【関西】定例研究会報告 近世期における神道神学の展開――中野裕三『国学者の神信仰』を読む(第6回)」

令和2年9月26日に開催された民族文化研究会関西地区第29回定例研究会における報告「近世期における神道神学の展開――中野裕三『国学者の神信仰』を読む(第6回)」の要旨を掲載します。

第四編 第二章 豊受大神敬祭説“をめぐって

豊受大神の神格をめぐる論争

 伊勢神宮の外宮には、我々の生活基盤である衣食住の問題を司る、豊受大神が鎮座している。そして、こうした豊受大神の神格をめぐって、長い期間にわたって、議論が繰り返されてきた。ちなみに、これらの豊受大神の神格をめぐる議論は、時代や内容によって、およそ二つの思潮に分類することができるとされている。

 一つは、中世期に、度会神道伊勢神道)において主張されてきた議論である。この議論では、「神道五部書」という文献を典拠に、豊受大神天地開闢の際に顕現した天之御中主神を同一神だと見なした上で、豊受大神天照大御神と同等か、もしくはより上位の神格だと主張した。

 もう一つは、近世期に、本居宣長を中心として発生した、豊受大神の神格をめぐる論争である。この論争では、まず吉見幸和が、先述の「神道五部書」が捏造だと明らかにし、豊受大神は(広く食物を司る神というわけではなく)「内宮天照大御神ノ御饌ノ事ヲ司ル神」に過ぎないと主張した。

そして、これに対し、宣長が、「神道五部書偽書説には同調しつつ、それでも豊受大神は広く食物を司る神であり、天照大神豊受大神に対し祭祀を行っているほど、尊貴な存在だとした(こうした宣長の主張は、「豊受大神敬祭説」と呼ばれる)。以後の豊受大神の神格をめぐる議論は、この論争を基礎として展開されることになる。

 このように、豊受大神の神格をめぐる論争を概観すると、中世期と近世期の二つの議論状況が存在するわけだが、中野裕三は後者により注目する。なぜなら、後者には、多くの国学者が参加し、神道神学の視座から見て参照するに足る、興味深い業績が形成されたからである。こうして、本章では、宣長を中心とした、豊受大神の神格をめぐる論争が整理されることとなる。

 

本居宣長豊受大神認識

 ここから、近世期における、豊受大神の神格をめぐる論争が整理される。まず最初に、論争の発端となった、宣長豊受大神認識が取り上げられる。既に触れたように、宣長の主張の骨格は、豊受大神を矮小化しようとする吉見幸和の見解を批判するため、豊受大神天照大神から祭祀を受けるほど、尊貴な存在であることを示すことだった。こうした主張が、どのように論証されたか、見ていきたい。

まず、宣長は、自身の神学理論によって、こうした主張を裏付けようとする。宣長は、天照大神が、高天原に存在する豊受大神を祭祀しているとしたが、豊受大神古事記天孫降臨之段で触れられている通り、地上に降臨している。ここで矛盾が生じるわけだが、こうした矛盾を、宣長は自身の神学理論によって克服しようとする。

周知のとおり、宣長の神学理論は、神を実体と機能に分ける議論を中心としている。宣長は、こうした議論を、豊受大神の神格にも適用し、高天原より降臨したのは、豊受大神の(実体である)「現御身」ではなく、(機能である)「御霊実」であるとする。こうして、豊受大神の実体は、まだ高天原に鎮座しており、天照大御神の祭祀を受けている、という論理を組み立てたのである。

 しかし、こうした神学理論による説明だけでは、論拠として不十分である。宣長は、豊受大神をめぐる伝承も援用し、自身の主張を正当化しようとする。ここで、宣長は、豊受大神伊勢神宮に鎮座するまでを物語る伝承を援用する。この伝承によれば、天照大神が、このままでは安心して御饌を得られないとし、遠方地にいた豊受大神を呼び寄せるように託宣し、これによって豊受大神は現在の地に鎮座するにいたる。

 宣長が注目するのは、この託宣の内容である。宣長によれば、この託宣は、単に御饌を得るためだけではなく、親しく祭っていたが、今は遠方地にいる神を自身のもとに呼び寄せるためのものだとする。また、託宣における「大神」という呼称にも注意すべきで、単に御饌を司るだけの神ならば、「大神」とは呼称されない、とする。

 さらに、宣長は、神学理論・伝承に加え、伊勢神宮の参詣慣行によっても、自身の主張を訴える。宣長が援用するのは、参詣に際し、内宮よりも外宮が優先される慣行である。実は、朝廷からの公卿勅使や、三節祭に際しての斎内親王の参詣は、内宮に先んじて外宮から行われる。こうした慣行は、「外宮先祭」と呼ばれるが、こうした慣行も、豊受大神が極めて尊貴な存在であることを裏付けているとされる。

 

◎益谷末寿の豊受大神認識

続いて、こうした宣長の主張を批判する見解が取り上げられる。ここで俎上に載せられるのは、伊勢神宮の祠官であり、神宮研究に対しても大きな貢献を行った、益谷末寿である。末寿は、従来から、豊受大神天照大神の「御膳の神」である、という吉見幸和と共通した主張を行っていた。そして、そうした自身の立場から、豊受大神の神格について、正反対の主張を行っている、宣長の学説に対する批判を提起するにいたった。

まず、末寿による、豊受大神天照大神の「御膳の神」である、とする従来からの主張を確認しよう。最初に、末寿が注目するのが、豊受大神伊勢神宮まで呼び寄せるように命じる、天照大神の託宣だ。この託宣では、豊受大神について、「我御饌都神」と呼んでいる。ここで、「我」の部分に、末寿は目を向ける。「我」とあるのだから、広く食物を司る神というよりも、天照大神に専属し、その御饌を奉ることを本義とする、「御膳の神」と認識すべきではないか、という主張を行うわけである。

続いて、末寿が関心を寄せるのが、五十鈴川の中州に石畳を設置し、豊受大神に関係する祭祀を行ったとする故事(由貴大御饌供進の儀)である。五十鈴川は、御饌を清める役割をもつ川だが、そこで豊受大神に関係する祭祀を行うのは、まさに豊受大神が「御饌の神」であることを裏付けるのではないのか、という主張を行うのである。

続いて、末寿が、こうした自身の立場から、いかなる批判を宣長に対して行ったのか、見ていきたい。末寿は、宣長による、天照大神豊受大神を祭祀していたという主張そのものが、明確な典拠を欠いていることを指摘する。また、宣長が、自身の主張の傍証としていた「外宮先拝」の慣行も、その詳細な由緒が文献になく、必ずしも外宮(豊受大神)の尊貴性を証明するには足りないとする。

 

◎橋村正兌の豊受大神認識       

だが、一方で、宣長と同趣旨の豊受大神論を提示している論者も存在している。それが、神宮学者だった谷村正兌だった。正兌は、宣長と同様に、豊受大神を矮小化する見解を批判し、豊受大神天照大御神の祭祀を受けるほど、尊貴な存在であることを示そうとした。

 まず、正兌は、宣長と同様に、天照大神の託宣によって、自身の主張を裏付けようとする。正兌は、豊受大神伊勢神宮に呼び寄せるように命じる天照大御神の託宣について、自身が親しく祭っている神を、身辺に招こうとする意図でなされたものであって、単に御饌だけを目的としたものではない、とする。

 さらに、正兌は、託宣にとどまらず、神勅によっても、自身の主張の正当化を図る。正兌は、収穫への感謝など、食物に関係する側面をもつ、「斎庭稲穂の神勅」と「神籬磐境の神勅」という二つの重要な神勅について、高天原と同様に中津国においても、食物一切を司る豊受大神の御神徳を敬祭するために下されたと解釈する。

 さらに、正兌は、朝廷の祭祀も、豊受大神を対象としたものだ、とする議論を展開する。豊受大神は、天照大御神の御饌だけでなく、広く人民の食物も恵み給う存在であるため、内宮が外宮(豊受大神)に祈るように、神祇官が行う朝廷の祭祀も、豊受大神を祭ることを目的としている、と主張するのである。

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伊勢神宮外宮(豊受大神宮