民族文化研究会

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定例研究会報告20 日本神話への視点――萩野貞樹『歪められた日本神話』の紹介(六)

 去る3月11日の民族文化研究会定例会における報告「日本神話への視点――萩野貞樹『歪められた日本神話』の紹介(六)」の要旨を掲載します。

 

 前回に引き続き、萩野貞樹『歪められた日本神話』(PHP新書、平成16年)を紹介する。今回は、第3章「神話各説を批判する」の第6節「学者の想像力について」、および「第4章 諸家の論理操作について」である。
 
 第6節「学者の想像力について」で論じられているのは、いわゆる「架上説」と呼ばれるものである。この説は、天御中主神を論じる際にきまって依拠される説であり、ごく簡単に述べれば、古代伝承は上へ上へと積み上げられていくものであり、最古の神とされている神が実は最も新しい、という説である。

 この説の初出ははっきりしないようだが、江戸時代の学者・富永仲基『出定後語』に「加上」の語があり、萩野氏はこの語が転じて「架上説」となったのではないかと推定している(なお、この富永仲基は内藤湖南が評価した学者として知られる)。

 富永は、仏教の教義は根本的なものを求めて時代的に遡って理論を構成したと唱えた。『翁の文』においては中国古典に対して同様の解釈を試み、墨子が堯舜を尊んだのは、孔子が文王武王を賞賛した上を行くためであった、などと述べている。もっとも、厳密にみれば、富永は遡及して尊崇した対象を創作とは言っていないので、この点は注意が必要であろう。

 さて、この架上説、外国神話の形成過程を研究して、その有用性が証明される、あるいは、日本神話の一部に同説による成立が証明されるのであれば、天御中主神を論じる際に援用しても差し支えないが、そういった証明は当然ながら出来ない。「架上説によれば、このように考えられる」という仮説の開陳は出来るが、そうだったとは言えないのである。この点は、よくよく注意せねばならないだろう。

 とはいえ、この仮説は相応に流布しており、松前健氏などは、天御中主神にとどまらず、日本神話全体にこの説を及ぼしている。すなわち、日本神話を分割し、創成神話から天孫降臨神話という一連の流れが、実際には遡及して作成されたという解釈を示すのである。

 しかしそうなると、脈絡がない状態、すなわち、国生み神話などがない状態で、天孫降臨神話が単独で存在していたことになる。古代人が、このような意味不明の話を語り伝えるということはあり得ないのではないか、と萩野氏は疑問を呈するのである。

 

 ※なお本節の記述は「アメノミナカヌシは消せるか その「架上」の説を中心に」(『現代思想』14-12、昭和61年)で詳しく論じられている。

 

 続いて、「第4章 諸家の論理操作について」である。萩野氏が同章で主として取上げるのは、津田左右吉の所説である。津田の神代史研究は複雑であるが、その中心的な構想は以下の通りである。すなわち、神代史には、全体を貫く「結構」「中心思想」があり、それから離れている要素は、「造作」された「遊離分子」であるとするものである。そして、その「結構」「中心思想」は、皇室の由来・成立を語ることであるとされる。

 この考えに従って、「造作」された要素を除去すると、①イザナキ・イザナミ2神の国生みで天照大神が生まれた、②スサノヲが追放され、出雲に降り、ついで黄泉国に下った、③大国主神が国譲りをして、天孫が日向に降臨した、の3点が浮かび上がるというのである。しかし、このような「結構」「中心思想」は津田自身が設定したものである。果してその分析が妥当かどうかは疑わしい。

 萩野氏は津田流の合理主義にも批判の目を向ける。津田は、人から日月が生まれるような話は「奇怪」であるとして、もし日本神話が「自然説話」ならば不思議はないが、日本神話はそういう性質のものではないので、「不自然」であるとする(津田『神代史の研究』)。これなども、自分で決めた前提をもとに日本神話を説明していることが分かる。

 また、津田は古代日本には上天、天皇といった観念がなかったので、天御中主神などは作為だろうという考え方を取り、現に多くの学者が従っている。しかし、かなり原始的な部族でも天の観念は普遍的に見られることは様々な研究で明らかになっているのであり、古代中国のような高度の哲学的思弁を経た体系をなしてはいないというだけである。この点も、津田の即断といわざるをえない。

 津田は、天御中主神には祭祀の痕跡がないことも、その存在の架空性の根拠としており、この見解は他の多くの学者に引き継がれている。しかし、祭祀がない根拠は、ほかならぬ天御中主神の記載がある記紀なのであり、祭祀の痕跡も実はないわけではなく、これを除去したうえで、「ない」とするのである。これは論理矛盾ではないかと、萩野氏は指摘する。

 萩野氏は、津田や松村武雄などによる、日本神話の性格の規定にも説き及ぶ。彼等は、日本神話は外国神話と違って皇室中心で連続しているので性格が特殊であり、「民衆的」ではない。血統的にも、皇室や各部族など、現在に連続するものとして説かれている。従って、このような神話と外国の神話を比較しても意味がないとするのである。(松村『日本神話の研究』ほか)実際は、他国でも神の子孫はたくさんいたし、現在でも神話を受け継ぐ民族はいないではないが、現在の皇室と神話が関係している以上、その研究には難しいものが出て来るといわざるをえない。萩野氏は次のように、本書をしめくくっている。

 

 「日本神話について語る日本人学者の議論は、誰にもわかるような初歩的な過誤にあふれていて、しかもそれがなにやら政治的な「良心」のごときもの、ポリティカル・コレクトネスのごときものに固く覆われているのを見るとき、それをいちいち指摘するのになにやら私は徒労感に近いものをおぼえる。日本の神話の研究は、天皇あるいは日本国という存在について特別の感情を持たない外国の学者に任せるしかないのだろうか」(223頁)

 

 本書は、一般に流布している日本神話に関する解釈に対して、一石を投じるものである。氏が神話論をより深くまとめられることなく逝去されたのは惜しみてもあまりあるが、われわれが氏の残した神話論から学ぶべきことはこの上なく多いのである。(了)