定例研究会報告 東京裁判の比較文明論――東京裁判開廷70年を迎えて

はじめに

 今年は、1946年に東京裁判極東国際軍事裁判)が開廷してから、70年の節目に当たる。東京裁判が開廷してから50年の節目だった1996年にも、「東京裁判とは何だったのか」と題して、歴史家を中心とした大規模なシンポジウムが挙行されたが――五十嵐武士・北岡伸一編『〔争論〕東京裁判とは何だったのか』(築地書館、1997年)にまとめられている――、今年も東京裁判を再考する試みが陸続した。国士舘大学法学部比較法制研究所が数年前から取り組んでいる、東京裁判の速記録を翻訳し体系的に整序した『極東国際軍事裁判審理要録』(原書房)は、今年に入ってようやく4巻目まで公刊されるにいたった――国士舘大学法学部比較法制研究所監修『極東国際軍事裁判審理要録第4巻』(原書房、2016年)――。また、日本国体学会によって、東京裁判開廷70年を期して、「東京裁判を問い直す」と題して、シンポジウムが挙行された。20年前の東京裁判開廷50年の節目よりも、戦後の思想的な拘束状況が緩和されたためか、今年の東京裁判開廷70年の節目に見られた動きの方が、積極的に東京裁判を再考しようとする姿勢に満ちている。

 本稿でも、こうした東京裁判開廷70年の節目にあって、東京裁判を問い直すため、問題提起を行いたい。具体的には、既存の東京裁判の分析では欠落しがちであった、東京裁判の比較文明論的な考察を、ひとつの視座として提示する。東京裁判の首席検察官だったジョゼフ・キーナンは、東京裁判の冒頭陳述で、日本を「文明に対し宣戦布告した」と断罪し、この裁判を「文明の断乎たる戦い」と表現した。すなわち、「文明」である連合国が、「野蛮」である日本を裁く、という枠組が東京裁判の基礎にあると宣言したのである。ここで、執拗に登場するのが、ほかならない「文明」という概念である。連合国は、「文明」と「野蛮」という図式のもとで、この裁判を遂行した。そして、この裁判では、西欧諸国を中心とする原告と、日本人の被告が対峙し、そこで東西文明の衝突が発生した。東京裁判を問い直すため、もっとも着目しなければならない概念のひとつこそ、この「文明」の概念なのだ。

 だが、既存の東京裁判研究は、この東京裁判における「文明」の概念の分析を怠ってきた。国際法学者の大沼保昭は、『東京裁判から戦後責任の思想へ』(有信堂、1985年)に所収された「『文明の裁き』『勝者の裁き』を超えて」で、東京裁判における「文明」の概念の欺瞞を指摘した。また、法哲学者の長尾龍一も、『中央公論』1975年8月号に掲載された「文明は裁いたのか裁かれたのか」で、東京裁判で謳われた「文明」の裁きとは、西欧諸国による植民地喪失への復讐に過ぎないと断言している。だが、キーナンによって高らかに謳われた「文明」による裁きの欺瞞を糾弾するだけでは、東京裁判で発生した東西文明の衝突について、充分に明らかにすることはできない。ここで必要なのは、東京裁判で発生した東西文明の衝突を、比較文明論的な視座で明らかにするアプローチである。こうしたアプローチを試みてきた東京裁判研究者こそ、『「文明の裁き」をこえて――対日戦犯裁判読解の試み』(中央公論社、2000年)や『「勝者の裁き」に向き合って――東京裁判をよみなおす』(筑摩書房、2004年)において、東京裁判の比較文明論的な考察を行ってきた牛村圭だった。ここでは、以上の牛村の業績に依拠しつつ、東京裁判の比較文明論的な考察を試みる。

 

一 丸山真男東京裁判論――「無責任の体系」という名の虚像

 牛村は、東京裁判における「文明」の概念を分析するにあたって、まずは同時期に開廷され、連合国による枢軸国への裁きという図式を共有していた、ニュルンベルク裁判に着目した。具体的には、東京裁判における日本戦犯と、ニュルンベルク裁判におけるドイツ戦犯を比較し、前者の特質を明らかにしようとする試みである。ここで、検討対象となるのが、東京裁判における日本戦犯と、ニュルンベルク裁判におけるドイツ戦犯を比較し、前者の特質を明らかにしようとした、丸山真男「軍国支配者の精神形態」(1949年)である。丸山は、東京裁判における日本戦犯と、ニュルンベルク裁判におけるドイツ戦犯を比較し、後者が主体的に戦争犯罪を遂行し、積極的にその責任を認める傾向があるのに対し、前者は受動的に戦争犯罪に巻き込まれ、その責任を認めるのに消極的であると指摘した。ここで、日本戦犯の特質は、「既成事実への屈服」と「権限への逃避」に原因があるとされ、日本戦犯は時代の潮流になすがままに屈服し、それゆえその責任から逃避しようとする「無責任の体系」を示していると糾弾される。

 この丸山の東京裁判批評は一世を風靡したが、牛村は丸山の分析には重大な錯誤があると指摘した。まず、「軍国支配者の精神形態」は、東京裁判における日本戦犯の供述と、ニュルンベルク裁判におけるドイツ戦犯の供述を比較しているが、この比較の過程で資料の操作が行われたとする。東京裁判における日本戦犯の供述は、ほぼ全て参照されているのに対し、ニュルンベルク裁判におけるドイツ戦犯の供述は、ヘルマン・ゲーリングを中心とした一部の戦犯の供述しか参照されていない。たしかに、ゲーリングはナチの戦争犯罪を積極的に認め、この責任を負うと公言したが、その他のナチ戦犯の供述には、丸山の表現を借用すると、「既成事実への屈服」と「権限への逃避」が散見された。丸山は、一見すると潔く映るゲーリングら一部の戦犯の供述だけを、意図的に選択していたのである。そして、牛村は、日本戦犯の供述も、丸山が主張するように「既成事実への屈服」や「権限への逃避」によって説明しえるわけではない、と解釈した。日本戦犯には、「法的責任」と「道義的責任」を峻別する論理が見られ、前者を法廷で争いつつ、後者を積極的に認めた。丸山は、こうした日本戦犯の態度を無視し、「道義的責任」を積極的に認める日本戦犯の供述を切り捨て、「法的責任」を法廷で争う日本戦犯の供述を誇張することで、「無責任の体系」を示す日本戦犯という虚像を構築したのである。牛村は、こうした丸山による、東京裁判における日本戦犯と、ニュルンベルク裁判におけるドイツ戦犯の対抗図式を否定し、両者の実質的な差異は無かった、と結論付けた。キーナンによって「文明」と「野蛮」として、丸山真男によって「ニヒリストの明快さ」と「無責任の体系」として、それぞれ峻別された東西文明の差異は、実際には存在しなかったのである。では、両者に共通し、東京裁判において問われた「文明」とは、どのような存在だったのか。

 

二 竹山道雄東京裁判論――「近代文明」という名の被告

 牛村は、丸山の東京裁判批評の錯誤を指摘し、東西文明の差異を越えて、東京裁判において問われた「文明」とは、どのような存在だったのかを明らかにしなければならない、と指摘した。ここで、注目されるのが、竹山道雄東京裁判批判である。竹山道雄は、「ハイド氏の裁き」(1946年)において、卓抜した東京裁判を展開した。「ハイド氏の裁き」は、筆者が東京裁判を傍聴する場面から始まる。今回の裁判では、どうやら新しい被告が裁かれるらしく、筆者は隣の傍聴者に被告の素性を尋ねた。「あのあたらしい被告の名は何といいますか?」という筆者の問いに、隣の傍聴者は「近代文明といいます」と答える。こうした、「近代文明」を被告とした、東京裁判のパロディを通して、竹山は何を読者に伝えようとしたのだろうか。

 竹山は、近代文明の二面性を、ロバート・ルイス・スティーヴンソンの小説である『ジキル博士とハイド氏』に登場するジキルとハイドに仮託した。そして、こうした近代文明の悪しき側面(ハイド)こそ、帝国主義であると定義する。ここから、日本による一連の対外進出と大東亜戦争への帰結は、近代文明の悪しき側面(ハイド)の表出であるという結論が導かれた。そして、こうした近代文明は、裁かれる日本と、裁く西欧の双方に共通しているわけである。すなわち、竹山は、「文明」である自らが、「野蛮」である日本を裁く、という図式で東京裁判を遂行する連合国に対し、お前たちも近代文明の悪しき側面(ハイド)という罪を抱えており、日本と同じく「被告」なのだ、という厳然たる事実を突きつけるのだ。ここで、東京裁判が裁く対象とした、「文明」という概念の実像は、はっきりと明らかになる。帝国主義の根源であり、総力戦への駆動力だった、「近代文明」の悪しき側面(ハイド)こそ、本来は東京裁判において裁かれるべき「被告」だった。「ハイド氏の裁き」は、無分別に「文明」の名を振りかざす東京裁判への痛烈な風刺であるとともに、東京裁判のあるべき姿を明らかにする試みでもあったのである。 また、こうした「近代文明」を、東京裁判において裁くべき対象とする東京裁判批判は、丸山真男ファシズム論への反駁の意味も込められていた。丸山は、封建制の残滓こそ、ファシズムをもたらし、日本を大東亜戦争へと帰結させたと結論付ける。そして、連合国と同じく、東京裁判を「文明」と「野蛮」の図式によって解釈しようとする。竹山は、これに対して、連合国と枢軸国に共通した「文明」の罪こそ、東京裁判では問われるべきだ、と丸山に反駁した。そして、こうした竹山の「近代文明」に戦争犯罪の根源を見出し、日本を野蛮な絶対悪として裁こうとする態度を否定する姿勢は、数奇な偶然から交友があった東京裁判のオランダ人判事であるベルナルド・レーリングに影響を与え、レーリングによる判決にあたっての個別意見書の提出に繋がる。インド人判事であるラダ・ビノート・パールの著名な個別意見書と比較すると、レーリングの個別意見書は歴史に埋没してきたが、共同謀議の適用への疑問や、広田弘毅元首相ら5名を無罪と表明するなど、キーナンが高らかに謳い上げた「文明」による「野蛮」への裁きという東京裁判の図式から自由な見地から執筆されており、竹山からの影響もあって、きわめて高い歴史的意義をもっている。

 

おわりに

 牛村は、丸山真男「軍国支配者の精神形態」を分析し、東京裁判における日本戦犯と、ニュルンベルク裁判におけるドイツ戦犯には、差異が無いと指摘した。ここで、東西に共通する「文明」こそ、東京裁判において裁かれた存在であると議論は展開する。そして、竹山道雄「ハイド氏の裁き」を参照し、東西文明が共通して抱える「近代文明」こそ、東京裁判において裁かれた存在であると判明した。この視点には、植民地支配を受けた東洋の立場から、被告全員を無罪とする個別意見書を執筆したパールや、文明を自負する西洋の立場から、野蛮と侮蔑する日本を裁いた連合国の検事・判事が、もちえなかった認識が含まれている。東西を越えて「近代文明」が不可避的に負っている宿命(竹山の表現を借用すると、「ハイド氏」の側面)こそ、日本を大東亜戦争へと追いやったのであり、この宿命によって日本は裁かれたのである。そして、こうした認識は、東西文明を俯瞰する牛村の比較文明論的なアプローチによってこそ、可能となったのだ。

 

参考文献
竹山道雄「ハイド氏の裁き」『樅の子と薔薇』(新潮社、1951年)
丸山真男「軍国支配者の精神形態」『現代政治の思想と行動』(未來社、1964年)
長尾龍一「文明は裁いたのか裁かれたのか」『中央公論』1975年8月号
大沼保昭「『文明の裁き』『勝者の裁き』を超えて」『東京裁判から戦後責任の思想へ』(有信堂、1985年)
ベルナルド・レーリング(小菅信子訳・粟屋憲太郎解説)『レーリング判事の東京裁判』(新曜社、1996年)
五十嵐武士・北岡伸一編『〔争論〕東京裁判とは何だったのか』(築地書館、1997年)
牛村圭『「文明の裁き」をこえて――対日戦犯裁判読解の試み』(中央公論社、2000年)
牛村圭『「勝者の裁き」に向き合って――東京裁判をよみなおす』(筑摩書房、2004年)
国士舘大学法学部比較法制研究所監修『極東国際軍事裁判審理要録第4巻』(原書房、2016年)

 

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竹山道雄