【関西】定例研究会報告 京都御所と近代京都のつながりーー令和時代の御所の在り方を探して

 令和2年6月20日に開催された民族文化研究会関西地区第25回定例研究会における報告「京都御所と近代京都のつながりーー令和時代の御所の在り方を探して」の要旨を掲載します。

はじめに

 京都市上京區に、東西七〇〇メートル・南北一三〇〇メートル、總面積九二ヘクタールの京都御苑があり、この中の東西二五〇メートル、南北四五〇メートルの區劃に京都御所が存在してゐる。御所は近代以前から京都市民と關係は深かつたけれども、近代に入つてからは御所と云ふ場所自體が京都の進むべき方向を位置づける役割を果たした。今囘は近代京都が御所と共に歩んできた軌跡を辿ることで、御所と京都市民がどのやうに近代京都を作り上げてきたのかを鑑み、そこから令和時代の御所と京都市民のあり方を考へていきたいと思ふ。

 

一 京都御所の歴史

 延暦一三年(西暦七九四年)、桓武天皇平安京に都を移し、首都と定めた。中國の洛陽城や長安城を模してつくられ、東西四五〇〇メートル、南北五二〇〇メートルの長方形に區劃された都城であつた。 平安京の北邊中央に、東西一二〇〇メートル、南北一四〇〇メートルの、行政施設・國家儀式や年中行事を行ふ殿舎と、天皇の居住する内裏が設置されてゐる區域を大内裏と呼ばれ、内裏は東西二〇〇メートル、南北三〇〇メートル大きさである。當時の内裏は現在の京都市上京區下立賣通土屋町附近にあり、現在の御所から約一七〇〇メートル西に存在してゐた。

 現在の京都御苑より大きい宏大な大内裏であつたが、大内裏・内裏が火災などで使へない場合のときに、天皇が貴族の私邸を假の内裏とする制度が確立され、これを里内裏と呼んだ。平安後期になると、内裏の再建に歳月を要するやうになり、里内裏が日常の皇居となつていつた。平安時代に大規模な火災が三度有り、そのたびに天皇をはじめ貴族は避難を餘儀なくされ、政治的に混亂をきたすこととなつた。安貞元年(西暦一二二七年)にはつひに大内裏の殆どを燒失する火災が發生し、これ以後再建されることはなく、跡地は内野と呼ばれる荒地になつてしまつた。

 元弘元年(西暦一三三一年)に土御門東洞院殿と呼ばれた里内裏に於て光嚴天皇が即位し、以降は他へ移ることなく定着して、現在の御所となつた。織豐時代に、御所附近に公家を移住させる計劃が進み、御所周りに公家町が形作られた。寶永五年の大火(西暦一七〇八年)に於て、諸御所や公家屋敷七八軒、大名屋敷二四軒のほか、禁裏役人の屋敷など悉く燒失した。大火後の復興にあたり、丸太町通以北、烏丸通以東に食ひ込んでゐた町家區域を立ち退かせて、その跡地を公卿らに分與し、現在の京都御苑の原型となるやうな區劃が整へられた。

 

二 明治の御所と京都

 明治二年三月、明治天皇が京都から東京へ發ち、東京城を皇居とした。この後、公家の多くが東京に移住したため、公家屋敷跡は荒れるに荒れた。東京遷都の結果、京都の人口は減少し經濟に打撃となつただけではなく、京都の人々の誇りは著しく傷ついた。御所の中にまで草が生え、各所で放火も行はれ、小便も溝に垂れ流しの状態であつたと云ふ。子供が紫宸殿の上で遊んだり、大宮御所の庭を逍遙するのも自由なもので、狐が彷徨ひてゐるのも珍しくなかつた。

 明治十年、約八年ぶりに京都に行幸した明治天皇は一六歳まですごした京都が衰頽してゐるのに深く歎惜し、京都を蘇らせようとはたらきかけた。そこで同年から一二年間、毎年天皇の御手許金四〇〇〇圓(現在の一億六〇〇〇萬圓以上)を下し、京都府に命じて御所保存をさせることにした。その結果、明治一〇年から數年かけ、御所周りの公家の土地を府が買ひ上げ、公園として整備した。また、土壘を作り、植樹などを行つた。明治一一年、明治天皇は再度京都へ滯在し、御所が整備されてゐるのを見、公家屋敷跡を公園にすると云ふ革新を容認するとともに、御所内の傳統的空間はなるべく維持しようとした。ここに、御所を基本的に保存することによる傳統と、京都御苑の創造による革新と云ふふたつの精神を體現させる方向性が導き出された。古來、舊都の宮城は保存されず、解體されて新都の資材になるのが日本の慣行であつたので、京都御所も解體されるのが普通であるのだが、明治天皇の提言をきつかけに保存が確定していつたのであつた。

 京都の革新事業で尤も代表的なのが琵琶湖疏水事業である。明治一四年、北垣國道が京都府知事に任じられ、伊藤博文松方正義から、京都の衰頽を防ぎ、振興する策を考へるやう命じられた。そこで考へられたのが疎水事業である。最新技術を用ゐ、九年の歳月をかけて全路線の通水を行ひ、天皇皇后兩陛下の元で竣工式が行はれた。疎水は御所の防水用水としても獻じられ、御所を保存するためにも役立つた。この成功に京都市民は自信を取り戻し、他縣から因循・姑息と云ふ汚名を着せられてゐたことに對し、物申せるやうになつたのである。

 明治の革新事業として他には下鴨神社以東の鴨東地區の開發である。鴨東の吉田地區には京都帝國大學、岡嵜には平安神宮や博覽施設、動物園が建設され、洋風の建物が新市街を特徴づけていつた。傳統としての平安神宮、そして革新としての洋風建築物と云ふ、明治天皇の提言通りの街作りがされていつたのである。

 日露戰爭が終はると、西郷菊次郎京都市長が三大事業として第二疎水と上水道建設、道路擴築をしての市電を走らせる事業を本格化させた。しかしこの事業は傳統をあまり意識してゐるやうに見えず、拙速な動きだつた。これには借金問題や舊市街の移轉や補償問題で速やかに事業を遂行する意識が働いてゐたやうである。ただ、この結果京都市は整へられ、天皇京都御所への新しい行幸路が誕生した。

 

三 大正の御所と京都

 明治天皇崩御され、大正天皇京都御所で即位することとなると、三大事業で新しく出來た行幸路を最大限活かし、京都市民は天皇を向かひ入れた。京都驛前にはローマ風の奉迎門がつくられ、御所にはこの時初めて玉砂利が敷かれた。この玉砂利は三年も前から鴨川でひと粒づつすくひあげた玉のやうな小砂利である。

 大正天皇の即位には奉拜希望者を廣く受け入れる方向になつた。これには一君萬民思想と大正デモクラシー潮流が結びつき、宮内省・大隈内閣はこのやうな拜觀方針をとつたのであらう。規制もゆるく、前列のものは敷物の上で跪坐(正坐)をさせられたが、後方では特に規制もなかつた。即位の大禮は大正四年の一一月一〇日に京都御所の紫宸殿で行はれた。午前の儀式は嚴かに終はつたが、午後三時一〇分天皇は高御坐での敕語を讀んだ後、大隈首相は萬歳を三唱した。當日の御所附近は、約一五萬人の人が充滿してをり、大隈の萬歳に半秒も遲れず萬歳を絶叫した。それが市街に傳はり、形容し難いほどの大きな萬歳が、御所に押し寄せてきた。皇太子裕仁の馬車が堺町御門から現れると、群衆の亢奮は更に高潮し、萬歳が雷のやうに起こつた。このやうに大正天皇即位大禮は群衆の亢奮のため、場外では秩序ある形で實行できなかつた。しかし、天皇や皇室、國家への國民の愛着が自然に發露され、群衆がそれを樂しんだと云ふ點で、大正デモクラシーの時代にふさはしい大禮であつたとも言へる。この後、一箇月の内に七度、大禮奉祝行事として提燈行列が行はれた。三味線、鉦、吹きものなどを持出し踊るものも多く、電車の進行を妨げ、百鬼夜行の凄まじい光景とさへなり、いつまで踊り狂ふかとの批判すら出た。このとき、京都御所及び大嘗祭には二六六萬人もの拜觀者があつた。後の青島陷落や第一次大戰媾和記念にも同じやうに提燈行列が行はれ、その度に先のやうな状態になり、娯樂性の高いものへとなつていつた。大正後期には現在の河原町通が整備され、それも合はさりこのやうに市民が騒ぐ場所が多くなつたことも舉げられる。

 この時期の御苑に對して、市民はどのやうに接してゐたのであるのかに興味深い記事が京都日出新聞にあり、男女の密會の場となつてゐたと書かれてゐる。この時期にはまだ門以外にも開口部があり、そこから自由に出入りできた。また、門も夜間全部しまつてゐたはけでもないと云ふ可能性もある。このやうに、御所・御苑は公園に近い形で捉へられてゐた。しかし、大正も後期となると、皇太子狙撃事件、所謂虎の門事件が起こり、また度重なる市民の癡態も重なり宮内省は規制へと舵を傾けていくことになる。それに對し市民側は自由な空間として御苑を捉へ、當局側との綱引きが始まつた。普通選舉運動には建禮門前が使はれ、この場所を市民にとつて特別な場所と捉へる向きがあつた。また、この時期外國人觀光客も京都に増大し、御所は地位のある賓客が訪れるたびに開放された。しかし、時代の流れもあり、大正天皇崩御以降は御所・御苑は聖域的な役割を持ちはじめる。

 

四 昭和元年から敗戰までの御所と京都

 昭和からは御所・御苑の聖域性が強調されるやうになつた。その原因としては、宮内省の意嚮・昭和天皇の几帖面な性格、虎ノ門事件、それに後には滿州事變などの緊迫した状況が合はさつたことも舉げられる。そして一番の理由には厖大な人數の國民が大禮行事關聯の奉拜に參加すると見込まれたことである。それにはマスメディアの發達・都市化・交通網の整備が舉げられる。しかしこのやうな強制力の強い儀式化の反面、奉拜空間の平等性は増していつた。被差別地域の代表者も奉拜に參加できるやうになつたのである。

 昭和三年、昭和天皇の即位の儀が京都御所で行はれた。この時は琵琶湖湖岸と疎水からさらつた白砂を、行幸の四時間前に道路に撒布して、路面を清めた。新聞はこれに清淨、森嚴の氣に包まれたと表現した。この時、特別待遇とされる府市の職員や名譽職の者たちもむしろの上に坐ることになり、特別扱ひされたものは外交團の外國人一五〇名くらゐであつた。このやうに、平等化の流れは普選からの系譜として續いてゐた。この時の市民の樣子は、萬歳齊唱は天に轟くほどのものであつたが、秩序だつたもので多少混亂はあつたものの、即位の儀はつつがなくとり行はれた。大正天皇即位以上の人手があつたけれども、このやうに混亂がなかつたのは三大事業や河原町通の存在が大きかつた。しかし、同じ時、大阪では大正時代の即位時のやうなお祭り騷ぎのやうな状態になつた。京都市民がこのやうに發散したのは、天皇が留守の間であつた。昭和の大禮と云ふ最重要儀式のもとでも、京都市民たちは奉祝氣分を自らのやり方で發散することを求め、達成した。その後、天皇が京都に戻り各天皇陵に參拜し、即位禮終了の報告を行ひ、即位大禮關聯の行事は終了した。

 天皇機關説、二二六事件に際し、牧野伸顯内大臣らが天皇機關説論者として攻撃され、牧野内大臣は辭任、後任の齊藤實内大臣も二二六事件で暗殺され、宮内省は大きな傷を受けた。國民との距離ができてしまつたと判斷した宮内省は、御所の拜觀の資格者を女性や學生・生徒らと大幅に廣げた。これには教化や精神修養の目的もあり、義務的な要素が大きくなりつつあつた。このやうに、天皇機關説以降は御所・御苑空間は平等化・大衆化が進む一方で、窮屈なものになつていつた。

 支那事變が起こり、日本軍が戰勝を重ねると、提燈行列が行はれたが、この時は戰時體制ができつつあり、お祭り騷ぎにならないやうに府警察が取締つた。このとき、いづれの行進も最後に御苑に集まるのが特色であつた。そして昭和一三年の提燈行列が最後の提燈行列となつた。大東亞戰爭以降も戰勝奉祝行事が行はれ、眞珠灣攻撃の成功では過去最大級の動員があつたが、秩序だつたものとなつた。昭和一九年以降は奉祝行事そのものが行はれなくなつた。

 

五 戰後からサンフランシスコ媾和條約までの御所と京都

 戰後、御所・御苑の聖域性は大幅に薄れることとなり、米軍家族の住居にする案まで出てゐた。しかしこれには流石に京都市民は反撥し、北山の植物園があてられることとなつた。食糧不足から御苑の一部は數年間耕作地になつた。この時、御苑をどのやうに扱ふか大きな議論となつた。大正時代の流れをくんで公園化するのか、一大スポーツ施設にするのか、はたまた野球スタジアムを作るのかと大きく舵取りを迫られることになつたのである。これに對し、吉田茂内閣は基本的に現状を維持した公園とし、精神修養の場としてではなく、文化遺産として御所の公開を促進する方針をとつた。一部ではスポーツ殿堂にすると云ふ意見がくすぶつてゐた。これは明治以降の日本を否定する意味合ひも含まれてゐたけれども、それを吉田内閣は蹴つた形となり、概ねこの方向で京都市民も諒解していつた。

 以後、京都御所・御苑は觀光地化していく。日本國民に京都觀光をする餘裕が出來てきたことに昭和天皇は滿足し、これまでより氣輕に京都に立ち寄るやうになつた。昭和二二年に七年ぶりに京都を行幸して以降、天皇は中國地方巡幸に出かける途中や、九州巡幸の歸りにも大宮御所に一泊した。昭和天皇は、京都市及び乙訓郡共催の歡迎會に望み、數萬人の萬歳に笑顏でお答へになるなど、國民との距離を近づけようとした。このやうに京都に頻繁に滯在したのは、昭和天皇は戰前とは異なり、肩の力を拔いて國民に接する姿勢を確立した事で、京都滯在を樂しめるやうになつたと推測される。これは戰後の御所・御苑空間の新しい方向と類似してゐた。

 

六 令和に於る御所と京都

 以上見てきたやうに、近代の御所・御苑の存在は、京都の發展の先鞭をつけるやうなものであつた。特に明治天皇が最初に示した傳統と革新は現在も息づいてゐるやうに思はれる。今も多數殘る寺社佛閣、京町家に、西陣に代表される傳統工藝から、任天堂京都アニメーションなどの現代の最尖端を走る企業まで存在し、京セラなどの電氣機器メーカーも工業化の成功を象徴してゐる。また、京都市民は舊所名蹟に頼るのではなく、自らの力で時代を切り開いてきたことも確認できた。 しかし、戰後は京都御所・御苑と京都の關係は切り離され、單なる憩ひの場や觀光地としての比重が大きくなつていつたことにも留意したい。

 これらから鑑み、これからの令和時代に於る京都御所の向かふべき道として、以下のことを提案したい。天皇に御所にお住みになつていただくことで新たな意義が生まれるのではなからうか。これは東京から地方へと云ふ掛け聲の先鞭にもなり、天皇が道を行動で示すことで日本が動くと云ふ事象を捉へた提案として推したいと思ふ。その根據はよく言はれるやうに、東京に遷都と云ふ記述はどこにもなく、發せられずに現在に至つてゐるからである。東京城はあくまで皇居とよばれ、高御坐は今でも京都御所に安置された儘である。これを實行できれば、明治天皇が殘した御所と云ふ存在に令和になり新しい意味合ひをつけることができるのではなからうか。

 

參考文獻

京都の近代と天皇 伊藤之雄 (千倉書房 平成二二年)
見る歩く學ぶ京都御所 コトコト(株式會社コトコト 平成二六年)
京都の御所と離宮①京都の御所三好和義(朝日新聞出版 平二二年)

 

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戦前期の京都御所・紫宸殿(昭和天皇の即位礼)