【関西】定例研究会報告 京都御所と近代京都のつながりーー令和時代の御所の在り方を探して

 令和2年6月20日に開催された民族文化研究会関西地区第25回定例研究会における報告「京都御所と近代京都のつながりーー令和時代の御所の在り方を探して」の要旨を掲載します。

はじめに

 京都市上京區に、東西七〇〇メートル・南北一三〇〇メートル、總面積九二ヘクタールの京都御苑があり、この中の東西二五〇メートル、南北四五〇メートルの區劃に京都御所が存在してゐる。御所は近代以前から京都市民と關係は深かつたけれども、近代に入つてからは御所と云ふ場所自體が京都の進むべき方向を位置づける役割を果たした。今囘は近代京都が御所と共に歩んできた軌跡を辿ることで、御所と京都市民がどのやうに近代京都を作り上げてきたのかを鑑み、そこから令和時代の御所と京都市民のあり方を考へていきたいと思ふ。

 

一 京都御所の歴史

 延暦一三年(西暦七九四年)、桓武天皇平安京に都を移し、首都と定めた。中國の洛陽城や長安城を模してつくられ、東西四五〇〇メートル、南北五二〇〇メートルの長方形に區劃された都城であつた。 平安京の北邊中央に、東西一二〇〇メートル、南北一四〇〇メートルの、行政施設・國家儀式や年中行事を行ふ殿舎と、天皇の居住する内裏が設置されてゐる區域を大内裏と呼ばれ、内裏は東西二〇〇メートル、南北三〇〇メートル大きさである。當時の内裏は現在の京都市上京區下立賣通土屋町附近にあり、現在の御所から約一七〇〇メートル西に存在してゐた。

 現在の京都御苑より大きい宏大な大内裏であつたが、大内裏・内裏が火災などで使へない場合のときに、天皇が貴族の私邸を假の内裏とする制度が確立され、これを里内裏と呼んだ。平安後期になると、内裏の再建に歳月を要するやうになり、里内裏が日常の皇居となつていつた。平安時代に大規模な火災が三度有り、そのたびに天皇をはじめ貴族は避難を餘儀なくされ、政治的に混亂をきたすこととなつた。安貞元年(西暦一二二七年)にはつひに大内裏の殆どを燒失する火災が發生し、これ以後再建されることはなく、跡地は内野と呼ばれる荒地になつてしまつた。

 元弘元年(西暦一三三一年)に土御門東洞院殿と呼ばれた里内裏に於て光嚴天皇が即位し、以降は他へ移ることなく定着して、現在の御所となつた。織豐時代に、御所附近に公家を移住させる計劃が進み、御所周りに公家町が形作られた。寶永五年の大火(西暦一七〇八年)に於て、諸御所や公家屋敷七八軒、大名屋敷二四軒のほか、禁裏役人の屋敷など悉く燒失した。大火後の復興にあたり、丸太町通以北、烏丸通以東に食ひ込んでゐた町家區域を立ち退かせて、その跡地を公卿らに分與し、現在の京都御苑の原型となるやうな區劃が整へられた。

 

二 明治の御所と京都

 明治二年三月、明治天皇が京都から東京へ發ち、東京城を皇居とした。この後、公家の多くが東京に移住したため、公家屋敷跡は荒れるに荒れた。東京遷都の結果、京都の人口は減少し經濟に打撃となつただけではなく、京都の人々の誇りは著しく傷ついた。御所の中にまで草が生え、各所で放火も行はれ、小便も溝に垂れ流しの状態であつたと云ふ。子供が紫宸殿の上で遊んだり、大宮御所の庭を逍遙するのも自由なもので、狐が彷徨ひてゐるのも珍しくなかつた。

 明治十年、約八年ぶりに京都に行幸した明治天皇は一六歳まですごした京都が衰頽してゐるのに深く歎惜し、京都を蘇らせようとはたらきかけた。そこで同年から一二年間、毎年天皇の御手許金四〇〇〇圓(現在の一億六〇〇〇萬圓以上)を下し、京都府に命じて御所保存をさせることにした。その結果、明治一〇年から數年かけ、御所周りの公家の土地を府が買ひ上げ、公園として整備した。また、土壘を作り、植樹などを行つた。明治一一年、明治天皇は再度京都へ滯在し、御所が整備されてゐるのを見、公家屋敷跡を公園にすると云ふ革新を容認するとともに、御所内の傳統的空間はなるべく維持しようとした。ここに、御所を基本的に保存することによる傳統と、京都御苑の創造による革新と云ふふたつの精神を體現させる方向性が導き出された。古來、舊都の宮城は保存されず、解體されて新都の資材になるのが日本の慣行であつたので、京都御所も解體されるのが普通であるのだが、明治天皇の提言をきつかけに保存が確定していつたのであつた。

 京都の革新事業で尤も代表的なのが琵琶湖疏水事業である。明治一四年、北垣國道が京都府知事に任じられ、伊藤博文松方正義から、京都の衰頽を防ぎ、振興する策を考へるやう命じられた。そこで考へられたのが疎水事業である。最新技術を用ゐ、九年の歳月をかけて全路線の通水を行ひ、天皇皇后兩陛下の元で竣工式が行はれた。疎水は御所の防水用水としても獻じられ、御所を保存するためにも役立つた。この成功に京都市民は自信を取り戻し、他縣から因循・姑息と云ふ汚名を着せられてゐたことに對し、物申せるやうになつたのである。

 明治の革新事業として他には下鴨神社以東の鴨東地區の開發である。鴨東の吉田地區には京都帝國大學、岡嵜には平安神宮や博覽施設、動物園が建設され、洋風の建物が新市街を特徴づけていつた。傳統としての平安神宮、そして革新としての洋風建築物と云ふ、明治天皇の提言通りの街作りがされていつたのである。

 日露戰爭が終はると、西郷菊次郎京都市長が三大事業として第二疎水と上水道建設、道路擴築をしての市電を走らせる事業を本格化させた。しかしこの事業は傳統をあまり意識してゐるやうに見えず、拙速な動きだつた。これには借金問題や舊市街の移轉や補償問題で速やかに事業を遂行する意識が働いてゐたやうである。ただ、この結果京都市は整へられ、天皇京都御所への新しい行幸路が誕生した。

 

三 大正の御所と京都

 明治天皇崩御され、大正天皇京都御所で即位することとなると、三大事業で新しく出來た行幸路を最大限活かし、京都市民は天皇を向かひ入れた。京都驛前にはローマ風の奉迎門がつくられ、御所にはこの時初めて玉砂利が敷かれた。この玉砂利は三年も前から鴨川でひと粒づつすくひあげた玉のやうな小砂利である。

 大正天皇の即位には奉拜希望者を廣く受け入れる方向になつた。これには一君萬民思想と大正デモクラシー潮流が結びつき、宮内省・大隈内閣はこのやうな拜觀方針をとつたのであらう。規制もゆるく、前列のものは敷物の上で跪坐(正坐)をさせられたが、後方では特に規制もなかつた。即位の大禮は大正四年の一一月一〇日に京都御所の紫宸殿で行はれた。午前の儀式は嚴かに終はつたが、午後三時一〇分天皇は高御坐での敕語を讀んだ後、大隈首相は萬歳を三唱した。當日の御所附近は、約一五萬人の人が充滿してをり、大隈の萬歳に半秒も遲れず萬歳を絶叫した。それが市街に傳はり、形容し難いほどの大きな萬歳が、御所に押し寄せてきた。皇太子裕仁の馬車が堺町御門から現れると、群衆の亢奮は更に高潮し、萬歳が雷のやうに起こつた。このやうに大正天皇即位大禮は群衆の亢奮のため、場外では秩序ある形で實行できなかつた。しかし、天皇や皇室、國家への國民の愛着が自然に發露され、群衆がそれを樂しんだと云ふ點で、大正デモクラシーの時代にふさはしい大禮であつたとも言へる。この後、一箇月の内に七度、大禮奉祝行事として提燈行列が行はれた。三味線、鉦、吹きものなどを持出し踊るものも多く、電車の進行を妨げ、百鬼夜行の凄まじい光景とさへなり、いつまで踊り狂ふかとの批判すら出た。このとき、京都御所及び大嘗祭には二六六萬人もの拜觀者があつた。後の青島陷落や第一次大戰媾和記念にも同じやうに提燈行列が行はれ、その度に先のやうな状態になり、娯樂性の高いものへとなつていつた。大正後期には現在の河原町通が整備され、それも合はさりこのやうに市民が騒ぐ場所が多くなつたことも舉げられる。

 この時期の御苑に對して、市民はどのやうに接してゐたのであるのかに興味深い記事が京都日出新聞にあり、男女の密會の場となつてゐたと書かれてゐる。この時期にはまだ門以外にも開口部があり、そこから自由に出入りできた。また、門も夜間全部しまつてゐたはけでもないと云ふ可能性もある。このやうに、御所・御苑は公園に近い形で捉へられてゐた。しかし、大正も後期となると、皇太子狙撃事件、所謂虎の門事件が起こり、また度重なる市民の癡態も重なり宮内省は規制へと舵を傾けていくことになる。それに對し市民側は自由な空間として御苑を捉へ、當局側との綱引きが始まつた。普通選舉運動には建禮門前が使はれ、この場所を市民にとつて特別な場所と捉へる向きがあつた。また、この時期外國人觀光客も京都に増大し、御所は地位のある賓客が訪れるたびに開放された。しかし、時代の流れもあり、大正天皇崩御以降は御所・御苑は聖域的な役割を持ちはじめる。

 

四 昭和元年から敗戰までの御所と京都

 昭和からは御所・御苑の聖域性が強調されるやうになつた。その原因としては、宮内省の意嚮・昭和天皇の几帖面な性格、虎ノ門事件、それに後には滿州事變などの緊迫した状況が合はさつたことも舉げられる。そして一番の理由には厖大な人數の國民が大禮行事關聯の奉拜に參加すると見込まれたことである。それにはマスメディアの發達・都市化・交通網の整備が舉げられる。しかしこのやうな強制力の強い儀式化の反面、奉拜空間の平等性は増していつた。被差別地域の代表者も奉拜に參加できるやうになつたのである。

 昭和三年、昭和天皇の即位の儀が京都御所で行はれた。この時は琵琶湖湖岸と疎水からさらつた白砂を、行幸の四時間前に道路に撒布して、路面を清めた。新聞はこれに清淨、森嚴の氣に包まれたと表現した。この時、特別待遇とされる府市の職員や名譽職の者たちもむしろの上に坐ることになり、特別扱ひされたものは外交團の外國人一五〇名くらゐであつた。このやうに、平等化の流れは普選からの系譜として續いてゐた。この時の市民の樣子は、萬歳齊唱は天に轟くほどのものであつたが、秩序だつたもので多少混亂はあつたものの、即位の儀はつつがなくとり行はれた。大正天皇即位以上の人手があつたけれども、このやうに混亂がなかつたのは三大事業や河原町通の存在が大きかつた。しかし、同じ時、大阪では大正時代の即位時のやうなお祭り騷ぎのやうな状態になつた。京都市民がこのやうに發散したのは、天皇が留守の間であつた。昭和の大禮と云ふ最重要儀式のもとでも、京都市民たちは奉祝氣分を自らのやり方で發散することを求め、達成した。その後、天皇が京都に戻り各天皇陵に參拜し、即位禮終了の報告を行ひ、即位大禮關聯の行事は終了した。

 天皇機關説、二二六事件に際し、牧野伸顯内大臣らが天皇機關説論者として攻撃され、牧野内大臣は辭任、後任の齊藤實内大臣も二二六事件で暗殺され、宮内省は大きな傷を受けた。國民との距離ができてしまつたと判斷した宮内省は、御所の拜觀の資格者を女性や學生・生徒らと大幅に廣げた。これには教化や精神修養の目的もあり、義務的な要素が大きくなりつつあつた。このやうに、天皇機關説以降は御所・御苑空間は平等化・大衆化が進む一方で、窮屈なものになつていつた。

 支那事變が起こり、日本軍が戰勝を重ねると、提燈行列が行はれたが、この時は戰時體制ができつつあり、お祭り騷ぎにならないやうに府警察が取締つた。このとき、いづれの行進も最後に御苑に集まるのが特色であつた。そして昭和一三年の提燈行列が最後の提燈行列となつた。大東亞戰爭以降も戰勝奉祝行事が行はれ、眞珠灣攻撃の成功では過去最大級の動員があつたが、秩序だつたものとなつた。昭和一九年以降は奉祝行事そのものが行はれなくなつた。

 

五 戰後からサンフランシスコ媾和條約までの御所と京都

 戰後、御所・御苑の聖域性は大幅に薄れることとなり、米軍家族の住居にする案まで出てゐた。しかしこれには流石に京都市民は反撥し、北山の植物園があてられることとなつた。食糧不足から御苑の一部は數年間耕作地になつた。この時、御苑をどのやうに扱ふか大きな議論となつた。大正時代の流れをくんで公園化するのか、一大スポーツ施設にするのか、はたまた野球スタジアムを作るのかと大きく舵取りを迫られることになつたのである。これに對し、吉田茂内閣は基本的に現状を維持した公園とし、精神修養の場としてではなく、文化遺産として御所の公開を促進する方針をとつた。一部ではスポーツ殿堂にすると云ふ意見がくすぶつてゐた。これは明治以降の日本を否定する意味合ひも含まれてゐたけれども、それを吉田内閣は蹴つた形となり、概ねこの方向で京都市民も諒解していつた。

 以後、京都御所・御苑は觀光地化していく。日本國民に京都觀光をする餘裕が出來てきたことに昭和天皇は滿足し、これまでより氣輕に京都に立ち寄るやうになつた。昭和二二年に七年ぶりに京都を行幸して以降、天皇は中國地方巡幸に出かける途中や、九州巡幸の歸りにも大宮御所に一泊した。昭和天皇は、京都市及び乙訓郡共催の歡迎會に望み、數萬人の萬歳に笑顏でお答へになるなど、國民との距離を近づけようとした。このやうに京都に頻繁に滯在したのは、昭和天皇は戰前とは異なり、肩の力を拔いて國民に接する姿勢を確立した事で、京都滯在を樂しめるやうになつたと推測される。これは戰後の御所・御苑空間の新しい方向と類似してゐた。

 

六 令和に於る御所と京都

 以上見てきたやうに、近代の御所・御苑の存在は、京都の發展の先鞭をつけるやうなものであつた。特に明治天皇が最初に示した傳統と革新は現在も息づいてゐるやうに思はれる。今も多數殘る寺社佛閣、京町家に、西陣に代表される傳統工藝から、任天堂京都アニメーションなどの現代の最尖端を走る企業まで存在し、京セラなどの電氣機器メーカーも工業化の成功を象徴してゐる。また、京都市民は舊所名蹟に頼るのではなく、自らの力で時代を切り開いてきたことも確認できた。 しかし、戰後は京都御所・御苑と京都の關係は切り離され、單なる憩ひの場や觀光地としての比重が大きくなつていつたことにも留意したい。

 これらから鑑み、これからの令和時代に於る京都御所の向かふべき道として、以下のことを提案したい。天皇に御所にお住みになつていただくことで新たな意義が生まれるのではなからうか。これは東京から地方へと云ふ掛け聲の先鞭にもなり、天皇が道を行動で示すことで日本が動くと云ふ事象を捉へた提案として推したいと思ふ。その根據はよく言はれるやうに、東京に遷都と云ふ記述はどこにもなく、發せられずに現在に至つてゐるからである。東京城はあくまで皇居とよばれ、高御坐は今でも京都御所に安置された儘である。これを實行できれば、明治天皇が殘した御所と云ふ存在に令和になり新しい意味合ひをつけることができるのではなからうか。

 

參考文獻

京都の近代と天皇 伊藤之雄 (千倉書房 平成二二年)
見る歩く學ぶ京都御所 コトコト(株式會社コトコト 平成二六年)
京都の御所と離宮①京都の御所三好和義(朝日新聞出版 平二二年)

 

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戦前期の京都御所・紫宸殿(昭和天皇の即位礼)

 

【東京】次回の定例研究会のご案内

 

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新型コロナウイルス感染症の流行を鑑み、無期延期としていた民族文化研究会東京地区第25回定例研究会ですが、下記要領にて開催させて頂きます。万障繰り合わせの上ご参加ください。

民族文化研究会東京地区第25回定例研究会

日時:令和2年8月23日(日)14:00~17:00
会場:早稲田奉仕園スコット103
   東京都新宿区西早稲田2‐3-1
   https://www.hoshien.or.jp/
予定報告者:金子宗徳(里見日本文化学研究所所長、本会顧問)「日本仏教における聖徳太子
      渡辺剛(本会会員)「歴史家としての天皇陛下
会費:1000円
​主催:民族文化研究会東京支部
備考:・この研究会は、事前予約制となっております。当会の公式アドレス(minzokubunka@gmail.com)までご連絡ください。
・マスク着用で御参加下さい。(お忘れの場合、奉仕園受付で購入可能です)
・ラウンジでの長時間滞在を避けるため、定刻近くに御来場下さい。

【関西】定例研究会報告 近世期における神道神学の展開―ー中野裕三『国学者の神信仰』を読む(第三回)

 令和2年6月20日に開催された民族文化研究会関西地区第25回定例研究会における報告「近世期における神道神学の展開――中野裕三『国学者の神信仰』を読む(第三回)」の要旨を掲載します。

三 「第二編 橘守部の神信仰」

三・一 「第一章 橘守部の神理解」

橘守部における宣長神学の批判と継承――ポスト宣長神道神学

 前章では、本居宣長神道思想を分析し、そこで展開された神学理論を確認してきた。以後は、こうした宣長神道思想が、のちの国学者によって、どのように継承あるいは克服されてきたのか、概観されていくことになる。本章では、こうした宣長以後の国学者のうちで、橘守部が取り上げられる。

 橘守部は、「天保の四大家」の一人に数えられる国学者であり、宣長神道思想に対する徹底した批判者として知られている。守部は、日本書紀重視の姿勢を打ち出し、また独自の神典解釈法である「神秘五箇条」を主張することで、古事記を絶対視し、その内容を全て真理として受け取るように要請する宣長の神学思想と対峙した。こうした守部の神道思想を確認することで、宣長神道思想が、のちの世代において、いかに継承・克服されたかを明らかにすることができる。

 こうして守部の神学思想が取り上げられるわけだが、中野は従来の守部研究の動向を批判し、異なるアプローチから守部へと取り組む。具体的には、村岡典嗣や加藤玄智による研究だが、守部の全体像を把握しようとせず、その神典解釈法である「神秘五箇条」を過度に重視し、これを合理主義的態度の表出であるとして、表層的な解釈を施すアプローチである。

 

橘守部の問題意識――神典解釈の前提

 こうして、橘守部神道思想を、その全体像を把握することで理解し、神典解釈法である「神秘五箇条」にせよ、その背景にある問題意識まで配慮を及ぼすアプローチが志向される。中野によれば、こうしたアプローチを採用しているのが、鈴木暎一『人物叢書 橘守部』(昭和四十七年、吉川弘文館)において展開された守部研究であり、以後は同著を基礎としつつ、その問題点も指摘していくことで、守部神学の全体像を把握し、宣長との差異を明らかにしていく。

 

初期における宣長の影響

 まず、指摘されるのが、ことに初期において、守部は宣長から強い影響を受けていることである。それは、本書第一編「宣長の神信仰」でも取り扱った、宣長の神格理解からの影響だ。守部は、初期の著作である『山彦冊子』(天保2年)において、「最速振(ちはやふる)」という語の解説をしている箇所で、宣長と同様に、信仰者が崇拝対象に対して抱く宗教的感情を元に、神格の定義を行っている。守部も、神とは、その類稀な働きを通して、信仰の主体に「可畏(かしこ)」という宗教的感情を喚起する存在だとする。

 

神祇軽視への警戒と神典解釈法

 続いて、守部独自の神典解釈法である「神秘五箇条」について、同時代に対して守部が抱いていた懸念まで掘り下げ、その背景事情を明らかにする。鈴木が指摘するところによれば、守部の神典解釈法は、文政・天保時代における神祇軽視の風潮を念頭に置いたものだという。当時は、体制の安定化に伴い、都市部を中心に消費生活が膨張し、華美に走りがちな傾向があったとされる。守部は、こうした社会情勢を危惧し、いかに敬神の念を喚起し、道義を高揚させるかを問題意識としたわけである。

 ここから、神典を「本つ旧辞(歴史的事実)」と「談辞(非事実)」に峻別し、単なる神秘主義の発露に過ぎず、迷信・妄想である「談辞」の部分を排除する、という神典解釈法が提示される。記紀には、人間の合理的解釈を峻拒する、摩訶不思議な記述も存在する。こうした記述は、人々に記紀の真実性を疑わせる。守部は、人々が神典に対してもつ疑惑を払拭し、敬神の念を喚起するためには、こうした記述を除去し、正しい信仰モデルや神理解を打ち出す必要があると考えたのである。こうして、守部は、当時の世相への懸念から、宣長神学とは袂を分かち、独自の神典解釈法である「神秘五箇条」を導き出した事情が明らかにされる。

 

幽冥観

 このように、あくまでも現実に根差し、神典の観念性・神話性より、事実性・正当性を重視する守部の神理解・神典解釈法は、その幽冥観にも影響を与えている。守部は、あくまで他界・幽冥界を、現世と連続した世界であると認識していた。神々の鎮まる「霊区(まほら)」と現実世界は一体的であり、神霊は現世に対して多くの霊威を示しているとされる。こうした幽顕相互の緊密性を重視する守部神学の幽冥観は、非常に現世的な幽冥観であると定義できるとされる。

 

◎守部神学の根本的性格――「神霊の実在証明」の現実性・実践性

 以上が、鈴木暎一による守部研究の概観だが、中野は異論を提起していく。まず、焦点が当てられるのは、その幽冥観である。鈴木は、守部の幽冥観を、同時期に霊魂論・他界観を大規模に展開していた平田篤胤の強い影響下にあると断じるが、守部の幽冥観は篤胤霊魂論・宇宙論を代表する『霊能真柱』などの刊行前にすでに萌芽が見られ、また篤胤に特徴的な大国主命を死後の霊魂の審判神だとする議論も見られないことから、これを否定する。

 中野は、両者の霊魂論を対比し、鈴木が注目していない『歴朝霊異例』などの著作も援用しつつ、守部の霊魂論は、篤胤のように観念的なものではなく、あくまで霊魂を現実世界に示される具体的な働きを基準として論じる姿勢が一貫しており、こうした守部霊魂論の方向性を、「霊魂の実在証明」と定式化する。

 どういうことかと言えば、現世と幽冥界は一体的に理解され、霊魂は現実世界において具体的な働きとして結実する霊威を示し、これを目にした人々が敬神の念を強くするわけである。神典解釈も、こうした方向性を共有しており、観念的要素は捨象され、事実性・正当性が解釈基準となる。守部の神学思想は、こうした現実的・実践的側面を強くもつといえる。こうして、守部神学の根本的性格が明らかになる。

 

宣長との差異

 こうした「神霊の実在証明」において典型的に見られる、守部神学における現実性・実践性は、宣長神学の方向性とは鋭く対立する。宣長は、あくまで記紀を文献学的に解釈することで、古代人(上代人)の信仰を闡明しようとする方向性であるのに対し、守部は、彼が生きた江戸期における信仰の危機に対し、記紀を真実性・正当性から記述の取捨選択を行い、「神霊の実在証明」という霊魂論を交えつつ、信仰の涵養を実践的に行う。

 

霊魂観と神典解釈

 こうした両者の対立を前提とした上で、守部は宣長神学のどのような側面を否定し、あるいは継承・発展させようとしたのか。中野は、神格理解から、検討を開始する。守部は、神格理解にあたって、中期以降は宣長における神格理解から離脱する。従来は、宣長の神格理解を継承し、幅広い範囲の神霊を、「不可思議さ」という属性に基づいて、「神」として定義していたのに対し、やがて人間の力を凌駕し、人々に慈愛を注ぐ、まさに超越者にしか、「神」の語を使用しなくなる。

 ここで、中野は、守部が、記紀神話の記述から帰納的に神理解を組み立てる宣長とは対照的に、アプリオリな神格理解を前提とし、そこから演繹的に神学を組み立てているのでは、という指摘をする。神祇を軽視する世相への懸念ともリンクするが、守部は絶対者としての神を定立し、そこから人間の道義を引き出し、信仰を立て直そうとしている。ここから、こうした人間から隔絶された絶対者としての神格理解が、記紀記述よりも先行してしまい、こうした神格理解を記紀解釈に適用したことから、神秘的な記述を記紀解釈から一掃する方針が引き出されたのではないかと指摘する。

 

多神教的性格への自覚

 しかし、こうした神のもつ絶対的な権能への注目というアプローチにも関わらず、他方で守部はかなり明確な多神教モデルの神学を構築している点も注目される。造化三神に諸神の機能を集約させ、絶対化する宣長や篤胤の神学とは異なり、神と人の絶対的な隔たりを前提としつつ、守部は複数の神格が協力して世界の創造と維持に当たっていると述べ、こうした諸神の協力と一致を神学的主題として伏在させている。

 中野によれば、「国生み」に対する解釈において、こうした傾向が明確になる。守部は、国生みを、特定の一神の御所為と解するのではなく、複数の神々の一致した御意思によってなされたものと認識している。なお、こうした修理固成における、相互に独立した神々の関係性が大きな役割を果たしたとする指摘は、宣長も行っている。

 

三・二 「第二章 『顕生魂』説の原由――橘守部の神学」

 

◎守部神学の発展過程

 このように、守部神学は宣長神学との複雑で多面的な関係性から構築されたものであり、また時期によって、主に宣長神学からの影響によって、大きな理論的変遷を遂げている。したがって、こうした守部神学の発展過程を、その著述を刊行年度にしたがって比較し、文献学的に解明する必要があると思われる。

 中野は、天保4年以降に執筆された守部の著作を比較検討し、その発展過程をおおむねには次の通りに整理している。

 

  • 守部の神学的営為は、おおむね「俗間の人」(一般民衆)を対象としたものだった。
  • 『十段問答』(天保9~10年)まで、守部は神道を根本としつつ、他宗教(儒教・仏教)に対しても寛容な姿勢を取っていた(「包括主義」)。しかし、『神異例』を契機として、神道を絶対化する排他主義へと転じた(「個別主義」)。
  • 「神秘五箇条」として定式化される神典解釈法は、『温源録一・二』(天保4年)にて提示され、その立場から日本書紀の注釈が進められた(途中で、『温源録』は『稜威道別』へと表題が変更された)。こうして獲得された神道神学に従い、宣長の『古事記伝』への批判が図られ、『古事記伝考異』(天保10年)に着手

 

◎守部神学の二契機――宣長・篤胤との対抗

 このように、中野は守部の著作を刊行年度に従って検討し、その発展過程を明らかにしてきた。続いて、「現実的な視座に基づく神霊の認識」と「神理解に於ける謹み」の二つの契機が設定されたのち、これらの論点にしたがって、守部神学の性格がさらに掘り下げられ、精緻に明らかにされていく。興味深いのは、両者の契機の理解にあたって、宣長・篤胤という国学の巨人との対比が基本的視座となっている点である。

 「現実的な視座に基づく神霊の認識」だが、ここでは篤胤の幽冥観と守部の幽冥観が比較検討される。前章でも触れられたが、守部の霊魂論は、篤胤のように観念的なものではなく、あくまで霊魂を現実世界に示される具体的な働きを基準として論じる、現実的な視座に基づいた霊魂論である。ここで、両者の幽冥観は、宇宙論的/観念論的な幽冥観と、現実的・具体的な幽冥観に分かれ、袂を分かつ。

 続いて、「神理解に於ける謹み」だが、ここでは宣長の神理解と守部の神理解が比較検討される。これも前章でも触れたが、宣長記紀神話の記述から帰納的に神理解を組み立てるのとは対照的に、守部はアプリオリな神格理解を前提とし、そこから演繹的に神学を組み立てている。ここで、両者の神格理解は、帰納的な方法論によるものと、演繹的な手法によるものに分かれ、対立することになる。

 中野は、上記の考察から、「現実的な視座に基づく神霊の認識」と「神理解における謹み」という二つの契機における、宣長・篤胤という国学の巨人との対抗によって、橘守部に独自の神学が確立されたと結論付ける。

 

◎守部神学の構造

 第一章において、橘守部宣長神道神学をいかに批判し、あるいは継承したかを明らかにし、第二章においては、守部神学の発展過程を概観することで、守部神学の基本的性格を明らかにしてきた。

 守部は、初期は宣長の強い影響下にあったものの、当時の世相への懸念などから独自の問題意識を示すに至り、宣長神学の批判者として登場した。

 守部神学は、神祇を軽視する世相を念頭に置き、俗世の人々をいかに教化し、敬神の念を持たせるかに力点を置いた、現実性・実践性を強調した理論であり、ここから神格理解(人々に慈愛を注ぐ超越者である神)、神典解釈法(人々の疑念を呼ぶ神秘的記述を排斥し、神典の正当性を確立する)・他界観(現実と隣接し、観念的・宇宙論的な把握はしない)が導出される。

 こうした「実践神学」である守部神学は、上代人の信仰の文献学的解明を目的とする宣長神学とは全面的に対立することになるが、幽冥観や多神教的枠組などは継承しているとされ、守部による宣長神学の受容は多面的なものである。また、主に幽冥観との関りから、篤胤からの影響も指摘されてきたが、両者は最終的には観念的議論と現実的議論かによって袂を分かつ。

 まとめると、守部の神学は、村岡典嗣・加藤玄智による解釈通りの「合理主義者」でもなければ、単なる「宣長批判者」でもない、宣長の圧倒的影響下から出発しつつも、やがてその影響を相対化し、「実践神学」と表現される独自の立場を構築した国学者として整理されるだろう。

 

参考文献

中野裕三『国学者の神信仰――神道神学に基づく考察』(弘文堂、平成21年)

 

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橘守部

 

美濃部達吉『憲法撮要』輪読会のご案内

 民族文化研究会静岡地区定例研究会では、美濃部達吉憲法撮要』の輪読会を行います。『憲法撮要』とは、明治憲法下の憲法学界を代表する憲法学者美濃部達吉の手による基本書で、穂積八束憲法提要』や佐々木惣一『日本憲法要論』と共に、戦前期における代表的な憲法概説書でした。いわば、初学者向けの著作ながら、美濃部憲法学のエッセンスを味わうことができる名著といえます。

 この輪読会では、こうした『憲法撮要』を精読し、明治憲法下の憲法学説に多大な影響を与えた美濃部憲法学に迫っていきたいと思います。解説は、弁護士である当会会長の輿石逸貴が行います。明治憲法にご関心のある方は、お気軽にご参加ください。静岡地区定例研究会は、コロナ問題を考慮し、現在はZoom(ウェブ会議アプリ)を使用したオンライン開催なので、遠方にお住いの方でも参加が可能です。

 第1回輪読会の開催要領は下記の通りになりますので、万障繰り合わせの上ご参加ください。

民族文化研究会静岡地区第4回定例研究会

日時:令和2年6月27日(土)13時~15時
内容:美濃部達吉憲法撮要』輪読会(第1回)
使用文献:美濃部達吉憲法撮要(改訂第5版)』(呉PASS出版、平成30年/原著は大正12年
※参加に際しては、上記の復刻版を各自でご準備下さい。
輪読範囲:1~15頁
参加方法:参加希望者は、当会公式アドレス(minzokubunka@gmail.com)まで連絡し、氏名とEメールアドレスをお伝え下さい。Zoom上での会議に参加するための「招待URL」とレジュメを送付致します。「招待URL」を開催日時に開き、研究会にご参加下さい。
参加費:無料
主催:民族文化研究会静岡支部

 

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【関西】次回の定例研究会のご案内

 

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前回の関西地区定例研究会は、新型コロナウイルスの感染拡大を鑑み、Zoom(ウェブ会議アプリ)を使用しての開催となりましたが、新型コロナウイルスの新規感染者が減少していること、また近畿3府県(大阪府京都府兵庫県)では緊急事態宣言が解除されたことを考慮し、次回は通常の会場で開催することに致しました。開催要領は下記の通りです。

関西地区第25回定例研究会

日時:令和2年6月20日(土)16時30分~19時30分
会場:貸会議室オフィスゴコマチ 207号室
京都府京都市下京区御幸町通り四条下ル大寿町402番地 四条TMビル
https://main-office-gocomachi.ssl-lolipop.jp/
会費:800円
主催:民族文化研究会関西支部
備考:申し訳ありませんが、体調不良の方は出席をご遠慮下さい。なお、会場の換気など、一定の感染防止策を講じる予定です。

【関西】定例研究会報告 尊皇絶対平和とは何か――河内正臣の思想

 令和2年5月23日に開催された民族文化研究会関西地区第24回定例研究会における報告「尊皇絶対平和とは何か――河内正臣の思想」の要旨を掲載します。

 

はしがき

 ここに一冊の本がある。河内正臣著の『天皇の真実 憲法一条と九条よ! 地球を一つに繋げ!』である。本書は、昭和五十三年に出版され、版を重ねた後に、平成二十四年に増補改定が加えられた後に再販されている。そもそも本書は、昭和五十一年に著者が企画し実行した「天皇さまありがとう 徒歩大行進」を基盤として出版されたものであり、有力政治家や各界の有名人、さらには宮内官を通じて直接に当時の皇太子(現在の上皇陛下)にも届けられたと前書きに記されている。著作には各界の著名人からのハガキや礼状が掲載されており、中には中曽根康弘土井たか子といった大物も存在している。

 本書は学術的な本ではもちろんなく、むしろ一般的には「トンデモ」本の範疇に入れられる類のものである。しかし、現在の天皇憲法の関係を巡る問題のある面を照射している点があると思われるので、今回読解していくこととする。

 まず著者の河内氏の略歴を見ていきたい。昭和十六年に広島呉に生まれ、長じて警視庁の警察官となる。その後法政大学の二部を卒業したのちに、愛国平和運動に目覚め、その運動に邁進。現在は憲法の一条と九条をむすびつける「一条と九条の会」を設立し、熱心に活動を行っている模様である。

 

第一節 「天皇さまありがとう」行進

 本書は昭和五十一年に行われた「天皇さまありがとう」行進に関する文章がその過半を占めている(この「天皇さまありがとう行進」は天皇御在位五十年を記念して広島から東京まで行われたものである)。繰り返し述べられるのは、日本国憲法第九条のいわゆる「戦争放棄」が昭和天皇の発案により定められたのである、とし、現憲法の平和主義は天皇の大御心そのものであるという「尊皇絶対平和」である。著者は、日本人全員が戦争無き理想世界に向けて努力せねばならないことを繰り返し述べる。そしてそのためには日本人が捨石になってもかまわないというような発言までしている。この型の論理はいわゆる「九条保全論者・平和主義者」がよく述べてきたところだが、河内氏の論理の独自性はその平和主義の基礎にあるものは天皇の大御心であるという一点である。

 その他にも氏は自衛隊を「世界平和協力隊」として再編成し、世界平和に役立たせることを主張するなど、当時としては独自の意見を唱えている。自衛隊の海外派遣による国際貢献湾岸戦争以来、議論されるようになり、また阪神大震災東日本大震災での災害復興・救援により自衛隊の評価は一般にも相当高まっているが、昭和五十年代にこのような主張をしていたのは先見性があったと見なしてよいだろう。

 

第二節 河内正臣流「八紘為宇」

 河内氏は本書の「はじめに」の文章の枠外に「八紘為宇」に関しての文章を書いている。河内氏によると「大正時代に国柱会の田中智学が「八紘一宇」という造語を発表し、その言葉が広まったが、「八紘一宇」は人間の力によって強引にやってゆく、という印象がある。それに対して「八紘為宇」は天の意思で自然にそうなってゆく、ということ」と述べている。

 「八紘為宇」あるいは「八紘一宇」に関する思想史は重厚かつ複雑なものであり、ここで詳説するゆとりは無い。また河内氏がそれらを踏まえているかは定かでない。しかし、少なくとも河内氏は人為を介しない「八紘為宇」を自らの思想の中核として考えているようである。そしてそれは氏の言う「尊皇絶対平和」と結びついていることは言うまでもない。

 

第三節 平成以降の河内氏の思想

 増補改定された再販版では、平成以降に記された文章が主に掲載されているが、時の首相に対する意見書が多数を占めている、例えば平成二十二年六月十日に時の首相であった管直人に対して送られた文章には憲法一条と九条と結んだ「天皇絶対平和=八紘為宇」の国家目標を絶対化することを主張。氏によると「必然人間知力を超えた天佑神助が働き、全日本国民の意識が高次元に発効(八紘)し、協力一致に導かれ、大和民族の本領が発光(八紘)するのである」と熱弁する。さらには同日に書かれた「鳩山前首相の功績」という文章には「鳩山前首相の鳩という字は、と書きます」「「名は体を表す」と言いますが鳩山首相は、天のときに合わせ、憲法条を、世界平和実現に積極的に活用する(護憲ではなく活憲)天のとき)をつげる天命者であったのです」と続けるのである。この文章は、沖縄の辺野古基地移転問題に対応して書かれているものであるが、いわゆるトンデモ本にありがちな「語呂合わせ」である。この類のこじつけの文章が延々と綴られていくのである。文章を送られた側がどのような反応をしたのかは不明であるが、ここまでくると河内氏以外の人間には理解不能なものであり、もはや他者には共有不可能なものになりはててしまっている。

 

むすび

 ざっと『天皇の真実』にある河内氏の思想を読み解いてきたが、基本的には「トンデモ」であり、少なくとも学術的に吟味する類のものではない。本文中には様々な有名人の礼状や写真が掲載されているが(中には安倍昭恵氏の姿もある)彼ら彼女らが本気で河内氏の思想を受け止めていたとは思われない。氏には失礼だが、選挙あるいは広報活動の一つとして氏に応対しただけのものと思われる。

 しかし、氏の言う「天皇絶対平和」あるいは「尊皇絶対平和」は単なる「トンデモ」とは片付けられない面もある。昭和から平成を経て令和となった現在、「天皇」は最も「リベラル」な存在としてほとんどの人間に捉えられているのではいかと思われる。いわゆる護憲論者も天皇の存在を持ち出した上で憲法九条保全を言うようになっている。もはや「リベラル=反天皇」という図式はとうの昔に成り立たなくなってしまっている。

 論者によってはこのような思想状況を「奇妙なねじれ」というだろう。しかしそもそもそれは「ねじれ」なのだろうか。「保守」や「右翼」が戦後民主主義を受け入れ急速に変質しつつあるように、「左派」や「リベラル」も「天皇」を受け入れ、急速に変質しつつあるのではないだろうか。元々河内氏は愛国陣営の人間だったようであるが、『天皇の真実』は戦後民主主義なるものも実は「天皇」の存在抜きには成立しえないということを示した最初期の書籍だったのではないだろうか。

 

参考文献

河内正臣『天皇の真実 憲法一条と九条よ! 地球を一つに繋げ!』 メタ・ブレーン 2012年5月3日

 

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【関西】定例研究会報告 近世期における神道神学の展開――中野裕三『国学者の神信仰』を読む(第二回)

 令和2年5月23日に開催された民族文化研究会関西地区第24回定例研究会における報告「近世期における神道神学の展開――中野裕三『国学者の神信仰』を読む(第二回)」の要旨を掲載します。

二 「第一編 本居宣長の神信仰」

二・一 「第一章 ルードルフ・オットーのヌミノーゼ概念――本居宣長の『神の定義』との比較」

 序論では、国学者神道思想を検討し、現代における神道神学に活用することの重要性が説かれたが、いよいよ本編では国学者が展開した神道思想の検討へと入っていく。第一編で取り上げられるのが、本居宣長神道思想である。

 なかでも、宣長によって説かれた「神の定義」は、以後の神道神学に与えた影響が非常に大きいとされている。しかし、宣長の「神の定義」は、中野が指摘するように、「その内容・解釈については、必ずしも明確にされてこなかった」とされている。

 そこで、本書では、宣長の「神の定義」と類似性のある、ルードルフ・オットーの提唱した「ヌミノーゼ概念」に着目し、両者を比較することによって、宣長の「神の定義」の正確な意味・内容を把握することが目指される。ドイツの宗教学者であるルードルフ・オットーの「ヌミノーゼ」概念は、宗教の原始的な段階における崇拝対象の特徴を、信仰者が抱く宗教的感情の視座から詳細に明かしていることから、同様の理論的意図をもつ宣長の「神の定義」を解釈する概念として、加藤玄智・原田敏明・安津素彦といった神道学者らによって援用されてきた。

 本章では、こうした議論を踏まえ、オットーの「ヌミノーゼ」概念が、はたして宣長の「神の定義」と対応しているのかどうかを確認し、また両者の比較を試みた先行業績を再検討することによって、宣長における「神の定義」の意味・内容を正確に把握することを試みている。

 

◎「ヌミノーゼ」概念の背景――キリスト教神学との関わり

 まず、オットーにおける「ヌミノーゼ」概念が検討されるが、中野が注目しているのは、「ヌミノーゼ」概念が唱えられた歴史的背景である。より具体的に言えば、ルードルフ・オットーが、「ヌミノーゼ」概念をキリスト教神学の範疇において護教的な意図を込めて主張したのか、それとも諸宗教に共通する普遍的概念として唱えたのか、という点である。

 これまで、「ヌミノーゼ」概念は、後者として、すなわち諸宗教に共通した普遍的概念として唱えられたと考えられてきた。しかし、近年の議論を見ると、オットーがプロテスタント神学の展開を踏まえつつ、キリスト教の護教を目的として、この概念を唱えたのではないか、という主張がなされている。

 オットーは、「ヌミノーゼ」概念によって、宗教における崇拝対象の特徴を、感情という視座から明らかにし、各宗教に共通する本質的経験を提示することができた。しかし、オットーには、「ヌミノーゼ」概念を、各宗教の優劣を測定するための指標として用いている側面があった。「ヌミノーゼ」概念に照らしつつ、オットーはキリスト教を最も優れた宗教だと断定するのである。

 ここから、「ヌミノーゼ」概念は、各宗教に共通する普遍的概念のみならず、キリスト教の優位を論証するための、護教的な意図の込められた概念なのではないかとの疑問が生じた。オットーの影響を強く受けたメンシングという神学者は、オットーが「宗教学を神学の補助学として用いた」として、強く異議を唱えている。メンシングによれば、「ヌミノーゼ」概念は、キリスト教の優越性を測定する「尺度」に過ぎないとされる。[1]

 なぜ、こうした「ヌミノーゼ」概念が、各宗教に共通した普遍的概念なのか、それともキリスト教神学の範疇にある、護教論的な概念なのか、という問題が重要なのかというと、もし「ヌミノーゼ」概念に普遍性が無いのなら、宣長の「神の定義」と比較することが不適当になるからである。宣長の「神の定義」を明らかにする鍵ともなりえるが、同時にキリスト教優位を論証する理論的装置とも解せる「ヌミノーゼ」概念を、いかに取り扱うかが問題となる。

 

◎「ヌミノーゼ」概念の検討――原始宗教における崇拝対象と宗教感情

 中野は、続いて、「ヌミノーゼ」概念そのものの内容・意義を把握し、宣長の「神の定義」と比較検討していく。

 まず、「ヌミノーゼ」概念とは何か、概説される。「ヌミノーゼ」概念の源流にあるのは、シュライエルマッハ―の宗教思想である。シュライエルマッハ―は、宗教には形而上学や道徳には還元できない独自の領域を有するとし、こうした宗教の非合理的側面を「絶対依存の感情」と定式化した。こうした宗教の非合理的側面という視座を継承・発展させたのが、オットーの「ヌミノーゼ」概念だった。

 このように、「ヌミノーゼ」概念とは、宗教における崇拝対象を、形而上学や道徳には還元できない、非合理性の視座から特徴づける。具体的には、人間という矮小な存在が、絶対的な超越者と接した際に感じる、畏怖や魅了、歓喜といった宗教感情を整理し、それによって崇拝対象を非合理的すなわち感情的な側面から特徴づけるのである。

 こうした「ヌミノーゼ」概念は、「被造物感情」「恐怖に満ちている神秘の感情」「魅するもの」「巨怪なるもの」「崇高なるもの」といった複数の契機から構成されている。中野によれば、宣長の「神の定義」との関係で重要なのは、「恐怖に満ちている神秘の感情」と「魅するもの」の二つの契機なのである。

 

◎「恐怖に満ちている神秘の感情」と「魅するもの」の諸契機

 「恐怖に満ちている神秘の感情」は、「恐怖に満ちているという契機」「圧倒的なものという契機」「力強いものという契機」「全く他のもの」という諸契機へと、さらに細分化されている。

 第一に、「恐怖に満ちているという契機」とは、悪霊に対する不気味な恐れとして定式化される、素朴な畏怖感情を意味する。原始宗教の基礎にある畏れである。

 第二に、「圧倒的なものという契機」とは、「恐怖に満ちているという契機」が発展したもので、畏怖する対象が大きな力を持っており、対象に近寄りがたい印象をもっている状態を指す。あるいは、こうした対象に対し、自身を儚い矮小な存在だと感じること(依存感情、被造物感情)を意味する。

 第三に、「力強いものという契機」とは、神と接する人間が味わう、凄まじい活力と緊張を指す。神観念の非合理性をもっとも端的に表す契機である。

 第四に、「全く他のもの」とは、信仰対象が、我々が慣れ親しんだものや理解しているものとは全く異なる状態であることを指す。この契機によって、信仰者が崇拝対象に驚きの感情をもつ。

 第五に、「魅するもの」とは、これまで見てきた諸契機が神のもたらす畏怖を説明するのに対し、神のもたらす歓喜や恩寵を説明する契機である。宗教は、この両側面の感情によって成立する。

 

宣長の神格理解との比較検討

 それでは、具体的に、こうしたヌミノーゼ概念と宣長の「神の定義」の対応関係を比較・検討する。宣長の「神の定義」とは、「尋常(ヨノツネ)ならずすぐれたる德(コト)のありて、可畏き物」という定義である。

 この定義のうち、「尋常ならず」は「全く他のもの」に当てはまる。「すぐれたる徳のありて」は、「霊キ異キ威德(イキホヒ)アルヲ云テ」という宣長の別の著作における記述を見ると、対応関係が分かる。ここで言う「徳」は、神霊のもつ強大な力を指す。したがって、「すぐれたる徳のありて」は、「力強いものという契機」と重なる。

 「可畏き物」は、「恐怖に満ちているという契機」に対応する。中野は、宣長が、朝鮮半島に派兵するように託宣されたが、この託宣を無視したために天照大神の怒りに触れ崩御した仲哀天皇について記述する際、「痛可畏(アナカシコ)」・と表記することに注目する。中野によれば、この表現は、天照大神の御稜威、力の強さを強調したものである。

 また、中野は、原田敏明、加藤玄智の説によれば、「可畏」は畏怖だけではなく、「心を引き付け魅力に充ちたものに対する尊敬、したがって服従をさえ意味する」とし、「魅するもの」との対応関係もあるとする。

 

 このように、「ヌミノーゼ概念」と宣長の「神の定義」は、複数の契機において共通している。中野は、以上のような比較検討を踏まえ、信仰者が崇拝対象に対して抱く感情による神の定義という点では、両者の構造は類似しているとされる。したがって、「ヌミノーゼ」概念と宣長の「神の定義」の比較研究そのものは可能だとされる。

 中野は、「ヌミノーゼ概念」を援用し、宣長の「神の定義」を、おおむね次のように解釈する。宣長は、多様な崇拝対象を不可解さやその強い力によって神の範疇にまとめあげ、さらにそのような宗教的客体を、恐怖に満ちているという宗教的畏怖、我々に恵みをもたらす存在に対する賛美・畏敬、あるいは単に奇異の念を抱くといった、諸々の宗教感情にしたがって定義している。

 しかし、中野は、冒頭で触れた「ヌミノーゼ」概念のキリスト教神学における役割に再度言及し、「このような護教的な意図を持つオットーの思想から、ヌミノーゼ概念だけを独立させて、それを宗教の普遍概念として受容することができるのか」という問いは残るとする。

 

二・二 「第二章 本居宣長の神観念」

 これまで、本居宣長の「神の定義」の検討を行ってきたが、宣長神道思想には、こうした「神の定義」と共に、造化三神(とりわけ産巣日ノ神)を至上視し、この神に絶対的神性を付与する神学理論を採用している。

 「神の定義」が、不可解さや力の強さといった属性によって、幅広い崇拝対象を許容する多神教的構造であるのに対し、造化三神論は超越的な根源神を頂点とする一神教的理論となっている。両者の矛盾をどう理解するか、これが問われるとされる。本章では、この問題を検討することによって、本居宣長神道観の中核を理解することが目指される。

 

宣長における宗教意識の二面性――「自然宗教的信仰」と「敬虔的信仰」

 こうした宣長神道思想における多神教的性格と一神教的性格の併存に最初に着目したのは、日本思想史研究の草分けの一人である村岡典嗣だった。村岡は、宣長神道観は、「自然宗教的信仰」と「敬虔的信仰」(「絶対的信仰」)との二つに分類できると認識している。

 そして、前者は、宣長が古典の研究によって明らかにした古代人の宗教意識であり、後者は、宣長が前者とは別個に、自身が抱いていた信仰心である。前者は自然そのものに宗教的畏怖を覚える多神教、汎神論的な構造であるのに対し、後者は絶対的な根源神を措定し、そうした至上の神に対する絶対的な帰依を基調とする一神教的な構造である。

 村岡は、宣長の宗教意識は、このように両義性をもったものであって、真に宣長を支配していたのは、後者だとする(そして、その一神教的なものへの指向は、宣長の一族の宗旨である浄土教によるものだと主張している)。

 村岡によれば、宣長神道思想は、この両義的意識の反映だとする。造化三神への絶対的神格の付与は、「敬虔的信仰」(「絶対的信仰」)の投影であり、「神の定義」は、「自然宗教的信仰」の投影であるわけである。

 そして、こうした宣長の宗教意識/神道思想の二面性は、村岡以降も継承され、次第に定着しつつある。たとえば、鴻巣隼雄や東より子といった論者が、こうした村岡説の影響下において、宣長の信仰の二面性・両義性を主題として研究を行っている。ここで、造化三神の絶対化論と「神の定義」論のあいだの矛盾をどう解決するかが問題となる。村岡のように宣長の信仰の二面性の投影だと理解するか、それとも両者を整合的に理解するのか。本章では、この問題が検討される。

 

宣長における造化三神解釈――根源神による一神教的神学

 ここから、宣長神道理論を参照し、上記の問題について検討されていく。まず、宣長造化三神絶対化論を把握し、続いて「神の定義」との関係を検討し、両者が整合的に解釈できるかを検討する。

 宣長は、造化三神について、「産霊(むすび)とは、凡てものを生成(な)すことの霊異(くしび)なる神霊(みたま)を申すなり」と位置付け、造化三神には一切の事物の生成に関与しているとする。さらに、「あらゆる神たちを、皆此神の御児(ミコ)なりと云むも違はず」とし、諸神を造化三神の生成の帰結だとし、造化三神を諸神の根源にある絶対的な神格だと理解する。

 さらに、中野は、こうした造化三神解釈が、歴史観においても貫徹されているとする。宣長は、現実世界の営為に対しても、神々の御業から見出した理法に従って説明を行い、それは吉凶の推移が、穢と禊との相関性に基づいて展開していくのであり、それによって人間の歴史が織りなされるというものだが、ここでも造化三神の役割が極めて重視されている。

 以上の考察から、中野は宣長における造化三神理解を次のように整理する。「(一)すべての神々は、産巣日ノ神の御霊を受けて成り坐しているのであり、そのため個別の神々は、産霊の働きを有している。(二)歴史観に見られる、吉善と凶事との推移の背後には、産巣日ノ神の御所為を確認することができる」。

 

◎「一即多」論による造化三神絶対性論と「神の定義」の両立

 中野は、こうした造化三神解釈は、やはり「神の定義」と整合性を持っておらず、むしろ論理的に矛盾しているとする。まず、注目されるのが、宣長の分御霊理解である。宣長は、分御霊の有り様は、燭や薪に移し取った火の如く、決して本の御霊と変わることが無い、とする。産巣日ノ神と諸神の関係性も同じであり、分御霊の関係にある諸神は、本の御霊である産巣日ノ神と全く同一の性質をもつ筈である。しかし、「神の定義」論を見るに、そこでは諸神の個別的な機能を果たすとされていた。

 ここで、なぜ産巣日ノ神の分御霊である諸神が、それぞれ産巣日ノ神とは異なる、個別的な機能を果たせるのか、という疑問が生じる。しかし、中野は、宣長が、こうした自身の神道思想の根幹にある問題について、論理的齟齬を生じさせる筈が無いとし、多様な要素が、一元的な源流へと、矛盾なく集約される論理を踏まえているとする。それこそ、中世期の神道思想が前提としてきた「一即多」論だという。

 「一即多」論は、もともと密教由来の概念だが、本地垂迹説を説明するため、仏教と折衷した中世期の神道思想(山王一実神道両部神道などの仏家神道)においてさかんに論じられた。本源である仏から、多様な神が派生するが、それは多くの存在であるかのように見えるが、実は唯一の存在へと還元されると説くのである。こうした中世期の神道思想における「一即多」論を援用することで、諸神の多様な「御所為」を、根源神の働きに集約することができる。

 すなわち、宣長は、こうした「一即多」論を援用することによって、産巣日ノ神と諸神の関係性を説明でき、矛盾なく両者の整合的な関係性を形成できたのではないか、とする。こうした宣長が「一即多」論を援用しているのではないか、とする理解は、中野だけではなく、上田賢治も提唱しているとのことである。

 

宣長における「一即多」論の発展

 こうして、「一即多」論の採用によって、根源神の絶対性を規定した「産巣日ノ神の絶対性論」と、諸神の機能を定義した「神の定義」論を両立させられる。しかし、「一即多」論において、諸神の作用は根源的な神格へと完全に回収されるのであり、個別的神格は認められない。

 それに対し、宣長は、「一即多」を受容しつつ、個別的な神格の独自性を認めていた。中野は、両者の論理の差異をめぐって、宣長において一即多論がいかに展開されたかを巡って、さらなる議論が必要だとされる。

 宣長は「一即多」論を受容しつつ、根源神から派生した個別的な神格にも独立性をもたせることで、完全な一神集約論には還元されない「一神教多神教」型の神学理論を構築しようとしたと解釈できるのではないか。すなわち、宣長は、「一即多」論を継承しつつ、それを独自に発展させたと解釈できるのである。

 

参考文献

中野裕三『国学者の神信仰――神道神学に基づく考察』(弘文堂、平成21年)

 

[1] しかし、「ヌミノーゼ」概念が、諸宗教に共通した根本的体験に光を当てたのも事実である。当時のプロテスタント神学の議論動向を見ると、宗教を人間の捏造した創作に過ぎないと断じるフォイエルバッハの宗教批判を思想的源流とし、宗教を人間の自己正当化のためのイデオロギー上の仮象世界とする立場(カール・バルト弁証法神学)が主流だった。こうした宗教を文化的な創作物だと捉える見解は、諸宗教に共通した信仰の本質(たとえば、「聖なるもの」への感覚。それこそ、「ヌミノーゼ」概念の探求したものだった)に対して関心を向けない。「ヌミノーゼ」概念は、こうした潮流への異議申し立てという側面もあった。比較宗教的なアプローチが復活するのも、ルードルフ・オットーの寄与が大きかった。本書二十六頁以降を参照。

 

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