【関西】定例研究会報告 近世・近代日本の相互扶助システム――定礼と国民健康保険

令和元年10月19日に開催された民族文化研究会関西地区第18回定例研究会における報告「近世・近代日本の相互扶助システム――定礼と国民健康保険」の要旨を掲載します。

 

(一)はじめに

  私たちは皆リスクを抱えている。 

 それは、個人のレベルで言えば大病などによる生活レベルの低下であり、社会レベルで言えば、戦争や災害による社会の激変である。

 そしてそれは、かつて生きてきた人々も同じだったはずである。

 飢饉や疫病が蔓延したり、恐慌や戦争といった社会の激変があった。

 現在では、社会保障制度があり、突然の事故などによって生活レベルが極端に変化することを防いでいるが、かつて社会保障制度が未整備だった頃に生きてきた人々がいかにリスクを乗り越え、社会や文化を維持・発展させてきたのかを「相互扶助」という側面から考察し、今後私たちの時代でも起こるであろう大きな社会変革において、いかように対処すべきなのかという思索の一助にしたい。

 本稿では、「定礼」に主軸を置き、定礼制度の概要、運用地域、運用方法、時代的変化などを記述し、国民健康保険は紹介する程度に留めている。

 

( 二 )定礼とは

  「定礼」とは、『健康保険の源流』とされる制度で、福岡県宗像、鞍手郡熊本県の一部で運用されていた。

 制度の概要は、その村の医療を確保するために、村人たちが定期的に米や金銭を納めて医者を村に滞在させ村人たちが医療を受けられるようにする、というものである。詳細は後述する。

 発祥がいつかは定かではないが、内務省が昭和九年に調査した段階で「百年余前」に始まったというふうに記述されており『天保の飢饉』ころに始まったのではないか、推測されている。

 そもそも、定礼が何故できたのかというと、『不況による医者の離村』を解消するために作られた。

 まず、江戸期において医療は「仁術」とされており、貧富の差に関係なく同じ処置を行うのが一般的であった。それ故、飢饉の時も貧富の差関係なく同じ治療を行い治療に際しては、薬を処方する。その際に、村人は貧窮により、治療費未納となることが多かったのでその費用は医者が肩代わりすることになる。しかし、医者も十分な所得があるわけではないので、医師が生活難となり村を出ていくということが多発する。その結果「無医村」が多くできたため、それを解消しようとしてはじまったとされている。

 

( 三 ) 主に定礼が存在した地域

 「定礼」は先にも述べたように、福岡県宗像 、鞍手郡熊本県の一部で存在しており、内務省が調査した昭和九年の段階では、福岡県に十九地区、熊本県に一地区と、福岡県が最も多い。また、福岡でその存在が確認にされた地域は、宗像郡と鞍手郡に集中している。

 

・宗像郡(十一ヵ所)

神興村の手光、津丸、八並。上西郷村の畦町、本木、上西郷、内殿、舎利蔵。池野村池田。岬村鐘崎。大島村(一島一村)。

 

鞍手郡(八ヵ所)

若宮村の福丸、金生。山口村の野中、浅ヶ谷、畑、里、小原。吉川村の三ヶ畑。

 

熊本県(一ヵ所)

天草郡中村大字柳浦(ただし、定礼制度が創設されたのは昭和七年)

 

 昭和九年の段階で存在が確認されたのは右記した通りだが、昭和九年までに存在していた定礼もあり、宗像郡では大字(江戸期から明治初期まで「村」と呼ばれていた地区)単位で行われ、その数は三十七地区(江戸期には、宗像郡の村は六十地区)に上る。

 これらが存在した地域はいずれも経済的交通的に恵まれていない純農山漁村であった。

 また、「定礼」が存在しなかった地域の特徴として『健保の源流 筑前宗像の定礼』の著書である井上隆三郎氏はその特徴を挙げている。

 

(一)海岸の漁村、及びこれに接する農村。(例外として、鐘崎、大島村があるが、定礼が始まったのは大正後期)

(二)農業以外の雑多な人口が多かった所。

(三)純農村でも、近隣の区に医者が多く、医療に事欠かなかった所。

(四)定礼制度の運用

 

 先に述べたように、定礼制度は村ごとに存在していたためその運用方法もその村ごとに決められていた。

 ここでは内務省国保制定の際に参考にした神興村手光の定礼制度の運用方法について記述する。

 

沿革:設立の動機は、地方に医師を定住させるため一定の薬価を保障する目的で設立。

※規約や規則などはなく、申し合わせと慣行で運用。

 

役員と選出方法:役員は、区長と世話人三人(役員は、名誉職)。世話人任期は、二年。選出方法は、毎年正月に部落の集会がありそこで一切の行事の相談と役員投票を行う。

 

構成員:一戸を構える、もしくは一戸は構えなくとも独立の生計を営む者が組合員。

総戸数一〇七戸のうち九十一戸が加入。(不参加者は移動性のある者)

有産者、貧困者ともに除外されていない。

 

組合費:組合員の資力に応じて不均一に負担。組合費の一部を人頭割、一部を資産割で賦課。

組合費年額は一戸当玄米五斗一升(換算すると約十四円二、三十銭)。

その内三割を現金で旧盆に、七割を米で旧年末に徴収。

(例:昭和十年の時には、旧盆に世帯員一人につき三十七銭の人頭割と、税額一円につき金十銭の特別戸数割とを合したものを課し、年末に一人につき玄米二升四合の人頭割と税額一円につき玄米七合の特別戸数割とを合したものを課している。最高は盆に十七円四銭、年末に玄米一石一斗九升四合。最低は、盆に金六十銭、年末に玄米三升九合)

 

事業内容:手光在住の医師と契約。組合員及び世帯員の診療を行う。診療報酬は組合費から支出、請求薬価に不足していても割引してもらう慣行があった。入院及び特別高価薬は組合診療外として自己負担。ただし、実際は相当の割引があった。

 

事務費の捻出:組合費徴収に当たっては端数を切り上げ残額を事務費にあてる。

 

(五)定礼の時代的変化と国保の成立

 もともと江戸期から明治までの定礼は医師を請負制で雇い、医師に定額の米などを納める形で運用されていた。

 明治維新によって西洋医学が輸入すると「医制」公布によって『西洋医学による開業試験』を受けなければ医師になることができなくなった。

 また、西洋医学が入ってきたことでそれまでの東洋医学にはなかった『病気』の種類が多くなり、漢方の時代よりもはるかに多くの知識や学ぶ資金が必要となり、定礼もまた医師に定額で米を納めて治療を受けるということができなくなってきはじめ、定礼は一時廃止されたものの、(四)で見たような組合員に対して治療に応じて一部自己負担金を課すことで定礼は復活した。

 またさらに時代が進み、昭和期で五・一五事件に代表されるような農村の貧窮を是正を訴えたテロが起きていた頃、治安維持の面と医療面を担っていた内務省は昭和八年に社会局長官の丹羽 七郎から部下である社会局企画課長だった清水 玄(国民健康保険法の事実上の立案者)に「農村を医療面から救うため、社会保険を利用する方法を考えよ」という旨の指示をした。

 当初清水自身は農村において社会保険制度を利用することは困難であると考えていたが、昭和九年の調査によって定礼が運用されていることを知り、その定礼を入念に調査した後国民健康保険法の制定へと動き出した。

 まず、内務省は埼玉県の越ヶ谷に「越ヶ谷順正会」という会を町民と共に作り上げそこで実績を挙げ昭和十三年の三月に国民健康保険法が成立した(公布は四月)。(厚生省の設置は昭和十三年の一月)

 国民健康保険法はもともとの目的は「農村救済」のためであったが、同法が成立した頃は支那事変が拡大していたためその目的は「健兵健民の確保」に変わり一般国民にまでその門戸を広げた。

 国民健康保険は、当時は任意加入であったが健民政策の重要な一部として位置付けられ、大政翼賛会といった諸団体による普及宣伝計画によって順調にその加入者を増やしていった。

 また、定礼が運用されていた宗像などの地域では国保ができてから、三~四年後に加入を果たしている。

 同時期は米が統制下に入ったこともあり、定礼の米の醵出も難しくなったため、定礼は廃止され、国保に引き継がれる形でその役割を終えたと言える。

 そして、数度の法改正を経て現代の国保制度に至っている。

 

(六)定礼の問題点

無医村回避のために創設された「定礼」であるが、いくつかの問題もあった。

 

(壱)移動性のあるものは対象外

 これは、現代まで至る福祉上の問題であると考えられるが、「移動性」のあるものは対象外だった点である。

 現代でも、ネットカフェ難民やホームレスのような定住地を持たないものは行政サービスの外にはじかれて統計上からも消えてしまう。

 

(弐)医師は生活に苦慮していた

 定礼制度は、医師がその地域に滞在し、組合員が定礼金と自己負担金を支払うことで医師の生活を成り立たせていた。

 それ故、地主として固定収入のある医師ならまだしも、医師の収入は地域の組合員の収入に左右され、なおかつ、薬価などを請求して請求額に満たなかった場合でも割引してもらう慣行もあったことから当然不足の薬価は医師が自腹を切っていることになるため医師の生活は楽ではなかった。

 

(参)住民が医師を選べなかった

 定礼地域には、医師は一人しかいなかったため住民は一人の医師の診察しか受けることができなかった。

 

(七)定礼が福岡県宗像郡で成立した背景

 定礼が福岡県の宗像郡で多く見られた理由を、井上氏は次のように考察している。

 宗像郡は旧筑前国に属し、大化の改新以後宗像神社が領有とする「神郡」として一つのまとまりを持っており、そして、「宗像神社は単なる地域共同体ではなく、敬神の念で結ばれた精神共同体(Die Gemeinschaft)」*一であったが故に他の農漁村よりも連帯感が強かった、こと。

 また、福岡藩の時代の「産子養育制度(貧困による嬰児の捨て殺しを回避するために、養育料として米を子供が生まれた家に支給する制度)」による相互扶助の素地があったこと。

 そして、「こもり」が他の地域より多く実施されていたこと。

 「こもり」とは、同じ地区の住民が特定の場所や神社の境内に集まって泊まり込みで五穀豊穣の祈りをすることである。こもりには、共同生活を営むことで地区の人々の間に連帯感を強めることにも一役買っていたこと。

 以上が、井上氏が考察した定礼が福岡県の宗像郡で多く見られた理由である。

 

(八)まとめと課題

 以上が、定礼と国保の成立過程である。

 定礼が無医村回避という目的の下に運営され、それが農村救済を目的とする内務省の手によって発見・改良され、国民健康保険制度が開始した後、翼賛体制の下で国民健康保険が普及していった。

 また、定礼が福岡県において成立していた理由や定礼が存在していなかった地域の特徴も述べたが、疑問も残る。

 まず、定礼が存在していなかった地域に「海岸の漁村とこれに接する農村」があるが、何故その地域には存在しなかったのか、という点である。こういった地域差は違う分野からのアプローチが必要であると思う。

 次に、「不正」に対する処置はどのように行われていたのか、という点である。定礼の運用は、規約といったようなものが存在していない。それ故に、例えば横領や組合費の過少納付や延滞といった場合にどのような措置が為されたのか記録に残っていない。

 また、福岡県の周辺以外に定礼のような相互扶助はあったのか、という点である。筆者は結論から言えばあったと考える。

 例えば、維新政府主導ではあるものの、「育児仕法(明治三年に岩手県に創設。堕胎問題を解決するため、満十六歳以上の女子を強制加入させて出産する場合は育子金を支給した。主に、下層階級の子の間引を矯正する点に重点を置いている。ただし、県制改革の折に廃止。)」という相互扶助が創設されている。

 他には、『相互扶助の経済』を著したテツオ・ナジタ氏は一七九五年に「恵民頼母子講」という保険組合が広島の柳井市で結成されていることを指摘しているし、「無尽講」、「頼母子講」という相互扶助のシステムは全国に存在していた。先に述べた「越ヶ谷順正会」もその前身は「至誠会」という名の「無尽講」である。

 「無尽講」、「頼母子講」については別の機会で発表したいと考えている。

 

*一 井上隆三郎、『健保の源流│筑前宗像の定礼』、(西日本新聞社、一九七九)、二六九頁

 

参考文献

  井上隆三郎『健保の源流ーー筑前宗像の定礼』 西日本新聞社、一九七九年

 テツオ・ナジタ著、五十嵐暁郎監訳、福井昌子訳『相互扶助の経済――無尽講・報徳の民衆思想史』 みすず書房 二〇一五年

 全国国民健康保険団体中央会編『国民健康保険二十年史』 全国国民健康保険団体中央会 一九五八年

 森嘉兵衛『森 嘉兵衛著作集 第二巻 無尽金融史論』 法政大学出版局 一九八二年

 

 

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定礼制度に基づいて運営された神興共立医院を記念した「定礼公園」