【書評】新保祐司『「海道東征」への道』(藤原書店、平成28年)

 

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 本書では、気鋭の文藝批評家である著者が、2005年から2016年まで、産経新聞の「正論」欄で執筆した時評が集成されている。音楽を糸口とした社会批評から、明治期の精神史をあつかった論説まで、多岐に渡る時評が全五部の構成で所収されているが、これらの時評の基調音になっているのは、紛れもなく表題にある「海道東征」だ。「海道東征」とは、1940年に皇紀2600年を記念し、神武東征に素材を求めて、信時潔が作曲した交声曲である。戦前はさかんに演奏された「海道東征」は、戦後は長らく封印状態だった。だが、近年になって、大阪と東京で演奏会が挙行され、満員の盛況となっている。

 著者は、こうした「海道東征」が現代に蘇生することによって、戦後日本の閉塞した言語空間に風穴が開いたと確信した。ボードレールヴァーグナーの「タンホイザー」のパリ公演に衝撃を受け、これを「精神史的」な事件だったと評価し、「リヒャルト・ヴァーグナーと『タンホイザー』のパリ公演」を執筆したが、著者も同様に信時潔の「海道東征」の演奏会に衝撃を受け、これを「精神史的」な事件だったと評価したわけである。本書の主題は、日本的なるものが禁忌となった戦後の時空において、建国の記憶を刻印した「海道東征」の蘇生がもたらした、自己の来歴を省みよという、日本人に投じられた真摯な声を、いかに受け止めるかという問いにあった。

 第一部「『海ゆかば』と『海道東征』の復活」と第二部「音楽が語りかけるもの」に所収された時評では、「海ゆかば」や「海道東征」といった、日本人の来歴を刻印している歌曲が、戦後の封印を打破して復活しつつある、近年の状況の「精神史的」な意義が語られる。「海ゆかば」と「海道東征」は、ともに信時潔が作曲を手がけた。著者は、『信時潔』(構想社、2005年)でも、信時潔の批評を試みているが、『信時潔』での著者の表現を借用すると、信時潔は音楽の領域を凌駕した「精神史」的作曲家である。

 著者は、父親が師事したキリスト者内村鑑三と、長年友人だった洋画家の小出楢重に、信時潔の思想形成への重大な影響を看取した。どちらも、キリスト教や洋画という「西欧」と対峙しつつ、自らが依拠する「日本」を探求した人物だった。そして、信時潔の音楽も、こうした西欧と日本の相剋と融合の系譜を継ぐ。そして、こうした西欧と日本の相剋と融合こそ、近代日本の宿命なのであり、こうした近代日本の宿命を背負う信時にこそ、「日本」の自覚的探求が成し遂げられた。こうして、日本人の来歴から鳴り響く「精神史的」音楽である、「海ゆかば」や「海道東征」が生み出されたわけである。

 第三部「明治の精神から考える」と第四部「戦後日本を問い直す」に所収された時評では、「海ゆかば」や「海道東征」といった、日本人の来歴を刻印している歌曲が生み出された「精神史的」状況を、明治期の精神史に求める試みがなされ、こうした精神史が忘却された戦後日本における病理が剔出された。著者は、信時潔の「精神史的」原型を、明治期の精神史に見出す。これは、先述した内村鑑三からの影響といった、信時潔の個人的事情から説明されるだけでなく、明治に誕生した精神が、大正には影を潜めて、昭和に入って再生したという、著者の歴史意識が反映されている。

 著者は、『内村鑑三』(構想社、1990年)において、明治に誕生した精神を、「ざらざらしている」と表現した。変革の時代がもつダイナミズムに包まれた精神は、荒々しく躍動的で、その質感は「ざらざらしている」わけである。また、保田與重郎は、「明治の精神」(1937年)において、明治に誕生した精神を、「正気」と表現した。藤田東湖の表現から借用した「正気」において、保田が意図していたのは、変革の時代に発揮される、精神史の底力である。こうした底力によって、歴史の激動は乗り越えられるわけだ。すなわち、明治に誕生した精神は、変革の時代がもつ、荒々しく躍動的だが、力強いエネルギーなのである。こうした精神によって、日本は西欧と対峙し、確固たる自我を確立するため格闘した。

 だが、こうした明治の荒々しい創業の精神は、大正には影を潜める。著者は、桶谷秀昭との対談である『歴史精神の再建』(作品社、2012年)において、大正は「精神の時代」だった明治とは対照的に「文化の時代」であり、明治の荒々しい創業の精神は喪失されたと述べた。華美だがダイナミズムに欠落した「文化の時代」である大正を経て、昭和に入って明治の荒々しい創業の精神は蘇生する。これは、日本が未曾有の危機に見舞われ、変革の時代へと向かったためだった。こうした明治に誕生し、大正に影を潜め、昭和に入って爆発した「精神史的」状況において、「海ゆかば」と「海道東征」は生み出されたのである。

 だが、日本が大東亜戦争において敗北を喫し、西側陣営に従属する対価として付与された「平和」に安住するうち、戦後日本は昭和に入って爆発した「精神史的」なダイナミズムを再び喪失した。戦後日本の退廃は、こうした「精神史的」なダイナミズムの喪失に起因している。第五部「東日本大震災から日本を問う」に所収された時評では、大震災という未曾有の危機に見舞われたのち、すなわち著者の表現を借用すれば「災後」において、日本が再び変革の時代に向かい、「精神史的」なダイナミズムが蘇生することが期待されている。しかし、東日本大震災から5年あまりが経過した現在も、こうした「精神史的」な変革は、いまだに生じていない。著者は、こうした変革の兆候として、「海ゆかば」や「海道東征」の復活を評価しているのだろう。「海ゆかば」や「海道東征」が投げかける、自己の来歴を省みよ、という真摯な声に日本人は応答しなければならない。

投稿論文 アジア主義から世界主義へ――摸倣子・文化圏・同一性

                              トモサカ アキノリ

 アジアという地域区分には、なんら蓋然性はない。我々は全世界における民族(Ethnic groups)の連帯を優先するべきである。そして、過去と未来の共栄圏建設は、あらゆる点でそのように読み直されなければならない。つまり共栄圏は、アジアや東洋や有色人種を解放するためではなく、植民地主義帝国主義から民族・国民を解放するために建設され、内なる敵を含めて、その敵対者と戦ったのである。しかしながら、主体としての我々は当面日本帝国内に限られており、拠点としての国民国家日本に注目せざるを得ない。そのため、旧共栄圏と同様、新共栄圏は、地政学的な戦略を含めて、その周辺の環境を重要視しなければならない。その範囲は当面のところ、戦前の「アジア主義」と同じ範囲となるだろう。

 アジアはある面では存在し、ある意味では存在していない。生産と交換の様式から見て、アジアは全く成立していない。あるのは重層的かつ非対称である複数の「文化圏」のみである。「文化圏」は微妙に排他的な側面を持ちながらも基本的には重複可能であり、そうである以上、一般的な経済競争や軍事力の衝突などとは異なり、対立があいまいである。例えば、支那文化圏では、ブラフミー文字や漢字といった文字や、漢語や仏教系の語彙など音声言語の影響、スゥンドゥー(インド)教や仏教や儒教といった思想体系、稲作や食文化、建築様式や服装などの摸倣子の体系が地理的に成立している。幾分かスィンドゥー文化圏でもある支那文化圏はアジア的とされる。だが支那文化圏だけでは、シベリアや東南アジアや中央アジアなどを含めたアジアという地域を説明することはできない。文化圏の定義は、文化的影響がある範囲である。したがって今日、帝国を含め世界のすべての土地は、単一の西ローマ文化圏に含められていることは言うまでもないだろう。一方その中で、日本の食文化が受け入れられている範囲を考えれば、オーヤシマ(日本)文化圏が世界に成立しているともみなしうる。

 もともと地理的なアジアは他称である。アジアはおそらくなまったイングランド(英)語である。イングランド語の前提としてラテン(ローマ)語であり、さらにヘラス(ギリシャ)語、カナアン(フェニキア)語を経てスーリャ(アッシリア)語のアス(「東」)に起源する。技術革新と大航海時代を迎えた東西ローマ文化圏にとっての東方の大陸という地域規定を、当地人が受け入れて自称し始めたに過ぎず、妥当性などない。

 その延長線上に、そもそもアジアのみならず、南北アメリカ、オケアニア、アフリカなどの西ローマ的な地理認識や、西ローマ人による「発見」がされた土地の名前がまかり通ること自体、あくまで西ローマ的な植民地主義に基づく思想的桎梏であると考えなければならない。当然エウロペでさえ地域の蓋然性も存在しない。カエサルガリアを征服することなしに、カールが西ローマの帝位につくことなしにエウロペ(ヨーロッパ)がありえただろうか。エウロペは、ローマ帝国というあくまで特殊な存在が、その近隣の陸地からケルト系やテウトニ系やスラヴ系の文化圏を駆逐して、結果制圧した地域をそう呼んだに過ぎない。

 ではそもそも地域の同一性にとっては、何が妥当なのか。これにはいくつかの解がありうる。そもそもそんなものがありえないとする解は、客観的な事実体系から、最もわかりやすい。次に、自然に何らかの条件(陸地と海、山脈、河川、砂漠といった自然の境界など)で分割することを考えることは妥当である。次に成り行き、つまり歴史である。偶然と必然の堆積としての歴史は、しばしば妥当性の根拠とされる。例えばある土地が、以前は特定の集団の持ち物であったという歴史を認識させることは、現代の侵略者に対してその不当性を訴える根拠とされうる。だが、北アジア北アフリカアラビア半島以外の中東、アメリカ大陸とオーストラリアなどの諸地域を見る限り、その原則は全く履行されていない。次に法律・文化的正当性である。しかしそれらは、それ自体としては存在せず、物質的な現実に有らしめるための暴力(例えば軍事力や経済力、求心力など)を伴わなければ存在できない。現在のチベット亡命政府は好例である。三者を統合すると、地域的な同一性は客観的には存在していないが、暴力に裏打ちされた法律や文化的正当性が、暴力を持ちえなかったそれを蹂躙している状況と説明できる。

 以上の思索から、既存の地域の同一性には、基本的に蓋然性がないという結果が得られた。

 そこで、地域の同一性を存在させるために以下の通り提案する。まず、文化圏の間に、摸倣子の量や質により強弱の差を認める。次に、言語や神話や服装、食文化といった比較的強固な摸倣子やその体系に同一性を持つ集団を想定する。それを民族(Ethnic groups)と定義する。次に、文化や文化圏を、民族を基準に体系化する。次に、世界の土地において、固有かつそれ以前に遡及できないと理解しうる民族の先住権及び正統性を想定する。次に、その正統性を継承する集団が現実に存在したとき、何らかの事情で永続できないとみなしうる集団を除き、等しく力強い条件の暴力を与え、実際の土地に配置する。民族の定義上、最初は文化と同一性を配置すれば事足りる。以上である。

 

【コラム】イロニーとしての「日本」――「日本論」の氾濫を横目に

 眼前の机上に、私が購読している「国民同胞」という、ある保守系の団体の機関紙が載っている。そこでの記事に、海外在住の日本人会社員の手記があった。論旨を掻い摘むと、海外で生活するには、祖国を心の支えにする必要がある、ということである。確かに、その通りだ。海外で生活する日本人には、祖国の歴史や文化を喪失した、デラシネ(根無し草)が少なくない。では、どのようにすればデラシネにならずに済むのだろうか。その回答を期待しつつ紙面を追うと、祖国の歴史や文化を学べとの提案があった。確かに、その通りだ。だが、一抹の失望感を味わう。意地悪な言い方をすれば、祖国の歴史や文化を一通り学びさえすれば、簡単に日本人になれるのだろうか。まるで、カルチャーセンターでの稽古事のように。ここで私が言いたいのは、日本人であることの「困難さ」であり、日本なるものを把握することの「困難さ」である。

 このように、日本人に祖国の歴史や文化を学ぶように求め、祖国の歴史や文化の本質を掴み取ろうとする「日本論」の氾濫は、今に始まった話ではない。われわれは、書店の店頭で溢れる「日本」の文字に、もはや慣れつつある。だが、ここに、日本人であることの「困難さ」や、日本なるものを把握する「困難さ」への自覚は、どれほどあるのだろうか。ここで、私が想起するのが、西部邁の『生まじめな戯れ』(筑摩書房1984年)に所収された「日本主義」という小論である。西部は、日本自慢を繰り返すサラリーマンと宴席で喧嘩になったエピソードから稿を起こし、日本主義を曖昧模糊な雰囲気の産物であると看做して、日本主義は「空気」であると結論付けた。だが、山本七平の「空気」論とは異なって、西部は「空気」の積極的な側面も認める。こうした「空気」こそ、われわれの根底を形作る一部だとされた。ここで、日本主義をイデオロギーとしてしか看做さない戸坂潤の『日本イデオロギー論』(岩波書店、1935年)は、単なる啓蒙的なイデオロギー批判でしかないと反駁されることになる。西部は、「日本」を「空気」だと看做しつつ、他方で「空気」の重要性も指摘したわけだが、この見解に立脚すると日本人であることは、日本なるものを把握するのは、ひどく困難になってしまう。なにせ、曖昧模糊な「空気」なのだから。

 また、日本人であることの「困難さ」や、日本なるものを把握する「困難さ」については、長谷川三千子の『からごころ』(中央公論社、1986年)に所収された「からごころ」も思い出される。長谷川は、表意文字である漢字を借用しつつ、日本語の表現を企図する訓読が形成された経緯を概観しつつ、われわれの固有性の根源にある言語の領域において、外来の要素が混入している現実を指摘した。外来の文物を、外来であることを無視しつつ、それを取り入れて固有なるものを形成したことで、日本人は固有なるものを追求すればするほど、その固有なるものから乖離してしまう、「無視の構造」が形成される。日本に固有のものを追求しているにも関わらず、気が付けば外来性へと逢着してしまう、こうした「無視の構造」がもたらすジレンマを、本居宣長は「漢意(からごころ)」と呼んだ。こうした「漢意(からごころ)」は、われわれに絶望をもたらす。曖昧模糊な「空気」ではない、確固たる固有性としての「日本」を追求しても、われわれはむしろ固有性から引き離されていく。

 「日本」を追求しても、曖昧模糊な「空気」に終わってしまう。それに甘んぜず、更に追求し続けても、固有性から乖離したほど遠い場所にしか辿り着けない。日本人であることの「困難さ」や、日本なるものを把握する「困難さ」は、ここまで究極的なかたちでわれわれに突き付けられるのである。ここで、もっとも参照すべきなのが、保田與重郎らの日本浪漫派のテクストだろう。保田らは、日本に固有なるものへの回帰が不可能であることを知りつつ、観念的な日本的なるものの構築によって、擬制に過ぎないとはいえ日本に固有なるものの再現を企図した。こうしたロマンティッシュ・イロニーとしての「日本」こそ、この難問への回答ではないだろうか。これを、真実の日本の追求の断念であり、単なる観念の遊戯に過ぎないと断ずるのは容易だろう。だが、日本に固有なるものの断念から、日本に固有なるものの構築へと、巨大な距離を飛翔してみせる詩的想像力は、「空気」としての日本も、「漢意(からごころ)」としての日本も、軽やかに超越してみせるのである。遥かなる日本への憧憬は、その詩的想像力の内部で、ロマンティッシュ・イロニーとしての「日本」を顕現させるのだ。

 

【コラム】アジア主義の陥穽を探る――世界南モンゴル会議結成大会に臨席して

  先日は、参議院議員会館で挙行された世界南モンゴル会議結成大会に臨席した。ゴビ砂漠以北のモンゴル民族は独立を果たしたが、ゴビ砂漠以南のモンゴル民族は中国共産党の圧政下にある。今回は、こうした圧政に抵抗するため、南モンゴルの諸団体が糾合し、世界南モンゴル会議が結成されたのだ。この集会は、日本の保守派の後援もあって開催されたようで、大会の冒頭では複数の自民党議員のスピーチが行われ、水島総氏や三浦小太郎氏といった言論人の顔触れも見える。また、登壇した世界南モンゴル会議の役員も、戦前における日本のモンゴル独立運動への支援について言及する機会があった。ここで、アジア諸民族の解放を企図したアジア主義の文脈が、時空を越えてこの会場において息づいていることに気付いたわけである。そこで、私はこの結成大会の模様を注視しつつも、現代におけるアジア主義のあり方に思いを巡らせることになった。この結成大会を契機として、いかに日本はアジアとの関係を築くべきか、という問題設定が脳裏に浮かんできたわけである。それでは、ここから、アジア主義について管見を開陳したい。

 過去のアジア主義において、陥穽となったのが「アジア」なる単位はあるのか、という根源的な問題だった。日本が「アジア」という単位の一部であり、だからこそ「アジア」の窮状に日本は立ち上がらなければならない、という論理がアジア主義の前提である。この「アジア」なる単位はあるのか、という根源的な問題に焦点が当たったのが、原理日本社と津田左右吉の論争においてだった。中国とインドの精神的伝統を受け継ぎ、その卓越した実現を成し遂げた日本こそ、アジアの一体性を象徴しており、アジアの解放に従事しなければならないと説く蓑田胸喜や松田福松に対し、津田左右吉は『支那思想と日本』(岩波書店、1938年)において、中国とインドと日本はそれぞれ固有の文化を構築してきたのであり、共通した「アジア」文化なるものは空想にほかならず、現代日本はむしろ西欧近代化を遂げたため「ヨーロッパ」文化の陣営に位置していると主張していた。蓑田や松田は、津田を原理日本誌上において批判し、論争に展開したわけである。ここでは、アジア主義の立場において前提にされていた「アジア」という単位の自明性が、津田左右吉によって批判されたのだ。

 そして、こうした「アジア」という単位の自明性を批判し、現代日本をむしろ西欧の陣営に位置付ける試みは、梅棹忠夫『文明の生態史観』(中央公論社、1967年)における日本と西欧の並行的進化という着想において徹底される。梅棹は、アジアとヨーロッパという世界文化圏の二大区分を批判し、巨大なユーラシア大陸を中間地帯として、日本とヨーロッパが並行した歴史的展開を辿り、類似した文化を構築したと主張した。ユーラシア大陸における乾燥地帯では、古代文明が数多く勃興する。だが、これらの古代文明遊牧民族の脅威によって、瓦解と再建を繰り返すこととなった。対して、これらの古代文明の周辺地域だった日本とヨーロッパは、こうした脅威とは無縁であったため、文化・技術・資本の蓄積に成功し、類似した近代文明を構築することになった。こうした歴史理論によって、梅棹は「アジア」の自明性を完全に否定し、日本と西欧を類似した文化圏であると結論付けた。

 そして、こうした梅棹における日本と西欧の並行的進化という着想を受けて、福田和也は日本がアジアにおいて必然的に孤立せざるをえないと述べている。福田は、『遥かなる日本ルネサンス』(文藝春秋、1991年)において、梅棹における日本と西欧の並行的進化という着想を援用しつつ、アジアにおいて唯一日本だけが主体的に近代を経験したとし、いまだに前近代の状況にある、あるいは植民地化というかたちで近代化を果たしたアジア諸国のなかで、こうした特異な歴史的経験をもつ日本は孤立せざるをえないと説いた。ここから、福田は外交上の指針として、日本にモンロー主義的な孤立主義外交を提案する。ここで、「アジア」という単位の自明性への批判は、アジア主義的な介入主義外交そのものへの批判へと発展するのだ。

 私が臨席する機会があった世界南モンゴル会議をはじめとする南モンゴル解放運動にせよ、チベット解放運動ウイグル解放運動にせよ、アジアの民族独立運動には、アジア主義の系譜を意識した多くの人々が助力している。こうした支援活動には大いに敬服の念を抱いているが、こうした支援活動に携わっている人々には、アジア主義の前提である「アジア」という単位の自明性について問うて頂きたい。これこそ、アジア主義の陥穽なのであり、今も生き続けている課題なのである。これを避けて、アジア主義を検討することはままならず、アジア諸民族の解放運動という実践的活動に従事することもできないだろう。なぜなら、現代のアジア諸民族の解放運動も、アジア主義の系譜の影響をはじめとして、自由や民主主義あるいは法の支配といった普遍的な理念よりも、「アジア」という単位の自明性に依拠しているからである。

 

定例研究会報告 ベトナム民族運動と「民族の権利」

1.「民族の権利」としての基本的人権

 東遊運動最大の指導者ファン・ボイ・チャウは、次のように言う。

「けだしヴェトナム人の今日フランス人に要求するところは、土地の回復ではない。権利の回収でもない。いっさいの土地利権は、ただカトリック教フランス人の壟断するところに任して、ヴェトナム人は恨むまい。ヴェトナム人の要求はすなわち、ただ天賦人権の一小部分のみである。この小部分とは何か?曰く、願わくばフランス人よ、われらの眼を解いて、その自由に見ることを許せ!願わくば、フランス人よ、われらの耳を放って、その自由に聞くを許せ!願わくばフランス人よ、われらの頭脳を釈いて、思想の自由を許せ!われらをして、かくのごとき要求を満たさしめば、すなわち天賦の一部分はすでにやや完く、幸福はすでに極点に達したりといい得る。」(『天乎!帝乎!』2573年)

 ファン・ボイ・チャウの以上の主張は、天賦人権思想に基づくものである。しかし、この権利観はその後のベトナム民族運動に大きな影響を与えた。

 ホー・チ・ミンは、第一次世界大戦後のベルサイユ会議に対し、『民族の権利』と題する嘆願書を執筆し、提出した。ここでは、フランスからの完全な独立の権利については触れられていないが、自決、民主的自由について説かれている。

 2580年のイエン・バイ事件により、知識人・小ブルジョアジーらによる民族運動は壊滅した。マルクスレーニンも読んだことのなかったホー・チ・ミンは、レーニンの『民族・植民地問題についてのテーゼ』に出会い、以後、マルクス主義による民族運動を展開していくこととなる。

 2605年、彼は、ハノイで『ベトナム民主共和国独立宣言』を読みあげる。ベトナム研究者バーナード・フォールによれば、「宣言には、ソビエト同盟の功績については言及がなく、むしろ、(西暦)1776年の精神、およびフランス革命そしてテヘランとサンフランシスコの諸宣言に言及している」という。

 『独立宣言』は、アメリカ合衆国独立宣言を冒頭に引用し、「世界のあらゆる民族はすべて平等に生まれ、どの民族であれ生きる権利、幸福の権利、自由の権利をもっている」とする。アメリカの独立宣言と決定的に違うのは、主体が「個人」「人間」「市民」ではなく「民族」という点である。『独立宣言』の意義は、「人権宣言」が「民族の権利の宣言」としてあらわれた点にあるのである。

2.「基本的な民族権」

 「民族の権利」は、上述した基本的人権と「基本的な民族権」から成る。

 「基本的な民族権」なる概念は、ジュネーブ協定(2614年)で成立し、ファン・バン・ドン政治報告(2625年)において完成したとされている。その具体的内容は、独立・主権・統一・領土保全の4要素である。

 マルクス主義法学者の平野義太郎は、この権利について、「『民族の基本権』という被抑圧民族の反帝国主義の権利主張」あるいは、「民族の主権・独立・統一・領土保全・平和・民主主義のたたかいをすすめる原理として、うちだしてきている高次の総括的な権利概念」であるとして、「全人類の人間的解放の礎」になるとともに、「帝国主義的抑圧・侵略戦争の不法性とたたかう」権利であるとしている。

 ベトナムの法律家グエン・ゴック・ミンによれば、基本的な民族権の保障こそが「人民の生存と十全な発達」にとって不可欠のものであり、市民的自由あるいは基本的人権の基礎であるとされる。つまり、基本的な民族権は、基本的人権を保障する条件にある。また、基本的な民族権は、すべての人民の熱望に合致しているものでなければならず、民族的・国民的合意の確立が不可欠であるとされる。

 基本的な民族権は、基本的人権とともに「民族の権利」を構成し、同時に、基本的人権の前提としても機能しているわけである。

3.総括

 法学者の浦田賢治は、「植民地・半植民地・従属国では、個人の基本的権利は、自然権として発展することは原則としてありえず、民族主権(民族自決権)と固く結びついた民族権利が実現される過程ではじめて具体化される」と分析している。ここで言う民族主権とは、本稿で言えば「基本的な民族権」を指す。

 今日のいわゆる先進諸国は、侵略する側であり、帝国主義に抗する立場になかった。国家の主権が確立している先進諸国においては、個人の基本的権利を考える上で、まずその前提としてナショナルな原理を持ち出して根拠付ける必要がなかったのである。普遍主義に立脚していたローマ帝国は侵略する側であったし、近代においてナショナリズムが台頭した日本・ドイツも、諸外国・ナポレオンの脅威に晒され、産業革命においては後進国であった。ナショナリズムは、侵略する側ではなく、侵略される側にこそ生まれるものなのである。

 しかし、先進諸国においても表出しないだけであって、ナショナルな原理がその基底にあるはずである。政治的独立なくして、いかなる民主的自由もない。基本的人権を考えるにあたって、当然に自然権として保障されると考えるのではなく、民族の権利としての国家主権の確立を前提として考えるべきであろう。

参考文献
鮎京正訓『ベトナム憲法史』(日本評論社、2653年)
鮎京正訓「「基本的な民族権」概念の構造」(早稲田法学会誌集二九巻、2638年)
作本直行編『アジア諸国憲法制度』(アジア経済研究所、2657年)
西岡剛ベトナム社会主義共和国憲法の概要」(ICD NEWS第52号 2672年9月号)

 

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ホー・チ・ミン

 

定例研究会報告 本居宣長の神道思想における「擬制」の概念――江戸儒学からの影響を踏まえて(第2回・完)

二 本居宣長記紀研究の手法――実証主義と「神代」の再構築

 記紀解釈において要点となるのが、「神代」をいかに解釈するかという問題だ。日本初の正史である「日本書紀」は、冒頭に天地・国土や神々の誕生と神々の物語を記す「神代」巻を置いている。それは残存する最古の歴史文献である「古事記」においても同じだ。古代大和王権が中央集権国家建設のための一環として編纂したこれら記紀は、いわゆる「神代」を時間軸の始まりと捉えているのである。中国の史書に範をとりつつ、「神代」の物語を冒頭に挿入することで、大陸の形式から離れた独自の歴史叙述をとった。一般的通念からすれば、歴史的時間軸から除外される「神代」を冒頭に配したことは、日本人の歴史意識を検討するうえで、たえず問題にされてきた。そして、近世期における「神代」観は、儒学的合理化の方向を強めてきた。林羅山「本朝通鑑」や水戸光圀大日本史」は、いずれも本編から「神代」を削除している。これは、歴史的時間から「神代」を除外することで、歴史を合理化したわけだ。また、新井白石は、「神代」といってもそれは上代の歴史的事実の比喩的表現に過ぎないと主張した。これは、歴史的時間に「神代」を含めつつ、だがそれを合理的に解釈しようと試みているわけである。

 こうした「神代」の合理的解釈を「漢意」として批判し、「神代」の事象を不可解なままに捉え、その解釈に決定的な転回をもたらしたのが本居宣長だった。すなわち、宣長は「神代」の実在を確信し、「神代」を「人代」に連続する歴史的時間と捉えるとともに、繰り返される始原の時という原型的時間と見なしたのである。こうして、宣長は、人間の限られた理性をもって「神代」を理解するのではなく、神典に記載されたことをそのまま確信しつつ「神代」と向き合い、その「神代」に社会の規範を読解しようと試みた。このアプローチは、賀茂真淵記紀研究よりもラディカルである。真淵は、万葉集研究から古事記研究に進んだが、これは「人代」について検討してから、それより過去の「神代」に向き合おうとしたアプローチで、「神代」から「人代」への歴史的時間の流れを前提に、それを遡行する試みだった。それに対して、宣長においては、「神代」は真淵のような歴史的時間としての意義もあるが、それと共に繰り返し現前する理念としての意義も有しており、明確に規範的意味をもっているのである。こうしたアプローチは、「歴史家」の態度というよりも、「信仰者」のそれである。つまり、真淵のアプローチが「歴史学」ならば、宣長のアプローチは「神学」なのである。

 しかし、宣長は、数々の国語学的に重要な貢献を成し遂げた、文献実証主義に立脚する言語学者であった。精緻な実証主義的手法を駆使する古典文献学者の相貌と、記紀に規範的な文脈を読み込み、その内容を確信する信仰者の相貌は、われわれにとって酷く不釣り合いに映る。だが、宣長の意図を、記紀に準拠した神話的世界観を規範として人為的に提起しようと試みる、擬制共同幻想の樹立であると捉えれば、実証主義的な文献学者と敬虔な信仰者の相貌は、整合的に重なり合う。宣長の意図は、単に古代日本人の情感を再構築する点だけでなく(そして、こうした試みが最終的には不可能であることも宣長は察知していた)、儒仏の世界観に染まった自身の生きる近世日本の思想状況への異議申し立てにもあった。近世日本において朱子学をはじめとする形而上学的世界観が危機に陥るのを目にしつつ、儒仏に代わりえる規範を擬制共同幻想によって構築しようとする意識を、宣長は抱いていたのである。ここに、「神代」を再構築し、自身の生きる近世日本において蘇生させる意味が、はっきりと明らかになるのである。

 そして、宣長のこうした記紀解釈によって、「神代」は再構築された。合理化の対象でしかなかった「神代」は、擬制共同幻想として提起された結果として、規範的な意味を獲得していった。こうして、記紀神話は、単なる皇統起源譚や摩訶不思議な伝説ではなく、日本の始原を物語る、幾度も現前する理念として解釈されるようになったわけである。記紀は、人間の生や救済を、そして幽冥や超越性を提示する、民族神話として読み換えられることによって、民心を天皇制の祭祀へと統合していくことになった。こうした「神代」を民族の原型として理解する枠組は、十八世紀後半に構築された宣長擬制共同幻想を端緒となし、現在においても機能し続けている。

おわりに

 ここでは、これまでの叙述を整理し、本稿の意図を明確にしたい。第一章では、本居宣長賀茂真淵神道観を対比し、両者の差異から宣長神道思想の特異性を析出した。宣長は、初期の真淵からの影響から脱却し、独自の地平を開拓するにいたった。それは、「自然之神道」から「神の道」への転回として整理できる。汎神論的神道論への一神教神道観の対置と、霊としての神格概念への実在としての神格概念の対置は、それぞれが真淵の神道観への根源的批判となっており、宣長の注目すべき神道観を余すことなく表現している。そして、この一神教神道観と実在としての神格概念は、それぞれが儒教と仏教の自然観や合理主義を鋭利に反駁しており、儒教や仏教にかわりえる記紀に準拠した神話的世界観を、擬制共同幻想として提起することが、宣長神道観の根源にあると明らかになる。こうして、宣長神道観の具体像が主題とされ、神道的世界観を擬制共同幻想として提起するという試みの肝心な内実である、神道的世界観の具体像が明確にされた。

 続いて、第二章では、本居宣長記紀研究における方法論を検討し、「神代」の取り扱いから、宣長実証主義的な文献学者と敬虔な信仰者の二重性を抱えていたと指摘される。そして、この二重性こそ、宣長が、儒仏の形而上学が危機に陥るなかで、これらにかわる擬制共同幻想を提起しようと試みた証左だと明らかにされた。こうして、宣長神道研究の方法論が主題とされ、神道的世界観を擬制共同幻想として提起するにあたっての、実証主義と信仰の結合という方法論が明確にされた。このように、第一章と第二章によって、宣長神道思想の核心である、記紀に準拠した神話的世界観を擬制共同幻想として提起するという試みの全体像が明らかにされた。また、これは、江戸儒学における「擬制」論の展開の極めて興味深い事例としても解釈できる。

参考文献
東より子『宣長神学の構造:仮構された「神代」』(ぺりかん社、2657年)
同『国学曼陀羅宣長前後の神典解釈』(ぺりかん社、2676年)
大久保紀子「本居宣長神道思想の特質について」お茶の水女子大学人文科学研究(2667年)
子安宣邦本居宣長』(岩波書店、2652年)
相良亨『本居宣長』(東京大学出版会、2638年)
丸山真男『日本政治思想史研究』「第一章 近世儒教の発展における徂徠学の特質並びにその国学との関連」(東京大学出版会、2653年)

 

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本居宣長

 

定例研究会報告 本居宣長の神道思想における「擬制」の概念――江戸儒学からの影響を踏まえて(第1回)

はじめに

 江戸儒学において特徴的な概念である「擬制」は、荻生徂徠の思想を端緒として見出される。徂徠は、もはや再現しえない古代中国の理想的秩序を、言語的習熟という手段によって、かりそめであれ作為的に構築しようと試みた。こうした「擬制」論は、朱子学宇宙論によって担保された形而上学的な正統性が瓦解するなかで、社会秩序の基底をいずこに求めるかという思想的課題を背景としている。ここから、「擬制」論は徂徠のみにとどまらず、江戸儒学の系譜において多くの思想家に共有されていく結果となった。そして、こうした「擬制」論の共有は、江戸思想において、儒学の学域も超え、国学の大成者として名を知られている本居宣長にまで波及している。

 宣長は、賀茂真淵から、仏教や儒教の移入によって日本人に固有の情感が損なわれたとの主張や、古典研究によって古代日本人の感性へと回帰を試みる方法論を継承した。だが、他方で、宣長は、真淵ほどには本来性には依拠しなかった。仏教や儒教の移入によって日本人に固有の情緒が損なわれたとの見解に立脚しつつ、真淵が主張するほど容易に古代日本人の心情へと回帰しえるとは解釈していなかったのである。そこで、宣長は、徂徠の「擬制」論を導入し、一定の言語モデルに習熟することによって、情感を「自然」と見紛うほどに改変し、古代日本人の心情に類似した感性を構築することを目指した。

 こうした、「擬制」として古代日本人の情感を構築しようとする宣長の思想的営為は、国史有職故実・歌学といった諸領域において展開されていく。そして、その中核に据えられているのは、古代日本人の信仰を明らかにしようとする、「古事記伝」に代表される記紀研究である。「うひ山ぶみ」において、宣長国学に包摂される諸学を分類し、こうした神道研究を「道」の学であるとし、諸学の根底に置いているのだ。ここで、「擬制」として古代日本人の情感を構築しようとする宣長の思想的営為が、より具体的には仏教的世界観や儒教的世界観に対抗しえる記紀に準拠した神話的世界観の樹立を意図していると判明する。言語モデルの習熟といった手段によって、構築が志向される「擬制」すなわち共同幻想は、日本神話の世界観にほかならない。

 ここで、徂徠を端緒として江戸儒学において共有された「擬制」論が、宣長の思想的営為においていかなる役割を果たしたかを検討するうえで、その分析対象を宣長神道思想とすることが、きわめて有効であると理解できる。宣長の「擬制」論は、神道思想を中核として展開されたのであり、記紀に準拠した神話的世界観こそ、宣長が構築を志向した「擬制」だった。本稿では、こうした宣長神道思想を検討し、宣長における「擬制」概念の展開を考察したい。まず、第一章では、宣長と真淵の神道思想の差異を主題とし、宣長がいかなる神道観=「擬制」像を抱いていたかを検討していく。続いて、第二章では、宣長記紀研究の中心的手法である実証主義的評釈に着目し、宣長が「擬制」=記紀に準拠した神話的世界観を展開するうえで、いかなる方法論を使用したかを分析していく。

一 本居宣長賀茂真淵神道観の差異――自然から神へ

 宣長神道思想の形成過程は、真淵の強い影響下にある初期(著作では「石上私淑言」までに該当)の「自然之神道」論から、真淵を乗り越え独自の議論を構築していった後期(著作では「直毘霊」からに該当)の「神の道」論への移行として整理できる。初期における「自然之神道」論は、真淵の自然哲学に立脚した神道観だ。真淵は、仏教や儒教の合理主義的性格を批判し、その対極にある自然の称揚を展開する。万葉の詩的世界に終生傾倒し続けた真淵は、そこに表現された自然にこうした儒仏の合理主義を打開する方途を見出した。こうした自然哲学に立脚した真淵の神道観は、汎神論的な性格を強く帯びる。真淵において、神道は自然に内属する非人格的な神霊を祭祀する自然信仰を意味していた。そして、真淵の強い影響下にあった初期の宣長の「自然之神道」論も、こうした汎神論的な神道観を継承している。上古の日本社会を理想化しつつ、宣長はそこでの自然への信仰を称揚した。このように、宣長の初期の古道論は、汎神論的な自然観を背景とした神道論(「自然之神道」論)として表現されたのである。

 だが、宣長神道思想は、真淵の強い影響下を脱し、独自の方向性を目指して転回していく。具体的には、自然に内属する神を中心とした「自然之神道」論における汎神論的な神道観から、自然を超越した神を中心とした「神の道」論における一神教的な神道観へと、宣長神道思想は移行を経験するのである。なぜ、現世の根源に「自然」を発見した宣長は、「自然」をも超越した「神」を措定しなければならなかったのだろうか。これは、宣長が、真淵の自然哲学の背後に、儒学老荘思想における「天地」概念の影響を垣間見たためである。太極陰陽五行説に立脚した儒学老荘思想の自然哲学は、「天地」=自然による人倫の規律を基底としていた。儒家神道記紀の宇宙生成とこうした儒学老荘思想の自然哲学を調和的に理解していたが、宣長はこうした「自然」を基調とした神道観が儒学老荘思想の自然哲学へと回収されかねないと危惧したのである。ここで、「天地」=自然を超越した、絶対者としての神が要請され、「神の道」論における超越的存在を中心とする一神教神道観が提示されるにいたったのだ。そして、こうした一神教神道観の方向性は、宣長記紀解釈の前提となる、天照大御神・産巣日神・禍津日神を中心的神格として選出し、その序列や機能を明確化する作業によって、可能となったのである。

 また、こうした宣長神道思想の真淵の影響下からの脱却と、その独自の展開において、汎神論的神道観(「自然之神道」)から一神教神道観(「神の道」)への転回のみならず、神格概念の「霊」(観念的存在)から「現身」(物質的存在)への転回も注目するに値する。真淵は、伝統的な神格概念の範疇に準拠して、神を人間には把握しがたい「霊」として、すなわち観念的構築物として理解していた。それに対して、宣長は、こうした伝統的な神格概念から脱却し、神を人間にも認識しえる「現身」として、すなわち経験的実在物として解釈していた。「神は物質である」との命題は、われわれを当惑させるかもしれない。だが、ここには、宣長の儒仏の合理主義への批判が背景に存在している。宣長は、古代人の思惟を、理性的な世界認識ではなく、感性的な世界認識であると考察した。こうした、観念から出発する理性的認識ではなく、経験から出発する感性的認識を人間の知の根本と見なす思考においては、神はまず知覚される実在でなければならない。こうした合理主義の思弁性への批判が、神の身体性という特異な主題として、宣長神道思想には表出しているのである。そして、こうした実在する神という思考は、現人神としての天皇という政治的観念とも結合していた。宣長にとって、天皇制は神の実在性の具現でもあったのである。

 これまで、宣長神道思想の形成過程を、真淵との対比をまじえつつ追ってきた。初期は真淵の影響下にあった宣長神道思想は、後期にいたってその問題圏を超え、独自の地平を開拓する。こうした宣長神道思想の展開は、「自然之神道」から「神の道」への転回として整理された。この転回において、宣長は、真淵の汎神論的神道観と、霊としての神格概念の双方を乗り越えようと試みた。そこで対置されたのが、一神教神道観と、実在としての神格概念である。また、こうした真淵の問題圏からの脱却は、単なる真淵との思想的な対峙のみならず、儒教や仏教との思想的な対峙をも意味していた。儒教や仏教の自然概念や霊としての神格概念が、宣長神道思想においては批判されている。こうした真淵との対比を通じて浮かび上がってくる宣長神道思想は、記紀に準拠した神話的世界観を儒教的世界観や仏教的世界観に対抗しえる「擬制」=共同幻想として提起しようとする試みとして理解できる。また、こうした宣長神道思想における一神教神道観や実在としての神格概念は、自然から脱却した人為の問題圏を示唆し、経験主義的認識の重視を提示している点において、近世から近代への過渡的性格をもつものとして評価できる。

 

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本居宣長