揆勢三千人余りが囲んだ。邏卒は身の危険を感じ抜刀するも四方八方から竹槍が飛び、中村と邏卒は満身創痍で逃げ切るのがやっとだったという。

 三月六日早朝、一揆勢は武装して「南無阿弥陀仏」の旗を掲げ、いよいよ大野市街へ押し出した。抜刀する邏卒を蹴散らして大野支庁や武家屋敷、豪農の家、地券取調御用掛邸、教導職が拠点としていた教願寺、高札場・御布告掲示所などを次々に襲撃、焼き払っている。地券関係者や商法会社なども攻撃対象となっており、税制変更もまた民衆の不満の一つだった。

 福井支庁側は邏卒部隊を編成、鎮圧に向かわせるとともに、警備体制を強化、また管下住民へ狼狽無きよう告諭している。

 邏卒を率いて現地に到着した当局側の石川雪は、一揆側に説諭を試みる。一揆側が要求する「耶蘇宗拒絶の事、真宗説法再興の事、学校の洋文を廃する事」の三点について支庁に提出することを確約し、代表者以外を退散させることに成功した。石川はすぐさま福井支庁少属の天野精成に報告し、天野も一揆側の願意を聞き届けている。そして八日に農民側へ説諭するとし、その旨を一揆代表者へ伝えて「一統志づまり呉」と懇望したという。

 しかし天野の回答が遅れたために八日夕刻になって一揆勢は武装の上で再び大野市街へ来襲。天野の眼前まで竹槍を持って訪れ、各村に対する「聴納ノ証」を要求した。天野はこれに屈して「敦賀県天野少属」の署名捺印入りで「耶蘇宗門越前国中ヘ布教アルベカラズ、学校ニ於テ蟹文習学アルベカラズ、法話説経差し止めあるまじき事」という証書を作成した。また天野達は一揆首謀者含めて捕縛処刑をしない旨を約束したため、一揆側は全面的な勝利を修めたと歓喜した。

 当然、現地における天野の対応に対し、当局(敦賀県本庁)では東京大蔵省へ報告するととも名古屋鎮台、大阪鎮台彦根に協力要請を発出、武力によって一揆関係者の一斉摘発の準備を行っている。

 そんな矢先に今度は小野郡の隣・今立郡でも一揆が発生した。今立郡では敦賀県の役人を自称する田井なる人物が三月十日に小坂村の戸長宅に泊まり込み、近隣住民を集めた。田井と戸長は住民に「断髪」を命令したが、田井の挙動を不審に思った村番人が逮捕し武生の邏卒屯所に突き出している。この時、自称役人の田井とそれを泊めた戸長が「良民ヲ圧迫シ耶蘇宗教ニ誘導スルノ奸賊ナリ」との噂が広まり、十一日には近隣住民が戸長宅を襲撃、大野に続き今立でも騒乱が勃発した。洋服や散髪についても耶蘇によるものとの噂があったのである。一揆勢は戸長宅に続き豪農宅や商店を毀損、騒動の始点となった石丸の定友村唯法寺を初め数ケ寺も破壊、焼き払った。当局側は続発した一揆に驚き、すぐに役人と邏卒を派遣している。

 一揆側と対峙した当局側の山田盛厚は必死の説諭に勤めたが、この下手に出た対応を見た一揆側は「当局には制圧する力が無い」と見て返って吹き上がり、刀槍で邏卒を負傷させた。

 ここに来て、寺嶋権参事は断固武力鎮圧の方針へ舵を切る。当局側は招集した士族部隊を差し向けてついに砲撃(空砲)したところ、一揆勢は狼狽散乱したため、一度部隊を鯖江まで引き上げている。これと同時に大阪鎮台に派兵を要請した。

 十三日になって一揆は再燃。現・鯖江市水落のあたりを襲撃し、戸長宅を焼き払っている。これに対しもはや当局の対応は強固のものとなっており、出張官員や邏卒、招集士族らを当たらせた。それぞれ刀や槍を振るい、一揆勢の二十名を捕縛している。それでも退かないため、一揆勢に大砲による砲撃を行い、四、五名を打倒した。これに慄いた一揆勢は四散退却した。この時、一揆側から大野郡の時と同じ三ヶ条の要求書を青竹に挟んで差し出されているが、もはや当局には受け取る意志は無く、国家の大業を犯す罪人の願いは聞き届けない旨を宣言、一揆勢も今後は兵威による対応になることを察し、追々退散した。こうして今立郡での一揆は鎮まったのである。

 しかし今度は福井北部の坂井郡一揆が勃発する。今立郡の一揆再燃に呼応するように同日十三日に名号旗と竹槍を持ち、各村から人員を吸収しながら福井市街へ進軍した。福井支庁は兵士邏卒らを各地に展開、役人を現地に向かわせている。荒町に入る頃には一揆勢は一万近くに上っており、九頭竜川を越えて福井市街にまで入って来たため当局側は兵力を持って舟橋まで追い返した。ここで一揆側はこれまで同様に三ヶ条の請願書を差し出すものの、拒絶されたために反撃に転じ、官憲側も銃剣によって応戦・制圧した。十四日には当局側が一揆勢の屯する針原村を襲撃、一揆側は散乱するものの十五日には再度福井市街へ進撃している。金津方面から福井市街へ向かう一揆勢に対し、当局側は空砲で対応するも勢いを止めないため、実弾射撃での制圧へ踏み切った。こうして一揆勢は退去し、一方で各地へ派遣した官憲によって村同士の情報のやり取りを遮断、戸長側も協力して説諭したため、一揆は収束していった。

 以降、邏卒や鎮台による一斉検挙が始まり、首魁・関係者の逮捕および処刑が行われることになる。

石丸八郎の発言

 石丸八郎は敦賀での演説後、休暇を終えて東京に戻っているが、騒擾事件勃発後、すぐに敦賀への出張が命じられている。一揆の首謀者六名が処刑される頃まで留め置かれているのを考慮しても、おそらく騒動の責任が絡んでいると思われる。 

 騒動の勃発の始点となった「三条宗」発言について、当時の地元住民は石丸と政府の耶蘇信仰によるものと断じ、戦後の学者は国家権力に阿った、あるいは神道国教化に向けた「廃仏毀釈」発言かのように捉えているが、当の石丸はどういう意図があったのだろうか。

 石丸が教導職に任じられたのは明治四年のことであるが、その際に師匠の原口針水に対して手紙で、教部省の都合により教導職となったものの「自然神官之方ニ被召出候哉、是モ心痛」との心中を明かしている。教部省の職員となった以上は自然と神官寄りとなってしまうが、これを「心痛」と表現するあたり、石丸はこの時点でも真宗僧侶としてのアとイデンティティーが強くあったものと思われる。後に石丸は教部省を辞め、明治九年にはあらためて本願寺に得度願いを提出、白英という僧侶として各地で布教をしており、また一揆によって破壊された唯宝寺も自らの手で再建しているあたり、廃仏毀釈が本意で無い事が伺える。

 当該演説・発言は「神仏分離史料」などに掲載される「本県役人出張所指出候始末之写」等で内容が伺えるが、この時呼び出された寺院は真宗だけでなく、天台宗時宗寺院の僧侶も呼び出している。そして「拙寺五尊は大瀧村成願寺方へ預け」云々の後、岩本成願寺を仮教院として近々小教院とすること、境内に氏神と仏祖を安置すること、そして境内の長屋に教導職を住まわせることを確かに発言している。これについては、前年十一月に「大教院建設ニ付テハ天下大小ノ神社寺院ハ小教院ト心得氏子檀徒ヲ教導セシム(教部省第二十九号)」が出されたばかりだった。石丸としては政府の最新情報と動向(小教院設置)について郷里の寺院に伝えるつもりの発言だったのでは無かろうか。此の時提示された氏神と仏祖を祀る方針も、後の大教院開講式の際に仏祖が増上寺山門に祀られたことに似ている辺り、この時点で東京の教部省・教導職内で同様の情報もしくは志向・同様な意見があり、それを当てはめて披露したのではないかと個人的に推測する。長屋云々については、前出の教部省通達の別紙に諸宗管長名義で「寺院ヲ僧侶私宅ノ様心得違」について批判しており、ここから僧侶の私有財産のようになっている寺院から小教院内の建物へ「教導職」を移転同居させる意見が出たように思われる。重要なのは教導職を住まわせるという話であって、寺院を廃絶するとは述べていないことである。仏祖を祀ると言っている点も、あくまで祀るのは仏祖であり各寺院の本尊を移転させるわけでは無い。これを僧侶側が廃合寺と解釈したのは、当時の時代背景・環境の問題とともに、石丸が演説の初めに自らの唯宝寺の本尊を預ける旨を述べた影響だと思われる。

 そして三条宗についても、「宗名及び門徒同行の名称を廃し、以来有人宗名を相尋ね候時は、三條宗と相唱へ」と訴えているが、前年には僧侶教導職に対し「僧侶ノ内説教ニハ公席ニテ三条ヲ略シ解キ私席ニ於テ説法談義法談卜唱ヘテ専ラ宗意ノミヲ弁シ三条ニ悖戻スル少カラザルノ趣キ以テノ外ノ事ニ候方今三条ニ悖戻スルノ宗意ハ絶テ不可用」と三条教則に反する法談・説法が戒められている。ここから石丸が「小教院」において「教導職」が自宗派の宗名や門徒同行の語を使うのは不適切だと考えてもおかしく無いのではなかろうか。そして、もし人に尋ねられた際には自宗派でなく教導職として「三条宗」と名乗れば所属宗派・説法と教導職・説教で内容・名称が違うことで「表裏有之テハ庶民疑惑ヲ生」ずることも無くなるのである。

 当の石丸八郎も演説の趣旨はあくまで「三条の朝命」を守ることであり、「決して寺院廃絶抔云儀は無候、弥神仏二道を盛大にして、内国は無論外国まで宣布」すべきとの訴えだったと捺印の上で釈明している。
 
 しかし当時、日本各地で廃合寺が行われている中での通達に、受け取り手の僧侶たちは廃仏毀釈を感じ取ってしまった。民衆は石丸を当人が最も嫌った耶蘇教徒だと糾弾し、地券や税制など溜まっていた鬱憤も相まって爆発したのである。

参考文献

明治維新神仏分離史料 下巻』昭和三年
『日本近代思想大系5宗教と国家』昭和六十三年
三上一夫『明治初年真宗門徒大決起の研究』(思文閣出版、昭和六十二年)
上野利三『明治初期騒擾事件と政府の対応に関する研究』(平成七年)
上野利三『近代日本騒擾裁判史の研究』(多賀出版、平成十年)
鯖江市史 通史編 下巻』(鯖江市史編纂委員会編、平成十一年) 

 

一揆の端緒となった石丸発言の行われた成願寺