定例研究会報告 日本神話への視点――萩野貞樹『歪められた日本神話』の紹介(五)

 12月10日の民族文化研究会定例会における報告「日本神話への視点――萩野貞樹『歪められた日本神話』の紹介(五)」の要旨を掲載します。

 

 前回に引き続き、萩野貞樹『歪められた日本神話』(PHP新書、平成16年)を紹介する。今回は、第3章「神話各説を批判する」の第4、5節「ツギハギの説について」である。
 
 日本神話研究には、神話の接合を説くものが多い。たとえば益田勝実氏は、出雲で国譲りが行われ、日向に天孫降臨が行われたのは「矛盾」であり、これは2神話を接合したためであるという(『古典を読む・古事記岩波書店、昭和59年)。しかし、「神話」に合理的解釈を施すことの愚は、従来萩野氏が説いてきた通りである。

 このような「接合」は、出雲政権を大和朝廷が征服したことを誇るためとされる。しかし、元の神話が別々であるならば、国譲りを迫った主体が別にあることになる。しかし、そうやって神話自体を分割していくと、その内容自体が空虚になっていかざるを得ない。物語として成立していなければ、神話として伝承されることは難しいだろう。「接合」的理解は、このような観点から疑念が持たれるのである。

 また、上田正昭氏は、スサノオ高天原における荒ぶる行為と、後の荒ぶる者の平定という行為の間には、「矛盾」があるという(『日本神話』、岩波新書、昭和45年)。これは、荒ぶる神としての説話が、高天原系神話に接合されたためであるという。しかし、神が多面的な性格を見せることがどれほど「矛盾」なのだろうか。

 このような「ツギハギ」説においては、各氏族の断片的な古伝承が宮廷で統合されて、一つの日本神話が成立したという見解も有力である。たとえば荻原浅男氏は、「神話群」には原説話があり、それはそれぞれ独立して伝承されていたとして、イザナキ・イザナミの禊祓神話は海人族の安曇氏・住吉氏系であり、国土創成時に出て来るウマシアシカビヒコヂの神は大阪湾周辺の海人の伝承であろうとする(『日本古典文学全集 古事記上代歌謡』小学館、昭和48年)。

 しかし、このような推測は果してどれほど妥当なのだろうか。たとえば、ウマシアシカビヒコヂの神は神話冒頭でしか出て来ないが、何故これが大阪湾の海人の神と断定出来るのであろうか。荻原氏は、大阪湾は低湿地で葦が生えていた、また、大和に近い、といった理由を挙げるが、これらがどれほど信憑性のある解釈かは疑問である。

 また、松前健氏は、国生み神話のうち、イザナキ・イザナミの2神の修理固成神話は淡路島のもので、棒で海をかき回す話は内陸アジア系といった分割説を提唱している(『シンポジウム日本の神話1』学生社、昭和47年)。このような解釈は、大林太良氏や吉田敦彦氏といった神話学者から、該当部分の日本神話の一体的性格を指摘されて批判を受けていることが留意される。

 そもそも、こういった解釈が成立するためには、そもそも日本神話は存在しなかったという結論になるであろう。しかし、各神話を強引に接合して成立させた日本神話に求心力が発生するのかは疑問である。論者によっては、各氏族の保有する神話に一定程度のつながりがあったことを認めるが、もしそうであれば、むしろ各氏族の共通性が明らかになるのではないだろうか。

 萩野氏の結論はこうである。「日本民族は各地各氏、だいたい一様の神話を共通の民俗伝承として聞き伝えていたであろう。それが長い時代を経て、それぞれ微妙な変容、変形、過誤が生じていたであろう。それが日本書紀に見える一書の各伝であり、また天武天皇が「既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふ」と憂えていたところのものであった」(186-7頁)。

 

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萩野貞樹『歪められた日本神話』

 

定例研究会のご案内

今月の定例研究会を、下記要領で開催します。万障繰り合わせの上、ご参加ください。

民族文化研究会第13回定例研究会

日時:平成29年12月10日(日)18時30分~20時30分
会場:喫茶室ルノアール新宿南口甲州街道店 会議室スペース 1号室
会費:800円(飲料代込み)
備考:参加希望者は、事前に当会アドレス(minzokubunka@gmail.com)までご連絡ください。

 

定例研究会報告 文明開化史観の再考――苅部直の維新史観をもとに

 10月15日の民族文化研究会定例会における報告「文明開化史観の再考――苅部直の維新史観をもとに」の要旨を掲載します。

 

 明治維新に代表される、日本が近代国家へと変貌してゆく歴史的ダイナミズムを、われわれは如何に理解すればよいのか。この巨大な設問に取り組むとき、歴史の実像へと接近するのを阻む、ある固定観念による思考の拘束が存在することを、われわれは思い知ることとなる。それは、明治維新を嚆矢とする一連の歴史的ダイナミズムを、永きに渡り表現してきた「文明開化」や「和魂洋才」といった常套句によって構成されている、通俗的な維新史観である。日本の近代化は、明治維新によって一挙に成し遂げられ(「文明開化」)、日本の精神を維持しつつ西欧の技術を摂取した(「和魂洋才」)。こうした紋切り型の維新史観は、未だにわれわれの思考に伏在し、日本の近代化の歴史的認識を規定している。だが、こうした通俗的な維新史観――「文明開化史観」は、はたして妥当なのだろうか。

 日本の近代化は、明治維新によって一挙に成し遂げられたとする「文明開化」は、輝かしい「近代」として明治より以降を評価しつつ、対照的に暗い「前近代」として江戸より以前を軽視する。そして、日本の近代化は、日本の精神を維持しつつ西欧の技術を摂取したとする「和魂洋才」は、日本の近代化を精神の転換を伴わない、技術の採用に限定された近代化だったと矮小化する。このように、「文明開化」と「和魂洋才」は、いずれも日本の近代化の歴史的認識にあたって、偏向・歪曲・矮小化といった愚を犯す危険を孕んでいる。こうした「文明開化史観」を再考し、これを克復することによって、日本の近代化の歴史的認識を正確に行う必要があるのだ。ここで、注目されるのが、拙稿で検討してゆく、苅部直『「維新革命」への道――「文明」を求めた十九世紀日本』(新潮社、平成29年)である。苅部は本書で、こうした「文明開化史観」を意識的に破砕し、近代日本の歴史的経験を直視しようと試みている。本稿では、こうした苅部による企図を素描し、そののち苅部のこうした企図に込められた真意を省察したい。

 

「断絶」から「連続」へ

 まず、苅部は、本書が「十九世紀日本」の通史であると定義する。ここで、十九世紀日本という本書の対象とする時代区分を括弧でくくって強調したのは、この「十九世紀日本」という問題設定そのものが、本書の最大の眼目だからだ。前述したように、われわれの歴史認識は「文明開化史観」によって、十九世紀日本という時空を、明治維新を境界として、輝かしい「近代」(明治より以降)と、暗い「前近代」(江戸より以前)という、対照的な時空の対抗として解釈しがちである。本書は、こうした歴史認識を、江戸後期と明治時代を架橋することによって、克復しようと試みるわけだ。すなわち、明治維新という劇的な歴史的事象に気を取られ、これまで見落としてきた江戸時代における社会構造や精神構造の変容に、光を当ててゆくのである。換言すれば、明治維新によって一挙に近代化が成し遂げられたとする「文明開化史観」に対し、江戸時代から日本は独自の近代化を経験してきたとする立場を対置するわけだ。このように、本書は「明治維新」という「断絶」ではなく、「十九世紀日本」という「連続」に、日本の近代化の実像を求める。

 

内在的近代

 こうした本書における「十九世紀日本」という「連続」に、日本の近代化の実像を求める論理は、まず「明治維新」という「断絶」に注目し、明治維新によって一挙に近代化が成し遂げられたとする「文明開化史観」の、批判的な吟味から開始される。苅部は、こうした明治維新によって一挙に近代化が成し遂げられたとする「文明開化史観」には、「和魂洋才」と「民衆不在」という二つの罠が伏在していると指摘している。「文明開化史観」では、西欧の技術(洋才)を摂取することによって、日本の精神(和魂)を維持しつつも、急速な近代化が可能になったと説明してきた。しかし、和魂において、洋才への理解や共感がなければ、洋才の受容があれだけ急速だったはずがない。つまり、日本の近代化は、「和魂洋才」が説明している、精神の転換を伴わない、技術の採用に限定された近代化ではなく、技術の採用に限定されない、精神の転換が伴った近代化だったのである。

 また、「文明開化史観」では、技術の摂取などが、維新政府を主体として展開された一方で、大部分の民衆は、こうした時代的変化から取り残されていたと断定した。戦後における遠山茂樹らの明治維新史研究において、こうした「民衆不在」という視点は根強いが、苅部は当時の民衆が、流入してきた汽車や電灯といった新技術を歓迎し、主体的に利用していたと指摘する。つまり、日本の近代化の過程は、「民衆不在」が説明している、民衆を置き去りに展開された近代化ではなく、むしろ「民衆主体」で展開された近代化だった。このように、苅部は日本の近代化の過程を、民衆を主体として展開し、精神的な次元に波及する「内在的近代」として理解している。

 

ロング・リヴォリューション

 こうして、苅部は日本の近代化の過程の、おおまかな性格を明らかにした。それは、民衆を主体として展開し、精神的な次元に波及する「内在的近代」なのである。では、こうした「内在的近代」は、具体的には如何なる歴史過程として展開されるのか。続いて生じるこの設問に取り組むため、苅部は明治維新に舞い戻る。ここで、明治維新の検討にあたって、中心的な素材となるのが、徳富蘇峰山路愛山らと自由民権運動を戦い、他方で文筆を振るった竹越與三郎の維新史観である。竹越の維新史観は、彼の『新日本史』という著作で展開されているが、ここで竹越は明治維新を「革命」だと断言する。竹越は、明治維新が、幕府から朝廷への「政権交代」だけに留まらず、身分制解体(版籍奉還・徴兵制施行による武士階級撤廃)や中央集権化(廃藩置県による中央集権体制)にまで突き進んだ歴史的事実を重視し、こうした歴史の転換を「社会革命」だと評価した。こうした、明治維新を単なる「政権交代」ではない、より重大な社会構造や精神構造の変容を含んだ「社会革命」として理解する「維新革命」としての維新史観は、福沢諭吉にも見られる。

 こうした「維新革命」としての維新史観に立脚しつつ、竹越は当時の維新史観を批判してゆく。竹越は、当時の維新史観を、明治維新が黒船来航をはじめとする諸外国からの外圧の結果だと理解する「外交の一挙」と、明治維新尊王攘夷の帰結だと解釈する「勤王論」の二つに大別し、「外交の一挙」では非西欧諸国で日本だけが近代化した歴史的展開を解釈できず、「勤王論」では明治維新が幕府から朝廷への政権交代だけでなく身分制解体や中央集権化にまで波及した経緯を説明できないと指摘する。ここで、竹越は、明治維新を長期間にわたる社会構造や精神構造の変容の帰結として解釈する、新たな維新史観を提示してみせた。これを苅部も継受し、明治維新を長期間にわたる社会構造や精神構造の変容による「ロング・リヴォリューション」として解釈する。

 

商業と理性

 このような、大規模な「社会革命」を引き起こす、長期間にわたる社会構造や精神構造の変容こそ、苅部が「内在的近代」として把握した、日本の近代化の過程の、具体的な歴史相であるわけだ。ここで、明治維新が準備された時期である、江戸時代の社会構造や精神構造に注目し、そこに独自の近代化の経験を発見しなければならないと、明らかになったわけである。ここで、苅部は、江戸時代の社会構造や精神構造の変容を理解するにあたって、鍵概念として「商業」と「理性」に注目した。まず、苅部は、朝鮮通信使が目撃した、大坂の市街の絢爛な姿から稿を起こす。豪華な商家の甍がどこまでも続き、往来には美麗な装束の人々が闊歩している。そして、こうした大坂に花開いた、商人たちの自由な学問探究の場である、私塾「懐徳堂」に焦点が当てられる。経済発展に沸く大都市と、そこで生まれた学知は、近代の縮図そのものなのだ。

 自律した商人が、競争や分業を通じて結び付く市場は、確固たる主体が、その自由な相互行為を通じて形成する市民社会の原基である。そして、こうした市民社会が成熟するのと並行して、世俗的な風潮が主流となり、形而上学批判を契機とする理性主義が台頭する。こうして、「商業」と「理性」こそ、近代を織りなす、横糸と縦糸となるわけだ。「大坂」と「懐徳堂」という近世日本における「商業」と「理性」の象徴を劈頭として、苅部は近世日本の思想史における「商業」と「理性」を辿っていく。経済市場の自律性を看破し、自由市場を肯定した山片蟠桃を筆頭に、実践的な経世論を展開し、経営コンサルタントの先駆とも評される海保青陵や、精緻なテクストクリティークをもとに、徹底した朱子学批判を展開した荻生徂徠、そして徂徠の古文辞学から影響を受けつつ、その文献学的方法を仏教や神道にも適用し、遠大な形而上学批判を企図した富永仲基などが、次々と活写される。こうして、明治維新という「維新革命」として結実する、江戸時代の社会構造や精神構造の変容が、独自の近代化の経験として把握されたわけだ。

 

 これまで、近代日本の歴史的経験を直視しようと試みる、苅部による企図を素描した。続いて、苅部のこうした企図に込められた真意を省察する。ある著作の真意は、その論敵を吟味すると、おのずと分かるものである。では、本書の真意を探るため、その論敵を吟味するとして、本書の論敵は何なのか。それは、日本の近代化の過程を理解するにあたっての、ある「倒錯」だと思われる。これまで、日本の近代化の過程は、つねに表層性・外在性によって規定されてきた。拙稿の冒頭でも言及しているが、日本の近代化の過程は、西欧の技術を摂取することにより、一挙に成し遂げられたと解釈されてきた経緯がある。こうした「文明開化」・「和魂洋才」によって規定された「文明開化史観」は、近代化が権力によって一挙に展開されたトップダウン方式だったと解釈する点で、民間に定着しなかった表層的近代化として、また近代化が西欧の技術の摂取だったと理解する点で、主体的ではない外在的近代化として、それぞれ日本の近代化の過程を描写していた。そして、こうした日本の近代化の過程の表層性・外在性という「通説」が、日本の近代化の過程を理解するにあたっての、都合の良い「道具」として利用されてきた現実がある。

 具体的に述べると、こうした日本の近代化の過程の表層性・外在性という「通説」は、近代を批判する右派にとっては、近代という病理に汚染されていない日本の純潔性として理解され、近代を擁護する左派にとっては、近代をいまだに受肉できていない日本の後進性として理解され、それぞれ左右両陣営の言説の内部で延命してきた。日本の近代化の過程の表層性・外在性という「通説」が、左右両陣営において、自陣営の論理を補完するため、我田引水的に利用される、という倒錯した状態なのである。だが、無論のこと、こうした「倒錯」は、日本独自の近代化の経験を無視している。こうした「文明開化史観」の「倒錯」を克復することで、日本独自の近代化の経験を直視しなければならない。こうした問題意識に、本書は応答しようとしているのではないか。左右両陣営が依存する「文明開化史観」を意識的に破砕しようとする叙述は、こうした「倒錯」を克復し、日本独自の近代化の経験を直視しようとする姿勢なのである。著者が「十九世紀日本」として提示した近代日本の歴史的経験を、われわれは直視しなければならないのだ。

 

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竹越與三郎

 

定例研究会報告 日本神話への視点――萩野貞樹『歪められた日本神話』の紹介(四)

 10月15日の民族文化研究会定例会における報告「日本神話への視点――萩野貞樹『歪められた日本神話』の紹介(四)」の要旨を掲載します。

 

 前回に引き続き、萩野貞樹『歪められた日本神話』(PHP新書、平成16年)を紹介する。今回は、第3章「神話各説を批判する」中の第3節「道教起源論のこと」を取り上げる。

 萩野氏によれば、2、30年前(すなわち現在から見ると3、40年前)から、日本神話を道教文献の焼き直しとする説が発生したという。主として、「神道」「惟神」「禊」「祓」「天皇」など、神道・神話関係の語彙が道教文献に由来するものだというのが根拠だという。

 とはいえ、萩野氏の紹介はいささか簡略なので、今回は氏が論及している福永光司氏の研究のうち、論文「日本の古代史と中国の道教」(同『道教と日本文化』〈人文書院、昭和57年〉所収。初出昭和56年)を補足として取り上げよう。福永氏は、まず日本古代史の事実として、以下の7点を挙げる。

(1)「天皇」の語の初出は推古天皇朝(法隆寺薬師如来像)か。「八色の姓」の「真人」は皇族にのみ与えられる位で、天皇とセットの概念ではないか。

(2)神器のうち、鏡と剣の2種が核であり、勾玉は後に追加されたと考えられる。

(3)皇室は古代紫の色を尊んでいた。

(4)神話では、天孫降臨によって皇室の祖先が出現したとされており、記紀の時代には現人神思想が成立していたとみられる。

(5)『延喜式』記載の祝詞には、道教の神名が挙げられている。

(6)『江家次第』所収の四方拝の内容には、道教的な文言が含まれている。

(7)「神道」の語は『日本書紀』が初出である。

そして、この7点についてそれぞれ、

(1)「天皇」の語は宇宙の最高神として紀元前1世紀頃に中国で出現したもの。北極星の神格化で、「天皇大帝」などと呼称され、これが紫宮に住み、そこに真人という仙道の体得者が仕えるという観念があった。すなわち、「天皇」概念には道教の影響が強い。

(2)(3)紫宮で「紫」が登場している。2種の神器への信仰は道教文献に記載がある。

(4)天神の子孫が降臨する思想は『詩経』などにあり、道教もそれを継承、神仙の降臨と救済を説いている。従って、現人神思想も道教の影響であろう。

(5)大祓の「東西の文部の祝詞」は道教の呪文を採用している。

(6)四方拝道教儀礼の直輸入である。

(7)「神道」語は天皇に関連しており、従って道教の「神道」を意識した導入とみられる。

という結論を出している。

 

 さて、上記のように、福永氏の議論は総じて道教流入を強調するものであって、「天皇」や「天孫降臨」などの概念も道教の影響として理解している。ただ、これを道教(ないしは中国)起源説として理解すべきかは、従来の萩野氏の批判を勘案すると甚だ怪しいものではあろう。すなわち、日本神話と似通った構造を持つ神話はかなり多く、また、どんな民族にも相応に複雑な神話体系があることが明らかになっているのであって、中国起源論にことさらに固執する必要は必ずしもないと考えられるからである。また、語彙の輸入という点は道教起源論の大きな論拠になっているが、古代日本に文字はなく、漢文献から表現を借用する必要があったため、概念的に似たところがある道教文献から借用したと考えられるのであって、概念まで輸入したというのは即断であろうという。

 

 なお萩野氏は、いささか邪道であるとは自認しつつも、道教起源論者の〈政治的偏向〉を指摘する。すなわち、福永氏は戦前に京都で育ち、御所の「紫宸」「仙洞」などの語に関心を持った後に戦争に動員され、「神」とされた天皇の問題を考えるようになったという。また、福永氏の弟子の高橋徹・千田稔氏は、『日本史を彩る道教の謎』(日本文芸社、平成3年)などで、より戦前の天皇賛美の傾向に批判的な論調を示しているのである。中国に限らず、文化の外来説のなかにはこういった政治的傾向が含まれる点にも、注意せねばならないのであろう。(続く)

 

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萩野貞樹『歪められた日本神話』

 

定例研究会のご案内

今月の定例研究会を、下記要領で開催します。万障繰り合わせの上、ご参加ください。

 

民族文化研究会第12回定例研究会

日時:平成29年10月15日(日)18時30分~20時30分
会場:喫茶室ルノアール新宿南口甲州街道店 会議室スペース 1号室
会費:800円(飲料代込み)
備考:参加希望者は、事前に当会アドレス(minzokubunka@gmail.com)までご連絡ください。​

 

定例研究会報告 日本神話への視点――萩野貞樹『歪められた日本神話』の紹介(三)

 8月13日の民族文化研究会定例会における報告「日本神話への視点――萩野貞樹『歪められた日本神話』の紹介(三)」の要旨を掲載します。

 

5.第3章 神話各説を批判する-第2節 聖数について

 今回は、第3章「神話各説を批判する」の第2節「聖数について」について紹介したい。日本神話の解釈として、〈聖数説〉というものがあるが、これは造化三神、別天つ神五柱、神代七代が、中国伝来の〈整数〉に由来して造作されたとする解釈である。はじめは津田左右吉氏が唱え、後に上田正昭氏、岡田精司氏が継承した見解である。しかし、この解釈は果たして正しいのかと疑問を投げかけるのである。

 上田氏は、初めにはより素朴な伝承があったのが、3・5・7に合致しなかったので、それに合うように造作したという。しかし、そこまで3・5・7にこだわるのであれば、この後の神話も3・5・7が強調されてしかるべきではないかという疑問が出るのである。すなわち、このすぐ後のイザナキ・イザナミ神の国生みに際して現れる「八尋殿」を初め、国生みによって現れる「大八島」、次いで「六島」、その後に「十神」「八神」「四神」が現れるわけである。神話が造作ならばこの点をどう説明するのかという疑問が生じるわけである。(萩野氏は特に書いていないが、神話には造作した部分とそうでない部分がある、という反論は一応可能ではあろう)

 続いて岡田氏は、次の2つの解釈を示す。まず1点目は、中国に対して、自己の王権の正統性を誇示するために聖数説に合わせた造作を行ったというものである。しかし、そのような取って付けたような造作が中国側に対して外交的に有効なのか、信じられるのかは、疑わしいものとしなければならない。仮に信じられたとして、日本側が敬意を持たれるのかは疑わしい。むしろ属国視するのではないか。

 また、2点目として、中国では一種の自然哲学である〈天〉の概念が発達しており、日本のような天と王を血縁で結びつける素朴な手法は通用しなかったので、聖数説で修正を加えたというのである。しかし、当時の中国皇帝は「天命」を受けて君臨しているものの天との直接的血統はなかったので、このような造作が有効であったかは疑問である。また、この造作が日本国内の知識層向けであったとしても、そもそも国内伝承と異なる話を造作してもそれを信じる者がいるとは思えず、有効にはならないのではないか。

 このあたりの萩野氏の反論は、やや水掛け論のような感もあるが、氏はさらに踏み込んで考えていく。

 そもそも、3・5・7は中国の陰陽思想では聖数とはされるものの、天地創造の原理を担わせるような重要性があるといえるのか、はなはだ疑問であるという。3・5・7などは、それこそ「七福神」など一般的に多用される修飾的な数字であり、必ずしもそれ以上の意味を見出す必要はないのではというのが萩野氏の見解である。

 そして、本書の基本的なスタンスである「広く外国神話から考える」という点にたどりつくのであるが、そもそも3・5・7の尊重が中国以外にも広く見られるものであれば、何も中国伝来を強調する必要もないわけである。この点を考えてみると、キリスト教(三位一体)、シュメール神話(大洪水が7日)、ゲルマン神話(3神が最高神)など、3・5・7が特別な事象と関連する神話は世界各国にいくらでもあるという。

 そう考えてみれば、3・5・7の数字が出てくる理由について、強いて解釈を立てようとする態度自体、疑ってみるべきなのだろう。
(続く)

 

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萩野貞樹『歪められた日本神話』

 

定例研究会報告 古代人の意識の探究――ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』序章・第一部前半概説

 8月13日の民族文化研究会定例会における報告「古代人の意識の探究――ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』序章・第一部前半概説」の要旨を掲載します。

 

 我々が住まうこの国の歴史は、文字を持たず神話と現実が融解していた古代に起源を発する。その長い歴史が我々に誇りと安堵をもたらす一方で、我が国の建国の父祖たちがいかなる思考によって國體の原型を建設したのか、我々がはっきりと知る術はない。

 我々は文字を持たない社会のあり方について、発掘された遺物、或いは外部や後世の文字を持つ人々が記述した文献から、断片的に窺い知ることができるにすぎない。そのような考古学的・歴史学的アプローチの限界を乗り越える上での手がかりとして、私は本書における「心理学的アプローチ」の試みを紹介したい。

 

ジュリアン・ジェインズ(1920~1997)
プリンストン大学心理学教授。ハーバード大学を経てマクギル大学で学士、イェール大学の心理学で修士・博士号取得。動物行動学を研究したのち、人間の意識に関わる研究にシフト。1976年に本書を刊行。1978年全米図書館賞候補作となった本書が生涯でただ一冊の著書である。

 

序章 意識の問題

 私たち人間は、意識が生まれたほぼその瞬間から意識の問題を意識してきた。ヘラクレイトスは意識を巨大な空間と呼び、聖アウグスティヌスは「私の記憶の平野や大小の洞窟」に驚嘆したとされる。意識の性質の探究は「心身問題」として、長く哲学的解釈に傾きがちであった。しかし進化論の出現以降、意識の起源について科学的な解明が試みられるようになる。

 意識の起源に関する仮説としては、①それが相互に作用する物質の基本的な属性にまでたどることができるという説、②あらゆる生命体の基本的な属性であるとする説、③生命がある程度進化した特定の時点であったとする説、④意識を形而上の付与物として見る説、⑤意識は何ら活動していないとする説、⑥意識は進化の非常に重要な段階において純粋に新奇なものとして創発されたという説、⑦意識が存在しないとする行動主義、⑧意識を網様体賦活系とする説などがある。しかし、私たちは脳に関する知識だけからその脳が私たちのような意識を持っていたかどうか知ることは絶対にできない。したがって、この問題については、意識とは何かを規定することから始める必要がある。

 

第1章 意識についての意識

 意識とは何だろうか。ジェインズは、意識が「何でないか」を示すことで、この答えに迫ろうとする。

 第一に、私たちは普段の日常生活において、対象を意識しないままに様々なものに間断なく反応している。意識は複雑な行動を学習する上では一役買っているが、その遂行には必ずしもかかわっていない(例:ピアノの演奏)。したがってまず、意識は反応性ではない。

 第二に、意識は経験の複写でもない。意識的な追観とは、感覚器官が得た心象の蓄積の想起ではなく、以前に意識を向けたものの想起であり、そうした要素を理性的なパターンに再構成することにほかならない。

 第三に、意識は概念の必要物ではない。概念とは、行動的に見て同価値の事物の分類である。動物行動において根本概念は先験的なものであり、行動を生じさせる性向決定構造の根幹を成している(例:ミツバチにとっての花)。

 第四に、意識は学習に必要なものではない。それどころか、学習を妨げさえする(例:弓道の鍛錬)。

 第五に、意識は思考にとって必要ではない。実際の思考過程は通常意識の本質だと考えられているにもかかわらず、実は全く意識されておらず、意識の上で知覚されるのは思考の準備と材料、そして最終結果だけであるということが、いくつかの実験から明らかになっている。

 第六に、意識は理性に必要ではない。推理は無意識のうちに行われ、意識はそこに不要であるばかりでなく、その過程を阻害する可能性も高い。

 また、意識に在りかと呼べるものはない。そして、これまで述べられてきた意識についての特性からは、人間の行動にとって意識は必要ですらないことがわかる。

 

第二章 意識

 本章でジェインズは、意識と言語の関係についての分析を行っている。言語は比喩によって発達する。言語は単なる伝達手段にとどまらない知覚器官であり、比喩は人類の文化が複雑になるのに合わせて新しい言葉を必要に応じて生み出してきた。時代が進歩するにつれ、言葉とその指示物は、比喩の基礎の上に抽象的な世界を創り上げてきた。

 ジェインズによれば、主観的な意識ある心は、現実の世界と呼ばれるもののアナログである。それは語彙または語句の領域から成り立っており、そこに収められた用語はいずれも物理的な世界における行動の比喩、すなわちアナログである。これによって、私たちは行動過程を短縮し、より適切な意思決定をすることができる。数学の場合と同じく、アナログは事物やその在りかではなく演算子であり、意思や決定と密接につながっている。

 意識の機能としては、空間化、抜粋、アナログの自己、比喩の自己、物語化、整合化といったものがある。ジェインズによれば、意識とは言語に基づいて想像されたアナログ世界であり、数学の世界が事物の数量の世界と対応するように、行動の世界と対応している。したがって、意識は言語より後に生まれたのである。

 

第三章 『イーリアス』の心

 文字の誕生は紀元前3000年頃に遡る。しかし、当時の文献は翻訳が不正確であるため、ジェインズは確実な翻訳が行える最初の著作である『イーリアス』を対象として、古代人の心理構造の解明に挑戦している。

 ジェインズによれば、『イーリアス』の内容にはおしなべて意識というものがない。後世には精神的なものを指すようになる単語も、『イーリアス』では異なる意味で使われ、いずれもより具体的なものを指す(例:psycheの意味は「血」「息」→後世では「魂」「意識ある心」)。また、「意思」や「体(全体)」を指す言葉もない。では『イーリアス』の登場人物に、主観的な意識も心も魂も意思もなかったとしたら、何が彼らを行動へと導いたのだろうか。

 『イーリアス』の登場人物は、意識ある心を持たず、内観を行わない。行動は、はっきり意識された計画や理由や動機に基づいてではなく、神々の行動と言葉によって開始される。神と英雄のこの関係は、フロイトの自我と超自我の関係や、ミードが提唱した自己と一般化された他者との関係に似ているとジェインズは主張する。この神々は、今日では幻覚と呼ばれるものである。すなわち、トロイア戦争は幻覚に導かれて戦われたのである。ジェインズはこのような古代人の精神構造を「二分心」と名付けている。

 『イーリアス』は後の時代に付け加えられた記述ほど、主観的な表現が増える傾向がある。すなわちこの作品は、基本的にどの王国も神政政治で、人々は新しい状況に直面するたびに聞こえてくる声の奴隷だった、主観的な意識の無い時代を垣間見させてくれる窓なのである。

 

本発表のまとめ

 今回はジェインズの重要な主張である、言語が意識を生み出したという仮説と、それから導き出される古代に無意識の文明があったという仮説について扱った。第一部後半では「二分心」についてより詳細かつ具体的な説明がなされるが、紙幅と時間の都合から次回発表で扱うつもりである。

 『神々の沈黙』は全18章、632ページに及ぶ大著である。このペースで全章を扱うと発表に6回を要してしまうため、今のところは第一部のみの紹介にとどめたいと考えている。興味のある方は是非書店で手に取っていただきたい。

 ジェインズの「二分心」仮説は、文字を持たなかった古代日本人の意識に迫る上でも一つの手がかりを提供してくれると私は考えている。ジェインズは第二部で、文字の登場が人類の意識構造に大きな変化をもたらしたと主張している。ジェインズの仮説は検証が難しく信頼性に不安を残すが、現代人と古代人の間に意識の面で様々な違いがあったことは確かである。我々の時代に神話や祭祀を活かそうと試みるとき、それを生み出した古代人の思考に対する理解が無ければ、それは空虚な猿真似にすぎないのではないだろうか。

 

参考文献
ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』(紀伊國屋書店 2005)