【コラム】「帝国市民」と欧州右翼運動の現状――ユートピア願望の果て

「帝国市民」とは

 ドイツでは、最近になって「帝国の市民(Reichsburger)」と呼ばれる極右勢力が注目されつつある。この勢力は1980年代中盤に出現し、確たる組織をもたない緩やかなネットワークを形成し、近年ではソーシャルネットワークを介して連携を行っている。それなりに以前から存在する勢力であるわけだが、2016年に構成員が警官射殺事件を引き起こし、また参加者数が最近になって急激に増加したため(2016年段階で1万人だった構成員が、2017年には1万8000人になっている)、一躍巷間の耳目を集める結果となった。これに対し、ドイツの治安機関(内務省・連邦警察)も警戒を始め、今年になって「帝国市民」の構成員が所持する武器類を押収するなどしている。

 これだけならば、近年になって拡大している過激な新興右翼勢力という、近年の欧州では珍しくもない現象かもしれない。この「帝国市民」が巷間の耳目を集めたのは、その主張の特異性のためだった。「帝国市民」の主張のうち、反EU・反移民・国家の伝統や主権の強調といった点は、他の右翼勢力と共通している。だが、現在のドイツ連邦共和国を認めない点は、他の右翼勢力とは一線を画しているとされる。「帝国市民」は、第二次世界大戦末期の連合国との終戦協定は無効だとし、戦後に誕生したドイツ連邦共和国には正当性が無く、国家社会主義ドイツ労働者党が指導していたドイツ国ナチス・ドイツ)がいまだに存続していると主張しているのだ。さらに、「帝国市民」は、こうした主張を実践している。現在のドイツ政府に正当性を認めない彼らは、パスポートをはじめとする公的機関が発行する証明書類を破棄し、納税も拒絶している。さらには、独自の通貨やパスポートを製造するところまで行動がエスカレートしている。近年の「帝国市民」の武装化は、こうした行動による当局との軋轢に由来しているとされる。

 

本当に「帝国市民」は特異な集団なのか――「歴史のリセット」をめぐって

 こうした「帝国市民」の特異な行動を、「歴史のリセット」をキーワードとして分析しているのが、ニューズウィーク日本語版に掲載されている六辻彰二「『歴史のリセット』を夢想するドイツ新右翼『帝国市民』とは何者か」である。六辻は、「帝国市民」の性格を、次の二つに要約する。第一に、「基本的に伝統的な価値観や歴史を重視し、一方で現実の社会に不満や幻滅を蓄積させていることは他の極右勢力と同じでも、歴史のある時点に立ち返るという不可能なことを夢想している点」であり、第二に、「その不可能な夢想のために、現実を全く否定するという倒錯がある点」だ。ここから、こうした思考様式はIS(イスラム国)とも通じる、と結論付けられている。しかし、ここで疑問を呈したいのは、そもそも「帝国市民」の主張の内容が、本当にこれまで右派に類例を見ない特異なものなのか、そして「帝国市民」の思考様式が、すなわち「歴史のリセット」は既存の右派の文脈のなかで捉えることができないのか、の二点である。

 まず第一の点から触れるが、「帝国市民」のような主張は、端的に言えば前例が存在するのである。国防軍の元少将でナチ擁護の論陣を張っていたオットー・エルンスト・レーマーらによって、1949年の西ドイツで結成された右翼政党であるドイツ社会主義帝国党は、戦後に成立したドイツ連邦共和国アメリカの傀儡政権であり、正統な政府はヒトラーの死後に、その遺言に従ってカール・デーニッツが組織した「フレンスブルク政府」(敗戦処理を遂行するための疎開政府)だと主張した。ドイツ連邦共和国を否定し、ナチ政府の存続を主張する「帝国市民」の主張と瓜二つだろう。続いて第二の点に触れるが、「歴史のリセット」という思考様式は、右派には全く珍しくない。正確には、過去のある一時期を理想的な黄金時代と解釈したうえで、そこへの回帰を志向する思考様式である。これは数多の事例があるが、ドイツのケースを取り上げよう。アルミン・モーラーは『ドイツの保守革命』において、ワイマール時代における左右の政治的立場が混交した当時の右翼的思潮を「保守革命(Konservative Revolution)」と呼び、それらを青年保守派・国民革命派・国粋民族派・青年同盟・農村民運動の五種類の運動へと類型化した。ここで注目したいのが、青年保守派である。青年保守派は、中世ドイツを理想化し、そこへの回帰を志向した。青年保守派のイデオローグであるE・J・ユングは、神聖ローマ帝国の体制を至上と見なし、中世的身分制と全欧州的な多元的国家体制から構成され、期限付きの皇帝である「ライヒ代理職」によって支配される「新たな中世」を構想していた。ユングについては、小野清美『保守革命とナチズム:E・J・ユングの思想とワイマール末期の政治』に詳しいが、こうした雄大な中世回帰の構想に表れているように、いわゆる「歴史のリセット」は「帝国市民」の専売特許ではないことが明瞭になっただろう。こうしたワイマール期の青年保守派の思想にせよ、ロマン派以来の中世賛美・古典回帰の延長線上にあるものだ。

 

ユートピア願望の果てに

 ここまで来て、「帝国市民」におけるドイツ連邦共和国の否定にせよ、「歴史のリセット」という思考様式にせよ、前例が幾らでもある代物であることが分かった。筆者が思うに、「帝国市民」の特異性は、こうした過去の右派の主張を、実際に実行してしまう点である。例えば、ドイツ社会主義帝国党は、ドイツ連邦共和国を否定する主張を繰り返しながら、選挙に出馬し続けた。さらには、ニーダーザクセンブレーメンの州議会では一定の議席保有していた。現政府を否定しながら、その現政府によって維持されている議会制度へのコミットを続けたわけで、身も蓋も無い言い方をすれば、矛盾以外の何物でもない。しかし、彼らの行動こそ、常識的だろう。現実政治にコミットし、そこで勢力を獲得しなければ、政治団体としての意義を果たせないのだ。しかし、「帝国市民」は、現実政治にコミットせず(それどころか、彼らはパスポートを破棄し、納税もしない)、自身らで通貨やパスポートを発行し、黙々と「国家」を演じ続けている。ここに、現実政治に深く絶望し、自身で(閉鎖的な)理想世界を作り出そうとする、ある種のユートピア願望を読み取るのは不自然だろうか。「ドイツのための選択肢」であれ、「国民戦線」であれ、「北部同盟(現在は「同盟」に改称)」であれ、欧州諸国の議会において極右政党の台頭が著しい。急進右派の現実政治へのコミットメントが深まるのに並行して、こうした現実政治に完全な絶望を覚えた人々が、自身のユートピアに逃れようとしている。六辻によれば、アメリカにも、「帝国市民」と同様の主張と行動を行っている「独立市民」というグループが出現している。欧米の右翼運動は、深い「断絶」を経験しようとしているのかもしれない。