【東京】定例研究会報告 最近の日本古代史研究を読む ――天皇号成立に関する研究動向紹介

 本稿は、平成30年5月20日に開催された民族文化研究会東京地区第15回定例研究会における会員の報告である。なお、同日に行われた輿石逸貴会長と小野耕資副会長の報告のうち、小野副会長のものは『月刊日本』平成30年5月号に執筆した「イギリスよ、お前が言うな!!問題の本質は植民地支配の残滓だ」をもとにしたものであり、関心のある方は同誌を閲覧されたい。

 

はじめに

 本会が追求する、民族文化のひとつの政治的な核が皇室・天皇という存在であることはいうまでもない。しかし、「天皇」という称号が当初から存在していたわけではないことは周知のとおりである。天皇号成立の時期については、従来多数の研究が出ており整理も容易ではないが、最近、関根淳氏が執筆された「天皇号成立の研究史」(『日本史研究』665号、平成30年1月)は至便であり、同論文の内容を簡単に紹介することで、各位の参考に供したい。

 

1.現在までの研究動向

 天皇号成立に関する古典的学説としては推古天皇朝説の津田左右吉天皇考」(大正9年)があり、以降膨大な研究が蓄積されている。通説としては推古天皇朝説があったが、西暦1960年代以降は天武天皇朝説が通説化し、この通説も近年修正を迫られているという。現在の研究状況では、推古朝説と天武朝説が有力とのことである。
同氏は研究史を整理するにあたって、「天皇」号の由来とその要因を軸にその成立を考察する形式を採用しており、初学者にも非常に分かりやすい内容となっている。

 

2.「天皇」号の由来
 天皇号の由来については、通説的には①道教思想起源説、②唐の皇帝・高宗の「天皇」号採用説、③日本起源説の3説がある。

 ①は著名な解釈であり、津田説をもとにしている。しかし、道教の「天皇」は最高神を示す言葉ではなく、そもそも同時代には道教が体系化されていない(道教の体系化の過程について同論文では記されていないが、さしあたり小林正美『中国の道教』〈創文社、平成10年〉が参考になろう)、日本の天皇制度における道教的要素の希薄さなどから、その論拠には批判も寄せられている。

 また、②も時々聞かれる説であるが、その「天皇」自称時には遣唐使がないため日本に情報が伝わったか不明瞭であり、またその「天皇」は皇位ではなく個人を指す尊称であったため、それにもとづいたというのは根拠薄弱だという。

 これらに対して、③には諸説あるが、いずれも王権発展の画期に合わせて成立したとするのは共通しており、「天つ神」思想が背景であるとされる。外来説に比較して、国内造語説の方が妥当ではないかというのが、氏の見解である。

 

3.天皇号成立の要因

 律令制の成立と天皇号のそれとは不可分という理解があるが、律令制成立からだと時期を特定することは難しいという。他の要因として、従来の研究では対外関係が重視されてきたといわれる。

 この観点から説かれるものの一つが、推古天皇朝成立説である。『日本書紀』においては、隋の煬帝への2度目の国書で「天皇」を用いたといい、これを根拠あるものとする理解がある。しかし、「天子」を「天皇」に変更して煬帝の不興を避け得たとは考えにくく、これは『書紀』の造作であろうと考えられるという。また、仮にこの段階で日本が天皇号を使用した場合、後に高宗が「天皇」を尊称として使用するはずはないので、同時期の成立は考えがたいという。

 また、朝鮮(新羅)の帝国化への対応として、天智天皇朝から持統天皇朝にかけて成立という説も出てきているというが、当時の日本は白村江の戦いで敗北しており、勃興する朝鮮に対して天皇号が有効だったか疑問があるという。氏は、対外関係という観点は明確な根拠として用いにくいという。

 そして、近年高まる天智天皇朝成立説であるが、天智天皇は長らく即位せず、さらに白村江の戦いで敗北するという政治状況であった。こういった状況の天智天皇が、神格化をともなう君主号を設定できたのか、はなはだ疑問であるという。国家的危機を乗り越えるために天皇号を制定したという理解は「あまりにも逆説的」であり、こういった政治史的、国家史的な観点からすれば、天武天皇朝説がやはり至当であるというのが、氏の結論である。

 

おわりに

 最新の研究史整理を参照・共有することは、民族文化探求にとって重要な手段となり得るものであり、今後も積極的に研究史・動向の紹介がなされることを希望する。なお、同論文の直接的結論ではないが、専門的研究において、一般的に流布している「天皇」号の海外起源説に対する批判がなされていることには、大いに注意する必要があろう。(了)