【関西】定例研究会報告 高畑勲監督の『おもひでぽろぽろ』 と 『柳川掘割物語』 における農村地域への関心と取り組み

令和5年6月18日に開催された民族文化研究会関西地区第58回定例研究会における報告「高畑勲監督の『おもひでぽろぽろ』 と 『柳川掘割物語』 における農村地域への関心と取り組み」の要旨を掲載します。 

 

 高畑勲監督は1959年に東映動画に入社、1971年にAプロダクションに移り、その後、盟友である宮崎駿とタッグを組みスタジオジブリを設立。以後、数多くのアニメ作品を世に送り出している。

 高畑勲監督はテーマ性を重視した作品作りでも知られているが、特に1980年代後半から90年代前半にかけての氏の作品に通じる、“自然との関わり方”に重きを置いた作品世界や氏自身の発言などからは、エコロジストという言葉では収まらない、自然文化や景観に対する造詣の深さや思慮深さを垣間見ることができる。

 今回は80年代後半から90年代前半にかけての氏の監督作品 (『柳川掘割物語』、『おもひでぽろぽろ』、『平成狸合戦ぽんぽこ』) から、高畑勲監督の自然や景観に対する主張と氏の考えを探っていきたい。

一 高度経済成長で変わった日本社会に対する警鐘

 高畑監督が自身のインタビューや著名な文化人、専門家との対談で多く語っているのが、高度経済成長を経て地域社会の関わり合いが薄れ、大量消費社会に変容していく日本社会に対する不安と警鐘である。

 東映日本アニメーションなどで70年代を中心に子供向けアニメや童話を題材にした作品を多く手掛けてきた高畑氏が、80年代後半から社会的な環境問題を作品内に取り入れ、高度経済成長に大きく変貌した日本社会をテーマの中心に据えるようになったのは、1987年の実写ドキュメンタリー作品 『柳川掘割物語』 の撮影で農村地域の環境活動を取り上げたことが大きなポイントであったことは間違いない。

  その氏の日本の農村地域に対する主張や考え方は1991年の映画『おもひでぽろぽろ』に如実に表れている。

 この作品は、都内に住む27才のOL・タエ子が休暇を利用して、自身の姉の夫の田舎である山形へ農業体験するため“里帰り”訪問をするが、、その旅の途中で次第に小学5年生の頃の記憶を思い出していくというストーリーになっている。

 この作品で実際に氏が問いかけているテーマが “日本人は農村に帰るべきだ” だと、後に宮崎駿監督が語ってるが、それは映画の終盤での登場人物が農家の現状を語ったやり取りにしか垣間見ることができず、映画全体のストーリーからはそのテーマを表面的には読み取ることは出来ない。

 そもそも、『おもひでぽろぽろ』 という作品は、小学5年生のタエ子が日常の出来事を綴った漫画作品で、27歳のタエ子という設定は映画オリジナルのものである。なぜ

 27歳のタエ子が山形へ向かう列車の中で、小学5年生の時の自分を思い出しているのか。

 よくこの作品の紹介や批評で書かれている、“27歳の女性の自分探し”というストーリー設定にしては、作品自体は平々凡々とした女性の日常の映像が続いており、旅の中で小学5年生の頃の記憶を思い出す必然性はそれほどないはずである。

 ただ、この作品の公開は1991年だが、27歳のタエ子は〈1983年〉を生きている設定になっている。つまり小学五年生のタエ子は〈1967年〉の記憶ということになる。1967年といえば高畑監督が映画『太陽の王子 ホルスの大冒険』の製作の真っ只中で、東映アニメーション内で組合活動を盛んに行っていた時期でもある。

 1991年の日本からすれば当時の “レトロブーム” も相まって、懐かしい日本の原風景のようにも見えるが、1983年のタエ子からすれば一昔前の容易に思い出せる範囲の近い記憶でもある。

 なぜ、27歳のタエ子に、わざわざ1983年まで遡った時代設定において、60年代後半の自身の記憶を主人公に回想させているのか?

 

(出典:高畑勲監督「おもひでぽろぽろ」1991年 スタジオジブリ公式webサイトより転載)

 その主人公のタエ子の回想シーンが続く映画の中盤、山形へ向かう列車の中で小学5年生のタエ子が友達と列車内をはしゃぎまわるシーンがあるが、夢の中でもなく、空想の中のシーンでもなく、実際に背後に過去の自分が存在している不思議なシーンになっている。

 下の画像は1988年の同じ高畑勲監督の『火垂るの墓』の冒頭のシーンで、主人公の清太がJR三ノ宮駅の構内で栄養失調で倒れこんだ自分を、亡霊になった清太が眺めているシーンである。

 

(出典:高畑勲監督 「火垂るの墓」 1988年 スタジオジブリ ネットより転載)

 この時、亡霊になった清太は赤い透過のエフェクトが掛かっているものの、現実の神戸の世界にいる実在の人間と同じように描かれている。

 『おもひでぽろぽろ』 の上のシーンと比べるとよく分かるが、列車の中に現れる小学5年生のタエ子(と、その友達)、は高畑勲作品の記号において“亡霊”という描かれ方をされているのが分かる。

 これを高畑氏のインタビュー等から読み解いていけば、主に公害や石油ショックを境に高度経済成長を経てかつての日本の原風景が失われていったという、氏の発言と大きくリンクしているように推測できる。

 こういった趣旨の物語展開は1994年の『平成狸合戦ぽんぽこ』でも見られ、映画の終盤で人間との抗争に敗れていって力尽き始めた変化タヌキたちが集まり、力を結集させて、1950年~60年頃の多摩丘陵のかつての姿を人間たちの前に蘇らせるシーンがある。

 

(出典:高畑勲監督「平成狸合戦ぽんぽこ」1994年 スタジオジブリ公式webサイトより転載)

 タヌキたちが作り上げたかつての多摩丘陵のイメージの中で実際にその地域に住んでいたであろう家族とその名前が登場するシーンがある。

 昔の多摩丘陵の姿を覚えているタヌキが、その家族の名前まで憶えていたのかは定かではないが、映画公開時のパンフレット内で高畑氏が述べている、“永続できる風景” というものをもしタヌキたちが具現化したのであれば、それは決して過去のイメージではなく、今現在、(映画公開の1994年)  の時点で存在し得たかもしれない多摩丘陵の姿ともとることができる。

二 実写ドキュメンタリー映画 『柳川掘割物語』

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 高畑勲監督が 『風の谷のナウシカ』 (1984年)のプロデュース後、自身が監督するアニメ作品の製作のため、取材として訪れた福岡県の柳川市で、水路再生事業の存在を知り、ドキュメンタリー映画として取り上げることになったのが1987年のドキュメンタリー映画 『柳川掘割物語』である。

 福岡県の柳川市有明海に面し、古くから干潟を利用した干拓事業が盛んに行われ、柳川城の城下町として栄えた町の大部分を、「掘割」と呼ばれる水路が張り巡らされている。

 柳川市民は民家の裏まで張り巡らされているこの「掘割」と呼ばれる用水路から、生活用水を取り入れ、同じように廃水を用水路へ流す生活を明治時代よりずっと以前から続けている。

 観光地としても有名な柳川の水路も、高度経済成長期に入り、近代化の波に押され、水質が悪化、水路にはゴミが溢れるような環境になってしまった。およそ観光地としての景観を失いつつあった状態で、市の職員である広松伝さんの提案により、下水路計画を進めていた棚川市は、市民による水路の清掃と本来の「掘割」が持つ循環システムを取り戻す“水路再生事業”へと大きく方向転換をした。

 当初、アニメーション制作の取材時にこの“水路再生事業”の話を聞き、感銘を受けた高畑氏がおよそ3年の月日をかけて制作したのが、この『柳川掘割物語』というドキュメンタリー作品である。

 映画が製作された1980年代半ばには柳川市の用水路の水質は改善され、市民は自分たちで水路を清掃し、汚水を直接流すことをやめて、水路と共存を続けながら生活をしており、かつての観光地としての景観を取り戻している。

 

(2)

 映画の中でとりわけ詳しく取り上げられているのが、町中の水路にまんべんなく水を行き渡せる「掘割」独自の仕組みと、この地域の土壌に根付いた生活排水の循環システムである。

 上流の川から人工河川を通して、城下町の水路に取り込まれた水は、プール上の用水地に、堰板 (せきいた) と呼ばれる防潮提から溢れた分だけが取り入れられ、樋門と呼ばれる栓でできた門を調節することにより、下流の農村部へ灌漑用水や生活用水として取り込まれていく。

 水路上の至る所にある橋の下の部分は、堀の幅が極端に狭められている。そのおかげで水が滞留し、左右に枝分かれしたいくつかの水路にバランスよく流れることができる。 尚且つ、その狭められた堀の部分が水面からV字状に広がっているため、大雨の場合、川や水路が増水しても溢れた水が下流の方へ滞りなく流れることができる構造になっている。

 

画像は柳川市の中心部 (ミツカン水の文化センターwebサイト 機関紙「水の文化」32号の記事より転載)

 柳川市が面する有明海は日本で最も干満差の大きい地域だが、満潮時に海水と川から流れる淡水が交じり合わないように水門で区切られ、普段、水門の底の部分にある下流に水が流れ込むための排水路には “もたせ” と呼ばれる敷居がある。 満潮時には海から押し寄せる海水の水圧によって “もたせ”  が自然に閉じられて、川の水位を保ちながら淡水と海水とが混ざらないように工夫されている。

 映画内の紹介では、水門における河川事業は機械で管理されており、一部では人間の手で海水と淡水の水位のチェックなどが行われている。

 また、市民の家から出る廃水は直接水路へ流されることは禁じられており  (福岡県令‥飲用河川取締条例による)、 「掘割」の周辺に住む市民は、家から出た廃水をタンボと呼ばれる庭に掘った穴に流し込む。それが土の下の土壌に染み込み、長い時間をかけて濾過され、最終的に水路に流れ込んでいく。

 少ない水を貯めながら効率よく運用していく利水機能と、門を開け閉めすることで水位を調節し、大雨などの災害が起こっても最小限の被害に抑えることのできる治水機能を兼ねそろえた、柳川市の 「掘割」のシステムは、全国的にも珍しいとされている。

 江戸時代以降、長い時間をかけて柳川に住む人たちが試行錯誤を繰り返し、築き上げてきたこうした「掘割」の循環システムを、高畑勲はアニメーションを多用しつつ丁寧に映画の中で解説している。

三 (まとめ) 高畑勲の民俗史研究家としての考え

 高畑監督の独自の新しい解釈によって作られた  『かぐや姫の物語』 に見られるように、氏はあらゆる民俗資料や風俗史を読み説き、自身の作品に反映させていく、 民俗資料の研究家としての側面もよく知られている。

 宮崎監督作品を含めたジブリ作品の作風や数々のインタビューでの発言でも見られるように、高畑氏はエコロジストという側面が見られつつも、単純な文明批判ではなく、その地域の文化やシステムを理解し、古い資料などを読み説きながら、どういった問題の解決方法があるか、思索を展開していく、都市における思想的な考えを広く持っている。

 『柳川堀割物語』の中で高畑氏が柳川市の“水路再生事業”から感じ取ったのは、下水が汚くなればパイプやコンクリートで隠し、水が足りなくなればよその土地にダムを造って自分たちの土地に引き込む,、近代の画一的な水道システムによって、自然や古くからある文化を失うよりも、地域単位でできるその土地の風土をうまく利用した循環システムを、最新の科学の技術で再現、もしくは発展させていけばよいのではないか、という主張である。

 こうした考えは都心部に見られる都市整備や地方のあらゆる景観に関する問題でも同じであり、地域単位でその地域に携わる人間が話し合い、率先して取り組んでいくべきだという主張を展開している。

 昔の我々の祖先が築き上げてきた暮らしの知恵や自然との共存方法をうまく残しつつ、新しい技術によって再現、もしくは発展させていくという発想を、柳川市の取り組みを通してドキュメンタリー作品として提示した高畑氏のこうした主張は、 氏の映画作品と同じようにもっと広く知られるべきだと思う。

四 おわりに

 現在の柳川市は、長く水路再生事業に携わった柳川市職員の広松伝さんが2002年に亡くなり、その後、柳川市の職員や環境活動に携わってきた地域の関係者を中心に、市民による清掃活動が続けられている。

 また、2020年の豪雨被害の時には、市の職員と市民との共同作業によって、水路の “事前排水” が行われ、大雨による洪水被害を未然に最小限に防ぐことが出来た。

 この“事前排水 (先行排水)” は近年の豪雨被害の増加によって市民からの要望によって行われるようになったという。

(西日本新聞me 2020年6月16日付の記事でも取り上げられている。)

参考文献

高畑勲「映画を作りながら考えたこと」「映画を作りながら考えたことⅡ」〈徳間書店

 ミツカン水の文化センターwebサイト 機関紙 「水の文化」 32号 『治水家の統 (すべ) 』