【関西】定例研究会報告 近世期における神道神学の展開――中野裕三『国学者の神信仰』を読む(第1回)

令和2年1月11日に開催された民族文化研究会関西地区第21回定例研究会における報告「近世期における神道神学の展開――中野裕三『国学者の神信仰』を読む(第1回)」の要旨を掲載します。

はじめに――「神道神学」の理論的方向性

 わが国の民族文化の中心である神道に対する理解は、民族文化の学術的研究に際して中心軸をなす。ところが、神道は理論(神学)ではなく実践(祭祀)を中心に展開した沿革をもち、とりわけ中世期において他宗教(仏教)との折衷(習合)を経験し、一義的に信仰の内容を体系的に理解・把握することが容易ではない。こうした揺れ動く、不安定な神道像を確立せんとして、近代にいたって神道に対する神学的アプローチを援用する研究が出現するにいたった。こうした一群の研究は、おおむね「神道神学」と呼称される。
 問題は、多様な神道像を整序するため、あるいは神道信仰を堅牢なものとするため援用されるにいたった神道神学においてすら、立場の径庭が大きかったことである。神道の把握にあたって欠かせない神道神学は、いかなる理論的方向性を志向すればよいのか。ここで、手がかりとなる概念として、すぐに思い至るのが、各論者の展開する神道神学において、共通の理論的資源として用いられている、国学者の展開した神道思想である。上田賢治は、国学者の展開した神道思想を「古典神学」と呼称しているが、かかる近世期の国学者による「古典神学」に遡行することによって、神道神学に豊かな理論的成果を与え、その神道像の整理に役立つのではないか。
 かかる神道神学と国学者の信仰(古典神学)の架橋という問題意識を本格的に展開しているのが、本稿で読解する中野裕三『国学者の神信仰――神道神学に基づく考察』である。上記の問題意識に立脚しつつ、同書における主張を紹介・検討したい。

 

一 「序論 戦後神道神学研究史と本書の課題」

 まず、中野は、戦後の神道神学を分類・総括し、今後の展望を明らかにするのは、極めて困難であるとする。神道神学についての業績をもつ研究者の間でも、神学なる学問の性格をいかに規定するのか、あるいは神道神学において何を第一義的な研究資料にするのか、という点で、明確なコンセンサスが得られていないからである。
 こうした神道神学の多様性を踏まえ、以後は戦後神道神学の概要が提示され、その立場の疎隔が確認されていく。ここで対象になるのは、小野祖教・安津素彦・上田賢治という、神道神学という領域そのものを切り開いた神道学者らの業である。
 小野祖教は、連合国軍総司令部による「神道指令」によって神道界が混乱を来たし、統一教義を示すことで、神道界の結束を堅牢なものにすることが要請された情勢下で、神社本庁の教学部門のトップとして、神道神学の研究にあたった。
 小野の神道神学は、神道信仰の核心を、神道祭祀の信仰的・意味的な分析に基づき、体験的に把握することを志向するものだった。小野の神道神学では、記紀といった神道古典も、祭祀の含意を把握する上での典拠として援用されるにとどまっており、祭祀をはじめとする信仰の実践に比重がおかれた神道神学(「祭り型神道」)だとされる。
 安津素彦は、祭祀に重点を置く小野とは対蹠的に、記紀といった神道古典を重視する立場を取る。安津の神道神学は、古典神話に対する厳密な語義論に基づいて、神道信仰を分析する。こうした神話に示された信仰を、古語の厳密な分析を通じて明らかにしようとする姿勢は、国学を意識している。
 こうした文献学的アプローチに加えて、安津の神道思想を規定するのが、民族性という視座である。民族宗教である神道の分析に際し、民族性の視座は当然ながら重視される。安津の記紀分析は、単なる神道信仰の内実の規定を超え、日本人土着の思考の探求という側面を色濃くもっているとされる。
 上田賢治は、小野や安津の業績を引き継ぎ、國學院大學で「神道神学」の講座を受け持ちつつ、自身の神道神学を展開した。上田の神道神学の大きな特徴は、宗教心理学を援用している点だとされる。上田は、人格心理学が明らかにする「健康な心」を獲得せしめる働き、すなわち自己の人生に意味を見出さしめ、積極的・創造的に生を生きる力の源が、人格における宗教の機能だとする。こうした宗教心理学に基づいた宗教の機能をもとに、神道における人間観・罪業像が検討される。
 さらに、特筆すべきなのが、国学における神道観を、明確に神道神学だと認識している点である。小野祖教が、国学をあくまで古典文献学の射程に収めようとするのと対蹠的に、上田は国学における神道思想を「古典神学」と呼び、そこに神道神学の重要な理論的資源を見出す。この点は、安津と軌を一にする。
 ここまで、小野祖教、安津素彦、上田賢治を中心として、戦後神道神学研究史を概観して、中野は「その方法論において見解の一致をみることは極めて難しい」と結論づける。しかし、他方で、これらの神道神学認識には、共通点も存在するとする。それは、神学が研究者の信仰に根差していること、そして信仰のアイデンティティの確立を目指していること、であるとされる。
 さらに、この二点に神学の性格を見出すのならば、「神道神学」という呼称がまだ存在しなかったとはいえ、近世の国学者神道思想は、十分に「神道神学」たる性格をもつ、と指摘される。ここでは、近世の国学者神道思想を「古典神学」と呼んで重視した、上田賢治による「神道神学の現代的展開とその組織化を考えようとする場合にも、有効な基礎資料の一つになる」という国学認識が意識されている。すなわち、神道神学の性格をもち、現代日本における神道神学の理論的資源になっている国学神道思想を検討することで、神道神学の現代的展開とその組織化の手がかりを得るのが、本書の意図するところなのである。
 こうした構想に従い、本書では本居宣長橘守部、鈴木重胤、常世長胤、御巫清直らの神道思想が検討されることになる。

 

(続)

 

参考文献

中野裕三『国学者の神信仰――神道神学に基づく考察』(弘文堂、平成21年)

 

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中野裕三『国学者の神信仰』