【関西】定例研究会報告 日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第四囘)――聲明

 平成30年11月3日に開催された民族文化研究会関西地区第7回定例研究会における報告「日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第四囘)――聲明」の要旨を掲載します。

 

 この企劃は現代音樂に滿たされた現代日本人に明治以前の日本の音樂を知つてもらふため、まづは私達自身が詳しくなり傳道していかうと云つた考へのもと始めました。
 今囘は日本音樂の大きなくくりである、雅樂・聲明・琵琶樂・能樂・箏曲・三味線音樂・尺八樂・近現代音樂・民謠のなかから聲明に就いて解説致します。下記は今囘解説する項目です。

一、聲明の成り立ち 二、 聲明の後世への影響  三、 聲明の理論と樂譜  四、魚山と聲明
五、 大原流聲明に就いて  六、西洋宗教音樂との對比

一、聲明の成り立ち

 法要などで僧侶が經文を唱へますが、それが聲明です。聲明とは古代インドのバラモン僧が學ぶべき五種類の學問領域五明のひとつで、文法學や言語學、音韻學に關する學問を意味するサンスクリット語の漢譯です。聲明が日本の佛教聲樂の意味として使はれるのは中世初頭以降で、それまでは梵唄・唄匿と呼稱し、現在でも中國・朝鮮・チベット・日本禪宗では梵唄と云ひます。梵とは本來バラモン教の最高原理のことで、轉じて古代インドを形容します。唄はインドで法言の歌詠、中國で經を詠ずることを指してゐます。佛教はインドから中國朝鮮を經由して傳來しますが、梵唄も同時に渡來したのでは、と言はれますが不明です。
 東大寺大佛開眼會で、内外合はせて數百人の僧が、唄・散華・梵音・錫杖の所謂四箇法要を大合唱したあたりから奈良聲明の原形がほぼ確立されました。平安初頭に最澄空海が唐留學から歸國して天臺宗と眞言宗を開き、最澄の三代後の坐主圓仁が天臺聲明を、空海を始祖とする寛朝が眞言聲明をと、平安二大聲明が大成しました。その後この兩宗は分派しながらも發展しました。鎌倉佛教が起り、これらが天臺眞言宗聲明を軸にして各宗の聲明を確立します。榮西・道元は宋に留學し鎌倉聲明を創始しました。江戸時代に傳來した黄檗宗は明代禪宗の梵唄を確立します。このやうに新たな宗派によつて、法會の形式や聲明の樣式、曲種が生まれ、それぞれが個別に進化したり、反對に古い形式が衰微したりしました。
 現代では法會に於る佛教音樂のすべてを聲明と云ひますが、狹義には梵語贊・漢語贊など外來系の聲明、それに準じた和製の讃歎などを本聲明と云ひます。つまり法會で音樂による供養を目的として樣式化された聲樂曲のことです。それに對し雜聲明とは教義の説明などの經釋・講式・教化や、教義に就いて議論したりする論議など具體的内容を持つ詞章に旋律がついた結果生じたものを言ひます。和讃など法會以外で用ゐられるものは佛教音樂であつても聲明からは除外され佛教歌謠と言はれてゐます。圖一は聲明の分類を圖式化したものです。實際には更に分類できます。

二、 聲明の後世への影響

 前項で聲明は佛教音樂の一部であると説明しました。佛教音樂は幅廣く、廣義の佛教關聯行事や信徒の間で詠唱されるものも含まれます。更に佛教的色彩を持つ音樂も佛教音樂に含まれます。佛教行事は佛や先祖の供養もあり、經典には供養として音樂や伎樂を奏するとあり、古くから聲樂・舞樂・器樂、場合によつてはその他の藝能まで用ゐられました。東大寺大佛開眼會では梵唄とともに林邑樂・度羅樂・伎樂など佛教的色彩の強い渡來音樂の大合奏が行はれました。かうして佛教音樂は幅廣い種目領域を持つことになりました。高度の音樂理論に裏附けられた聲明と、寺院の供養として用ゐられた法會雅樂は、それぞれに變容と融合を繰り返しながら新しい佛教音樂を創出しただけでなく、各種の日本傳統音樂や藝能の生成に深い影響力を與へました。聲明は日本化され、教化・表白・講式・論議など、和文の雜聲明を生み出し、語り物音樂の原形として平曲・義太夫節などに影響を與へます。
 僧侶だけでなく信徒が唱へる、和讃・御詠歌・念佛などの佛教歌謠の派生が後代の歌ひ物音樂の源流になりました。寺院に於る雅樂は聲明や佛教歌謠と結びついて、雅樂の旋律に今樣體の詞章をつけた越天樂謠物などの寺院歌謠を生み、更に筑紫箏を經由して箏曲や組歌から始まつた地歌の發生のきつかけとなつていきました。
 法會で盲僧が聲明の伴奏樂器として用ゐた琵琶は、囘檀法會などでの餘興が藝能化して物語琵琶を生み出し、平家琵琶として大成することになります。これら琵琶法師たちは、沖繩から渡來した三線を三味線に改良した立役者でしたし、三味線と平曲が淨瑠璃と云ふ語りもの音樂を生むことになりました。
 箏、琵琶と竝ぶ樂器として禪宗の修行や托鉢などの法器の尺八があり、普化尺八の本曲は佛教音樂としてだけでなく藝術音樂として現代に傳へられてゐます。
 法會の後に行ふ説教は旋律を持つやうになつて、節談説教から藝能化して、説經節、祭文もやがて門附藝になつて、歌祭文となり、最終的には、それらの語り口と題材が淨瑠璃に引き繼がれていきます。同じく法會の後の餘興として演じられた散樂や、その系統をくむ延年などでの呪師作法は呪師猿樂に影響を與へながら能の母體となります。伎樂の滑稽性諧謔性が興言に生かされ、講式の強い影響を受けた早歌も詞章から廣義で佛教音樂とする説もあります。
 かうしてみると、音樂理論、旋律型、唱法、調子、曲節、規制の旋律を配列や組み合はせる作曲法などから、日本の歌や語りもの音樂は聲明に始まるとする説は疑問の餘地のないところと言へます。(圖二)

三、 聲明の樂譜

 聲明の記譜法のことを博士と云ひます。本來はフシとよばれてゐたやうです。博士は目安博士と古博士に大別できます。圖三、四をご覽ください。目安博士とはみみずが貼つてゐるやうな形をした譜で、一見して旋律の樣子が想像できる構造になつてゐます。天臺系の聲明の記譜は現在でも目安博士によつてゐます。また只博士と云ふ呼ばれ方もしてをり、只は普通と云ふ意味で、他にもつと本式の記譜法があるからで、それが古博士です。
 古博士は本博士・五音博士ともいい、ひとつの漢字の四隅などにマッチ棒上の記號を配して、どの位置、どの形かによつて音律を表す記譜法です。眞言系は目安博士もありますが、古博士のものが基本です。古博士の起源は四聲點にあります。中國語は同じ音でも音韻によつて意味が變はり、その音韻を平聲・上聲・去聲・入聲の四種に割れて文字の四隅に點を打つことで表しました。この記號を四聲點と云ひます(圖五)。漢字を唐音や呉音でうたふ漢贊は、日本人にとつては聞いてもわからない外國語であり、フシは意味から離れて音になります。梵贊はサンスクリット語を漢譯佛典に記入したもので、中國人にとつてもわからない外國語であつて、おかげで言葉は聲へ、聲は音へと變化して音樂的に發展するきつかけになりました。
 講式や和讃など日本語を歌ふ日本製の聲明では、文字ではなく言葉の抑揚に從つて日本語に必然性のあるフシつけがゴマ點で寄附されてゐる(圖六)。言葉とフシの關係から言へば、このはうが聲明本來のあり方にかなつてゐると言へます。これらは言葉から音への變化はできず、平曲などへ展開していくことになります。

四、魚山と聲明

 魚山は、日本では良忍によつて聲明の道場とされた京都大原の來迎印や勝林院のある三千院一帶の事を指しますが、同時に聲明のことを魚山とも云ひます。西暦十三世紀には代名詞として定着してゐました。また、眞言宗でも魚山が聲明の意味で使はれてゐました。
 では魚山とは何でせうか。それは中國の地名であります。魚山は古くは三國志の註釋書を補つた文中に「 陳思王曹植がかつて東阿を臨む魚山に登つて經の聲を聞いた」とあります。また、唐の時代にも梵天の響きを聞いたなどの記述があります。魚山の名は何によつてゐるのでせうか。そのことに就いて宋代の法雲によつて書かれた飜譯名義集などの書籍を綜合すると、佛教の世界觀と關係してゐます。世界の中心には須彌山があり、その周りは九山八海に取り圍まれてゐます。その中の第六の山を尼民達羅または地持山と云ひます。そしてこの山の形が海の魚に似てゐる、と云ふのです。尼民達羅を魚山と譯し、東阿市の魚の形に似た丘陵を魚山と名附けたと推測されます。そして曹植の逸話と結びついて、梵唄發祥とされ、やがて梵唄の代名詞になつていつたものと考へられます。曹植が聲明の始祖として登場することは中國でも極めて稀です。曹植の墓は現在東阿市にあります。
 日本に於ては魚山の名には重い意味が込められてゐます。天臺宗のみならず大原の地と聲明曲集に冠せられてゐるからです。

五、 大原流聲明に就いて

 前項でも出てきた大原流聲明とはどのやうなものでせうか。融通念佛宗の祖良忍上人が、來迎院を建立して、山號を魚山としたのが始まりです。來迎院、勝林院の二寺が大原流魚山聲明の道場になつてゐます。
 西暦十二世紀後半に聲明の音樂理論に大きな影響を及ぼす出來事がありました。それは蓮入房湛智と蓮界房淨心の聲明の旋律を巡つての對立に端を發した爭ひです。聲明曲の調子を決める大切な音である宮と徴と云ふ音を正規の位置より半音下がるのか全音下げるのかに就いてと云ふ部分でした。結果から言へば湛智側が主流になりました。彼は聲明目録など聲明の全要領を備へた聲明發達史上重要な書籍を著し、更に雅樂の理論を聲明に導入し横笛で音階を定め口授傳承と對置する革新派でした。淨心のはうは口傳口授を尊び、當時の音樂を重くみず遊離したために湛智に遲れを取つたのでした。
 音樂理論の發達した世に於ては、いかなる古典にしても採譜され一般人に至るまでその樣相が理解されなければやがてその生命は音樂の線上から消えてゆくことになることになるのかもしれません。しかし口傳口授は理論を超えた一面があり、相傳の資格に於て唱へられ、しかも儀式もそれに重要なる條件となり、格別の研修を經なくてはならない大事でもあります。

六、西洋宗教音樂との對比

 西洋音樂は起源をたどると教會音樂に行き着きます。これは聲明が日本の聲樂の基礎になつたのと同じです。ローマカソリック教會の正式な典禮聖歌は西暦五九〇年からグレゴリウス一世がヨーロッパ全體に廣がつたキリスト教徒その教會の儀式を統一するために編纂した聖歌集に始まると傳へられてゐます。この典禮聖歌は西暦一三世紀ごろまで發展を續けました。これらの曲を總稱してグレゴリオ聖歌と呼びます。グレゴリオ聖歌は旋律もひとつで伴奏もなく、音樂としては素朴なものだつたので、西暦一三世紀以降どんどん改良されて今の教會音樂に發展していきました。
 彼ら僧侶の教會音樂に對する態度は、現代でも非常に重い責任感を持ち、その一曲に儀式の成否がかつてゐると心得、特に音に對して注意を拂つてゐます。その演奏は異教徒をも魅了する力を持つてをり、まさに天使の歌聲とはこのやうなものかと思はされるほどのものです。
 このやうな儀式音樂に對する態度はキリスト教徒の特異性なのでせうか。我國に於てもかつて聲明によつて聞くものの心を深く捉へ、信仰心を呼び起こす機縁となつた話は數多くあります。現代に於て聲明により改心したと云つた話は極稀であるのは、聲明が後代の歌舞伎を筆頭にした藝能音樂に躍動感を奪はれた儘とひう指摘があります。また、聲明をあくまで儀式に供したものとしてゐて、信徒に披露すると云つた感覺が薄いこともあるのかもしれません。實際聲明曲はインターネットで檢索しても、同時代の雅樂と比べて極少數しかないことからも伺へます。
 聲明は一人ひとりの聲質の違ひゆゑ、核となる音程を違ふ音程にする場合もあり、それにより合唱になると聲が不揃ひになつて、混沌とした響きになります。これはキリスト教會音樂とは大きな違ひであります。どちらが優れてゐると云ふものとも言へませんが、儀式音樂に對する姿勢の違ひとして際立つた相違であると云へませう。

參考文獻

ひと目でわかる日本音樂入門 田中健
聲明は音樂のふるさと 岩田宗一
聲明の研究 岩田宗一
聲明[一] 木戸敏郎
聲明[二] 木戸敏郎

 

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