【関西】定例研究会報告 田中卓『教養日本史』を読む

令和3年11月20日に開催された民族文化研究会関西地区第40回定例研究会における報告「田中卓『教養日本史』を読む」の要旨を掲載します。

はしがき

 いわゆる「皇国史観」の主唱者として活動した歴史学者平泉澄田中卓はその弟子として師の学問の継承と発展に努めた。田中は日本古代史研究者として多くの著作を執筆したのみならず、自身でも日本史教科書を著した。それが今回検討する『教養日本史』である。本書は昭和四十一年の検定で不合格となった高校日本史教科書を、大学の教養課程のテキストとして用い、加筆し版を重ねたものである。

 田中は教科書執筆をする際の基本的な方針として昭和四十二年版のはしがきにて以下の七項目をあげている。

 

  • 歴史の研究は日進月歩しているので、学界最新の研究の成果をできるだけ公平にとりいれた。
  • 歴史事実の選択にはできるだけかたよらないように努め、そのため、敗戦後ややもすると故意に無視あるいは敬遠されてきた日本の伝統や民族の誇りについても、正当に理解できるようにした。
  • 日本の立場を、世界とくにアジアの動向と関連させて、広い視野から理解できるようにした。
  • 歴史は総合的に学ぶ必要があるので、本書では政治・社会・経済・文化の各方面にわたって、できるだけ詳細に記述する方針をとった。また歴史は暗記ものではないから、興味をもって通読しやすいように考慮し、頭注によって要点を掌握できるようにした。
  • さらに時代の総合的な理解がしやすいように、時代区分にも新しいくふうをし、各章ごとに時代の概観をつけた。また年表も時代の長さが一目でわかるように特別の配慮をした。
  • 日本の年号は日本歴史を理解するうえで必要であり、また便利でもあるので、これを主として用いたが、世界史との関連をはかるため、西暦をも付け加えた。
  • 天皇は日本国の象徴とされているので、本書での皇室に関する記述は敬語を用いた。また現在の学校教育との関係でやむをえず文部省指定の新仮名遣に従った。

 

 本稿では以上の七項目に挙げられた基本的な理念を頭に入れつつ、教科書中のそれぞれの歴史の記述で特色ある部分を抜き出し、検討することによって、田中卓という歴史家がどのような史観を以て若者に向けての「通史」を描こうとしたのか、それを明らかにしたい。

 

 第一節 古代

 古代は縄文時代から六世紀にかけての記述を行っている。最も特徴的であるのは、書き出しを縄文期からではなく、日本の神話から始めていることである。田中は「もとより、神話をそのまま歴史事実と考えることはできない」と断りつつも、大八洲と神々の誕生、出雲神話天孫降臨、海幸・山幸の神話を記述している。現代教科書では神話は古代史の記述の中にあくまで参考として少し記述されるにすぎないが、田中にとっては日本史の記述はまずは神話を始まりとしなければならなかったのである。最も、旧石器時代から、縄文時代弥生時代に至る記述は詳細であり、神話のみを記しているわけではない。

 また、古代に形作られた氏姓制度の説明では「皇室は氏の最も大きなものであるが、他の氏とちがって氏の名称をもたないという特色がある。これは一般の氏族が他の氏と区別するため名称としての氏をもつようになるころ、すでに皇室が他の氏族とかけはなれた高い地位にあり、中心的な地位を得ておられたからだと思われる」と説明し、頭注で「『随書には「倭王姓は阿毎(アメ=天)を氏称と誤解している」と補足している。原始的な統治形態

が作られた段階で、既に皇室は他の存在とはまったく別の位置にいたことを記述しているのである。

 文化面の記述に於いては、神社建築を詳しく記している点が特筆される。神明造・流作・大社造・春日造が絵図でもって紹介されている。

 

 第二節 上代

 上代聖徳太子の治世から、平安時代にいたるまでの歴史が叙述されている。聖徳太子の十七条憲法を紹介する段で、第三条「詔を承りては必ず謹め」を「蘇我氏に対する厳しい戒め」と理解しているのは興味深い。また聖徳太子の隋に対する外交を「隋に対しては自主的な外交を推進された」と日本の自主独立外交の始めとして評価している。

 聖徳太子没後の蘇我氏の政治に対しては、その専横ぶりを詳細に記述し、頭注で「これら

は明らかに蝦夷がみずから天皇の地位を得ようとした野望の表れである」とまとめている。

 また、大化の改新の段では、種々の政策を記した後に、「太子の理想は、摂政以来五十余年をへて実現を見たのである」と聖徳太子の治世と大化の改新を連続性のあるものとして捉えている点が特徴的である。

 大宝律令の制定に関しては、「この法体系は、実質的に武家社会の成立以前まで約四百年余の上代社会を規制したのみならず、形式的には明治初年まで千数百年にわたって存続し、日本が近代国家として発足する際の基本法典として復活した」と注を入れている。「復活した」という表現を用いている点に注目したい。

 行為簒奪を計画したとされる道鏡に関する記述では、宇佐八幡宮神託事件の顛末が詳細に記されている。

 建武の新政時に模範になったとされる醍醐天皇の「天暦の治」に関しては頭注で「天皇は、日夜政道にいそしまれ、寒夜に御衣をぬいで人民の苦しみをしのばれたという逸話も伝わっている」というエピソードを紹介し、高く評価する一方で、「この延喜・天暦の御代はのちに政道の理想とされ、建武の中興はこの時代に範を求めたものである。しかし、社会の実情は、三善清行の封事『意見十二箇条』にみられるように、各方面において破綻を生じており、この時代はいわば律令国家の最後の輝きにほかならなかった」と冷静な評価もしている。

 平安時代の貴族に関しては「また人々は惰弱に流れ、尚武の気性を忘れた。陰陽道から派生した方違・厄年・厄日などの迷信が行われ、病気・災厄をのがれるため加持・祈祷が盛んになった。さらに仏教の因果応報・前世宿業の説が一般に信ぜられて、人々は運命の前に怖れおののいた。また末法思想がこの時代の識者の考えを支配した。多くの貴族たちは、このような悲嘆の生活を送る一方、詩歌・管弦の遊びにふけったのである」と厳しい評価をしている。またその文化に対しても「しかし一面、それはなお国民一般とは遊離した貴族の文化であった。多くの貴族は消極的で安逸に流れ、いっさいの美化された生活のなかで極楽浄土を夢想し、「もののあはれ」が一世を風靡した」とこれまた厳しい評価をしている。

 

 第三節 中世

 中世は平清盛による武家政治の創始から鎌倉時代を経て、戦国期までをその範囲としている。武家政治の創始者と言える源頼朝の評価は「「およそ保元・平治よりこのかたのみだりがわしさに、頼朝といふ人もなく、泰時といふ者なからましかば、日本国の人民いかがなりなまし。」とは『神皇正統記』の率直な言葉であるが、律令体制崩壊後の社会に、新しい、そして希望のある秩序を与えたものは、武家政治の出現であった。武家の興隆によって、上代末期の頽廃的風潮は一掃され、人々は勇気と果敢を尊び、倹約と名誉を重んずる精神をとりもどした」と高い評価を下している。

 鎌倉時代の経済を記述している段では「庶民相互の金融機関として頼母子も発達した」と記されており、田中の歴史を見る目が非常に広いことを伺わせる。

 いわゆる南北朝時代に関しては、後醍醐天皇吉野山に入り、皇居を定めた延元元年(一三三六年)から後亀山天皇が京都に帰るまでの五十七年間を「吉野時代」と呼称している(頭注では「南北朝時代とも呼ぶ」と補足はしている)。南朝中心史観とまではいかないまでも、あくまで吉野朝を正当な存在として捉えていることがこの記述から看守される。

 室町時代の政治史では足利義満のいわゆる皇位簒奪計画についても記述されている。注で「義満は、みずからを天皇(院)の地位になぞらえる野望をいだき、妻を国母に准じて北山院と号させ、その子義嗣の元服を清涼殿で行い、儀式はことごとく親王に准じた。彼の没後、「太上天皇」の尊号がおくられるようとしたのは、生前すでにその工作が進められていたためと思われる。」と記している(最も現在の史学界では義満による皇位簒奪計画はほぼ否定されているようである)。

 また外交については義満の日明貿易を「これは、聖徳太子以来の自主外交の精神を失った屈辱的態度である」として厳しく弾劾している。

 また特色ある記述としては、足利義政後花園天皇がその政治をいさめるために、御製を送ったエピソードが原文付きで紹介されるなどがある。天皇の「徳」を強調する記述と言えるであろう。さらにそれに続けて後柏原天皇後奈良天皇正親町天皇の即位の大礼や御所の修理、伊勢神宮の造営費用が様々な戦国大名本願寺から出されたこと、貴族が皇室費用の献納を進めたことを挙げ、「このようにして、戦国乱世の時代に、かえって皇室と国民の心のつながりが深く結ばれ、やがて天下統一の中心を仰ごうとする織田信長の出現となったのである」と結んでいる。戦国乱世の時代にかえって皇室尊崇の念が強くなったという歴史観は実に興味深いものがある。

 

 第四節 近世

 近世はおおむね織豊政権期から明治維新までを範囲としている。

 織田信長の治世は詳細に記述されているが、中でも異色なのはやはり皇室とのかかわりを記した部分である。「信長は入京後、ただちに皇居の修理に着手し、殿舎をすべて新築して面目を一新した。さらに御料地を回復し、供御の料を奉って廃絶していた朝儀の再興をはかった」と信長の皇室への献身を強調している。

 近世期の文化史で興味を惹かれる記述は江戸期の儒教に関してのそれである。儒教思想史を詳しく記述しその意義を認めながらも「しかし、儒学の興隆に伴ってシナ文化にも心酔し、日本の自主的立場を忘れる学者もでた。古来シナはみずからを中華・中国と称し、他を蛮夷として卑しめる風があったが、木下順庵はみずから「東夷」といい、荻生徂徠も同じく「夷人」と称してシナ風に物茂卿・物徂徠などといった。一方、山崎闇斎山鹿素行は、わが国こそ「中朝」・「中国」と唱えるべきことを説いて、華夷の弁を明らかにした」と当時の儒教者の中国傾倒を厳しく糾弾している。

 注目すべきは松平定信の一連の政策への評価である。いわゆる寛政の改革における緊縮政策を評価する一方で「炎上した皇居の造営にも誠意を尽くしたが、光格天皇の御生父に対する尊号問題では名分を正すことを理由として反対した」と煮え切らない記述を行っている。

 幕末に於いて注目すべき記述は徳川慶喜大政奉還を記した部分である。「かねてから水戸学によって国体への自覚が養われていた慶喜は、このような時制の推移を察し、朝廷の密勅が下った同じ日に、決意して大政奉還のことを朝廷に願い出て、翌十五日、勅許された」と記し、慶喜の行動が水戸学による思想の裏付けがあったことを強調している。

 

 第五節 現代

 現代は、明治維新からまさしく「現代」までの範囲である。明治政治史における特徴的な記述としては「マリア=ルース号事件」を取り上げ、一章を設けて記述している部分があげられる。また外交史では江華島事件に端を発する日朝修好条規を「この条約は朝鮮にとって不利な条件を含んでいた」と前置きしながらも、「その第一条において「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり。」と明記したことは、従来ほとんど清国の従属国のようにみられていた朝鮮を、わが国が自主独立の国として承認し、しかもそれを中外に宣伝する結果となった」と肯定的に評価している。

 その後、田中は近代史の記述を進めていくが、治安維持法による共産主義者社会主義者自由主義者への弾圧を記しており、その筆致は公平を期したものである。一方で、五・一五事件二・二六事件を記述する際、北一輝の名前が挙がっていないのは特筆されよう。北だけでなくいわゆる「右翼」思想家の代表的存在とされる大川周明の名前も無い。ここには何らかの意思があるとみるべきであろう。一方で大正期のマルクシズムの紹介者として高畠素之の名前は記されている。

 大東亜戦争(田中は当然ながら「大東亜戦争」と記載している)の記述に関しては、日本が対米戦争を決意した背景にハル・ノートの要求の苛烈さ、過酷さを強調する一方、アメリカ陸軍長官スチムソンの日記の文章を欄外に提示し、対米戦争がアメリカ側の策謀によって引き起こされたものであることを暗示している。

 当然、敗戦後の占領政策東京裁判にも否定的で東京裁判に関しては頭注で「このように戦後、勝者が敗者裁くことは近代戦争において例のないことであり、その不当性が次第に明らかになりつつある」と弾劾している。

 長い日本史記述のむすびを飾る章は「国家再建の努力」と題されたものである。まだ沖縄・小笠原諸島の返還がなされていない時期の執筆であり、その問題解決を強く望む文章を記す。その後に、「われらは、長い歴史を顧みて父祖の声を聴き、さらに将来に想いを馳せて子孫の期待にこたえるため、祖国日本の発展に努めなければならない。個々の日本人は、いずれは死ぬべき運命にある。しかしわれらは、どのような困難に直面しようとも、けっして日本国家と日本民族を死滅させてはならないのである」と結び、長い日本の歴史をまとめている。

 そしてさらに平成八年に執筆されたと思わしき追補では、ソ連の崩壊や一九九七年に控えた香港返還を見据えた上で、「この激動の世界に処して、日本は、新しい秩序と平和に貢献するために、二千年にわたる歴史と伝統に培われた道義国家を建設し、もって万邦の範となる決意をもとうではないか」と読者に呼び掛けている。

 

 むすび

 本書を通読しての感想は「教科書として重厚かつ丁寧であり、非常によくまとまっている」である。歴史教科書は膨大な歴史をいかに「省略」し、そしていかに「強調」し、概説してまとめて記述していくかに多大な労力が払われ、またそこにこそ書き手のセンスが問われてくるわけだが、『教養日本史』は政治・文化・経済・宗教等多方面の歴史に目を配りつつ、バランスよく記述している。また写真や図録、原典引用も豊富で、一人でここまでの通史を書き得る田中卓という歴史家はやはり卓抜していると言えるであろう。

 そして第八版刊行時の序文「″自由教科書〟の提唱―新装第八版の序に代へて―」では田中はこの時期吹きあがっていた教科書問題を踏まえて「その私の結論は、少なくとも義務教育ではない高等学校の日本史教科書は、文部省の検定をやめて、欧米並みに“自由教科書〟とするがよい、ということである」とまず宣言している。さらに続けて「およそ高等学校における歴史の教科書は、著者の〈学問的良心に基づく歴史観〉と、採用する側の教師と読者(高校生)による〈真摯な検討の自由〉をこそ尊重すべきであつて、或る特定の政策目標のためにワクをはめてはならないのである。また反面、一部で行はれてゐるやうに、教科書の記述内容の可否をめぐつて検定の当否を裁判所に持ち込み、その判定を乞ふなどというのは、学問の冒涜、学者の失格である」と述べる。この記述は当然ながら家永教科書裁判を念頭に置いたものであろう。

そのような結論に至った理由を、田中は自身の記した日本史教科書が昭和四十一年度の検定で不合格となった経緯があることに求めている。その際、叙述の手直しをすれば合格が保証されていたが、田中の歴史観からしてその改定は到底納得できるものではなく断念。その際記述した通史を一般の啓蒙書やテキストとして出版したものがこの『教養日本史』の原型である。

 また田中は自由検定になれば俗悪な歴史教科書が出回るのではないかとする心配に対しては、「しかし公平に見て、戦後五十年の間に、学界・教育界も落着きをとりもどし、学習指導要領の大ワクがほぼ定着してゐる。特に歴史は史料を基にする学問なので、それほど無茶な内容は書けない。(中略)そして何よりも教科書を使ふ教師、生徒とその親、一般世論の公正な判定が、一番大きく影響することになるであろう。長期的視野に立つ時、現状で検定を無くしても、私は心配してゐない」としている。

 続けて、中学校以下の学校で使用される日本史教科書については教科書無償を取りやめ、いわゆる「就学校の指定」で明記した学校教育法施行令第五・九条の改正を求め、望ましい教科書を親と子供が自由に選択できる環境にすべきことを提言している。つまりは教科書・就業校選択の完全なる自由化を唱えているのである。

 田中は最後に「国家は、憲法の第二十一条“言論、出版その他一切の表現の自由”を保証するだけでよいのである」と結んでいる。ここに見える田中の教科書観、引いては思想とは、一言で言えば「国民の良識を信じ、常により良き歴史を叙述し、発表し、あとはただ読み手の審判を待つ」というものであろう。田中はあくまで日本国民の良心を信じ、政治勢力や司法の力による「学問への介入」を決して許さなかったのである。これこそ田中卓という歴史家が日本史という「通史」を記したうえでの基本思想だったのである。

 

 参考文献

 田中卓『教養日本史』 有限会社青々企画 平成八年十月

 

本稿は令和三年十一月二十日に行われた第四十回民族文化研究会関西支部定例研究会における発表原稿を加筆訂正したものです。

田中卓