会則ならびに個人情報保護方針を制定

この度、当会では、活動の拡大を受け、明確な規約を制定することによって、会の活動の円滑化を図るため、会則ならびに個人情報保護方針を制定致しました。また、これに併せ、会の活動において取り扱う個人情報の保護についても、方針を明らかにさせて頂きました。いずれも、5月12日に制定され、6月以降に施行される予定です。その内容については、すでに公式ホームページ上で掲載されておりますが、こちらでも掲載致します。

 

民族文化研究会会則 

民族文化研究会個人情報保護方針

 

【関西】定例研究会報告 日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第九囘)――尺八樂

 平成31年4月20日に開催された民族文化研究会関西地区第12回定例研究会における報告「日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第九囘)――尺八樂」の要旨を掲載させて頂きます。

 

 この企劃は現代音樂に滿たされた現代日本人に明治以前の日本の音樂を知つてもらふため、まづは私達自身が詳しくなり傳道していかうと云つた考へのもと始めました。
 今囘は日本音樂の大きなくくりである、雅樂・聲明・琵琶樂・能樂・箏曲・三味線音樂・尺八樂・近現代音樂・民謠のなかから尺八樂に就いて解説致します。下記は今囘解説する項目です。


一、尺八樂の概要 二、尺八の種類・構造 三、普化尺八 四、本曲・外曲と各流派 
五、近世のその他の樂器 六、尺八の近代化

一、 尺八樂の概要

 尺八樂とは、尺八の獨奏あるいは重奏による音樂のことです。現存する流派には明暗流、琴古流、都山流があります。
 まづ最初に簡單に現在の尺八に至るまでの道筋を解説します。古代の中央アジアペルシャで縱笛が生まれ、シルクロードを通つて中國で竹を使つた桐牆となり、それが雅樂とともに古代尺八として日本へと傳はりました。その後、次第に雅樂との關係は薄れ、伴奏・囃子用の樂器として一節切が生まれ、禪の思想と交はることで普化尺八となります。江戸後期から明治期になると筝と三味線と合はせるために、より正確な音程や音量を手に入れる必要にせまられ、現行の尺八が考案されました。以上が日本に於る尺八の概説です。

二、尺八の種類・構造

 尺八と云ふ樂器の名稱はその管の寸法一尺八寸に由來してゐます。唐の時代の中國の呂才と云ふ樂人がつくつた縱笛が起源と言はれますが、十二律にあつた長短十二種の長さの單管で、その一管が一尺八寸であつたため尺八の名がついたとされてゐます。
 日本に於る尺八の種類は古代尺八・天吹・一節切・普化尺八・多孔尺八・オークラウロにわけられます。古代尺八は雅樂尺八ともいい、唐の時代の樂器として傳來し、正倉院に現物が保管されてゐます。天吹は西暦十六世紀頃の薩摩武士に愛好されたと云ふ尺八です。一節切は竹の節がひとつだけの簡單な構造の尺八で、傳説では室町時代に異人のロアンが傳へたと云ふ説があります。流行歌などの伴奏や三曲合奏に使はれました。普化尺八は現行の尺八です。五孔七節で眞竹の根元で作られました。多孔尺八は昭和初期に西洋音樂の影響で考案され、七孔や九孔など複雜な形状になつてゐます。オークラウロはフルートのキーシステムにあはせもつものを考案し、西洋樂器と同質の樂器として作られました。(圖一)
 尺八の各部位は以下のやうな名稱がつけられてゐます。尺八の上方にある穴のことを天口といい、尺八を吹くのに顎が當たる部分をアゴ當たりと云ひます。角は歌口保護のために入れる材料で、水牛や象牙、プラスチックなどの素材があります。嵌め口は角がは云つてゐる部分のことを云ひます。通常は角が入つてゐるのでわかりにくいですが、角を入れるために彫り込まれてゐます。舌は吹き口の山形に整形された部分のことを言ひます。深さは尺八に息を吹きかけたときに、息がエッジ部分に當たるまでの距離のことを云ひます。歌口は天口から深さまでの總稱をいい、中繼ぎは尺八を分割して持ち運びしやすいやうに細工してゐる部分のことを言ひます。節は竹の節の部分を云ひます。指孔は尺八に開けた穴のことをいい、地口は尺八の下方にある穴で、筒音を鳴らします。管尻は一孔下の節から下の部分のことを總稱してゐます。燒印は作者を示すために管に押される印のことです。(圖二)
 普化尺八には二種類あり、地塗り尺八と地無し尺八があります。尺八の管内整形をするときに、砥の粉を水に溶いて混ぜたものを塗り込めて管内をなめらかに仕上げることで、これを地塗りと云ひます。なぜこのやうに塗り込めるのかと言ふと、近代以降西洋樂器のやうに正確に音程を合はせるために、必要に驅られて作られました。しかし地塗りは地無しと比べて音の柔らかさがなくなり、一長一短となつてゐます。

三、普化尺八

 江戸時代に禪宗の一派である普化宗が尺八を法器としてゐました。尺八吹奏は讀經や禪の行と同じと看做され、法要や托鉢、禪行の法器と位置づけ、江戸幕府により一般人が尺八を樂器として吹くことが禁止されてゐました。しかし西暦十七世紀の後半には法器としての建前はくずれ、一般人への尺八教授や他樂器との合奏が行はれます。虚無僧寺が市中に吹合所をまうけ、そこで尺八の教授がなされてゐました。
 普化宗は西暦九世紀に中國で臨濟義玄と交流のあつた普化を始祖とするため、臨濟宗の一派ともされてゐます。普化は神異の僧であり、神仙的な逸事も多く、傳説的要素も強くあります。別名虚無宗とも言ひ、天蓋と呼ばれる深編笠をかぶる虚無僧で有名です。教義や信仰上の内實は殆どなく、前述のやうな活動が主に行はれてゐました。虚無僧の入宗の資格や服裝も決められるなど組織化され、諸國通行の自由など種々の特權を持つてゐたため隱密の役も務めたとも言はれます。江戸幕府との結び附きがつよかつたため明治政府に解體され、宗派としては失はれました。(圖三)

四、本曲と外曲

  本曲とは尺八本來の曲、あるいは尺八だけで演奏するやうに作られた曲と云ふ意味で、それ以外を外曲と定義されてゐます。しかし、各流派により本曲と外曲の解釋は樣々です。近世の尺八は法器と樂器の狹間を行き來してゐますが、普化廢止後の近代に名手尺八は樂器として認識されるやうになりました。幕末から明治期に尺八の新流が續出するやうになつてその解釋も更に變化し、本曲はその流派の獨自の曲やその流派の存在意義を持つ曲をも意味するやうになりさうした新流による獨自曲を意味する近代本曲と云ふ概念が生まれました。
 尺八の流派は現在主に二流派あり、ひとつは關東の兩本山の尺八指南役であつた黒澤琴古が西暦十八世紀頃に基礎を築いた琴古流です。琴古は音樂としての尺八樂を目指し、三十六曲を本局としました。もうひとつは明治期の都山流は、中尾都山が大阪で創始し、獨自の新作の本曲・裝飾旋律の多い外曲編曲など、流祖の新しい藝風を流風の基とします。早くから新日本音樂と提携し,また尺八の大合奏など、新樣式を積極的に開拓して演目を廣げ、短年月の間に關西を地盤として全國的に流勢を擴大し,現在は琴古流とともに尺八界を二分してゐます。(圖四)

五、近世のその他の樂器

 近世は三味線の時代と言はれますが、その他にも樣々な樂器が有りました。それらは樂器固有の音樂を持ち、マイナーながらも現代に根強く繼承されてゐます。
 胡弓は弓を使つて彈く擦絃樂器です。最初に文獻にのつたのは江戸初期で、その起源は諸説があり定かではなく、中國の二胡など胡琴系樂器とはやや縁が遠く、むしろ東南アジアの樂器に近いのではないかと云ふ説。もうひとつは南蠻貿易により齎されたヨーロッパのレベックやヴィオールに起源を求める説もあります。
 似た樂器に二胡がありますが、構造的には大きく異なり小型三味線の形状の胡弓に對して、二胡は木製の圓柱形の胴にヘビ革を張り弓が弦と胴にはさまれてゐます。また、音色や音域、音量も違ひます。
 江戸時代には三味線・筝・胡弓の三曲合奏も盛んに行はれ、歌舞伎の愁歎場などにも胡弓が決まつて使はれました。しかし胡弓の音量の乏しさと構造面からくる演奏技術の限界などから明治以降は尺八にとつてかはられるやうになりました。尺八同樣に本局と外曲があり、獨奏曲もあります。
 一弦琴は中國・インドからの傳來説がありますがこちらもはつきりとしません。別名須磨琴とよび、これは在原行平が須磨に左遷させられ、慰めに庇の板に一弦を張つて作つたのが祖型とされてゐますが、傳説の類だと考へられてゐます。素朴な音色や詞章が憂國の志士にあつたのか幕末の土佐藩で盛んになり、佐久間象山なども愛好したと云ひます。明治になり、江戸では衰微しましたが、京都・高知・須磨などでは今も傳承系統が殘つてゐます。
 二弦琴は複弦であつても同律に調弦されるので、一弦琴から進化したと考へられてゐます。出雲大社の獻納樂器であつたため、出雲琴とよばれましたが、代表的な曲名八雲曲から八雲琴と呼稱されます。もとは竹製のため素材がかはつても、胴中央部に節がまうけてあるのが特徴です。現在は衰微してゐます。(圖五・圖六)


六、尺八の近代化

 江戸初期から明治中期ごろまでの尺八樂の歴史を振り返ると、尺八だけの演奏家筝・三味線との合奏が主流でした。しかし明治の後半以降になると尺八の活躍の場は廣がつていきました。民謠・詩吟の伴奏としての尺八、大衆音樂に於る尺八と多種多樣に使はれ始めました。近代以降のもう一つの流れは新日本音樂運動です。西暦一九二〇年に宮城道雄・本居長世・吉田青風により新たな尺八樂が展開されました。更に違ふ流れとして新邦樂があり、これは西暦一九三〇年代から現れ始め、第二次大戰頃まで續いた邦樂演奏家の出身者が作曲した新樣式のことです。これらにより尺八は三曲合奏の一樂器としての役割から、尺八が主役になつた樂曲が作られるやうになりました。
 第二次大戰以降の動きとしては、西洋音樂の作曲法を學んだ日本人たちが、邦樂器を使つて作曲をしはじめました。これが現代の日本音樂と呼ばれる時代です。西暦一九六〇年代に尺八は流行し、若者たちを熱狂させました。この頃の日本の現代音樂は尺八の時代とも言はれました。代表曲は諸井誠の竹籟五章と武滿徹のノヴェンバー・ステップスです。竹籟五章は現代の本曲として樣々な尺八化がこの曲を演奏し、ノヴェンバー・ステップスは尺八と琵琶の歴史上かつてなかつた二つの樂器の組み合はせによる演奏が行はれました。この年代は尺八樂のルネサンスとよばれることもあります。以降、尺八と洋樂器、尺八と電子音樂などと共演し、外國人作曲家による作品も加へるとおびただしい曲數になります。西洋音樂教育によつて育つた日本人にとつても、尺八は最早特殊な樂器ではなくなつたのです。
 

參考文獻

ひと目でわかる日本音樂入門 田中健次(音樂之友社 平成十五年)
よくわかる日本音樂基礎講坐 福井昭史(音樂之友社  平成十八年)
日本の傳統藝能講坐 音樂 小島美子(淡交社 平成二十年)
まるごと尺八の本 葛山幻海(青弓社 平成二十六年)

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尺八楽 解説図

【関西】定例研究会報告 神道芭蕉派の登場――明治初年の宗教界と「俳諧系神道結社」

 令和元年5月18日に開催された民族文化研究会関西地区第13回定例研究会における報告「神道芭蕉派の登場――明治初年の宗教界と『俳諧神道結社』」の要旨を掲載します。

はじめに

 ここに、多様性を指摘される神道の一様相として「神道芭蕉派」と称する、一見特異に見える教団について紹介したい。従来、神道史研究においてこの教団は明治期に誕生した教派神道の一傘下教会として名が上げられる。一方の俳諧史研究では、正岡子規ら「新派」の登場により駆逐された「旧派」における一つの動きとして先行研究がなされている。これら先行研究を参考にしつつ、教団の歩みを辿ってみたい。

俳諧師の教導職登用

 明治三年一月三日、大教宣布の詔が発布された。祭政一致を目指し「宜く治教を明らかにし、以て惟神の大道を宣揚すべき」とのこの詔により、前年に神祇官内に設置された宣教使による大教≒神道の布教活動が本格的に始動する。ところが宣教使による布教は人員不足と内部の派閥争いにより効果を上げられず、明治五年三月には神祇省が廃されることになった。代わりに教部省を設置し、全国の神官と僧侶を教導職に任命して宣教に当たらせる神仏合同布教が始まった。東京芝の大教院を教導職の総本山として各地に中教院、小教院を設置し、そこで神官や僧侶の教導職が説教を行う。敬神愛国、天理人道、皇上奉戴・朝旨遵守といった三条教憲を中心に国民を教化し、キリスト教防衛と国民の道徳心・愛国心向上を目指した。この運動は宣教使時代よりは目に見えた活動ができている。

 さて、教導職制度が始まって約一年後の明治六年三月三十一日、曹洞宗永平寺管長の大教正・久我環溪が、俳諧師を教導職に任命してはどうかとの建白書を大教院に提出した。『教義新聞 第廿五号(明治六年八月)』に掲載された内容によると、俳諧師、特に「芭蕉派ト唱フル者」は「専ラ道学ニ心ヲ寄セ人倫ヲ正フシ」ているとして、「宗匠ト唱フル者ヲ挙ゲテ教導職ヲ命シ」、教導に尽力せしめてはどうかと述べている。環溪は当時江戸三大家と称されていた俳人の関為山、鳥越等栽、橘田春湖を推薦していて、この三名は五月三日に「訓導」として教導職に就任している。

 この建白の一ヶ月程前の二月十日には、神官僧侶に限らず有志の者を教導職に任命しても良いとの教部省通達が示されており、環溪の建白はこの通達に関連するものと考えられる。この時期は教導職の人員確保のために様々な提案がされた時期でもあった。同年一月八日には「陰陽師易者観相墨色判断者」や「軍談師並落語家」などを教部省の管轄とすべきとの伺書が教部少輔黒田清綱と大輔宍戸璣の連名で正院に提出されている。陰陽師は明治三年閏十月十七日の「天社神道土御門家免許を禁ス」との太政官布告で廃止されていたにも関わらず「施教ノ一助ナルヘシ」と俎上に載せられており、土御門家では無く教部省が新たに免許状を交付した上で教導職にするといった内容である。次いで軍談師や落語家は「敬神ノ道ヲ主トシテ談説ヲ致セシメバ」これまた施教の一助となるとしている。この伺書にはその他にも戸長や盲目者も教導職として動員することを謳っており、教部省が国民教化拡大のための人材確保に動いていたことが分かる。結果的にこの伺書は左院で「不被及」と否決されたが先述の通り神官僧侶以外を教導職する通告は出されることとなった。

 また先述の推薦の三名とは別に大教院で俳諧師の教導職試験が行われている。明治七年、三日間に渡って口述・筆記の試験が行われた結果、三森幹雄、鈴木月彦の両名が合格した。推薦により無試験で教導職となった「三大家」に対して、実力で合格した若手の三森幹雄らはこの後、俳壇でも宗匠達と比肩されるようになる。

 こうして俳諧師から教導職を輩出したことは、俳壇にとって喜ばしいことであった。俳諧師は江戸時代を通してある種の遊民で他の文芸活動からは下に見られており、教導職として国家の認定を受けたことで、俳諧師達の立場は向上したと言える。

 ところで明治六年八月二十四日には「教会大意(教部省通達番外)」が定められている。これにより「黒住吐普加美富士御嶽不動観音念仏題目等」の講社や教会について、教部省の許可を得れば設立できることになった。教導職は無給であり教化活動を自弁で行っていたため、神官や僧侶の教導職は自ら所属する寺院や神社の崇敬講社を申請することで教化活動を行うための費用や人員を確保するようになる。また「教会大意」は後の教派神道や中小規模の宗教団体が教会として政府の公認を得るきっかけにもなった。

 俳諧師側も同様で、教化活動のための組織・講社を作りはじめる。

 明治七年四月に関為山、鳥越等栽、橘田春湖の三大家により「其流派ノ徒ヲ鼓舞シ布教」するため、「俳諧教林盟社」が設立された。それまで俳諧師宗匠の許に集まる門人らによってそれぞれ流派が形成されており、こうした組織として編成されたことは画期的だった。やや遅れて明治七年七月二十日、三森幹雄も「俳諧明倫講社」を創設する。八月十三日に権大講義・鳥居亮信により結社願が提出され、八月十五日に権大教正・鴻雪爪、稲葉正邦から「差支これ無く」との添え書きを得て進達、八月二十日「願之趣聞届候事」と許可を得た。同月には『明倫講社規約』を刊行しているが、内容は「御教憲三則ノ大旨」を謹守して国教を更張すること(第一条)や、教会大意に基づいて助け合うこと(第二条)、「毎朝四柱大神産土神ヲ始メ皇上ヲ拝シ次ニ我信スル所ノ神ヲ拝シ又祖先ヲ拝」して異端を信仰しないこと(第六条)、毎月三日は説教をすること(第九条)などが盛り込まれているが、同時期の他の講社の規約と比べても特別変わったことは無く、俳諧に関してはわずかに「遊学」という俳諧行脚を指す言葉が使われている程度である。

 しかし同じく明倫講社の『俳諧社中内規約』では第一条に「祖翁ノ言行ヲ旨トシ物理ヲ明カニシ俗談ヲ正シウシ和ヲ専務トス可事」とあるように俳諧の大家・松尾芭蕉への崇拝が鮮明となっている。また三森幹雄は俳諧の旧習・悪習とされていたものをこの機に刷新しようと考えていたようで、第六条で俳諧行脚をする際には証書を持つべきことと定めていたり、第七条で点取俳諧の景品に「高価ノ景品」を出すことを禁じている。このことから越後敬子氏の研究では「政府が国民教化に有用として俳諧師を利用しよとしたのと同様に、幹雄・明倫講社も俳諧改良のために政府の国民教化策を利用していた」としている。

 『明倫講社規約』はともかく、この『俳諧社中内規約』はやはりもの珍しかったようで、幹雄がこれを大教院に提出した際には受付の者と内容について多少の問答があった。規約中の俳諧云々の語はいらないのではないか、十七文字で三條教則を説けるものなのかといった質問に対し幹雄は明倫講社が俳諧によって団結する結社であることを説明し、芭蕉の句「春たちて まだ九日の 野山かな」から三條教則を絡めた講釈を行った。幹雄によると「この句は天理の怠りなきと人の油断とを掛合わせて天理を尊み人を憐れみたる発句なり」と解釈ができるという。まくしたてる幹雄に対し受付は返す言葉がなく、規約を受理した。

 この他にも、「大津絵の 筆のはじめハ 何仏」という句は「題書ニ三日口ヲ閉正月四日ニ題ストアリ是ハコレ三ヶ日ハ松竹ヲ立注連ヲ張神国タル行ヲ成ス大切ナ日ジャニ依テ何仏ト云言葉ヲ忌テ四日ニ題スト書レタル者デアル」、「父母の 頻りに恋し 雉子の声」の句は「人ハ死するまで父母の恩愛を忘れざるを孝とハいふ也」「此御山ハ亡き人の遺骨を収め戒名をとヽめて永く祖先の冥福を祈る霊場なるに雉子の声の悲しく人を驚かすに扨々父母の恋しき事よと追慕の情をおこしたる事でござる」というように明倫講社では祖翁=松尾芭蕉の発句を三條教憲を中心とした教導職の教義的に解釈していた。

 また自らが発句を詠む場合にもこうした傾向が導入され、鈴木月彦の「向日葵や 暮れハ明けて 東むき」の句が「道不可変」を俳句化したものとして推賞されている。

 こうして登場した俳諧の二大結社であったが、為山らの教林盟社は「三大家」をはじめ年齢層が高く、幹雄の明倫講社はそれに比べると比較的若く新進気鋭が集まっていたようである。

明倫講社と教林盟社の対立

 この頃は教導職全体にとっても波乱の時期であった。前年の明治六年十月から始まった島地黙雷浄土真宗を中心とする大教院離脱運動がますます盛んになり、十二月大晦日には大教院が炎上し灰燼と帰した。明治七年は大教院離脱運動に浄土真宗の内部紛争まで加わって混迷を極め、ついに明治八年五月三日、神仏合同布教が差し止めとなり大教院制度は崩壊した。ただし教導職制度自体は残っている。僧侶の教導職はそれぞれの宗派本山の所属として布教活動を行う従来のスタイルへと戻ったが、神道教導職側には総本山が無いため、大教院の後継組織として「神道事務局」を立ち上げることを合同布教差し止め前から画策し、三月二十八日に教部省から許可を得ている。以降、神道教導職はこの事務局を中心に布教活動を行うようになる。

 このような時代背景の中、林教盟社は教化活動にあまり熱心では無かったらしい。明倫講社が積極的に開化思想を取り入れ、俳諧を道義を説くものとして布教しようとしていたのに対し、教林盟社は江戸時代から続く風雅を詠む伝統が残っていたようだ。活動としては設立後に句集『真名意』を発刊しているが、この序文には桜井能監が寄稿している。能監は天保の三大家の一人で「花の本宗匠」と呼ばれた桜井梅室の長男であり、伝統を重んじる宗匠達の保守的な姿勢が見受けられる。また明治十三年十月十二日には「芭蕉祭」を執行した。この際に『時雨まつり』なる小冊子を配ったようで、この他に教林盟社の目立った活動は特に見受けられない。

 対して三森幹雄の明倫講社は活発だった。明治十二年一月には雑誌『俳諧新報』を創刊している。「祖翁今世に在さばこの道の大教正たらんこと何の疑かあらん」(祝詞)「論説喩言に亘るものハ専ら勧善を主とし風流浦灑に出る者も多くハ節義に倚らしめ江湖青年輩をして近く敷島の道をさくるの階梯となさんとす」(緒言)、「我俳諧ハさすがに和歌の一体にて人心協和の要道なり」(賀正風社起立文)とあるように、俳諧が勧善懲悪・人心協和を説く「敷島の道」であることを宣言しており、三森が俳諧を風教的なものにしようとしていることがここでも伺える。しかし「僅カニ十七字ノ中ニ人倫ノ大道アル事ヲ認知セズ只徒ニ風月を伸吟シテ塵事ヲ俗ナリト賤シメ異体ヲ風雅ト心得ルノ族今尚ホナキニ非ルハ挙テ嘆スヘキ事ニアラズヤ」(「祝詞俳諧新報、明治十二年三月)とあるように、当時の俳壇では花鳥風月を詠むことが俳諧の風流だとする者も多かった。

 また明治十三年の十一月十四日には「花の本大明神例祭」を三森が祭主となって開催している。二十一日には大信寺で「惺庵西馬二十年祭」を同じく三森が祭主となり開催しているがその際、三森を含め教導職は神職の格好をしていたという。

 こうして雑誌発刊や祭事を行うことで俳諧の旧習を一新しようとしていた三森幹雄だが、「古老」の多い教林盟社もまた三森の攻撃対象となった。

 明治十三年十二月には新たに『明倫雑誌』を刊行しているが、翌年四月にこの誌上で教林盟社の代表だった橘田春湖の『芭蕉翁古池眞伝』を「真伝にあらず」と批判、春湖が多忙を理由に答弁を渋るとすぐさま翌号で追撃している。

 対して教林盟社側では先の「花の本大明神例祭」で三森が神職の格好をしていたことを挙げ、俳諧を神式で行うことは偏見であり明倫講社は神道説教場であって新聞屋俳諧の徒であると批判していたらしい。この陰口に対して鈴木月彦は「俳諧者流の教職を仰ぎ結社するは、国のため道のためにして、神に君に真心を以て仕へ奉り、終身教導に従事するがもとよりなれば、何社と唱え、何派といふとも、俳諧者流はかの古池の流れを汲まざる者なく、神道の道を遵守せざるものなし」と反論し、芭蕉を祖神として祭る明倫講社の立場を訴えている。

 両社の対立の影響は大きく、勝峯晋風『明治俳諧史話』には明倫講社の鈴木月彦の弟子だった松本蔦斎の語った俳諧師が教導職に登用された頃についての話が残されている。

 「いざ、試験と聞いて教養のない宗匠はみんな狼狽したさうです。さうでせうとも不合格になれば金看板の箔がへぎ落されて了ふのですからね。春湖や爲山は遊歴に名を藉りて地方へ行脚に出掛けたと云ひます。庵中に引込んで居留守を使つた宗匠もあつたさうですよ。月彦と幹雄とが登用されて、教導職試験係をも命じられたのですが、これまでの顔に免じてそれは勘辨してもらへまいかといふので、表向は試験をした事として爲山、春湖も教導職になつた譯でした」

 しかし実際は三大家が推薦で教導職となったのは幹雄の教導職就任以前であり、幹雄が教導職の試験監を担当したとは考えられない。このような話が出る程度の対立が発生していたのである。ただ、両社の社員はお互いに句会でよく顔を合わせており、合同で演説会や説教をよく行っている。演説会は、教導職が民衆教化によく使う手段であった。

神道芭蕉派の登場

 教導職を管轄していた教部省は明治十年に廃止され、後継として内務省社寺局が設置された。そして神道界が祭神論争を経た明治十五年一月二十五日、政府はこれまでの方針から転換して神官と教導職の兼務を禁止し完全分離を行った。これにより、兼務していた者は公務員として神社に奉職する神官となるか、もしくは宗教家として教導職を続けるかが迫られるようになる。明治十四年の内務省伺に記載されたように教導職は「宗教者ニ付スルノ職名」程度の肩書となっていた。仏教側の教導職はそれぞれの宗派が管轄し、神道側の教導職はこの年までに公認を受けていた黒住派、修成派、神宮派、大社派、扶桑派、実行派、大成派、神習派の傘下に入るか、神道事務局の直轄を受けるようになる。いわゆる教派神道の成立段階であるが、僧侶では無かった俳諧教導職もまた、いずれかの神道教派の傘下に入らねばならなかったようである。

 当時、橘田春湖が社長となっていた教林盟社は、明治十六年四月頃に平山省斎の起こした大成教の傘下となったようだ。明治二十三年の『神道各教派職員録』の中には、神道大成派の少教正の欄に「小野又右衛門 東京府平民」とあり、これは明治十九年に社長を引き継いだ小野素水の本名であろう。大成教は様々な講社・教会を受け入れた教団だが、平山は明治十八年に『俳教真訣』を刊行して「古池や蛙飛古む水の音此一句ハ芭蕉翁佛氏の所謂正法眼蔵涅槃妙心を悟得て之を十七文字に発せり」と芭蕉を称賛しているあたり、神道側へ所属した俳諧系講社にも理解を示していたようだ。

 対して明倫講社は社内で協議を行った。その結果「祈祷呪詛等を成者と同視せられむこと本意なければ、今般一万人以上の社員を募集し、俳諧神道派と云一派官許を蒙らむと決議せり。」(「神道俳諧派開設之説」『明倫雑誌』第三十四号、明治十六年十月)との結論に至った。こうして一万人の社員獲得に向けた運動が始まったが、江戸時代には既に各地に俳諧文化が根付いていたこともあり、翌十七年には既に社員一万人を獲得していたようである。ところが明治十七年八月十一日の太政官布達により教導職制度自体が廃止された。三森は教導職制度が無くなったにもかかわらず、神道枠内での教会の設立を邁進した。

 そして明治十八年三月十日、三森幹雄は明倫講社を「神道芭蕉派明倫教会」とする願書を提出、翌十一日に神道(本局)管長の稲葉正邦より「神道芭蕉派明倫教会ヲ六等トナシ証章ヲ与フル者也」との認可を得たのである。

 こうして神道本局の直轄教会として「神道芭蕉派」が誕生した。

 明治十九年四月には蕉風明倫教会と名称を変更している。先に紹介した『職員録』にも神道本局直轄の蕉風明倫教会の教会長として三森幹雄(少教正)の名が見える。

 しかし三森の俳諧神道の融合路線には批判も多かった。これに対し「芭蕉は天下の万民を和さしめ」た一道の祖であると著書で反論している。

 神道芭蕉派の結成後も三森は神道本局管長の稲葉正邦と共に巡教に出掛けるなど積極的に活動した。中でも力を入れたのは明倫講社結成の理由でもある俳諧の旧習一新だった。

 明治二十二年には俳諧矯正会を設立し俳諧界全体の改良を目指したが、そのためには教林盟社との提携も必要だと考え、会の本部を盟社側に置いても良いと協力を持ち掛けた。しかし盟社側には未だ伝統を重んじる者の多いため手紙で丁寧に拒絶されている。

 また明治二十六年の芭蕉二百年忌の際には芭蕉を祀る祠宇の建設を思い立ち、東京深川の地に芭蕉神社を建立している。十月十九日に行われた祭典には大成教の磯部最信管長や教林盟社の小野素水社長などが参加している。この時点で既に三森は大成教に近づいていたようで、翌年には明倫雑誌などの業務を養子の三森松江に譲り、芭蕉神社維持のために大成教古池教会を創設した。ここから『文学心のたね』という雑誌を発刊し、その購読料で神社の維持を行うとのことだったが、この雑誌は後に『明倫雑誌』と合併した。なお芭蕉神社は関東大震災東京大空襲という二度の厄災を経て消滅している。

 そして、この芭蕉神社建立の時期から「芭蕉如何に大俳家たりしとも其俳句皆金科玉条ならんや」と宗教団体設立までいった芭蕉崇敬の姿勢を「(評価しているのは)俳諧宗の開祖としての芭蕉にして文学者としての芭蕉に非ず」と批判する「日本派」の正岡子規が登場して写実主義の時代が到来し、俳諧に教訓を見る「旧派」は徐々に俳壇で隅に追いやられていくのである。

 

俳諧神道結社のその後

 ここまで神道芭蕉派なる教団の登場までを追ってみた。神道側の国民教化という要請と、俳諧側の旧習一新の思惑が合致した結果生まれた神道芭蕉派だったが、その隆盛は明治二十年代までだったようである。明治初期には明倫講社や教林盟社に限らず、曙庵虚白の水音社(大成教)や雅風教会(神道本局)など各地に多くの俳諧系の教会・講社が作られた。三大家の一人、鳥越等栽は晩年に教林盟社及び大成教を離脱して大社教の傘下で「花之本講社」を設立している。これら俳諧系教会は教導職制度の崩壊や正岡子規らを中心とした文芸としての俳句が広まると、その活動は徐々に終息していったようだ。一時期は俳壇の中心となっていた『明倫雑誌』は子規が名声を得た明治三十年代になってから徐々に投稿俳句数が減っており、三森死後の明治四十五年に廃刊となった。明倫講社も昭和九年の時点で「大日本天照教会」という名称になっており、詳細は不明ながら俳諧講社から脱皮したような名称となっている。

 大正三年の『神道教祖伝 : 霊験奇瑞』には大成教について神道系の教会が結集した教団として紹介しているが、その中でも淘宮術と共に「俳諧の一派の如きをも」と名指ししているあたり、この時既に俳諧系の講社が珍しくなっていたことが推測される。

 三森幹雄は維新前より俳諧だけでなく国学や禅、漢学など幅広く学んでいた。そして、「俳道」は「神仏儒三道の本を知る道」という信念を持っていたという。そもそも「俳禅一致」の言葉や『芭蕉翁古池眞伝』に代表されるように、十七文字の中に教訓や大道があるという考えは芭門俳壇に存在していた。江戸後期には心学や仏教との接近があった。だからこそ曹洞宗の久我環溪は俳諧師、特に「芭蕉派ト唱フル者」を「専ラ道学ニ心ヲ寄セ人倫ヲ正フシ」ている者として教導職に推薦したのである。そして江戸期から明治期に、仏教から神道に権威が移るのと同時期に、俳壇もまた時代の要請に応じて神道へと傾斜していったように見える。

 神道芭蕉派に代表される神道俳諧結社は、その珍妙な名称と、俳諧神道の接合という一見奇妙な形態から不可解に思えるかもしれない。しかし俳諧が教えを含むべきものと見なされていた明治二十年代まではその形態を多くの俳諧師が受け入れ、俳壇の中心をなしていたのである。

主な参考文献

勝峯晋風『明治俳諧史話』(大誠堂、昭和九年)

関根林吉『三森幹雄評伝 三十余年幹雄研究の結晶』(遠沢繁、平成十四年)

川島正太郎編「三森幹雄氏畧傳」(『現今名家書画鑑』真誠堂、明治三十五年)

村山古郷『明治俳壇史』(角川書店、昭和五十三年)

松井利彦『近代俳論史』(桜楓社、昭和四十年)

越後敬子「明治前期俳壇の一様相―幹雄の動向を中心として―」(『連歌俳諧研究 第八七号』俳文学会、平成六年)

加藤定彦「教導職をめぐる諸俳人の手紙―庄司唫風『花鳥日記』から―」(『連歌俳諧研究 第八八号』俳文学会、平成七年)

秋尾敏「<研究ノート>教林盟社の成立」(『短詩文化研究 五』短詩文化学会、平成二十四年)

遠沢繁「俳人三森幹雄の生涯とその活動について」(『石川史談 十六号』石陽史学会、平成十五年)

冨田和子「名古屋『雅風教会規約』にみる教導職制度の影響」(『椙山国文学 三三号』椙山女学園大学国文学会、平成二十一年)

青木亮人「「祖翁」を称えよ、教導職ー明治の俳諧結社・明倫講社と『田中千弥日記』について」(『同志社国文学 七十一号』同志社大学国文学会、平成二十一年)

鹿島美千代「明治期における美濃派-芭蕉二百回忌を中心として」(『桜花学園大学人文学部研究紀要 一三号』桜花学園大学、平成二三年)

安丸良夫宮地正人 校注『日本近代思想大系 五 宗教と国家』岩波書店、昭和六十三年)

神崎一作『神道六十年史要』(宣揚社、昭和九年)

西川光次郎『神道教祖伝 : 霊験奇瑞』(永楽堂、大正三年)

高山大枝丸『神宮官国幣社・皇典講究本分所・神道各教派職員録』(明治二十三年)

林淳「明治五年修験宗廃止令をめぐる一考察」(『禅研究所紀要第三十号』愛知学院大学禅研究所 、平成十四年)

 

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(『読売新聞 明治十九年一月十五日号』に掲載された神道芭蕉派の広告)

【関西】定例研究会のご案内

 

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次回の民族文化研究会関西地区定例研究会は、下記の要領にて開催します。万障繰り合わせの上ご参加ください。

民族文化研究会 関西地区第13回定例研究会

日時:令和元年5月18日(土)17時30分~19時30分
会場:貸会議室オフィスゴコマチ 411号室
京都府京都市下京区御幸町通り四条下ル大寿町402番地 四条TMビル
http://office-gocomachi.main.jp/
会費:800円
​主催:民族文化研究会関西支部

【東京】定例研究会のご案内

 

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次回の民族文化研究会東京地区定例研究会は、下記の要領にて開催します。万障繰り合わせの上ご参加ください。 

民族文化研究会 東京地区第21回定例研究会

日時:令和元年7月21日(日)15時30分~18時
会場:早稲田奉仕園 セミナーハウス1階 小会議室102号室
東京都新宿区西早稲田2‐3‐1
https://www.hoshien.or.jp/
予定報告者:小野耕資(本会副会長・大アジア研究会会長)「権藤成卿の君民共治論」
      田口仁(里見日本文化学研究所講学生)「失われた調整型政治家 竹下登
会費:1000円
​主催:民族文化研究会東京支部
備考:この研究会は、事前予約制となっております。当会の公式アドレス(minzokubunka@gmail.com)までご連絡ください。また、会場の開室は15:30になります。それまではセミナーハウス内のラウンジにてお待ちください(今回は、開始時刻、部屋が異なりますのでご注意ください)。

新たな御代を仰いで――「令和」時代への展望

 御代替わりと改元が行われ、われわれは新時代「令和」を迎えました。われわれは、この新時代「令和」に、いかなる展望を描けばよいのでしょうか。新たな御代を仰ぎ、いかに国民的自覚を涵養し、来るべき国家社会を建設していけばよいか、会として下記の声明を採択し、指針を示すこととしました。

 

新たな御代を仰いで――「令和」時代への展望

 新たな御代「令和」を迎えるにあたって、まず第一に、上皇陛下・上皇后陛下が歩まれた三十年以上にわたる困難なお足取りとご姿勢を衷心から敬慕し、こうした上皇陛下・上皇后陛下の在られ方を、われわれ日本人の生活上・道徳上の模範として仰ぎ奉りたい。これを踏まえ、今上天皇皇后陛下を仰ぎつつ、「令和」という新時代を建設していかなければならない。

 顧みるに、「平成」は、災禍や不幸が重なった時代であった。上皇陛下の「おことば」にもあったように災害が頻発したことに加え、かつてない経済恐慌と地球規模のグローバリズムの拡大、そして何より我々が依って立つ「日本」という存在そのものが危うくなりつつある、そうした時代であった。然るに、畏れ多くも、これから迎える「令和」の御代が、後世において闇黒の時代のはじまりであったと評されるのか、また希望と復活の時代であったと記されるのか、定かでない。不遜ながら、それはわれわれ日本人の行動にかかっていると言えよう。

 思うに、個人としてのわれわれは実に卑小な存在である。「主体的に」風土や環境から切り離された自己を生き、世界を創りかえるなどという考えは増上慢ともいうべき思想であり、まさしく「さかしら」であると考える。我々が生きる俗世は常にカミのまにまに、風のまにまに存在するものであり、ときにその狭間で苦しみ、或いはのた打ち回り、生きることだけが人間に許されている唯一の道である。

 だとしても、それはただ世界に対して受け身であれ、ということではない。自らの存在の矮小さを認めながらも、常に世界に対して闘いを挑んでいくことこそが、我々が目指すべき途であり、常に古くて新しい「日本」を産み育てていくことにほかならない。日本神話では、万物を生成する大いなる力の働きを「産霊(ムスビ)」と言い表す。我々は「日本」という糸をつなぎ、織り、時には切り離し、そして「むすんで」いく。それは根底に柔らかかつ強靭な思想が常に躍動しており、頑迷固陋なイデオロギーとは無縁である。

 言い換えるならば、われわれは「日本」という糸を織る機織工であり、道無き荒野を行き、道を踏み固める先覚者であり、カミを畏れ、かつ護り、また育てる祭人(まつりびと)であらねばならない。そして何よりこの日本の上で産まれ、生き、死んでいった数多の先人の御霊を鎮め、祀り、その意思を引き継いでいかねばならない。

 われわれ日本人は、両陛下を仰ぎつつ、歴史を踏まえながら、あるべき未来を紡いでいかなえければならない。それが行われるのは、まさしく「今この瞬間」である。膨大な「今」を積み重ねていくこと、これこそ、我々がカミの道を生きるただ一つのあり方ではないだろうか。そしてこれこそが「中今」ということの本質ではないかと愚考する。

 当会は、かかる理念の下、その活動を通して、来るべき令和時代の新たな日本建設へと貢献せんと企図する。われわれは、カミの道における「中今」思想を上記の如く理解し、かつ実践するものである。

 

天皇皇后両陛下万歳

 

いざ子ども狂業なせそ天地の

     堅めし国ぞ大和島根は  藤原仲麻呂  万葉集

 

令和元年五月一日 民族文化研究会

 

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元号「令和」を公表する菅官房長官

 

【東京】定例研究会報告 フランスと日本の刑事司法制度の比較・平成の大嘗祭

 平成31年4月28日(日)14:00~18:00、民族文化研究会東京地区第20回定例研究会が早稲田奉仕園にて開催されました。

 第一報告は、輿石逸貴氏(本会会長・弁護士)による、「フランスと日本の刑事司法制度の比較」でした。ゴーン氏逮捕を受け、フランスの司法制度に比べて日本の司法制度が劣悪だと報じられる傾向があるなかで、そういった認識は実態に照らすと誤解が多い旨を指摘しました。

 第二報告は、古屋鶴之助氏による、「平成の大嘗祭」でした。大嘗祭について造詣の深い氏により、大嘗祭の来歴、明治期における法制化、折口信夫大嘗祭論に対する疑義、葦津珍彦、上田賢治両氏の大嘗祭に関する論争など、興味深く、また現代的意義の深い論点が多く提示されました。

 今回は新しい参加者も迎え、懇親会も盛り上がる賑やかな会となりました。今後も、一定以上学問的・専門的な関心を持ちつつ、参加者が面白いと思えるような会運営を心掛けたいと思います。関心のある方はお気軽にご参加下さい。(事務担当・渡貫)

 

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輿石氏の講話風景