【関西】定例研究会報告 戦前期日本法学における「十七条憲法」解釈 ――小野清一郎を中心として

令和4年3月19日に開催された民族文化研究会関西地区第43回定例研究会における報告「戦前期日本法学における『十七条憲法』解釈 ――小野清一郎を中心として」の要旨を掲載します。

はじめに

(一)戦前期日本法学における「十七条憲法」をめぐる論争

聖徳太子は、わが国の歴史上の人物の中でも、とりわけ知られた存在である。遣隋使の派遣、「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」と記した隋への国書、法隆寺四天王寺の建立など、聖徳太子に関する逸話はすぐさま想起できるだろう。

しかし、聖徳太子の業績の一つである「十七条憲法」の性格をめぐって、昭和戦前期の法律学において、論争が勃発したことは、あまり知られていない。戦前期の法学界では、有賀長雄が、『古代日本法釈義』(明治26年)において、「十七条憲法」は、聖徳太子が官吏に向けて発した、単なる道徳的訓戒に過ぎないと主張し、その見方が定着していた[1]

だが、こうした見解に異を唱え、「十七条憲法」には、国家統治の原則が規定されており、国法としての性格を持っている、と主張する論者もいた。三浦周行[2]や筧克彦[3]、それに里見岸雄[4]といった人々が、こうした立場に立脚して、議論を展開していた。こうして、戦前期の法律学では、「十七条憲法」を如何に解釈するかを巡って、論争が生じたのである。

 

(二)小野清一郎の「十七条憲法」論

こうした、戦前期における「十七条憲法」をめぐる論争において、とりわけ精力的に活動を行い、議論全体を牽引していたのが、刑法学者の小野清一郎である。

小野は、三浦らと同じく、「十七条憲法」を単なる道徳的訓戒に過ぎないと見なす、有賀の「十七条憲法」論は誤りであって、「十七条憲法」は国法的な性格をもつ、と主張した。また、津田左右吉が唱えていた、聖徳太子非実在説に対しても、批判を加えた。

こうして、小野は、「憲法十七条の国法性について」(昭和9年)を皮切りとして[5]、主に昭和戦前期の期間、聖徳太子や「十七条憲法」を題材とした論文を10本近く執筆し、「十七条憲法」に対する学界の認識を改めようと試みてきた[6]

こうした小野の業績は、当時の他の論者の業績と比べ、質量ともに抜き出たものである。小野の業績は、「十七条憲法」をめぐる論争を理解するに当たって、大きな手がかりになりえる。よって、本稿では、小野の「十七条憲法」論を検討することによって、戦前期の法律学における、「十七条憲法」をめぐる論争を理解することを試みる。

 

一 「十七条憲法」論の基礎にある問題意識

 それでは、小野清一郎の「十七条憲法」解釈を概観し、戦前期の法律学において展開された「十七条憲法」をめぐる論争を把握したい。ただ、小野の「十七条憲法」論そのものを俎上に載せる前に、なぜ小野が「十七条憲法」に着眼したのか、その背後にある問題意識を明らかにしておきたい。

 

(一)仏教と法の関係――小野刑法学の基礎にある問題意識

 

 戦前期の法律学において、「十七条憲法」をめぐる論争に参加した論者を見ると、憲法学と日本法制史の研究者が多い。たとえば、有賀長雄、筧克彦、里見岸雄憲法学者であり、三浦周行は法制史家である。

 それに対し、小野清一郎は刑法学者であり、ある意味では畑違いの論者であるとも言える。なぜ、小野は、自身の専攻から離れた、「十七条憲法」をめぐる論争に参加し、最も精力的に論考を著したのか。それは、小野が持っていた問題意識からすれば、「十七条憲法」が格好の題材だったからである。

 小野は、近代日本刑法学の指導者の一人であり、現在の刑法学説の基礎である、構成要件理論を日本で最初期に展開したことで有名である。しかし、小野は刑法学者としてだけでなく、仏教者としても知られている。小野は、青年時代に仏教とりわけ真宗に接近し、東京帝大在学中には、島地大等や近角常観といった著名な仏教者の指導を受けた[7]

 もっとも、法学者が、特定の宗教に対する深い信仰心を持つことは、珍しいことではない。しかし、小野が特異である点は、刑法学者としての学知と、仏教者としての信仰が、分離しておらず、両者が融合し、相互に補完し合う関係にあったことである[8]。小野は、仏教と法が、本源的には深い関係にあり、仏教的知見を法律学に導入するべきだと主張したのである[9]

 

(二)「十七条憲法」への着眼

 このように、小野は、「仏教と法の関係」という問題意識を持っていたのだが、ここから「十七条憲法」に着眼するに至る。「十七条憲法」は、聖徳太子の仏教に対する信仰を背景に、仏教的な理想を統治に反映させることで、国家社会の安定を実現しようとした法典であり、仏教と法がもつ、本源的な関係が端的に表れた法典だと言える。このように、「十七条憲法」は、「仏教と法の関係」を解明するために、格好の素材となりえるのである。

 従来の仏教は、世俗の法や国家から超然として、禁欲的修練を通した、人間の精神的救済を志向してきた。しかし、やがて信徒個人の内面的修練だけではなく、社会全体の改良を、仏教を通して実現すべきだとする方向性が打ち出され始める。そして、仏教的理念に立脚した社会改良のためには、国家統治に仏教的理念を反映させなければならない、と考えられるようになる。ここで、「仏法」(宗教的真理)と「王法」(法秩序・国家秩序)の相互補完が標榜されるに至る。

 こうした仏教の転換は、周知の通り、小乗仏教から大乗仏教への移行として定式化される。こうした仏教的理念を国家統治に反映させようとする志向は、仏教伝来期における日本においても主流となり、日本仏教の基本的な色彩は、「国家鎮護」を標榜する仏教となった[10]。こうした仏教史の潮流に存在し、その方向性を決定付ける役割を果たすのが、「十七条憲法」だった。

 聖徳太子は、仏教経典の注釈書である『三経義疏』の著述や、法隆寺四天王寺の建立に見られるように、強い仏教信仰を持っていた。そして、こうした仏教信仰を背景に、仏教的理想を統治に反映させることで、国家社会の安定を実現しようと、起草したのが「十七条憲法」だった。このように、「十七条憲法」は、仏教的理念を国家統治に反映させようとする日本仏教の方向性を示した法典だった[11]。小野は、こうした点を踏まえ、「仏教と法の関係」を解明するための手がかりとして、「十七条憲法」解釈を展開したのである。

 

二 小野清一郎の「十七条憲法」論

 これまで、小野清一郎が「十七条憲法」に着眼するに至った経緯を追い、その背後にある問題意識を把握してきた。続いて、小野清一郎の「十七条憲法」論そのものを俎上に載せたい。まず、当時の「十七条憲法」論争に対する、小野の批判を追う。そののち、小野の「十七条憲法」に対する解釈を概観する。

 

(一)当時の「十七条憲法」論争への批判――「十七条憲法」の国法性

 

 それでは、当時の「十七条憲法」をめぐる論争に対し、小野清一郎がいかなる批判を提起したのか、まず確認しておきたい。

 すでに触れたが、戦前期の法律学では、「十七条憲法」を否定的・消極的に解釈する動向が主流となっており、こうした議論動向に対し、小野をはじめとした論者が批判を加え始めている状況だった。 

 こうした「十七条憲法」を否定的・消極的に解釈する動向は、すでに述べた通り、有賀長雄に端を発するものであるが、これらの主張は、いかなる論拠によって、「十七条憲法」を軽視したのだろうか。

 この議論は、第一に、「十七条憲法は、推古天皇による正式な公布を経ておらず、聖徳太子が配下の官吏に布達した私的な指示に過ぎない」ことを[12]、第二に、「十七条憲法は、仏教への信奉を規定した第二条をはじめとして、宗教的・道徳的な色彩が強く、法と見なし得ない」ことを主張し[13]、「十七条憲法」は、天皇による正式な国法ではなく、聖徳太子による私的な道徳的訓戒に過ぎない、と結論付けている。

 このように、有賀長雄は、「十七条憲法」の制定過程(推古天皇による公布がなされていない)と規範内容(宗教的・道徳的な訓戒に過ぎない)の両側面に対し、否定的判断を下し、その国法性を否定するわけだが、これに対し、「十七条憲法」の積極的な解釈を試みる小野は、いかなる批判を加えたのだろうか。

 小野は、まず、第一の点について、聖徳太子推古天皇の摂政の地位にあり、ほぼ全権を付与された状態だったとし、聖徳太子による布達だったとしても、法的な瑕疵は無かったと主張する[14]。そして、聖徳太子が、同時代に指導していた、重要な政治改革である「冠位十二階」制度の導入も、「十七条憲法」と同様に、天皇による正式な公布を経ていなかったことを指摘する[15]

 そして、第二の点について、当時は「仏教興隆の詔」が既に発布されており、仏教の振興は国家の政策であったことを踏まえれば、仏教の重視は信仰の表明ではなく、統治原則の表明であり、道徳的・宗教的な訓戒に過ぎないとする見解は誤りであるとする。また、そもそも、道徳と法は重なり合う領域も多く、その関係性はいまだに議論が絶えないのだから、道徳的規範だから法ではないとする判断は即断だとも指摘する[16]

 こうして、小野は、有賀による「十七条憲法」の否定的・消極的な解釈を批判し、「十七条憲法」は単なる道徳的な訓戒などではなく、正式な国法であることを主張した。さらに、「十七条憲法」は国家の統治理念を表明し、国家の具体的組織形態にまで踏み込むことから、文字通りの「憲法」的色彩を帯びており、近代的憲法原理はもちろん欠いているものの[17]、当時において「憲法」として機能しえたと主張する[18]

 

(二)「十七条憲法」解釈

 

  • 「十七条憲法」が標榜する統治理念

 続いて、小野の「十七条憲法」に対する解釈を概観したい。まず、取り上げたいのが、「十七条憲法」の最大の特徴である、「和」に関する規定がある、第一条に対する解釈である。 

 小野は、この第一条における、「和を以て貴しと為し」という規定は、日本国家の標榜すべき統治上の理想を闡明したものであると解釈した。小野は、ここで謳われる「和」は、他人と調子を合わせ、社交を滞りなく進めようとする、付和雷同とでも言うべき、通俗的な意味のものではない、とする[19]

 小野は、ここで謳われる「和」は、「より内面的・精神的な和である」[20]とし、また「共同体における一心同体・一体不二の自覚」[21]だとする。要するに、諸個人が精神的に深く結びつき合い、そこで調和のとれた状態がもたらされ、理想的な共同体が実現されることを意味している。

 このように、「十七条憲法」にいて規定された「和」は、日本人の国家共同体を可能とする、諸個人のあいだの精神的な調和を意味し、統治上の理想として位置付けられている、とされた。続いて、問題となるのは、こうした「和」は、何によって実現されるのか、である。 

 統治上の理想が明らかにされた後では、その理想を実現する手段が示唆されなければならない。そして、小野によれば、「十七条憲法」は、こうした統治上の理想である「和」を実現する手段として、仏教を挙げている、とする。それは、第二条において規定されている。 

 続いて、仏教への重視を明らかにした、第二条に関する解釈に注目しよう。「十七条憲法」の第二条は、「篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり」として、国家を挙げて仏教を重視することを明らかにしたのちに、「何れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う」とし、仏教による国民の教化を宣言している。 

 小野は、「和」を基礎付け、それを可能とする原理が求められたとし、「この要求に応じたものは即ち仏教であった」[22]としている。そして、こうした仏教の採用によって、人間の内面的洞察に依拠して、国民を教化することが目指された、としている[23]。こうして、第一条と第二条の解釈を通して、「十七条憲法」の基本的構造が明らかになる。

 諸個人の精神的な調和から、理想的な共同体を実現する、「和」という原理が、統治上の理想として標榜される。そして、こうした統治上の理想を基礎付け、それを実現する手段として、仏教が援用される。仏教を国家を挙げて重視し、これによって国民を教化し、道徳的感覚を涵養し、人々の理想的な調和状態である「和」の実現を目指すわけである。

 

  • 「十七条憲法」が想定する国家組織

 これまで、小野による「十七条憲法」第一条、第二条の解釈を概観し、「十七条憲法」の基本的構造が如何に理解されたのかを明らかにしてきた。すでに触れた通り、聖徳太子は自身の仏教信仰を背景に、仏教を統治に反映させることで、国家社会の安定を実現しようとした。そして、「十七条憲法」の第一条、第二条は、こうした聖徳太子の姿勢を如実に表している。

 仏教を統治に反映させることで、統治上の理想である「和」を実現させ、国家社会の安定を実現することが、「十七条憲法」の基本的構造だった。では、続いて問題になるのが、こうした「和」を統治理念とする国家が、より具体的には、どのような指針を持ち、どういった組織によって運営されるのか、である。 

 聖徳太子が、どういった国家組織を目指していたのかは、当時の政治状況を踏まえなければ、明らかにならない。当時の日本は、対外関係においては、朝鮮半島に持っていた権益を喪失し、国内においては、大氏族の力が増し、彼らの専横が目立ち始め、天皇による支配体制が揺らぎ始めていた[24]。 

 ここで、大氏族が群雄割拠する政治的状況を打開し、天皇を頂点とした集権的国家を建設し、対外関係においても毅然と対応できる体制を整えることが、聖徳太子の目標となった[25]。こうした天皇集権体制への意志が、「十七条憲法」においても反映されている。 

 小野によれば、こうした「族制政治の下における大氏族の横暴を抑え」[26]ることで、「日本国家本然の道義秩序を正す」[27]ことを目指す聖徳太子の意志は、「十七条憲法」の第三条、第六条、第七条において表れている、としている。

 第三条は「詔を承りては必ず謹め」と規定し、天皇詔勅に対し、忠実であることを求める。また、第六条は「悪しきを懲らし善を勧むるは、古の良き典なり」とし、伝統的な法や慣習を順守することを定めている。また、第七条は、「人各任有り」と規定し、自身の能力に応じ、使命や任務を果たすことを求めている。

 要するに、官吏に対し、大氏族による権勢になびくことなく、天皇詔勅や、伝統的な法や慣習に忠実であることで、国家機構上において使命や任務を果たすように求めているのである。ここにある意図は、大氏族の群雄割拠といった政治的状況を打開し、天皇を頂点とした集権的国家を実現することだった。

 そして、第五条において、「饗を絶ち欲することを棄て、明に訴訟を弁めよ」と謳い、公正な訴訟を定め、第十二条において、「国司・国造、百姓に収斂することなかれ。国に二君非く、民に両主無し、率土の兆民、王を以て主と為す」と規定し、公正な徴税を求め、公正な法手続・行政手続の実現を求めている。また、第十七条では、「夫れ事独り断むべからず。必ず衆とともに宜しく論ふべし」とし、政策決定に際し、開かれた討議を求めている[28]

 整理すると、「十七条憲法」の求める国家組織は、大氏族の群雄割拠という当時の政治的状況を打開することを目指し、天皇を頂点とした集権的国家を目指した、と言える。また、この集権的国家は、公正な法手続・行政手続や、政策決定における討議の重視を通して、何よりも公正で、倫理的であることが求められた。

 

おわりに

(一)総括 

 戦前期の法律学においては、「十七条憲法」の位置付けを巡って、論争が生じていた。そして、その中でも、とりわけ精力的に議論を展開していたのが、小野清一郎だった。本稿では、こうした論争において重要な役割を果たした小野の業績を概観することで、「十七条憲法」をめぐる論争について把握することを目指した。

 まず、小野清一郎が、いかなる問題意識から、「十七条憲法」に着眼するに至ったかを明らかにした。小野は、刑法学者であると同時に仏教者だったが、こうした特異な経歴から、仏教と法の関係に関心があった。そして、こうした仏教と法の関係という主題に照らして、「十七条憲法」は興味深い素材たりえた。こうした問題意識から、小野は「十七条憲法」に着眼したのである。

 続いて、小野の「十七条憲法」論を俎上に載せた。まず、小野が、当時の「十七条憲法」についての論争に対し、いかなる批判を加えたかが、明らかにされる。「十七条憲法」は、聖徳太子が私的に布達した道徳的訓戒に過ぎないとされてきたが、小野はあくまで天皇による正式な国法だったと主張した。

 そして、小野の「十七条憲法」解釈が検討される。小野によれば、「十七条憲法」は、人々の精神的な調和状態から、理想的な共同体の建設を目指す、「和」の原理を統治の理想として提示している。そして、そのための手段として、仏教による国民教化と、公正な法手続・行政手続の保障が提示される。こうすることで、諸個人が調和し、公正な統治が行われる、理想的な国家の実現が目指されるわけである。

 

(二)残された課題 

 こうして、小野の「十七条憲法」論を概観することによって、当時の「十七条憲法」を巡る論争について把握することができた。しかし、紙幅の関係などから、検討できなかった課題も存在する。 

 例えば、当時の思想界では、聖徳太子への評価が重要な争点になっていた。津田左右吉聖徳太子は実在しておらず、「十七条憲法」は偽作であると主張し[29]、それに対して、聖徳太子に対する尊崇の念が深い、原理日本社などの右翼勢力が反発し、大きな論争になっていた。ここで、本稿で取り上げた「十七条憲法」に関する論争は、こうした当時の思想界の状況において、どのような意味を持ちえたのか、俯瞰的に考察する必要があるだろう。ただ、この論点については、他日を期したい。

 また、こうした「十七条憲法」論の現代的な意義をどこに求めるかも、検討しなければならない。小野が指摘している通り、「十七条憲法」は、無論だが近代的憲法原理を欠いている。政教の一致(仏教国家の実現)を前提とすることからも、これは明らかだろう[30]。   

 こうした「十七条憲法」を、どう現代社会において受け止めるか。小野も、戦後になって発表した「新憲法聖徳太子」(昭和26年)[31]や「順法精神の根源」(昭和43年)[32]などで、こうした「十七条憲法」のもつ現代的な意義について言及している。こうした論点について検討することも、非常に重要だろう。だが、この論点についても、別稿に譲ることとする。

 

[1] 有賀長雄『古代日本法釈義』(博文館、明治26年

[2] 三浦周行「憲法十七条の性質及び価値」同『続・法制史の研究』(岩波書店大正14年)530頁以下。

[3] 筧克彦『仏教哲理』(有斐閣明治44年)545頁以下。

[4] 里見岸雄『日本国の憲法――特に天皇問題を中心として』(錦正社、昭和37年)72頁以下を参照。また、里見は、「十七条憲法」を、推古天皇の治世下で成立した憲法であることから、「推古憲法」と呼んでいる。

[5] 小野清一郎「憲法十七条の国法性について」同『法学評論下巻』(弘文堂、昭和14年)〔初出は、緑会雑誌6号(昭和9年)〕

[6] そして、こうした問題意識は、戦後になっても変わらなかった。小野は、戦前に執筆した「十七条憲法」関係の論文を、最晩年に刊行した論文集『刑法と法哲学』に再録した際に、「古い論文であるが、法史学者も刑法学者も今なおこの問題を十分検討していないので、あらためて世に問うことにした」と述べている。小野清一郎『刑法と法哲学』(有斐閣、昭和46年)2頁。

[7] こうした小野の仏教者としての自己形成については、団藤重光「小野清一郎先生の人と学問」同『わが心の旅路』(有斐閣、昭和61年)が詳しい。

[8] 小野は、「宗教と法律とは其の間に或る懸隔があり、それぞれ文化の領域を異にして居るが、而かもまたその間に円融無碍の関係があることを明らかにせねばならぬ」としている。小野清一郎「仏教と法律」47頁。また、「宗教は宗教として、倫理は倫理として、また刑法は刑法として、それぞれ領域、分野を異にし、それぞれの特質と自律性とを持っています。けれども、相互の間にいつも密接な関係がある」とも述べている。同「宗教と倫理」51頁。

[9] もっとも、小野は、こうした主張が、往々にして「仏教の経典から直接法律的解決を求めようとする者を生ずる」危険性を指摘した上で、「之を以て直ちに世間、即ち現実社会を支配せんとするは誤りである」としている。法律学への仏教的知見の導入は、「仏教の精神を法律の上に活かすこと」だとされる。小野清一郎「仏教と法律」47頁、50頁。

[10] 小野は、こうした小乗仏教から大乗仏教への転換を重視する、仏教史に対する自身の認識を、「現代法学より見たる仏教の法律思想」において展開している。

[11] こうした仏教的理念を国家統治に反映させようとする路線は、以後の日本仏教における主流となる。例えば、鎌倉新仏教の指導者は、いずれも「国家鎮護」的色彩を共有していた。日蓮による「国家諌暁」は有名であるし、栄西は「興禅護国論」を著した。また、法や国家に言及することの少ない親鸞も、「朝家の御ため国民のために念仏をまをし合わせたまひさふらはばめでたく候ふべし」(「御消息集」)と述べている。

[12]

[13]

[14] 小野清一郎「聖徳皇太子十七条憲法の国法性」170頁以下。

[15] 同上171頁。

[16] 同上172頁以下。

[17] 小野は、憲法という概念は、国家の根本法という意味だけでなく、「西洋近世において発達したいわゆる『立憲政体』すなわち主として議会制度を認める憲法のみを意味する場合がある。憲法学者は特に之を『近代の意義に於ける憲法』又は『憲法の近代的概念』などと名づけている」と指摘した上で、「十七条憲法は此の意味における憲法ではない」と認めている。同上177頁。

[18] 小野は、「十七条憲法が国法性を有すること、且つ国家の根本法として今日の憲法という概念に該るものであることをほぼ論証し得たと思う」と述べている。同上177頁。

[19] 小野清一郎「和の倫理」184頁。同「憲法十七条における和の精神について」230頁。

[20] 同上。

[21] 同上。

[22] 小野清一郎「憲法十七条における国家と倫理」201頁。

[23] 小野は、「十七条憲法」について、「人間生活、殊に其の内面生活に対する洞察の深きこと」に驚き、そこに息づいている「仏教教化の実践的意義」を強調している。小野清一郎「憲法十七条の宗教的基礎」211頁、222頁。

[24] 小野清一郎「憲法十七条における国家と倫理」193頁。

[25] 同上195頁以下。

[26] 小野清一郎「憲法十七条における国家と倫理」194頁。

[27] 同上。

[28] 小野は、この規定を、一定程度は「民権主義的な組織原理」と評し、こうした集団の意思決定における討議の重視は、教団における自治を重んじてきた「仏教の律に現はれた会議法から示唆された」ものだろうと推測している。小野清一郎「憲法十七条の国法性について」160頁、161頁。

[29] 津田左右吉『日本上代史研究』(昭和5年)180頁以下。

[30] こうした「十七条憲法」の現代的な意義をめぐって、近年でも憲法学の領域で一定程度の業績が公表されている。楠正純「聖徳太子の十七条憲法――その今日的意味」大東法学10号(昭和58年)、小森義峯「十七条憲法憲法学的重要性について」憲法論叢創刊号(平成6年)、深瀬忠一「聖徳太子の17条の憲法(とくに「以和為貴」)にたいする中国諸思想の影響と日本的総合およびその憲法文化的遺産と今日的意義(1)」北星論集32号(平成7年)など。これは、この論点が極めて重要であることを示唆している。

[31] 小野清一郎「新憲法聖徳太子聖徳太子奉賛会編『聖徳太子と日本文化』(平楽寺書店、昭和26年)

[32] 小野清一郎「順法精神の根源」聖徳太子奉賛会編『聖徳太子憲法十七条』(聖徳太子奉賛会、昭和43年)

 

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小野清一郎