【東京】定例研究会のご案内

 

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次回の民族文化研究会東京地区第23回定例研究会は、下記要領で開催致します。万障繰り合わせの上ご参加ください。

民族文化研究会 東京地区第23回定例研究会

日時:令和元年11月17日(日)16:00~18:00
会場:早稲田奉仕園102
東京都新宿区西早稲田2‐3‐1

https://www.hoshien.or.jp/

予定報告:阪本浩「平家物語雑感(仮)」
     渡貫賢介(本会東京支部長)「戦前の早稲田と愛国」
会費:1,000円
​主催:民族文化研究会東京支部
備考:この研究会は、事前予約制となっております。当会の公式アドレス(minzokubunka@gmail.com)までご連絡ください。また、会場の開室は16:00になります。それまではセミナーハウス内のラウンジにてお待ちください。
(今回は、開催時刻が異なりますのでご注意ください)

【東京】定例研究会報告 保田與重郎と万葉集の精神・日本の元号文化と万葉集

令和元年9月8日(日)14:00~17:00、民族文化研究会東京地区第22回定例研究会が早稲田奉仕園にて開催されました。

第1報告は、金子宗徳氏(本会顧問・里見日本文化学研究所所長)による、「保田與重郎万葉集の精神」でした。同報告は、保田の『万葉集の精神』が近代以降に展開された文献学的読解を批判し、万葉集を古代の国民精神を示した「述志」として位置づけるものであったことを解説するものでした。
第2報告は、八阪廉次郎氏(本会顧問・東洋大学非常勤講師)による、「日本の元号文化と万葉集」でした。同報告は、新元号公布や元号選定に関する各種資料・報道などを多数紹介し、国書由来の年号が出現するに至る系譜を辿るものでした。

充実した報告に加え、質疑応答では「近年流布している『万葉集』は〈国民歌謡〉ではない、といった見解はどう捉えるべきか」など多くの論点やそれに対する解答が出され、出席者の『万葉集』理解が深まりました。
次回は11/17(日)16:00~18:00に早稲田奉仕園で開催予定です。楽しく学べる会運営を心掛けておりますので、関心のある方はお気軽にご参加下さい。
(東京支部長・渡貫)

 

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報告する金子氏

 

【関西】定例研究会のご案内

 

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次回の民族文化研究会関西地区定例研究会は、下記の要領にて開催します。万障繰り合わせの上ご参加ください。

民族文化研究会 関西地区第17回定例研究会

日時:令和元年9月22日(日)15時~18時
会場:貸会議室オフィスゴコマチ 208号室
京都府京都市下京区御幸町通り四条下ル大寿町402番地 四条TMビル
https://main-office-gocomachi.ssl-lolipop.jp/

会費:800円
​主催:民族文化研究会関西支部

 

 

【東京】定例研究会のご案内

 

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次回の民族文化研究会東京地区定例研究会が近日に迫りましたので、改めてご案内致します。次回の民族文化研究会東京地区定例研究会は下記要領にて開催しますので、万障繰り合わせの上ご参加ください。

民族文化研究会 東京地区第22回定例研究会

日時:令和元年9月8日(日)14時~17時
会場:早稲田奉仕園 スコットB1
東京都新宿区西早稲田2‐3‐1
https://www.hoshien.or.jp/
予定報告者:金子宗徳〔本会東京支部顧問・里見日本文化学研究所所長〕「保田與重郎万葉集の精神」
      八阪廉次郎〔本会東京支部顧問・東洋大学非常勤講師〕「古代天皇史の論点」
会費:1000円
​主催:民族文化研究会東京支部
備考:この研究会は、事前予約制となっております。当会の公式アドレス(minzokubunka@gmail.com)までご連絡ください。また、会場の開室は14:00になります。それまではセミナーハウス内のラウンジにてお待ちください(今回は、部屋が異なりますのでご注意ください)。

【関西】定例研究会報告 川面凡児の神道思想――近代ナショナリズムにおける宗教・政治・身体

令和元年8月31日に開催された民族文化研究会関西地区第16回定例研究会における報告「川面凡児の神道思想――近代ナショナリズムにおける宗教・政治・身体」の要旨を掲載させて頂きます。

 

はじめに

 戦前期の神道家である川面凡児は、伝統的な禊の復興者として知られている。しかし、川面が重視した神道儀礼は禊だけではない。川面は、「振玉」「雄建」「雄詰」「伊吹」など、禊以外にも独自の修養法を案出していた。これらの修養法は、既存の神道作法や掛け声を基調として、決まった身体動作を反復する形を取っており、一種の体操とも理解される。こうした点から、川面が重視していたのは、身体運動を通した修養を志向する身体論・身体技法なのではないか、と思われる。この視座から、禊と「振玉」「雄建」「雄詰」「伊吹」といった一群の修養法を統一的に解釈できる。

 そして、同時代に目を向けると、ナショナリズムが勃興しつつある時代的状況を背景として、同様に身体運動を通した修養を志向する身体論・身体技法が幾つも展開されていた。原理日本社の三井甲之や佐藤通次の身体論、筧克彦の「日本体操(やまとばたらき)」の提唱などが、具体的事例として挙げられる。本稿では、特異な身体論・身体技法をもつ川面の神道思想を検討することによって、こうした同時代の身体論・身体技法に対し、示唆を獲得することを目的とする。

 まず、前掲の、川面凡児と同時代の身体論・身体技法を概観し、これらに伏在する特質や問題を把握する。さらに川面凡児における身体論・身体技法を検討し、同時代における身体論・身体技法に対する示唆を獲得する。かかる作業から、近代ナショナリズムにおける宗教・政治・身体の相互関係を、ごく一部であれ、明らかにしたい。

 

一 同時代における身体論・身体技法

 それでは、本稿の前提となる、川面と同時代において展開され、問題意識を少なからず共有していると思われる身体論や身体技法を参照しておきたい。川面が、しばしば「超国家主義のイデオローグ」[1]と評されるように、彼が国家主義の立場を採用していたことから、ここで主題とするのは近代ナショナリズムと身体論・身体技法の関わりとなる。この近代ナショナリズムと身体論・身体技法の関りは、近年の日本思想史では注目を集めているテーマである。たとえば、片山杜秀は、原理日本社のメンバーだった三井甲之や佐藤通次における身体論をもとに、こうした近代ナショナリズムにおける「身体性」を論じている[2]

 三井甲之は、民間療法に傾倒し、「手かざし療治」という、手をかざすことによってエネルギーを相手に送り込み、治療を行うとする療法に関心を示した。片山によれば、こうした「手かざし療治」への関心と、原理日本社のイデオロギーは無関係であると見なされてきたが、両者は「あるがままの心による相互感応」とでも言うべき主題で繋がっている。「手かざし療治」は、あるがままの心になれば、生命力を手からエネルギーとして放射することができると説いており、原理日本社のイデオロギーの核心にある短歌は、まさにあるがままの心による現実の感受を理想としている[3]

 佐藤通次も、三井のようなオカルティズムへの傾斜というラディカルな形態は取らないが、「身体性」へと関心を示していた。佐藤には、『身体論』(昭和14年)という文字通りに「身体性」を主題とした著作がある。佐藤は、人間存在を物体・肉体・身体という三つの次元によって理解しようとする。佐藤は、人間存在は、物体という「単なる物質としての人間存在」に過ぎないものから、「人間の肉体と、それを含んだ周辺の生活圏」も内包した身体まで、低次の存在から高次の存在へと展開していくと説くが、ここでも三井と同様に「あるがままの心の相互感応」とでも言うべき、身体を基礎とした精神的交流が重視される[4]

 また、近代ナショナリズムにおける「身体性」という主題は、単なる身体論の展開に留まることなく、身体技法を主体的に構想・実践するようになった。その代表例が、中道豪一によって近年研究が進んでいる、筧克彦によって提唱された「日本体操」(「皇国運動」とも表記し、「やまとばたらき」と読む)である[5]。この「日本体操」とは、神道の身体作法や掛け声を基礎に構成された日本精神の修養を目的とした体操である。この「日本体操」は、岩手県知事だった石黒英彦や満蒙開拓青年義勇軍訓練所長だった加藤完治に影響を与え、一定程度の広がりを持って実践された[6]。 

 こうした三井甲之や佐藤通次の身体論、あるいは筧克彦の「日本体操」といった身体技法だが、現在では否定的な評価が下されている。たとえば、片山杜秀は、三井や佐藤の身体論を紹介しつつ、これらを思考停止の結果もたらされたものとして一蹴する。片山は、日本のナショナリズムが、天皇による変革を掲げつつ、これが果たせないために、終わりなき現状肯定に帰結したという図式を示し、この潮流がもたらしたものとして身体論を捉える。すなわち、こうした終わりなき現状肯定では、主知主義的な理性すら用済みとなり、あるがままを感受する身体だけが残ることになる、という見解である[7]

 また、筧克彦の「日本体操」に対しても、批判が提起されている。筧克彦の「日本体操」を始めとして、松本学が創始した「建国体操」や、高木兼寛が考案した「国民運動」といったナショナリズムの勃興を背景に出現した国家主義的体操を研究する佐々木浩雄は、これらを「身体の国民化」として定式化した[8]。スポーツへの国家統制が進み、体操という身近なスポーツにおいてもナショナリズムの作興に援用されてしまい、一種の動員のための装置として機能してしまったのではないか、という見方である。

 

二 川面凡児における身体論・身体技法

 これまで、川面凡児における身体論・身体技法を検討する前提として、同時代におけるナショナリズムの勃興を背景とした身体論・身体技法を概観してきた。また、これらが、総じて、否定的な評価がなされていることにも触れた。身体論については、現状肯定に陥った右派思想の影響を受けた、思考停止による自己完結に過ぎず、身体技法については、スポーツを媒介として国民を統制し、国民の身体にまで支配を波及させる、動員装置に過ぎないのではないか。これが、現在の研究の動向だった。

 しかし、こうした「自己完結」や「動員」といった否定的な評価しか、この時期における身体論・身体技法は語りえないのか。本稿では、こうした「自己完結」や「動員」といった評価を参照しつつ、川面凡児の身体論・身体技法を検討していくが、最終的には、こうした「自己完結」や「動員」といった評価に限定されない、より豊饒な思想的含意を取り出したい。それを足がかりに、同時代の身体論や身体技法の全体像を再考することも視野に収めていきたい。

 それでは、川面の検討に入りたい。川面の著作は膨大な数に上り、その全体像を概観するのは、紙幅の問題もあり、とりあえず避けたい。身体論・身体技法に関わる、霊魂観、身体観、行法観について触れたい。ここで、最も参照すべきなのは、川面における「鎮魂帰神」論の把捉を目的に、川面における身体観を検討した、津城寛文の業績だろう[9]。簡潔な記述ながら、川面の業績の全体像を素描する西川旭の論考[10]や、川面の生涯を記した金谷真の伝記的著作[11]にも目配りしつつ、津城の業績に多くを負って、本稿を進めたい。

 また、この検討には、「身体と意志/理性」と、「身体と自我/個人」という分析視座を用いる。ずっと述べてきたように、同時代の身体論・身体技法には、(思考の逃避の結果としての)「自己完結」や、(自我を否定し、国家の統制を許すという含意での)「動員」などといった否定的な評価がなされてきた。こうした評価の是非を、川面をテストケースに検討するのだから、川面の身体論・身体技法における意志/理性ないし自我/個人の位相が確認されなければならない。川面において、身体と意志/理性、身体と自我/個人は、いかなる関係を結ぶと想定されているのか。これを軸として、分析を進める。

 

二・一 身体と意志/理性

 では、「身体と意志/理性」という分析視座に沿って、川面の身体論・身体技法を検討する。まず、身体観・霊魂観だが、川面の身体観・霊魂観は、微細な粒子状の霊魂が段階的に集合・構造化し、物体・身体を実現するという、「一種の原子論的な性格」をもっている。直霊⇒生魂⇒足魂という順序で集合・構造化は進み、その魂の各段階で、おのおのの機能分化が規定されるとしている。津城の述べるように、神道において霊魂を「肉体(物質)そのものとする考えは稀である」。魂の集合・構造化を貫徹した結果が、上記のような原子や細胞を想起させるような霊魂論である。

 津城は、こうした川面の身体論・霊魂論を、「霊魂論的生理学」と呼称しているが[12]、注意すべきなのは、川面が自身の身体論・霊魂論を叙述する上で、こうした原子論的構造を採用した所以である。確かに、こうした「霊魂論的生理学」は、科学的知見を一種の比喩として使用しているに過ぎず、原子論的構造をしているからといって、川面の神学的思惟の真理性が担保されるわけではない。だが、重要なのは、科学的知見を説明概念としてではあれ、自身の神学体系に援用するのを躊躇わない川面の態度には、留意しておくべきだろう。

 続いて、さらに細かく川面の身体観・霊魂観を見ていきたい。ここで主題になるのが、川面の「鎮魂帰神」観である。「鎮魂帰神」とは、神道における伝統的な霊的実践の総称である。ここで、津城によって提示されている、「憑霊型シャーマニズム」と「脱魂型シャーマニズム」の区分を説明する必要が生じてくる[13]。憑霊型シャーマニズムとは、トランス状態のシャーマンに神霊界から超自然的存在が「外から内へ」入ってくる。他方で、脱魂型シャーマニズムとは、人間界のシャーマンがトランス状態に移行し、そこから神霊界の超自然的存在に向けて魂が「内から外へ」出ていく。津城は、近世以降の神道家の「鎮魂帰神」観念を調査し、その殆どが憑霊型シャーマニズムの類型に該当するとしている。それに対し、川面は極めて珍しく、脱魂型シャーマニズムの類型に該当するとされる。

 なぜ、この「憑霊型シャーマニズム」と「脱魂型シャーマニズム」の区分が重要かといえば、両者には意志・理性の捉え方において、大きな径庭があるからである。津城が言うように、川面における「鎮魂帰神」観念の中核的概念は、「脱魂型シャーマニズム」に分類されているように、主要な魂が体外に脱する「魂の分出」である[14]。こうした「魂の分出」は、全身の統一した状態において、主要な魂が体外に脱出して何らかの活動を行うことを指す。これは一方的に超自然的存在が依代に憑依するケースや、俗に言う「幽体離脱」でイメージされる放心状態での魂の遊離という発想とは対極に立つもので、津城が指摘するように、「無自覚的・消極的ではなく、きわめて自覚的・意志的な状態」だと定義されている[15]

 これまで、川面の霊魂観・身体観を概観してきた。では、こうした川面の霊魂観・身体観について、先だって掲げた「身体と意志/理性」という分析視座に照らし、評価していきたい。川面の霊魂観・身体観は、魂の集合・構造分化という原子論的構造を採用しており、科学的論理を説明的概念として援用することに躊躇しないことが明らかになった。また、その「鎮魂帰神」観念は、主流である憑霊型シャーマニズムとは異なり、脱魂型シャーマニズムに分類され、きわめて自覚的・意志的な状態として位置付けられる。かかる状況から、川面の霊魂観・身体観は、身体と意志/理性を、少なくとも対立するものとは見なしていないのではないか、と結論付けられる。

 

二・二 身体と自我/個人

 それでは、続いて、「身体と自我/個人」という分析視座に沿って、川面の行法観について概観したい。川面における行法は、先ほど述べた「鎮魂帰神」観念を具体化したものであり、祓・禊・振玉・雄建・雄詰・伊吹という六段階から構成される。本稿冒頭で触れておいたが、これらの行法は決まった身体動作を反復する形をとっており、一種の体操とも解されている。すなわち、川面における行法は、本稿の主題であるところの身体論・身体技法そのものなのである。

 だが、こうした祓・禊・振玉・雄建・雄詰・伊吹という一連の行法に触れる前に、その前提であるところの川面の「鎮魂帰神」観念について、もう少し触れておきたい。先ほど、川面の「鎮魂帰神」観念とは、「魂の分出」としてイメージされる、人間界のシャーマンが超自然的存在へと「内から外へ」出ていくタイプだと説明した。だが、川面はもう一つの霊性のやり取りの方向性、すなわち超自然的存在が「外から内へ」入ってくるパターンについても想定していた。川面は、魂の粒子が人間に常に降り注いでいるのであって、これが人間の身体にも浸透することで、入り込むとする。これを、川面は「万有の息気」だとするが、これが良いものであるならよいが、中には悪影響を及ぼすものもあり、こうした悪影響を及ぼす「外から内へ」入ってくる魂を、川面は「禍津毘」と呼ぶ。

 そして、川面にとって、「鎮魂帰神」とは、単に人間の霊魂が「内から外へ」出ていくだけではなく、先ほど触れた「外から内へ」入ってくる「禍津毘」といった悪影響を及ぼす霊体を除去することも目的の一つとなる。そして、こうした「禍津毘」の対策として川面が講じるのが、身体内の諸霊魂の「主宰統一」であった。すでに触れたが、川面の霊魂論は原子論的構造を採用しており、無数の霊魂を人間は抱懐している。ここで、こうした無数の霊魂をコントロールし、一個の肉体あるいは一個の自我たらしめなければならない。そして、この「主宰統一」が上手く実現されなければ、外部から身体に入り込んでくる「禍津毘」の影響を容易く受けてしまう。ここで、川面の「鎮魂帰神」観念は、諸霊魂をコントロールすることによって一個の肉体、一個の自我を獲得し、外部から侵入する「禍津毘」に対抗、これを排除することも、目的となるのである。

 そして、こうした、以前触れた「魂の分出」に留まらない、「主宰統一」や「禍津毘」の排除といった川面による「鎮魂帰神」観念のもう一つの側面に、津城は自我・主体の投影を読み取る。津城は、不断に入り込んでくる「禍津毘」を身体的鍛錬である行法によって阻止し、「主宰統一」によって自己を懸命に立ち上げようとする川面の「鎮魂帰神」観を、吉本隆明共同幻想論の援用によって説明しようとする[16]。吉本は、「個々の人間の観念が、圧倒的に優勢な共同観念から、強制的に侵入され混乱してしまう」(『共同幻想論』)として、ここに個人の存立を難しくする共同観念(共同幻想)の問題を定式化した。そして、同様の問題図式が、川面にも発見できる、と津城は仄めかす。不断に入り込んでくる「禍津毘」が共同幻想に、厳しい身体的鍛錬を伴う「禍津毘」に抗する「主宰統一」の試みを、それでも個人を成立させようとする吉本の試みに、それぞれ対応させているわけである。

 確かに、「禍津毘」は「個人の存立を難しくするもの」として把握でき、「主宰統一」は「阻害要素を排してでも、自我を実現しようとする試み」として理解することも可能だ。こうした構図において、確かに川面と吉本は重なり合う。突飛な組み合わせだが、(同様に身体技法である)ヨガが個人的であるのに対し、鎮魂帰神は集団的だとする神道家の見解も紹介されており[17]、身体技法から個人モデルを析出するのは的外れではない。それでは、こうした鎮魂帰神の具体的プロセスである、祓・禊・振玉・雄建・雄詰・伊吹を見て行こう。祓は風の力による浄化、禊は水の力による浄化、振玉・伊吹は呼吸法、雄建・雄詰は神話の再演であり、それぞれ「禍津毘」の除去と、「主宰統一」の確立を企図したものとなっている。こうした行法を修めた結果として、「魂の分出」と呼ばれる鎮魂帰神の中核に進める、と川面は説いている。先ほどの個人モデルを援用すると、「禍津毘」の除去と「主宰統一」によって自我の確立を行うことで、意志の放射である「魂の分出」に取り掛かれる、という形で整理できるだろうか。かかる身体技法や、津城の見解から言って、川面の身体論・身体技法は、少なくとも個人/自我と敵対的ではない、と言えるのではないか。

 

おわりに

 これまで、昭和戦前期・戦中期において、ナショナリズムの勃興を背景として出現した身体論・身体技法は、三井甲之や佐藤通次の身体論であれ、筧克彦の「日本体操」であれ、現状肯定の果ての思考停止による「自己完結」状態であるとか、国民の身体までも国家の統制に服させようとする「動員」であるとか、否定的な評価がなされてきた。

 そこで、同じくナショナリズムに立脚し、「身体性」への関心を示し、特異な身体技法をもつ川面凡児における霊魂論・身体論を検討したところ、同時代の他の身体論・身体技法とは異なって、意志、理性、個人、自我と必ずしも敵対的ではないのではないかという結論を得られた。これは、「自己完結」や「動員」という戦後におけるナショナリズムと身体論の関係をめぐる研究における定説的な見解に回収されない、身体論や身体技法のもつ新たな含意を探る端緒になりえるかもしれない[18]

 

[1] 『近代日本哲学思想家辞典』(東京書籍、昭和57年)182~183頁

[2] 片山杜秀『近代日本の右翼思想』(講談社、2007年)第四章「右翼と身体」

[3] 片山・前掲注(2)197頁以下

[4] 片山・前掲注(2)210頁以下

[5] 「日本体操」について、中道豪一「筧克彦『日本体操』の理論と実践」明治聖徳記念学会紀要51号(2014年)

[6] 筧は貞明皇后に進講しており、この関係から、貞明皇后の周辺にいた女官らも、この「日本体操」を行っていたという。こうした筧と宮中の繋がりについて、中道豪一「貞明皇后への御進講における筧克彦の神道論 : 『神ながらの道』の理解と先行研究における問題点の指摘」明治清徳記念学会紀要50号(2013年)

[7] 片山・前掲注(2)205頁以下

[8] 佐々木浩雄『体操の日本近代:戦時期の集団体操と〈身体の国民化〉』(青弓社、2016年)を参照。「日本体操」については、同書261頁以下。

[9] 津城寛文『鎮魂行法論:近代神道世界の霊魂論と身体論』(春秋社、1990年)第四章「川面凡児の鎮魂行法説」

[10] 中西旭「川面凡児」神道宗教41号(1965年)や、同「今泉定助翁における皇道思想の展開:特に川面神学との関係について」『今泉定助先生研究全集(第一巻)』(日本大学今泉研究所、1969年)を参照。

[11] 金谷眞『川面凡兒先生傳』(みそぎ会星座連盟、昭和33年)

[12] 津城・前掲注(9)249頁

[13] この「憑霊型シャーマニズム」と「脱魂型シャーマニズム」という区分そのものは、佐々木宏幹『シャーマニズムの人類学』(弘文堂、昭和59年)において提示されたものである。

[14] 津城・前掲注(9)251頁

[15] 同上

[16] 津城・前掲注(9)287頁

[17] 津城・前掲注(9)351頁。山蔭基央の発言。

[18] 川面の身体論・身体技法は、川面の死後に大政翼賛会によって国民的行事として採用され、(表面上は)筧克彦の「日本体操」と同様の政治的展開を辿った。しかし、本稿では、身体論・身体技法の政治的展開よりも、身体論・身体技法の内在的性質に注目した議論を行った。

 

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川面凡児

 

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川面凡児の霊魂論

 

【静岡】定例研究会のご案内

 

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この度、当会の静岡支部が発足する運びとなり、静岡にて定例研究会を開催することとなりました。その初回の研究会が、下記要領にて開催されます。万障繰り合わせの上ご参加下さいますよう、何卒宜しくお願い申し上げます。

民族文化研究会 静岡地区第1回定例研究会

日時:令和元年8月31日(土)17時~19時
会場:ラ・ホール富士 第二会議室
静岡県富士市中央町2丁目7番11号

http://www.fuji-kousya.jp/lh/

会費:500円
​主催:民族文化研究会静岡支部

 

【関西】定例研究会報告 日本音楽を私達の生活に取り戻すために(番外編)――演歌

 令和元年7月27日(土)に開催された民族文化研究会関西地区第15回定例研究会における報告「日本音楽を私達の生活に取り戻すために(番外編)――演歌」の要旨を掲載させて頂きます。

 

 この企劃は現代音樂に滿たされた現代日本人に明治以前の日本の音樂を知つてもらふため、まづは私達自身が詳しくなり傳道していかうと云つた考へのもと始めました。
 今囘は、番外篇として、現代音樂の演歌を解説します。演歌の歴史、演歌にまつはる人々、そして演歌と傳統音樂との關聯性を解き明かしていかうと思ひます。


一、演歌の定義 二、演歌の歴史 三、演歌を形作つた人々 四、演歌の構造 五、演歌の時代的役割

一、演歌の定義

 演歌は明確な定義がなく、時代によりその内實が變化した不明瞭な種目です。何をもつて演歌をするかは、明治大正昭和初期の時代と、昭和中期以降に大きく二分されます。現代一般的にはヨナ拔き音階(あるいはニロ拔き音階)を用ゐ、〝こぶし”の效いた歌聲、歌のテーマは主に海(特に日本海)、酒、女、北國、雪と云つた傾向のある歌謠曲を云ひます。「艷歌」や「怨歌」とも言はれ、人の情を説いた内容の歌詞が多くなつてゐます。

二、演歌の歴史

 演歌は、もとは明治中期の自由民權運動の壯士が,演説代りにうたつた歌を祖にもちます。演説歌、略して演歌の誕生です。思想を歌に託して表明することは古くから行はれてきましたが、植木枝盛(えもり)作『民權田舎歌』や安岡道太郎作『よしや武士』のやうに、「數え歌」や「どどいつ」の旋律に頼るものは演歌とよびません。したがつて演歌の嚆矢は川上音二郎作『オッペケペー』となります。明治二十二年の暮れにつくられたこの歌は、京都・新京極の寄席で公開されるや、忽ち京都市民の心をとらへました。政府の施策を非難することなく、自由と民權の伸張を平易に説く『オッペケペー』は、多年にわたる川上の反權力鬪爭の成果と云へますが、翌年に壯士芝居を率ゐて東上した川上一坐の公演によつて、横濱や東京でも流行し始めました。
 歌詞の内容とリズムをたいせつにするだけで、一定の旋律をもたないこの歌は、音樂的にはデクラメーションと云ひます。端唄や俗曲以外、はやり歌が皆無に近かつた當時の民衆にとつて、だれもが容易に口ずさめる『オッペケペー』は、民衆娯樂の新分野を形成することになりました。
 東京にたむろする壯士のなかには、川上をまねて街頭で放歌高吟するかたわら、この歌本を賣つて生活の糧を得る者が現れ、『ヤッツケロ節』『欽慕節(きんぼぶし)』『ダイナマイトドン』など同類の歌もつくられました。ただ、政府を彈劾する歌詞もあつて、屡々官憲の彈壓を受けました。かうした壯士の歌に「演歌」の名を冠する一團もありましたが、世間では一般に「讀賣」とか「壯士歌」とよびました。ところが壯士の大半は書生であり、『法界節』や『日清談判破裂して』を月琴で流したので、壯士歌はむしろ「書生節」と云ふ名稱で親しまれるやうになりました。そのころ、黒地の着物に編笠(あみがさ)をかぶり、薄化粧を施して娘たちの歡心を買はうとする書生たちの行爲は、社會問題として大きな波紋をよびました。
 やがてバイオリンが用ゐられると、目新しさにひかれ、書生節の周邊を聽衆が取り卷くことになります。大正中期、『一かけ節』や『七里箇濱の仇浪』などが全國に滲透するころ、書生節の歌手は「演歌師」と云はれ始め、映畫の力とも相まつて『船頭小唄』や『籠の鳥』が一世を風靡しました。
 昭和になつてレコード歌謠に人氣が集まると、書生節は消滅して「歌謠曲」が臺頭し、多數の作詞家・作曲家が活躍しました。そして、昭和三十五年前後に「艷歌(えんか)」と云ふことばとともに「演歌」が復活します。美空ひばりをはじめ、島倉千代子、春日八郎、三波春夫ら、枚舉にいとまがないほど多數の歌手が出現し、その歌聲は民衆の魂を搖さぶつて黄金時代を形成しました。外國のポップスの流行につれて、こぶしのきいた日本調の歌謠曲を演歌とよんだわけですが、しだいに歌謠曲は演歌とニューミュージックに二分さました。かうした用語の變遷や歌詞ないしは歌ひ方に注目するとき、今日の演歌は、日本的な土壤に立脚した歌聲だと定義づけることができます。最近は、歌謠曲のさらなる多樣化、演歌ファン層の高齢化などにより、歌謠曲分野に占める演歌の位置附けは相對的に低下してゐます。

三、演歌を形作つた人々

 この項では、現在に至るまでの演歌を形作つてきた作曲家・作詞家・歌手を七人紹介します。
 一、川上音二郎(文久三-明治四四)。筑前黒田藩出身の「オッペケペー節」で一世を風靡した興行師・藝術家、新派劇の創始者。川上の始めた書生芝居、壯士芝居はやがて新派となり、歌舞伎をしのぐ人氣を博し、「新派劇の父」と稱されました。最初にレコードに音を吹き込んだ日本人としても有名。
 二、添田唖蝉坊(明治四-昭和一九)。演歌師。横須賀で日雇ひ人夫などをしてゐるうち、壯士の街頭演歌を聞き心醉、東京・新富町にあつた壯士演歌の本部へ入ります。これが一八歳のことで、以來、演歌師として盛名をはせ、明治後期から大正にかけて『ラッパ節』『マックロ節』『ノンキ節』『デモクラシー節』など數多くの演歌の作詞を行つてゐました。堺利彦を知つて社會主義運動に入り、その勸めでつくつた『社會黨ラッパ節』などがありますが、彼の資質はむしろ非政治的と云つてよく、「過去の演歌はあまりに壯士的概念むき出しの“放聲”に過ぎなかつた」と云ふ述懐のとほり、風俗世相を諷刺、した『むらさき節』や晩年の『金々節』などによくその本領を發揮しました。
 三、中山晉平(明治二〇-昭和二七)。作曲家。多くの傑作と云はれる童謠・流行歌・新民謠などを殘し、作品は多岐にわたり、學校の校歌・社歌等などを含め中山の作品と判明してゐるだけで一七七〇曲あります。彼の演歌とのつながりは、船頭小唄や哀愁演歌を作曲し、ヨナ拔き音階を定着させたことです。また、民謠を愛し、その音階やメロディーの動きを研究し、三味線も彈くと云つた多才ぶりを發揮してゐました。
 四、古賀政男(明治三七-昭和五三)。作曲家。少年時代に絃樂器に目覺め、青年期はマンドリン・ギターのクラシック音樂を研鑽しました。流行歌王古賀政男と言はれ、昭和期を代表する國民的作曲家としての地位を確立し數多くの流行歌をヒットさせました。その生涯で制作した樂曲は五千曲とも言はれ、「古賀メロディー」として親しまれてゐます。演歌の始祖とも云はれ、古賀以前の演歌と以後の演歌で區分されるほど、その影響力は大きいものでした。
 五、古關裕而(明治四二-平成元年)。作曲家。多數の軍歌、歌謠曲、応援歌を殘し、五千曲以上作曲しました。戰時中は戰時歌謠で數々の名作を殘してゐて、古關メロディのベースであつたクラシックと融合した作品は、哀愁をおびたせつない旋律のものが多くありました。それが戰爭で傷ついた大衆の心の奧底に響き、支持されました。
 六、西條八十(明治二五-昭和四五)。詩人・作詞家・佛文科教授。早稻田教授を勤める傍ら、詩人としても活躍し、高踏的象徴詩をつくる一方、北原白秋と竝ぶ大正期の代表的童謠詩人でもありました。。民謠や歌謠曲の作詞家としても活躍し、演歌の一時代を築いた一人です。
 七、美空ひばり(昭和一二-平成元年)。歌手・女優。十二歳でデビューして「天才少女歌手」と謳はれて以後、歌謠曲・映畫・舞臺などで活躍し自他共に「歌謠界の女王」と認める存在となりました。昭和の歌謠界を代表する歌手であり、女性として史上初の國民榮譽賞を受賞しました。

四、演歌の構造

 前述の通り、演歌には古賀政男以前と以後に分かれてをり、最初の壯士歌とは全くの別物になつてゐます。また、書生節がレコードにより姿を消してから、西暦一九六〇年代に入るまでは、演歌と云ふ種目は無く、歌謠曲・流行曲としてくくられてゐました。古賀政男は昭和初期から活躍してをり、古賀メロディは演歌が復活する前からありました。オッペケペーから始まる初期演歌は幅が廣く、また決まつた曲調も無いのでその特徴を正確に現すのは困難です。しかし、現代一般的に聞かれてゐる演歌のルーツである古賀メロディであれば、その特徴をはつきりと現すことができます。ですので、ここでは古賀メロディから演歌の構造を解明していかうと思ひます。
 古賀メロディを簡單に説明すると、日本の傳統的な音樂構造に洋樂・ジプシー音階・ハバネラのリズム・ジャズの諸要素など、多種多彩な音樂のエッセンスを盛り込んだものです。また、樂器もヴァイオリン・アコーデオン・ギターなどを多用してゐます。
 古賀メロディーの音樂構造に就いて。まづは言葉。一例として、音の強弱をつけるとき、上昇するときには漸弱を用ゐ、下降するときには漸強を採ります。長唄常磐津・淨瑠璃・新内・民謠の歌ひ方もこのとほりで、これは西洋とは眞逆です。この強弱のつけ方は非科學的と云はれるのですが、日本語に照らし合はせると全く自然理なことだと云はれてゐます。
 次にヨナ拔き短音階です。ヨナ拔きは最初の方でも書きましたが、具體的に言ふとAマイナーの構成音、ラシドレミファソのレとソを拔いた五音で作られた曲のことを言ひます。ただ、この項で書いたやうに、古賀はジプシー音階なども使つてをり、それは昭和十年代まで續きました。次第に曲調は大衆受けのするヨナ拔きへと傾倒していきますが、彼は日本の長唄や清元などを土臺に、諸外國の樣々な音樂を採り入れる手法に長けてゐました。
 次にコブシやマワシと云つた歌ひ方です。これは佛教聲明の影響が強いのではと推測されてゐます。聲明用語のユリ(ある音を細かく上下動させながら歌ふ)や、ステル(下降系の最終音として、消えるやうに歌ふ)、ソリ(ある音から次の音にごくなめらかに移行しつつ歌ふ)、マワス(ある音から半音または一音低い音に降りる場合には、後ろの音を強く押し出すやうにアクセントをつける)などを自身の曲にとりいれてゐます。
 次に曲構成です。古賀の曲は主旋律とは異なる前奏や間奏がついてゐることも特徴です。古賀の曲の大半は歌なしでも器樂のみで演奏されても十分樂しめるもので、歴史的に見て聲を伴ふ音樂が發達してきた日本に於て、器樂的發想を持つた作曲手法は稀でした。この部分に關しては日本的と云ふより、西洋的と云へます。
 リズム・テンポに就いて。古賀は歌手に、ゆつくりとしたテンポで、感情を込めておおらかに歌つてほしいと言つてゐました。リズムはワルツやフォックストロット、タンゴなどのスタイルを自作に取り入れてをり、特にアルゼンチンで發達したタンゴリズムを好んで用ゐてゐました。
 和音に就いて。古賀は日本の單音主義を採用し、ハーモニーをあまり使ひませんでした。注目したいのは、コード部分を複數の音を同時に出せるアコーディオンで演奏せずに、すぐに音が減衰するギターで彈いてゐたことです。アコーディオンはメロディー部分しか彈かせてゐないのです。これは、アコーディオンで和音を持續すると、歌詞や他のパートが埋沒し、日本的な味はひがなくなるからと推測されてゐます。
 最後に、古賀政男自身が語つた眞意として、「私が自作にさまざまな音樂の要素を取り入れてゐるのは、たんなる物眞似ではなく、新しい日本の音樂を自ら想像すると云ふ氣持ちによるものだ」と言つてゐます。

五、演歌の時代的役割

 「日本の大衆の心を根柢から搖さぶるには、矢張り日本的發聲法が必要だと私は思ふ。學校教育のすべてがドレミファでやつてゐるのに、いまさら日本的發聲法もないもんだと云はれるかもしれない。だが、傳統はたやすく死にはしないのだ。〈中略〉 いまなお浪曲調、民謠調、明治の艷歌調の歌謠曲がなんと根強いことか」(古賀政男自傳はが心の歌)
 演歌には昔ながらの傳統を重んじつつも、それを發展させようと云ふ意氣込みが感じられます。實際、浪曲界や、民謠界から轉身した演歌歌手が數多くおり、日本の土着文化を吸收した人達により演歌は形作られてきました。また、演歌はロックである、とも言はれてゐます。ロックは大人をふくむ主流社會の消費主義とその適応にたいする「青少年の叛亂」と云ふ精神性があり、演歌も昭和中期の西洋的合理主義崇拜に對する、日本的情緒精神の叛亂である、と云ふ考へ方です 。
 しかし、演歌は傳統音樂と云ふには歴史が淺すぎます。超黨派の「演歌・歌謠曲を応援する國會議員の會」が平成二十八年に發足し、杉良太郎氏は日本の傳統が忘れ去られようとしてゐると警鐘を鳴らしました。
 嚴密に現代演歌歌手が成立したのは、都はるみ以降のことです。都はるみの曲に感化された五木寛之が昭和四十三年に小説『艷歌』を發行し、日本クラウンは「艷歌」と云ふジャンルを創りました。しかし、コロムビアやビクターが「演歌」を採用したことで、演歌が世間で一般化しました。これが昭和四十五年のことです。つまり、日本傳統音樂の系譜ではありますが、まだ五十年しか經つてゐないのです。
 また、古賀政男、中山晉平、古關裕而らは、皆西洋音樂教育を受け、その後で日本音樂とは何かを發見していつたと云ふ道程を經た人達でした。これは音樂取調掛が發足した明治十二年以降の西洋音樂偏重教育が原因であり、彼ら作曲家に、なぜ日本音樂を最初に學ばないのか、と問ひ詰めることはできません。
 まとめると、演歌とは日本傳統音樂と西洋音樂を混成させた流行歌である、と云ふことができます。流行歌であると云ふことは、その歌詞に當時の人々の思ひが表出してゐます。演歌歌詞の特徴と云へば、哀しさ、孤独、不幸と云つた、情緒あふれるものが多くあります。しかし惡く言へばしみつたれた歌詞が多いとも云へます。昭和四十年代は、かう云つた昔の日本的であるとされた、歌詞が大衆に好まれた時代でした。それが昭和も終はりになると、バブル景氣、そしてバブル崩潰を經て、時代精神に即さなくなつてしまつたのです。そこにJポップと云ふ新種目が誕生したことで、演歌の凋落は決定的なものとなりました。そのため、近年では不幸さ、哀しさを取り除いた曲もできてきましたが、演歌の本質である情緒的な部分を取り除けば魅力は半減してしまひます。流行歌としての演歌の役割は、ここにひとつの終はりを迎へたと云ふことではないでせうか。


參考文獻

「演歌」のススメ 藍川由美(文春新書 平成十四年)
演歌の明治大正史 添田知道(岩波新書 昭和三十八年)
昭和演歌の歴史-その群像と時代 菊池清麿(アルファベータブックス 平成二十八年)
昭和歌謠-流行家から見えてくる昭和の世相 長田曉二(敬文舍 平成二十九年)
美空ひばりと日本人 山折哲雄(現代書館 平成十三年)
演歌とはなにか?大正ロマンから昭和アイドルへ 平山朝治(歴史文化研究 平成二十九年)

 

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古関裕而