【書評】新保祐司『「海道東征」への道』(藤原書店、平成28年)

 

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 本書では、気鋭の文藝批評家である著者が、2005年から2016年まで、産経新聞の「正論」欄で執筆した時評が集成されている。音楽を糸口とした社会批評から、明治期の精神史をあつかった論説まで、多岐に渡る時評が全五部の構成で所収されているが、これらの時評の基調音になっているのは、紛れもなく表題にある「海道東征」だ。「海道東征」とは、1940年に皇紀2600年を記念し、神武東征に素材を求めて、信時潔が作曲した交声曲である。戦前はさかんに演奏された「海道東征」は、戦後は長らく封印状態だった。だが、近年になって、大阪と東京で演奏会が挙行され、満員の盛況となっている。

 著者は、こうした「海道東征」が現代に蘇生することによって、戦後日本の閉塞した言語空間に風穴が開いたと確信した。ボードレールヴァーグナーの「タンホイザー」のパリ公演に衝撃を受け、これを「精神史的」な事件だったと評価し、「リヒャルト・ヴァーグナーと『タンホイザー』のパリ公演」を執筆したが、著者も同様に信時潔の「海道東征」の演奏会に衝撃を受け、これを「精神史的」な事件だったと評価したわけである。本書の主題は、日本的なるものが禁忌となった戦後の時空において、建国の記憶を刻印した「海道東征」の蘇生がもたらした、自己の来歴を省みよという、日本人に投じられた真摯な声を、いかに受け止めるかという問いにあった。

 第一部「『海ゆかば』と『海道東征』の復活」と第二部「音楽が語りかけるもの」に所収された時評では、「海ゆかば」や「海道東征」といった、日本人の来歴を刻印している歌曲が、戦後の封印を打破して復活しつつある、近年の状況の「精神史的」な意義が語られる。「海ゆかば」と「海道東征」は、ともに信時潔が作曲を手がけた。著者は、『信時潔』(構想社、2005年)でも、信時潔の批評を試みているが、『信時潔』での著者の表現を借用すると、信時潔は音楽の領域を凌駕した「精神史」的作曲家である。

 著者は、父親が師事したキリスト者内村鑑三と、長年友人だった洋画家の小出楢重に、信時潔の思想形成への重大な影響を看取した。どちらも、キリスト教や洋画という「西欧」と対峙しつつ、自らが依拠する「日本」を探求した人物だった。そして、信時潔の音楽も、こうした西欧と日本の相剋と融合の系譜を継ぐ。そして、こうした西欧と日本の相剋と融合こそ、近代日本の宿命なのであり、こうした近代日本の宿命を背負う信時にこそ、「日本」の自覚的探求が成し遂げられた。こうして、日本人の来歴から鳴り響く「精神史的」音楽である、「海ゆかば」や「海道東征」が生み出されたわけである。

 第三部「明治の精神から考える」と第四部「戦後日本を問い直す」に所収された時評では、「海ゆかば」や「海道東征」といった、日本人の来歴を刻印している歌曲が生み出された「精神史的」状況を、明治期の精神史に求める試みがなされ、こうした精神史が忘却された戦後日本における病理が剔出された。著者は、信時潔の「精神史的」原型を、明治期の精神史に見出す。これは、先述した内村鑑三からの影響といった、信時潔の個人的事情から説明されるだけでなく、明治に誕生した精神が、大正には影を潜めて、昭和に入って再生したという、著者の歴史意識が反映されている。

 著者は、『内村鑑三』(構想社、1990年)において、明治に誕生した精神を、「ざらざらしている」と表現した。変革の時代がもつダイナミズムに包まれた精神は、荒々しく躍動的で、その質感は「ざらざらしている」わけである。また、保田與重郎は、「明治の精神」(1937年)において、明治に誕生した精神を、「正気」と表現した。藤田東湖の表現から借用した「正気」において、保田が意図していたのは、変革の時代に発揮される、精神史の底力である。こうした底力によって、歴史の激動は乗り越えられるわけだ。すなわち、明治に誕生した精神は、変革の時代がもつ、荒々しく躍動的だが、力強いエネルギーなのである。こうした精神によって、日本は西欧と対峙し、確固たる自我を確立するため格闘した。

 だが、こうした明治の荒々しい創業の精神は、大正には影を潜める。著者は、桶谷秀昭との対談である『歴史精神の再建』(作品社、2012年)において、大正は「精神の時代」だった明治とは対照的に「文化の時代」であり、明治の荒々しい創業の精神は喪失されたと述べた。華美だがダイナミズムに欠落した「文化の時代」である大正を経て、昭和に入って明治の荒々しい創業の精神は蘇生する。これは、日本が未曾有の危機に見舞われ、変革の時代へと向かったためだった。こうした明治に誕生し、大正に影を潜め、昭和に入って爆発した「精神史的」状況において、「海ゆかば」と「海道東征」は生み出されたのである。

 だが、日本が大東亜戦争において敗北を喫し、西側陣営に従属する対価として付与された「平和」に安住するうち、戦後日本は昭和に入って爆発した「精神史的」なダイナミズムを再び喪失した。戦後日本の退廃は、こうした「精神史的」なダイナミズムの喪失に起因している。第五部「東日本大震災から日本を問う」に所収された時評では、大震災という未曾有の危機に見舞われたのち、すなわち著者の表現を借用すれば「災後」において、日本が再び変革の時代に向かい、「精神史的」なダイナミズムが蘇生することが期待されている。しかし、東日本大震災から5年あまりが経過した現在も、こうした「精神史的」な変革は、いまだに生じていない。著者は、こうした変革の兆候として、「海ゆかば」や「海道東征」の復活を評価しているのだろう。「海ゆかば」や「海道東征」が投げかける、自己の来歴を省みよ、という真摯な声に日本人は応答しなければならない。