【関西】定例研究会報告 アメリカ保守主義の思想的系譜 ――井上弘貴『アメリカ保守主義の思想史』を読む

令和3年9月18日に開催された民族文化研究会関西地区第38回定例研究会における報告「アメリ保守主義の思想的系譜 ――井上弘貴『アメリ保守主義の思想史』を読む」の要旨を掲載します。

はじめに

(一)本邦におけるアメリ保守主義研究の現状

 これまで、アメリカの保守派は、多大な注目を浴びてきた。超大国アメリカにおいて、民主党と共に二大政党を担う共和党の支持基盤であり、その動向は多大な影響をもたらす。アメリカ政治を分析する上で、アメリカの保守派の情勢には気が配られてきた。

 しかし、それは表面的な政治行動に対する関心に終始し、彼らの思想的背景にまで踏み込んだ考察は十分ではなかった。アメリカの保守派には、いかなるイデオローグがおり、どのような言説が展開されているのか、詳細に紹介されてきたとは言い難い。

 少ないとはいえ、アメリカの保守主義思想を検討した研究は存在する。しかし、それらの研究は、取り上げる対象が偏っていたり、前提となる研究姿勢が恣意的であったり、問題が少なくなかったと思われる。

 たとえば、アメリカの外交政策に多大な影響を与えたネオコンについては、本邦においても研究の蓄積があるが、その他の潮流については、十分に取り上げてこなかった。また、保守派を「差別主義者」「反動主義者」だと看做し、そうした前提にしたがって、恣意的な評価が行われる場合も多い。

 

(二)井上弘貴『アメリ保守主義の思想史』

 こうした問題状況を受け、アメリカの保守主義思想について、ニュートラルな視座から、その全体像を活写することを目的とするモノグラフが刊行された。本稿で取り上げる、井上弘貴『アメリ保守主義の思想史』(青土社、令和2年)である。

 本書は、戦後アメリカ保守の起源であるニューライトから、時系列に沿ってアメリ保守主義の全体像が明らかにされ、その将来像にまで言及される。その筆致は客観的であり、アメリ保守主義の実像が浮き彫りにされている。

 本稿では、この『アメリ保守主義の思想史』に依拠しつつ、これまで十分に検討されてこなかった、アメリ保守主義の思想的展開を略述する。そののち、筆者の視座から、若干のコメントを行いたい。

一 ニューライトの思想的展開

(一)「ナショナル・レビュー」の創刊とニューライトの誕生

 1955年に、「ナショナル・レビュー」という雑誌が創刊されたが、この雑誌には保守派の論客が集まり、戦後アメリカ保守の主流を構成するようになった。この「ナショナル・レビュー」に集った保守派の論客たちが、ニューライトと呼称されるようになる。

 この「ナショナル・レビュー」の中心人物は、バックリー・ジュニア、ウィティカー・チェンバース、フランク・マイヤーといった面々だったが、彼らはアメリ共産党からの転向者が過半を占めていた。

 彼らは、自身の経験から、共産主義に嫌悪感をもっており、共産主義全体主義に帰結すると看做した。また、穏健な社会改革だと見なされていたニューディール政策も、集権国家をもたらす点では、共産主義と同様に社会を危機に陥らせると主張した。

 こうして、彼らは共産主義ニューディールという、「二つの革命」に対抗することになった。1950年代は、マッカーシズムに代表されるように、反共主義が大きな力をもった時期であり、彼らの言説も大きな影響を与えていった。

 

(二)融合主義

 こうしたニューライトの保守主義思想が、「融合主義」だった。これは、マイヤーの『自由を擁護して――保守主義の信条』で定式化されたものである[1]。ここでは、共産主義だけではなく、伝統を絶対視する従来の保守主義も批判した上で、新たな保守主義イデオロギーが形成された。

 マイヤーは、両者ともに、人格の自由を副次的に捉える点では同質だとし、人格の自由と社会を支える伝統を双方ともに擁護することが主張された。また、マイヤーは、こうした人格の自由と社会を支える伝統の双方を重視する立場は、アメリカ合衆国憲法アメリカ独立宣言にも見出されると主張した。

 このように、伝統主義と自由主義の立場の融合を説くことから、ニューライトの保守主義思想は、「融合主義」と呼ばれたわけである。ここに、これまで主張してきた反共主義を加え、伝統主義・自由主義反共主義が、保守主義を支える三つの脚[2]と呼ばれるようになった。

二 ネオコンの思想的展開

(一)民主党支持者の転向とネオコンの誕生

 1950年代には、ニューライトによって戦後アメリカ保守の思想的基礎が構築されたが、1960年代には新たな保守主義の潮流が生まれる。それこそ、のちにアメリカ外交に多大な影響を与えるネオコンだった。

 ネオコンは、民主党支持者からの転向者によって構成されていた。民主党支持者のうち、反戦主義の台頭やニューレフトの出現など、民主党における過度の左傾化を忌避し、右派寄りの主張をするようになったグループだった。

 初期は、アーヴィング・クリストル、ノーマン・ポドレッツ、ジーン・カークパトリックが中心人物だった。アメリ共産党から離脱し、共和党を支持する者が多かったニューライトとは、思想的な起源が異なる。

 しかし、思想的な起源は異なったが、ネオコンはニューライトと多くの共通点をもっており、彼らと親和的だった。ネオコンは、ニューディール政策に一定の評価を下す点、外交的な強硬論が目立つ点を除けば、市場への評価・伝統の擁護など、ニューライトと主張は重複していた。

 

(二)ニュークラス論

 こうしたネオコンが提唱した特徴的な議論が、「ニュークラス」論である。当時は、ベトナム戦争の膠着状態を受け、反戦運動が盛り上がり、また主流文化への異議申し立てであるカウンターカルチャーが登場し、社会そのものが左傾化した。こうした動向は、民主党の支持者にも波及し、リベラルは変質しつつあった。

 ネオコンは、こうした社会の左傾化やリベラルの変質は、特定の階層によって引き起こされているとした。若い高学歴の専門職で、学生運動の影響で容共的・左翼的で、自身のもつ影響力によって社会を左傾化させる、そうした階層である。ネオコンは、こうした階層を「ニュークラス」と呼んだ[3]

 ネオコンは、従来の保守主義の敵対者である共産主義者やニューディーラーのみならず、こうした「ニュークラス」に対する抵抗を企図した。こうした「ニュークラス」論は、反エリート主義という、アメリカの草の根の保守主義運動の基本的主張として受け継がれた。

三 新しいニューライト(ニューライト第2世代)の思想的展開

(一)「寛容社会」の到来と「新しいニューライト」の誕生

 70年代から80年代になると、女性の社会的進出や、性的あるいは民族的マイノリティーの解放が訴えられるようになり、それに伴って世俗化や伝統的な価値の衰微が目立つようになってきた。こうした傾向は「寛容社会」と表現されたが、保守派はこの「寛容社会」に対峙することになった。

 こうした「寛容社会」がもたらす伝統的価値の解体に呼応して出現した新たな保守主義の潮流こそ、社会的保守主義に重きを置いた「新しいニューライト」と呼ばれる、ニューライト第2世代だった。

 ニューライトやネオコンの基礎には、自由主義・伝統主義・反共主義の三つのイデオロギーがあると説明したが(「融合主義」)、彼らはそのうち、伝統主義に傾斜していったのである。

 彼らは、キリスト教保守と提携しつつ、中絶反対運動や、女性の社会的進出の抑止を主張した。当時は、中絶を認めるロウ対ウェイド判決が下り、男女平等憲法修正条項が全米各州で批准されるなど、左派の攻勢が大きかったのである。

 

(二)保守主義の基礎をめぐる論争

 70年代から80年代にかけてのアメリ保守主義を特徴づけるのは、「新しいニューライト」の出現に加え、アメリ保守主義の基礎をめぐる根源的な論争だった。これは、レオ・シュトラウス門下であるハリー・ジャファと、ニューライトであるフランク・マイヤーやウィルモア・ケンドールのあいだで展開された[4]

 ジャファは、アメリカ独立宣言の中にある、「万人は平等に創造されている」という平等主義的原理に注目し、ここにアメリカに固有の崇高な原理を看取する。また、こうした原理を忠実に体現した政治家として、リンカーンを賛美する。リンカーンは、独立宣言における平等主義に根拠を求めつつ、奴隷制を否定した。

 しかし、リンカーンや、あるいは独立宣言への評価は、保守派の中でも論争的である。たとえば、マイヤーは、リンカーン南北戦争時に中央集権的な政府を生み出し、合衆国憲法の基本原理である権力分立や政府機関の均衡を骨抜きにしたと批判している。

 また、ケンドールは、独立宣言中の「万人は平等に創造されている」という記述が、合衆国憲法では姿を消しているとし、この記述を過度に重視することに異議を唱える。ケンドールは、平等主義ではなく、熟慮と衆議に、アメリカ政治の伝統を求めた。

四 ペイリオ・コンサーヴァティヴの思想的展開

(一)ネオコン路線への不満とペイリオ・コンサーヴァティヴの誕生

 90年代以降、東側陣営が瓦解し、冷戦が終焉することによって、融合主義を支えていた柱の一つである、反共主義が必要なくなった。しかし、保守派は、反共主義のかわりに、介入主義的な国際主義を据えることによって、従来のイデオロギー構造を維持しようとした。

 いかにして、国際外交の様々な局面において介入を行い、アメリカの国益を維持・拡張するかが論じられた。こうした介入主義的な国際主義は、ネオコン第2世代によって、外交的な強硬論として展開された。そして、周知の通り、こうしたネオコンによる外交的な強硬論が、アメリカ外交を支配していった。

 しかし、保守陣営が、全てこうした強硬外交路線を支持したわけではない。アメリカの本来的な在り方は孤立主義モンロー主義)であり、こうした介入主義的な国際主義を忌避する動向も存在した。こうした傍流的な立ち位置にいる保守派は、ペイリオ・コンサーヴァティヴと呼ばれた。

 彼らは、オールドライトへの回帰を謳い、介入主義的な国際主義への忌避、白人の生活圏防衛を動機とする移民受け入れ反対、衰退しつつある白人中間層の復権といった主張を展開した[5]

 

(二)トランプとペイリオ・コンサーヴァティヴ

 これまで説明してきた、介入主義的な国際主義の忌避や、移民受け入れへの反対、中間層の復権といったペイリオ・コンサーヴァティヴのイデオロギーは、トランプ政権によって政策として展開された。トランプは、従来の保守派の中で傍流だったペイリオ・コンサーヴァティヴを体現している大統領だったといえ、トランプの出現によってアメリカの保守主義思想は再編される見込みだとされる[6]

 すでに、トランプ支持の右派知識人は、活動を展開している。こうした右派知識人は、共同で声明を公表し、トランプ以前の保守派のコンセンサスは崩壊したと主張した。彼らは、従来の保守主義は、反共主義や介入主義的な国際主義に傾斜し過ぎたため、伝統の維持や共同体の再興といった本来の目的を見失ったと批判し、自身を「新たな伝統主義者」だと名乗った。

おわりに

(一)本書から把握されるアメリ保守主義の性格

 これまで、井上弘貴『アメリ保守主義の思想史』に依拠しつつ、アメリ保守主義の思想的展開を辿ってきた。ここで、こうしたアメリ保守主義が如何なる性格のものだったか、確認しておこう。

 アメリカの保守主義は、共産主義にはニューライトを、カウンターカルチャーにはネオコンを、「寛容社会」には新しいニューライトを、白人中間層の没落にはペイリオ・コンサーヴァティヴを対置させてきた。

 すなわち、それぞれの時代に訪れた社会的危機に即応した主張を展開してきたわけである。しかし、その根底には、自由主義・伝統主義・反共主義の三つのイデオロギーの均衡を説く融合主義が息づいている。

 このように、アメリ保守主義全体の性格としては、「融合主義」という骨格は守りつつ、社会の危機の変遷に対応して、柔軟にその思想を組み替えてきた、と整理できるのではないだろうか。

 

(二)本書において残された課題

 『アメリ保守主義の思想史』は、アメリ保守主義の思想的展開を見事に活写しているが、問題が全く無いわけではない。最も目に付くのは、アメリ保守主義を語る上で欠かせない重要な思想家に対する言及が不十分なのではないか、というものである。

 ラッセル・カークやレオ・シュトラウスについての解説は不足していると思われ、ダニエル・ベルやロバート・ニスベットは、ほとんど言及されていない。これは、紙幅の関係もあると思われるし、本邦に紹介されてこなかった思想家に比重を置いたとも解される。ただ、やはり彼らはアメリ保守主義の思想的系譜を辿る上で、外せないのではないだろうか。

 

[1] こうした「融合主義」については、72頁以下を参照。

[2] このように、三つの脚によって成り立つアメリ保守主義の性格を、パトリック・デニーンは「三脚の椅子」と呼んでいる。17頁を参照。

[3] こうした「ニュークラス論」については、112頁以下を参照。

[4] こうした論争については、160頁以下を参照。なお、この論争は、南北戦争に対する評価という、さらに論争的な問題ともリンクしている。

[5] こうした主張は、現在のアメリ保守主義におけるグローバリズム的傾向を是正し、ナショナリズムに回帰することを目指している、と捉えられる。従って、彼らの思想は、「ナショナル・コンサーヴァティズム」とも呼称される。258頁以下を参照。

[6] トランプは2020年の大統領選挙で落選したが、それでも状況に変化はなく、アメリカにおける保守主義思想の再編は続いている。井上が指摘するように、「二〇二〇年の大統領選挙の結果がどのようになるのであれ、二一世紀前半のアメリ保守主義思想は、なおしばらく模索の道を進むことになる」(276頁)わけである。

 

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井上弘貴『アメリ保守主義の思想史』