定例研究会報告 近年の記紀を巡る議論瞥見

一 はじめに

 我が民族の原点、基層を探る時、どうしても避けられないのが『古事記』『日本書紀』(以下、記紀)といった古典である。記紀を巡る研究は莫大なものがあり、研究史を瞥見するのは容易なことではないが、さりとて従来の研究の参照は、どうしても必要なことである。

 本稿は、近年の記紀を巡る議論のうち、磯前順一氏、小路田泰直氏、若井敏明氏の発言を簡単に紹介するものである。このうち、磯前氏はポストモダン的立場からする記紀理解と評し得るものであり、対して小路田氏、若井氏は、戦後の記紀批判を基調とする古代史学やポストモダン的立場に対する率直な疑問を投げかけているのである。

 

二 磯前順一氏の発言

 磯前氏の記紀に関する発言を、氏の『記紀神話と考古学 歴史的始原へのノスタルジア』(角川学芸出版、平成二十一年)から見てみたい。

 氏は、「記紀や考古学の世界は、近代日本において人々がみずからの過去を形象化させようと欲したとき、「祖先の、太古に生きた鼓動」(相沢忠洋の発言:筆者注)を感じさせる郷愁の対象として関心を惹起してきた」(二十頁)と述べる。そして、「時間的前後関係として先にネイションという実体が形成されて、それに見合うように後から国民の歴史をめぐる語りが創出されてきたということではなく、むしろそのような語りのもつ行為遂行性によって同時性のなかでネイションという主体が形成されてきた」(二十二頁)として、研究によるネイションの記憶形成を指摘するのである。ポストモダン的な視点を代表する見解といえよう。

 磯前氏は、酒井直樹氏の提唱する「死産された日本語・日本人」という概念を重視する。酒井氏の見解を少々長いが以下に引用しよう。

 「私は、十八世紀の新たな言説の変更の結果として……、おそらく初めて、日本という名辞によって漠然と支持された地域に住まう人々によって話された日常語を、中華つまり中国の言語とはきっぱり識別されたものとして、概念化する可能性が生まれた、と主張した。しかし当時の、今日日本と呼ばれる地域は、多くの国と社会集団・身分に分断され、方言や文体の多様性は膨大なものであり、「日本人」によってしゃべられる「日本語」なるものを十八世紀に見出すことはできなかった。そのため、その維新(=復活restration)が熱望される、喪失され死んだ言語としてしか日本語を概念化することはできなかったのである。つまり私は、日本語と日本民族は、一定の言説において音声中心的な言語概念が支配的になるにつれ死産したと、主張したのである」(酒井直樹『日本思想という問題』〈岩波書店 1997年〉)

 ある種、究極的な「想像の共同体」論であると言い得るものであろう。しかし、磯前氏は過去への素朴な郷愁は、「死産された日本語・日本人」に回収され尽くす訳ではなく、「余白と亀裂」、すなわち国家の物語に回収されない要素があるはずだと述べる。この点は、単純な国民国家批判などと違う点であって注意すべきであろう。氏は、記紀、考古学研究は「個人の意識を肯定する反映物へと矮小化されることなく、むしろ逆に個々の存在に変容を促していく働きをなすかぎりにおいて、人間関係が生み出す矛盾と葛藤の場として大きな可能性をはらんでいる」(十三~十四頁)。抽象的な表現のためいささか理解しにくいが、「個人の意識」の「肯定」、すなわち国家主義的な歴史観に収斂されない可能性があるというわけである。固定化された「歴史的言説の空間」を問い直す手段として、記紀研究や考古学が生きてくるというのが、氏の結論である。

 

三 小路田泰直氏・若井敏明氏の発言

 磯前氏のような、ポストモダン的な記紀理解、さらに遡れば戦後歴史学における伝統的な記紀理解(記紀批判)に対して、懐疑的な意見が表明されていることも見逃せない。これは決して多数派ではないが、率直な見解として非常に興味深い。本稿では、その例として、小路田泰直・西谷地晴美・若井敏明氏「対論 古事記日本書紀はいかに読むべきか」(『日本史の方法』七号、平成二十年)における、小路田氏、若井氏の発言を紹介したい。

 まず、小路田氏の発言である。「「『古事記』『日本書紀』は八世紀律令国家の支配者による自己正当化のための作り話(もう少しオブラートに包んでいうと「物語」)だから、歴史としては信がおけない」という。一見当たり前のことをいっているようにみえるのですが、じゃあ、そういっている人が「貴方の書く歴史論文は、どこまでいっても二一世紀日本人の描く物語だから、歴史の事実は多分反映していないでしょう」といわれたらどんな気分がするでしょうか。(中略)人が歴史としてものを書くということと、フィクションとしてものを書くということの違いについての吟味が欠如しているように思えるのです」(18頁)非常に鋭い指摘であろう。当時の人々による歴史叙述がいかなる意味を持っていたのか、熟考を迫る発言である。

 続いて、若井氏の発言を見てみたい。「(記紀の潤色論について)『古事記』と『日本書紀』を読みますと、『日本書紀』のほうがデータ数が多いのです。小学校の教科書と高校の教科書を比べて、高校の教科書に増えているデータはあとから付け加えられたといっているに等しい議論になる」(二十八頁)。ごく率直なたとえであるが、『記』を純朴で史実を多くとどめており、『紀』は潤色が多いという常識に再考を促す指摘である。

 続いて、「極論いたしますと、津田さんは神武東征に本格的に取り組んで日本古代国家の形成を論じるということから逃げられたわけです。それを一足飛びに、これは一種の説話であるということで神武東征伝説を棚上げすることによって、それを歴史の素材からはずし、そのことによって古代国家形成史というものを文献的に追究しようというところから逃げたわけです。逃げたことによって彼の頭の中には仲良しこよしの古代国家ができあがって、これが現在の、語弊があるかもしれませんが、古代史学に連綿と続いているというのが私の考えです」(三十一頁)。これは津田の描いた単一民族的古代史像に対する批判であり、小路田氏『「邪馬台国」と日本人』(平凡社、平成十三年)、若井氏『邪馬台国の滅亡』(吉川弘文館、平成二十二年)などにおいて津田史学批判が詳論されている。若井氏の古代史理解に関する近業としては『「神話」から読み直す古代天皇史』(洋泉社、平成二十九年)があり、極めてユニークな著作であるので、別の機会に紹介したい。

 

三 まとめにかえて

 本稿は、磯前氏、小路田氏、若井氏の研究の簡単な紹介に過ぎないが、戦前からの記紀批判の潮流に加え、ポストモダン的見地からする相対主義懐疑主義の立場の盛行の一方で、記紀研究による古代像の復元という研究スタイルを取る論者も継続して存在していることの一端がうかがえるであろう。

 戦後、古代史研究の進展に伴い、その論調も多様化している。必ずしも戦後の研究を「国家観」を喪失したものとして批判する必要はなく、各論者の業績に素朴に学ぶ必要が大いにあると言ってよい。今後、立ち入って記紀研究の各論を紹介していきたいと思う。