【関西】定例研究会報告 明治初期における淘宮術結社と神祇行政

 令和2年7月18日に開催された民族文化研究会関西地区第26回定例研究会における報告「明治初期における淘宮術結社と神祇行政」の要旨を掲載します。

はじめに

 明治初年度の神祇行政は朝令暮改の様相があり、神道だけでなく仏教やその他民衆宗教に影響を与えた。特に大教院を中心とした神仏合同布教では多くの民衆宗教の教会や講社が公認を受けるきっかけとなったが、そこには宗教を自認していない結社までも含まれていた。

 今回はその中の一つ、「淘宮術」の結社が大教院そして教派神道の傘下組織へと至る過程を、神祇行政の経過を見ながら辿っていきたい。 

淘宮術の誕生

 「淘宮術」の創始者として「淘祖」と呼ばれている横山丸三は安永九年(1780)に生まれた。横山家は代々農家だったが、父の三五郎は親族のつてで幕府の役人になったという。丸三は生まれつき病弱で、特に眼病を患ってからは医者から読書習字を控えるよう忠告され、両親もしぶしぶ学業を辞めさせた。代わりに心の慰めになればと、母の嘉宇は笛や鼓といった音曲の技芸を習うよう勧めた。丸三はみるみる上達し、後にはこれを使って収入の足しとなる程になったが、眼病は治らず近視となってしまったという。

 文化七年(1810)に家督を継いで役人となり、徐々に出世していった。しかし文政四年(1821)に長女が病に伏してしまう。この頃、上司に奥野南卜という人物が居て、丸三の顔を見るなり身内に病人がいることを言い当てた。

 奥野は「天源術」を習得していた。「天源術」というのは古代中国の伏羲や神農の時代からあると伝わる運命究明術である。生年月日や人相などから個人が持っている気の本源を知り、運気・命数を占うというもので、孔子老子、日本においては徳川家康などが用いたとされている。特に天海は天源術を大成して徳川の天下取りに貢献したとされていた。

 実際には天源術が世に広まったのは江戸時代からで、葛城昇斎という人物が広めたようである。その弟子にあたるのが奥野南卜だった。

 丸三は驚きつつも奥野に対し娘が治るか問うたところ「御気の毒」とのことで、まもなく長女はその通り亡くなったという。その後、丸三が娘の喪中を表明する前に奥野からお悔やみの手紙が届いたことで、丸三は天源術に興味を持ち奥野の弟子として入門することになった。この時、丸三は四十二歳。

 丸三は天源術の研究に励み、三年後に奥野が没するまでにはかなり精通するようになっていた。しかし天源術があくまで運命吉凶を占うものであり、基本的にそれによって知りえた宿命からは逃れられず、無理に逆らうとその罰は子孫にまで及ぶとされていたことに丸三は違和感を覚えた。そこで奥野没後には天源術を元に個人のもつ運命を変える方法について研究を重ねた。丸三は生年月日や受胎日、親の運気などによって個人が宿命的に本有する気質や癖に着目し、それぞれの欠点を矯正し「淘げる」ことで悪運から幸運に転換する方法を研究した。

 こうして天保五年(1834)に「天源淘宮学」を完成させた。これを後に「開運淘宮術」と名を改める。淘宮術は庶民から大名まで様々な階級に広まり、丸三自身が幕府の役人だったこともあってか幕臣の中にもかなり普及したようである。丸三の弟子は千人を超えた。

 しかし淘宮術を発表して十五年後の嘉永元年(1848)、「新義異流」として幕府から嫌疑をかけられることになる。江戸幕府は神仏儒以外の異端を禁止しており、この時期には同様の容疑によって烏伝神道を唱えた賀茂規清や禊教開祖の井上正鉄などが遠島にあっていた。

 淘宮術は自己の気質の欠点を矯正する努力をしていく「修養術」であり、淘宮術を学ぶ人々も「神仏儒」等と同列のものとは思っていなかった。しかし幕府から見れば集会を開いて弟子に道学を教える様子が「新義異流」として不穏に思われたのであろう。

 丸三は取り調べを受け、弟子をとることや集会を開くことが禁止された。その後、横山丸三は安政元年(1854)に七十五歳で亡くなっている。

 丸三には「六皆伝」と呼ばれる佐野量丸、久留米丸一、青木十丸、相原貞三、新家春三、飯田勝美という皆伝を授けた弟子が六人おり、彼らによって淘宮術は伝えられていくことになる。

大教院時代

 淘祖・横山丸三の死後も、淘宮術の集会は禁止されたままだった。皆伝を授けた弟子の内の一人、佐野量丸は丸三の読んだ道歌を収集して慶應二年に『淘詠集』にまとめた。これを配布することで、集会によらない淘宮術の発展を期したのである。そして翌年には王政復古・明治維新となった。

 

 維新後、新政府は国学者の後押しもあって宣教使による大教(≒神道)宣布運動を試みるも、そもそも布教すべき教義がまとまらないことや宣教使を任じられた国学者内の派閥争い、そして日本全国をカバーするには人員が不足していることもあってあまり効果を挙げることができなかった。

 その人員不足を解決すべく、今度は神職や仏教僧侶を動員し、大教院を中心とした神仏合同布教へと舵を切る。三条教憲(敬神愛国、天理人道、皇上奉戴・朝旨遵守)を教義の中心として神職・僧侶が「教導職」となって国民を教導し、キリスト教の拡大阻止と道徳心向上、愛国心の育成を図った。明治六年二月には神職僧侶でなくても教導職に任命できるようになり、同年八月には「教会大意」という教会講社の結成について基準が示された。これにより神社や寺院は布教に必要な説教場、人員、必要経費の確保のため教会や講社を作り、また御嶽教黒住教といった民衆宗教側も教導職となったり「教会大意」に沿って教会を作ることで政府の公認を得た活動ができるようになった。これらの民衆宗教からはやがて「教派神道」として独立した教団として公認を受けるものも現れる。

 また教導職の人員確保に奔走していたこともあって民衆宗教だけでなく、俳諧結社や石門心学、大原幽学の説いた性学、二宮尊徳報徳思想などの結社を公認して大教院傘下におさめていった。

 

 政府が神職・僧侶以外にも「教導職」の人員を求めていた中で、明治六年二月に新政府から佐野量丸に対し「淘宮術について調査したいので横山丸三や淘宮術についての詳細を提出するように」との申し渡しがあった。佐野は天源十二宮や横山丸三の著作『阿気の顕支』などの関連書類と、淘宮術についての説明を添えた上申書を政府に提出した。この上申書には淘宮術を「三教によらない一派の教学」としており、神道、仏教、儒教とは違うことを主張している。提出の際、役人からは淘宮は良き教えであるから世に広めるべきだと理解を示されたらしい。こうして明治六年五月、佐野量丸は大教院にて教導職試補に任命された。六月には同じく高弟の新家春三も試補となっている。

 ところで佐野量丸の弟子に吉川一元という人物がおり、幕政下では役人をしていた。吉川は長兄が佐野の娘と結婚し、また次弟が養子に入ったことから佐野家とは親戚となっていて、弘化元年(1845)に佐野の手引きで横山丸三に入門、淘祖没後は佐野の弟子となっていた。維新後には東京府の役人となっている。この吉川の伝記によれば、東京府の書記官に中村光賢なる人物がおり、淘宮術に理解を示していた。その中村から淘宮術を公然と伝授できるよう届けを出してみてはと勧められ、佐野ら淘宮術門人たちが協議し、関連資料を提出、中村の動きもあってすぐに東京府から許可を得ることができたらしい。

 佐野と吉川の話は淘宮術が活動許可を得た際の同じやり取りを指していると思われるが、佐野の話は大教院、吉川の話は東京府とのやり取りを記しているのかもしれない。

 ともかくも淘宮術の門人が教導職に任命されたことで幕府による禁止以来二十五年ぶりに公然とした活動が認められることになった。

教派神道傘下の淘宮術

 多くの公認宗教の拠り所となった神仏合同大教院だったが、やがて内部から崩壊することになる。当初は政府から活動のお墨付きをもらうことで廃仏毀釈から逃れることを目的に協力した仏教側だったが、神主仏従の様態となるや西本願寺を中心に「信教の自由」を叫んで真宗各派が離脱運動を起こし、神仏合同布教は明治八年に差し止めとなり大教院も消滅した。僧侶達仏教教導職は各宗の本山を中心に活動する従来の宗教活動へと戻ったが、大教院が直接管理していた神職国学者の教導職にとっては中心となる組織が存在しなかった。そこで「神道事務局」を立ち上げ、神道教導職の中心地として活動する。大教院下で誕生した神道系の教会もこの神道事務局の傘下となった。

 その後、政府は神社の祭祀は「国家の宗祀」であって宗教では無いとする神社非宗教論の路線を強め、明治十五年には政教分離のため公務員たる神官と、宗教家である神道教導職の完全分離が実施されることになる。こうして神道事務局は神官以外の神道教導職の組織となり、また大社教などの規模の大きい教会が事務局から特立したこともあって、やがて「神道本局」として教派神道の一教団となった。

 

 神道界が混乱しながらも「祭教分離」へと至り、国家神道教派神道の形成が行われる過程であるが、その中において淘宮術の門人達は講社の立ち上げを計った。

 日本淘道会がまとめた『淘宮』では諏訪藩第九代藩主で芝大神宮で祠官をしていた諏訪忠誠が仲介役となり淘宮講社が大成教会の傘下となったことが記されている。諏訪は後に大成教においても中教正を務めた人物である。

 明治十一年三月十一日、諏訪中教正と訓導・佐野量丸、権訓導・青木露斎(十丸)が『教会大意』に基づいた講社の結成願書を東京府に提出した。そして同年七月九日に「淘宮講社」として認められている。平山省斎が大成教会を組織したのは明治十二年九月であり、また願書には東京府事務分局の本居豊穎の添え書きがあるため、少なくとも大成教結成までは神道事務局東京分局管轄下だったと思われる。

 また淘宮講社結成の願書を提出した約二ヶ月後の五月二日に諏訪はほぼ同じ文面の願書を提出している。こちらは淘祖家の二代目、訓導・横山木黄(正則)と訓導・新家春三の願書となっており、こちらも七月九日に結成へと至っている。諏訪が記した添え書きによれば佐野、青木、横山、新家の四名は内務省に連名で出願していたようで、この時期までは皆伝を受けた高弟たちがある程度連携していたことが伺える。

 佐野と青木は継いだ家が違うため苗字が違うが実の兄弟であり、また佐野は横山丸三の一番弟子とも言える存在だったため、その二代目・横山正則と合わせ三名で連携していたことは想像に難くない。この後、諏訪が大成教に所属したように、佐野ら三名もまた神道大成教に属した。神道大成教は平山省斎が「神道を大成する」ため神道教会を結集して開いた教団で、公認を得られない小規模の神道系教会がその傘下に集まるなどかなり幅広く教会講社を受け入れていた。東京府大成教名簿にも「淘宮講社」が三件記載され、それぞれ佐野、青木、横山が代表となっている。明治中期以降は同じ「淘宮講社」では問題が生じたのか、それぞれ代表の苗字などを講社名に冠するようになり、淘宮佐野講社、淘宮吉川講社、淘宮今井分社…といった表記になっている。特に佐野の弟子だった吉川一元(尹哲)は吉川講社を開いて明治後期の淘宮術の普及に活躍し、淘祖、六皆伝と並び称されている。『淘宮』では吉川講社を開く際に佐野常羽から許可を得たことになっているが、佐野が管長となったのは昭和十年であり、おそらく四代管長の永井直哉からの許可と思われる。

 

 対して新家春三は明治十三年四月に単独で届出を出しており、「淘宮講社」の名称で佐野、青木、横山が連合して活動を行っていること、「布教上差し支え」あるために分離布教を願い出ている。新家は十三年五月に神道事務局傘下の惟神教会淘宮講社社長に就任した。この辺りについて、詳しいことは不明であるが、『神道教祖伝』においては「新家は佐野と意見の合はざるものありしより、別に公許を得て別派を成す」とあるあたり、対立もしくは路線の違いがあったのかもしれない。明治二十三年の『神道各教派職員録』には本局傘下の権中教正として「静岡県平民・新家春三」の名前が見える。この名簿が作られた時期は既に病床に臥しており、六月二十三日に亡くなった。没後には権中教正に特進している。

 なお、維新後まで存命だったもう一人の皆伝者、飯田勝美は幕府崩壊後に徳川家にお供して静岡へ移り、独自に活動していたようである。新家と飯田は婚戚関係であり、共に徳川幕府の役人として幕末維新を迎えた。新家に至っては天璋院篤姫など大奥にも淘宮術を伝授していたようで、飯田もまた維新後には地元で淘宮術を伝えていたようである。

その後の淘宮術と講社

 吉川一元の活躍もあり、門人が増加していった淘宮術だったが、あくまで講社内での秘伝として扱われたようである。大正期には吉川の弟子だった竹内師水などが秘伝の術を出版公開して革新淘宮術を名乗ったために吉川家より破門されたいる。ただ竹内の活動でますます淘宮術は広まったようだ。

 昭和にいたるまで佐野講社を中心に神道大成教神道本局の傘下として活動を続けていた淘宮講社だったが、既にこの時期には活動を行うために宗教団体の傘下にいる必要もなくなっており、また各地に講社やその系譜を継ぐ淘会が多く存在しながら中央組織が無いことが話し合われはじめた。

 そこで昭和十三年に大同団結を図って「淘宮連盟」が結成され、各地の諸団体が加盟した。この連盟を法人組織とするため、昭和十八年に連盟を発展的解散とし、新たに日本淘宮会を設立、さらに昭和十九年に法人格を取得し、「社団法人日本淘道会」が設立された。こうして淘宮術は神道の傘下を離れることとなり、社団法人としての淘宮会を中心に「修養術」として現在に続くことになる。

おわりに

 以上、明治初期の淘宮術結社の動きを見てきた。淘宮術に関してはそもそも秘伝だったこともあり、参照できる資料も少なく、第三者による淘宮史研究も難しいように思われる。

 教導職の人員確保という行政側の思惑と、公認を得たいという教会講社側の願いが合致した結果、淘宮講社をはじめ様々な講社や教会が大教院の傘下となった。これらの教会や講社は大教院崩壊後、仏教宗派の本山へと行くわけにもいかず、基本的に神道事務局傘下へと流れ、そのまま神道系教会となったようである。大教院時代に公認を得た明倫講社(蕉風俳諧)、報徳教会(報徳思想)、八石教会(性学)などは神道本局に属し、心学参前舎(石門心学)や教林盟社(蕉風俳諧)は淘宮講社と共に神道大成教の傘下となった。神道事務局の系譜を継ぐ神道本局はともかく、大成教がこれらの教会講社を迎え入れたのは結成由来が神道の大成であり、儒学系や胞衣信仰、縁切り関係まで様々な集団を包括する教団の性格があったからであろう。

 淘宮術は自身を「修養術」として位置づけ、宗教では無いとしている。しかし淘宮術が伏羲や神農から続くとされ、釈尊などの聖人とのつながりも伝わり、淘祖もまた幕府からの諮問に「日光大権現ヲ一心ニ拝シ」と方便ながら言っているあたり宗教色は否めず、一種の「道学」として神道とのつながりを持つ下地は元々あったように思う。

主な参考文献

淘宮史編纂委員会編『淘宮』(平成六年、日本淘道会)

大舘右喜「幕末・明治期における淘道 自助論的人格陶冶の修行」(関東近世史研究会編『関東近世史研究論集2 宗教・芸能・医療』平成二十四年、岩田書院

樋口雄彦「淘宮術と明治の旧幕臣」(沼津市明治資料館、沼津市歴史民俗資料館『沼津市博物館紀要 四三』平成三十一年)

藤田英昭「幕末維新期の大奥と「淘宮術」 天璋院の生き方」(竹内誠、深井雅海、松尾美惠子、藤田英昭編集『論集大奥人物研究』令和元年、東京堂出版

綿谷雪『術』(青蛙房、昭和三十九年)

竹内師水『一元先生の淘話』(大正元年、永楽堂) 

西川光次郎『神道教祖伝 : 霊験奇瑞』(永楽堂、大正三年)

東京都公文書館蔵『諏訪忠誠より淘宮講社の義に付伺』(明治十一年)

東京都公文書館蔵『淘宮講結社の願』(明治十一年)

東京都公文書館蔵『新家春三より淘宮講社の義に付届』(明治十三年)

高山大枝丸『神宮官国幣社・皇典講究本分所・神道各教派職員録』(明治二十三年)

菅田正昭古神道エコロジー 梅辻規清とその霊的系譜』(平成九年、たちばな出版)

鎌田東二『平山省斎と明治の神道』(平成十四年、春秋社)

三宅守常『三條教則と教育勅語――宗教者の世俗倫理へのアプローチ』(平成二十七年、弘文堂)

見城悌治『近代報徳思想と日本社会』(平成二十一年、ぺりかん社

大村礎 編『大原幽学とその周辺』(昭和五十六年、八木書店

 

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横山丸三