【関西】定例研究会報告 戦前期ドイツにおける民族主義的キリスト教運動 ――パウル・アルトハウスを中心として

令和3年4月17日に開催された民族文化研究会関西地区第33回定例研究会における報告「戦前期ドイツにおける民族主義キリスト教運動――パウル・アルトハウスを中心として」の要旨を掲載します。

はじめに

 戦前期のドイツでは、ナチスの台頭に影響を受け、民族主義的傾向を強めたキリスト教運動が出現した。代表例としては、「ドイツ的キリスト者(Deutsche Christen)」運動などが挙げられる。

 こうしたキリスト教運動は、ルターに始まるドイツ的なキリスト教の在り方を重視し、そこに回帰することを主張した。また、こうしたキリスト教運動は、パウル・アルトハウスらを中心とする有力な神学者にも支持され、民族主義的なキリスト教神学が建設された。

 しかし、一時期とはいえ、大きな影響を与えたにも関わらず、こうした民族主義的なキリスト教運動については、あまり研究がなされてこなかった。

 ナチズムとキリスト教の関係という主題では、親ナチス勢力などではなく、プロテスタントにおける「告白教会」や、カトリックによる「白バラ運動」といった、ナチスに対する抵抗運動に注目が集まってきた[1]

 だが、本邦における国家神道研究において見られるような、ナショナリズムと宗教の関係性に関心を寄せる視座に立てば、こうした民族主義的なキリスト教運動は興味深い素材たりえると思われる。

 こうして、本稿の視座が定まった。本稿では、これまで十分に検討されてきたとはいえない戦前期ドイツにおける民族主義的なキリスト教運動について、ナショナリズムと宗教の関係性という視点から関心をもち、これを俎上に載せることにする。

 

民族主義キリスト教運動の歴史的背景

 まず、ドイツ帝国期の政教関係にまで遡り、民族主義キリスト教運動が形成された歴史的背景を確認しておきたい。

 

(一)政教関係の変容――「王座と祭壇の結合」から「民族と祭壇の結合」へ

 ドイツ帝国は、成立当初から、プロテスタンティズムを基礎とする国家としての性格を明確にしていた。こうした側面から、当時のドイツ帝国は「福音主義帝国」と呼ばれた。また、教会が国家の手厚い庇護を受ける一方で、教会は国家に奉仕する、そうした相互補完関係が当時は成立していた。こうした相互補完関係は、「王座と祭壇の結合」と呼ばれた。

 しかし、第一次大戦におけるドイツの敗戦によって、教会の庇護者であった帝政が崩壊し、プロテスタント教会に親和的ではない社会民主党カトリック中央党が政界を主導する中で、こうした「福音主義帝国」や「王座と祭壇の結合」と呼ばれる、非常に密接な政教関係は瓦解することになった。ワイマール憲法下でも、プロテスタント教会の公的性格は認められたものの、往時のような特権的地位は喪失することになった。

 こうした状況に危機感を募らせたプロテスタント教会が、帝政にかわる拠り所として注目したのが、民族という概念だった。これまで依存してきた国家が、移ろいゆく脆弱な存在であるのに対し、民族は永続的なものであり、神が創造した真に価値あるものだと見なされたのである。こうして、国家にかわって、民族こそが、キリスト教の拠り所だと見なされるようになり、「王座と祭壇の結合」は、「民族と祭壇の結合」へと転換する[2]

 

(二)ルター・ルネサンスの到来――民族主義キリスト教運動の誕生

 こうしたプロテスタント教会における民族主義的傾向は、ルターへの再評価という方向性を取るようになった。民族主義的なプロテスタントは、ルターは宗教改革によって、キリスト教をドイツに適合させ、ドイツ人の宗教的精神性を創出した人物だと見なした。そして、ルターを再評価することによって、ドイツ人の本源的な精神性へと回帰することが重要だと強調した。

 こうした「ルター・ルネサンス」という動向は、キリスト教神学にまで波及することとなる。その先鞭は、カール・ホールによってつけられた。ホールは、ルターを過小評価したトレルチへの批判を通じて、ルターをドイツ精神の源流に位置付けた。ホールによれば、ルターの宗教的思惟はドイツの精神性に刻印されているのであり、そこにドイツ精神の卓越性がある。

 こうしたルターを通し、ドイツ的キリスト教を模索し、民族精神の再建を果たそうとする動向は、パウル・アルトハウス、エマヌエル・ヒルシュ、ウェルナー・エーレルトら、若手の有力神学者に支持されるようになり、「青年ルター派」という一個のグループを成すようになり、運動的にさらに隆盛を迎えることになった[3]

 

民族主義キリスト教運動の理論的内実

 続いて、こうした民族主義キリスト教運動の理論的源泉であると思われる、パウル・アルトハウスのキリスト教神学を検討し、民族主義キリスト教運動の理論的内実を明らかにする[4]

 

(一)民族主義者の「原体験」――ポーランド赴任と敗戦

 では、アルトハウスの神学の解説に入るが、その前提として、彼が民族主義者になるにいたった経緯を確認しておきたい。アルトハウスは、第一次大戦中は、牧師としてポーランドにある、ポーランド人とドイツ人の両民族が混住する地域に赴任した。このポーランド人とドイツ人の混住地域への赴任こそ、彼が民族主義者になる契機となった。

 アルトハウスは、その混住地域において、ドイツ人がポーランド人と婚姻し、またポーランドの文化を受容していることを目撃する。アルトハウスは、これをドイツ人の血統的純粋性・文化的独自性の毀損だと解釈した。他文化・他人種の脅威に晒され、純粋性を喪失しつつあるドイツ人の姿を目にし、ドイツの固有性を擁護する必要性を感じ、民族主義に開眼することになる。

 また、アルトハウスは、ドイツ人の危機と同時に、教会の危機も感じていた。教会は民族問題には不介入を貫くという「中立原則」を掲げており、ドイツ人の非ドイツ化にも無関心だった。アルトハウスによれば、教会は管轄する教区の民族問題に鋭敏であるべきであり、ドイツ人の固有性を擁護すべきだとしていた。

 こうして、ポーランド赴任を契機に民族主義に目覚めたアルトハウスだったが、これに拍車をかけたのが、第一次大戦におけるドイツの敗戦だった。ドイツ国内では、敗戦を契機として、ナショナリズムが高揚しつつあった。アルトハウスも、こうしたナショナリズムの高揚に影響を受け、民族主義的な神学を構想するにいたる基礎が形成されていったのである。

 

(二)創造秩序論

 アルトハウスの神学は、神によって創造された秩序である、「創造秩序(Schöpfungsordnung)」が体系の中心に位置づけられ、民族はその秩序のうち、もっとも基盤的な秩序として位置づけられている[5]。したがって、まず民族も含む創造秩序一般の概要を把握し、続いて、そこでの民族の位置を確認したい。

 秩序とは一般に、人間の共同生活の諸形態を意味する。しかし、キリスト教にとっては、こうした世俗的な含意とは異なる、神によって創造された秩序も意味している。こうした秩序は、神の意志が直接示される場であり、人間はこの秩序に従うことで、神の意志を認識し、実現する。換言すれば、神は自身の意志を示すため、ある秩序を創造し、そこに人間を結び付ける。こうした特権的な含意をもつ秩序こそ、創造秩序なのである。

 この創造秩序は、国家・民族・家族など、複数のものが想定され、互いに競合・並立しているとされる。また、この創造秩序は、固定不変のものではなく、可変的でダイナミズムをもつとされている。このように、創造秩序は、神によって創造されたからといって、唯一性・不変性はもたず、相対的な秩序であり、そこに籠められた神意に照らし、正しい在り方を模索しなければならないとされる。

 

(三)民族と個人の位相

 では、こうした「創造秩序」論における民族の位相を確認しよう。上記の記述から分かるように、アルトハウスは民族を含む創造秩序を絶対化しないものの、複数ある創造秩序の中で民族に優越的地位を与えており、また個人については基本的に創造秩序に服従すべきだとしていた。神の創造した秩序の中でも、とりわけ卓越した秩序として民族が存在し、個人はそこに服従する、という基本的構図が浮かび上がる。

 アルトハウスによれば、民族は神によって与えられた特権的な秩序であるとして、「基体」と呼ばれる。この「基体」は、人間生存の文字通り基盤であり、人間の自由意思に先行する。したがって、諸個人は民族に還元されることになる。

 しかし、これほど民族を重視する議論を展開しながら、アルトハウスは民族宗教には警戒感を示す。アルトハウスによれば、民族宗教は民族の根源から神が生じたと捉えることで、民族を神よりも上位に設定する転倒した発想に陥っているとする。神は、あくまでも民族に先立つ存在だとされるのである。

 

おわりに

(一)総括

 戦前期ドイツでは、従来の政教関係の崩壊と、ナショナリズムの高揚という状況下で、民族主義的なキリスト教運動が出現した。そして、その動向は神学に及び、アルトハウスによる民族主義的なキリスト教神学を生んだ。

 アルトハウスの議論は、民族を神の創造秩序と位置づけ、神・民族・個人の関係性を神学的に説明しようとした、と整理できるだろう。民族は神によって創造された特権的秩序であり、個人は民族に対しては服従することが求められる。他方で、民族宗教に見出される、神よりも民族を重視する思考は峻拒される。アルトハウスにとって、神・民族・個人の階層秩序は絶対的なものだったのである。

 

(二)残された課題

 こうしたアルトハウスらに代表される民族主義キリスト教運動の大きな特徴は、民族を重視する立場を採用しつつ、それでも民族宗教には警戒的であることだろう。

 ナチス・ドイツにおけるナショナリズムの思潮を見ると、アルフレート・ローゼンベルクのように、キリスト教そのものを外来宗教だとして排斥し、ゲルマン民族に固有の信仰に回帰することを主張する民族宗教の主張が一定程度存在した。アルトハウスらの立場は、こうした見解を見据えつつ、これを否定するわけである。

 ナチス・ドイツにおけるナショナリズムと宗教の関係性を把握するためには、こうした民族主義キリスト教運動と民族宗教論の対立構造について注意を及ぼさなければならないだろう。

 しかし、本研究では、紙幅の関係から、民族主義キリスト教運動についてしか考察できなかった。残された課題としては、民族主義キリスト教運動と民族宗教論の対抗構造を把握することが挙げられよう。

 こうした対立は、本邦における日蓮主義に代表される仏教系ナショナリズム国家神道に代表される神道ナショナリズムの対立とも相通じており、極めて重要だと思われる。

 

[1] こうしたキリスト教勢力による反ナチ運動については、河島幸夫『戦争・ナチズム・教会――現代ドイツ福音主義教会史論』(新教出版社、平成5年)や、同『ナチスと教会――ドイツ・プロテスタントの教会闘争』(創文社、平成18年)を参照。

[2] こうしたプロテスタント教会における国粋主義的傾向については、深井智朗『ヴァイマールの聖なる政治的精神――ドイツ・ナショナリズムプロテスタンティズム』(岩波書店平成24年)を参照。

[3] こうした国粋主義的なプロテスタント神学者については、ロバート・P・エリクセン(古賀敬太他訳)『第三帝国と宗教――ヒトラーを支持した神学者たち』(風行社、平成12年)を参照。

[4] パウル・アルトハウスの事績や経歴については、ロバート・P・エリクセンの前掲書のほか、後藤俊明「ヴァイマル期における民族主義的神学の形成」社会科学論集49号(平成23年)や、深井智朗「パウル・アルトハウスと保守革命金城学院大学論集人文科学編10巻1号(平成25年)を参照。

[5] この「創造秩序論」は、アルトハウスの主著である『秩序神学(Theologie der Ordnungen)』(1934年)において展開されている。

 

f:id:ysumadera:20210419201739j:plain

                      パウル・アルトハウス