【関西】定例研究会報告 「私人」としての葦津珍彦——『昭和史を生きて 神国の民の心』を中心に

令和2年1月11日に開催された民族文化研究会関西地区第21回定例研究会における報告「『私人』としての葦津珍彦——『昭和史を生きて 神国の民の心』を中心に」の要旨を掲載します。

 

はしがき

 葦津珍彦の著作は葦津事務所が発行している「昭和を読もう 葦津珍彦の主張シリーズ」全六巻に主要なものは収められている。これらは現在でも新品で購入することができ、葦津の思想を参照する際に大きな役割を果している。いわゆる右翼・民族派といわれている人々の著作はよほど有名な人物であっても絶版になり、参照が難しい場合が多い。それに比べて葦津は主要著作の多くを容易に参照することができる。戦後の民族派思想家の中で葦津の研究が進んでいるのはこのような側面が大きいであろう。

 このシリーズ六巻の最終巻が『昭和史を生きて 神国の民の心』である。この巻は葦津の随想録やパンフレットの文章などをまとめた内容であり、他の巻とは趣の違うものとなっている。

 葦津は戦後の日本神道の危機的状況にあって、反対者の論に対するためにロジカルな思想と文章を多く世に出した。一方で葦津は私人としての自分は抑制し、その実態がつかめなくなってしまっている面は否めない。実際、葦津は林房雄との対談で「私の思想という点から言いますと、いつも七分程度しか書かない。私の信条としている本当に大切な点は残りの三分にあるわけですが、そこを書くとどうも現代人には通じがたいのです」と述べているが、その残り七分の「信仰者」としての葦津は中々見えてこないのである。

 本稿では『昭和史を生きて 神国の民の心』から印象的な文章や節を適宜引用し、「思想家 葦津珍彦」とは別の葦津の多様な面を僅かながらでも探っていきたい。

 

戦前期の葦津

 葦津は戦前には筋金入りの左翼青年であった。昭和三年の天皇即位のサイレンが鳴り響いた際、新宿に向かっていた葦津は京都御所の方角に向かい敬礼した。その直後喫茶店で当時移入禁止だった「コムミニスト・マニフェスト」という社会主義関連の英文書籍を入手したという。当時の葦津は大嘗祭の適切な実施に向けて活動していた頭山満神道家の今泉定助らと共に奔走していた父葦津耕次郎の姿を見て、「ただ古代の日本をロマン化したユートピアにしかすぎないとしか思われなかった」と述べている。

 その後葦津は左翼思想を棄て、父と共に理想の神道ユートピアの建設を目指し突き進んでいく。しかし、葦津は当時流行していた北一輝や権藤成郷の思想には一貫して否定的立場を取っている。権藤に対しては「農村自治の美しい牧歌的な一つの理想を描いてはいるけれども、そこには高度工業国家を指導していくべき格別の見識が見られない」とし、北の国家改造案に対してはその私有財産制度の欠陥を指摘し、「理論としては高度資本主義に対して無知に過ぎ」ると痛烈な批判を加えている。また北の天皇論に対しても「ここに書いてある「天皇」とは、なにも日本史伝統に根のある「天皇」ではなく、独特の思想を有する北一輝その人の意思意外なにものでもない」と喝破している。

 一方で葦津は国家改造を行おうとした革命家としての熱情やそれに付き従った青年将校の意志そのものには多大な共感をしめしている。「国会議事堂の前で、暗夜にたき火をしながら軍歌を歌っている将兵の姿が、今も目に浮かぶ」と回想している。

 しかし葦津は情熱家でありながらもあくまで常に冷徹な判断能力を失わない。クーデター未遂事件である神兵隊事件や2・26事件に葦津も参加を打診されたが、計画が杜撰であるとしていずれにも反対している。神兵隊事件は事前に計画が警察に漏れていることをキャッチし、中止を進言しており、2・26事件の際は、水上という青年に参加を打診されたが、反乱後の具体的政策がまったく準備されていない点をあげ、反論。計画の無謀さを訴えた。その後、この水上という青年は軍人で無いにも関らず、銃殺刑に処せられたという。

 戦前の様々な維新運動に葦津はまったく参加していない。では葦津は機を見るに敏な多リアリストだったのであろうか。

 

経営者としての葦津

 葦津は福島高等商業学校を追放させられたあと、父耕次郎の命により葦津鉱業公司の会計事務員として働く。この会社は満州のマグネサイト鉱山と工場の経営をするもので、後に満鉄に事業を譲渡する。その後、父の後任として社寺工務所の所長を継承。当初は危機的な財政状態であったが、日本経済の好転に支えられ、合理的経営が成功。この時期に有名な靖国神社の大神門を建設。この大神門の写真が当時流通した五〇銭紙幣に採用された。一方で、社寺工務所の系列で「日の丸組」という人夫・運搬を生業とする組織を創設。やる気さえあれば前科者でも積極的に採用し、裁判中の同志を事務員として雇うなども行ったという。

 戦後も葦津は神道界唯一の新聞である「神社新報」の発行母体である「神社新報社」の経営を行うなど、企業人として着実に実績を残している。いわゆる右翼・民族派といわれる人々は良くも悪くも「浪人」として生きた者が少なくないが、葦津は一人の経営者として非常に有能で、思想面だけでなく、仕事面でも大きな足跡を残した。葦津が右翼・民族派思想家の中で一際異彩を放つ点であろう。

 

戦中期の葦津の行動

 大戦中の葦津は、本業である工務所の運営はある程度部下に任せ、特に敗戦色が濃くなってきた時期になると、かなり政府筋に働きかけている。特に情報局総裁であった緒方竹虎とは親しく、秘匿された情報を聞かせてもらうなど、様々な便宜を図ってもらっていたようである。葦津は、日本の情報宣伝戦略の貧弱さを嘆き、この抜本的改善を訴える、あるいは本土決戦に備えて国民を単に一括して徴兵するのではなく、地域ごとに部隊を編成し、軍隊内での身分平等を徹底させる「国民義勇隊」構想を熱心に献策していた。

 東条内閣下での葦津に対する当局の弾圧は激しかったらしく、会社のまとまった商談は海軍関係の取引を除いて、全て潰されていたとのことである。

 敗戦直前には本気で本土決戦の準備を進め、北原という大佐を通じて、関東甲信地域の在郷軍人を結集し、抗戦継続のデモを起こす計画を立てる。しかし陸軍省に察知され、8月13日に断念。いわゆる「宮城事件」に関しては情報レポーターの学生から間接的に風聞を聞いたが、その言動態度に「私の嫌いな陸軍軍人特権意識の色彩が強く感ぜられた」ため」「協力などするな」と言ったという(ただしこれは偏見ではなかったかとも反省している)。

 葦津は敗戦直前ですらあくまで正規の手続きを通じて、「デモ」という合法的路線による運動を行おうとしていた。しかし、葦津は緒方と親しく、またその緒方を通じて中野正剛とも付き合っていたという。中野は言うまでも無く反東條の急先鋒であった。また東條暗殺計画が戦時中、何度か計画されているが、葦津がそれらにまったく無関係だったとは思われない。おそらく葦津は単に合法的な方法、あるいはペンによる戦いだけではなく、実力による行動も視野には入れていたと思われる。しかしそれらは闇の中に葬られてしまっている。

 

むすび

 葦津は論理も行動も一貫して冷静である。しかし、あくまでその信条の底には父耕次郎から受け継いだ神道信仰があった。葦津は『昭和史を生きてー神国の民の心』所収されている「神国の民の心」では葦津耕次郎が筥崎大神からの神意をつねに感じ、行動していたことを記している。葦津自身、神道には神々の側からの神意を感受することの重要性を繰り返し述べ、その意味で「神がかり」的な要素の無い本居宣長らの近世国体神道論を「近代科学的合理主義に近い」と述べている。葦津耕次郎は何か行動をする際は、常に筥崎宮のおみくじを引いたことが書いてあるが、葦津も常に神の意志を受け止めつつ、活動していたのであろう。しかし、葦津はあくまで実際に行動する際には現実を冷静に判断し、時宜を見極めていた。信仰に裏打ちされた熱情と冷静な判断力のバランスこそが葦津の特徴ではなかったろうか。

 なお、本書は他にも興味深い記述がいくつかある。当時文部省の国語審議会会長であった橋本進吉の辞職を迫る、さらには当時宮内省にいた神道家の星野輝興が強引な検閲政策通ったことに対し、反対して逆に退官させたなどの記述もある。これらは単に葦津の思想を探るだけでなく、日本の国語史や神道史を研究する上で重要なピースである。その意味でもこの『昭和史を生きて 神国の民の心』は参照されるべき重要な資料である。

 

参考文献

葦津珍彦『昭和史を生きて 神国の民の心』葦津事務所 2007年1月

林房雄『日本の原点―林房雄対談集』日本教文社 1972年4月

 

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葦津珍彦『昭和史を生きて 神国の民の心』