民族文化研究会

わが国の伝統的な民族文化・民族生活ならびに世界の諸民族を取り巻く問題を研究

定例勉強会報告5 明治典憲体制について

 明治典憲体制とは、一般に、皇室典範大日本帝国憲法が、ともに最高の形式的効力をもつ憲法体制のことをいう。明治典憲体制は、明治22年、あるいは明治40年に成立した。

 明治22年は、大日本帝国憲法皇室典範が制定された年である。憲法では国家の統治機構が整備された。皇位継承等の皇室のルールについては憲法では明記せず、皇室典範により定められた。皇室典範の改正は、皇族会議及び枢密顧問の諮詢を経て天皇が勅定すると定められ、議会の議は経らない。このように「皇室のことは皇室自らが決定し、国民がこれに関与することを許さない」原則を「皇室自律主義」と呼ぶ(伊藤正巳ほか編(1978)『憲法小辞典』増補版,有斐閣)。

 現在存在する君主国では、王位継承法の制定や改正の際に議会の議を経らないという方式を採用する国はほとんど見られない。先進国ではルクセンブルクがわずかに挙げられる程度である。一方、19世紀には、このような方式を導入する国は比較的多く見られた。帝政ロシアデンマーク、ドイツなどが挙げられる。ホイシュリンク(2012)は、この種の方式を採用していた国の多くは、ドイツの影響を受けていたと指摘する。ドイツには、Fürstenrecht(侯爵法)と呼ばれる法領域が伝統的に存在していた。14世紀、神聖ローマ帝国内の王家は、通常の私法規範への服従を拒んだ。王の死亡の際に、政治権力と不動産の移転の問題について通常の相続法規範の適用を回避するためである。各王家は、王家内の相続およびそれに関連する「家の事柄」に関する法の発布権限が王家に帰属することを皇帝に承認させた。これがFürstenrechtという法領域の誕生である。ドイツの君主国の多くでは、1922-23年のドイツ革命・ヴァイマル共和国成立までFürstenrechtは存続した。

 日本において、皇位継承法を憲法とは別に定める方針は、明治14年の岩倉具視憲法意見書(実質的な執筆者は井上毅)によって定まった。この意見書にはロエスレルの影響がうかがえる。ロエスレルは、ドイツ人のお雇い外国人であり、井上毅と密接な関係にあった。ロエスレルも皇位継承法を憲法とは別に定めるべきとする意見を持っており(「皇室典範並皇族令ニ付ロエスレル氏答議」)、Fürstenrechtの概念は、ロエスレルを通じて日本に影響を与えたといえよう。

 さて、皇室典範の性質について、伊藤博文皇室典範義解』では以下のように説明されている。「皇室典範は皇室自ら其の家法を条定する者なり。故に公式に依り之を臣民に公布する者に非す。…又臣民の敢て干渉する所に非さるなり。」皇室典範は、皇室の「家法」であり、大臣の副署が無く、臣民にも公布されなかった。しかし、皇室典範を家法とし、公布しなかったことは、皇室典範の国法としての地位を不明確にした。皇室典範は、国法としての効力を持つのか、臣民・政府に対して拘束力を持つのかが曖昧な状態にあった。

 この問題の是正を図ったのが、帝室制度調査局である。明治36年に伊東巳代治が帝室制度調査局副総裁に就任すると、伊東が中心となり、帝室制度調査局は典範関係の不備の是正に取り組んだ。

 明治40年、帝室制度調査局の作成した草案をもとに、皇室典範増補・公式令が制定される。皇室典範増補は公布された。そして公式令4条では、皇室典範改正の際には、宮相・全国務大臣が副署し公布する旨が明記された。すなわち、皇室典範を家法とみなす『皇室典範義解』の思想からの転換である。皇室典範は、家法ではなく国法であり、臣民・政府に対しても有効であることが明確となった。また、公式令5条では、”皇室令”という勅令や法律とは異なる新たな法形式が創設された。皇室令は、「皇室典範に基づく諸規則、宮内官制、其の他皇室の事務」を規定するとされた。

 この明治40年の改革により、国法上に「二元的な憲法秩序」が出現した(大石2005:291)。すなわち、大日本帝国憲法を最高法規とする国務法(政務法、国家法、憲法法とも)の系統の他に、皇室典範を最高法規とする宮務法(皇室法、典範法とも)の系統が誕生したのである。国務法は、大日本帝国憲法の下で、法律・勅令・閣令等で「国家の事務」を規定し、宮務法は、皇室典範の下で、皇室令・宮内省令等で「皇室の事務」を規定した。これをもって、明治典憲体制は、名実ともに完成したのである。 

 

 国務法・宮務法の二分体制には問題もあった。国家の事務か皇室の事務か単純に峻別できない事務が存在するということだ。この問題ゆえに、大正時代には「大礼使官制問題」と呼ばれる論争が勃発した。

 大礼使官制問題は、大礼使官制の制定形式を巡る論争である。登極令(明治42年皇室令第1号)は、新天皇の”即位の礼”の事務を掌理する”大礼使”を宮中に設置し、大礼使官制を制定することを求めていた。明治45年7月、皇太子嘉仁親王殿下の践祚により「大正」と改元する。第一次山本権兵衛内閣は、大礼使官制を勅令で制定し(大正2年勅令第303号)、大礼使を内閣総理大臣の管理に属するとした。この山本内閣の処置について、一部の憲法学者や議員の間で「大礼使官制は皇室令で制定すべきであり、勅令での制定は違法である」との批判が起こる。一方で、山本内閣の処置を合法とみる憲法学者も多く存在し、大礼使官制を勅令で制定すべきか皇室令で制定すべきかについて、憲法学者を中心に論争が勃発した。昭憲皇太后崩御に伴い即位の礼の延期が決定され、大礼使官制は一旦廃止される。大正3年、第二次大隈内閣は本問題を枢密院へ委ねた。枢密院小委員会では勅令での制定が妥当であるとする説が6対4で賛成多数となり議決され、大礼使官制は勅令(大正4年勅令第51号)として再制定された。

 本問題の発生は、国家の事務・皇室の事務の線引きが難しいことを如実に表している。「即位の礼」が皇室に関係する儀式であることは間違いない。ただ、「即位の礼」の本質が、統治権の総覧者である天皇の即位を、内外にしらしめるための儀式であると解釈すれば、即位の礼は国家の大祭であるとも考えられる。

 国家の事務か皇室の事務か曖昧な領域について、誰もが納得するような線引きを設けることは困難であった。国務法・宮務法の二分体制は、このような領域の事務について管轄争いが生じる可能性を秘めていた。

 

参考文献

大石眞(2005)『日本憲法史』第2版、有斐閣
川田敬一(2001)『近代日本の国家形成と皇室財産』原書房
国分航士(2015)「明治立憲制と『宮中』」(『史学雑誌』124巻9号)
高久嶺之介(1983)「大正期皇室法令をめぐる紛争 上」(『社会科学』32巻)
三浦裕史(2003)「解説二 皇室法研究雑纂」(穂積八束皇室典範講義・皇室典範増補講義』信山社)
ホイシュリンク・リュック (2012)「ナッソー協約・侯爵法・皇室典範」井上武史訳(『岡山大學法學會雜誌』62巻2号)
皇室典範並皇族令ニ付ロエスレル氏答議」(伊藤博文編(1970)『秘書類纂』19巻、原書房