【関西】定例研究会報告 近世期における神道神学の展開―ー中野裕三『国学者の神信仰』を読む(第三回)

 令和2年6月20日に開催された民族文化研究会関西地区第25回定例研究会における報告「近世期における神道神学の展開――中野裕三『国学者の神信仰』を読む(第三回)」の要旨を掲載します。

三 「第二編 橘守部の神信仰」

三・一 「第一章 橘守部の神理解」

橘守部における宣長神学の批判と継承――ポスト宣長神道神学

 前章では、本居宣長神道思想を分析し、そこで展開された神学理論を確認してきた。以後は、こうした宣長神道思想が、のちの国学者によって、どのように継承あるいは克服されてきたのか、概観されていくことになる。本章では、こうした宣長以後の国学者のうちで、橘守部が取り上げられる。

 橘守部は、「天保の四大家」の一人に数えられる国学者であり、宣長神道思想に対する徹底した批判者として知られている。守部は、日本書紀重視の姿勢を打ち出し、また独自の神典解釈法である「神秘五箇条」を主張することで、古事記を絶対視し、その内容を全て真理として受け取るように要請する宣長の神学思想と対峙した。こうした守部の神道思想を確認することで、宣長神道思想が、のちの世代において、いかに継承・克服されたかを明らかにすることができる。

 こうして守部の神学思想が取り上げられるわけだが、中野は従来の守部研究の動向を批判し、異なるアプローチから守部へと取り組む。具体的には、村岡典嗣や加藤玄智による研究だが、守部の全体像を把握しようとせず、その神典解釈法である「神秘五箇条」を過度に重視し、これを合理主義的態度の表出であるとして、表層的な解釈を施すアプローチである。

 

橘守部の問題意識――神典解釈の前提

 こうして、橘守部神道思想を、その全体像を把握することで理解し、神典解釈法である「神秘五箇条」にせよ、その背景にある問題意識まで配慮を及ぼすアプローチが志向される。中野によれば、こうしたアプローチを採用しているのが、鈴木暎一『人物叢書 橘守部』(昭和四十七年、吉川弘文館)において展開された守部研究であり、以後は同著を基礎としつつ、その問題点も指摘していくことで、守部神学の全体像を把握し、宣長との差異を明らかにしていく。

 

初期における宣長の影響

 まず、指摘されるのが、ことに初期において、守部は宣長から強い影響を受けていることである。それは、本書第一編「宣長の神信仰」でも取り扱った、宣長の神格理解からの影響だ。守部は、初期の著作である『山彦冊子』(天保2年)において、「最速振(ちはやふる)」という語の解説をしている箇所で、宣長と同様に、信仰者が崇拝対象に対して抱く宗教的感情を元に、神格の定義を行っている。守部も、神とは、その類稀な働きを通して、信仰の主体に「可畏(かしこ)」という宗教的感情を喚起する存在だとする。

 

神祇軽視への警戒と神典解釈法

 続いて、守部独自の神典解釈法である「神秘五箇条」について、同時代に対して守部が抱いていた懸念まで掘り下げ、その背景事情を明らかにする。鈴木が指摘するところによれば、守部の神典解釈法は、文政・天保時代における神祇軽視の風潮を念頭に置いたものだという。当時は、体制の安定化に伴い、都市部を中心に消費生活が膨張し、華美に走りがちな傾向があったとされる。守部は、こうした社会情勢を危惧し、いかに敬神の念を喚起し、道義を高揚させるかを問題意識としたわけである。

 ここから、神典を「本つ旧辞(歴史的事実)」と「談辞(非事実)」に峻別し、単なる神秘主義の発露に過ぎず、迷信・妄想である「談辞」の部分を排除する、という神典解釈法が提示される。記紀には、人間の合理的解釈を峻拒する、摩訶不思議な記述も存在する。こうした記述は、人々に記紀の真実性を疑わせる。守部は、人々が神典に対してもつ疑惑を払拭し、敬神の念を喚起するためには、こうした記述を除去し、正しい信仰モデルや神理解を打ち出す必要があると考えたのである。こうして、守部は、当時の世相への懸念から、宣長神学とは袂を分かち、独自の神典解釈法である「神秘五箇条」を導き出した事情が明らかにされる。

 

幽冥観

 このように、あくまでも現実に根差し、神典の観念性・神話性より、事実性・正当性を重視する守部の神理解・神典解釈法は、その幽冥観にも影響を与えている。守部は、あくまで他界・幽冥界を、現世と連続した世界であると認識していた。神々の鎮まる「霊区(まほら)」と現実世界は一体的であり、神霊は現世に対して多くの霊威を示しているとされる。こうした幽顕相互の緊密性を重視する守部神学の幽冥観は、非常に現世的な幽冥観であると定義できるとされる。

 

◎守部神学の根本的性格――「神霊の実在証明」の現実性・実践性

 以上が、鈴木暎一による守部研究の概観だが、中野は異論を提起していく。まず、焦点が当てられるのは、その幽冥観である。鈴木は、守部の幽冥観を、同時期に霊魂論・他界観を大規模に展開していた平田篤胤の強い影響下にあると断じるが、守部の幽冥観は篤胤霊魂論・宇宙論を代表する『霊能真柱』などの刊行前にすでに萌芽が見られ、また篤胤に特徴的な大国主命を死後の霊魂の審判神だとする議論も見られないことから、これを否定する。

 中野は、両者の霊魂論を対比し、鈴木が注目していない『歴朝霊異例』などの著作も援用しつつ、守部の霊魂論は、篤胤のように観念的なものではなく、あくまで霊魂を現実世界に示される具体的な働きを基準として論じる姿勢が一貫しており、こうした守部霊魂論の方向性を、「霊魂の実在証明」と定式化する。

 どういうことかと言えば、現世と幽冥界は一体的に理解され、霊魂は現実世界において具体的な働きとして結実する霊威を示し、これを目にした人々が敬神の念を強くするわけである。神典解釈も、こうした方向性を共有しており、観念的要素は捨象され、事実性・正当性が解釈基準となる。守部の神学思想は、こうした現実的・実践的側面を強くもつといえる。こうして、守部神学の根本的性格が明らかになる。

 

宣長との差異

 こうした「神霊の実在証明」において典型的に見られる、守部神学における現実性・実践性は、宣長神学の方向性とは鋭く対立する。宣長は、あくまで記紀を文献学的に解釈することで、古代人(上代人)の信仰を闡明しようとする方向性であるのに対し、守部は、彼が生きた江戸期における信仰の危機に対し、記紀を真実性・正当性から記述の取捨選択を行い、「神霊の実在証明」という霊魂論を交えつつ、信仰の涵養を実践的に行う。

 

霊魂観と神典解釈

 こうした両者の対立を前提とした上で、守部は宣長神学のどのような側面を否定し、あるいは継承・発展させようとしたのか。中野は、神格理解から、検討を開始する。守部は、神格理解にあたって、中期以降は宣長における神格理解から離脱する。従来は、宣長の神格理解を継承し、幅広い範囲の神霊を、「不可思議さ」という属性に基づいて、「神」として定義していたのに対し、やがて人間の力を凌駕し、人々に慈愛を注ぐ、まさに超越者にしか、「神」の語を使用しなくなる。

 ここで、中野は、守部が、記紀神話の記述から帰納的に神理解を組み立てる宣長とは対照的に、アプリオリな神格理解を前提とし、そこから演繹的に神学を組み立てているのでは、という指摘をする。神祇を軽視する世相への懸念ともリンクするが、守部は絶対者としての神を定立し、そこから人間の道義を引き出し、信仰を立て直そうとしている。ここから、こうした人間から隔絶された絶対者としての神格理解が、記紀記述よりも先行してしまい、こうした神格理解を記紀解釈に適用したことから、神秘的な記述を記紀解釈から一掃する方針が引き出されたのではないかと指摘する。

 

多神教的性格への自覚

 しかし、こうした神のもつ絶対的な権能への注目というアプローチにも関わらず、他方で守部はかなり明確な多神教モデルの神学を構築している点も注目される。造化三神に諸神の機能を集約させ、絶対化する宣長や篤胤の神学とは異なり、神と人の絶対的な隔たりを前提としつつ、守部は複数の神格が協力して世界の創造と維持に当たっていると述べ、こうした諸神の協力と一致を神学的主題として伏在させている。

 中野によれば、「国生み」に対する解釈において、こうした傾向が明確になる。守部は、国生みを、特定の一神の御所為と解するのではなく、複数の神々の一致した御意思によってなされたものと認識している。なお、こうした修理固成における、相互に独立した神々の関係性が大きな役割を果たしたとする指摘は、宣長も行っている。

 

三・二 「第二章 『顕生魂』説の原由――橘守部の神学」

 

◎守部神学の発展過程

 このように、守部神学は宣長神学との複雑で多面的な関係性から構築されたものであり、また時期によって、主に宣長神学からの影響によって、大きな理論的変遷を遂げている。したがって、こうした守部神学の発展過程を、その著述を刊行年度にしたがって比較し、文献学的に解明する必要があると思われる。

 中野は、天保4年以降に執筆された守部の著作を比較検討し、その発展過程をおおむねには次の通りに整理している。

 

  • 守部の神学的営為は、おおむね「俗間の人」(一般民衆)を対象としたものだった。
  • 『十段問答』(天保9~10年)まで、守部は神道を根本としつつ、他宗教(儒教・仏教)に対しても寛容な姿勢を取っていた(「包括主義」)。しかし、『神異例』を契機として、神道を絶対化する排他主義へと転じた(「個別主義」)。
  • 「神秘五箇条」として定式化される神典解釈法は、『温源録一・二』(天保4年)にて提示され、その立場から日本書紀の注釈が進められた(途中で、『温源録』は『稜威道別』へと表題が変更された)。こうして獲得された神道神学に従い、宣長の『古事記伝』への批判が図られ、『古事記伝考異』(天保10年)に着手

 

◎守部神学の二契機――宣長・篤胤との対抗

 このように、中野は守部の著作を刊行年度に従って検討し、その発展過程を明らかにしてきた。続いて、「現実的な視座に基づく神霊の認識」と「神理解に於ける謹み」の二つの契機が設定されたのち、これらの論点にしたがって、守部神学の性格がさらに掘り下げられ、精緻に明らかにされていく。興味深いのは、両者の契機の理解にあたって、宣長・篤胤という国学の巨人との対比が基本的視座となっている点である。

 「現実的な視座に基づく神霊の認識」だが、ここでは篤胤の幽冥観と守部の幽冥観が比較検討される。前章でも触れられたが、守部の霊魂論は、篤胤のように観念的なものではなく、あくまで霊魂を現実世界に示される具体的な働きを基準として論じる、現実的な視座に基づいた霊魂論である。ここで、両者の幽冥観は、宇宙論的/観念論的な幽冥観と、現実的・具体的な幽冥観に分かれ、袂を分かつ。

 続いて、「神理解に於ける謹み」だが、ここでは宣長の神理解と守部の神理解が比較検討される。これも前章でも触れたが、宣長記紀神話の記述から帰納的に神理解を組み立てるのとは対照的に、守部はアプリオリな神格理解を前提とし、そこから演繹的に神学を組み立てている。ここで、両者の神格理解は、帰納的な方法論によるものと、演繹的な手法によるものに分かれ、対立することになる。

 中野は、上記の考察から、「現実的な視座に基づく神霊の認識」と「神理解における謹み」という二つの契機における、宣長・篤胤という国学の巨人との対抗によって、橘守部に独自の神学が確立されたと結論付ける。

 

◎守部神学の構造

 第一章において、橘守部宣長神道神学をいかに批判し、あるいは継承したかを明らかにし、第二章においては、守部神学の発展過程を概観することで、守部神学の基本的性格を明らかにしてきた。

 守部は、初期は宣長の強い影響下にあったものの、当時の世相への懸念などから独自の問題意識を示すに至り、宣長神学の批判者として登場した。

 守部神学は、神祇を軽視する世相を念頭に置き、俗世の人々をいかに教化し、敬神の念を持たせるかに力点を置いた、現実性・実践性を強調した理論であり、ここから神格理解(人々に慈愛を注ぐ超越者である神)、神典解釈法(人々の疑念を呼ぶ神秘的記述を排斥し、神典の正当性を確立する)・他界観(現実と隣接し、観念的・宇宙論的な把握はしない)が導出される。

 こうした「実践神学」である守部神学は、上代人の信仰の文献学的解明を目的とする宣長神学とは全面的に対立することになるが、幽冥観や多神教的枠組などは継承しているとされ、守部による宣長神学の受容は多面的なものである。また、主に幽冥観との関りから、篤胤からの影響も指摘されてきたが、両者は最終的には観念的議論と現実的議論かによって袂を分かつ。

 まとめると、守部の神学は、村岡典嗣・加藤玄智による解釈通りの「合理主義者」でもなければ、単なる「宣長批判者」でもない、宣長の圧倒的影響下から出発しつつも、やがてその影響を相対化し、「実践神学」と表現される独自の立場を構築した国学者として整理されるだろう。

 

参考文献

中野裕三『国学者の神信仰――神道神学に基づく考察』(弘文堂、平成21年)

 

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