【東京】定例研究会のご案内

 

f:id:ysumadera:20200212204607j:plain

 

次回の民族文化研究会東京地区定例研究会が近日に迫りましたので、改めてご案内致します。次回の民族文化研究会東京地区定例研究会は下記要領にて開催しますので、万障繰り合わせの上ご参加ください。

民族文化研究会 東京地区第23回定例研究会

日時:令和元年11月17日(日)16時~18時
会場:早稲田奉仕園 102
東京都新宿区西早稲田2‐3‐1
https://www.hoshien.or.jp/
予定報告者:阪本浩「平家物語雑感(仮)」
      渡貫賢介(本会東京支部長)「戦前の早稲田と愛国」
会費:1000円
​主催:民族文化研究会東京支部
備考:この研究会は、事前予約制となっております。当会の公式アドレス(minzokubunka@gmail.com)までご連絡ください。また、会場の開室は14:00になります。それまではセミナーハウス内のラウンジにてお待ちください(今回は、部屋が異なりますのでご注意ください)。

【関西】定例研究会報告 近世・近代日本の相互扶助システム――定礼と国民健康保険

令和元年10月19日に開催された民族文化研究会関西地区第18回定例研究会における報告「近世・近代日本の相互扶助システム――定礼と国民健康保険」の要旨を掲載します。

 

(一)はじめに

  私たちは皆リスクを抱えている。 

 それは、個人のレベルで言えば大病などによる生活レベルの低下であり、社会レベルで言えば、戦争や災害による社会の激変である。

 そしてそれは、かつて生きてきた人々も同じだったはずである。

 飢饉や疫病が蔓延したり、恐慌や戦争といった社会の激変があった。

 現在では、社会保障制度があり、突然の事故などによって生活レベルが極端に変化することを防いでいるが、かつて社会保障制度が未整備だった頃に生きてきた人々がいかにリスクを乗り越え、社会や文化を維持・発展させてきたのかを「相互扶助」という側面から考察し、今後私たちの時代でも起こるであろう大きな社会変革において、いかように対処すべきなのかという思索の一助にしたい。

 本稿では、「定礼」に主軸を置き、定礼制度の概要、運用地域、運用方法、時代的変化などを記述し、国民健康保険は紹介する程度に留めている。

 

( 二 )定礼とは

  「定礼」とは、『健康保険の源流』とされる制度で、福岡県宗像、鞍手郡熊本県の一部で運用されていた。

 制度の概要は、その村の医療を確保するために、村人たちが定期的に米や金銭を納めて医者を村に滞在させ村人たちが医療を受けられるようにする、というものである。詳細は後述する。

 発祥がいつかは定かではないが、内務省が昭和九年に調査した段階で「百年余前」に始まったというふうに記述されており『天保の飢饉』ころに始まったのではないか、推測されている。

 そもそも、定礼が何故できたのかというと、『不況による医者の離村』を解消するために作られた。

 まず、江戸期において医療は「仁術」とされており、貧富の差に関係なく同じ処置を行うのが一般的であった。それ故、飢饉の時も貧富の差関係なく同じ治療を行い治療に際しては、薬を処方する。その際に、村人は貧窮により、治療費未納となることが多かったのでその費用は医者が肩代わりすることになる。しかし、医者も十分な所得があるわけではないので、医師が生活難となり村を出ていくということが多発する。その結果「無医村」が多くできたため、それを解消しようとしてはじまったとされている。

 

( 三 ) 主に定礼が存在した地域

 「定礼」は先にも述べたように、福岡県宗像 、鞍手郡熊本県の一部で存在しており、内務省が調査した昭和九年の段階では、福岡県に十九地区、熊本県に一地区と、福岡県が最も多い。また、福岡でその存在が確認にされた地域は、宗像郡と鞍手郡に集中している。

 

・宗像郡(十一ヵ所)

神興村の手光、津丸、八並。上西郷村の畦町、本木、上西郷、内殿、舎利蔵。池野村池田。岬村鐘崎。大島村(一島一村)。

 

鞍手郡(八ヵ所)

若宮村の福丸、金生。山口村の野中、浅ヶ谷、畑、里、小原。吉川村の三ヶ畑。

 

熊本県(一ヵ所)

天草郡中村大字柳浦(ただし、定礼制度が創設されたのは昭和七年)

 

 昭和九年の段階で存在が確認されたのは右記した通りだが、昭和九年までに存在していた定礼もあり、宗像郡では大字(江戸期から明治初期まで「村」と呼ばれていた地区)単位で行われ、その数は三十七地区(江戸期には、宗像郡の村は六十地区)に上る。

 これらが存在した地域はいずれも経済的交通的に恵まれていない純農山漁村であった。

 また、「定礼」が存在しなかった地域の特徴として『健保の源流 筑前宗像の定礼』の著書である井上隆三郎氏はその特徴を挙げている。

 

(一)海岸の漁村、及びこれに接する農村。(例外として、鐘崎、大島村があるが、定礼が始まったのは大正後期)

(二)農業以外の雑多な人口が多かった所。

(三)純農村でも、近隣の区に医者が多く、医療に事欠かなかった所。

(四)定礼制度の運用

 

 先に述べたように、定礼制度は村ごとに存在していたためその運用方法もその村ごとに決められていた。

 ここでは内務省国保制定の際に参考にした神興村手光の定礼制度の運用方法について記述する。

 

沿革:設立の動機は、地方に医師を定住させるため一定の薬価を保障する目的で設立。

※規約や規則などはなく、申し合わせと慣行で運用。

 

役員と選出方法:役員は、区長と世話人三人(役員は、名誉職)。世話人任期は、二年。選出方法は、毎年正月に部落の集会がありそこで一切の行事の相談と役員投票を行う。

 

構成員:一戸を構える、もしくは一戸は構えなくとも独立の生計を営む者が組合員。

総戸数一〇七戸のうち九十一戸が加入。(不参加者は移動性のある者)

有産者、貧困者ともに除外されていない。

 

組合費:組合員の資力に応じて不均一に負担。組合費の一部を人頭割、一部を資産割で賦課。

組合費年額は一戸当玄米五斗一升(換算すると約十四円二、三十銭)。

その内三割を現金で旧盆に、七割を米で旧年末に徴収。

(例:昭和十年の時には、旧盆に世帯員一人につき三十七銭の人頭割と、税額一円につき金十銭の特別戸数割とを合したものを課し、年末に一人につき玄米二升四合の人頭割と税額一円につき玄米七合の特別戸数割とを合したものを課している。最高は盆に十七円四銭、年末に玄米一石一斗九升四合。最低は、盆に金六十銭、年末に玄米三升九合)

 

事業内容:手光在住の医師と契約。組合員及び世帯員の診療を行う。診療報酬は組合費から支出、請求薬価に不足していても割引してもらう慣行があった。入院及び特別高価薬は組合診療外として自己負担。ただし、実際は相当の割引があった。

 

事務費の捻出:組合費徴収に当たっては端数を切り上げ残額を事務費にあてる。

 

(五)定礼の時代的変化と国保の成立

 もともと江戸期から明治までの定礼は医師を請負制で雇い、医師に定額の米などを納める形で運用されていた。

 明治維新によって西洋医学が輸入すると「医制」公布によって『西洋医学による開業試験』を受けなければ医師になることができなくなった。

 また、西洋医学が入ってきたことでそれまでの東洋医学にはなかった『病気』の種類が多くなり、漢方の時代よりもはるかに多くの知識や学ぶ資金が必要となり、定礼もまた医師に定額で米を納めて治療を受けるということができなくなってきはじめ、定礼は一時廃止されたものの、(四)で見たような組合員に対して治療に応じて一部自己負担金を課すことで定礼は復活した。

 またさらに時代が進み、昭和期で五・一五事件に代表されるような農村の貧窮を是正を訴えたテロが起きていた頃、治安維持の面と医療面を担っていた内務省は昭和八年に社会局長官の丹羽 七郎から部下である社会局企画課長だった清水 玄(国民健康保険法の事実上の立案者)に「農村を医療面から救うため、社会保険を利用する方法を考えよ」という旨の指示をした。

 当初清水自身は農村において社会保険制度を利用することは困難であると考えていたが、昭和九年の調査によって定礼が運用されていることを知り、その定礼を入念に調査した後国民健康保険法の制定へと動き出した。

 まず、内務省は埼玉県の越ヶ谷に「越ヶ谷順正会」という会を町民と共に作り上げそこで実績を挙げ昭和十三年の三月に国民健康保険法が成立した(公布は四月)。(厚生省の設置は昭和十三年の一月)

 国民健康保険法はもともとの目的は「農村救済」のためであったが、同法が成立した頃は支那事変が拡大していたためその目的は「健兵健民の確保」に変わり一般国民にまでその門戸を広げた。

 国民健康保険は、当時は任意加入であったが健民政策の重要な一部として位置付けられ、大政翼賛会といった諸団体による普及宣伝計画によって順調にその加入者を増やしていった。

 また、定礼が運用されていた宗像などの地域では国保ができてから、三~四年後に加入を果たしている。

 同時期は米が統制下に入ったこともあり、定礼の米の醵出も難しくなったため、定礼は廃止され、国保に引き継がれる形でその役割を終えたと言える。

 そして、数度の法改正を経て現代の国保制度に至っている。

 

(六)定礼の問題点

無医村回避のために創設された「定礼」であるが、いくつかの問題もあった。

 

(壱)移動性のあるものは対象外

 これは、現代まで至る福祉上の問題であると考えられるが、「移動性」のあるものは対象外だった点である。

 現代でも、ネットカフェ難民やホームレスのような定住地を持たないものは行政サービスの外にはじかれて統計上からも消えてしまう。

 

(弐)医師は生活に苦慮していた

 定礼制度は、医師がその地域に滞在し、組合員が定礼金と自己負担金を支払うことで医師の生活を成り立たせていた。

 それ故、地主として固定収入のある医師ならまだしも、医師の収入は地域の組合員の収入に左右され、なおかつ、薬価などを請求して請求額に満たなかった場合でも割引してもらう慣行もあったことから当然不足の薬価は医師が自腹を切っていることになるため医師の生活は楽ではなかった。

 

(参)住民が医師を選べなかった

 定礼地域には、医師は一人しかいなかったため住民は一人の医師の診察しか受けることができなかった。

 

(七)定礼が福岡県宗像郡で成立した背景

 定礼が福岡県の宗像郡で多く見られた理由を、井上氏は次のように考察している。

 宗像郡は旧筑前国に属し、大化の改新以後宗像神社が領有とする「神郡」として一つのまとまりを持っており、そして、「宗像神社は単なる地域共同体ではなく、敬神の念で結ばれた精神共同体(Die Gemeinschaft)」*一であったが故に他の農漁村よりも連帯感が強かった、こと。

 また、福岡藩の時代の「産子養育制度(貧困による嬰児の捨て殺しを回避するために、養育料として米を子供が生まれた家に支給する制度)」による相互扶助の素地があったこと。

 そして、「こもり」が他の地域より多く実施されていたこと。

 「こもり」とは、同じ地区の住民が特定の場所や神社の境内に集まって泊まり込みで五穀豊穣の祈りをすることである。こもりには、共同生活を営むことで地区の人々の間に連帯感を強めることにも一役買っていたこと。

 以上が、井上氏が考察した定礼が福岡県の宗像郡で多く見られた理由である。

 

(八)まとめと課題

 以上が、定礼と国保の成立過程である。

 定礼が無医村回避という目的の下に運営され、それが農村救済を目的とする内務省の手によって発見・改良され、国民健康保険制度が開始した後、翼賛体制の下で国民健康保険が普及していった。

 また、定礼が福岡県において成立していた理由や定礼が存在していなかった地域の特徴も述べたが、疑問も残る。

 まず、定礼が存在していなかった地域に「海岸の漁村とこれに接する農村」があるが、何故その地域には存在しなかったのか、という点である。こういった地域差は違う分野からのアプローチが必要であると思う。

 次に、「不正」に対する処置はどのように行われていたのか、という点である。定礼の運用は、規約といったようなものが存在していない。それ故に、例えば横領や組合費の過少納付や延滞といった場合にどのような措置が為されたのか記録に残っていない。

 また、福岡県の周辺以外に定礼のような相互扶助はあったのか、という点である。筆者は結論から言えばあったと考える。

 例えば、維新政府主導ではあるものの、「育児仕法(明治三年に岩手県に創設。堕胎問題を解決するため、満十六歳以上の女子を強制加入させて出産する場合は育子金を支給した。主に、下層階級の子の間引を矯正する点に重点を置いている。ただし、県制改革の折に廃止。)」という相互扶助が創設されている。

 他には、『相互扶助の経済』を著したテツオ・ナジタ氏は一七九五年に「恵民頼母子講」という保険組合が広島の柳井市で結成されていることを指摘しているし、「無尽講」、「頼母子講」という相互扶助のシステムは全国に存在していた。先に述べた「越ヶ谷順正会」もその前身は「至誠会」という名の「無尽講」である。

 「無尽講」、「頼母子講」については別の機会で発表したいと考えている。

 

*一 井上隆三郎、『健保の源流│筑前宗像の定礼』、(西日本新聞社、一九七九)、二六九頁

 

参考文献

  井上隆三郎『健保の源流ーー筑前宗像の定礼』 西日本新聞社、一九七九年

 テツオ・ナジタ著、五十嵐暁郎監訳、福井昌子訳『相互扶助の経済――無尽講・報徳の民衆思想史』 みすず書房 二〇一五年

 全国国民健康保険団体中央会編『国民健康保険二十年史』 全国国民健康保険団体中央会 一九五八年

 森嘉兵衛『森 嘉兵衛著作集 第二巻 無尽金融史論』 法政大学出版局 一九八二年

 

 

f:id:ysumadera:20191108030453j:plain

定礼制度に基づいて運営された神興共立医院を記念した「定礼公園」

 

【関西】定例研究会報告 ある化学者の神道説――明石博高の電気神道

令和元年10月19日に開催された民族文化研究会関西地区第18回定例研究会における報告「ある化学者の神道説――明石博高の電気神道」の要旨を掲載します。

 

 明治維新によって東京が政治の中心となった。天皇と共に多くの貴族や人材が東京へ移り衰微した京都は、第二代京都府知事・槇村正直を中心に近代化・殖産・勧業を推し進め復興していくことになる。

 その槇村を支えた人物に明石博高(ひろあきら)という人物がいる。明石は幼い頃から西洋科学や医学に接し、その知見を以て京都舎密局を開設するなど槇村や山本覚馬らに協力した。彼の携わった事業には多くの「日本初」とされる物があったが、槇村の後任・北垣国道が府知事になると多くの事業が縮小・廃絶された為、今日ではその名が評価されることは少ないように思われる。

 また明石は廃寺の復興や、謡曲の調査、伝統文化の保護など活動の幅が広かった。宗教方面においても神道教団で教義制定に携わったとも言われており、また自ら神道系教会を主宰していた。彼の神道説は西洋科学の概念と神道を組み合わせたものとしてライターの田中聡氏は「電気神道」と呼称している。

 明石に関する資料はあまり多くは残されていないが、彼の著書などから、その「電気神道」について概観してみたい。

明石博高の経歴

 明石博高は天保十年に京都市内で生まれた。五歳の頃に父を亡くし、祖父の弥平善方の元で育てられたが、善方は長崎でシーボルトから学んだこともあって蘭学の文物を多数所蔵しており、博高もそれらに囲まれて育ったという。

 他方、後に西郷隆盛と入水する清水寺月照から国学を学んでおり、漢学や、和歌など国文学の方面も幅広く学んだ。

 慶應元年、二十七歳の時に旧態のままであった日本の医学を刷新しようと幕府医官や洛中の儒医などと共に「京都医学研究会」を組織している。活動の一環として手分けして関

西各地の温泉を巡り、その泉質や効能を研究した。翌年には「煉眞舎」を創始し、有志と共に理化学の研究を行っている。この集まりは明治維新以降も続き、後に京都府知事・槇村正直がその噂を聞きつけて例会に参加、明石の講義や科学実験を見学したことが京都府に出仕するきっかけとなった。慶應四年の鳥羽・伏見の戦いの際には官軍・幕軍の区別なく負傷者の治療に当たっている。まるで赤十字のような活動であるが、後に明石の建白により「寮病院」が設立された際には十字の旗を掲げていたらしく、これは日本赤十字の祖とされる松平忠興が博愛社を立ち上げるよりも七年程早かった。明治になり大阪病院が創立されると、招かれて薬局主管になる一方で、翌年に大阪舎密局が開設されると、教師の外国人医師から内科術や理化学、生理学などを学んでいる。明治三年に京都府に出仕すると、その理化学の知識を買われて創始された京都舎密局の主管となった。舎密とは化学の別名であり、この京都舎密局では石鹸、漂白剤、ラムネ、ビール、薬品、七法焼、ガラスなどを製造し、一部は販売まで至っている。この中には日本初とされるものも幾つかあるものの、後に多くの事業が廃絶されたため後世に続かなかった。ちなみにこの舎密局で明石に理化学を学んだ者の中には島津製作所の創業者・島津源蔵などがいる。

 この他、京都の勧業振興のため病院や窮民授産場、外国語学校、製糸場、鉄工所、製薬場、気象台の設置など、槇村府政の元で多くの事業立ち上げに携わった。田中緑江著『明治文化と明石博高翁』の年表においても、明治三年から十四年までの文量が極端に多い。明治十四年、槇村が知事を辞め元老院議官に就任したが、その際、明石に対し共に東京に来るよう勧めた。しかし「京都に生まれその一生涯を京都の為に捧げるのが念願であつて敢へて自己一身の栄達を願ふものではない」と固辞したという。槇村の後任で京都府知事となった北垣は、明石が最も力を入れていた京都舎密局を廃止することを決めたが、これを機に京都府出仕を辞職し、舎密局を払い下げるよう求め、この後数年間は自ら経営している。以降は泉質の研究をしたり、西洋料理専門の料亭を開業する、医者として人助けをするなど京都での活動を続けた。しかし先進的すぎた為か事業の失敗が続き大きな借金を抱えるようになる。明治四十三年に病に倒れ、七十二歳でこの世を去った。

 

宗教界との関わり

 明石博高は幕末の活動や維新後の寮病院設立から医者、あるいは京都舎密局の初代主管となったことから化学者として説明されることが多い。明石の携わった事業には確かに医学や化学など科学的なものが多いが、その一方で伝統文化や社寺の保存活動なども行っていた。元々国学を学んだこともあってか、そういった文化的なことにも興味があったらしい。『明治文化と明石博高翁』にも以下のような記載がある。

「又幼年の頃より各所を巡覧し、古蹟を探査するを好み、近畿地方深山幽谷と雖殆ど其足跡を印せざる地なく、其記憶に洩れたる所ないくらゐである。又宗教に深い関心を持ち、神、佛、耶蘇を研究し(中略)佛典に造詣深く、聖徳太子を尊崇しておつた、山階大宅寺は由緒ある寺であつたに係らず全く廃滅に帰して居たから何か形だけでも残したいと遺稿にある研究を発表したが中途で物故してしまはれた。(二三八項)」

 大宅寺だけでなく、清水寺では田村堂の本尊である坂上田村麻呂木造の初代のものが盗難にあって以降行方不明だと知ると、その捜索を行って持ち主を発見、最終的に還座に成功している。

 また、南禅寺の大唐門は築二百年以上の古い建築物であるが、維持費がかさみ売りに出されたことがあった。その際も明石は即座に買い取り、豊国神社へと寄付している。これが現在でも社殿の前にある大唐門であるが、説明に明石の名が出ることはほぼ無い。

 こうした寺社への関わりだけでなく、明石は教派神道にも関わっていたそうだ。明治二十二年には大成教の教義制定に関わり中教監の地位を得ているとされているが、これが果たして教団全体の教義制定によるものかは不明である。大成教は様々な教会を傘下に収めており、その内の一教会の教義制定だった可能性もある。しかし教祖の平山省斎は『大成教創立大旨』で外教を国民を誤った道に導くものとしているが「彼の窮理実験(中略)を併せ採り、以て我が皇祖天神の道を補賛し」と西洋技術については取り入れる姿勢を見せていたため、西洋事情に詳しい明石が教義編纂に参与していてもおかしくは無い。平山は翌年の二十三年五月に亡くなっているため、どれ程教団との繋がりがあったかは不明である。

 翌二十三年には「御嶽教のため尽力するところあり」として三月に教導職試補となり、その後とんとん拍子で同年八月には最高位の大教正待遇にまで上り詰めている。

 御嶽教もまた傘下に多種多様な教会を収めていた教会で、元々は大成教に所属していた。明治十五年九月に特立しており、その際には平山省斎が管長を兼任している。明石が大教正となったのは明治十八年に就任した二代目管長・鴻雪爪の時代であるが、こちらもどこまで御嶽教との繋がりがあったか詳細は分からない。しかし、両教団とも決して低くない階級を任命されているあたり、教団への貢献はそれなりにあったのだろう。

 

明石の著書に見る「電気神道

 先述のように宗教界にも関わっていた明石だが、彼は独自の神道説を持っていたようだ。

明治文化と明石博高翁』では「科学に立脚する神学を唱へ神学教会を主宰しておつた(二三八項)」とある。明石は明治二十年春、自宅に神学教会を興しており造化三神主祭神としていたらしい。その神学教会で唱えていた神道説については次のような記述がある。

「理化学や哲学に造詣深い翁は持論として此の大宇宙森羅萬象の根元は電氣である、有らゆる力も、あらゆる形體も皆根元的に電氣の現象に外ならない、電氣は陰電氣と陽電氣に分たれ、それが平衡したり或は一方優劣が起ると現象が顕はれるのである、天地萬物創造の主體は即電氣である、吾人々類の信仰すべき対象即神ありとせばそは電氣そのものであると云ふのである」

 このような思想は著書にも反映されている。明治六年に出版された『防雷鍼略説』は、明石が避雷針について説明した際の口述を纏めたもので、その中には雷電が「電機(越瀝力のこと近頃支那人之を電機と称せり)」だと説明している。その電気の説明では以下のように語っている。

「〇電機は萬(ばん)體(たい)造化(ぞうくわ)の機(カラ)力(クリ)にして物(もの)皆(みな)此(この)力(ちから)を有(たも)たざるものなし或は潜(ヒソミ)蔵(カクレ)或顕(アラ)発(ハレ)し以て森羅万象の進退離合動静変化を為しむ今雷電を起すも天地不平(たいらかならざる)の機を調和(トトノヘ)平均(ヒトシク)するものにて此発(アラ)象(ハレ)なかりせば天地保全(タモチ)し萬物爰(こゝ)に覆(オオヒ)載(ノセ)する事能(あた)はず嗚呼造化(モノツクリ)の巧妙(タクミ)豈(あに)疑(うたがふ)べけん哉」

 先述の説明と合わせて考えると、神学教会の教説は神道と森羅万象を陰電氣と陽電氣の二元論的な動きによるものとする明石の思想を結びつけたものと思われる。これについて田中聡氏は「電気神道」と呼称している。

 明石の電気に対するこうした理解は化学書にも表れている。『化学撮要』は化学についての入門書であるが、化学を「凡宇宙萬有の潜顕蔵否變化動静の機能を窮識せしむる学術」としている。そして化学物質の結合や分離、触媒などの能力を説明し、その能力を「化学親和力」或いは「舎密力」と呼び、その本源を「越瀝力」としている。

 この越瀝が本源ということは度々文中で説明されており、化学親和力についての説明では「越瀝力にして天地の間、萬有に具有し宇宙に充満せり、然れども各種の物體、其力徳を凛含するに差異ありて皆な一様ならず」としている。

 元素の説明文の中では電気分解によって多くの新元素を発見した電気化学の祖ハンフリー・デービーを称賛しており、「一千八百〇八年(我文化五年)諳厄利亞の(國名)達喜氏出て、物體の能力所謂離合、聚散、變化、動静、潜顕、出沒はみな越瀝の機能に関係するを創見してより以来、物體の成分を測るに越瀝機を以て試み、従来元素とする亞爾加里、土類も合雑なるを識り、新に一正説を立て越瀝化學の名を興隆し、宇宙萬物の元素を測り、大発明を以て元素の類数を訂し、千古の蒙を啓けり、而しより以降、この説の眞正なるを称し、各國の諸賢みな力を協せ、有機、無機の萬體を離剖分析して、其成分を測り、今に到りて六十四種の原行世に顕はる、誠に此説や眞にして疑なかるべきなり、嗚乎達喜氏出て越瀝造化の力徳を顕はし、千古の疑惑を解く、豈感賞すべけんや」と『化学撮要』で登場する人名の中では最も多くの文量で説明されている。ここから明石がデービーの発見した「越瀝」の作用を重要視していたことが考えられる。

 明治二十九年に書かれたという『最新良方鎮神術玄義』は「メスメリズム」を紹介するもので明石はメスメルを「動物磁石力を治療界に施行されてより其功験を奏せる」と記述している。この書については現状全文を確認できてはいないが、『明治文化と明石博高翁』に引用されている目次を見る限り「造化大能力は電力に帰するを論説す」「身体中電気流通自然の態」などの電気に関する記述も見られる。動物磁石力と同じ文脈で電気という語を使っていることから、奥村大介氏は明石が日本に流れ着いたカロリックやエーテルといった「不可秤量流体」概念の一つとして「電気」ととらえていたと見ている。

 

 こうした明石の思想を踏まえた上で、神学教会の『造化経』を見てみると「電気」という単語自体は使われていないものの、明石の考える「電気」の働きをイメージして書かれたと思われる箇所が多く見て取れる。

 『造化経』は明治二十一年に発表された祝詞で全文平仮名で書かれている。著者は堀吉兵衛となっているが明石が著したものらしい。

 まず「むすひのたゞへごと」として冒頭で天之御中主大神を称ている。その御力である「かみけ」こそが「よろづかたちのねにして あらゆるものゝもとなり」つまり万物の素にして全ての物に備わっている力だという。さらにこの「かみけ」の御力を詳細に見ると、「くしみたま」「さきみたま」と呼ばれる力に分けられるという。

 「くしみたま」は万物に備わっている原初の「かみけ」であり、このくしみたまの働きで万物を造り、活かし、行い巡るという現象が発生する。この現象のことを「さきみたま」としている。この二つの力にはそれぞれ「かりき」と「めりき」が備わっていて、「かりき」と「めりき」が釣り合っている時は「あるものゝかぎりを」保つ安定状態となるが、釣り合いが偏っている場合は「おだやかならず」という闘争状態となる。これらの御力は

この世界に満ちているが「もとつちぎり」に従って秩序通りに動いている。こうした、浜の真砂まで漏らす事無くあらゆる物を司る「みいさを」を称えて神を援け、人の人たる道を守って大神に仕えて祭る、というのが『造化経』の主な内容である。

 

 これらの内容を明石の思想と合わせて読むと、「めりき(減り気)」「かりき(上り気)」が「陰電氣と陽電氣」を指していると考えられる。両者の釣り合いが乱れた際に闘争状態となるというのは、『防雷鍼略説』で天地が乱れた際に調和する現象が雷電とする説明とほぼ等しい。「かみけ(神気)」が萬物に備わっているという部分は『防雷鍼略説』の「電機は萬體造化の機力にして物皆此力を有たざるものなし」や『化学撮要』における「越瀝力にして天地の間、萬有に具有し宇宙に充満せり」の説明を想起させる。「くしみたま」の御力はおそらく「舎密力」を指していると思われ、また「さきみたま」の説明は「物體の能力所謂離合、聚散、變化、動静、潜顕、出沒はみな越瀝の機能に関係する」という記述に通じている。

 つまり、「くしみたま」の陰陽バランスの動きによって「さきみたま(現象)」が発生する。その「さきみたま」もまた陰陽のバランスによって安定している時は「あるものゝかぎりをたもち」状態となるが、不均衡な時は雷が発生する如く「おだやかならず」状態となる。それぞれの神気は森羅万象に備わっていて、それらが秩序良く「もとつちぎり(物理法則と言っても良いかもしれない)」通りに動いている。

 こうした全ての物を司る天之御中主大神の神気の御力・御功、霊産を称えて祭るというのが『造化経』の内容であり、『明治文化と明石博高翁』に紹介された「天地萬物創造の主體は即電氣である、吾人々類の信仰すべき対象即神ありとせばそは電氣そのものである」の世界が「神気」「上り気」「減り気」「奇御魂」「幸御魂」といった伝統的な言葉を使って展開されていると言える。 

 しかし『造化経』で示される「かりき/めりき」という「二元論」にしても、従来存在していた「陰」「陽」思想を言い換えたものとも捉えることができ、奥村大介氏の指摘通り、明石の神道説は科学の知見を用いて伝統的な神道学説を説明したものとの見方もできるであろう。

 

 先述の通り明石は西洋科学だけでなく国学も学んでおり、葬儀においても仏式と共に神式でも行っているなど、神道に対しての好意的な態度は生涯変わらなかった。同じく京都の文明開化を先導した山本覚馬キリスト教に向かったとは対照的である。そのような明石が開明的な西洋科学と伝統的な神道を接合させた電気神道は、伝統文化と西洋科学が遭遇した維新期だからこそ誕生したも言えるのではなかろうか。

 ちなみに『造化経』では「東洋神學會」の蔵梓となっているが、明治『簡便治療書』での明石の名義は「帝国神学教会長 大教正明石博高」となっているため、正式名称は「帝国神学教会」と思われる。

帝国神学教会

 明治二十三年に明石は御嶽教から最高位・大教正の称号を得ているが、その御嶽教の傘下に「帝国神学教会」という同名の教会が存在していた。明石の帝国神学教会と同一なのか、関係があるのか等は現時点では不明だが、同じ京都市内にあって、こちらは平成の御代まで存続していたらしい。平成十九年度の『京都府宗教法人名簿』には御嶽教の傘下教会として記載がある。しかし同二十七年度版ではその名を消していた。『宗教法人数調』によると平成二十二年度までに任意解散したようである。

 令和元年九月、かつて帝国神学教会が鎮座していたという場所へ行くと、現在では住宅地となっていた。周辺住民に話を伺うとかつての光景を覚えている方が居り、近くで喫茶店を営む店主の話では教会が取り壊されたのは数年前のことだそうだ。当時のお宮は古く立派だった印象があり、たまに白装束の行者が来ていたらしい。

 話を聞く限り一般的な御嶽教の教会だった様だが、最後の教会長の方は電気工を営んでいたとのことである。

 

主な参考文献

田中緑江『明治文化と明石博高翁』(明石博高翁顕彰会、昭和十七年)

田中聡『怪物科学者の時代』(晶文社、平成十年)

奥村大介「人体、電気、放射能 : 明石博高と松本道別にみる不可秤量流体の概念」(『近代日本研究 29』慶應義塾福沢研究センター、平成二十四年)

井上順孝教派神道の形成』(弘文堂、平成三年)

鎌田東二『平山省斎と明治の神道』(春秋社、平成十四年)

御嶽教の歴史 開教九十五年の歩み』(御嶽教大教庁、昭和五十四年)

京都府宗教法人名簿 平成十九年』(京都府総務部文教課、平成十九年)

京都府宗教法人名簿 平成二十七年』(京都府文化スポーツ部文教課、平成二十七年)

京都府宗教法人数調 平成二十二年』(京都府文化環境部文教課、平成二十二年)

 

f:id:ysumadera:20191106030615j:plain

明石博高

 

【関西】定例研究会のご案内

 

f:id:ysumadera:20200213003242j:plain

 

次回の民族文化研究会関西地区定例研究会は、下記の要領にて開催します。万障繰り合わせの上ご参加ください。

民族文化研究会 関西地区第19回定例研究会

日時:令和元年11月16日(土)16時30分~19時30分
会場:貸会議室オフィスゴコマチ 208号室
京都府京都市下京区御幸町通り四条下ル大寿町402番地 四条TMビル

https://main-office-gocomachi.ssl-lolipop.jp/

会費:800円
​主催:民族文化研究会関西支部

【新刊紹介】金子顧問が一部執筆した『国家神道と国体論――宗教とナショナリズムの学際的研究』刊行

 当会の金子宗徳顧問が一部執筆した藤田大誠編『国家神道と国体論――宗教とナショナリズムの学際的研究』が弘文堂から刊行された。
 同書は、近代日本の宗教とナショナリズムに関わる重要な主題でありつつ、深い交渉をもたないまま、固有の文脈をもって別個に展開してきた「国家神道」と「国体論」の関係性を解明することによって、近代日本における宗教とナショナリズムの精神的展開を明らかにすることを目指し、近代神社に関する思想・制度・空間・人物(第一部)、教育・慰霊・新宗教ナショナリズム(第二部)、筧克彦・河野省三・井上孚麿・里見岸雄ら多様な思想・学問の担い手による国体論(第三部)といった多岐に渡る分野の論考が所収されている。
 金子氏が執筆したのは、「里見岸雄と『国体明徴』――『天皇機関説の檢討』から《日本国体学会》の設立へ」(469頁以下)。これまで通説的な地位を占めていた天皇機関説が、貴族院における菊池武夫の演説を発端として排撃されるようになった天皇機関説事件の発生時、科学的国体論の提唱者として知られる里見岸雄が、天皇機関説天皇主体説双方の限界を指摘し、両者の止揚を試みたことが、里見の日記といった当時の史料をもとに明かされる。

 

f:id:ysumadera:20191102180727j:plain

藤田大誠編『国家神道と国体論』(弘文堂、令和元年)

 



【関西】定例研究会のご案内

 

f:id:ysumadera:20200213003242j:plain


次回の民族文化研究会関西地区定例研究会は、下記の要領にて開催します。万障繰り合わせの上ご参加ください。

民族文化研究会 関西地区第18回定例研究会

日時:令和元年10月19日(土)16時30分~19時30分
会場:貸会議室オフィスゴコマチ 411号室
京都府京都市下京区御幸町通り四条下ル大寿町402番地 四条TMビル
https://main-office-gocomachi.ssl-lolipop.jp/

会費:800円
​主催:民族文化研究会関西支部

【関西】定例研究会報告 「西郷隆盛」はいかに受け止められたか――「思想家」葦津珍彦と「思想史家」先崎彰容の西郷像の比較

 令和元年9月22日に開催された民族文化研究会関西地区第17回定例研究会における報告「『西郷隆盛』はいかに受け止められたか――『思想家』葦津珍彦と『思想史家』先崎彰容の西郷像の比較」の概要を掲載します。

はしがき

 昨今、葦津珍彦の研究が急速に進んでいる。いわゆる右翼・民族派思想家としてだけではなく、戦後日本の思想史を考える上でその存在が重要であるとの認識がアカデミズムの世界に広まっているからであろう。中でも思想史家で、現在日本大学教授を勤める先崎彰容は著作で頻繁に葦津に言及している。顕著な例として先崎は産経新聞にて2014年から2016年にかけて「『戦後日本』を診る」「『近代日本』を診る」という記事を連載。それは福沢諭吉中江兆民丸山真男江藤淳といった23人の思想家を分析、解読し、それぞれ3冊ずつのブックガイドも付記するという内容なのだが、この23人の中に葦津を選びいれているのである。

 先崎は葦津を右翼・左翼が発生する時代に鋭いまなざしを向けた点を評価する。先崎は葦津の著作中でも『武士道―戦闘者の精神』所収の論文「明治思想史における右翼と左翼の源流」に特に注目している。この論文の要旨は、頭山満中江兆民は共に国権論者であり、民権論者であった。「国権伸張」と「民権擁護」は頭山・中江の時代には同一軌条のものであったが、それぞれの後継者である内田良平幸徳秋水の時代になり、初めて日露開戦の是非など、特に外交面において左右の鋭い対決が生じた、というものである。先崎は葦津が内田を「日本を余りにも信用しすぎた」面をその思想的欠点としてあげている事実を取り上げ、冷静な批評をしている点を評価しつつも、それでもなお、葦津が右翼になり、頭山を尊敬した理由を「右翼の心情を流れる儒教道徳心を好んだためである」としている。

 先崎は葦津を「明治の初めにさかのぼり、私たちに思想の源流を見せてくれる思想家なのである」と非常に高い評価を下している。実際に、先崎は23人の思想家の中に頭山満をも選びいれているが、その論はかなり葦津の頭山論に影響を受けているように見受けられる。おそらく先崎は葦津にひとつの理想的な右翼人の姿を見ているのであろう。

 さて、その葦津を紹介するブックガイドであるが、前述の『武士道―戦闘者の精神』のほかに『大アジア主義頭山満』。そして西郷隆盛の評伝である『永遠の維新者』を上げている。先崎は『永遠の維新者』を「右派の西郷隆盛の最も典型かつ最良の評伝」であるとしつつ、「拙著『未完の西郷隆盛』と比較読みしてほしい」と記している。先崎は近代日本思想史家として多くの人物を研究しているが、中でも西郷に非常な関心を持っている。その一つの研究成果として出されたのが『未完の西郷隆盛』であった。この書は膨大な参考文献が末尾に上げられているが、先述した葦津の著作三冊も挙げられている。この事実から見ても、先崎は葦津を意識しながら西郷を叙述したことは察せられる。

 前置きが長くなったが、本稿では葦津の『永遠の維新者』と先崎の『未完の西郷隆盛』を比較検討し、その共通点と差異点をそれぞれ見ていきたい。西郷の思想像は余りに巨大すぎ、論じた書籍も膨大な数に上るので、西郷を直接論ずることは余りにも著者の手に余る。原典としては西郷の言行をまとめた著名な『西郷南洲遺訓』にしぼり、むしろ「大きな思想的存在(この場合は西郷隆盛)」に接した人間がどのような反応を示すのか、という点に焦点を当てていきたい。それは「思想家・運動家」が持つ感性と「学者・批評家」が持つ感性の共通点と相違点を論じていくということになるであろう。無論、前者は葦津であり、後者は先崎である。

 

第一節 『永遠の維新者』の西郷像

 葦津は本書の冒頭にて「私は、正直に告白すれば、この「永遠の維新者」という一文を草しながら、生きて西郷ほどの人物を師として、その師とともに、決起の機に会して力戦奮闘、その生涯を燃やしつくした戦没者にたいして、羨望の情禁じがたいものがある」としるしている。ちょっと異様な言葉であるが、おそらく葦津の本音であろう。葦津はいわゆる進歩派言論人を沈黙させるほどの論理を有していたが、その本質は文人ではなく、武人であった。『昭和史を生きて』等の自叙伝では戦前に2・26事件に参加を打診されたことや、戦後にも何度か革命の夢想を抱き、本気で動こうとしたことがあったとのことである。まさに葦津は思想家であり、そしてその思想を行動に移さんとする維新者であらんとしていたのであろう。

 葦津は西郷の思想の論理を大きく征韓論西南の役の二つにしぼって考察している。まず葦津は西郷が朝鮮半島行きを志望した本心を、戦わずしてその反日姿勢を改めさせ、もしその志ならず殺されたときは、そのような暗愚な政権は、東洋文明の王道から見ても滅ぼすべきであり、その時に初めて板垣退助の主張するいわゆる「征韓」の儀を起こせばいいと考えていたのではないか、と推測している。そして葦津はこの征韓論を境にして日本の政治勢力は西洋近代主義を志向する大久保利通の派とあくまで東洋文明の王道を進むべきであるとする西郷派のふたつに分かたれたとする。そしてその西郷の潮流は玄洋社を始めとする民間の側に流れていったとする史観を提示するのである。

 葦津は西南の役を、そのような様々な在野の勢力が西郷に期待をかけ、合流していく過程で発生したものであると結論付けている。民権か国権か、近代か反近代か、多様な思想勢力が存ずるもそれらが反目せずに西郷の下に結集したのは、当時の日本人が「尊皇」という一点のみは共有していたこと、そしてそれらあらゆる勢力が頼みにした西郷と言う「人物」の大きさであると葦津は言うのである。

 また西郷が決起する際、明確な反政府の文章を提示せず、ただ「今般政府へ尋問の筋これあり」とある意味で曖昧ともとれる表現をしたことは当時から福沢諭吉徳富蘇峰等に批判されたものらしい(この表現は西郷が政府筋による暗殺計画の標的になっていたことに発している)。葦津はそれらの文章を吟味しつつも、あくまで反論する。まず一つ目は、西郷はあくまで政府を刑法犯罪者であるとし、それらに武力抵抗するのは義である(つまり政策論争の結果武力を発動するわけではない)と考えたのだとする。そしてもう一つは、もし政府の政策を批難し、これを革めるという大義名分で挙兵したならば、維新政府、そして明治天皇に累が及びかねないと考えた。だからこそ「政府への尋問」という表現にとどめたと言うのである。葦津は他の著書でも、日本と中国の革命思想を比較し、いわゆる放伐論は日本においては独自の発展を遂げ、日本での革命はあくまで天皇は悪政を行う政治的主体者とは見ず、其の存在を認めた上で、下部の実際上の政治機構や政治家(例えば幕府や将軍)を討伐するのだという理論を繰り返し述べている。葦津の思想上、絶対に譲れないコアの部分なのであろう。

 そして文章の末尾では西郷らの死を描いた上で、平家一門の入水や楠木正成湊川での戦死と比較し、このように述べる。

 

  西郷の死は、旧時代の最後なのではない。中道の俗流コースに決して定着することなく、永遠の維新を目指して闘う戦士の心中に猛進の精神をふるい起こさせる英雄詩である。永遠の維新には敗北もなければ挫折も無い。

 

 葦津は、若年期にロシア革命に接したこともあり、世界の革命史に通じていた。革命の帰結として、情熱に溢れた革命家が世俗に塗れ、堕落していく歴史をよく知っていたであろう。だからこそ、「永遠の維新」に身を捧げた西郷に無限の尊敬と愛情とを抱き、自身もそうなるべく努力したのであろう。

 

第二節 『未完の西郷隆盛』の西郷像

 一方で先崎は思想史家らしく、西郷そのものの事跡をたどるのではなく、福沢諭吉中江兆民頭山満、そして戦後では橋川文三江藤淳らが書き残した西郷論を参照し、西郷の像がどのように形成されてきたかを明らかにしようと試みている。先崎は西郷が政治家としては近代的・先進的な施策を行いつつ、一方で西南戦争に見られるような「反近代」の面にも注目する。そして「人々は西郷の中にそれぞれ思い描く近代と反近代を夢想していた」と記す。其の上で西郷と言う存在をたどることによって日本の「近代」的なるものと「反近代」なるものの相克の思想史を描き出そうとしているのである。 

 まず先崎は福沢に注目する。福沢の西郷を評した有名な『丁丑公論』中の「文明の利器」の力で西郷軍が敗北したとされる一節に注目し、西南戦争を「情報革命」によるマスメディアの急速な発達と混乱による時代の象徴であると捉えるのである。

 左派の元祖とも目される中江兆民には洋学知識よりもむしろその漢学の素養に着目し、兆民があくまで儒教的倫理を重視していた事実を強調する。其の上で、兆民は既に急激な発達を始めていた日本の資本主義に危機感を感じ、儒教的な徳目の重要性を説いた思想家であると位置づけ、兆民の西郷思慕の思想的淵源をそこに求めている。

 一方で、右派の元祖と目されている頭山満の西郷観を政府の「有司専制」に対する抵抗の象徴として西郷を祭り上げたとする。一方、頭山の下からは。来島恒喜のようなテロリストも生み出されたことも指摘し、危険性を喚起している。

 戦後の西郷論では、橋川文三江藤淳のそれに着目する。橋川は南東に島流しにされた際の西郷の行動に着目。そこから従来の天皇制から外れた新たな西郷像を創造しようとした、と結論している。江藤は戦後、アメリカに飲み込まれていく日本と明治日本を重ね合わせ、西郷と「近代」を新たに問い直そうとした、と評する。このように西郷の死後、西郷と言う存在がいかに受け止められ、時代によって様々な「西郷隆盛」が創造されていく様を思想史のうえに叙述しようと試みているのである。

 では、先崎の西郷像とはどのようなものなのか。先崎は言う「政治家としてみる限り、西郷隆盛という存在は、マルクス主義アナーキズムさらには近代主義国粋主義など、政治的イデオロギーの一つにすぎなくなるだろう。だが、マルクス主義のように人間を階級への所属意識で説明したとしても、あるいはアナーキズムのように人間を政治的拘束から自由であると主張しても、目の前で懸命に生き、死に、喜怒哀楽にむせぶ「人間」を丸ごととらえることはできない」そして続けてこのように言う。

 

 私たちが西郷に追い求めてきたのは「政治家・西郷」ではないのではないか。むしろ私たちは、西郷に日本人の死生観を丸ごと託し、あるいは問い質してきたのではなかったか

 

 先崎は西郷の本質をその死生観に求めた。先崎は著書の一つ『ナショナリズム復権』にて近代以降の思想史を再点検しつつ、結びにて「死者たちの声に耳をかたむけようではないか。戦後置き忘れたままのことばを、取りに帰ろうではないか」と「死者」の存在を下敷にした新しいナショナリズムを模索しようと提案している。先崎は東日本大震災にて実際に被災し仮設住宅に入っており、そこで日本に突如現れた「大量の死者」に初めて思いをはせたと言う。そして『維新と敗戦』の書籍化に際して追加された文章中に、自身の幼少期の祖母との思い出、その今は亡き祖母との対話を詳細に記している。先崎は言う「別れの日の夕暮れ、坂道の踏切から手を降る祖母の姿にしか、私は祖国を見出しえないのだ」と。

 「死者」のまなざしを前提とした新たな(もしくは伝統的な)日本のナショナリズムの創造が先崎の「思想史家」としての仕事なのであろう。

 

むすび

 葦津も先崎も、西郷の本質をその生命のあり方(いかに生き、そして死んだか)としているのは共通している。葦津は戦中、東条内閣を攻撃し、政府の苛烈な取り締まりに会うなど、まさに「思想家」として修羅場を潜り抜けた人物であった。また先崎も東日本大震災での被災経験による「死者」との遭遇により、「死と生の思想史学」の叙述とそれを前提としたナショナリズムの創造を使命としている。両者に共通するのはいかに「死者」と対峙するかという姿勢そのものである。

 では相違点は何か。先崎は著作の中でしきりに「処方箋」なる言葉を使っている。「この人物の思想は現代の処方箋になりえる」といった具合である。現実、そして歴史と常に苛烈な格闘を続けねばならない思想史家の言葉としては、少し軽い感がある。いつの時代も劇的に世の中を改善する処方箋など存在しない。地道に歩むしか道は無いのである。これは先崎の問題ではなく、やはり現場の実行者の立場からは少し遠いところに居る学者ならではの言葉使いである、と見るのは厳しすぎるであろうか。「維新者」たらんとし、常に思想戦の最前線にいた葦津との違いはこの辺りにあるように思われてならないのである。

 

原典 

山田済斎編集『西郷南洲遺訓―附・手抄言志録及遺文』岩波書店 1991年1月

 

参考文献

葦津珍彦『永遠の維新者』葦津事務所 2005年4月

葦津珍彦『昭和史を生きてー神国の民の心』葦津事務所 2007年1月

先崎彰容『未完の西郷隆盛―日本人はなぜ論じ続けるのか』新潮社 2017年12月

先崎彰容『維新と敗戦―学びなおし近代日本思想史』晶文社 2018年8月

先崎彰容『ナショナリズム復権筑摩書房 2013年6月

 

f:id:ysumadera:20191001031517j:plain

葦津珍彦『永遠の維新者』