令和元年10月19日に開催された民族文化研究会関西地区第18回定例研究会における竹見靖秋氏の報告「ある化学者の神道説――明石博高の電気神道」の要旨を掲載します。
明治維新によって東京が政治の中心となった。天皇と共に多くの貴族や人材が東京へ移り衰微した京都は、第二代京都府知事・槇村正直を中心に近代化・殖産・勧業を推し進め復興していくことになる。
その槇村を支えた人物に明石博高(ひろあきら)という人物がいる。明石は幼い頃から西洋科学や医学に接し、その知見を以て京都舎密局を開設するなど槇村や山本覚馬らに協力した。彼の携わった事業には多くの「日本初」とされる物があったが、槇村の後任・北垣国道が府知事になると多くの事業が縮小・廃絶された為、今日ではその名が評価されることは少ないように思われる。
また明石は廃寺の復興や、謡曲の調査、伝統文化の保護など活動の幅が広かった。宗教方面においても神道教団で教義制定に携わったとも言われており、また自ら神道系教会を主宰していた。彼の神道説は西洋科学の概念と神道を組み合わせたものとしてライターの田中聡氏は「電気神道」と呼称している。
明石に関する資料はあまり多くは残されていないが、彼の著書などから、その「電気神道」について概観してみたい。
明石博高の経歴
明石博高は天保十年に京都市内で生まれた。五歳の頃に父を亡くし、祖父の弥平善方の元で育てられたが、善方は長崎でシーボルトから学んだこともあって蘭学の文物を多数所蔵しており、博高もそれらに囲まれて育ったという。
他方、後に西郷隆盛と入水する清水寺の月照から国学を学んでおり、漢学や、和歌など国文学の方面も幅広く学んだ。
慶應元年、二十七歳の時に旧態のままであった日本の医学を刷新しようと幕府医官や洛中の儒医などと共に「京都医学研究会」を組織している。活動の一環として手分けして関
西各地の温泉を巡り、その泉質や効能を研究した。翌年には「煉眞舎」を創始し、有志と共に理化学の研究を行っている。この集まりは明治維新以降も続き、後に京都府知事・槇村正直がその噂を聞きつけて例会に参加、明石の講義や科学実験を見学したことが京都府に出仕するきっかけとなった。慶應四年の鳥羽・伏見の戦いの際には官軍・幕軍の区別なく負傷者の治療に当たっている。まるで赤十字のような活動であるが、後に明石の建白により「寮病院」が設立された際には十字の旗を掲げていたらしく、これは日本赤十字の祖とされる松平忠興が博愛社を立ち上げるよりも七年程早かった。明治になり大阪病院が創立されると、招かれて薬局主管になる一方で、翌年に大阪舎密局が開設されると、教師の外国人医師から内科術や理化学、生理学などを学んでいる。明治三年に京都府に出仕すると、その理化学の知識を買われて創始された京都舎密局の主管となった。舎密とは化学の別名であり、この京都舎密局では石鹸、漂白剤、ラムネ、ビール、薬品、七法焼、ガラスなどを製造し、一部は販売まで至っている。この中には日本初とされるものも幾つかあるものの、後に多くの事業が廃絶されたため後世に続かなかった。ちなみにこの舎密局で明石に理化学を学んだ者の中には島津製作所の創業者・島津源蔵などがいる。
この他、京都の勧業振興のため病院や窮民授産場、外国語学校、製糸場、鉄工所、製薬場、気象台の設置など、槇村府政の元で多くの事業立ち上げに携わった。田中緑江著『明治文化と明石博高翁』の年表においても、明治三年から十四年までの文量が極端に多い。明治十四年、槇村が知事を辞め元老院議官に就任したが、その際、明石に対し共に東京に来るよう勧めた。しかし「京都に生まれその一生涯を京都の為に捧げるのが念願であつて敢へて自己一身の栄達を願ふものではない」と固辞したという。槇村の後任で京都府知事となった北垣は、明石が最も力を入れていた京都舎密局を廃止することを決めたが、これを機に京都府出仕を辞職し、舎密局を払い下げるよう求め、この後数年間は自ら経営している。以降は泉質の研究をしたり、西洋料理専門の料亭を開業する、医者として人助けをするなど京都での活動を続けた。しかし先進的すぎた為か事業の失敗が続き大きな借金を抱えるようになる。明治四十三年に病に倒れ、七十二歳でこの世を去った。
宗教界との関わり
明石博高は幕末の活動や維新後の寮病院設立から医者、あるいは京都舎密局の初代主管となったことから化学者として説明されることが多い。明石の携わった事業には確かに医学や化学など科学的なものが多いが、その一方で伝統文化や社寺の保存活動なども行っていた。元々国学を学んだこともあってか、そういった文化的なことにも興味があったらしい。『明治文化と明石博高翁』にも以下のような記載がある。
「又幼年の頃より各所を巡覧し、古蹟を探査するを好み、近畿地方は深山幽谷と雖殆ど其足跡を印せざる地なく、其記憶に洩れたる所ないくらゐである。又宗教に深い関心を持ち、神、佛、耶蘇を研究し(中略)佛典に造詣深く、聖徳太子を尊崇しておつた、山階大宅寺は由緒ある寺であつたに係らず全く廃滅に帰して居たから何か形だけでも残したいと遺稿にある研究を発表したが中途で物故してしまはれた。(二三八項)」
大宅寺だけでなく、清水寺では田村堂の本尊である坂上田村麻呂木造の初代のものが盗難にあって以降行方不明だと知ると、その捜索を行って持ち主を発見、最終的に還座に成功している。
また、南禅寺の大唐門は築二百年以上の古い建築物であるが、維持費がかさみ売りに出されたことがあった。その際も明石は即座に買い取り、豊国神社へと寄付している。これが現在でも社殿の前にある大唐門であるが、説明に明石の名が出ることはほぼ無い。
こうした寺社への関わりだけでなく、明石は教派神道にも関わっていたそうだ。明治二十二年には大成教の教義制定に関わり中教監の地位を得ているとされているが、これが果たして教団全体の教義制定によるものかは不明である。大成教は様々な教会を傘下に収めており、その内の一教会の教義制定だった可能性もある。しかし教祖の平山省斎は『大成教創立大旨』で外教を国民を誤った道に導くものとしているが「彼の窮理実験(中略)を併せ採り、以て我が皇祖天神の道を補賛し」と西洋技術については取り入れる姿勢を見せていたため、西洋事情に詳しい明石が教義編纂に参与していてもおかしくは無い。平山は翌年の二十三年五月に亡くなっているため、どれ程教団との繋がりがあったかは不明である。
翌二十三年には「御嶽教のため尽力するところあり」として三月に教導職試補となり、その後とんとん拍子で同年八月には最高位の大教正待遇にまで上り詰めている。
御嶽教もまた傘下に多種多様な教会を収めていた教会で、元々は大成教に所属していた。明治十五年九月に特立しており、その際には平山省斎が管長を兼任している。明石が大教正となったのは明治十八年に就任した二代目管長・鴻雪爪の時代であるが、こちらもどこまで御嶽教との繋がりがあったか詳細は分からない。しかし、両教団とも決して低くない階級を任命されているあたり、教団への貢献はそれなりにあったのだろう。
明石の著書に見る「電気神道」
先述のように宗教界にも関わっていた明石だが、彼は独自の神道説を持っていたようだ。
『明治文化と明石博高翁』では「科学に立脚する神学を唱へ神学教会を主宰しておつた(二三八項)」とある。明石は明治二十年春、自宅に神学教会を興しており造化三神を主祭神としていたらしい。その神学教会で唱えていた神道説については次のような記述がある。
「理化学や哲学に造詣深い翁は持論として此の大宇宙森羅萬象の根元は電氣である、有らゆる力も、あらゆる形體も皆根元的に電氣の現象に外ならない、電氣は陰電氣と陽電氣に分たれ、それが平衡したり或は一方優劣が起ると現象が顕はれるのである、天地萬物創造の主體は即電氣である、吾人々類の信仰すべき対象即神ありとせばそは電氣そのものであると云ふのである」
このような思想は著書にも反映されている。明治六年に出版された『防雷鍼略説』は、明石が避雷針について説明した際の口述を纏めたもので、その中には雷電が「電機(越瀝力のこと近頃支那人之を電機と称せり)」だと説明している。その電気の説明では以下のように語っている。
「〇電機は萬(ばん)體(たい)造化(ぞうくわ)の機(カラ)力(クリ)にして物(もの)皆(みな)此(この)力(ちから)を有(たも)たざるものなし或は潜(ヒソミ)蔵(カクレ)或顕(アラ)発(ハレ)し以て森羅万象の進退離合動静変化を為しむ今雷電を起すも天地不平(たいらかならざる)の機を調和(トトノヘ)平均(ヒトシク)するものにて此発(アラ)象(ハレ)なかりせば天地保全(タモチ)し萬物爰(こゝ)に覆(オオヒ)載(ノセ)する事能(あた)はず嗚呼造化(モノツクリ)の巧妙(タクミ)豈(あに)疑(うたがふ)べけん哉」
先述の説明と合わせて考えると、神学教会の教説は神道と森羅万象を陰電氣と陽電氣の二元論的な動きによるものとする明石の思想を結びつけたものと思われる。これについて田中聡氏は「電気神道」と呼称している。
明石の電気に対するこうした理解は化学書にも表れている。『化学撮要』は化学についての入門書であるが、化学を「凡宇宙萬有の潜顕蔵否變化動静の機能を窮識せしむる学術」としている。そして化学物質の結合や分離、触媒などの能力を説明し、その能力を「化学親和力」或いは「舎密力」と呼び、その本源を「越瀝力」としている。
この越瀝が本源ということは度々文中で説明されており、化学親和力についての説明では「越瀝力にして天地の間、萬有に具有し宇宙に充満せり、然れども各種の物體、其力徳を凛含するに差異ありて皆な一様ならず」としている。
元素の説明文の中では電気分解によって多くの新元素を発見した電気化学の祖ハンフリー・デービーを称賛しており、「一千八百〇八年(我文化五年)諳厄利亞の(國名)達喜氏出て、物體の能力所謂離合、聚散、變化、動静、潜顕、出沒はみな越瀝の機能に関係するを創見してより以来、物體の成分を測るに越瀝機を以て試み、従来元素とする亞爾加里、土類も合雑なるを識り、新に一正説を立て越瀝化學の名を興隆し、宇宙萬物の元素を測り、大発明を以て元素の類数を訂し、千古の蒙を啓けり、而しより以降、この説の眞正なるを称し、各國の諸賢みな力を協せ、有機、無機の萬體を離剖分析して、其成分を測り、今に到りて六十四種の原行世に顕はる、誠に此説や眞にして疑なかるべきなり、嗚乎達喜氏出て越瀝造化の力徳を顕はし、千古の疑惑を解く、豈感賞すべけんや」と『化学撮要』で登場する人名の中では最も多くの文量で説明されている。ここから明石がデービーの発見した「越瀝」の作用を重要視していたことが考えられる。
明治二十九年に書かれたという『最新良方鎮神術玄義』は「メスメリズム」を紹介するもので明石はメスメルを「動物磁石力を治療界に施行されてより其功験を奏せる」と記述している。この書については現状全文を確認できてはいないが、『明治文化と明石博高翁』に引用されている目次を見る限り「造化大能力は電力に帰するを論説す」「身体中電気流通自然の態」などの電気に関する記述も見られる。動物磁石力と同じ文脈で電気という語を使っていることから、奥村大介氏は明石が日本に流れ着いたカロリックやエーテルといった「不可秤量流体」概念の一つとして「電気」ととらえていたと見ている。
こうした明石の思想を踏まえた上で、神学教会の『造化経』を見てみると「電気」という単語自体は使われていないものの、明石の考える「電気」の働きをイメージして書かれたと思われる箇所が多く見て取れる。
『造化経』は明治二十一年に発表された祝詞で全文平仮名で書かれている。著者は堀吉兵衛となっているが明石が著したものらしい。
まず「むすひのたゞへごと」として冒頭で天之御中主大神を称ている。その御力である「かみけ」こそが「よろづかたちのねにして あらゆるものゝもとなり」つまり万物の素にして全ての物に備わっている力だという。さらにこの「かみけ」の御力を詳細に見ると、「くしみたま」「さきみたま」と呼ばれる力に分けられるという。
「くしみたま」は万物に備わっている原初の「かみけ」であり、このくしみたまの働きで万物を造り、活かし、行い巡るという現象が発生する。この現象のことを「さきみたま」としている。この二つの力にはそれぞれ「かりき」と「めりき」が備わっていて、「かりき」と「めりき」が釣り合っている時は「あるものゝかぎりを」保つ安定状態となるが、釣り合いが偏っている場合は「おだやかならず」という闘争状態となる。これらの御力は
この世界に満ちているが「もとつちぎり」に従って秩序通りに動いている。こうした、浜の真砂まで漏らす事無くあらゆる物を司る「みいさを」を称えて神を援け、人の人たる道を守って大神に仕えて祭る、というのが『造化経』の主な内容である。
これらの内容を明石の思想と合わせて読むと、「めりき(減り気)」「かりき(上り気)」が「陰電氣と陽電氣」を指していると考えられる。両者の釣り合いが乱れた際に闘争状態となるというのは、『防雷鍼略説』で天地が乱れた際に調和する現象が雷電とする説明とほぼ等しい。「かみけ(神気)」が萬物に備わっているという部分は『防雷鍼略説』の「電機は萬體造化の機力にして物皆此力を有たざるものなし」や『化学撮要』における「越瀝力にして天地の間、萬有に具有し宇宙に充満せり」の説明を想起させる。「くしみたま」の御力はおそらく「舎密力」を指していると思われ、また「さきみたま」の説明は「物體の能力所謂離合、聚散、變化、動静、潜顕、出沒はみな越瀝の機能に関係する」という記述に通じている。
つまり、「くしみたま」の陰陽バランスの動きによって「さきみたま(現象)」が発生する。その「さきみたま」もまた陰陽のバランスによって安定している時は「あるものゝかぎりをたもち」状態となるが、不均衡な時は雷が発生する如く「おだやかならず」状態となる。それぞれの神気は森羅万象に備わっていて、それらが秩序良く「もとつちぎり(物理法則と言っても良いかもしれない)」通りに動いている。
こうした全ての物を司る天之御中主大神の神気の御力・御功、霊産を称えて祭るというのが『造化経』の内容であり、『明治文化と明石博高翁』に紹介された「天地萬物創造の主體は即電氣である、吾人々類の信仰すべき対象即神ありとせばそは電氣そのものである」の世界が「神気」「上り気」「減り気」「奇御魂」「幸御魂」といった伝統的な言葉を使って展開されていると言える。
しかし『造化経』で示される「かりき/めりき」という「二元論」にしても、従来存在していた「陰」「陽」思想を言い換えたものとも捉えることができ、奥村大介氏の指摘通り、明石の神道説は科学の知見を用いて伝統的な神道学説を説明したものとの見方もできるであろう。
先述の通り明石は西洋科学だけでなく国学も学んでおり、葬儀においても仏式と共に神式でも行っているなど、神道に対しての好意的な態度は生涯変わらなかった。同じく京都の文明開化を先導した山本覚馬がキリスト教に向かったとは対照的である。そのような明石が開明的な西洋科学と伝統的な神道を接合させた電気神道は、伝統文化と西洋科学が遭遇した維新期だからこそ誕生したも言えるのではなかろうか。
ちなみに『造化経』では「東洋神學會」の蔵梓となっているが、明治『簡便治療書』での明石の名義は「帝国神学教会長 大教正明石博高」となっているため、正式名称は「帝国神学教会」と思われる。
帝国神学教会
明治二十三年に明石は御嶽教から最高位・大教正の称号を得ているが、その御嶽教の傘下に「帝国神学教会」という同名の教会が存在していた。明石の帝国神学教会と同一なのか、関係があるのか等は現時点では不明だが、同じ京都市内にあって、こちらは平成の御代まで存続していたらしい。平成十九年度の『京都府宗教法人名簿』には御嶽教の傘下教会として記載がある。しかし同二十七年度版ではその名を消していた。『宗教法人数調』によると平成二十二年度までに任意解散したようである。
令和元年九月、かつて帝国神学教会が鎮座していたという場所へ行くと、現在では住宅地となっていた。周辺住民に話を伺うとかつての光景を覚えている方が居り、近くで喫茶店を営む店主の話では教会が取り壊されたのは数年前のことだそうだ。当時のお宮は古く立派だった印象があり、たまに白装束の行者が来ていたらしい。
話を聞く限り一般的な御嶽教の教会だった様だが、最後の教会長の方は電気工を営んでいたとのことである。
主な参考文献
田中緑江『明治文化と明石博高翁』(明石博高翁顕彰会、昭和十七年)
田中聡『怪物科学者の時代』(晶文社、平成十年)
奥村大介「人体、電気、放射能 : 明石博高と松本道別にみる不可秤量流体の概念」(『近代日本研究 29』慶應義塾福沢研究センター、平成二十四年)
『御嶽教の歴史 開教九十五年の歩み』(御嶽教大教庁、昭和五十四年)
『京都府宗教法人名簿 平成十九年』(京都府総務部文教課、平成十九年)
『京都府宗教法人名簿 平成二十七年』(京都府文化スポーツ部文教課、平成二十七年)
『京都府宗教法人数調 平成二十二年』(京都府文化環境部文教課、平成二十二年)