定例研究会報告 古代人の意識の探究――ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』序章・第一部前半概説

 8月13日の民族文化研究会定例会における報告「古代人の意識の探究――ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』序章・第一部前半概説」の要旨を掲載します。

 

 我々が住まうこの国の歴史は、文字を持たず神話と現実が融解していた古代に起源を発する。その長い歴史が我々に誇りと安堵をもたらす一方で、我が国の建国の父祖たちがいかなる思考によって國體の原型を建設したのか、我々がはっきりと知る術はない。

 我々は文字を持たない社会のあり方について、発掘された遺物、或いは外部や後世の文字を持つ人々が記述した文献から、断片的に窺い知ることができるにすぎない。そのような考古学的・歴史学的アプローチの限界を乗り越える上での手がかりとして、私は本書における「心理学的アプローチ」の試みを紹介したい。

 

ジュリアン・ジェインズ(1920~1997)
プリンストン大学心理学教授。ハーバード大学を経てマクギル大学で学士、イェール大学の心理学で修士・博士号取得。動物行動学を研究したのち、人間の意識に関わる研究にシフト。1976年に本書を刊行。1978年全米図書館賞候補作となった本書が生涯でただ一冊の著書である。

 

序章 意識の問題

 私たち人間は、意識が生まれたほぼその瞬間から意識の問題を意識してきた。ヘラクレイトスは意識を巨大な空間と呼び、聖アウグスティヌスは「私の記憶の平野や大小の洞窟」に驚嘆したとされる。意識の性質の探究は「心身問題」として、長く哲学的解釈に傾きがちであった。しかし進化論の出現以降、意識の起源について科学的な解明が試みられるようになる。

 意識の起源に関する仮説としては、①それが相互に作用する物質の基本的な属性にまでたどることができるという説、②あらゆる生命体の基本的な属性であるとする説、③生命がある程度進化した特定の時点であったとする説、④意識を形而上の付与物として見る説、⑤意識は何ら活動していないとする説、⑥意識は進化の非常に重要な段階において純粋に新奇なものとして創発されたという説、⑦意識が存在しないとする行動主義、⑧意識を網様体賦活系とする説などがある。しかし、私たちは脳に関する知識だけからその脳が私たちのような意識を持っていたかどうか知ることは絶対にできない。したがって、この問題については、意識とは何かを規定することから始める必要がある。

 

第1章 意識についての意識

 意識とは何だろうか。ジェインズは、意識が「何でないか」を示すことで、この答えに迫ろうとする。

 第一に、私たちは普段の日常生活において、対象を意識しないままに様々なものに間断なく反応している。意識は複雑な行動を学習する上では一役買っているが、その遂行には必ずしもかかわっていない(例:ピアノの演奏)。したがってまず、意識は反応性ではない。

 第二に、意識は経験の複写でもない。意識的な追観とは、感覚器官が得た心象の蓄積の想起ではなく、以前に意識を向けたものの想起であり、そうした要素を理性的なパターンに再構成することにほかならない。

 第三に、意識は概念の必要物ではない。概念とは、行動的に見て同価値の事物の分類である。動物行動において根本概念は先験的なものであり、行動を生じさせる性向決定構造の根幹を成している(例:ミツバチにとっての花)。

 第四に、意識は学習に必要なものではない。それどころか、学習を妨げさえする(例:弓道の鍛錬)。

 第五に、意識は思考にとって必要ではない。実際の思考過程は通常意識の本質だと考えられているにもかかわらず、実は全く意識されておらず、意識の上で知覚されるのは思考の準備と材料、そして最終結果だけであるということが、いくつかの実験から明らかになっている。

 第六に、意識は理性に必要ではない。推理は無意識のうちに行われ、意識はそこに不要であるばかりでなく、その過程を阻害する可能性も高い。

 また、意識に在りかと呼べるものはない。そして、これまで述べられてきた意識についての特性からは、人間の行動にとって意識は必要ですらないことがわかる。

 

第二章 意識

 本章でジェインズは、意識と言語の関係についての分析を行っている。言語は比喩によって発達する。言語は単なる伝達手段にとどまらない知覚器官であり、比喩は人類の文化が複雑になるのに合わせて新しい言葉を必要に応じて生み出してきた。時代が進歩するにつれ、言葉とその指示物は、比喩の基礎の上に抽象的な世界を創り上げてきた。

 ジェインズによれば、主観的な意識ある心は、現実の世界と呼ばれるもののアナログである。それは語彙または語句の領域から成り立っており、そこに収められた用語はいずれも物理的な世界における行動の比喩、すなわちアナログである。これによって、私たちは行動過程を短縮し、より適切な意思決定をすることができる。数学の場合と同じく、アナログは事物やその在りかではなく演算子であり、意思や決定と密接につながっている。

 意識の機能としては、空間化、抜粋、アナログの自己、比喩の自己、物語化、整合化といったものがある。ジェインズによれば、意識とは言語に基づいて想像されたアナログ世界であり、数学の世界が事物の数量の世界と対応するように、行動の世界と対応している。したがって、意識は言語より後に生まれたのである。

 

第三章 『イーリアス』の心

 文字の誕生は紀元前3000年頃に遡る。しかし、当時の文献は翻訳が不正確であるため、ジェインズは確実な翻訳が行える最初の著作である『イーリアス』を対象として、古代人の心理構造の解明に挑戦している。

 ジェインズによれば、『イーリアス』の内容にはおしなべて意識というものがない。後世には精神的なものを指すようになる単語も、『イーリアス』では異なる意味で使われ、いずれもより具体的なものを指す(例:psycheの意味は「血」「息」→後世では「魂」「意識ある心」)。また、「意思」や「体(全体)」を指す言葉もない。では『イーリアス』の登場人物に、主観的な意識も心も魂も意思もなかったとしたら、何が彼らを行動へと導いたのだろうか。

 『イーリアス』の登場人物は、意識ある心を持たず、内観を行わない。行動は、はっきり意識された計画や理由や動機に基づいてではなく、神々の行動と言葉によって開始される。神と英雄のこの関係は、フロイトの自我と超自我の関係や、ミードが提唱した自己と一般化された他者との関係に似ているとジェインズは主張する。この神々は、今日では幻覚と呼ばれるものである。すなわち、トロイア戦争は幻覚に導かれて戦われたのである。ジェインズはこのような古代人の精神構造を「二分心」と名付けている。

 『イーリアス』は後の時代に付け加えられた記述ほど、主観的な表現が増える傾向がある。すなわちこの作品は、基本的にどの王国も神政政治で、人々は新しい状況に直面するたびに聞こえてくる声の奴隷だった、主観的な意識の無い時代を垣間見させてくれる窓なのである。

 

本発表のまとめ

 今回はジェインズの重要な主張である、言語が意識を生み出したという仮説と、それから導き出される古代に無意識の文明があったという仮説について扱った。第一部後半では「二分心」についてより詳細かつ具体的な説明がなされるが、紙幅と時間の都合から次回発表で扱うつもりである。

 『神々の沈黙』は全18章、632ページに及ぶ大著である。このペースで全章を扱うと発表に6回を要してしまうため、今のところは第一部のみの紹介にとどめたいと考えている。興味のある方は是非書店で手に取っていただきたい。

 ジェインズの「二分心」仮説は、文字を持たなかった古代日本人の意識に迫る上でも一つの手がかりを提供してくれると私は考えている。ジェインズは第二部で、文字の登場が人類の意識構造に大きな変化をもたらしたと主張している。ジェインズの仮説は検証が難しく信頼性に不安を残すが、現代人と古代人の間に意識の面で様々な違いがあったことは確かである。我々の時代に神話や祭祀を活かそうと試みるとき、それを生み出した古代人の思考に対する理解が無ければ、それは空虚な猿真似にすぎないのではないだろうか。

 

参考文献
ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』(紀伊國屋書店 2005)

 

定例研究会報告 「青人草」の神学――平田篤胤の国家意識

 7月9日の民族文化研究会定例会における報告「『青人草』の神学――平田篤胤の国家意識」の要旨を掲載します。

 

はじめに――二つの神学を繋ぐもの

 近世期の神道教理における記紀解釈は、記紀をもとに国家の正統性を弁証しようとする潮流と、記紀をもとに個人の魂魄の救済を希求しようとする潮流に、それぞれ大別されている。そして、前者の潮流は、近世期の神道教理における主流であって、大部分の国学者に共有された態度だった。宣長学を起点とした国学における神道教理は、記紀を皇統起源譚として解釈し、天照大御神瓊瓊杵尊にあたえた詔命を究極的根拠として、国家支配の正統性を弁証しようとするわけである。これに対し、後者の潮流は、近世期の神道教理における傍流であって、いわゆる民衆神道において共有された態度だった。一尊如来きのや中山みきといった民間神道家の神道教理は、記紀を幽冥界の叙述として解釈し、独自の諸神の観念を駆使しつつ、人々の魂魄の救済を主張しようとするわけである。そして、こうした両者の神道教理は、ともに記紀に準拠しつつも、前者の潮流は国家の正統性に重点を置いた「国家の神学」として、後者の潮流は個人の救済に重点を置いた「個人の神学」として、それぞれ対極にあるものとして対抗していたのである。

 だが、こうした「国家の神学」と「個人の神学」の対抗として描写される、近世期の神道教理における記紀解釈において、いずれの潮流にも分類しえず、異色の記紀解釈だと看做されているのが、平田篤胤記紀解釈である。すなわち、子安宣邦が『宣長と篤胤の世界』(中央公論社、1977年)で指摘したように、篤胤は「国家の神学」と「個人の神学」を統合する第三の神学を樹立しようとしたのだ。この「国家の神学」と「個人の神学」を統合する第三の神学の鍵となるのが、「青人草」という概念である。記紀は、本源的に皇統起源譚であるため、人類の創生については言及が無い。だが、人類の創生について言及が無いため、記紀は個人の救済について説明できない。そこで、篤胤は、「青人草」という概念を導入することで、記紀に人類の創生を読み込んで、個人の救済について説明しようとする。こうした点で、篤胤は、民間神道家の企図と、歩調を同じくしている。だが、篤胤は、こうした個人の救済だけでは満足せず、神から受けた恩寵への「報恩」として既存の体制の擁護を試みることで、国家の正統性をも弁証しようとした。こうした点で、篤胤は、国学者の企図と、歩調を同じくしている。すなわち、篤胤は、既存の国学者とは異なって、国家の正統性だけではなく、個人の救済にも着目しつつ、一般的な民間神道家とは異なって、こうした個人の救済を、国家の正統性へと接続しようとするわけだ。このように、私的救済から公的価値へと上昇しようとする「ダイナミズム」によって、篤胤の記紀解釈は「国家の神学」と「個人の神学」を統合するわけである。では、篤胤の記紀解釈を、「国家の神学」と「個人の神学」を統合した第三の神学たらしめる、こうした私的救済から公的価値へと上昇しようとする「ダイナミズム」は、いかなるものなのか。「青人草」や「報恩」といった鍵をもとに、この問いに応答したい。

 

一 「青人草」の生誕

 前述したように、記紀は本源的に皇統起源譚である。諸神と天地の創造を、そして建国の経緯に言及しつつ、その根源にある論理とは、天照大御神瓊瓊杵尊にあたえた詔命を究極的根拠とした、天皇による統治の先験的正統性にほかならない。だが、こうした皇統起源譚を中心とした記紀の構成は、人々の宗教的情熱を受容するにあたり、不足が生じてくる。信仰においては、信仰する者の幽冥での宿命はどうなるのか、あるいは信仰する者はそもそもいかなる存在なのか、といった問題を避けて通れない。すなわち、「信仰者の主体性」という問いが突き付けられることとなるのである。こうした「信仰者の主体性」という問題に応答するため、篤胤は「青人草」という概念を生み出したわけだ。篤胤は、『古史伝』において、「青人草」という概念を生み出し、人類の創生を記紀に読み込む。篤胤が、人類の創生を記紀に読み込むにあたって、利用したのが鎮火祭祝詞である。この祝詞には「神いざなぎいざなみの命…国の八十国、嶋の八十嶋を生みたまひ、八百万の神等を生みたまひて、みほと燃えて石隠りまして」という記述があるが、この叙述のうち篤胤は「八百万の神等」に着目する。伊邪那岐命伊邪那美命が生んだ神は、記紀によれば五柱であると指摘し、「八百万の神等」という表記は、これらの五柱の神々に加え、人類(「青人草」)の父祖たる数多の神々も挙げたため、と主張する。一見すると牽強付会な議論だが、こうして篤胤は人類の創生を記紀に読み込み、「信仰者の主体性」を確立したわけだ。重要なのは、実際に記紀が人類の創生を叙述しているかではなく、篤胤が記紀から人類の創生を解釈しようとした、という点にある。

 

二 神の愛と犠牲

 こうして、記紀の神話的世界において、「信仰者の主体性」は確立された。続いて、論点として浮上するのが、こうした青人草と神の関係性である。まず、神が、青人草に対し、いかに接しているか、を俎上に載せたい。篤胤は、神が、青人草を、「愛」と「犠牲」を払って処遇している、と指摘した。篤胤の記紀解釈において、こうした神の青人草への「愛」と「犠牲」は、国生みから天孫降臨まで、神話の全体を貫徹する主調音であり、それへと神の全行為が収斂する命題であった。第一に、天津神が岐美二神にあたえた国生みの詔命が、すでに「青人草の生成」という企図を包含していたと解釈される。天津神は「青人草を住せ給はむこと」(『古史伝』)をこそ命じたのであり、国生みの詔命も、この延長上にある。こうして「青人草の生成」のため創生された国土で、「人種(ひとくさ)の始祖」(『赤県太古伝』)となった岐美二神は、親が子を慈しむように「青人草」を愛おしむ存在となる。第二に、記紀においては、伊邪那美命は荒ぶる火神を生んで黄泉へと行くのだが、篤胤の『古史成文』は、黄泉へ隠れた伊邪那美命は地上へ還帰し、傷ついた身体で神生みをすると主張した。この神生みは、青人草のために行われたとされた。すなわち、篤胤の記紀解釈において、神の青人草への「愛」は、自らが「犠牲」を払っても、貫徹されるのだ。そして、岐美二神の青人草への「愛」と「犠牲」は、皇祖神である天照大御神に継承される。記紀には、伊邪那岐命天照大御神に詔命をあたえた際の情景が「御頸珠の玉の緒もゆらに取りゆらかして、天照大御神に賜ひて詔りたまびしく、汝命は、高天原を知らせ、と事依さして賜ひき」と描写されている。天照大御神が継承したのは、高天原の主宰者である皇祖神としての、資格とその表象である御頸珠のほかにはない。しかし、青人草への「愛」と「犠牲」の継承を読み取ろうとする篤胤の解釈では、御頸珠は単なる聖性の表象であることに留まらず、「是より以後は、世に霊幸ひたまふべき御徳を、悉に大御神に禅賜ふ御璽」(『古史伝』)として把握されるのだ。天照大御神は、皇祖神の資格と一体のものとして、青人草への「愛」と「犠牲」を統轄する義務と権能を継承したのだ。

 

三 天孫降臨

 このように、「青人草」は、神による「愛」と「犠牲」を払った庇護のもとにある。それでは、こうした神の巨大な恩寵は、いわば反作用として、どのような義務を人間に要請するだろうか。続いて、こうした人間は神をいかに信仰すべきか、という問題に取り組んでいきたい。篤胤は、こうした神の巨大な恩寵に、「報恩」という形態によって、応答すべきであると主張している。そして、篤胤の記紀解釈における「信仰者」は、「青人草」として記紀において主体性を確立しているのであり、こうした「報恩」を充分に実践できる能力をもっている。すなわち、篤胤はまず、皇室起源譚を中心とする記紀の限界を打開するため「青人草」によって、「信仰者の主体性」を確立した。そして、こうした「信仰者」への、神による「愛」と「犠牲」を払った庇護と、こうした庇護への「信仰者」の主体的な「報恩」を主題化することで、神と「信仰者」の能動的な関係性を構想したわけである。こうした「庇護」と「報恩」によって、緊密に結合された能動的な関係性こそ、篤胤が理想とする神人関係なのである。そして、こうした「庇護」と「報恩」によって、緊密に結合された能動的な神人関係が、究極的に実現される場こそ、天孫降臨にほかならなかった。篤胤の記紀解釈によると、天孫降臨とは、それまで本体が天上にあったため、恩寵を充分に地上に注げなかった神々の、「愛」と「犠牲」による庇護を、青人草にもたらす行為だった。皇孫の降臨が無ければ、青人草に恩恵をもたらす神々の体系は充分に機能しえないのであり、その意味で天孫降臨は、神々の庇護の体系の、最終的な完成を含意していた。

 ここで、注意したいのが、天孫降臨を契機とし、神による「庇護」と信仰者による「報恩」の関係性は、天皇による「庇護」と民衆による「報恩」の関係性へと、転換していることである。第一に、神の「庇護」と青人草の「報恩」によって、緊密に結合された能動的な神人関係により、個人の魂魄は救済される。第二に、こうした神の「庇護」と青人草の「報恩」によって、緊密に結合された能動的な神人関係が、政治上の関係性へと読み替えられていくことによって、国家の正統性が弁証される。天孫降臨を劇的なクライマックスとして、国家の正統性を重視する「国家の神学」と、個人の救済を志向する「個人の神学」は、統合されることとなるのである。

 

おわりに――私的救済から公的価値への揚棄

 これまで、篤胤の記紀解釈において、国家の正統性に重点を置いた「国家の神学」と、個人の救済に重点を置いた「個人の神学」が、いかに統合されるかを検討してきた。まず、篤胤は、「青人草」の概念によって、記紀に人類の創生を読み込み、それまで記紀において希薄だった「信仰者の主体性」を確立した。こうした「信仰者の主体性」を確立することによって、それまで国学者神道教理における記紀解釈では困難だった、個人の魂魄の救済を主題化できるようになった。だが、篤胤は、これでは満足しない。神と信仰者の関係性を、神の「愛」と「犠牲」を払った「庇護」と信仰者の「報恩」によって、緊密に結合された能動的な関係性として設定することによって、信仰者に自身のみの救済に留まらない、高次の目的意識を抱かせることに成功した。そして、天孫降臨を契機として、こうした神人関係を政治的関係へと転換させることによって、特定の政治制度への自発的な忠誠をもたらすことを可能としたわけである。こうして、従来の民間神道家の神道教理における記紀解釈では困難だった、国家の正統性を主題化できるようになった。こうして、篤胤は、国家の正統性に重点を置いた「国家の神学」と、個人の救済に重点を置いた「個人の神学」を、統合することができたわけである。こうして、「国家の神学」と「個人の神学」に分断された、私的救済と公的価値が接続され、私的救済から公的価値へと上昇しようとする「ダイナミズム」が生まれることとなった。平野豊雄は、「篤胤における国家と『青人草』」一橋論叢84巻1号(1980年)で、こうした篤胤の記紀解釈における、私的救済と公的価値が接続され、私的救済から公的価値へと上昇しようとする「ダイナミズム」が生まれたことを指し、「揚棄され国家に向かって解放された」と表現している。この表現は適切であって、篤胤神学のもつ政治的・社会的企図において、自身の救済にしか関心の無かった個人は、主体的に公的価値を実現しようと行動するようになり、「揚棄され国家に向かって解放された」わけだ。

 

参考文献
相良亨編『日本の名著24 平田篤胤佐藤信淵鈴木雅之』(中央公論社、1972年)
子安宣邦宣長と篤胤の世界』(中央公論社、1977年)
平野豊雄「篤胤における国家と『青人草』」一橋論叢84巻1号(1980年)

 

 

 

f:id:ysumadera:20190630113933j:plain

平田篤胤

 

定例研究会報告 日本神話への視点――萩野貞樹『歪められた日本神話』の紹介(二)

 7月9日の民族文化研究会定例会における報告「日本神話に対する視点――萩野貞樹『歪められた日本神話』の紹介(二)」の要旨を掲載します。

 

3 「第2章 神話を考える特殊日本的状況」

 第2章は、萩野氏の率直な感想が多い章である。まず、萩野氏は高校の国語科教員としての勤務経験から、国語教科書で古典が取り上げられる時は、大抵冒頭が紹介されるという傾向があると指摘する。しかし、『古事記』の冒頭はなく、たいていがヤマトタケルノミコトの話などが取り上げられるのである。この表向きの理由は、「文学的ではない」というが、「天地の初発の時、高天の原に成りませる神の名は、天の御中主の神」(角川文庫版『新訂古事記』)というと確かに「文学的」か疑問もあるにせよ、やはり根本的な理由は、皇室の祖先に関することなので、教員が触れたがらないということだろうと推定している。日本の神話は世界では珍しく、現代に直結しているため、かえって扱いにくくなっているのである。

 萩野氏は、国学者・多田南嶺の『南嶺子』に記された、「日本のみ神国といふにあらず」いう言葉を引き、各国に神話があることを素直に認めるべきだとしている。これは非常に優れた指摘といえるだろう。

 

4 「第3章 神話各説を批判する」

 これまでも、多少神話に関する諸家の見解に批判を向けてはいたが、本章から本格的な各説批判となっていく。まず、第1節として「神話の矛盾・不合理ということ」という題が掲げられ、神話の記述を「矛盾である」、「不合理である」とする諸家の見解が挙げられている。

 まず、神田秀夫氏である。神田氏は『古事記』にはゆがみが多く、無体系、辻褄合わせで、中国風のまねが多く、後から付けた理屈に基づいているとする。一例として、「よもつへぐひ」(イザナキ・イザナミ神話)に関しては、「博徒の一宿一飯の恩義」的思想の反映であるという。これは非合理的な神話に一見「合理的解釈」を下したものである。しかし、同様の神話はアメリカ、ポリネシアにもあるが、それはどうなるのかと萩野氏は指摘する。

 次に横田健一氏である。氏は、八岐大蛇は自然現象で説明可能と述べる。すなわち、8つの頭は斐伊川の支流、腹が血で爛れたのは砂鉄の酸化鉄の色であるといった具合である。しかし、横田氏は同文中で、世界に同類の神話があることを述べている。にもかかわらず、何故か自然現象にもとづく解釈をしているのは妙ではないかと、萩野氏はいうのである。

 続いて倉野憲司氏である。氏は、『古事記』の神武東征の順路が不合理であるとして、『日本書紀』の方が正しいとする。確かに、『古事記』の神武東征の順路は日向→宇佐→筑紫→安芸→吉備→豊予海峡となっており、吉備の後に後ろに戻る格好になっている。しかし、最短ルートでないからといって誤伝とすべきなのかははなはだ疑問であろう。なにしろ軍旅であるから、合理的な旅行とは異なる。神武東征は多分に神話的なものであり、不合理も当然ではないかと萩野氏はいうのである。

 最後に益田勝実氏である。氏は、国譲りが出雲で行われているのに、天孫降臨の舞台が筑紫なのはおかしいという。これは、2つの別個の神話が強引に接合されたからではないかと結論づけている。しかし、もし神話が作り話であれば、合理的に構成されるはずなのではないだろうか。

 萩野氏は、外国神話の該博な知識をもとに、類似する神話を提示して日本側の「不合理」「矛盾」解釈に疑問を呈していく。こういった解釈に対しては、「日本の神話は外国神話と違って、政治文書なので別である」と反論がなされる。しかし、政治文書である論拠は、「日本の神話は矛盾があり、また整然としていて神話ではないため」だという。これは循環論法ではないのだろうか。外国の神話同様、日本神話も神話として扱うべきであるというのが、一貫した萩野氏のスタンスなのである。
(続く)

 

f:id:ysumadera:20200413024156j:plain

萩野貞樹『歪められた日本神話』

 

定例研究会報告 日本神話への視点――萩野貞樹『歪められた日本神話』の紹介(一)

 6月18日の民族文化研究会定例会における報告「日本神話に対する視点――萩野貞樹『歪められた日本神話』の紹介(一)」の要旨を掲載します。

 

はじめに

 民族文化として重要な位置を占めるのが神話である。しかし、日本における神話理解にはさまざまな点で曖昧なところが多いのが現状である。この点を突いたのが保守派の論客として知られた萩野貞樹氏で、主な論点はその著『歪められた日本神話』(PHP新書、平成16年)に収められている。本発表では、同書を紹介しつつ、日本神話への理解、固定観念への再検討のきっかけをつかみたいと思う。

 萩野氏は、昭和14年生まれ。一橋大学法学部を卒業後、鶴見高校教諭などをへて、産業能率大学教授となった。専門は国語学で、一般向けの敬語論、文章論などを多く著したが、神話にも造詣が深く、「アメノミナカヌシは消せるか-架上の説を中心に」(『現代思想』)など神話論も数多く執筆し、『歪められた日本神話』に結実した。平成20年没。

 

1「はじめに」

 日本神話を詳しく知ろうとすると、市販の付きの古事記日本書紀、概説書や研究書を読むことになるが、そういった書籍にはたいてい、神話は「作り話」などと書いている。要するに、記紀は「政治宣伝文書」であるとか、「当時の思想・観念が寓意された心理資料」といった説が表明されているのである。日本神話に関心を持った人であれば、たいていがこのような説を目にしたことがあるだろう。

 これに対して萩野氏は、「高天原は高天にあったのである。八岐大蛇は八頭八尾の大蛇だったし天孫は天から降臨したのである。神が結婚したのならそれは結婚したのである。文字さえ読めるならば、そこになんの疑問もあるまい。私は本書でひたすらそのことを書いた。こんなに単純な本はめったにないだろう」(4頁)と述べる。これだけ読むと、読者は面食らうかも知れないが、萩野氏がこのように表明する理由が、第一章以降に示されている。

 

2 「第一章 日本神話はどう説かれているか」

 戦前の反動で、戦後になると日本神話は批判されて教育の場から退場するに至った。そのような潮流のなかで、「梅原日本学」がタブーに挑んだとみられるが、専門の史学者からはおおむね奇説扱いされ、無視された。本来、古代史や神話に関する議論に「左右」を持ち込むのはナンセンスだが、現実の学界動向をみると、「戦後の学説の展開が、左右軸をほとんど唯一の基準としていたのは否定しようもない」(17頁)という。

 萩野氏は、ごく簡単な整理として、神話はおおむね「史実反映説」と「創作説」に分けられると述べる。

 このうち、「史実反映説」は、「神話に登場する神々は、古代の実在の人物」であるという見解であり、日本神話でいえば、「国譲り神話は、出雲の勢力が大和朝廷に屈服した歴史の反映」であるとか、「武甕槌神が国譲り神話で活躍するのは、この神を氏神とする中臣氏の地位向上に基づく」といった理解がある。極端な反映説としては、「記紀編纂の時代の人間の投影」とする梅原猛氏や上山春平氏の説があるという(後述)。こういった見解は、非常に新しい、近代的なものに感じられるが、ギリシャでは既に紀元前の段階でエウヘーメロスが提唱した説(=エウヘメリズム))であることには注意する必要がある。

 また、「創作説」は、「宮廷人が神話風・伝説風の物語を創作」したという津田左右吉氏らによる説や、古事記は書斎人の手による「文芸作品」であるという川副武胤氏のような説がある。こちらも現在広く知られた説であろう。

 しかし、これらは本当に信じるに足るのか、というのが萩野氏の問題提起である。

 

◎「史実反映説」について

 まず、「史実反映説」の問題点である。この説はなんとなく常識化しているが、問題がある。ある神話について、「~の反映だろう」とする時、その「~」の部分を証明せずに論理を進める傾向がある。たとえば、神話を「天孫民族」や「出雲王権」の動静の反映として理解する時、その「天孫民族」や「出雲王権」はどのように証明出来るのか。下手をすると、「記紀にそのように記載があり、それはこのように解釈できるから」と循環論法に陥りかねないのである。

 とはいえ、「考古学上の知見がそのような史実反映説を補強しているのでは?」という見方もあろう。たとえば「出雲は砂鉄を産出することは、出雲の草薙の太刀の話はその象徴であろう」とか、「八岐大蛇の話は、斐伊川の氾濫を指しているのであろう」といった解釈である。

 しかし、ここでも注意が必要である。仮に後者の解釈を取る場合、氾濫を治水した史実はあるのだろうか。そうでなければ、一部分のみをみて牽強付会の解釈をしたといわれても致し方ないところがあろう。

 また、「トロイの例がある」という声が上がるかも知れない。しかし、トロイの場合、同地に都市があることは事実と分かったが、それによって神話の内容自体が証明されたわけではない。トロイの一件が史実反映説を補強したように考えるのは早計なのである。

 

◎「政治文書説」について

 次に、「政治文書説」の問題点についてである。史実反映説は成り立たないという人は相応にあり、その場合は、創作された政治文書だと証明されたからだと述べる。ただ、この説にも問題がある。極端な説ではあるが、萩野氏は梅原猛氏の作為説を例にとっている。

 梅原猛氏の作為説は、奈良朝の皇室の状態が神話に反映したという説である。

 持統天皇は、皇子草壁皇子への皇位継承を望んだが、皇子は早くに薨去してしまった。御孫で御次男である軽皇子文武天皇)に皇位を継承させるため、天照大神から皇孫である瓊瓊杵尊への継承神話が創造しようとされた。さらに、文武天皇の早い薨去によって、その母君である元明天皇が即位し、文武天皇の皇子である首皇子聖武天皇)を即位させる必要が生じ、この神話は絶対的に重要になったというのである。

 さて、この梅原説の基本には、次のような前提があることが注意される。すなわち、「子ではなく孫が継承する神話は不自然」という理解、「女神から孫に継承する神話は不自然」という理解、「次男に継承するのは不自然」という理解、「天孫降臨で外祖父(タカミムスビの神)が活躍するのは不自然」という理解である。この「不自然」を解消するために、皇室の状態の反映という理由を持ち出すという構図が現れている。

 しかし、世界の神話に目を向けてみると、たとえば弟が継承する神話は沢山あるのである。これは一体どうなるのか?また、弟が継承する神話は、大国主命神武天皇もそうであるが、これらもすべて当時の皇室の反映なのだろうか。それとも、それぞれ対応する別の史実があるのであろうか。また、ゼウスは弟で原初神ウーラノスの孫であるなど、外国神話には多数の「弟」「孫」が見えるのである。

 もちろん、外国の神話を例に出すことは日本神話の解釈に対する直接の反証ではないことは、萩野氏も重々承知のうえである。しかし、梅原説の基本にある「不自然」であるという前提は、相当程度解消されるのである。

 また萩野氏は、日本神話と朝鮮神話は構造に類似点が多いが、そうなると、朝鮮古代史が日本古代史と酷似している、あるいは、朝鮮神話は日本神話の引き写し、のどちらかの解釈を取らざると得ないが、これはどうなのかと述べる。またもし朝鮮から日本への影響をいうのであれば、そもそも日本の皇室の状況の反映説は成立しなくなってしまうのである。

 このように見ていくと、梅原説のような解釈は成り立たないのではないかという疑念が生まれてくる。萩野氏は、日本の学者は外国の神話との類似点をあまり見ようとしないが、定説化している作為説を崩してしまうからではないか、と推察している。

 

◎神話の類似について

 萩野氏は、これまたよくみられる「~型神話」という分類についても指摘を行っている。この神話は、「~型神話」である、という説明がよく行われているが、神話の全体的な類似は無視する傾向があるという。

 たとえば、「妻の連れ戻し失敗に失敗する」話は、ポリネシア、北米、ニュージーランドなどに分布する、「オルペウス型神話」である、といった説明がなされるのであるが、イザナキ・イザナミの神話と構造全体が似ているのはギリシャ神話しかないという。たとえば、類似が言われるものであっても、妻が死ぬ原因には「事故」「自殺」など種類があるのであり、「死んだ」という話にはさらに種類があるのである。

 萩野氏は、イザナキ・イザナミ神話と類似する世界の神話を取り上げて、①妻が事故で死ぬ(9種類)、②激しく泣く(4種類)、③男が一人で冥界に行く(5種類)、④ヨモツヘグイがある(2種類)、⑤「見るな」のタブーを犯す(30種類)、⑥連れ戻しに失敗(3種類)とそれぞれの場面において細かなバリエーションが存在していることを指摘する。そのうえで、この主要素で全て合致しているのはギリシャ神話のみであり、安易に「似ているものは世界に多い」と言うのも考えものであるとする。こうなってくると、「伝播説」「偶然説」「深層心理説」という解釈が出てくるのである。

(続く)

 

 

f:id:ysumadera:20190630111235j:plain

萩野貞樹

 

定例研究会報告 「仁孝」から「名分」へ――水戸学の一断面

 6月18日の民族文化研究会定例会における報告「『仁孝』から『名分』へ――水戸学の一断面」の要旨を掲載します。

 

はじめに
 水戸学に一貫した評価を付与するのは、容易ではない。まず、水戸学は、徳川光圀による『大日本史』の編纂事業に端を発する前期水戸学と、尊皇攘夷思想の直接的な契機となる藤田東湖や会沢正志斎によって展開された後期水戸学の二つに画期される。この前期水戸学と後期水戸学の連関を捉えることが、まず困難である。そして、水戸学は、様々な思想を織り込んだ、多元的な思惟体系でもある。前期の朱子学的性格を重視すると、水戸学は朱子学ナショナリズム的展開として評価でき、中期の国学からの影響に注視すると、闇斎学的な神道儒学の統合体系と解釈できる。この水戸学の思想的多様性を、整合的に理解することが、続いて問題となる。
 だが、国体を明晰に自覚し、それによって武家政治を否定し、王政復古を牽引する原動力となった、という共通認識は存在した。ところが、こうした水戸学についての共通認識に再考を迫ったのが、遠山茂樹丸山真男といった戦後の歴史家たちだった。遠山や丸山は、水戸学があくまで幕藩体制を肯定する思惟であったとし、こうした守旧的性格は近代ナショナリズムには連続しない、と主張した。だが、戦後に一世を風靡した、こうした水戸学を幕藩体制の護教論とする解釈に対して、あくまで水戸学は明治維新の指導理念たりえた、という反論が提起された。尾藤正英の水戸学解釈がそれである。尾藤は、水戸学は伝統的朱子学に忠実な体制イデオロギーであった、という遠山や丸山の主張に、まず異を唱える。水戸学は、「仁孝」を重視する伝統的な朱子学から、「名分」を重視する新たな儒学像へと、思想的な転換を遂げている。そして、こうした「仁孝」から「名分」への思想的転換によって、水戸学は幕藩体制を超出した、近代ナショナリズムの萌芽たりえた、と主張される。こうした背景から、尾藤は水戸学を幕藩体制の内部に留めず、近代国家形成の過程のなかで、水戸学を再把握する必要を説くのである。本稿では、こうした水戸学における「仁孝」から「名分」への思想的転換を検討し、水戸学がもつ意義の一断面を指摘したい。

 

一 「仁孝」から「名分」への思想的転換
 前期水戸学は、朱子学からの強い影響を受けている。徳川光圀は、明から亡命した儒学者である朱舜水を招聘し、本格的な朱子学をはじめて導入した。しかし、前期水戸学から後期水戸学への転換期にあたって、こうした朱子学的性格は変化していく。こうした変化は、藤田幽谷の著作である『正名論』において表出した。幽谷は、ここで、名(言葉)と分(階層秩序)が緊密に連結され、社会が確固たる身分制へと分節化されることで、安定的な秩序が創出されていく、と強調している。これこそ、水戸学の「名分」の命題なのだ。
 だが、こうした「名分」の命題は、尾藤や、あるいはJ・ヴィクター・コシュマンが指摘しているように、伝統的朱子学から逸脱している。尾藤やコシュマンは、幽谷が「名分」の命題で、階層秩序の不変の区別を重視することによって、伝統的朱子学が力説するところの、統治の正統性の基準としての統治者の徳を回避している、と解釈している。伝統的朱子学は、社会を指導する統治者に、その地位に相応の道徳的実践を要請した。これこそ、朱子学の「仁孝」の命題なのだ。だが、幽谷は、社会を指導する統治者に、こうした発想に準拠するよりも、厳密に規定された階層秩序に忠実であるように要求した。幽谷の『正名論』は、「仁孝」(統治者の道徳)から、「名分」(社会の階層秩序)へと、儒学の中心的命題を転換させているわけなのだ。

 

二 易姓革命論の回避

 幽谷が、こうして「仁孝」(統治者の道徳)から、「名分」(社会の階層秩序)へと、儒学の中心的命題を転換させた動機は、まず易姓革命論の理論的な超克にあった。「仁孝」(統治者の道徳)に重点を設定すれば、道徳的に卓越した人物による、政権交代を許容することになってしまう。「仁孝」(統治者の道徳)は、統治者の正統性としては、あくまで「相対的」な性格しかもたないのだ。道徳の優劣によって、ごく簡単に政権交代が反復されることとなる。幽谷は、こうした「仁孝」(統治者の道徳)という、統治者の正統性がもつ「相対的」な性格を乗り越えた、揺るぎない「絶対的」な統治者の正統性を構築し、それによって国体を基礎づけようと試みたのである。こうした「絶対的」な統治者の正統性こそ、「名分」(社会の階層秩序)だった。相対的な道徳性(「仁孝」)を乗り越えた、絶対的な崇高性(「名分」)のカテゴリーを政治に導入する企図こそ、幽谷の『正名論』において表現された構想だったのである。

 

三 権力の二重性の打開
 そして、幽谷の『正名論』の第二の動機は、幕藩体制と皇統の二重権力の理論的な超克にあった。将軍と天皇の権力の分裂は、儒学に深刻な課題として認識されていた。幽谷は、こうした将軍と天皇の権力の分裂を、さきほど言及した絶対的な崇高性(「名分」)によって打開しようと企図する。幽谷は、権力の源泉を天皇のみに認める一方で、将軍を摂政として解釈する。すなわち、「名分」(社会の階層秩序)における崇高と世俗の二元的構造は、政治の正統性である「権威」と実際の統治者である「権力」の二元的構造へと、読み替えられたのである。そして、こうした「名分」(社会の階層秩序)を実質化させるために、幽谷は天皇のもつ絶対的な崇高性を、宗教的意義によって裏付けようと企図する。幽谷は、中国の皇帝は、伝統的に天と祖先を崇拝しているが、それらは人格化された具体的な姿をもたないために、中国の皇帝の信仰心は虚空にしか像を結ばないと指摘する。これとは対照的に、日本では将軍が現御神である天皇を崇拝する事実を通し、「名分」(社会の階層秩序)は強靭化されると主張している。すなわち、幽谷は「名分」(社会の階層秩序)という問題設定をもちいることで、将軍と天皇の権力の二重性を、崇高と世俗の二元的構造や、それを援用した権威と権力の二重性として再解釈することで、打開したのである。

 

四 後期水戸学への影響
 幽谷は、「仁孝」(統治者の道徳)から、「名分」(社会の階層秩序)へと、儒学の中心的命題を転換させることによって、相対的な道徳性(「仁孝」)を乗り越えた、絶対的な崇高性(「名分」)のカテゴリーを政治に導入した。こうして、「相対的」な性格を乗り越えた、揺るぎない「絶対的」な統治者の正統性を構築し、それによって国体を基礎づけた。また、こうした「名分」(社会の階層秩序)を、崇高と世俗の二元的構造や、それを援用した権威と権力の二重性として再解釈することで、将軍と天皇の権力の分裂を打開した。だが、ここで問題となるのは、こうした「名分」(社会の階層秩序)を基礎づける、天皇の絶対的な崇高性を、いかに弁証するかである。ここで、会沢正志斎は、『新論』において、国学からの影響下において、天皇の血統の連続性や、天皇が斎行する儀礼に着目した。これらの国体概念によって、天皇の絶対的な崇高性を、弁証しようと企図したのである。ここで、後期水戸学は、幽谷の影響下で、国学へと接近することで、闇斎学的な儒学神道の統合体系のような性格をもつにいたった。また、幕藩体制に留まらない、近代ナショナリズムへの発展も、ここから開始された。「名分」(社会の階層秩序)は、あくまで天皇を中核として設計されており、将軍がこれに違背する場合には、王政復古が理論的な帰結として出現するのである。そして、水戸学を導火線として、明治維新は勃発するわけである。

 

おわりに
 ここでは、尾藤の図式にしたがい、「仁孝」から「名分」への思想的転換を基軸に、水戸学を前期・後期通して俯瞰してみた。だが、朱子学・古学・国学・闇斎学・陽明学の複雑な折衷である水戸学に、一貫した評価を付与するのは、冒頭で触れた通り、容易ではない。ここで示した水戸学像は、その一断面に過ぎない。だが、「仁孝」から「名分」への思想的転換は、水戸学において重要な位置を占めている。この「名分」への視座は、水戸学の検討にあたって、欠かせないものであろう。

 

参考文献
遠山茂樹明治維新』(岩波書店、1951年)
丸山真男「近世日本政治思想における『自然』と『作為』」同『日本政治思想史研究』(岩波書店、1952年)
尾藤正英「水戸学の特質」同編『日本思想体系53 水戸学』(岩波書店、1973年)
J・ヴィクター・コシュマン(田尻祐一郎・梅森直之訳)『水戸イデオロギー』(ぺりかん社、1998年)

 

f:id:ysumadera:20200413031526j:plain

藤田幽谷

 

定例研究会報告 渋川春海の尊皇思想・陸羯南の国家的社会主義

 5月14日の民族文化研究会定例会の模様を、ここでお伝えします。まず、「渋川春海の尊皇思想」と題した発表が行われました。渋川春海は、近年では冲方丁天地明察』で広く知られるようになりましたが、日本で初めて国産暦を作成した人物として著名です。ですが、春海には、崎門学派の系譜を引く尊皇思想家という、もう一つの顔がありました。この発表では、こうした尊皇思想家としての春海に迫っています。興味深かったのが、暦の作成と尊皇思想が、春海のなかでは別個の問題ではなく、有機的に関連した営為として捉えられていたことです。暦の作成は、天地の秩序を制定することであり、天子の専権事項でした。こうした意識の下で、春海は中国の授時暦を拒み、国産の貞享暦を、尊皇心から作成したわけです。

 続いて、「陸羯南の国家的社会主義」と題した発表が行われました。陸は、新聞「日本」を拠点に、明治時代に鋭い論陣を張った政論家です。陸は、徳富蘇峰などと並び、明治時代を代表する国粋主義者でした。ですが、明治時代の国粋主義者が、日本における社会主義の紹介者だった事実は、あまり知られていません。この発表では、こうした明治時代の国粋主義者である陸の、社会主義的な側面を追っています。陸は、論文「国家的社会主義」などで、放任経済による弱肉強食を憂慮し、国家が弱者救済において、積極的な役割を果たすことを主張しています。興味深かったのが、陸の社会主義的な側面が、儒教ヒューマニズムに裏打ちされていたり、足尾銅山鉱毒事件といった当時の世相への危機感が背景にあったり、単なる国粋主義社会主義の折衷ではなく、陸らしい問題意識によって支えられていたことです。これらの発表が終わった後は、非常に活発な質疑応答が行われました。

 

 

f:id:ysumadera:20190630112519j:plain

陸羯南

 

定例研究会報告 〈神道神学〉という試み――上田賢治氏の業績から(一)

◇はじめに

 民族主義がその根幹として重んじるのは、各民族が持つ神話、そしてそれに基づく信仰・習俗である。我が民族が奉ずべきは、古伝に記された神話、そしてそれを基としたいわゆる神道信仰ということになる。ところが、単にこれらを奉ずるといってもはなはだ漠然としている。我々の立場は、文化財として神社や祭りを保護すべきであるという論ではない。確かに、各地の神社や祭りが末永く続いていくために、様々な施策が講じられることは素晴らしいことであるし、その為に奮迅する人々の努力には人一倍敬意を払いたい。しかしながら、「昔から続いてきた貴重なもの」としてのみ、それらを保護するのであってはならない。それは民族の正統な信仰の対象であり、またその発現である。その意味においては、社殿の古さやある種の珍奇さなどは、尺度として後退させる必要がある。

 神道が信仰である以上、その信仰はどうあるべきか、神を一体どう捉えればよいのか、そういった問題が表出するのは避けられない。

 今回は、神道信仰を考える手がかりとして、國學院大学の故・上田賢治氏が説いた神道神学の意義を紹介したい。本稿の基礎となっている上田氏の論文は、「組織神学の樹立と神学者の育成―「敬神生活の綱領・解説」をめぐって―」(上田『神道神学―組織神学への序章―』〈大明堂、昭和61年〉所収、初出は昭和51年)、および「神道信仰に見る唯一神教的傾向」(上田『神道神学論考』〈大明堂、平成3年〉所収、初出は昭和62年)である。

 

◇〈神道神学〉は必要か?

 さて、なぜ〈神道神学〉というものが必要なのかという、ごく初歩的な疑問が出て来よう。正直いって、〈神道神学〉などというと、怪訝な顔をされる方が多いのではないだろうか。筆者が上田氏の業績を知人に話した時、かなり警戒感を抱いていたのは良い思い出である。じっさい上田氏も、「〈神学〉という言葉を使っただけで、神道家の中には、強い反撥を示す傾向のあることも、無視しえない」として、その点に対して十分留意しながら、反論の形で〈神道神学〉の意義を説明している。

 氏が〈神道神学〉に対する反発理由の主要素として推定するのが、「神道が教義によって立つ宗教ではない、という考え方」である。確かに、神道は特定の教主によって述作されたいわゆる創唱宗教の類ではない。しかし氏は、「教義のないことは、神学のないことを意味しはしない」、「神話や制度、習俗にすら、神学は隠されてある」し、実際、中世から近世にかけて、神道は儒仏と習合しながら自己の神学を形成した時期があった点を指摘する。そして、神学の不要を説くのは明治政府以来の神道非宗教政策の「悪結果」であるが、そのような立場は行政的施策であると同時にまた「一つの神道理解、神学的思惟の結果」であるから、その立場に立つ者もその信仰形態を自覚し、積極的に発言すべきとしている。

 じっさい、教義がないということは、定められた教えがないということであるが、それは「何を信じてもよい」わけではない。氏は、信仰が神道信仰であるためには、当然そのアイデンティティが問われるはずであるが、それを「理性的・論理的に、明確なものとするのが、神学の使命であり、課題」であるとする。氏は、「良き意味での自由、悪しき意味での混乱の時代ほど、自覚的に伝統の意味を吟味し、意識化することの必要な時代はない」としているが、この現状は今もって変わらないであろう。

 また、〈神道神学〉に拒否感が示される理由として、氏は「この言葉が、キリスト教の用語であるから」というものも挙げ、これは決して「無視されてはならない要因であるように思われる」とするが、それは次のような理由である。

 一つの文化論的な立場として、日本人は外来文化を取り入れ、それを日本的に変容して活用するものであり、それが本来的な姿であるというものがある。また、人間の本性に根ざす優れたものは、文化的発現形態に差こそあれ、本質は相通ずるものであるから、外来の概念を借りて自己を表現しても構わないのではないかという見方もある。実際、神道は長く儒仏を習合させた形態をとっていたという歴史的経緯がある。

 氏はこのような見解の妥当性を一面において認めつつ、文化複合の可能性は、「覚めた意識、自覚的な反省と、主体的な能動とによって動機づけられたものでなければならないはず」とし、それを欠くならば、「そこに結果されるものは、文化のアパシーであり、アイデンティティ喪失の植民地文化に他ならない」と手厳しい。そして、自己が自己自身を問う営みは、「可能な限り、原理的に、自己の本来的な姿に立ち返る営みとしてあるべきで、外来文化の受容、外来文化との習合も、その原理に許容されるものである時に、はじめて、価値的な承認を得られるべきはずのものである」と表明する。そしてこの意味で、〈神学〉というものの外来性を意識・警戒するのは決して軽薄な理由と言い切ることは出来ないというのである。

 しかし、〈神学〉という語はすくなくとも近世の段階で日本語として成立しており、今日的意味とは違ってはいても用いられていた事実があり、またこの語は、「信仰の弁証学として、学術的な要語の資格を克ち得ている」と氏は述べる。そして、神道は神を信ずる宗教で、神社神道は宗派を立てない点に特質を持つので、仏教で用いられる〈宗学〉、〈教学〉という語より妥当であろうと結論している。

 氏が神道神学の理由を説く理由は、以上の通りである。氏の主張する〈神道神学〉は、先に引用した「可能な限り、原理的に、自己の本来的な姿に立ち返る営み」という表現に集約されているであろう。

 

◇過去における〈神道神学〉への取り組みはどうだったのか?

 さて、〈神道神学〉の必要性は大略諒解されたと思われるが、その方向性について、氏はどのような見取り図を持っているのか。氏には国学に関する研究業績もあり、その中においてこの点に関するより詳しい指摘もしているのだが、今回はまず本稿で取り上げている二論文を基に、過去の我が国における〈神道神学〉への取り組みへの氏の評言を取り上げ、これを見ていきたい。

 まず、先に挙げた通り、中世から近世にかけて、神道は儒仏と習合しながら〈神学〉を形成した時期があった。しかし、これは氏が言うところの、「可能な限り、原理的に、自己の本来的な姿に立ち返る営み」としては許容できないものであり、氏の言及のなかでも総体として大きな比重は占めていない。

 ひるがえって、氏はこのような営みが「たゞ一度、国学によって試みられたことがあるように思われる」と、この観点から国学を高く評価している。しかし、氏は同時に「近世に成立展開した国学は、理知主義的な信仰の理解や表明を嫌う余り、理性に基づいた自己分析や、信仰の体系化・組織化を怠り、文学的心情の世界、或は神秘主義的思弁の世界に立て籠る誤りを犯したのではないかと思われる」と手厳しく批判をも加える。国学が、原理的に自己の本来の姿に立ち戻ろうとした姿勢は高く評価されるべきではあるが、同時に、いわゆる「言挙げせぬ」風潮に対しては、その二の轍を踏んではならないと厳しく警戒しているのは極めて注目すべき見解である。

 また、明治期以降の「神社非宗教化政策」的立場も、一面では「一つの神道理解、神学的思惟の結果として、意味づけられる性格のもの」と見られるわけであり、氏はこれを「明治神学」と表現しているが、この立場に関して氏が極めて批判的であることは、前節で触れた通りである。

 

◇「神社審議会アンケート」に現われた問題

 以上が、上田氏の説く〈神道神学〉の意義と、過去の〈神道神学〉営為への評価であるが、本稿では氏が具体的に指摘・批判している事象として、昭和41年に行われた「神社審議会アンケート」、および昭和47年に発表された「敬神生活の綱領」解説稿本を取り上げたい。戦後(そしておそらくは現在の)神社界、そして広く神社に関心のある人々にとって、そして何より〈神道神学〉というものの必要性を認識する人間にとって、これらの事実は非常に重大な意味を持つものだからである。

 まず、昭和41年に行われた「神社審議会アンケート」に関する氏の指摘を見てみたいが、その前に、戦後における神社の教義問題の流れを、氏の整理に従って提示しよう。

 被占領下の昭和21年、軍政によって要求された神社の制度的宗教化政策に対応するため、「教義に関する調査委員会」が設置された。ところがその席上、会合の主査を務めていた神社本庁の中西旭氏が、「神社神道の信仰が天御中主神に帰一すべきである」という意見を提出、これに対して参加委員の中から強い反発が起こったという。翌年開催された神社審議会においては、教義問題について伊勢神宮を中心とする旨を本庁に答申、また同年の五月、教化課長・小野祖教氏が「教義調査取扱要綱」を作成し、教義に関する調査委員会の同意、および理事会の承認を受けることによって、この問題は一応解決した。この「教義調査取扱要綱」は6カ条からなり、氏のまとめによると、①神社本庁々規に準拠する信仰であること、②神社の伝統に即し、これが発展に属するものであること、③神社の奉斎神の信仰に現実の基準を置くこと、④神宮を中心として統合調和している信仰であること、⑤特定の一神が一切の神の本質を併合するが如き教義は除外されること、⑥善美なる宗教として人道に背戻しないこと、という内容であるという。神社界の結論としては制定教義を持たないということであったが、信仰生活の目標を示すという意味で、昭和31年に神社本庁が制定したのが「敬神生活の綱領」である。

 さて、「神社審議会アンケート」は、この「敬神生活の綱領」制定から10年後の昭和41年、神社本庁宮司神道学者、神道人約300人を対象に行った教義問題を中心とするアンケートである。上田氏は、設問中の「神々の統一」に関して注目を寄せている。
 まず、このアンケートに回答を寄せた者が120名であり、上田氏は「この事実そのものが、神社界における教義問題の如何に関心度の薄い対象であるかを示している」と手厳しいが、その120名のうち、この設問に答えたのが86名、直接の回答を避けた者がそのうち34名に及んだのである。

 そして残りの52名のうち、神道多神教であることを認めたのは35名、そのうち、諸神に統一を求めることが不可能とした者も含めて、ただ多神であることを述べた者が8名、他の27名は多神に統一のあることに触れ、そのうちの12名は天照大神がその中心に位置することを述べている。氏が特に問題としているのは、「86名の回答者中、17名が、神道の多神性よりも一神性に強調点を置き、そのニュアンスで多神の統一という問題を理解している事実である」という。

 すなわち、先ほどの「教義調査取扱要綱」の中では、「特定の一神が一切の神の本質を併合するが如き教義は除外されること」と明示されていたにもかかわらず、アンケートにおいては一部の神道人が、「一神性」の強調を表明しているのである。氏は、「これは、教学的な不統一というよりも、信仰の不一致さえが堂々と黙認されている事実だと、認定してよいのではあるまいか」としている。詳しくみると、17名のうち3名は汎神論的一神という理解であり、14名は一神即万神と主張する。後者のうち一神を天照大神とするものは6名、天御中主神とするものは3名、他は神名を特定していない。とりわけ、神に統一があると理解する集団12名に対して、この一神(=天照大神)即万神の6名は「諸神の神徳がアマテラスに吸収されること、換言すれば、諸神が天照大神の霊的機能の顕現体に過ぎないと理解している」のであって、その差異は明瞭であるという。

 

◇おわりに

 以上のような神社界の現状をみれば、上田氏が、神道信仰が立脚する基盤の不安定を自覚したことが十分に納得出来る。次回の報告では、神社本庁が昭和47年に発表した「敬神生活の綱領」解説稿本に関する上田氏の指摘をみていきたい。

 

 

f:id:ysumadera:20190630112942j:plain

上田賢治『神道神学』