【関西】定例研究会のご案内

 

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次回の民族文化研究会関西地区定例研究会は、下記の要領にて開催致します。万障繰り合わせの上、ご参加ください。

民族文化研究会関西地区第12回定例研究会

日時:平成31年4月20日(土)17時30分~19時30分
会場:貸会議室オフィスゴコマチ 4階 411号室
京都府京都市下京区御幸町通り四条下ル大寿町402番地 四条TMビル

http://​http://office-gocomachi.main.jp/​

会費:800円
​主催:民族文化研究会関西支部

【関西】定例研究会報告 日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第八囘)――三味線音樂

 平成31年3月9日に開催された民族文化研究会関西地区第11回定例研究会における報告「日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第八囘)――三味線音樂」の要旨を掲載させて頂きます。

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 この企劃は現代音樂に滿たされた現代日本人に明治以前の日本の音樂を知つてもらふため、まづは私達自身が詳しくなり傳道していかうと云つた考へのもと始めました。
 今囘は日本音樂の大きなくくりである、雅樂・聲明・琵琶樂・能樂・箏曲・三味線音樂・尺八樂・近現代音樂・民謠のなかから三味線音樂に就いて解説致します。下記は今囘解説する項目です。


一、三味線音樂の登場 
 ・日本音樂史に於る近世 ・三味線の渡來時期 ・三味線の渡來經緯

二、三味線の構造 
 ・三味線の種類 ・三味線の分類 ・サワリ ・調弦の種類 ・三味線調弦の特徴

三、三味線と三線の違ひ  
 ・各部位の差異 ・三味線改造の經緯

四、三味線音樂の全體像
 ・三味線全種目 ・各種目の成立經緯 ・歌と唄の違ひ

五、地歌 
 ・地歌の概略 ・箏との關係 ・地歌の確立過程 ・二部合奏と三曲合奏 ・流派 ・地歌の各種目

六、長唄 
 ・長唄の概略 ・長唄の性質 ・長唄の歴史 ・長唄の音樂性 ・長唄の編成 ・長唄のリズム

七、古淨瑠璃 
・淨瑠璃を三分割する理由 ・淨瑠璃とは何か ・淨瑠璃の系譜 ・淨瑠璃の發展

八、義太夫節
義太夫節の成立 ・竹本坐と豐竹坐 ・義太夫節の影響力 ・義太夫節の構造 ・義太夫節の音樂形式

九、歌淨瑠璃 
義太夫節以降殘つた淨瑠璃 ・歌舞伎淨瑠璃と坐敷淨瑠璃 ・豐後三流 ・一中節

十、三味線小曲 
・三味線小曲とは ・端唄 ・うた澤 ・小唄 ・俗謠

十一、三味線のある世界
・邦樂の定義 ・現代と江戸時代の盛り場の樣相 ・家庭の中の三味線 
・郷土音樂と三味線 ・これからの三味線

 

一、三味線音樂の登場

 三味線音樂とは、三味線を伴奏樂器とする聲樂の總稱です。その種目は多く、それぞれが歌ひ方や三味線の音色などに獨特の音樂表現を持つてゐます。
 日本史では、家康の江戸幕府開設を起點に近世が始まります。しかし音樂史では少し早く、元龜四年(西暦一五七三)の 室町幕府滅亡時點が近世の始まりです。その理由は三味線が傳來した時期に大きく關聯してゐます。
 三味線は永祿年間(西暦一五五八~一五七〇)に傳來したとされてゐます。逸話では元龜三年(西暦一五七二)に討死した平手甚左衞門が三方箇原の戰ひの出陣前夜に三味線を彈いたとされる話が最古であり、文獻上では天正三年(西暦一五七五)に『 上井覺兼日記』に「 しやひせん」と云ふ文字で登場し、島津家に於て演奏したのが最古です。近世邦樂は三味線音樂そのものと云つても過言ではありませんので、三味線が彈かれ始めた室町幕府滅亡期が日本音樂史近世の始まりとされてゐるのです。
 三味線は明確にどこから傳來したのかはわからず、最有力の説が、中國の三絃が琉球三線となり、三線が堺もしくは九州に渡來して、日本の風土に合はせて盲人の琵琶法師や檢校により改造が施され、現在の三味線の原形になつたと云ふものです。改造を重ねた結果、日本にしか無い獨自の樂器へと進化していきました。 

二、三味線の構造

 圖一が三味線の圖面です。全長は約九七cm。十數種類あると云はれる三味線ですが、素人目にはどれも一緒に見えます。それは構造・型・全長がほぼ同じだからです。しかし細かい違ひがあり、それぞれ音が全く違つたものになります。具體的には胴の大きさ、皮の材質、絲の太さ、駒の形・高さ・重さ、撥の大きさ・重さ・厚さ、棹の太さで種類は決まります。
 一般的に三味線は棹の太さで細棹・中棹・太棹と三分類されてゐます。細棹は長唄・河東節・荻江節、中棹は豐後形淨瑠璃や地歌・端唄・小唄、太棹は義太夫節や津輕三味線に用ゐるとされてゐます。されてゐると云ふだけで、實際には例外が多くあり、山田流箏曲などでは三味線方が使ふ三味線は演奏者の嗜好によつて變はります。よつて棹だけでの區分は便宜的なものです。ちなみに、棹は繼ぎ手のやうに作られてをり、分解可能です。
 三味線の音色や音量は、胴の構造や絲、撥、奏法などによつてもかはりますが、もつとも影響するのが絲の振動を胴皮に傳へる「 駒」の大小・材質・重量・位置です。この上駒周邊の構造が三味線獨特のビーンと云ふ高次倍音を強調する餘韻を生みます。その餘韻を「 サワリ」と呼び、琵琶の影響を受けてもうけられた構造的工夫と云はれてゐます。サワリに就いて詳しく解説すると、圖一の「 サワリの構造」のサワリ山の部分を見てください。このサワリ山から尖端部分にかけて窪みがあります。この窪みがサワリを生み出す重要な仕組みになつてゐます。
 三味線は數種の調弦ができることでも西歐の絃樂器と異なります。普通、リュート系の絃樂器では、ポジションを押さへて音高を作るために調弦が何種類も存在すると云ふことはありません。三味線では調弦を調子とよび、代表的なものは六種類、本調子・二上り・三下り・一下がり・三上り・六下りがあります(圖二)。なかでも 本調子・二上り・三下りがよくつかはれ、淨瑠璃では本調子が多く、歌ひ物の地歌長唄には二上り、三下りが多く使はれてゐます。部分的に異なる調子を用ゐることもあり、三味線奏者が演奏の途中で絲卷を調節してゐるのは、調子を變へてゐるのです。
 調弦が多種なのは、演奏の容易さに加へて開放弦音と勘所(弦を押さへる位置)で作つた音との音色差を重視したためで、音組織からみれば轉調と同樣の意味になります。また、西歐の絃樂器と異なる部分では、絶對音高ではなく各弦と相對的なものでしか無いと云ふことです。なぜならば、歌ひ手の聲域に合はせて調子を決定することがあるからです。
 數挺の三味線で演奏される場合、一挺をギターのカフのやうな枷で弦を押さへ、本手から完全四度高く調弦するのを上調子と豫備、副旋律やアンサンブル的な效果を出すことができます。

三、三味線と三線の違ひ

 三線は全長七五cm程度で胴に蛇革(ニシキヘビ)を張ります。指や指型の義甲や楊枝で弦を彈きます。三味線は全長九七cm程度で胴に猫革・犬革や現代では合成皮革を張ることもあります。演奏は爪彈きをする小唄を除き扇状に廣がつた撥を使ひます。三線は棹の上部にある上駒に三本の弦すべてを乘せますが、三味線は尤も太い一の絲を除く二本の弦のみを乘せます。三味線獨自の構造としては、胴の内部に「 綾杉」と呼ばれる溝を彫り、これも三線にはない音響上の工夫となつてゐます。このやうに、樂器の大きさ、皮の材質、撥、サワリ、綾杉などに違ひが見られ、これらが本土での改造と推測されてゐます。
 これらの改造の過程も諸説あり、例へば三味線の撥は傳來當初に樂器を演奏した琵琶法師が琵琶の撥を取り入れたものと云ふけれども、江戸初期には尖端が廣がつてをらず、棒状の撥さへあり、傳來當初とは考へにくくあります。蛇皮は入手しづらく變更されたと云ふ説も、撥に象牙がつかはれてゐたりと調達の難しさだけが理由とは考へづらく、音色や感觸に起因する可能性もあります。綾杉に就いては鼓の胴の鉋目を応用したものと推測されてゐます。
 いづれにしても三味線の改造はまづは琉球と違ふ本土獨特の樂器を作ると云ふ形で始まり、三味線の祖形が作られてからは、三味線の多樣化と云ふ形で進められました。改造は繼續的に進行していつたものであり、違ふ型が竝行する時期もありました。

四、三味線音樂の全樣

 圖三・圖四は三味線音樂の主な種目を圖示してゐます。三味線音樂は淨瑠璃などの語り物と地歌長唄などの歌ひ物に大別できます。祭文・説經節・はやり歌・俚謠は傳承された古來からの音樂であり、それぞれの音樂を樂器を三味線に置き換へて三味線音樂化されました。
 地歌は三味線渡來初期に發生した彈き歌ひ音樂で、後に同じく盲人が彈いてゐた箏曲と合はさり地歌箏曲として發展しました。淨瑠璃は琵琶法師が琵琶や扇で拍子を取りながら始めたもので、後に三味線を伴奏にし、傀儡師と結んで人形劇化しました。淨瑠璃は樣々な流派に分かれ大いに人氣になり、人氣に押された歌舞伎が淨瑠璃の要素をそのまま吸收するやうな形で取り入れて殆どの淨瑠璃は歌舞伎音樂へ吸收されました。
 歌舞伎の中核音樂となつた長唄は日本音樂の樣々な要素を取り入れて肥大化し、つひには歌舞伎の舞臺から飛び出て御坐敷長唄としても成立するに至りました。それにともなひ三味線音樂も多くの樂種とその演奏形態を生み、それらが相互に影響しあひ、音樂的離合集散を繰り返しながら、分割されたそれぞれの音樂としての個性を形成していきました。
 ちなみに、「 歌」と「 唄」は發音が同じですが、違ふ種類を表してゐます。基本的に地歌地唄とは書かず、長唄長歌とは書きません。大まかに言へば、唄は江戸で發展した聲樂曲に使ふのを通例としてゐて、地歌は上方で發展した聲樂曲なので歌をつかつてゐます。
 以上のやうに、三味線音樂は、既に傳統音樂として確立してゐた雅樂・聲明・平曲・能を除いた多くの日本音樂に取り入れられ、樣々な發展を遂げていくことになります。次の項からはそれぞれの種目に就いて詳しく解説していきます。

五、 地歌

地歌は三味線音樂では最古の藝術音樂です。地歌は上方で發生し、盲人音樂家によつて發展・傳承されてきたので別名「 法師歌」や「 上方歌」とも云ひます。一部の樂器を除き、彈きながら歌ふ聲樂曲であり、本來は三味線曲としてつくられてをり、三味線單獨で完結できる内容です。しかし、一般的には三味線獨奏よりも箏や尺八、胡弓との合奏が多く行はれてゐます。
 地歌は盲人が傳承してきたと云ふことで、箏とも密接な關はりをもち、地歌の多くは箏でも演奏できるやうに編曲されてゐます。このため、地歌箏曲の二つの種目は不可分の關係にあり、地歌箏曲とまとめた呼び方も使はれてゐます。
 地歌と云ふ名稱は、江戸時代後期に長唄や淨瑠璃が上方に流入した事が原因でつけられました。「 自分たちの土地の歌」と云ふ意味で、江戸の歌ではないと云ふ差別化のためです。それまでは上方では單に「 歌」とよばれることもありました。地歌は劇場音樂ではなく、坐敷音樂・家庭音樂として作られてゐます。
 地歌は抒情性に溢れた歌詞を歌ひ上げる歌聲にも味はひがありますが、器樂性を追求する合奏にも魅力があります。先程も述べたやうに箏・尺八・胡弓と合奏されることも多く、三味線・箏・尺八または胡弓の三曲合奏と云はれる演奏樣式や、三味線二挺の二部合奏があります。圖五は流石庵羽積著「 歌系圖」(西暦一七八二)に描かれた三曲合奏の繪です。
 三味線の二部合奏には段合せ・打合せ・本手と地・本手と替手の四種類があります。段合せとは、二つの段を同時に演奏する合奏方式です。打合せは同じ拍數の違ふ曲を同時に演奏する合奏です。本手と地・本手と替手の二種は基本の旋律を演奏する本手に對して、違ふ旋律を合奏するものです。對旋律の音樂樣式によつて地と替手に區別します。地は比較的簡素な旋律、替手は本手よりも複雜な旋律を彈きます。
 三曲合奏は曲によつてユニゾンのものもあれば、器樂的要素が強い曲では各樂器が複雜にからみ合ふやう作られてゐるものが多くあり、きはめて精緻に作られた合奏音樂と言へるものもあります。雅樂の管絃やガムランなどと共に、西洋音樂の多音性(ポリフォニー)とは異なる異音性(ヘテロフォニー)の端的な例として舉げることができます。西洋音樂で言へば絃樂四重奏の各パートが緊密な重層的構造を成してゐて、絶對的に固定され一パートでも缺かせないのと違ひ、三曲合奏は本來獨奏曲に後から他のパートを附けたものであり、どちらかと言へば流動的、竝列的、裝飾的です。それぞれの編成に面白みがあり、また流派によつて後で附けられたパートの旋律が違つてゐたりするので、同一曲でも樣々な編成の演奏を樂しむことができます。ただ、幕末の光嵜、幾山、吉澤の各檢校らの作品の多くは二~三パートが一人で作られてをり、各パート間の關聯が緊密になる傾向があります。
 現在の流派には京都を中心に展開した柳川檢校(西暦?~一六八〇)を祖とする柳川流と、大阪を中心に展開した野川檢校(西暦?~一七一七)を祖とする野川流があります。
 地歌の曲種は曲種名の成立順に三味線組歌・長歌物・端歌物・淨瑠璃物・作物・芝居歌物・手事物 ・謠ひ物・の八種類です。曲種名が成立した順序なので、曲が生まれた順序とは必ずしも一致してをりません。それぞれ江戸時代の歌本(歌詞集)や譜本(樂譜集)に記されてをり、地歌を愛好する人々が工夫しながら分類してきました。以下、それぞれの簡單な説明をしていきます。
 三味線組歌は慶長五年(西暦一六〇〇)成立、藝術的な三味線音樂の最古典です。創始者は石村檢校で、當時流行してゐた室町小歌を組み合はせたもので歌詞に一貫性はありません。長歌物は古今集長歌をモデルに組歌形式でなく一曲が統一した長い歌詞で一貫される形式の歌曲で、歌本位の歌曲です。端歌物は組歌や長歌物の古典から脱却して自由に破格に作曲された新曲です。淨瑠璃物は上方で流行して江戸淨瑠璃を吸收したもので、地歌に語り物風表現が攝取され、新風となりました。作物は坐興的に作られ、詞章の固定性が薄く、滑稽な内容を面白をかしく歌つたもので「 おどけもの」とも云はれます。芝居歌物は江戸の長唄地歌の一曲種として傳承したものです。手事物は歌の間奏部分に三味線の器樂性の高い演奏を取り入れたものです。歌より間奏部分を重視し、技巧をこらした合奏や替手をちりばめ、大坂と京都でそれぞれ獨自に發展していきました。謠ひ物は能の謠に典據した歌詞を用ゐて作曲された三味線音樂です。

六、 長唄

 長唄は江戸の歌舞伎に於る伴奏音樂として西暦一八世紀に成立した三味線音樂のひとつです。歌舞伎舞踊の伴奏音樂として、芝居の效果音樂として、その時々の歌舞伎の流行に合はせて新しい曲が作られてきました。その一方で歌舞伎を離れ、長唄を音樂として鑑賞する場も存在しました。江戸時代には大名の邸宅や料亭などで演奏が行はれ、歌舞伎で再演の機會がなくとも、このやうな場で演奏されることにより傳承されてきた曲もあります。また、鑑賞のための新しい長唄も作られ、明治以降は演奏會と云ふ場に引き繼がれていきます。
 長唄は一中節や河東節、地歌などの三味線音樂、謠曲、當事の流行歌に民謠など、他の音樂種目の旋律を積極的に取り入れ、多樣な音樂作品を生み出してきました。過去の長唄作品の一部を借用して新しい曲を作ることもあり、そのときは元曲と異なる調弦で旋律を借用することもあります。更に、義太夫節常磐津節清元節などの淨瑠璃系の三味線音樂もとりいれ、まさに日本音樂の集大成のやうな樣相を呈してゐます。このやうに、長唄の音樂樣式を規定しようとすると難しくなつてゐます。
 長唄の歴史に就いて。笛・大鼓・小鼓・太鼓の四拍子だけの歌舞伎踊りの時代から、三味線が加はつて「 うた」「 小うた」などとよばれる芝居歌ができ、元祿期には「 長うた」「 長謌」とよばれるやうになりました。その名の通り、小編に比べ長篇だつたからです。長唄は江戸發祥ではありますが、發達したのは元祿年間の上方であり、上方の曲が江戸に逆輸入されました。演奏者の出身地で江戸長唄、大坂長唄、京長唄と區別されてゐましたが、しだいに江戸出身者が多くなり、江戸長唄が主流となりました。
 長唄は初期は二上りの陽氣で派手が賣物だつたのですが、享保・寶暦期には女形の舞踊に合ふ優雅でしんみりした三下りがとりいれられました。また、舞臺效果を高めるための短い唄で、獨吟で歌はれるものを、「 めりやす」と呼ばれるやうになつたのもこの時期です。このころに「 長唄」と定着したやうです。明和期には淨瑠璃の曲節を加へた唄淨瑠璃や立役(男役)の舞踊のための「 本調子」や「 上調子」も使はれるやうになりました。長唄から派生した荻江節が劇場を離れたのはこの頃です。
 安永・寛政期は長唄の江戸化が進んだ時期で、文化・文政期は歌舞伎に生世話や變化舞踊などが入り、大薩摩節の旋律を加味した長唄や豐後三流との掛け合ひなどが盛んになりました。長唄の完成期であり、唄中心から三味線中心になつた時代です。長唄に純音樂性を求めた演奏家たちが「 お坐敷長唄として離脱したのもこの頃です。幕末にかけては長唄の全盛期で、大名・旗本・富豪・文人たちが演奏家を邸宅や料亭に招いて「觀賞用長唄を樂しむことが流行しました。謠曲が長唄に取り込まれたのもこの時期です。
 このやうに、長唄の歴史は常に時代や聽衆の嗜好に合はせた音樂を求め、他種目との融合や攝取を繰り返し、自己改革を意欲的に行つてきました。
 長唄の音樂性に就いて。長唄は規則的な拍子で奏される三味線を伴奏に、唄の節の面白さをきかせる音樂であり、物語としての内容や言葉のリズムを重視した語り物音樂とは性格が大きく異なります。また、劇場と云ふ廣い空間で奏されるため、纖細な音樂表現よりも、ユニゾンを基本とした合奏の迫力や音量、テンポの變化が特徴です。また、舞踊形式とも關聯して、いくつかの部分が寄集まつて構成されてゐます。
 ユニゾンを基本としてはゐますが、唄と三味線は「 不即不離(附かず離れず)」の關係だと言はれます。三味線が拍子を刻みながら旋律の骨骼を奏し、唄は三味線とほぼ共通の旋律に、細かい音の動きを加へ、次の音に移るタイミングを三味線と微妙にずらすことで、歌詞を際立たせ、唄の節の面白さを作り出してゐます。更にここに語り物的な歌ひ方、謠カガリのやうに他の音樂種目を摸倣する歌ひ方が附け加はり、聲樂としての多樣性が長唄の中に生まれました。
  長唄の編成は三味線方二人、唄方一人の二挺一枚が基本ですが、舞臺の大きさに合はせ雛壇が擴張され、大編成に成つていきました。雛壇の上段に左右同數の三味線方(右)と唄方(左)が竝びます。三味線方と唄方が接する中央に坐るのが立三味線、立唄とよばれ、それぞれの主導者です。唄は獨吟の場合を除けば、各歌ひ手の獨唱部分「 ワケ口」と、全員による齊唱部分「 ツレ」の對比が曲にメリハリを出します。
 リズム面から三味線の旋律を裝飾するのが囃子です。囃子には能樂手法と歌舞伎手法の二つがあり、リズムを作り出す仕組みが異なります。能樂手法は能管を使ひ八拍單位を繋ぎ合はせ、歌舞伎手法は能管と篠笛を使ひ分け、別名「 チリカラ拍子」とも呼ばれ、長短の異なる樣々なリズム型を三味線の旋律に合はせて聯結していきます。
 以上のやうに長唄はユニゾンが基本の音樂ではありますが、唄・三味線・囃子と云ふ三つのパートが複雜に關係し合ふことで、多樣な樣式を作り出してゐます。

七、古淨瑠璃

 ここから三項に渡つて淨瑠璃の解説に入りますが、その前になぜ淨瑠璃の項目を分ける必要が或るのかに就いて述べます。國文學史の上では、近松門左衞門と竹本義太夫の登場をもつて淨瑠璃史を二分します。彼らの登場までを古淨瑠璃、以後を當流淨瑠璃と呼びます。それほど淨瑠璃界では、近松義太夫の影響力は大きいのです。そして、義太夫以降は古淨瑠璃はほぼ廢れるのですが、一部が別の形で殘つたり新しく興つたりしたものがあつたので、それらを各種淨瑠璃として分類してゐます。
 淨瑠璃とは西暦一五世紀に三河で傳はつた、牛若丸と淨瑠璃姫の戀物語説話、「 淨瑠璃姫物語」を起源とし、太夫が語る語り物そのもののことです。當初は琵琶法師が琵琶や扇で拍子を取りながら語つてゐたので、平曲に似てゐたと思はれます。古淨瑠璃の範圍は、この淨瑠璃姫物語から貞享一年(西暦一六八四年)に竹本義太夫が大坂道頓堀に竹本坐を創設するまでです。
 圖六は淨瑠璃主要各派の系譜です。この系譜を見てわかることは、殆どが一流をなした者の弟子がまた別の流派を起こす、「 一流一代」 の樣相を呈してゐることです。これだけ多くの流派が誕生しながら、現代にはその殆どが傳承されてゐません。傳統藝能が保存されやすい邦樂世界では淨瑠璃の性質は稀有と言へます。現代に殘つてゐるのは人形淨瑠璃の義太夫節歌舞伎舞踊音樂となつた常磐津節・富本節・清元節、坐敷淨瑠璃の新内節・宮薗節と、これら豐後系の源流の一中節くらゐです。
 淨瑠璃には三段階の發展がありました。第一には西暦一六世紀末に三味線が伴奏樂器になつたことで、ともに琵琶法師であつた澤住檢校や瀧野檢校によつて導入されました。第二に西暦一七世紀初頭に傀儡師と結んで人形淨瑠璃と云ふ獨特の樂劇形態が成立したことです。第三に常設の坐が開設され、興業として定着したものに成つたことです。當初は京都御所での上演や、京都の坐による金澤の巡業など不定期な人形淨瑠璃の上演だつたらしいのですが、西暦一七世紀中頃になると京都・大坂・江戸の三都に相次いで常設坐ができたことで、名人とされる太夫の輩出をうながし、獨自の節を競ひ合ひ、一流一派をなして古淨瑠璃全盛の時代を迎へました。
 
八、義太夫節

 竹本義太夫(西暦一六五一~一七一四)は、大坂天王寺村に生まれ、大坂の操り淨瑠璃界の中心人物であつた井上播磨掾の門弟、清水利兵衞に入門し、清水五郎兵衞と名乘りました。その後、五郎兵衞は京都で人氣の高かつた宇治加賀掾に入坐し、ワキ語りを勤めました。やがて清水理太夫と改名し、師から離れて獨立、その後更に竹本義太夫と改名し、貞享元年に大阪道頓堀に竹本坐を創設しました。このとき、宇治加賀掾の「 世繼曾我」(近松門左衞門作)を上演し、一時期入門した師に眞つ向から對抗する姿勢を示しました。翌年、近松門左衞門作の「 出世景清」を初演し、この作品を持つて古淨瑠璃と當流淨瑠璃の區切りとします。
 元祿一六年(西暦一七〇三)、近松最初の世話物「 曾根嵜心中」が竹本坐で初演され大當りをとりました。中世的な物語世界を脱却した、近世の庶民現代劇の登場とともに、竹本坐の經營も安定しはじめます。義太夫節の基礎を築いたのは竹本義太夫ですが、竹本坐の藝風を實際に形成したのは竹本政太夫(二世竹本義太夫)です。竹本政太夫は生來聲が小さく、克服に二十年かかりましたが、逆に藝として確立し、地味だけれども情を深く表現すると云ふ竹本坐の音樂樣式「 西風」を編み出しました。
 曾根嵜心中が上演された夏、竹本義太夫の門弟であつた竹本采女は道頓堀の東側に豐竹坐を開設しました。豐竹坐は派手で音樂的に富んだ藝風をしてをり、「 東風」を確立することとなりました。
 義太夫節が成立したことで波及した影響はどのやうなものだつたのでせうか。寶永~享保期に上方では他の淨瑠璃を壓倒し、結果として古淨瑠璃は殆ど廢絶し、一中節などは江戸に活路を求めることになりました。また、現在地方に殘る人形芝居も、義太夫節を伴奏としたものが非常に多くあります。歌舞伎は寶暦期には、歌舞伎はあつて無きが如しとまで言はれ、人形淨瑠璃に壓倒されました。そのために人形淨瑠璃を歌舞伎化して對抗するやうになり、現在に於てもその主要な演目は義太夫狂言(丸本物)であり、地方の地芝居(農村歌舞伎)で上演されるのも殆ど義太夫狂言です。歌舞伎の淨瑠璃であつた豐後系淨瑠璃は、義太夫節から多くの影響を受けたことは當然ですが、歌舞伎とは關係を持たなかつた地歌にまで義太夫節作品を取り入れたものがあり、その影響力の大きさは絶大でした。
 それほどまで影響力のある義太夫節とはどう云つた淨瑠璃だつたのでせうか。人形淨瑠璃として成立した義太夫節は、數ある三味線音樂の中にあつて、尤も語り物的な性格の強い種目です。言葉を話さない人形に變はつて、一人の太夫が全ての登場人物を語りわけます。それに加へて物語の解説者の役と唄まで受け持つのですから、その表現力は尋常ではありません。
 義太夫節獨特の科白はシラビックでわかりやすく、状況説明や心理描冩はメリスマティックで、情緒たつぷりのドラマ性の高い語り口です。人形遣ひ吉田文三郎の考案による三人遣ひや人形の目や口や眉毛などのしかけによつて、人形の演技が迫眞的なものとなりました。また、古淨瑠璃以來の「 時代物」(王朝・鎌倉物)に加へ、近松の考案した當事の巷の話題や事件を主題とする「 世話物」と云ふ新基軸を打ち出したことも人氣の要因です。
 圖七のやうに、義太夫節は科白部分の詞と、音樂部分の地合に分かれてゐてます。詞は能のコトバよりはるかに冩實的に、その人物になりきつて第一人稱で表現します。文章上は登場人物の詞であつても、途中から地、あるいは地色と云ふ音樂的な節附けが現れることが有り、この點が純然たる演劇とは異なる「 語り物音樂」たる所以です。詞部分では一般的には三味線は入りませんが、序詞と詞ノリでは三味線が入ります。また、詞にも稀にめりやすが入ることもあります。詞ノリは三味線の手に乘つたリズミカルな詞で、最終幕が終はつたあとの種明かしと云つたときに使はれます。
 地合は非旋律型の地色と旋律型の地に分かれます。義太夫節の音樂部分の中心は地です。地のうちの義太夫獨自の地こそが義太夫節の本質のひとつです。義太夫の地は一曲の前半の状況説明文に、二、三音間でアクセントにより上下する語るやうな旋律です。更に、曲の後半のクドキなどで悲歎の情を表現する部分では、高い音域で母音を使つて下降する場合もあり、その場合は語る旋律と云ふより、歌ひ物に近くなります。他に義太夫節獨自の旋律型として、「 三重」「 オクリ」「 フシオクリ」「 ウオクリ」「 フシ」「 三ツユリ」「 スエテ」「 オトシ」などがあります。

九、歌淨瑠璃

 義太夫節の出現によつて、一部で地方に傳承された以外の古淨瑠璃の殆どは人形淨瑠璃の世界から撤退を餘儀なくされました。しかし、義太夫以外の淨瑠璃の全てが絶えたはけではありません。江戸節系や、都太夫一中の「 一中節」から分派した「 宮古路節」系統の各流はその後も傳承され、そこから新しい諸流が生まれます。
 活躍の場は人形芝居ではなく、淨瑠璃と敵對する歌舞伎の世界でした。ここで淨瑠璃音樂は大きくわけて、人形淨瑠璃と、それ以外の淨瑠璃に分かれることになりました。それ以外の淨瑠璃は、黒木勘藏によつて「 歌淨瑠璃」と命名され、分類されました。歌淨瑠璃の中には、歌舞伎淨瑠璃と、歌舞伎から退いて宴席や遊離などで歌本位の性格を強め、純音樂として演奏されるやうになつた坐敷淨瑠璃(肴淨瑠璃とも云ふ)が含まれてゐます。
 歌舞伎淨瑠璃で現在でも上演されてゐるのが、豐後系三流と云はれる、「 常磐津節」「 富本節」「 清元節」 で、坐敷淨瑠璃では「 一中節」「 河東節」「 宮薗節」「 新内節」です。歌淨瑠璃の多くの流派を生んだ母體、豐後節とは、一中節の都太夫一中の高弟、宮古路豐後掾が獨立して江戸に進出したときに歌つた淨瑠璃を云ひます。しかし官能的で煽情的な豐後節は上演禁止となつて廢絶しました。その後に宮古路に從つて江戸に下つた門弟たちはそれぞれ自己流派を立て、常磐津節富士松流などをなします。豐後節の中庸を繼承した常磐津節から、粹で艷のある纖細な節囘しの富本節が誕生し、富本節から派手で輕妙な清元節が派生し、ここに豐後三流が揃つたのです。
 では坐敷淨瑠璃はどのやうに遊離に定着したのかと云ふと、最初は坐敷淨瑠璃も歌舞伎に出てゐた時期もあり、現在でも歌舞伎の一部演目に殘つてはゐますが、殆どは次第に撤退しました。人氣に陰りがでたと目されますが、一説には常磐津の政治的手腕により豐後三流で獨占されたため、追ひやられたと云ふ説もあります。
 このやうに、歌淨瑠璃にも樣々な流派があり、現代でも活動は繼續してゐます。その中で歌淨瑠璃の祖となつた宮古路節の宮古路豐後掾の師、都太夫一中が興した一中節の軌跡を追つてこの項を終はろうと思ひます。
 一中節は上品さや優雅さを眞情とし、閑雅素朴、落ち着いた雰圍氣の語り口で、イロコトバあるいはウタガカリを中心とします。一中節を祖とする豐後節系の新内節は勿論、長唄などにも「 一中ガカリ」などの語り口が有り、大きな影響を殘してゐます。
 始祖の都太夫一中は、京都本願寺派の明福寺第五代でしたが、寛文十年(西暦一六七〇)二一歳のとき、還俗して淨瑠璃語りになりました。都越後掾の弟子とされてゐますが、一中節創設には不明な點が多くあります。敍景を主とした語り口で近松淨瑠璃の道行や景事を多く語り、寶永三年(西暦一七〇六)大坂で初の劇場出演の記録があり、ここから江戸や京を行き來して活躍し、享保九年に沒しました。
 初代一中は既存の淨瑠璃を取り込んだものが多く、一中獨自のものはわづかしかありませんでした。二代目一中は實子で、二代目と一緒に江戸に下つてきた都秀太夫千中が活躍し、「 夕霞朝熊嶽」が江戸で大當りしました。三代目から四代目は諸説あり不明な點が多いのですが、宮古路節系の人物が繼いだと推測されてゐます。五代目は二代目の孫と目され、そこから弟子などが繼いでいき、昭和五十八年に十一代目一中が國の重要無形文化財保持者として認定されました。、現在は十二代目一中が傳承してゐます。

十、三味線小曲

 江戸後期に三味線を伴つた「 流行歌」として民衆に愛好されたものを總稱して「 三味線小曲」とよびます。小曲がどのやうに愛好されたのかと云ふと、劇場音樂や花柳界の音樂のやうに、職業音樂家による鑑賞する音樂を庶民が自分で歌つて樂しむ音樂として取りいれ、愛好されました。いづれも短詞型の歌曲で、元祿頃にその原型の「 弄齋節」や「投節」が大流行しました。
 天明期に流行つた「潮來節」あたりから、かうした短篇の歌曲を「 端唄」と呼ぶやうになりました。旋律も唄ひ方も技巧的でなく、リズムも凝つたものではありませんから、街の火消しや大工、御家人と云つた文字通りの市井の人々が端唄の師匠のもとに通ひ、それぞれ端唄連を結成し始めます。
 天保末から端唄が大流行し、職業音樂家が取り入れるまでになります。かうした端唄連のひとつに、江戸人形町の女師匠さわのもとに「 うたのおさわ」と云ふ意味で、「 歌澤連」と云ふ集團が生まれました。おさわ亡き後、上品で重みがあり節も叮嚀に細かく唄ふ唄を目指して、一中節などを加味して端唄を改良した「 歌澤」が誕生します。歌澤は端唄にくらべ重厚で、サビのある聲で語りに近い歌ひ方の唄を主に、三味線は控へめながらもリズムは複雜なもので江戸庶民に好まれました。また、歌澤の系統で「 謌澤」が創始され、これらを總稱して「 うた澤」と表記するやうになりました。
 「 小唄」は清元お葉によりつくられました。清元調で、爪彈きしその間に唄がはめこんであり、うた澤とは逆のものです。やがて藝妓から轉じた町の五目師匠(數種目の歌や、踊りまで教へたので五目と呼ばれた)たちによつて庶民の間に廣がりました。小唄は氣の合つた仲間が、自身が作詞作曲したものを披露して悦に入ると云ふ性格が有り、歌舞伎役者や職業演奏家文人など、角界の人達によつてたくさんの曲が作られたため爆發的な人氣となり、端唄や歌澤をしのぐやうになつていきました。家元も亂立し、最盛期には百數十もあつたと云ひます。
 かうした音樂の大衆化は、地方の民謠などを三味線伴奏にのせた「 俗謠」の普及、劇場ほど肩の凝らない近所の寄席などできく「 かつぽれ」や「 都々逸」「 二上り新内」など、俗曲とともに庶民參加型の音樂を數多く創出しました(圖九)。

十一、三味線のある世界

 以上解説したとほり、近世は三味線の時代でした。邦樂專門家による分類では、最狹義での邦樂とは近世起源の箏曲・尺八樂・三味線音樂のみとしてをり(圖十)、その殆どを網羅してゐる三味線音樂は、まさに主役にふさはしい存在です。
 江戸時代當事の日本人は、三味線をどのくらゐ身近なものとしてゐたのかを現代と比べて考へてみませう。おそらく三味線をギターに置き換へれば、それだけで生活に缺かせない存在だとわかるのではないでせうか。            
 まづ第一にミュージカルを見に行くとしませう。そこには華やかなステージでデートにもよし友人と樂しむもよしで、バンドやオーケストラ、ドラムギターを含んだ樂團がステージを盛り上げます。これに相當するのが歌舞伎です。踊り、芝居の華やかな舞臺、人氣の歌舞伎役者、音樂は三味線の伴奏で長唄や歌舞伎淨瑠璃も入つた云はば樂團です。
 第二にミュージカルが終はつた後の一杯。ムードのあるショットバーかクラブにいつたとします。そこには雰圍氣を盛り上げるピアノの彈き歌ひや、ギターを持つてリクエストに答へる歌手がゐます。これに相當するのがお坐敷でした。藝者さんや舞妓さんたちは必ず三味線が引けて、歌や踊りを見せてくれました。
 第三は、一般家庭で、子供がギターを買つてきて練習したり、昔のグループサウンズの曲を彈いて樂しんでゐたお父さんお母さんも多い筈です。それに相當するのが三味線です。町の中に必ずお師匠さんがゐて、みんな三味線を彈きながら小唄や都々逸、長唄などを樂しんでゐたのです。
 第四に民族音樂の演奏。ウェスタン、フォークソング、ラテン音樂、フラメンコなど。これらはギターがなくては音樂になりません。日本にも各地に民謠があり、じよんから節、阿波踊りなど三味線は郷土の音樂を支へてゐます。このやうに一昔前の日本人には三味線は切つても切れない深い結び附きを持つてゐたのです。
 いつか街中の居酒屋でも、宴會の最中にでも誰かがおもむろに三味線を取り出し、地歌や小唄でも口ずさみ其の場を盛り上げるやうな光景が一般化すればいいな、と思ひます。


參考文獻

ひと目でわかる日本音樂入門 田中健次(音樂之友社 平成十五年)
よくわかる日本音樂基礎講坐 福井昭史(音樂之友社  平成十八年)
日本の傳統藝能講坐 音樂 小島美子(淡交社 平成二十年)
邦樂おもしろ雜學事典 西川浩平(ヤマハミュージックメディア 平成十五年)
おもしろ日本音樂史 釣谷眞弓(平成十二年 東京堂出版)

 

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三味線音楽 解説図


 

【東京】定例研究会のご案内

 

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民族文化研究会東京地区第20回定例研究会

日時:平成31年4月28日(日)14時~17時
会場:早稲田奉仕園 セミナーハウス1階 小会議室105号室
東京都新宿区西早稲田2‐3‐1
https://www.hoshien.or.jp/
会費:1000円
​主催:民族文化研究会東京支部
備考:この研究会は、事前予約制となっております。当会の公式アドレス(minzokubunka@gmail.com)までご連絡ください。また、会場の開室は14:00になります。それまではセミナーハウス内のラウンジにてお待ちください。

【東京】定例研究会報告 「紀元節」と「建国記念の日」を巡る一つの議論・大嘗祭の検討

 2月17日(日)14:00~、民族文化研究会東京地区第19回定例研究会が早稲田奉仕園にて開催されました。

 第一報告は、渡貫賢介(会事務担当)による「『紀元節』と『建国記念の日』を巡る一つの議論」でした。戦後の歴史学者・平田俊春氏による「建国記念の日」肯定論、近代日本において時期・実態が明確な「建国」と、悠久の昔にさかのぼる「肇国」がしばしば区別されて理解されていた点を紹介しました。

 第二報告は、輿石逸貴(本会会長)による「大嘗祭の検討」でした。秋篠宮殿下による大嘗祭に関するご発言を起点としながら、大嘗祭に対する現在の法的な位置づけ、平成の大嘗祭に対する違憲訴訟の内容などを整理し、ご発言の持つ政治的・思想的意味について検討を行いました。

 一定以上学問的・専門的な関心を持ちつつ、報告とそれにもとづく質疑・談話などによって知識を共有していく試みを今後も継続して参りますので、関心のある方はお気軽にご参加下さい。

 次回は、4月28日(日)14:00から早稲田奉仕園105号室にて開催予定。

(事務担当・渡貫)

 

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輿石氏の講話風景

 

 

【東京】定例研究会のご案内

 

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次回の民族文化研究会東京地区定例研究会が近日に迫りましたので、改めてご案内致します。次回の民族文化研究会東京地区定例研究会は下記要領にて開催しますので、万障繰り合わせの上ご参加ください。

民族文化研究会東京地区第19回定例研究会

日時:平成31年2月17日(日)14時~17時
会場:早稲田奉仕園 セミナーハウス1階 小会議室105号室
東京都新宿区西早稲田2‐3‐1

https://www.hoshien.or.jp/
内容:輿石逸貴(会長・弁護士)「大嘗祭憲法
   渡貫賢介(会事務担当者)「『紀元節』と『建国記念の日』を巡る一つの議論」
会費:1000円
​主催:民族文化研究会東京支部
備考:この研究会は、事前予約制となっております。当会の公式アドレス(minzokubunka@gmail.com)までご連絡ください。また、会場の開室は14:00になります。それまではセミナーハウス内のラウンジにてお待ちください。

【関西】定例研究会報告 日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第七囘)――箏曲

 平成31年2月9日に開催された民族文化研究会関西地区第10回定例研究会における報告「日本音樂を私達の生活に取り戻すために(第七囘)――箏曲」の要旨を掲載させて頂きます。

 

 この企劃は現代音樂に滿たされた現代日本人に明治以前の日本の音樂を知つてもらふため、まづは私達自身が詳しくなり傳道していかうと云つた考へのもと始めました。
 今囘は日本音樂の大きなくくりである、雅樂・聲明・琵琶樂・能樂・箏曲・三味線音樂・尺八樂・近現代音樂・民謠のなかから箏曲に就いて解説致します。下記は今囘解説する項目です。

一、箏と云ふ樂器 二、箏曲の歩み  三、八橋檢校 四、生田流と山田流
五、手事物の發達 六、近代以降の箏曲 

一、箏と云ふ樂器

 日本の雰圍氣を代表する歌曲として定着してゐる「 さくらさくら」。その旋律は平調子(五六七八九弦を「 ミ・ファ・ラ・シ・ド」にとる)と云ふ尤も標準的な箏の調弦で、隣り合つた弦を順に彈くと自然に生まれます。それが日本古謠と言はれて違和感がない理由は、半音を含む五音音階にあります。そしてこの音階こそ、江戸時代に發達した音樂の性格を尤も特徴づけるものでした。
  一般的に「 こと」と云へば箏(さう)のことを云ひます(圖一)。箏(さう)と琴(きん)は一緒のものと思はれがちですが、柱(可動式フレット)があるかないかの違ひがあり、別物の樂器です。日本に於て琴とは、三千年前の青森是川中居遺蹟から出土した現存する世界最古の絃樂器と目されるもの、奈良時代以前に三韓から傳はつたもの、箏と一緒に大陸から傳はつたものなどがあります。和琴は琴とありますが、箏の一種です。源氏物語でも、箏のコト(樂器)・琴のコト・琵琶のコトとして別物として扱はれてゐます。なぜ箏と琴が日本で一緒に思はれてゐるのかと云ふと、常用漢字に箏が無いから代はりに琴を當てはめたことが原因であり、本來使はれるべき漢字は箏です。
 箏の起源に就いてはよくわかつてゐませんが、唐の時代では秦箏と呼ばれてゐて、秦に由來する樂器と認識されてゐました。日本へは奈良時代に大陸から傳はり、古記録では西暦七〇〇年頃には箏で唐樂の演奏が行はれてゐた記述もあります。
 箏の定義は時代や音樂の種類によつて異なりますが、大抵は十三絃の箏をさします。約一八三cmの細長い共鳴胴に十三本の弦を張り、それぞれの弦には柱を立てて音高を決め、右手の三指にはめた箏爪で弦をはじいて音を出します。箏は柱を立てる位置によつて調律します。十三絃の箏では、單純には十三個の音しか出ません。しかし、柱は自由に動かすことができ、音高の微調整も簡單にできます。弦を押し下げて張力を變化させれば、一音半程度の範圍内の音は簡單に出せる柔軟な性質を持つてゐます。明治期に洋樂が入つてきたときに箏が尤もよく適応できたのは、さうした柔軟性が大きな要因でした。そのうゑ、一本の弦を普通に箏爪で彈くだけでなく、複數の弦を同時に彈いたり、あるいは箏爪の裏ですくつたり、弦をこすつたり、箏爪をはめない指ではじいたり、彈いた後の餘韻を搖らしたり等々、さまざまな纖細な手法が工夫されてゐます。その微妙なニュアンスに富んだ表現力は箏の大きな魅力です。

二、箏曲の歩み

 箏曲とは、そのまま箏(こと)の音樂のことです。現代に於て一般的には八橋檢校以降の「 俗箏」を指します。箏曲は時代によつてその性質が大きく異なります。雅樂に於ては樂箏として十三絃の箏が採用されてゐたけれども、箏曲としてはつきりとした實踐演奏の樣子がわかるのは、西暦八四五年に唐から渡來した孫賓が箏の樂曲を傳へてからです。平安時代に於ては箏の獨奏も行はれ、天皇や貴族たちが創作活動をしてゐた樣子が窺へます。その後、箏は管弦や催馬樂に使はれ、貴族の必須教養になつていきました。源氏物語では男女問はず日常生活の中で、箏や琵琶の演奏を樂しむ樣子が描かれてゐます。更に源氏物語の橋姫の卷には箏の教習に唱歌形式を採用してゐた、とあります。唱歌は言葉で旋律をなぞり、音高・リズム・強弱などを覺える方法です。やがて唱歌に替へて意味のある歌詞を當てはめるアイデアが生まれました。
 平安中期以降は淨土信仰が深まるとともに、宮中・佛教寺院に於て舞樂や管弦・催馬樂などを織り交ぜた法會が盛んになりました。これを「 寺院雅樂」と言ひます。この演奏に今樣歌體の詞章つけられたものが出現し、特に越天樂の曲に詞章をつけた「 越天樂謠物」が廣く行はれ、寺院歌謠が誕生しました。この越天樂謠物が箏伴奏歌曲に變容していき、次代に繋がつていきます。
 室町後期に賢順(西暦一五三四?~一六二三?)が、九州久留米の善導寺で越天樂謠物を箏の伴奏による歌曲として集大成して、「 築紫流箏曲」または「 築紫箏」として創始しました。賢順は大内家、大友家、龍造寺家と移り、音樂の才を高く買はれてゐました。築紫箏の特色は殆どが歌曲で、越天樂謠物に由來する四~九首を組み合はせたものです。調弦は雅樂の太食調の調弦をもとにして、第二弦を主音として半音を含まない五音音階から構成されるものを基本としてゐます。爪も雅樂のものより細長くなつてゐて、雅樂の箏よりも多彩な手法が用ゐられ、「 連」「 風連」「 滄海波」など個性的な名稱の手法が用ゐられてゐました。
 賢順の門人の法水と云ふものが、八橋檢校(西暦一六一四~一六八五)に箏を教へ、八橋は平調子と云ふ調弦法を編み出します。。そして箏組歌(箏伴奏の歌曲)十三曲、段物(箏獨奏曲)六段の調・八段の調などを作曲し、近世箏曲と云はれる箏の音樂の基礎形態を樹立しました。八橋は門弟北島檢校に箏を傳承し、北島檢校が弟子の生田檢校に傳へ、生田檢校(西暦一六五六~一七一五)が生田流を創始しました。生田流は上方で繁榮したのに對し、江戸では箏曲は流行らずでしたが、これを變へたのが山田檢校でした。山田檢校(西暦一七五七~一八一七)は江戸淨瑠璃を參考に新しい歌曲的な箏曲を創作し、江戸で大いにうけ、山田流箏曲が誕生しました。
 以降箏曲界では地歌を基盤にした器樂的な箏曲を傳承する關西の生田流、箏を伴奏に歌本位の箏曲を傳承する關東の山田流と云ふ二大會派が明治まで續きます。幕末には八橋檢校に立ち戻らうと云ふ復古的な「 幕末新箏曲」と云ふ純箏曲運動が起こりました。明治以降は皇室尊崇・高雅な歌詞の明るい明治新曲が登場し、大正時代に宮城道雄(西暦一八九四~一九五六)や中能島欣一(西暦一九〇四~一九八四)などが出現し、「 新日本音樂」と稱し洋樂を導入した新しい箏曲が登場しました。

三、八橋檢校

 八橋檢校の出生地は、福島縣岩城と福岡縣豐前小倉の二説があります。失明して當道に入つた時期は不明で、初名を城秀といい、寛永(西暦一六二四~一六四四)の中頃に初度の上衆引(坐頭の位階のひとつ)となり、二十三歳で勾當となつて山住勾當と名乘りました。二十六歳のとき檢校となり、上永檢校城談と改名し、後に八橋姓に改めました。七十一歳沒。沒地は京都で、黒谷淨光院に葬られました。
 八橋檢校は寛永のはぢめ頃は、大坂で後の柳川檢校とともに三味線で活躍し、三味線當代名人二人とまで云はれ、自ら八橋流と云つてゐたと云ひます。しかし、何らかの事情で江戸へ下り、賢順の弟子の法水に出會ひ、築紫箏を習得することになりました。時期は恐らく勾當に昇進する前の二十歳前後です。八橋三十四歳の頃、平(磐城)藩主内藤風虎の編詞に基づいて新しい箏組歌を十三曲作曲し、教習のための階梯を定めました。平調子を編み出したのはいつかは不明ですが、「 琴曲抄」にて八橋檢校が作つたと傳へられてします。また、胡弓の名人と云ふ説もあります。
 平調子は半音を含んだ調弦法で、柱を大膽に動かした初めての試みとして、コペルニクス的轉囘と賞す專門家もゐます。ちなみに最初に紹介したさくらさくらには半音♯♭が含まれてゐないことに就いては、ミをレにすればわかりやすくなります。つまり「 レ レ♯ ソ ラ ラ♯」となります。このレをミに移調したら「 ミ・ファ・ラ・シ・ド」となります。平調子は現代でも最初に習ふ箏曲の調子として受け繼がれてゐます。(圖二)
 八橋の他の業績は、當時民間で行はれてゐた器樂曲に大幅に手を加へ、段物の「 六段の調」「 亂」を成立させたことがあります。この二曲は後の箏・三味線音樂の器樂的發展に大きな影響を及ぼすことになりました。もうひとつは、八橋檢校自身がしたはけではないのですが、弟子たちにより教習カリキュラムの體系化の骨骼として八橋檢校の曲が組み込まれたことです。八橋檢校の作品群は江戸時代を通じて專門家達の指標として機能し、八橋の曲の解釋の相異が流派を分ける要因となりました。

四、生田流と山田流

 現在の箏曲の流派は圖三のやうになつてゐます。圖でわかるやうに山田流以外はほぼ生田流の派生になります。その最大の要因は現行の箏曲の殆どが生田檢校を經由した流れだからです。しかし、歴史的には地域や時代によつて數多くの流派が存在し、それぞれ異なる表現を尊重してきたことにも留意しておきたいところです。
 生田流とは、箏組歌とこれに附隨する段物などの傳承上の差による流派名のひとつです。つまり、八橋檢校から枝分かれしたうちのひとつです。八橋檢校が北島檢校に箏を傳へ、北島檢校が生田檢校に傳へたものを、生田檢校四〇歳の時(西暦一六九六)に創始したものです。この事情に就いては北島檢校が志半ばで倒れ生田檢校が受け繼いだからだとされてゐます。生田檢校に就いては京都で活躍したこと以外は、生涯も業績も殆ど不明で、いくつかの曲を作曲した傳説が或程度です。江戸時代後期に、生田流は關西で箏と三味線の合奏を加へ、地歌と融合していきました。斯樣式を生田流と呼ぶ場合もあります。
 生田流は角爪を用ゐ、この角を有效に使ふため、箏に對して左斜め約四五度に構へます。比較的段物が多く、形状は雅樂の樂箏に近いものとなつてゐます。
 山田流は江戸で流行つた流派です。山田檢校が江戸の箏曲塾で習つたものを改造し、革新的な箏曲を創始しました。山田檢校は寶暦七年(西暦一七五七)生まれで、尾張藩寶生流能樂師三田了人の子として生まれました。幼少期に失明し、一五歳の頃に長谷富檢校門下の山田松黒に入門し、數年後には箏曲の作曲も手がけるやうになりました。四十歳の時檢校になり、この前後から山田檢校の名聲が高くなり、山田流箏曲が江戸の人々の間に滲透するやうになり、以降一大勢力をなすに至りました。女性たちから山坐さんと呼ばれ、熱狂的な支持を得てゐた樣子が窺はれます。以降作品集を次々と刊行し、第六十八代江戸惣録となりましたが、その二箇月後に六十歳で死去しました。
 山田流は丸爪を用ゐ、箏に對して正面に構へて演奏します。俗箏として改良を加へられた音量が大きく豐かな音色の箏を使つてゐます。現在製作されてゐる箏は一部を除いて殆どが山田流式のものとなつてゐます。歌ものが多く、聲の表現を重視した箏伴奏歌曲であり、箏を主奏樂器としながら、三味線を加へることよつて、關西とは全く異なる表現を編み出しました。江戸で好まれてゐた河東節や一中節などの淨瑠璃を取り入れた點に特色があり、演奏者の性質を活かした歌ひ分けも大切な表現要素です。ただ、箏・三味線ともにほぼ同樣の旋律を齊奏するのが原則で、あくまでも歌を聞かせることに主眼があり、三味線音樂を箏に轉化した音樂と云つた性格が強くあります。
 山田檢校は樣々な音樂に通じ、關西系の地歌箏曲の旋律が引用されたり、高い教養を基礎にした文學性に富んだ歌詞を作り、江戸前の三味線音樂の良さをとりいれながら、箏がもつてゐる高雅な雰圍氣を損ねないやうな音樂創造を目指したと述べてゐます。儒學者・國學者・武家・歌舞伎役者とも親交を持ち、作風に大きく寄與したと目されてゐます。

五、手事物の發達

 上方では歌よりもむしろ器樂的表現の可能性を探求する傾向が強くなり、それに伴つて手事(或程度獨立した間奏)の部分に、別の旋律を重ねる演奏形態が發達していきました。「 手事物」の誕生です。このときの手事は主に地歌を歌ふときのもので、地歌とは彈きながら歌ふ聲樂曲のことです。
 初期は三味線の旋律を箏がなぞるベタ附けをする程度でした。しかし三味線の本手(主旋律)に對して、箏を替手(副旋律)とする工夫がうまれてきました。これを替手式箏曲といい、西暦一九世紀初頭の大阪で發達したと考へられてゐます。この替手式箏曲が京都に於て京風手事物と總稱される作品の創作を誘發します。三味線と箏の個性を活かしながら、技工の限りを盡くして緩急自在に掛け合ひを重ね、高音域の多樣、調弦を變へずに細かい變化音を交へて轉調を重ねる難技巧も隨所に現れます。京風手事物の特色はさうしたアンサンブル前提に曲が創られてゐることです。
京風手事物の作曲者たちは、盲人音樂家の常として、三味線・箏の兩方を專門としてゐましたが、難度の高い技を追求する過程で、それぞれの腕を發揮しやすい分業體制が自然に定着していつたと見られます。或種の職人的な趣を感じされるものもすくなくありません。專門性に對する社會的評價は、「 三絃(三味線) 松浦檢校」「 琴 浦嵜檢校」などの記述からも見て取れます。これらを總稱して地歌箏曲とも云ひます。(圖四)

六、近代以降の箏曲

 まだ近代にはなつてゐませんが、江戸末期に後世から「 幕末新箏曲」と云はれる純箏曲運動も含めて紹介します。地歌や手事物、三味線の影響から脱却し、箏曲復興にその束縛を受けない純箏曲や、單に復古的ではない新箏曲の創造運動です。陰陽折衷の調子や箏の高低二部合奏など新基軸を打ち出しました。同時期に國學を背景とする改革思想や復古思想が臺頭しはじめてをり、社會情勢に合致した運動だつたと云へます。
 明治四年に當道は廢止され、盲人達は各種特權を剥奪されました。高尚な檢校達も一部は寄席に登壇して奇拔な三味線彈きをしなければ食べていけなくなりました。しかし、箏曲の教授活動は男性盲人に限定されなくなり、箏曲市場擴大を促し、多樣な創作活動を誘發しました。
 この時代に箏曲界で臺頭したのが「 明治新曲」です。江戸期では男女の情愛を多く歌つてきた箏曲は、時代の變化から皇室尊崇や、和歌を基礎にした歴史的素材などが好まれるやうになりました。特徴としては陽音階を主とした調弦、高低二部の箏による合奏形式、左手で弦を彈く手法を交へた創作が盛んになりました。この陽音階は半音を含まない明るいもので、明清樂と云ふ中國の民間音樂を參考にしたもので、通稱カンカン調と云はれました。特にツルシャン物と云ふ、一拍目を右手でツルッと弦を普通に彈いた後すぐすくつて、二拍目は左手で弦をつまんでシャンと和音を彈く音型を地にした曲調が流行りました。しかし明治期のみに一過性のブームに終はる結果となつてしまひます。
 大正九年、宮城道雄と本居長世は合同作品を發表。尺八家の吉田晴風が「 新日本音樂大演奏會」と命名したことから、以後の宮城に代表される創作活動を「 新日本音樂」と云ひます。その特色は箏曲と尺八の演奏家が主體と成つた洋樂を意識した創作の試みに盡きます。宮城は西洋音樂の樂曲形式や和音・リズムを取り入れ、スタッカート、アルペジオトレモロ、ハーモニックスその他の新技法を工夫。十七弦などの新樂器も考案して、大規模な合奏や洋樂器との合奏も試み、四百二十餘曲を作りました。昭和三十一年に列車から轉落死し、その劇的な死は今なお稀有な才能とともに語り繼がれてゐます。
 現代邦樂は中能島欣一が先驅者とされてゐます。中能島は宮城より十歳年下で、生涯に百三十餘曲を作りました。彼が前衞的と評される背景には、箏獨奏曲「 三つの斷章」の存在が大きく、他に三味線に比重のある合奏曲に個性を發揮し、協奏曲も手がけました。宮城の抒情的・旋律的・大衆的な作風に對して、理性的・リズム的・抽象的と評され、どちらも傳統を尊重しながらも洋樂を意識し、新しい時代に即した音樂創造を志した點で共通する精神を宿してゐます。また、洋樂系の作曲家も進出し、邦樂器を積極的に活用し、多樣な活動が展開されて今日に至ります。
 箏は、近代以降に至つて獨奏樂器としての地位を獲得し、今日ではソロの樂器としても定着しつつあります。箏曲ほど時に応じて裝ひを新たにしてきた領域は他にあまり例がないのではないでせうか。


參考文獻

ひと目でわかる日本音樂入門 田中健次(音樂之友社 平成十五年)
よくわかる日本音樂基礎講坐 福井昭史(音樂之友社  平成十八年)
日本の傳統藝能講坐 音樂 小島美子(淡交社 平成二十年)
日本音樂がわかる本 千葉優子(誠幸堂 平成十七年)
箏曲の歴史入門 千葉優子(音樂之友社 平成十一年)
人物でたどる おもしろ日本音樂史 釣谷眞弓(東京堂出版 平成二五年)

 

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箏曲 解説図

 

【関西】定例研究会のご案内

 

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次回の関西地区定例研究会は、下記要領にて開催します。万障繰り合わせの上、ご参加ください。

 

民族文化研究会関西地区第10回定例研究会

日時:平成31年2月9日(土)16時30分~19時30分
会場:貸会議室オフィスゴコマチ 3階 303号室
京都府京都市下京区御幸町通り四条下ル大寿町402番地 四条TMビル

http://​http://office-gocomachi.main.jp/​

会費:800円
​主催:民族文化研究会関西支部