【新刊紹介】山本直人『亀井勝一郎――言葉は精神の脈搏である』(ミネルヴァ書房、令和5年)

一 本書の背景にある問題意識

 弊会顧問である山本直人氏の新著『亀井勝一郎――言葉は精神の脈搏である』がミネルヴァ書房から刊行された。本書は、「ミネルヴァ日本評伝選」の一冊であり、文芸評論家・亀井勝一郎の生涯を辿っている。

 亀井は、昭和戦前期の文壇に大きな波紋を投げかけた、「日本浪曼派」の同人だった。また、戦後は執筆の幅を広げ、人生論や恋愛論も手がけ、多数の読者を獲得した。一時期は、小林秀雄と双璧をなす批評家だと見なされることもあった(本書8頁)。

 しかし、没後は、次第に忘却された。没後五十年の節目の年にも、特段の亀井を顕彰する行事は開催されず、著作の復刊も進んでいない。小谷野敦は、亀井を指して、「死後は評価が落ち、今ではほとんど読まれていない」(『文学研究という不幸』)と辛辣に評した。

 このように、亀井勝一郎は、「忘れられた批評家」(1頁)と化していたが、ようやく近年になって、こうした状況に変化が生じ始めている。渡部治『亀井勝一郎の文学と思想』が刊行され、亀井の生涯と作品が本格的な研究の対象になりつつある。

 本書も、こうした動向を意識しつつ、時代の趨勢に埋没した、亀井勝一郎の実像を明らかにしようと試みる。山本氏が指摘するように、左翼運動に挫折し、日本主義に転向した亀井の経歴は、「昭和知識人の典型」(10頁)である。

 したがって、亀井を分析することによって、われわれは近代日本の知識人が辿った宿命を「追体験」(10頁)し、当時の思想史・文化史・精神史の本質に迫ることができる。こうした問題意識を背景として、本書は亀井の来歴を概観している。

亀井勝一郎の生涯と作品

 まず、第一章・第二章・第三章において、亀井の少年時代が描かれる。亀井は、明治40年に北海道・函館で生を享けた。父親の喜一郎は函館貯蓄銀行の支配人を務める実業家で、亀井家は富裕な家庭だった。亀井は成長し、旧制函館中学・旧制山形高校で学ぶが、そこで当時の流行だったマルクス主義の洗礼を受ける。

 大正15年に東京帝大に入学すると、こうした傾向は強まり、東大新人会で活動し、ついに非合法組織の共産主義青年同盟に加入する。こうして、急進的な左翼活動家の道を進んでいた亀井だが、やがて政治運動と距離を置く。契機になったのは、「政治と文学の関係」という問題だった。こうした経緯は、第四章・第五章で触れられる。

 亀井も所属していた、ナップ(全日本無産者芸術連盟)などの左派系文学者団体は、組織が硬直化し、イデオロギーに忠実な作品だけが求められ、「マルクス主義通俗的解説書」(168頁)のようなものしか発表できない状況だった。政治的尺度に囚われない、文学の自律性を求める亀井は、運動を離脱する。

 こうして、「『革命家か、詩人か』という二律背反」(169頁)に苦悩し、「詩人」の道を選んだ亀井は、運命的な出会いを果たす。ある同人雑誌を介し、保田與重郎と面識を持ったのである。この邂逅が、以後の亀井の進路を決定する。亀井と保田の親交と、「日本浪曼派」の創刊については、第六章・第七章で概観される。

 保田は、類まれな日本古典に関する知見を発揮し、近代批判と伝統回帰を呼号し、プロレタリア文学の退潮に動揺する文壇で注目された。保田から影響を受け、亀井も日本の古典や伝統美術に接近する。大和の古寺を題材とした『大和古寺風物誌』(昭和18年)や、親鸞への私淑を表明した『親鸞』(昭和19年)を相次いで刊行した。

 こうして、マルクス主義から「日本回帰」へと転向した亀井だったが、亀井は素朴な日本賛美を意図していなかった。亀井は、「大和を訪れても、そこにみらるるものはすでに一種の博物館である」(217頁)と看破した。亀井は、伝統は形骸化し、日本人の故郷は喪失されている、という強烈な諦念を抱えていたのである。

 第八章以降は、戦後の亀井が取り上げられる。亀井は、戦後も日本文化への関心を抱き、それがライフワークである『日本人の精神史研究』(昭和34年~昭和41年)に結実した。こうして、本書は亀井勝一郎の生涯を丹念に辿り、亀井の実像を明らかにした。さらに、多彩な文士間の人間模様も描かれ、まさに「大正・昭和期を生きた文学者・思想家の群像劇」(449頁)のような作品に仕上がっている。