【関西】次回の定例研究会のご案内

 


次回の民族文化研究会関西地区定例研究会は、下記の要領にて開催します。万障繰り合わせの上ご参加ください。

民族文化研究会 関西地区第61回定例研究会

日時:令和5年9月24日(日)16時00分~19時00分
※以前は16:30開催でしたが、オフィスゴコマチ様の時間設定が変わりましたので30分繰り上がります。ご注意ください!
会場:貸会議室オフィスゴコマチ 411号室
京都府京都市下京区御幸町通り四条下ル大寿町402番地 四条TMビル
https://main-office-gocomachi.ssl-lolipop.jp
会費:800円​
主催:民族文化研究会関西支部

【東京】次回の定例研究会のご案内

 

 

次回の民族文化研究会東京地区定例研究会は、下記の要領にて開催します。万障繰り合わせの上ご参加ください。今回は、Skype(ウェブ会議アプリ)を使用したオンラインでの開催です。

民族文化研究会東京地区第35回定例研究会

日時:令和5年8月27日(日)17時~19時
参加方法:参加希望者は、当会公式アドレス(minzokubunka@gmail.com)まで連絡し、氏名とEメールアドレスをお伝え下さい。Skype上での会議に参加するためのURLをお送り致します。URLを開催日時に開き、研究会にご参加下さい。
参加費:無料
主催:民族文化研究会東京支部

【関西】次回の定例研究会のご案内

 

 

次回の民族文化研究会関西地区定例研究会は、下記の要領にて開催します。万障繰り合わせの上ご参加ください。今回は、Skype(ウェブ会議アプリ)を使用したオンラインでの開催です。

民族文化研究会関西地区第60回定例研究会

日時:令和5年8月27日(日)17時~19時
参加方法:参加希望者は、当会公式アドレス(minzokubunka@gmail.com)まで連絡し、氏名とEメールアドレスをお伝え下さい。Skype上での会議に参加するためのURLをお送り致します。URLを開催日時に開き、研究会にご参加下さい。
参加費:無料
主催:民族文化研究会関西支部

【関西】次回の定例研究会の御案内

 

 

次回の民族文化研究会関西地区定例研究会は、下記の要領にて開催します。万障繰り合わせの上ご参加ください。

民族文化研究会 関西地区第59回定例研究会

日時:令和5年7月23日(日)16時00分~19時00分
※以前は16:30開催でしたが、オフィスゴコマチ様の時間設定が変わりましたので30分繰り上がります。ご注意ください!
会場:貸会議室オフィスゴコマチ 302号室
京都府京都市下京区御幸町通り四条下ル大寿町402番地 四条TMビル

https://main-office-gocomachi.ssl-lolipop.jp

会費:800円​
主催:民族文化研究会関西支部

【関西】定例研究会報告 高畑勲監督の『おもひでぽろぽろ』 と 『柳川掘割物語』 における農村地域への関心と取り組み

令和5年6月18日に開催された民族文化研究会関西地区第58回定例研究会における報告「高畑勲監督の『おもひでぽろぽろ』 と 『柳川掘割物語』 における農村地域への関心と取り組み」の要旨を掲載します。 

 

 高畑勲監督は1959年に東映動画に入社、1971年にAプロダクションに移り、その後、盟友である宮崎駿とタッグを組みスタジオジブリを設立。以後、数多くのアニメ作品を世に送り出している。

 高畑勲監督はテーマ性を重視した作品作りでも知られているが、特に1980年代後半から90年代前半にかけての氏の作品に通じる、“自然との関わり方”に重きを置いた作品世界や氏自身の発言などからは、エコロジストという言葉では収まらない、自然文化や景観に対する造詣の深さや思慮深さを垣間見ることができる。

 今回は80年代後半から90年代前半にかけての氏の監督作品 (『柳川掘割物語』、『おもひでぽろぽろ』、『平成狸合戦ぽんぽこ』) から、高畑勲監督の自然や景観に対する主張と氏の考えを探っていきたい。

一 高度経済成長で変わった日本社会に対する警鐘

 高畑監督が自身のインタビューや著名な文化人、専門家との対談で多く語っているのが、高度経済成長を経て地域社会の関わり合いが薄れ、大量消費社会に変容していく日本社会に対する不安と警鐘である。

 東映日本アニメーションなどで70年代を中心に子供向けアニメや童話を題材にした作品を多く手掛けてきた高畑氏が、80年代後半から社会的な環境問題を作品内に取り入れ、高度経済成長に大きく変貌した日本社会をテーマの中心に据えるようになったのは、1987年の実写ドキュメンタリー作品 『柳川掘割物語』 の撮影で農村地域の環境活動を取り上げたことが大きなポイントであったことは間違いない。

  その氏の日本の農村地域に対する主張や考え方は1991年の映画『おもひでぽろぽろ』に如実に表れている。

 この作品は、都内に住む27才のOL・タエ子が休暇を利用して、自身の姉の夫の田舎である山形へ農業体験するため“里帰り”訪問をするが、、その旅の途中で次第に小学5年生の頃の記憶を思い出していくというストーリーになっている。

 この作品で実際に氏が問いかけているテーマが “日本人は農村に帰るべきだ” だと、後に宮崎駿監督が語ってるが、それは映画の終盤での登場人物が農家の現状を語ったやり取りにしか垣間見ることができず、映画全体のストーリーからはそのテーマを表面的には読み取ることは出来ない。

 そもそも、『おもひでぽろぽろ』 という作品は、小学5年生のタエ子が日常の出来事を綴った漫画作品で、27歳のタエ子という設定は映画オリジナルのものである。なぜ

 27歳のタエ子が山形へ向かう列車の中で、小学5年生の時の自分を思い出しているのか。

 よくこの作品の紹介や批評で書かれている、“27歳の女性の自分探し”というストーリー設定にしては、作品自体は平々凡々とした女性の日常の映像が続いており、旅の中で小学5年生の頃の記憶を思い出す必然性はそれほどないはずである。

 ただ、この作品の公開は1991年だが、27歳のタエ子は〈1983年〉を生きている設定になっている。つまり小学五年生のタエ子は〈1967年〉の記憶ということになる。1967年といえば高畑監督が映画『太陽の王子 ホルスの大冒険』の製作の真っ只中で、東映アニメーション内で組合活動を盛んに行っていた時期でもある。

 1991年の日本からすれば当時の “レトロブーム” も相まって、懐かしい日本の原風景のようにも見えるが、1983年のタエ子からすれば一昔前の容易に思い出せる範囲の近い記憶でもある。

 なぜ、27歳のタエ子に、わざわざ1983年まで遡った時代設定において、60年代後半の自身の記憶を主人公に回想させているのか?

 

(出典:高畑勲監督「おもひでぽろぽろ」1991年 スタジオジブリ公式webサイトより転載)

 その主人公のタエ子の回想シーンが続く映画の中盤、山形へ向かう列車の中で小学5年生のタエ子が友達と列車内をはしゃぎまわるシーンがあるが、夢の中でもなく、空想の中のシーンでもなく、実際に背後に過去の自分が存在している不思議なシーンになっている。

 下の画像は1988年の同じ高畑勲監督の『火垂るの墓』の冒頭のシーンで、主人公の清太がJR三ノ宮駅の構内で栄養失調で倒れこんだ自分を、亡霊になった清太が眺めているシーンである。

 

(出典:高畑勲監督 「火垂るの墓」 1988年 スタジオジブリ ネットより転載)

 この時、亡霊になった清太は赤い透過のエフェクトが掛かっているものの、現実の神戸の世界にいる実在の人間と同じように描かれている。

 『おもひでぽろぽろ』 の上のシーンと比べるとよく分かるが、列車の中に現れる小学5年生のタエ子(と、その友達)、は高畑勲作品の記号において“亡霊”という描かれ方をされているのが分かる。

 これを高畑氏のインタビュー等から読み解いていけば、主に公害や石油ショックを境に高度経済成長を経てかつての日本の原風景が失われていったという、氏の発言と大きくリンクしているように推測できる。

 こういった趣旨の物語展開は1994年の『平成狸合戦ぽんぽこ』でも見られ、映画の終盤で人間との抗争に敗れていって力尽き始めた変化タヌキたちが集まり、力を結集させて、1950年~60年頃の多摩丘陵のかつての姿を人間たちの前に蘇らせるシーンがある。

 

(出典:高畑勲監督「平成狸合戦ぽんぽこ」1994年 スタジオジブリ公式webサイトより転載)

 タヌキたちが作り上げたかつての多摩丘陵のイメージの中で実際にその地域に住んでいたであろう家族とその名前が登場するシーンがある。

 昔の多摩丘陵の姿を覚えているタヌキが、その家族の名前まで憶えていたのかは定かではないが、映画公開時のパンフレット内で高畑氏が述べている、“永続できる風景” というものをもしタヌキたちが具現化したのであれば、それは決して過去のイメージではなく、今現在、(映画公開の1994年)  の時点で存在し得たかもしれない多摩丘陵の姿ともとることができる。

二 実写ドキュメンタリー映画 『柳川掘割物語』

(1)

 高畑勲監督が 『風の谷のナウシカ』 (1984年)のプロデュース後、自身が監督するアニメ作品の製作のため、取材として訪れた福岡県の柳川市で、水路再生事業の存在を知り、ドキュメンタリー映画として取り上げることになったのが1987年のドキュメンタリー映画 『柳川掘割物語』である。

 福岡県の柳川市有明海に面し、古くから干潟を利用した干拓事業が盛んに行われ、柳川城の城下町として栄えた町の大部分を、「掘割」と呼ばれる水路が張り巡らされている。

 柳川市民は民家の裏まで張り巡らされているこの「掘割」と呼ばれる用水路から、生活用水を取り入れ、同じように廃水を用水路へ流す生活を明治時代よりずっと以前から続けている。

 観光地としても有名な柳川の水路も、高度経済成長期に入り、近代化の波に押され、水質が悪化、水路にはゴミが溢れるような環境になってしまった。およそ観光地としての景観を失いつつあった状態で、市の職員である広松伝さんの提案により、下水路計画を進めていた棚川市は、市民による水路の清掃と本来の「掘割」が持つ循環システムを取り戻す“水路再生事業”へと大きく方向転換をした。

 当初、アニメーション制作の取材時にこの“水路再生事業”の話を聞き、感銘を受けた高畑氏がおよそ3年の月日をかけて制作したのが、この『柳川掘割物語』というドキュメンタリー作品である。

 映画が製作された1980年代半ばには柳川市の用水路の水質は改善され、市民は自分たちで水路を清掃し、汚水を直接流すことをやめて、水路と共存を続けながら生活をしており、かつての観光地としての景観を取り戻している。

 

(2)

 映画の中でとりわけ詳しく取り上げられているのが、町中の水路にまんべんなく水を行き渡せる「掘割」独自の仕組みと、この地域の土壌に根付いた生活排水の循環システムである。

 上流の川から人工河川を通して、城下町の水路に取り込まれた水は、プール上の用水地に、堰板 (せきいた) と呼ばれる防潮提から溢れた分だけが取り入れられ、樋門と呼ばれる栓でできた門を調節することにより、下流の農村部へ灌漑用水や生活用水として取り込まれていく。

 水路上の至る所にある橋の下の部分は、堀の幅が極端に狭められている。そのおかげで水が滞留し、左右に枝分かれしたいくつかの水路にバランスよく流れることができる。 尚且つ、その狭められた堀の部分が水面からV字状に広がっているため、大雨の場合、川や水路が増水しても溢れた水が下流の方へ滞りなく流れることができる構造になっている。

 

画像は柳川市の中心部 (ミツカン水の文化センターwebサイト 機関紙「水の文化」32号の記事より転載)

 柳川市が面する有明海は日本で最も干満差の大きい地域だが、満潮時に海水と川から流れる淡水が交じり合わないように水門で区切られ、普段、水門の底の部分にある下流に水が流れ込むための排水路には “もたせ” と呼ばれる敷居がある。 満潮時には海から押し寄せる海水の水圧によって “もたせ”  が自然に閉じられて、川の水位を保ちながら淡水と海水とが混ざらないように工夫されている。

 映画内の紹介では、水門における河川事業は機械で管理されており、一部では人間の手で海水と淡水の水位のチェックなどが行われている。

 また、市民の家から出る廃水は直接水路へ流されることは禁じられており  (福岡県令‥飲用河川取締条例による)、 「掘割」の周辺に住む市民は、家から出た廃水をタンボと呼ばれる庭に掘った穴に流し込む。それが土の下の土壌に染み込み、長い時間をかけて濾過され、最終的に水路に流れ込んでいく。

 少ない水を貯めながら効率よく運用していく利水機能と、門を開け閉めすることで水位を調節し、大雨などの災害が起こっても最小限の被害に抑えることのできる治水機能を兼ねそろえた、柳川市の 「掘割」のシステムは、全国的にも珍しいとされている。

 江戸時代以降、長い時間をかけて柳川に住む人たちが試行錯誤を繰り返し、築き上げてきたこうした「掘割」の循環システムを、高畑勲はアニメーションを多用しつつ丁寧に映画の中で解説している。

三 (まとめ) 高畑勲の民俗史研究家としての考え

 高畑監督の独自の新しい解釈によって作られた  『かぐや姫の物語』 に見られるように、氏はあらゆる民俗資料や風俗史を読み説き、自身の作品に反映させていく、 民俗資料の研究家としての側面もよく知られている。

 宮崎監督作品を含めたジブリ作品の作風や数々のインタビューでの発言でも見られるように、高畑氏はエコロジストという側面が見られつつも、単純な文明批判ではなく、その地域の文化やシステムを理解し、古い資料などを読み説きながら、どういった問題の解決方法があるか、思索を展開していく、都市における思想的な考えを広く持っている。

 『柳川堀割物語』の中で高畑氏が柳川市の“水路再生事業”から感じ取ったのは、下水が汚くなればパイプやコンクリートで隠し、水が足りなくなればよその土地にダムを造って自分たちの土地に引き込む,、近代の画一的な水道システムによって、自然や古くからある文化を失うよりも、地域単位でできるその土地の風土をうまく利用した循環システムを、最新の科学の技術で再現、もしくは発展させていけばよいのではないか、という主張である。

 こうした考えは都心部に見られる都市整備や地方のあらゆる景観に関する問題でも同じであり、地域単位でその地域に携わる人間が話し合い、率先して取り組んでいくべきだという主張を展開している。

 昔の我々の祖先が築き上げてきた暮らしの知恵や自然との共存方法をうまく残しつつ、新しい技術によって再現、もしくは発展させていくという発想を、柳川市の取り組みを通してドキュメンタリー作品として提示した高畑氏のこうした主張は、 氏の映画作品と同じようにもっと広く知られるべきだと思う。

四 おわりに

 現在の柳川市は、長く水路再生事業に携わった柳川市職員の広松伝さんが2002年に亡くなり、その後、柳川市の職員や環境活動に携わってきた地域の関係者を中心に、市民による清掃活動が続けられている。

 また、2020年の豪雨被害の時には、市の職員と市民との共同作業によって、水路の “事前排水” が行われ、大雨による洪水被害を未然に最小限に防ぐことが出来た。

 この“事前排水 (先行排水)” は近年の豪雨被害の増加によって市民からの要望によって行われるようになったという。

(西日本新聞me 2020年6月16日付の記事でも取り上げられている。)

参考文献

高畑勲「映画を作りながら考えたこと」「映画を作りながら考えたことⅡ」〈徳間書店

 ミツカン水の文化センターwebサイト 機関紙 「水の文化」 32号 『治水家の統 (すべ) 』

 

【関西】次回の定例研究会の御案内

 

 

次回の民族文化研究会関西地区定例研究会は、下記の要領にて開催します。万障繰り合わせの上ご参加ください。今回は、Skype(ウェブ会議アプリ)を使用したオンラインでの開催です。

民族文化研究会関西地区第58回定例研究会

日時:令和5年6月18日(日)17時~19時
参加方法:参加希望者は、当会公式アドレス(minzokubunka@gmail.com)まで連絡し、氏名とEメールアドレスをお伝え下さい。Skype上での会議に参加するためのURLをお送り致します。URLを開催日時に開き、研究会にご参加下さい。
参加費:無料
主催:民族文化研究会関西支部

【関西】定例研究会報告 とある旧ソ連人記者の日本人論――『一枝の桜 日本人とは何か』を読む

 5月20日に開催された、民族文化研究会・関西地区第57回定例研究会における研究報告「とある旧ソ連人記者の日本人論――『一枝の桜 日本人とは何か』を読む」の要旨を掲載します。

はしがき

 いわゆる日本人論というものは過去から現在に至るまで大量に発表されているが、その中でも外国人の手になるものは、日本人自身による日本人論とはまた違った視角からの問題意識を提供する。今回紹介する『一枝の桜 日本人とは何か』もその一つである。本書はフセワロード・ウラジミロウィチ・オフチンニコフによって記された書物で、1971年に読売新聞社から出版されている(現在では中公文庫にて読むことが可能)。また、訳者のあとがきによると発売直後、旧ソ連ではベストセラーになったらしい。

 著者のオフチンニコフは1926年レニングラードに生まれ、モスクワの東洋大学中国科卒業後、ソ連共産党中央機関紙「プラウダ」に入社。北京特派員を経た後、1962年から1968年に至るまで東京特派員を務めた人物である。いわば生粋のエリートであり、日本通の記者でもあるわけである。

 本書はそのような立場の人間から見た高度経済成長期の日本の貴重なルポである。単なる日本人論としてだけではなく、まだ大衆消費社会が到来していない、前近代的な生活風習がギリギリ残っていた時代の日本の記録としても貴重である。本稿では本書の印象的な記述を適宜引用し、論評を加えていきたい。

第一節 日本人と美

 「日記からの断章」の章では当時の人気歌手のコンサートの様子が興味深げに描かれている。当時の人気歌手に群がる日本人女性を見て、著者は「果たして、これが、あの優雅さ、慎み深さ、非の打ちどころのない感情表出の抑制の典型として聞こえの高い日本娘にちがいないのだろうか。」「これほどまで西欧のモードに目のない現在の日本の若者は、旧世代の道徳と慣習から、もはや完全に断絶してしまったように見れば、そう見えないことはない。」としながらも「ところが、結婚適齢期がくると、この気違いじみた金切り声をふりしぼり、髪を振り乱した女たちは、その一人一人がまたもや優しさ、慎み深さ、しとやかさの典型に変わってしまう。」としている。その理由を著者は、結婚相手を本人ではなく両親が決める風習に求め、日本人が未だ旧時代の遺訓に忠実であることの証明であるとしている。具体的なデータはないが、当時の日本人は恋愛結婚よりもいわゆるお見合い結婚がまだ多数派であったと思われるので、当時と現在の結婚観の違いが表されている。

 また別の部分では日本の新聞各社がそれぞれ独自の販売網を持っていることや記者クラブ制度の存在について「このような考え方は、ブルジョワ新聞の鉄則である競争という概念と、果たして両立するのだろうか。」と疑問を呈している。特に記者クラブ制度については、昨今とくに問題視されているが、当時の外国人の目から見ても特異な印象があったというのは興味深い。

 「道案内がいります」という章では急速に近代化している日本において「この国の姿かたちのなかにはきょうときのうが、いったいどんな割り合いで結びついているのだろうか」と疑問を立て、日本の文化を批評していく。その中で「この国では一生涯雇われるのが当たり前のことである」と当時の日本の終身雇用制に言及する部分もある。

 「イザナギノミコトの鉾から落ちた雫」という日本神話から着想を得たであろう章では、神道の説明に入り、「シントウの信仰こそは、自然との共感、自然の無制限な変容を楽しみうる心、自然の多彩な実に喜悦する心を日本人の心につちかったものなのだ。」と文化論を展開している。神道文化論は昔から今まで数多く書かれてきたが、オフチンニコフもそのよくある神道文化論を踏襲している。

 またいわゆる神仏習合についても、「日本は、いかにもまことらしからぬことだが、仏教にそのとびらを解放し、これほど似ても似つかない二つの宗教は平和のうちに仲よく住みついて、存在し続けている。」と捉えている。これまた現在でもよく見られる日本文化論の型である。

 「宗教にかわる美学」では日本人を中国人と並んで宗教心の希薄な民族であるとしたうえで、日本人の場合、それにかわるものを「美学」であるとしている。そしてその日本人の「美」に対するありかたを叙述していく。

 オフチンニコフは日本人の自然に対する姿勢に特に注目する。「歳時記」の存在を強調し、「日本人が生まれつきもっている性格は、自然を征服し改造しようという強い意思というよりも、むしろ自然と和合して生きようとする、ひたむきな心である。」というような表現を行っている。

 「造形芸術としての料理」でも中国料理と違い、日本料理は素材の味を活かす点が特徴であるとしている。また調味料である「アジノモト」にも言及する部分がある。

 「美の四つの尺度」では日本の美学である「さび、わび、しぶい、幽玄」についてそれぞれ説明を加えている。「さび」は「古いものの魅力、時間の刻印」。「わび」は「俗っぽいところのないこと」。「しぶい」は「単純さの美プラス自然らしさの美」。「幽玄」を「言外の意をほのめかす術、含みをのこすことの美しさそのものを具象化したもの」としている。オフチンニコフはそれぞれ詳細な解説を加えているが、その妥当さがどうというよりも、言語化しにくい美学上の概念をしっかり説明している点は驚嘆に値する。

 これらを踏まえた上で、「時間の経過にともなう変化を喜び、あるいは、それを悲しむ心は、すべての民族が生まれながらに持っている。しかし、永遠に続かないことのなかに美の源泉をあえて見たのは、おそらく日本人だけであろう。日本人が、ほかならぬ桜の花を国花に選んだのは偶然の事ではない」と日本人の美意識を桜に結びつけている。

 「美を教えること」の章では、日本人が小・中学校で行う美学教育がほかの国よりも範囲が広く基本的であることは「外国の専門家たちが認めている」との記述を行っている。また大勢の人間が月見に訪れた際の様子をスケッチするなど、日本人と美の関係性に注目している。

 興味深いのは「花と茶」の章である。この章では三池炭鉱での労働者争議の様子を取材した文章を収めている。事故で夫を亡くした炭鉱婦がハンストを行い、その合間に休憩所で生け花の稽古をしていたのであるという。その光景に対してオフチンニコフは「それにしても生け花サークルのことは、どうしても書くだけの値打ちがある。切羽の暗闇の中で何日間もハンストをやったあとで、また新しい力をくみとるために、チューリップと桜の枝の組み合わせの中に美を求めるということ―そこにこそ、日本的性格の典型的な特徴が具体的な形となって現れていたからであった。」と深い感銘を受けたことを記している。労働運動から日本人の美の感情をくみ取るのはいかにも旧ソ連共産党の人間らしい発想である。書名に「一枝の桜」と付けたのはこの光景から受けた感銘からであろう。

第二節 日本人の行動様式

 「ものみなその分あり」では日本人の行動様式を「分」の概念から説明しようとする。「日本人は行為を正しい行い、正しくない行いに分けずに、分相応な行ないと、差し出た行ないというふうに評価する。「ものみなその分あり」なのである。」といった具合である。

 また「「義理」としての良心と自尊心」では日本人の行動様式の第二を「義理」で説明しようとする。オフチンニコフは「義理」を「善、悪という抽象的な概念以外のものにもとづいた義務意識であり、こういう状況の場合には、こういう行動をとれと厳重に定めた人間関係の規則に基づく義務意識である。」と定義付けている。そしてこのような観点からオフチンニコフは日本人の行動規範や彼自身が言う「日本人の二重性」を解き明かそうと試みているのである。

 その他、現代でも通ずる小噺的な章もある。「なぜ沈黙は言葉より雄弁か」では日本語の「はい」「いいえ」が実は単なるイエス・ノーではなく、非常に多様な意味が込められていることを紹介している。

 「軒下の日かげ」や「六枚の畳」などでは日本住宅の特質をやはり自然との親近性によって論ずるなど、ここでも日本文化観は一貫している。一方で、「車に乗る生活」では交通事故による死者が一万五千人、負傷者五十万人という当時の交通戦争の在り方が垣間見える記述もある。

 また一方で「過密と過疎」では現在さらに深刻な問題となっている都市と地方の格差問題を、「女と手」では都市に出稼ぎに出た若い女性の待遇の問題に注目するなど、いかにも共産主義国の記者らしい視点が反映されている。

 最終章「フジに登る」では著者の富士登山の様子が描かれている。その合間に富士山がゴミによって汚れている事実(当時は美観の意識が相当薄かったと思われる)や富士山頂の権利をめぐって富士山本宮浅間神社と国の間で争われている裁判の事実などが指摘されている。そして最後に、オフチンニコフは富士山頂上のレーダーがベトナム戦争時の米軍に情報を送っていたことや、富士裾野の米軍海兵隊基地を見て次のような感慨を漏らす。

 

  ほかならぬ日本全国民にとっての聖地、国民の主権が遠慮も無く踏みにじられている場合、フジが神社の財産か国の財産かという訴訟を何年も続けることなど、なんの意味があろうか。フジの西斜面にぽっかりと深くあいた傷を見るのが、日本人にとってどんなに身を切られるような思いであっても、東斜面におけるヤンキーたちの無礼な所業を我慢するほうが日本人にとって、はるかにつらいことである。時がくれば、別の法廷―歴史という法廷―が、外国の軍部にフジの斜面をわがもの顔にすることを許した者に判決を下すだろう。

 

  フジ山は、いまでもやはり日本の国民的象徴である。もしホクサイが生きていたら、かれはフジの三十七番目の顔を描いたことだろう。かれはフジの山体を引き裂く砲弾の炸裂だけでなく、特殊訓練場にすわりこんだ武器ひとつもたぬ素手の女たちを描いたであろう。かれは、その尊厳を傷つけられはしたが、完全に踏みにじられないこの聖地、日本民族の象徴であるこの聖地が、いまは眠っているけれども死に絶えたのではない火山であり、そのたくましい力を示す能力をもった火山であることを思い出させてくれただろう。

 

 旧ソ連人だけあってアメリカへの敵愾心が濃厚に出ている文章であることは否定できない。しかし、現在も富士山には米軍海兵隊によるキャンプ富士が存在している。オフチンニコフの投げかけた「尊厳」の問題は今まさに我々の現前に存在し続けているのである。

むすび

 オフチンニコフは旧ソ連人でありながらも日本と日本人に強い愛着を抱いていたようである。もちろんそれは、共産主義国の記者特有のイデオロギーが濃厚に反映された日本像であって、公正なものであるとは言い難い。またあくまで記者のレポートであるので、学問的な厳密さが本書にあるわけではない。しかしグローバル化が進み、全てがフラットになる現代の世界でオフチンニコフが関心を寄せた文化や風習は急速に我々の目の前から姿を消した、あるいは消そうとしている(当然この現象は日本にのみ起こっているわけではない)。この状況に対して我々自身はいかなる生き方を選択すべきなのであろうか。筆者は、あくまでいまだに残っている「日本の文化」を継承すべきであると強く考えている立場である。

参考文献

Ⅴ・オフチンニコフ著 早川徹訳『一枝の桜 日本人とは何か』読売新聞社 昭和四十六年五月

※なお、本文中の年代記述は著者がソ連人であることを踏まえて西暦としたが、参考文献の発行年月日は日本の元号のままとした。

※本稿は民族文化研究会関西地区の第五十七回定例研究会での発表原稿に加筆訂正を加えたものである。