【関西】定例研究会報告 神道の現代的再生に向けて――『現代思想増刊 神道を考える』を中心に

 平成30年6月3日の民族文化研究会関西地区第2回定例研究会における報告「神道の現代的再生に向けて――『現代思想増刊 神道を考える』を中心に」の要旨を掲載します。

 

はしがき

 

 「神道」とは一体何なのか。この問いに対して、統一した答えは未だに存在しない。日本を戦争に引きずり込んだ悪しき前近代的イデオロギーなのか、はたまた環境保全につながる「エコな」思想であるのか、古代から連綿と続く日本人の土俗的信仰であるのか。百人いれば百通りの神道観が存在しうる。あらゆる宗教、もしくは思想は多様な解釈が存在するものであるが、神道の場合はその解釈の数も幅も膨大である。なぜそうなってしまったのか。

 一つには、神道がそもそも教義経典を持っていなかったことが挙げられる。記紀神話、あるいは風土記のようなテキストは存在するものの、キリスト教における聖書、イスラム教のコーラン、仏教の諸経典の存在とは明らかに異質である。「神道非宗教説」が唱えられる理由の一端がここにあるわけだが、それだけでは神道の抱え込む世界がなぜここまで大きくなったかの説明としては不十分である。

 日本の中世には神話の様々な解釈、読み替えが行われた。また偽書の類も大量に編まれ、荒唐無稽ともいえるような多様な日本神話、あるいは神道の姿が生み出された。これらは学術用語で「中世日本紀」と呼ばれているが、中世では古事記日本書紀は必ずしも絶対的なテキストではなかった。むしろ多様な神道、神話の中の一つであったと表現したほうが適切であったろう。神道はある意味カオスとも言える中世日本紀の世界を経由したからこそ、膨大な解釈が編み出される余地を有しているとも言いえるのである。

 さて、昨今この「中世日本紀」の研究が思想史学、民俗学歴史学等の分野で急速に進んでいる。その背景には、近世を経て近代に至り、国家の統制の下で単一的な読み方に再構成された記紀神話もしくは神道に対するアンチテーゼとして、中世の「豊かな」神話群を読み直していこうとする意志がある。当然ながら、その営みからは「国家」や「民族」なるものは排斥される。

 神道を現代に通用する宗教もしくは思想として近代以前のテキスト群を読み解く営為は不可欠であるのは確かである。しかし、ではどのような方向性を持ちつつ、それを行えばよいのか、本稿はそのための手がかりを多少なりとも示すために書かれたものである。

 そのために、本稿では平成二十九年二月臨時増刊号として発行された『現代思想 神道を考える』に所収された対談、「歴史としての神道神道の可能性を考える―」を適宜引用しつつ、「神道」がいかに現代に再生できるかを考えていきたい。

 

対談「歴史としての神道神道の可能性を考える」を中心に

 この対談は伊藤聡・昆野伸幸・斎藤英喜・永岡崇ら四人によって行われた。この四人はいずれも思想史学、歴史学民俗学あるいは神話学といった各方面のトップランナーといっていい顔ぶれである。また中世・近世・近代と、専門とする時代区分は違えども、近代以降の神道を相対化しようとしている点は共通していると思われる。

 対談では、神道が超歴史的に存在した日本人の伝統的心性ではなく、時代によって様々に変貌してきたことをまず指摘する。伊藤聡は近著『神道とは何かー神と仏の日本史』の反応が中世日本紀をも神道の持つ多様性の産物である、とする捉え方が多かったことに対し反感を示し、以下のように述べる
  
  伊藤:(略)神道というのは日本だけに閉ざされたものではなくて世界に開かれた宗教という文脈でとらえかえされてしまった。(中略)むしろ、さまざまな要素を取り込みながらも、最終的に日本固有ということに落ち込んでいってしまうということこそ、神道が孕んでいる問題なのだ、と思っています。

 

 ここには「神道」を日本固有のものとして捉える見方そのものに対する伊藤の拒否感がはっきりと表れている。つまり伊藤が考えている「神道」とは「日本」を前提としていないのである。

 その議論を引き継ぐ形で近代の国体・皇国史観の再検討を行っている昆野伸幸は

 

  昆野:(略)国家神道皇国史観と呼ばれるものの実態は実はもっと多様で色々なバリエーションがあったと私は考えています。ですから、近代の神道を旧来の一枚岩的な形で見るのではなくて、多様性のほうを重視して見ていく必要がある。(略)皇国史観と言われるような歴史観も極端な話をすれば『古事記』や『日本書紀』の神話を都合よく解釈した大きな意味での近代神話あるいは偽史のひとつと言ってもいいかと思います。

 

 昆野は近代以降の国体もしくは神道を単一のものとして見る見方そのものに疑義を呈している。この発言を受けて斎藤英喜は「皇国史観も「偽史」であるというのは非常に重要な指摘だと思います」と賛意を示している。
 斎藤はこれらの議論を踏まえつつ

 

 斎藤:(略)神話テキストを注釈・解釈していく行為を通じて、記紀神話を超えてしまう、新しい「神話」の可能性があるのだと。こうした神話解釈史の運動は、中世のみならず、近世の宣長や篤胤、重胤などの国学者などの注釈世界、さらにそれを近代の「学問」として展開させていった折口信夫のなかに見いだせるわけです。

 

 と中世日本紀のような多様な神話解釈に可能性を見出し、その延長上に折口信夫を位置づける。実際、斎藤はこの対談でも神社本庁を設立し、戦後唯一の神道思想家として活躍した葦津珍彦を折口と対比し、折口の側に積極的な価値を見出している。斎藤はこの対談集の他に「神道大嘗祭・折口 ―<神道>はいかに可能か―」にて折口の神道観を分析し、「敗戦後の折口信夫の「神道宗教化」の議論は、神道という「民族教」を基点としつつ、それを超克する「人類教」をめざした、大いなる思考実験でもあった。神道なるものに附着する天皇、宮廷、先祖崇拝、多神教的な習俗の一切を脱却した、宗教としての極北の地平へ」と結んでいる。斎藤は折口の神道観を中世日本紀の系譜を引き継ぐものとして捉え、「日本」を排除した神道を志向している。

 さらに対談で伊藤は「神道が自然崇拝を本質とするというのは看板に過ぎないと前から思っている(笑)。」と発言。この発言を受けて斎藤も「神道の側はグローバリゼーションを批判できないから原発も批判することができない。常に相互補完になっている」と現代の神道を批判している。対談者全員は神道の再生とグローバリゼーションとの対決という点では一致しており、現代の神道はその任に堪え得ないと見なしていると思われる。

 以上、本稿で神道を考える上で重要と思われる箇所を対談から抜き出して論じてきたが、この対談全体を通してみると近代以降の画一化した神道を中世日本紀や折口の神道観に依拠しつつ相対化、乃至は乗り越えようとする意思はおおむね共通している。神話の多様な読み替えによって「近代」なるものの宿唖を超える「何か」を志向しているのである。私も基本的に、その手法自体には賛成する。しかし、「中世日本紀」という解釈群が生まれた背景には中央の権威や権力が徹底的に零落もしくは破壊された「中世」という時代があったという事実を見逃すわけにはいかない。

 この中世という時代は洋の東西を問わず様々な思想や宗教、神々や仏が互いの正当性を賭けて苛烈にぶつかり合う混沌の世界であった。その世界に互いが互いを認め合う「多様性」なるものは一切存在しない。

 21世紀は過激派イスラム勢力のアメリカへのテロで幕を開けた。現在に至るまで、世界各地であらゆる宗教・宗派が生存のために、己の信ずるもののために激しい闘争を続けている。その意味でまさしく現代は「新たな中世」といえる(もしくは先進諸国では現代は「神無き中世」とも表現できるであろう)。日本の中世社会の混沌ぶりを象徴する「応仁の乱」を題材とした呉座勇一氏の『応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱』がベストセラーになったという事実はまさに世界の中世化を人々が肌身で感じていたからではなかったか。

 むしろ混沌とした中世という時代が生んだ中世日本紀と呼ばれる多様な神話の解釈群は現代のグローバリズムやそれが行き着いた先にある社会的ダーウィニズムと非常に親和性が高いのではないか。現代日本でも貧困による社会階層の分断が進み、深刻なディスコミュニケーションがそこここで引き起こされている。かつての日本にあった「阿吽の呼吸」「察し」などという概念はほとんど通用しなくなってしまった(なおADHDアスペルガー症候群なる症状が大きく喧伝され始めたのは日本社会の分断による相互のコミュニケーションの不可能性が表面化したからではないかと私は考えている)。

 欧州での移民問題ひとつ見ても、もはや「多様性」なるものが実は深刻な危険性を持っていることが了解される。もはや我々は「多様性」なるものに積極的な評価を持つことは出来ない。仮に「多様性」なるものが大いに担保された社会があればどうなるか。個々の人間、そして集団がそれぞれの独自の神話や思想、宗教を作り上げ、それらの正当性を巡ってひたすらに闘争を続けるであろう。「まさに万人の万人に対する闘争」である。我々はそのような社会が生み出す集団の先駆的な存在を既に知っている。言うまでも無く、それはオウム真理教である。オウムは教義経典を作成するに当たって、竹内文書東日流外三郡誌といった偽書に大きな影響を受けていたが、このような営みと中世日本紀のそれとは構造的にそれほど違わないのではないか。

 もちろん「多様性」は重要である。様々な価値観や思想、思考法を持った人間や集団が存在したほうが世界は豊かになるし、危機にも対処しやすくなる(例えば稲の品種改良はまさに「多様性」を担保するための試行錯誤の歴史であったと言っていいであろう)。しかし、その「多様性」には一定の「枠組み」をはめておかなければならない。その枠組みは例えば、国家であり、民族であり、ナショナリズムであり、言語であり、法律であり、行政であり、あるいは天皇である。葦津がなぜ戦後、神社本庁を設立する上で折口を排除したのか。その理由はこのあたりにあるのではないか。

 我々は「神道」を現代的に再生するために近代以前の多様なテキストや世界観を参照しなければならない。しかし、同時にそれらをある程度規定する枠組みのあり方も探索していかねばならない。真に険しい茨の道ではあるが、それをせずして神道の現代的再生、さらに言えば日本と日本人の再生は無い。

 

神道天皇

 現在、神道について言及する際によく引き合いに出されるのは「日本会議」「神道政治連盟」といった政治団体である。神道勢力が安倍政権のような極右政権の黒幕として日本の軍国主義化、ファシズム化を狙っているという言説は現在大量に流通している。著者はそのような政治団体との接触は無いので判断は付きかねるが、現代神道の現場にいる多くの宮司等の神官は、そこまでおどろおどろしい、陰謀をめぐらしている人々なのだろうか。

 著者はかつて下鴨神社の境内にマンションを建設する計画が持ち上がった際、その反対運動に参加したことがある。そもそもの発端は式年遷宮の費用が賄えず、境内の森林を伐採し、マンションを建設することにより、何とかその費用を捻出しようというものであった(最も神社側の説明ではマンション建設用の土地は鎮守の森ではなく緩衝地帯ということであったが)。

 結局マンションは建設されたが、ここで問題なのは神社側が神道の原点ともいえる鎮守の森よりも遷宮による建物の保全を優先した点である。建築物と森(あるいは土地そのもの)どちらが神道にとってより本質的なものなのか、という命題がここに表れてくる。しかし、下鴨神社側がそのような思想的命題にきちんと向き合ったという形跡は全く無かった。というよりも下鴨神社に限らず、ほとんどの神官は職業としてそれをしているに過ぎず、神道に対する当事者意識も信仰心もほとんど持ち合わせていないのが実態ではないか。愛国心や尊皇の精神などというような大層なものを有している神官などどれくらい存在しているのであろうか。

 また、世間に神道学者は存在するが、そのほとんどが神職ではない。アカデミズムの世界においても神官が思想を発信するケースがほとんど見られない事実も、考えなければならない。葦津は神社建築を本業としていたが自身は神職ではなかった。仏教学者が僧籍を持ち、寺院の住職を勤めているケースが多い仏教界とは対照的である。そもそも現場の神職がアカデミズムであれ、社会事業であれ、何かを社会に向けて発信するなり活動をしていくなりする事例の方が圧倒的に少ないのである。

 一方で皇室は戦後、社会事業に密接に関ってきたという歴史がある。東日本大震災の被災地巡幸と慰霊は記憶に新しい。皇后美智子は水俣病を世に知らしめた文学作品『苦界浄土』の著者である石牟礼道子と親しく、2013年には熊本を訪問し、水俣病患者と面会している。震災等の大規模災害があった際は今上天皇も皇后美智子も膝まずき、被災者の目線に立って「お言葉」をかける。

 天皇生前退位の「お言葉」に「天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます」という文言があるが、ここでいう「象徴としての行為」には祭祀はもちろんのこと、国民のための巡幸や祈りが含まれていることは明白である。天皇の行う「お務め」の中における、人々のための巡幸や祈りが占めるウェイトは非常に大きくなっているのである。「現代思想増刊 神道を考える」に所収されている政治学者、小林正弥の論文「神道における公共性―改憲論対生前退位メッセージ」ではこれらの「天皇の務め」が非常に高く評価されている。小林は今上天皇が現行憲法と調和した存在であり、「「国民神道」は「市民宗教」ないし「市民神道」であり、これを成立させる思想的起爆力を天皇のメッセージは秘めているのだ」とする。そして神道的祭祀は法的には私的行為だが、「祈り」は政教分離の原則に反せず、実質的な「公的行為」として位置づけることが出来る、とした上で「近代憲法を前提にしつつ、地球的・国民的・地域的・家族的という四層のコミュニティにおける神道として発展していくところに、二一世紀以降における神道の未来が存在しているのではないだろうか」と結論付けている。

 小林に限らず今上天皇と皇后美智子が身を削り、あらゆる人々のために祈り、傷ついた人を慰め、霊を鎮めてきたとういう事実は誰もが認める所であろう。もはや天皇軍国主義ファシズムに関連させて論ずる言説はほぼ絶滅したといって良い。むしろ現代人の天皇に対するイメージは「平和」や「福祉」といった概念と深く結びついているといっても過言ではあるまい。

 対して神道に携わる人々はどうであろうか。ほとんど社会に向けたメッセージや活動といったものが見受けられない。昨日、日本の農作物の安全と品質を守り続けた種子法が廃止されたが、五穀豊穣をその祭祀の起源としているはずの神道側からは反対どころか、ほとんど何の反応も無かった。かつての米の輸入自由化に続き、神道は二度目の思想的敗北を喫したのではないだろうか。

 神道は、本来社会に対して思想を発信していくポテンシャルを有しているはずなのである。例をあげれば、五穀豊穣の祭祀を掌る立場から農業問題に対して発言する、鎮守の森を始めとする里山や山林の保全、そこから環境問題に接続する、あるいは目に見えず国土を汚し続ける放射性物質を「ケガレ」と見なし(もちろん福島県人に対する差別や風評被害には加担せずに)、除染や反東京電力闘争を行うなど、選択肢は様々にあるはずなのである。

 神道の現代的再生のためには思想を練ることももちろん重要だが、実際の行動をいかにして展開していくか、という観点も同様に大切である。そのためには現代の神道の現場にいる人々をいかに覚醒させるか、あるいは神職者の教育制度の抜本的改革も含めた神道界の変革も必要不可欠であるだろう。

 

結びにかえて―福島県飯館村宮司、多田宏氏の祝詞

 最期に「芸術新潮」2013年7月号に掲載された「福島県飯館村―神々に放射能が降った」という記事を紹介して本稿を締めくくりたい。この記事で紹介されている多田宏氏は旧郷社の綿津見神社の宮司を務めるだけでなく、飯館村の50社、氏子1200人の神事をつかさどっている。

 多田氏は避難命令を無視して当地に留まり、同じく命令を無視して留まる村民とともに神事と祭祀を行っている。震災と原発事故によって飯館村にあった貴重な神事や風習は途切れかかり、多くの社殿や祠も祭る人がおらず、朽ち果てようとしている。神々が放射能を浴び、今にも死に絶えようとしている風景を、当該記事は容赦なく書き記している。

 そして多田氏は帰着困難地域にある白鳥神社にて祭りを行う。除染により表土がはがれおちた田畑と黒い土嚢に囲まれた場所にて、村人達が見守る中、多田氏は祝詞を諷げる。

 「東京電力株式会社福島第一原子力発電所の損ないたるは最も憂たき極みにして此の長泥の里も放射能に穢され、五穀の作付は素より帰還困難の区域と定められぬ」
 「今より後は大神の陵威の御霊を蒙らせ」
 「里人の心を振い起さしめ給えと恐み恐み曰す」
 「童らの声聞こゆる元の村へと」

 福島には津波を浴び、放射能を浴びた神々が今でも鎮座ましましている。避難を余儀なくされた人々の故郷を取りもどすことはもちろん、朽ち果てようとしている福島の神々を慰め、再び祭ることは私たちすべての日本人に課せられた責務である。この責務を怠り、忘却したその時、神々は恐ろしき怨霊となり私たちに災いをもたらすであろう。福島の神々を鎮め、祀ることを抜きにして神道の再生も、日本の真の復興もありえない。村人たちと共に、放射能に塗れた土地と神々を祀り続ける多田氏の姿がこれからの私たちが神道の創造していく上での貴重な道標となるはずだ。

 

参考文献
 「現代思想 2017年2月臨時増刊号 神道を考える」青土社 2017年1月
 「芸術新潮 2013年7月号」新潮社 2013年7月

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現代思想 2017年2月臨時増刊号 神道を考える』

 

【関西】定例研究会のご案内

来月の関西地区定例研究会を、下記要領で開催します。万障繰り合わせの上、ご参加ください。

 

民族文化研究会関西地区第2回定例研究会

日時:平成30年6月3日(日)13時~16時
会場:左京西部いきいき市民活動センター 会議室4
会費:500円
​主催:民族文化研究会関西支部
備考:参加希望者は、事前に当会アドレス(minzokubunka@gmail.com)までご連絡ください。

 

【東京】定例研究会報告 最近の日本古代史研究を読む ――天皇号成立に関する研究動向紹介

 本稿は、平成30年5月20日に開催された民族文化研究会東京地区第15回定例研究会における会員の報告である。なお、同日に行われた輿石逸貴会長と小野耕資副会長の報告のうち、小野副会長のものは『月刊日本』平成30年5月号に執筆した「イギリスよ、お前が言うな!!問題の本質は植民地支配の残滓だ」をもとにしたものであり、関心のある方は同誌を閲覧されたい。

 

はじめに

 本会が追求する、民族文化のひとつの政治的な核が皇室・天皇という存在であることはいうまでもない。しかし、「天皇」という称号が当初から存在していたわけではないことは周知のとおりである。天皇号成立の時期については、従来多数の研究が出ており整理も容易ではないが、最近、関根淳氏が執筆された「天皇号成立の研究史」(『日本史研究』665号、平成30年1月)は至便であり、同論文の内容を簡単に紹介することで、各位の参考に供したい。

 

1.現在までの研究動向

 天皇号成立に関する古典的学説としては推古天皇朝説の津田左右吉天皇考」(大正9年)があり、以降膨大な研究が蓄積されている。通説としては推古天皇朝説があったが、西暦1960年代以降は天武天皇朝説が通説化し、この通説も近年修正を迫られているという。現在の研究状況では、推古朝説と天武朝説が有力とのことである。
同氏は研究史を整理するにあたって、「天皇」号の由来とその要因を軸にその成立を考察する形式を採用しており、初学者にも非常に分かりやすい内容となっている。

 

2.「天皇」号の由来
 天皇号の由来については、通説的には①道教思想起源説、②唐の皇帝・高宗の「天皇」号採用説、③日本起源説の3説がある。

 ①は著名な解釈であり、津田説をもとにしている。しかし、道教の「天皇」は最高神を示す言葉ではなく、そもそも同時代には道教が体系化されていない(道教の体系化の過程について同論文では記されていないが、さしあたり小林正美『中国の道教』〈創文社、平成10年〉が参考になろう)、日本の天皇制度における道教的要素の希薄さなどから、その論拠には批判も寄せられている。

 また、②も時々聞かれる説であるが、その「天皇」自称時には遣唐使がないため日本に情報が伝わったか不明瞭であり、またその「天皇」は皇位ではなく個人を指す尊称であったため、それにもとづいたというのは根拠薄弱だという。

 これらに対して、③には諸説あるが、いずれも王権発展の画期に合わせて成立したとするのは共通しており、「天つ神」思想が背景であるとされる。外来説に比較して、国内造語説の方が妥当ではないかというのが、氏の見解である。

 

3.天皇号成立の要因

 律令制の成立と天皇号のそれとは不可分という理解があるが、律令制成立からだと時期を特定することは難しいという。他の要因として、従来の研究では対外関係が重視されてきたといわれる。

 この観点から説かれるものの一つが、推古天皇朝成立説である。『日本書紀』においては、隋の煬帝への2度目の国書で「天皇」を用いたといい、これを根拠あるものとする理解がある。しかし、「天子」を「天皇」に変更して煬帝の不興を避け得たとは考えにくく、これは『書紀』の造作であろうと考えられるという。また、仮にこの段階で日本が天皇号を使用した場合、後に高宗が「天皇」を尊称として使用するはずはないので、同時期の成立は考えがたいという。

 また、朝鮮(新羅)の帝国化への対応として、天智天皇朝から持統天皇朝にかけて成立という説も出てきているというが、当時の日本は白村江の戦いで敗北しており、勃興する朝鮮に対して天皇号が有効だったか疑問があるという。氏は、対外関係という観点は明確な根拠として用いにくいという。

 そして、近年高まる天智天皇朝成立説であるが、天智天皇は長らく即位せず、さらに白村江の戦いで敗北するという政治状況であった。こういった状況の天智天皇が、神格化をともなう君主号を設定できたのか、はなはだ疑問であるという。国家的危機を乗り越えるために天皇号を制定したという理解は「あまりにも逆説的」であり、こういった政治史的、国家史的な観点からすれば、天武天皇朝説がやはり至当であるというのが、氏の結論である。

 

おわりに

 最新の研究史整理を参照・共有することは、民族文化探求にとって重要な手段となり得るものであり、今後も積極的に研究史・動向の紹介がなされることを希望する。なお、同論文の直接的結論ではないが、専門的研究において、一般的に流布している「天皇」号の海外起源説に対する批判がなされていることには、大いに注意する必要があろう。(了)

【関西】定例研究会報告 徂徠学の近代性――丸山真男の徂徠解釈と日本近代

 5月6日の民族文化研究会関西地区第1回定例研究会における報告「徂徠学の近代性――丸山真男の徂徠解釈と日本近代」の要旨を掲載します。

 

議論の前提――徂徠と近代

 江戸期の儒学における、朱子学批判を中心とした特異な潮流に対し、近代性の萌芽を発見する姿勢が、日本思想史学の主要な思考枠組となってひさしい。言及するまでもなく、こうした姿勢の起点は、丸山真男である。そして、丸山真男が、こうした江戸期の儒学における近代性の萌芽の典型として定義したのが、ほかならぬ荻生徂徠である。丸山は、徂徠が朱子学の道徳的リゴリズムを打破する思想的営為のさなかで、近代社会の要件である「公私構造」と「主体の作為性」を日本思想に導入することに成功した、と説いている。本稿においては、こうした徂徠学の近代性を検討することで、江戸期の儒学における近代性の萌芽に対し考察を及ぼす。まず、先に述べたような徂徠学における「公私構造」と「主体の作為性」を検討し、こうした丸山の徂徠観に対する近年の批判も検討する。続いて、丸山がこうした近代的な徂徠観に至った源流である「西欧的近代との対照性のなかで把握された日本的近代」という近代像について、徂徠との連関のなかで是非を論じる。こうして、日本的近代の起点である徂徠学という丸山の提示した徂徠観について、考察を及ぼす。

 

一 徂徠学における近代

 土田健次郎が簡潔な整理を行っているが(『江戸の朱子学』)、朱子学の思考様式の要諦とは、「個人と社会の直結」と「自然的秩序」である。朱子学は、個人の人格的完成と社会に対する貢献が、いかなる摩擦・反発・対抗も経験せず、連続的に直結されることになる。また、社会秩序は自然法則と連動しているという認識が伏在し、こうした自然的秩序は人為的には改変できないと捉える。丸山真男は、朱子学を「道理」が同時に「物理」である、すなわち倫理(個人・社会)が、自然に連続している思考様式だと定義しているが(『日本政治思想史研究』)、こうした状況の妥当な表現だと評せる。そして、丸山は、こうした状況では、私的領域と公的領域の両者が、未分化の状態にあると評価する。内面の修養と国家の運営を同一の地平で説明することで、私的領域と公的領域が混然一体と化しているわけである。また、主体による作為が否定され、静態的な秩序が継続されると評価する。人為的な改変を忌避する自然的秩序では、主体的な社会変革が生じないわけである。このように、朱子学の内部には道徳的リゴリズムと自然主義が伏在し、それらが前近代的思惟を形成している、と丸山は判断している。

 では、こうした前近代的思惟である朱子学を、徂徠を起点とする江戸期の儒者は如何に批判・克服したのだろうか。丸山によると、こうした社会秩序を個人道徳の延長線上で把握する朱子学に対し、近世日本において道徳とは一線を画す社会秩序の固有法則性を発見する思想的系譜が出現した。こうした思想的系譜は、山鹿素行伊藤仁斎を経て、徂徠に至って頂点に達する。すなわち、人間の本性である「人性」の自然性によって道徳を基礎づける朱子学の道徳的リゴリズムと自然主義は、朱子学における道徳を「人性」の自然性から乖離した抽象的思弁として批判し、両者の分離を企図する仁斎学によって否定され、この「天道」と「人性」の分離の延長線上に、さらに徂徠における「天道」に対する不可知主義による徹底化が出現した(徂徠における「天道」の問題については、陳暁傑「荻生徂徠の『天』」も参照)。他方で、こうした「天道」や「人性」といった道徳的規準から外されることで「脱道徳化」された徂徠学における「道」は、それまでの聖人による超歴史的な道徳理念から、単なる聖人の施行した礼楽制度に過ぎないとして「歴史化」され、「治国平天下」という政治性を本質とし、公的・政治的・社会的世界として展開することになった。これに対し、残された私的・個人的・自律的世界は、前者とは領域を異にする世界として、その存在を承認された。そして、人情や人欲が肯定され、これらを根拠とする文芸・美術の独立した価値が認識されるようになった。こうした思想的系譜は、公的・政治的・社会的側面は太宰春台ら経学派へ、私的・個人的・自律的側面は服部南郭文人派を経由し宣長学へ継承される。こうして、徂徠を頂点とする思想的系譜は、近代的な「公私構造」を産出するに至るわけだ。そして、徂徠は、それまでの根本的に「天道」によって基礎づけられていた聖人を、それ自体が人格として歴史に登場し、一切の「道」に先行し、無秩序から秩序を構築する者として把握した。ここに聖人の設定した「道」は、各王朝の開国の君主による、その都度ごとの作為をへて、新たな主体化を経験する形で継承されていく。ここで初めて「一切の秩序の主体的創造」という近代的な「主体の作為性」が規定されたのである。

 このように、丸山は徂徠学を、「公私区分」と「主体の作為性」から構成される、「一切の秩序の主体的創造」だと認識し、ここに近代的な社会構造・政治構造の生誕が読解されるわけである。また、こうした徂徠学は、朱子学における道徳的リゴリズムや自然主義と対置され、こうした既存の朱子学の根本的な批判・克服を通した、近代的思惟の構想であると定義されるわけである。こうした丸山の徂徠解釈は、平石直昭によって継承された(「徂徠学の再構成」)。平石は、公的観念に内包される道義性・私的次元の自律性・主体存立の条件といった課題について精緻な検討を試み、徂徠学の近代性をいっそう強調した。しかし、こうした丸山の徂徠解釈に対しては、批判も提起されている。尾藤正英は、徂徠における人情や人欲がそれ自体として、いわば自然権として許容されたわけではなく、社会有機体(封建的支配体制)にとって有用な限りで肯定されたに過ぎないと主張する(『日本封建思想史研究』)。したがって、徂徠は一面で人間性の解放を唱えると共に、しかしその解放の方法や方向を、全く人間性にとって外在的なものにしているという点において、また依然として社会有機体の利害に順応しなければならないという点において、人間性の制限・抑圧の論理をも強く内在させている、というわけである。尾藤の主張を整理すると、徂徠における主体は朱子学の統一的な規範の羈束から解放されているとはいえ、依然として封建制的な職分社会の有機的単位としての処遇しか与えられていない、とするものである。

 

二 範型としての西欧的近代

 これまでの議論を整理すると、朱子学の道徳的リゴリズムや自然主義の解体を徂徠学から読解し、「公私構造」と「主体の作為性」による近代的社会構造・政治構造の創出を発見する丸山真男および平石直昭の徂徠解釈に対し、尾藤正英は(一)徂徠における人間の個性は、封建体制に有益である限りにおいて許容されたに過ぎず、いわばそれが自然権的に承認されたわけではない (二)(一)から、徂徠における主体は封建体制の枠内において設定されており、充分な自律性を発現しえなかったのではないか の二点を中心として批判を提起した。このように、丸山の徂徠解釈に対し、賛否の両論がそれぞれ主張されている議論状況が存在しているわけである。こうした議論状況を概説した第一章に続いて、本章では丸山がこうした近代的な徂徠観に至った背景である「西欧的近代との対照性のなかで把握された日本的近代」という近代像にまで遡行することで、こうした議論状況に対して考察を及ぼしたい。徂徠に仮託された丸山における「近代」のイメージを源流にまで辿ることで、徂徠の「近代主義的解釈」の是非を問うことができるわけである。

 下川玲子が指摘しているように、丸山にとって徂徠による朱子学的世界の解体は、ホッブズによるスコラ学的世界の解体との対照性のなかで解釈されている(「日本近世思想における近代の萌芽」)。まず、丸山は、朱子学の基本的な特質を、中世ヨーロッパにおけるスコラ学になぞらえる。スコラ学において、人間関係・社会関係は自然的関係であり、自然に立脚するがゆえに、人為的には改変できないとされていた。そして、朱子学も同様に、人間・社会の倫理と自然法則が連動すると解釈し、社会秩序を自然に根差した改変不可能な制度と看做した。こうした「封建体制を支える中世思想」という共通項をもつ朱子学やスコラ学を解体することによって、近代的思惟は生誕することとなる。そして、丸山が「朱子学の破壊者」として看做したのが徂徠であり、他方で「スコラ学の破壊者」として評価したのがホッブズだった。丸山は、自然的秩序思想ないし社会有機体説が解体し、個人が主体的に社会秩序を創造できるとする「作為」の思惟の成立を、すなわち個人の発見と、個人の秩序に対する主体性の自覚を近代性の要件として要求した。機械論的宇宙観の導入によって有機体的宇宙観を打破したホッブズと、絶対的な規範である「道」を聖人による人為的な秩序形成へと転換させた徂徠は、こうした秩序像・主体観を創造したと認識されたわけである。ここで、中世思想の解体と近代的思惟の生誕へ至る潮流が、西欧と日本において並行して展開されたとする丸山の近代像が成立するわけである。

 これまでの議論を整理すると、自然的秩序を根源とする「封建体制を支える中世思想」として朱子学・スコラ学が定義され、これらの解体を近代化過程の起点とする認識が提示され、したがって作為を基礎とする主体観・秩序像によってこうした中世思想を打破した徂徠とホッブズが近代的思惟の東西における生みの親と評価され、これにより日本と西欧の近代化過程は一定の並行を辿ったとされ、このため日本的近代は西欧的近代の対照性のなかで把握されることとなるわけである。こうして、丸山の近代像を素描することができたわけだが、これには重要な問題が伏在していた。そして、こうした丸山の近代像の問題に、徂徠解釈についての問題も存在しているわけである。その問題とは、(一)ホッブズを西欧における近代的思惟の代表者として評価してよいのか (二)ホッブズと対照させたために、徂徠解釈において問題が生じたのではないか という二点に集約できる。まず、(一)についてだが、ホッブズを西欧における近代的思惟の代表者として評価しては、問題が生じるのではないだろうか。坂本達哉が説明しているように、西欧近代思想は大陸合理主義とスコットランド啓蒙の潮流に分かれ、西欧的近代も大陸モデルとスコットランドモデルに二分されている(『ヒュームの文明社会』)。ホッブズは英国の思想家だが、デカルトからインスピレーションを受け、スピノザと共に唯物論の先駆的考察を行った点から見ても、通常は大陸圏の思想家として処遇される。すなわち、ホッブズを準拠枠として成立した丸山の近代像は、西欧的近代のうちでも大陸モデルを採用しているわけである。

 だが、スコットランドモデルを意識的にか無意識的にか無視する丸山の姿勢は、はたして妥当なのだろうか。西欧的近代の大陸モデルとスコットランドモデルを分岐させる最大の指標は、その合理性についての観念の相違である。大陸モデルは、全能的なまでの理性を主体に仮託し、その理性的主体による設計主義的な社会構築を容認するが、対してスコットランドモデルは理性への懐疑を基調とし、慣習の蓄積である自生的な秩序を社会形成の根幹に設定する。ヒュームやA・スミスを源流とするスコットランド啓蒙は、中世的な絶対的自然秩序思想の「である」で表される秩序意識でも、大陸合理主義における全能的な理性的主体による「つくる」で表される秩序意識でもなく、第三の市民社会における相互行為によって成立する自生的な秩序を尊重する「なる」で表される秩序意識を、近代を稼動させる原理に選択したわけである。過剰な合理性という危険性を孕んだ大陸モデルだけでなく、節度のある合理性を選択したスコットランドモデルも、日本的近代を判断するうえでの準拠枠として採用できなかったのだろうか。そして、丸山自身も、後期はこうした「なる」という秩序意識に関心を寄せ、日本思想史の系譜のなかに「なる」という秩序意識を発見するに至るわけである(「歴史意識の古層」)。すなわち、丸山における西欧的近代との対照性のなかで日本的近代を評価するという大枠の方法論は妥当だったが、複数ある西欧的な近代化モデルのなかでどのモデルを選択するかという段階において誤謬を犯したのではないか、と指摘できるわけである。そして、(二)についてだが、 ホッブズと対照させたために、徂徠解釈において問題が生じたのではないか 、という問題は(一)における課題とも密接に連関している。尾藤による丸山の徂徠解釈批判は、その要諦としては徂徠における主体性が丸山の主張するような完全なものなのか疑問だとするものだが、これはホッブズ‐大陸合理主義を準拠枠として徂徠を解釈したために、理性的主体という側面を、すなわち「作為」の契機を過剰に解釈したため、と指摘できるのではないだろうか。「自然」を打ち破る「作為」という発想は徂徠の思索における重要な要素とはいえ、それにホッブズ‐大陸合理主義ほど固執すべきなのだろうか。過剰な合理主義という契機が、丸山の徂徠解釈に与えた影響を慎重に検討すべきだろう。

 

参考文献

土田健次郎『江戸の朱子学』(筑摩書房、2014年)
丸山真男『日本政治思想史研究』(東京大学出版会、1952年)
丸山真男「歴史意識の古層」同『忠誠と反逆』(筑摩書房、1998年)
平石直昭「徂徠学の再構成」『思想』766号(1988年)
尾藤正英『日本封建思想史研究』(青木書店、1961年)
下川玲子「日本近世思想における近代の萌芽」『人間文化――愛知学院大学人間文化研究所紀要』28巻(2013年)
坂本達哉『ヒュームの文明社会』(創文社、1995年)

 

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丸山真男

 

民族文化研究会関西支部発足記念講話 民族文化研究の使命

 去る5月6日の民族文化研究会関西支部第1回定例研究会における関西支部発足記念講話「民族文化研究の使命」を掲載します。

 

民族文化研究会関西支部発足記念講話  民族文化研究の使命

 

 本日は、民族文化研究会関西支部の活動の劈頭を飾る、関西地区第1回定例研究会にご参集頂き、誠にありがとうございます。ここでは、民族文化研究会関西支部の活動の指針を「民族文化研究の使命」と題して略述し、これをもって挨拶に代えさせて頂きます。

 

一 現代世界における民族文化

 まず、現代世界では、民族問題が喫緊の課題として浮上しつつあります。国際化の進展に伴い、人間・資金・物資の世界的流通が加速するなかで、伝統的な民族文化・民族生活の退潮が見られるとともに、文化摩擦の結果として各地で紛争が勃発しております。いわば、国際化の矛盾として、ナショナル・アイデンティティの衰微と暴発が同時並行的に発生しているわけです。こうした課題を打開するためには、伝統的な民族文化・民族生活を再検討していく必要があります。当会では、こうした現代世界における問題状況に呼応し、伝統的な民族文化・民族生活の再検討を、活動の中心としていきます。

 

二 学風と言論の刷新――日本的状況からの出発
 そして、当会は、こうした伝統的な民族文化・民族生活の再検討を、わが国の伝統的な民族文化・民族生活の研究から出発させます。これは、第一には、わが国が世界でも稀有なほど、同質的な文化的・政治的世界を古代から一貫して実現してきたためであり、そして、第二には、こうした伝統的な秩序の危機的状況が、近年に至って突出しているためです。すなわち、われわれは、日本民族のもつ民族文化への探求によって、民族文化の本質的性格に接近でき、かつ民族文化を取り巻く危機的状況への打開策を模索できるわけです。わが国の伝統的な民族文化・民族生活の研究から出発し、世界の諸民族を取り巻く問題の考察へと発展する、当会の活動の構想を提示しておきます。

 ここで、日本における伝統的な秩序の危機的状況について、いくつか付言しておきます。西欧や中国といった他者の出現によって、日本は歴史的にナショナル・アイデンティティの危機を経験してきましたが、戦後は言論世界において蔓延した自国否定・自国卑下という新たな危機に見舞われました。こうした戦後の弊風は、ナショナル・アイデンティティの自己確認を困難にしており、われわれが直面する問題状況を形成しています。こうした戦後の弊風のさなかで堕落した学風と言論の刷新と、国民的自覚に立脚した学の建設こそ、当会の使命なのです。

 

三 民族の「物語」の模索――「夢」を抱きながら

 しかし、民族という観念が、そもそも可能なのかという問いがあるでしょう。その解答を、平泉澄を一例として探りましょう。平泉澄が、実証的な中世史研究から皇国史観の提唱へと転換を遂げた要因は、現代に中世の再演を見る特異な視座だったと指摘されています。伝統が喪失されつつあった暗黒時代である中世は、平泉にとって維新以降の伝統破壊がひとつの頂点を見ようとしていた同時代たる大正時代と重ねられたわけです。そして、戦後日本は、こうした平泉における文脈を借用すれば、まさしく中世の再演なのです。しかし、現代とも通じる暗黒時代においても、平泉は伝統――彼にとって、その最たるものは皇統です――を身命を賭して守ろうとした忠臣・志士・先哲の歴史を超えた精神譜に希望を見出します。

 こうした歴史を超えた日本の理想を、忠臣・志士・先哲の精神譜を織りなすことで創出しようとした平泉の試みを、苅部直は「歴史家の夢」と呼んでいます。こうした「夢」を「英雄史観」と嘲笑し、「本質主義」と断罪することは容易いです。起源や本質や連続といった超歴史的な原理を措定する手法が、実証史学の内部でいかに忌避されるかは語るまでもないでしょう。ただ、歴史の多元性という「現実」を認識しつつも、こうした歴史を超えた日本の理想という「夢」を抱きながらでなければ、われわれは日本なるものを把握することはできないのです。こうした平泉における理性と信念の平衡を、植村和秀は「理と信の相乗」と呼んでいます。ポール・リクールの歴史哲学に依拠しながら、歴史の「物語」性を強調し続けた坂本多加雄も、こうした日本史における理性と信念の平衡に心を砕いた歴史家として挙げられるでしょう。伝統喪失の暗黒時代において、現実を踏まえつつも、民族という「夢」あるいは「物語」を模索すること、こうした「理と信の相乗」こそ、当会の基本的な理念なのです。

 

 これまで、ご清聴ありがとうございました。この講話を通して、当会の目指す民族文化研究の趣旨がご理解頂ければ幸いです。

 

民族文化研究会関西支部発足趣意書 「日本」の創造に向けて

 去る5月6日に、民族文化研究会関西支部が発足し、最初の活動である民族文化研究会関西地区第1回定例研究会が開催されました。この支部発足に際し、下記のような趣意書が採択されました。民族文化研究会関西支部は、この趣意書にある理念に依拠し、活動を展開していきます。

 

民族文化研究会関西支部発足趣意書 「日本」の創造に向けて

 

 「日本」とは何か。この問いは、我々日本人にとって極めて切実な問いである。殊に近代以降、西洋近代という軍事的にも思想的にも自分たちとはまったく異質な「他者」が眼前に現れて以降、現代に至るまで日本人は常に自らのアイデンティティの再構築と点検に迫られてきた(もちろんこの「西洋」とは実態としての西洋そのものではない。「近代」なるものが現れ、世界を作り直して以降、私たちを無意識下に規定するシステムのような存在である)近代以降の日本人の思想的営みはほとんどすべてこのような問題意識の下に行われてきたと言っても過言ではない。中江兆民が著書で「日本に哲学なし」と書き記した事実に端的に表されているように、近代以降、日本人は否応無く、「西洋」と対峙することで「日本」と「日本人」を規定してきた。

 西洋近代思想、マルクス主義、あるいはポストモダン思想のような日本の「外」からもたらされた思想でもって日本の後進性、あるいは劣位性を指弾し、自己を優位な立場に置くという振る舞いが何度と無く今までに繰り返されてきた。反対に日本の独自の思想や文化のあり方を称揚し、民族的なナルシシズムに浸るという行いも数え切れないほど行われた。大雑把に腑分けするならば、前者は「左」もしくは「革新」、後者は「右」もしくは「保守」として分類できるであろう。

 このような思考法は「古代から現代に至るまで続いている一貫した日本的なるもの」が存在するという前提の上で成り立っている。この「日本的なるもの」は天皇制であったり、神道であったり「日本人の主体性無き集団主義」であったりするわけである。この「日本的なるもの」に対して否定的立場を取れば「左」に、肯定的立場を取れば「右」になるわけである。そしてこのような現象は日本だけではなく、非西洋社会が近代化し、自文化に言及する際に必ず起きるものであろう。

 しかし、そもそも「西洋」を下敷きとした「非西洋」の思想史を叙述しようとする際、それは当然ながら西洋思想(最もこの「西洋思想」なる存在も相当に実態が怪しい概念規定である)を下敷きにした思想史にならざるを得ない。つまりこの時点で、その「非西洋」の思想史は「西洋」の存在に規定されたいわば「作られた伝統」もしくは「近代」なるものを自明とした思想史、にならざるを得ないのである。このジレンマはどのようにして克服すればいいのか。「西洋近代」なる存在にもはや積極的な価値を見出せなくなった現在、これは日本だけではなく、世界史的にも非常に重大な命題である。

 このような問題意識に応答する形で、昨今、思想史学の分野などを中心に、「古代から現代に至るまで続いている日本的なるもの」を下敷きにした思考法そのものが批判にさらされている。曖昧で不透明な「日本的」という概念を下敷きにするのではなく、個々の歴史を独立したものとして捉え、解読していこうという試みである。中世なら中世、近世なら近世とそれらを現代の我々とは独立した「他者」として考えていこう、ということである。いわば「日本」という概念を排除した上での思想史である。

 この方法は、一見、正当なように見える。しかし、そのような思想の歴史は一体どのような地盤を有することになるのであろうか。もしかすると、そこにすべてを平板化・均質化するグローバリズムが入り込みはしないだろうか。その結果その地域特有のかけがえのない「何か」が喪失、もしくは破壊されはしないだろうか。

 もちろん私たちは、「古代から現代に至るまで続いている日本的なるもの」を下敷きとした思想史のあり方には加担することは出来ない。「原初の輝かしいあるべき日本」を想定した行き着く終着点の一つとして挙げる事が出来るのは一時期よく言われた縄文文化起源論である。しかし私たちは縄文時代に還れないし、またその必要も無い。私たちは「古代から現代に至るまで続いている日本的なるもの」に寄りかかることなく「日本」に依拠して思想し、発言し、行動していかねばならない。当然だが「日本」を排除した思考法にも賛同しない。

 私たちの依拠する「日本」とは何か。それは「持続と変容」の過程そのものである。この日本列島の上で先人たちが営み、紡いできた歴史を見つめ、あらゆる思想・哲学・風俗・心性が誕生し、変化・変容していく過程そのものを「日本」として捉え、それに依拠することである。

 例を挙げる。日本思想史、あるいは仏教史に欠くべからざる存在として親鸞を上げることができる。親鸞の「絶対他力」「悪人正機」の思想はもちろん彼自身の強烈な個性と意思によって作り上げられたことは間違いない。しかし一方で親鸞の思想は平安浄土教思想の存在を抜きにしては語れない。歴史的な条件と親鸞の存在があって初めて「親鸞の思想」が歴史に存在しえたのである。そしてその親鸞の思想も数多くの弟子や、学者による注釈や読解を経て、初めて我々の前に「古典」として存在しえている。

 次に日本古典文学の最高峰の存在とされている『源氏物語』を挙げる。『源氏物語』は江戸中期までには仏教的因果観あるいは儒教的倫理観に基づく道徳的な読み方が主流であった。本居宣長はこの読み方に異議を唱え、「もののあはれ」による読み方こそが正統であると主張したのである。ここで宣長による『源氏物語』というテクストの読み直しが行われたのである(あるいはこの行為は本来的な意味での「翻訳」といってもいいであろう)。

 さらに言えば『源氏物語』そのものがそれ以前の膨大な和歌や物語、漢文、貴族社会の儀礼、宮中内の女性社会が生み出した風習など、膨大なコンテクストを踏まえて記されているという事実も見落としてはならない。『源氏物語』は単に紫式部という稀有の個性の持ち主が存在したから成立したのではない。そこに膨大なコンテクストが存在したからこそ成立したのである。そして紫式部の死後も『源氏物語』はあらゆる注釈者や学者によって書き加えられ、改変され、読み替えられ、現在に伝わっている。本邦の国文学の一番の仕事はまずは書誌学的な研究であった、ということは何度も強調すべきことである。

 そして親鸞源氏物語はこのような先人たちの考察や注釈による「持続と変容」を経て初めて「古典」足りえているのである。では、その膨大な「持続と変容」を為さしめているものとは何なのだろうか。それは親鸞の思想や源氏物語の価値が、時代の推移に関らず、現代に至っても猶、失われていないからである。このような存在を一般に「古典」と呼ぶ。

 私たちが依拠すべき「日本」とは先人たちが飽くことなく繰り返してきた注釈と読み直しそのものである。その「持続と変容」のコンテクストを踏まえつつ、テクストを読み、新しいコンテクスト-読み替え-を生成していく。この営みこそ、私たちが「日本人」として思想し、行動し、生きていくことそのものではないか。

 そして私たちは、文字化したものや建築や工芸のような形としてあるものだけを対象にするのではない。衣食住のあり方や、箸の持ち方、座り方、歩き方に至るまで、あらゆるものに関心を向け、その存在の原点と変容の歴史に依拠しつつ、守るべきものは守り、変えるべきものは変え、復興すべきものは復興していく。何かを守ることは何かを創造することと同義である。もちろんその対象は博物館に陳列され、ガラスケースの中に入れられているような死んだ存在ではない。私たちの生活・心性に密着した「生きた」存在でなければならない。私たちは「断絶」を何よりも恐れる。そのために行住坐臥、私たちは常に意志的に生き、思考していかねばならない。

 私たちは「日本」の紡ぎ手たらんとしている。あらゆる「日本」を糸に見立て、紡ぎ、つなぎ、結び、時には切り落とす。この営みを続けていくことが、私たちの存在意義であり、目的であり、使命である。そしてその「日本」を紡いだ先には、偏狭なナショナリズムの対象の日本ではなく、遅れた、劣等な唾棄すべき日本でもない、豊かで先鋭的で強かでしなやかで雅でダイナミックな進むべき「日本」がそこに立ち現れてくるはずである。私たち民族文化研究会関西支部は上記の目的に向かって真摯に邁進していくことをここに宣言する。


慈円「道理を作り変え作り変えして世の中は過ぐる也」(『愚管抄』)

 

定例研究会のご案内

 今月から、東京で開催していた従来の研究会に加え、関西地区(京都)でも研究会を開催致します。そこで、従来の研究会を「東京地区定例研究会」・京都で開催する新たな研究会を「関西地区定例研究会」と改称致します。今月の東京・関西における各定例研究会を、下記要領で開催します。万障繰り合わせの上、ご参加ください。

 

民族文化研究会東京地区第15回定例研究会

日時:平成30年5月20日(日)13時~16時
会場:早稲田奉仕園 スコットホール2階 223号室
会費:1000円
主催:民族文化研究会東京支部
備考:参加希望者は、事前に当会アドレス(minzokubunka@gmail.com)までご連絡ください。

 

民族文化研究会関西地区第1回定例研究会

日時:平成30年5月6日(日)13時~16時
会場:左京西部いきいき市民活動センター 和室
会費:500円
主催:民族文化研究会関西支部
備考:参加希望者は、事前に当会アドレス(minzokubunka@gmail.com)までご連絡ください。