定例研究会報告 「仁孝」から「名分」へ――水戸学の一断面

 6月18日の民族文化研究会定例会における報告「『仁孝』から『名分』へ――水戸学の一断面」の要旨を掲載します。

 

はじめに
 水戸学に一貫した評価を付与するのは、容易ではない。まず、水戸学は、徳川光圀による『大日本史』の編纂事業に端を発する前期水戸学と、尊皇攘夷思想の直接的な契機となる藤田東湖や会沢正志斎によって展開された後期水戸学の二つに画期される。この前期水戸学と後期水戸学の連関を捉えることが、まず困難である。そして、水戸学は、様々な思想を織り込んだ、多元的な思惟体系でもある。前期の朱子学的性格を重視すると、水戸学は朱子学ナショナリズム的展開として評価でき、中期の国学からの影響に注視すると、闇斎学的な神道儒学の統合体系と解釈できる。この水戸学の思想的多様性を、整合的に理解することが、続いて問題となる。
 だが、国体を明晰に自覚し、それによって武家政治を否定し、王政復古を牽引する原動力となった、という共通認識は存在した。ところが、こうした水戸学についての共通認識に再考を迫ったのが、遠山茂樹丸山真男といった戦後の歴史家たちだった。遠山や丸山は、水戸学があくまで幕藩体制を肯定する思惟であったとし、こうした守旧的性格は近代ナショナリズムには連続しない、と主張した。だが、戦後に一世を風靡した、こうした水戸学を幕藩体制の護教論とする解釈に対して、あくまで水戸学は明治維新の指導理念たりえた、という反論が提起された。尾藤正英の水戸学解釈がそれである。尾藤は、水戸学は伝統的朱子学に忠実な体制イデオロギーであった、という遠山や丸山の主張に、まず異を唱える。水戸学は、「仁孝」を重視する伝統的な朱子学から、「名分」を重視する新たな儒学像へと、思想的な転換を遂げている。そして、こうした「仁孝」から「名分」への思想的転換によって、水戸学は幕藩体制を超出した、近代ナショナリズムの萌芽たりえた、と主張される。こうした背景から、尾藤は水戸学を幕藩体制の内部に留めず、近代国家形成の過程のなかで、水戸学を再把握する必要を説くのである。本稿では、こうした水戸学における「仁孝」から「名分」への思想的転換を検討し、水戸学がもつ意義の一断面を指摘したい。

 

一 「仁孝」から「名分」への思想的転換
 前期水戸学は、朱子学からの強い影響を受けている。徳川光圀は、明から亡命した儒学者である朱舜水を招聘し、本格的な朱子学をはじめて導入した。しかし、前期水戸学から後期水戸学への転換期にあたって、こうした朱子学的性格は変化していく。こうした変化は、藤田幽谷の著作である『正名論』において表出した。幽谷は、ここで、名(言葉)と分(階層秩序)が緊密に連結され、社会が確固たる身分制へと分節化されることで、安定的な秩序が創出されていく、と強調している。これこそ、水戸学の「名分」の命題なのだ。
 だが、こうした「名分」の命題は、尾藤や、あるいはJ・ヴィクター・コシュマンが指摘しているように、伝統的朱子学から逸脱している。尾藤やコシュマンは、幽谷が「名分」の命題で、階層秩序の不変の区別を重視することによって、伝統的朱子学が力説するところの、統治の正統性の基準としての統治者の徳を回避している、と解釈している。伝統的朱子学は、社会を指導する統治者に、その地位に相応の道徳的実践を要請した。これこそ、朱子学の「仁孝」の命題なのだ。だが、幽谷は、社会を指導する統治者に、こうした発想に準拠するよりも、厳密に規定された階層秩序に忠実であるように要求した。幽谷の『正名論』は、「仁孝」(統治者の道徳)から、「名分」(社会の階層秩序)へと、儒学の中心的命題を転換させているわけなのだ。

 

二 易姓革命論の回避

 幽谷が、こうして「仁孝」(統治者の道徳)から、「名分」(社会の階層秩序)へと、儒学の中心的命題を転換させた動機は、まず易姓革命論の理論的な超克にあった。「仁孝」(統治者の道徳)に重点を設定すれば、道徳的に卓越した人物による、政権交代を許容することになってしまう。「仁孝」(統治者の道徳)は、統治者の正統性としては、あくまで「相対的」な性格しかもたないのだ。道徳の優劣によって、ごく簡単に政権交代が反復されることとなる。幽谷は、こうした「仁孝」(統治者の道徳)という、統治者の正統性がもつ「相対的」な性格を乗り越えた、揺るぎない「絶対的」な統治者の正統性を構築し、それによって国体を基礎づけようと試みたのである。こうした「絶対的」な統治者の正統性こそ、「名分」(社会の階層秩序)だった。相対的な道徳性(「仁孝」)を乗り越えた、絶対的な崇高性(「名分」)のカテゴリーを政治に導入する企図こそ、幽谷の『正名論』において表現された構想だったのである。

 

三 権力の二重性の打開
 そして、幽谷の『正名論』の第二の動機は、幕藩体制と皇統の二重権力の理論的な超克にあった。将軍と天皇の権力の分裂は、儒学に深刻な課題として認識されていた。幽谷は、こうした将軍と天皇の権力の分裂を、さきほど言及した絶対的な崇高性(「名分」)によって打開しようと企図する。幽谷は、権力の源泉を天皇のみに認める一方で、将軍を摂政として解釈する。すなわち、「名分」(社会の階層秩序)における崇高と世俗の二元的構造は、政治の正統性である「権威」と実際の統治者である「権力」の二元的構造へと、読み替えられたのである。そして、こうした「名分」(社会の階層秩序)を実質化させるために、幽谷は天皇のもつ絶対的な崇高性を、宗教的意義によって裏付けようと企図する。幽谷は、中国の皇帝は、伝統的に天と祖先を崇拝しているが、それらは人格化された具体的な姿をもたないために、中国の皇帝の信仰心は虚空にしか像を結ばないと指摘する。これとは対照的に、日本では将軍が現御神である天皇を崇拝する事実を通し、「名分」(社会の階層秩序)は強靭化されると主張している。すなわち、幽谷は「名分」(社会の階層秩序)という問題設定をもちいることで、将軍と天皇の権力の二重性を、崇高と世俗の二元的構造や、それを援用した権威と権力の二重性として再解釈することで、打開したのである。

 

四 後期水戸学への影響
 幽谷は、「仁孝」(統治者の道徳)から、「名分」(社会の階層秩序)へと、儒学の中心的命題を転換させることによって、相対的な道徳性(「仁孝」)を乗り越えた、絶対的な崇高性(「名分」)のカテゴリーを政治に導入した。こうして、「相対的」な性格を乗り越えた、揺るぎない「絶対的」な統治者の正統性を構築し、それによって国体を基礎づけた。また、こうした「名分」(社会の階層秩序)を、崇高と世俗の二元的構造や、それを援用した権威と権力の二重性として再解釈することで、将軍と天皇の権力の分裂を打開した。だが、ここで問題となるのは、こうした「名分」(社会の階層秩序)を基礎づける、天皇の絶対的な崇高性を、いかに弁証するかである。ここで、会沢正志斎は、『新論』において、国学からの影響下において、天皇の血統の連続性や、天皇が斎行する儀礼に着目した。これらの国体概念によって、天皇の絶対的な崇高性を、弁証しようと企図したのである。ここで、後期水戸学は、幽谷の影響下で、国学へと接近することで、闇斎学的な儒学神道の統合体系のような性格をもつにいたった。また、幕藩体制に留まらない、近代ナショナリズムへの発展も、ここから開始された。「名分」(社会の階層秩序)は、あくまで天皇を中核として設計されており、将軍がこれに違背する場合には、王政復古が理論的な帰結として出現するのである。そして、水戸学を導火線として、明治維新は勃発するわけである。

 

おわりに
 ここでは、尾藤の図式にしたがい、「仁孝」から「名分」への思想的転換を基軸に、水戸学を前期・後期通して俯瞰してみた。だが、朱子学・古学・国学・闇斎学・陽明学の複雑な折衷である水戸学に、一貫した評価を付与するのは、冒頭で触れた通り、容易ではない。ここで示した水戸学像は、その一断面に過ぎない。だが、「仁孝」から「名分」への思想的転換は、水戸学において重要な位置を占めている。この「名分」への視座は、水戸学の検討にあたって、欠かせないものであろう。

 

参考文献
遠山茂樹明治維新』(岩波書店、1951年)
丸山真男「近世日本政治思想における『自然』と『作為』」同『日本政治思想史研究』(岩波書店、1952年)
尾藤正英「水戸学の特質」同編『日本思想体系53 水戸学』(岩波書店、1973年)
J・ヴィクター・コシュマン(田尻祐一郎・梅森直之訳)『水戸イデオロギー』(ぺりかん社、1998年)

 

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藤田幽谷

 

定例研究会報告 渋川春海の尊皇思想・陸羯南の国家的社会主義

 5月14日の民族文化研究会定例会の模様を、ここでお伝えします。まず、「渋川春海の尊皇思想」と題した発表が行われました。渋川春海は、近年では冲方丁天地明察』で広く知られるようになりましたが、日本で初めて国産暦を作成した人物として著名です。ですが、春海には、崎門学派の系譜を引く尊皇思想家という、もう一つの顔がありました。この発表では、こうした尊皇思想家としての春海に迫っています。興味深かったのが、暦の作成と尊皇思想が、春海のなかでは別個の問題ではなく、有機的に関連した営為として捉えられていたことです。暦の作成は、天地の秩序を制定することであり、天子の専権事項でした。こうした意識の下で、春海は中国の授時暦を拒み、国産の貞享暦を、尊皇心から作成したわけです。

 続いて、「陸羯南の国家的社会主義」と題した発表が行われました。陸は、新聞「日本」を拠点に、明治時代に鋭い論陣を張った政論家です。陸は、徳富蘇峰などと並び、明治時代を代表する国粋主義者でした。ですが、明治時代の国粋主義者が、日本における社会主義の紹介者だった事実は、あまり知られていません。この発表では、こうした明治時代の国粋主義者である陸の、社会主義的な側面を追っています。陸は、論文「国家的社会主義」などで、放任経済による弱肉強食を憂慮し、国家が弱者救済において、積極的な役割を果たすことを主張しています。興味深かったのが、陸の社会主義的な側面が、儒教ヒューマニズムに裏打ちされていたり、足尾銅山鉱毒事件といった当時の世相への危機感が背景にあったり、単なる国粋主義社会主義の折衷ではなく、陸らしい問題意識によって支えられていたことです。これらの発表が終わった後は、非常に活発な質疑応答が行われました。

 

 

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陸羯南

 

定例研究会報告 〈神道神学〉という試み――上田賢治氏の業績から(一)

◇はじめに

 民族主義がその根幹として重んじるのは、各民族が持つ神話、そしてそれに基づく信仰・習俗である。我が民族が奉ずべきは、古伝に記された神話、そしてそれを基としたいわゆる神道信仰ということになる。ところが、単にこれらを奉ずるといってもはなはだ漠然としている。我々の立場は、文化財として神社や祭りを保護すべきであるという論ではない。確かに、各地の神社や祭りが末永く続いていくために、様々な施策が講じられることは素晴らしいことであるし、その為に奮迅する人々の努力には人一倍敬意を払いたい。しかしながら、「昔から続いてきた貴重なもの」としてのみ、それらを保護するのであってはならない。それは民族の正統な信仰の対象であり、またその発現である。その意味においては、社殿の古さやある種の珍奇さなどは、尺度として後退させる必要がある。

 神道が信仰である以上、その信仰はどうあるべきか、神を一体どう捉えればよいのか、そういった問題が表出するのは避けられない。

 今回は、神道信仰を考える手がかりとして、國學院大学の故・上田賢治氏が説いた神道神学の意義を紹介したい。本稿の基礎となっている上田氏の論文は、「組織神学の樹立と神学者の育成―「敬神生活の綱領・解説」をめぐって―」(上田『神道神学―組織神学への序章―』〈大明堂、昭和61年〉所収、初出は昭和51年)、および「神道信仰に見る唯一神教的傾向」(上田『神道神学論考』〈大明堂、平成3年〉所収、初出は昭和62年)である。

 

◇〈神道神学〉は必要か?

 さて、なぜ〈神道神学〉というものが必要なのかという、ごく初歩的な疑問が出て来よう。正直いって、〈神道神学〉などというと、怪訝な顔をされる方が多いのではないだろうか。筆者が上田氏の業績を知人に話した時、かなり警戒感を抱いていたのは良い思い出である。じっさい上田氏も、「〈神学〉という言葉を使っただけで、神道家の中には、強い反撥を示す傾向のあることも、無視しえない」として、その点に対して十分留意しながら、反論の形で〈神道神学〉の意義を説明している。

 氏が〈神道神学〉に対する反発理由の主要素として推定するのが、「神道が教義によって立つ宗教ではない、という考え方」である。確かに、神道は特定の教主によって述作されたいわゆる創唱宗教の類ではない。しかし氏は、「教義のないことは、神学のないことを意味しはしない」、「神話や制度、習俗にすら、神学は隠されてある」し、実際、中世から近世にかけて、神道は儒仏と習合しながら自己の神学を形成した時期があった点を指摘する。そして、神学の不要を説くのは明治政府以来の神道非宗教政策の「悪結果」であるが、そのような立場は行政的施策であると同時にまた「一つの神道理解、神学的思惟の結果」であるから、その立場に立つ者もその信仰形態を自覚し、積極的に発言すべきとしている。

 じっさい、教義がないということは、定められた教えがないということであるが、それは「何を信じてもよい」わけではない。氏は、信仰が神道信仰であるためには、当然そのアイデンティティが問われるはずであるが、それを「理性的・論理的に、明確なものとするのが、神学の使命であり、課題」であるとする。氏は、「良き意味での自由、悪しき意味での混乱の時代ほど、自覚的に伝統の意味を吟味し、意識化することの必要な時代はない」としているが、この現状は今もって変わらないであろう。

 また、〈神道神学〉に拒否感が示される理由として、氏は「この言葉が、キリスト教の用語であるから」というものも挙げ、これは決して「無視されてはならない要因であるように思われる」とするが、それは次のような理由である。

 一つの文化論的な立場として、日本人は外来文化を取り入れ、それを日本的に変容して活用するものであり、それが本来的な姿であるというものがある。また、人間の本性に根ざす優れたものは、文化的発現形態に差こそあれ、本質は相通ずるものであるから、外来の概念を借りて自己を表現しても構わないのではないかという見方もある。実際、神道は長く儒仏を習合させた形態をとっていたという歴史的経緯がある。

 氏はこのような見解の妥当性を一面において認めつつ、文化複合の可能性は、「覚めた意識、自覚的な反省と、主体的な能動とによって動機づけられたものでなければならないはず」とし、それを欠くならば、「そこに結果されるものは、文化のアパシーであり、アイデンティティ喪失の植民地文化に他ならない」と手厳しい。そして、自己が自己自身を問う営みは、「可能な限り、原理的に、自己の本来的な姿に立ち返る営みとしてあるべきで、外来文化の受容、外来文化との習合も、その原理に許容されるものである時に、はじめて、価値的な承認を得られるべきはずのものである」と表明する。そしてこの意味で、〈神学〉というものの外来性を意識・警戒するのは決して軽薄な理由と言い切ることは出来ないというのである。

 しかし、〈神学〉という語はすくなくとも近世の段階で日本語として成立しており、今日的意味とは違ってはいても用いられていた事実があり、またこの語は、「信仰の弁証学として、学術的な要語の資格を克ち得ている」と氏は述べる。そして、神道は神を信ずる宗教で、神社神道は宗派を立てない点に特質を持つので、仏教で用いられる〈宗学〉、〈教学〉という語より妥当であろうと結論している。

 氏が神道神学の理由を説く理由は、以上の通りである。氏の主張する〈神道神学〉は、先に引用した「可能な限り、原理的に、自己の本来的な姿に立ち返る営み」という表現に集約されているであろう。

 

◇過去における〈神道神学〉への取り組みはどうだったのか?

 さて、〈神道神学〉の必要性は大略諒解されたと思われるが、その方向性について、氏はどのような見取り図を持っているのか。氏には国学に関する研究業績もあり、その中においてこの点に関するより詳しい指摘もしているのだが、今回はまず本稿で取り上げている二論文を基に、過去の我が国における〈神道神学〉への取り組みへの氏の評言を取り上げ、これを見ていきたい。

 まず、先に挙げた通り、中世から近世にかけて、神道は儒仏と習合しながら〈神学〉を形成した時期があった。しかし、これは氏が言うところの、「可能な限り、原理的に、自己の本来的な姿に立ち返る営み」としては許容できないものであり、氏の言及のなかでも総体として大きな比重は占めていない。

 ひるがえって、氏はこのような営みが「たゞ一度、国学によって試みられたことがあるように思われる」と、この観点から国学を高く評価している。しかし、氏は同時に「近世に成立展開した国学は、理知主義的な信仰の理解や表明を嫌う余り、理性に基づいた自己分析や、信仰の体系化・組織化を怠り、文学的心情の世界、或は神秘主義的思弁の世界に立て籠る誤りを犯したのではないかと思われる」と手厳しく批判をも加える。国学が、原理的に自己の本来の姿に立ち戻ろうとした姿勢は高く評価されるべきではあるが、同時に、いわゆる「言挙げせぬ」風潮に対しては、その二の轍を踏んではならないと厳しく警戒しているのは極めて注目すべき見解である。

 また、明治期以降の「神社非宗教化政策」的立場も、一面では「一つの神道理解、神学的思惟の結果として、意味づけられる性格のもの」と見られるわけであり、氏はこれを「明治神学」と表現しているが、この立場に関して氏が極めて批判的であることは、前節で触れた通りである。

 

◇「神社審議会アンケート」に現われた問題

 以上が、上田氏の説く〈神道神学〉の意義と、過去の〈神道神学〉営為への評価であるが、本稿では氏が具体的に指摘・批判している事象として、昭和41年に行われた「神社審議会アンケート」、および昭和47年に発表された「敬神生活の綱領」解説稿本を取り上げたい。戦後(そしておそらくは現在の)神社界、そして広く神社に関心のある人々にとって、そして何より〈神道神学〉というものの必要性を認識する人間にとって、これらの事実は非常に重大な意味を持つものだからである。

 まず、昭和41年に行われた「神社審議会アンケート」に関する氏の指摘を見てみたいが、その前に、戦後における神社の教義問題の流れを、氏の整理に従って提示しよう。

 被占領下の昭和21年、軍政によって要求された神社の制度的宗教化政策に対応するため、「教義に関する調査委員会」が設置された。ところがその席上、会合の主査を務めていた神社本庁の中西旭氏が、「神社神道の信仰が天御中主神に帰一すべきである」という意見を提出、これに対して参加委員の中から強い反発が起こったという。翌年開催された神社審議会においては、教義問題について伊勢神宮を中心とする旨を本庁に答申、また同年の五月、教化課長・小野祖教氏が「教義調査取扱要綱」を作成し、教義に関する調査委員会の同意、および理事会の承認を受けることによって、この問題は一応解決した。この「教義調査取扱要綱」は6カ条からなり、氏のまとめによると、①神社本庁々規に準拠する信仰であること、②神社の伝統に即し、これが発展に属するものであること、③神社の奉斎神の信仰に現実の基準を置くこと、④神宮を中心として統合調和している信仰であること、⑤特定の一神が一切の神の本質を併合するが如き教義は除外されること、⑥善美なる宗教として人道に背戻しないこと、という内容であるという。神社界の結論としては制定教義を持たないということであったが、信仰生活の目標を示すという意味で、昭和31年に神社本庁が制定したのが「敬神生活の綱領」である。

 さて、「神社審議会アンケート」は、この「敬神生活の綱領」制定から10年後の昭和41年、神社本庁宮司神道学者、神道人約300人を対象に行った教義問題を中心とするアンケートである。上田氏は、設問中の「神々の統一」に関して注目を寄せている。
 まず、このアンケートに回答を寄せた者が120名であり、上田氏は「この事実そのものが、神社界における教義問題の如何に関心度の薄い対象であるかを示している」と手厳しいが、その120名のうち、この設問に答えたのが86名、直接の回答を避けた者がそのうち34名に及んだのである。

 そして残りの52名のうち、神道多神教であることを認めたのは35名、そのうち、諸神に統一を求めることが不可能とした者も含めて、ただ多神であることを述べた者が8名、他の27名は多神に統一のあることに触れ、そのうちの12名は天照大神がその中心に位置することを述べている。氏が特に問題としているのは、「86名の回答者中、17名が、神道の多神性よりも一神性に強調点を置き、そのニュアンスで多神の統一という問題を理解している事実である」という。

 すなわち、先ほどの「教義調査取扱要綱」の中では、「特定の一神が一切の神の本質を併合するが如き教義は除外されること」と明示されていたにもかかわらず、アンケートにおいては一部の神道人が、「一神性」の強調を表明しているのである。氏は、「これは、教学的な不統一というよりも、信仰の不一致さえが堂々と黙認されている事実だと、認定してよいのではあるまいか」としている。詳しくみると、17名のうち3名は汎神論的一神という理解であり、14名は一神即万神と主張する。後者のうち一神を天照大神とするものは6名、天御中主神とするものは3名、他は神名を特定していない。とりわけ、神に統一があると理解する集団12名に対して、この一神(=天照大神)即万神の6名は「諸神の神徳がアマテラスに吸収されること、換言すれば、諸神が天照大神の霊的機能の顕現体に過ぎないと理解している」のであって、その差異は明瞭であるという。

 

◇おわりに

 以上のような神社界の現状をみれば、上田氏が、神道信仰が立脚する基盤の不安定を自覚したことが十分に納得出来る。次回の報告では、神社本庁が昭和47年に発表した「敬神生活の綱領」解説稿本に関する上田氏の指摘をみていきたい。

 

 

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上田賢治『神道神学』

 

【コラム】「アジア特有の道」――現代アジアの経済発展と近代化

 往時と対比すると退潮の気配が深まりつつあるとはいえ、中国の台頭は目覚ましい。経済・技術・軍事にわたる、物質的側面での中国の成長は、世界情勢そのものを塗り替えつつある。だが、こうした中国の発展は、手放しで礼賛できるのだろうか。換言すれば、こうした中国の発展は、健全な成長と評価できるのだろうか。こうした疑問をもって、現代中国を眺めた際に、ある歴史的事象が想起される。それは、第二帝政期のドイツの躍進だ。

 第二帝政期のドイツは、ブルジョア層が脆弱で、市民社会が未熟なまま、三月革命を頓挫させ、社会発展段階ではイギリス・フランスの後塵を拝していた。だが、上からの近代化が奏功し、やがてイギリス・フランスを圧倒する技術力・経済力をもつにいたる。フリッツ・フィッシャー『世界強国への道:ドイツの挑戦、1914-1918年』やハンス・ウルリヒ・ヴェーラー『ドイツ帝国:1871‐1918年』などを参照してもらいたいが、ドイツの歴史家はこうした不均衡な発展を「ドイツ特有の道」と呼んだ。社会的後進性と経済的先進性のいびつな混合は、正常な近代化ではない「特有の道」であるわけだ。そして、こうした「特有の道」こそ、ドイツを第一次大戦へ駆り立て、やがてファシズムへと牽引してゆく。

 話題を戻すと、こうした「社会的後進性と経済的先進性のいびつな混合」こそ、現在の中国を読解する手がかりとなるのではないか。経済的先進性によって増大した国力は、社会的後進性のために自律性に乏しい社会に投下され、専制的な国家体制を形成するにいたる。すでに、中国は、ナチスと見紛う専制的な国家体制を形成している。そして、こうした専制的な国家体制は、必然的に対外膨張を企図する。すでに、中国は、ナチスと同様に、領土的野心を顕わにしている。中国の、第二帝政期のドイツのような「政治的後進性と経済的先進性のいびつな混合」は、「中国特有の道」とでも呼称すべき不均衡な発展をもたらし、破局的な帰結へと向かっているのではないだろうか。

 そして、さらに問題となるのは、こうした「社会的後進性と経済的先進性のいびつな混合」が、現代アジアにおいては、中国に限定されない点だ。東南アジアを中心とする開発独裁国家は、こうした「社会的後進性と経済的先進性のいびつな混合」の好例である。こうした国家群は、先述した中国と同じく、目覚ましい経済成長を遂げた。だが、先述した中国と同じく、不均衡な発展を原因とする、破局的な帰結を迎える危険性を抱えている。また、韓国や台湾といった社会・経済の双方が先進国水準の成熟を遂げた国家でも、同様の問題を指摘することができる。安秉直や李栄薫が提唱した、いわゆる「植民地近代化」論が指摘するように、韓国や台湾は、あくまで日本による統治という外的要因によって、近代化に成功したに過ぎない。すなわち、韓国や台湾は、受動的・他律的な近代化しか経験できなかったわけである。すなわち、中国や東南アジアを中心とする開発独裁国家が、経済分野における成熟しか実現できなかった「片面的近代化」しか経験していないとすれば、韓国や台湾は、受動的・他律的な成熟しか実現できなかった「表層的近代化」しか経験していないわけだ。

 「片面的近代化」や「表層的近代化」は、本稿における造語である。だが、「社会的後進性と経済的先進性のいびつな混合」や「受動的・他律的な近代化」である「植民地近代化」は、厳然として存在している。現代アジアは、目覚ましい経済成長を遂げつつも、こうした奇形的な近代――いわば「アジア特有の道」――しか経験できなかったのだ。そして、現代アジアは、さらなるアポリアを抱え込むこととなる。経済成長が加速するほど、こうした近代のいびつさが深まる、という課題である。すなわち、現代アジアは、技術力や経済力を獲得すればするほど、社会的後進性と経済的先進性の「ずれ」が深まり、正常な近代化の軌道から逸脱してしまうのだ。では、こうした奇形的な近代――いわば「アジア特有の道」――を展開しつつある現代アジアに対して、日本はいかなる態度を示せばよいだろうか。この深刻な課題については、他稿に譲りたい。

 

奉祝 昭和の日

 本日は、昭和の日です。全国で、昭和の日を奉祝する式典が挙行され、晴れやかな表情でこの慶き日をお祝いする人々の姿が見られました。当会も、多くの国民と共に、激動の昭和の御代に想いを馳せ、昭和天皇の御聖徳をお偲びしたいと思います。

 

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昭和天皇

 

 

 

討論会報告 民族宗教(パガニズム)の可能性

 過日、民族文化研究会では、有志によって「民族宗教の可能性」を主題に、討論会を行った。現代における民族宗教の展望をめぐって、数時間にわたり議論が交わされた。そこでの議論は、民族宗教に伏在している可能性を剔出するものとなっている。以下は、その討論会の議事録である。また、参加者であるトモサカアキノリ・湯原静雄の両者は、それぞれトモサカ・湯原と表記している。

 

湯原「この度は、民族宗教が議題となっていますが、まず民族宗教の定義から議論を始めたいと思うのですが、いかがでしょうか」

トモサカ「民族宗教という言葉ですが、僕の場合は、まずこの語を漢文系の語彙として『民族的(Ethnic)な宗教ないし信仰体系』という意味合いでとらえています。次いで重要な要素として、西ローマ思想の文脈としては、この語を『Paganismus』としてとらえることができますので、その総合であるととらえて頂いて問題ないです。英語では『Paganism』ですね」

湯原「パガニズムという概念で分析される宗教には、具体例としてはどのようなものがあるでしょうか」

トモサカ「例えばドイチュラントのヴォータン(英語ではオーディーン)、エーラ(アイルランド)やフハンスに残るケルト系のドルイドコプト(エジプト)発祥のケメト教などが、それにあたります」

湯原「ヴォータンやドルイドは、キリスト教の外圧によって、かなり衰微していると聞き及びます。パガニズムは、民族固有の信仰体系のみならず、こうした民族固有の信仰体系の衰微を受け、こうした宗教の再生を標榜する運動でもあると理解して良いでしょうか」

トモサカ「まず、ヴォータンの信仰については、僕の知る限り近代以前ですと、衰退というか消滅しているものだと思います。どうやら田舎の山村には、そういうものをお化けの一種として祭典を行うという文化が残っているらしいのですが、それはキリスト教の強い信仰が支配する社会にとっては残滓程度でしかないものでしょう。そして、質問のほうですが、核心を突いた良い質問だと思います。すでにその言及それ自体に、民族宗教の性質が含まれていますが、民族宗教とは、民族の歴史においてかつて信じられた信仰を指すのであり、また、民族の始原の状態で信仰された思想体系であるととらえられています。賛否はともかく、このような捉え方は古今東西一致していると考えてよいでしょう。逆に言うと、民族宗教はすでに大多数には信仰されていない宗教ないし信仰体系であり、一方その社会では現在、民族宗教ではない大宗教が一般的であるということですね」

湯原「これで、パガニズムという概念の大枠が明瞭になってきたように思われます。民族の原初において信仰されてきた宗教、ヴォータンであれドルイドであれ、そうした信仰をふたたび蘇生させる、こうした意図が伏在している概念なのですね。では、パガニズムの概要を理解したうえで、本格的に議論へと移りたいと思います。まず、パガニズムという概念の中心にある、『民族に固有の信仰』という規定なのですが、これについて議論したい問題があります。『民族』という特殊性と、『宗教』という普遍性を、いかに整合的に理解するか、という問題です。これについて、どう思われますか。パガニズムは、ローカルな民族性に依拠しています。しかし、宗教である以上、普遍的な真理や超越にも言及しています。ここで、パガニズムは、ローカルな民族性を基礎づけつつ、グローバルな普遍性をも包摂しているわけです。パガニズムは、こうした倒錯した状態によって、かえってローカルな民族性を掘り崩しかねないと思います。この問題を、いかに理解すればいいでしょうか」

トモサカ「そうなりますと、『宗教』についてどう定義するかという問題が生まれますが、僕は『宗教』と『信仰』をさして区別せず宗教としてとらえており、その定義を『神秘主義(根拠のない事実認識および価値意識)を含む思想体系』であると考えています。そして、創唱宗教や自然発生的な信仰を等しく宗教ととらえています。つまり、民族宗教と、民族の歴史においてその後定着する大宗教とでは、単にヘゲモニーの違いしかなかった、という認識が根底にあります。もちろん、摸倣子(Meme)の強弱で言って大宗教のほうが強かったということができますが、その内容はどれだけ信仰が体系的であるか、どれだけ信心深いか、改宗の理論が発達しているか、といった手法的なものであり、信仰そのものではないと考えています。そして、民族宗教であろうと創唱宗教であろうと、それが一個の世界観であることは全く変わりませんし、それぞれが矛盾するということも当然同じ条件です。例えば、有名なゲルマン神話では世界は闘争の末に消滅するということですが、対照的にローマ神話では世界の終末は予期されていません。すなわち、世界は終わるか終わらないかという事実認識が根本的に異なっているのです。つまり、もともと宗教に普遍性はなく、単に流動的な優劣の状況が異なっているだけであったということです。しかし、それでも民族宗教は存在しているのです。信者もなく、場合によっては体系的ですらない『宗教』が、西ローマの国民主義の発達とともに、多くはキリスト教以前の民族の記憶を探るという名目で発掘されてきたのです。つまり、その発掘者にとっては、その信仰そのものを探るというよりも、『民族の本来の思想』を発掘するということに主眼が置かれてきたのです。その一部は、確実にその段階で整合性をとり、体系化すなわち改変がなされているのですが」

湯原「つまり、宗教の普遍性そのものが、虚構であるわけですね。普遍性があるように映る大宗教は、ヘゲモニー闘争の勝利の結果として、そう『見える』だけであるわけですね。現実には、諸宗教が、相互に対立する世界観を、それぞれ信奉しているに過ぎない。こうして、各々の宗教が、このように相対化された結果として、普遍的ではない個別的なるものとして、すなわち民族固有の信仰として出現してくる、あるいはそのように選択されてくるわけですね。すなわち、民族宗教は、宗教の正統性の根源であった、グローバルな普遍性を否定した先にあるわけですね。そこにあるのは、もはや普遍的な『神学』ではなく、民族意識の喚起や、国家生活の基礎づけといった『世俗』の動機でしかない。こうした、宗教が終焉したあとで、それでも可能な生の根拠として、政治や社会と接続され、世俗化された『ポスト宗教』として、民族宗教は位置づけられると思います。続いて、この問題について、議論を進めたいと思います。いかがお考えでしょうか」

トモサカ「その通りです。民族宗教とは、あくまで後世の民族ないしその延長としての国民にとって有益な『固有の思想』なのであって、その点では、初めから民族の期待という箍(たが)をはめられた宗教であるわけですね。そして、僕もそれを肯定的に受け止めていることを素直に告白したいと思います。これらの発想に着目すると、元来から宗教がもつ信仰の危険性は、こうした世俗主義の抑止力によって、手なずけることができるわけです。そして、西ローマにおいては、こうした世俗化というより、もっと理論的に先鋭である進化論や唯物論無神論の体系に触れたと思われる合理的な近代人によって、民族宗教的なものが発掘されていく過程があります。いうなれば近代と整理された国民国家(ないし付随的に民族)の洗礼を経て、民族宗教という枠組が生まれたととらえるべきなのです。さらに、そこには、ある種の平和主義が認められます。つまり、本来はグローバルなはずの宗教地図に、あらかじめ国境線が引かれており、民族宗教はその外側には出ようとしません。世俗化によって、いわば無毒化された宗教が、民族や国家の基礎づけのため、援用されてきたわけです」

湯原「なるほど」

トモサカ「ところで、危うく通り過ぎるところでしたが、ご指摘の通り近代とは宗教が終焉を迎えたとみなされた時代でもあったのですね。指摘したように、西ローマではローマ・カトリックの分厚い信仰の規範と道徳体系が価値観のすべてを覆いつくしていましたが、近代合理主義を基礎とする科学的手法が積み上げた事実認識の体系によって、その信仰に根拠がなかったことが白日の下にさらされるのですね。この過程で、非効率的ないし非人道的とみられる風習や文化が排除され、市民階級を中心にした人民が、明らかに身体的にも精神的にも開放され、ある種の利便性が保証されていきます。しかしながら、これは同時に価値観そのものの否定にも結び付いていきます。宗教の根幹としての神秘主義は、そもそも善悪とか真善美等の価値観の基礎になっていたものですが、その崩壊は、結局価値観そのものの無根拠性を暴き出し、哲学的な空白の時代を準備してしまうのです。たとえば、我々が世界の目的そのものである神のご慈悲によって塊(つちくれ)から作られ、その目的を全うするために生きるのであれば、何かのために生きたことになるのですが、偶然化学的な作用によって生まれた蛋白質の機構が増殖を繰り返す内に消滅の危険があるものを避けていき、その結果複雑な生体的機能を得て生物となり、我々人間もその一つに過ぎないとすれば、何者かに我々が生きているべきであると保証されるという希望は永久に損なわれていることになります。ニーチェは『神の死』を説いたのですが、他ならぬ彼がそれを超越できずに狂死したことは、近代の矛盾を端的に表す史実であると考えてよいでしょう。ですから、だれがバクテリアであった過去を誇りにできるか、という問いは、我々にも向けられていると考えるべきでしょうね。すなわち、一般的な社会にとって宗教は必要であり、その体系と矛盾する無神論唯物論事実認識は、そのままでは規範の資格がないと考えざるを得ません。ここで、宗教のもつ危険を排しつつ、人間の生を支える規範たりえる、民族宗教が注目されるわけです」

湯原「民族宗教の歴史的展開として、宗教の普遍性の瓦解(神の死)から、よりローカルで個別的なものとして、信仰の性質が転換する、という図式が描けるわけですね。こうした信仰は、宗教の普遍性の瓦解(神の死)のあとで、それでも可能な生の根拠として、政治や社会と接続され、世俗化された『ポスト宗教』として、出現してくるわけですね」

トモサカ「そうです」

湯原「ところで、こうした図式は、さきほど言及された西欧だけでなく、日本にも適用できると思います。まず、近世期における、形而上学への文献学的批判に着目しましょう。藤原惺窩や林羅山といった朱子学者による仏教批判を契機に、近世期には形而上学への文献学的批判が大きな潮流となります。この潮流は、伊藤仁斎荻生徂徠といった古学派による儒学そのものの脱構築の企図や、富永仲基や山片蟠桃懐徳堂の知識人による無鬼論(無神論)に発展しました。ここで、近世期の啓蒙主義的潮流によって、形而上学の瓦解(神の死)がもたらされたわけです。そして、こうして宗教の普遍性が破綻するなか、民族の固有性に脚光が集まるようになった。すなわち、近世思想の中心が、儒仏から国学へと転換するわけです。そして、ここで、民族宗教の体系化を標榜する、古道論(古神道)が登場しました。宗教の普遍性の瓦解(神の死)から、よりローカルで個別的なものとして、信仰の性質が転換する、という民族宗教の歴史的展開を、日本も辿ったわけです。そして、こうした古道論(古神道)をもとに、民族・国家を文化的に防衛するという政治的構想を明瞭にした国家神道が登場するわけです。ここには、世俗化され、政治化された宗教という、民族宗教の典型的性格が表出するとともに、世界宗教に対抗し、民族・国家をいかに防衛するか、という民族宗教がもつ課題も浮き彫りになっています。では、続いて、こうした世界宗教に対抗し、民族・国家をいかに文化的に防衛するか、という民族宗教の課題について議論したいと思いますが、この点について、いかにお考えでしょうか」

トモサカ「そうですね。オーヤシマ(日本)人と西ローマは同時に発達してきたとする考えがありえますが、こうした梅棹忠夫の近代化論に即した理解は分かりやすいですね。先の議論に続けていえば、我々は価値の欠損を埋めるためにも、世界の均衡を形成するためにも、民族宗教を防衛し拡大することを考えなければなりません。その前提として、世界を民族を単位に再設定しなければならないと考えています。それも、共存共栄できる諸民族です。重要な注釈ですが、ぼくは民族を徹底的に『Ethnic groups』という概念に置換しています。そして、『Nation』を基本的に国民と訳しています。国民は様々な経緯から、西ローマ文明を中心にして近代に作り出されたものですが、その原型になったのは基本的人権や平等といったフハンス革命にかかわる近代思想である機能的側面と、もう一方では歴史の始原から現在まで同一の民族が継続していると考える民族の信仰が国民を支えているのです。さて、民族宗教が最大の勢力を持っているのは我が帝国です。そして、この勢力も決して強力とはいえません。むしろ衰退の傾向にあると考えるべきでしょう。対比的に、先進国や高度資本主義社会では単なる世俗主義が優勢になりつつありますが、この思想や傾向は、その性質から、あまり宗教の敵ではないのですね。世界全体でみると、同時に大宗教も人口が増えていくことに注目しています。宗教は基本的には排他的なものですので、オーヤシマで言えば、ある側面では仏教やキリスト教神道の敵ではありますが、最近はイスラームに着目しています。既に指摘したように、それぞれ大宗教は強力な伝播力と優れた神学理論を持つ摸倣子の体系であり、精神的思想的に神学に乏しい神道よりも優位な立場にあります。そういう中で神道の武器は、思想的には唯一思考停止しかないような状況といえます。したがって、神道には体系的思想がないといけないのです」

湯原「神道神学の整備は急務ですね、既に多くの人々が指摘しておりますが」

トモサカ「しかも、それだけでは勢力が不足していることは隠しようもないことです。大宗教は、世界的に連帯しているため、当然ながら精神面にとどまらない物理的な強さがあります。この点、民族宗教はその性質上、これまでは全く力を持ち得てこなかったのです。ここで想起しなければならないのは、汎民族主義といいますか、世俗主義を媒介にした普遍的な民族主義です。つまり、他の民族の成員に対して、民族宗教を勧める立場です。神道はそうした立場から、民族内においては信仰者の顔をして神学理論の構築を行いつつ、海外に向けては、現地の宗教の蘇生を、無神論者の立場から行うよりほかに方法がないでしょう。捕捉ですが、そこで大宗教との対立を生まないことはとても大切なことです。先ほどの意見とは逆説的なことを言いますが、神道の優れた点の一つに、思考停止があります。あまり考えないことによって、大宗教である仏教との共存が履行されているのです。この点については疑問に思われる方がいるかもしれませんが、たとえば明治時代に遡りますとご存知の通り廃仏毀釈という武力闘争などが行われたことがあるのですが、その後神道は神学理論を殆ど追及することなく歴史の表舞台からは退くことになります。とはいえ、民間宗教としては単なる摸倣子としてよく残り、一般的な民衆は、その信仰が仏教やキリスト教と矛盾し対立するという論理を明確にしないまま生きながらえているのです。これはある種の世俗主義でもあります。これを優れているととらえているのは、世界の世俗化した地域なり社会階層にも同様の手法で、民族の自己同一性を喚起する手法となりうると理解しているからです。そうでなければ、大宗教の優位な地域なり社会階層に浸透することはまず不可能ですから。つまり、それは世俗化した人々の脳裏に摸倣子として刷り込まれることによって伸長する必要があるということです」

湯原「そうですね」

トモサカ「勿論、神学が進むことはそれ自体悪いことではないのです。ちなみに、僕はその視点から神道神学の研鑽と体系化を志向しているのですが、日本書紀古事記には様々な矛盾や論理的説得力のない点も多いのと、いくつかの理由から別の聖典を欲するようになり、体系的な神学が許された文献を探した結果、いわゆる『古史古伝』の一つである『ホツマツタヱ』に目を付け、これを信仰しています。『古史古伝』のような、宗教以外にも文字にも民族固有な摸倣子を求める態度は世界中に見られ、ドイチュラント人にとっては同じチュートン(ゲルマン)人が使っていたフサルク(ルーン)文字がそうした意識で啓発されましたし、真贋はともかくスラヴ人にとっては『ヴェレスの書』は同様の期待が向けられているといえます。話がそれましたが、民族宗教は、多数派になっても少数派である大宗教に対して寛容でなければならないと考えています。少数派であるとはいっても、国際的なつながりの強い宗教は、あくまで民族宗教の、もっと言えば民族自体の脅威になりうるものです。対立は双方にとって無益なものであろうと考えます。そこで、この均衡を制度化し、神道のような民族宗教がその民族の公式の宗教として地位が認められるとともに、その地位と宗教的核心としての民族文化の存続と発展を大宗教に認めさせることで、少数派としての大宗教の存続を防衛するような関係性を構築すべきでしょう。ぼくはこの制度を『ヘゲモニー宗教制』と呼んでいます」

湯原「『ヘゲモニー宗教制』は興味深いですね。大宗教と民族宗教の均衡を制度化することで、大宗教のもつ伝播力による民族性への脅威を緩和しつつ、民族宗教を大宗教と協調させることで、民族宗教による民族性の喚起を安定して実行できるようになるわけですね。こうした『ヘゲモニー宗教制』は、いわば最終的に目標とすべき宗教状況であるわけですが、こうした状況を創出するためにも、差し当たっては民族宗教を理論面・組織面の双方で、強靭化させる必要があると思います。こうした民族宗教の振興のため、解決すべき課題は多いかもしれませんが、今回の討論によって大枠の方向性は明らかになったと思います」

 

定例研究会報告 近年の記紀を巡る議論瞥見

一 はじめに

 我が民族の原点、基層を探る時、どうしても避けられないのが『古事記』『日本書紀』(以下、記紀)といった古典である。記紀を巡る研究は莫大なものがあり、研究史を瞥見するのは容易なことではないが、さりとて従来の研究の参照は、どうしても必要なことである。

 本稿は、近年の記紀を巡る議論のうち、磯前順一氏、小路田泰直氏、若井敏明氏の発言を簡単に紹介するものである。このうち、磯前氏はポストモダン的立場からする記紀理解と評し得るものであり、対して小路田氏、若井氏は、戦後の記紀批判を基調とする古代史学やポストモダン的立場に対する率直な疑問を投げかけているのである。

 

二 磯前順一氏の発言

 磯前氏の記紀に関する発言を、氏の『記紀神話と考古学 歴史的始原へのノスタルジア』(角川学芸出版、平成二十一年)から見てみたい。

 氏は、「記紀や考古学の世界は、近代日本において人々がみずからの過去を形象化させようと欲したとき、「祖先の、太古に生きた鼓動」(相沢忠洋の発言:筆者注)を感じさせる郷愁の対象として関心を惹起してきた」(二十頁)と述べる。そして、「時間的前後関係として先にネイションという実体が形成されて、それに見合うように後から国民の歴史をめぐる語りが創出されてきたということではなく、むしろそのような語りのもつ行為遂行性によって同時性のなかでネイションという主体が形成されてきた」(二十二頁)として、研究によるネイションの記憶形成を指摘するのである。ポストモダン的な視点を代表する見解といえよう。

 磯前氏は、酒井直樹氏の提唱する「死産された日本語・日本人」という概念を重視する。酒井氏の見解を少々長いが以下に引用しよう。

 「私は、十八世紀の新たな言説の変更の結果として……、おそらく初めて、日本という名辞によって漠然と支持された地域に住まう人々によって話された日常語を、中華つまり中国の言語とはきっぱり識別されたものとして、概念化する可能性が生まれた、と主張した。しかし当時の、今日日本と呼ばれる地域は、多くの国と社会集団・身分に分断され、方言や文体の多様性は膨大なものであり、「日本人」によってしゃべられる「日本語」なるものを十八世紀に見出すことはできなかった。そのため、その維新(=復活restration)が熱望される、喪失され死んだ言語としてしか日本語を概念化することはできなかったのである。つまり私は、日本語と日本民族は、一定の言説において音声中心的な言語概念が支配的になるにつれ死産したと、主張したのである」(酒井直樹『日本思想という問題』〈岩波書店 1997年〉)

 ある種、究極的な「想像の共同体」論であると言い得るものであろう。しかし、磯前氏は過去への素朴な郷愁は、「死産された日本語・日本人」に回収され尽くす訳ではなく、「余白と亀裂」、すなわち国家の物語に回収されない要素があるはずだと述べる。この点は、単純な国民国家批判などと違う点であって注意すべきであろう。氏は、記紀、考古学研究は「個人の意識を肯定する反映物へと矮小化されることなく、むしろ逆に個々の存在に変容を促していく働きをなすかぎりにおいて、人間関係が生み出す矛盾と葛藤の場として大きな可能性をはらんでいる」(十三~十四頁)。抽象的な表現のためいささか理解しにくいが、「個人の意識」の「肯定」、すなわち国家主義的な歴史観に収斂されない可能性があるというわけである。固定化された「歴史的言説の空間」を問い直す手段として、記紀研究や考古学が生きてくるというのが、氏の結論である。

 

三 小路田泰直氏・若井敏明氏の発言

 磯前氏のような、ポストモダン的な記紀理解、さらに遡れば戦後歴史学における伝統的な記紀理解(記紀批判)に対して、懐疑的な意見が表明されていることも見逃せない。これは決して多数派ではないが、率直な見解として非常に興味深い。本稿では、その例として、小路田泰直・西谷地晴美・若井敏明氏「対論 古事記日本書紀はいかに読むべきか」(『日本史の方法』七号、平成二十年)における、小路田氏、若井氏の発言を紹介したい。

 まず、小路田氏の発言である。「「『古事記』『日本書紀』は八世紀律令国家の支配者による自己正当化のための作り話(もう少しオブラートに包んでいうと「物語」)だから、歴史としては信がおけない」という。一見当たり前のことをいっているようにみえるのですが、じゃあ、そういっている人が「貴方の書く歴史論文は、どこまでいっても二一世紀日本人の描く物語だから、歴史の事実は多分反映していないでしょう」といわれたらどんな気分がするでしょうか。(中略)人が歴史としてものを書くということと、フィクションとしてものを書くということの違いについての吟味が欠如しているように思えるのです」(18頁)非常に鋭い指摘であろう。当時の人々による歴史叙述がいかなる意味を持っていたのか、熟考を迫る発言である。

 続いて、若井氏の発言を見てみたい。「(記紀の潤色論について)『古事記』と『日本書紀』を読みますと、『日本書紀』のほうがデータ数が多いのです。小学校の教科書と高校の教科書を比べて、高校の教科書に増えているデータはあとから付け加えられたといっているに等しい議論になる」(二十八頁)。ごく率直なたとえであるが、『記』を純朴で史実を多くとどめており、『紀』は潤色が多いという常識に再考を促す指摘である。

 続いて、「極論いたしますと、津田さんは神武東征に本格的に取り組んで日本古代国家の形成を論じるということから逃げられたわけです。それを一足飛びに、これは一種の説話であるということで神武東征伝説を棚上げすることによって、それを歴史の素材からはずし、そのことによって古代国家形成史というものを文献的に追究しようというところから逃げたわけです。逃げたことによって彼の頭の中には仲良しこよしの古代国家ができあがって、これが現在の、語弊があるかもしれませんが、古代史学に連綿と続いているというのが私の考えです」(三十一頁)。これは津田の描いた単一民族的古代史像に対する批判であり、小路田氏『「邪馬台国」と日本人』(平凡社、平成十三年)、若井氏『邪馬台国の滅亡』(吉川弘文館、平成二十二年)などにおいて津田史学批判が詳論されている。若井氏の古代史理解に関する近業としては『「神話」から読み直す古代天皇史』(洋泉社、平成二十九年)があり、極めてユニークな著作であるので、別の機会に紹介したい。

 

三 まとめにかえて

 本稿は、磯前氏、小路田氏、若井氏の研究の簡単な紹介に過ぎないが、戦前からの記紀批判の潮流に加え、ポストモダン的見地からする相対主義懐疑主義の立場の盛行の一方で、記紀研究による古代像の復元という研究スタイルを取る論者も継続して存在していることの一端がうかがえるであろう。

 戦後、古代史研究の進展に伴い、その論調も多様化している。必ずしも戦後の研究を「国家観」を喪失したものとして批判する必要はなく、各論者の業績に素朴に学ぶ必要が大いにあると言ってよい。今後、立ち入って記紀研究の各論を紹介していきたいと思う。